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目次7 中国の古建築技法”以材為祖”

目次7 中国の古建築技法”以材為祖”

傳熹年 「日本飛鳥奈良時期建築中反映出的中国南北朝隋唐建築特点」
     220 飛鳥建築と”以材為祖” 1
     221 飛鳥建築と”以材為祖” 2
     222 飛鳥建築と”以材為祖” 3
     223 飛鳥建築と”以材為祖” 4
中国古代建築史 第三巻 (抜粋)
  第十章 建築著作と匠師
   第二節 《営造法式》所載の各主要工種制度
     224 用材の制度1 “材、分” 
     225 用材の制度2 “材、分”
     226 用材の制度3 ”材分”制の淵源  
     227 斗栱 1   (建設中)    
     228 斗栱 2



     以下、続く





     ⇒ 総目次 
     ⇒ 目次1 日本じゃ無名? の巻
     ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻

     ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
     ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
     ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻

     ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服


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# by songofta | 2017-05-21 16:35 | 古建築

226 用材の制度3 ”材分”制の淵源

中国古代建築史 (抜粋) 巻三

第十章 建築著作と匠師



(2) “材、分”モジュールの淵源
 “材、分”モジュール制は結局、何時木構造建築に応用され始めたのか、はっきりとした記載は無く、材と斗栱の密接な関係から、材の概念は斗栱の発展過程中で形成されたと考えられている。史料を看ると、最早の斗栱は一種の大斗で、西周初期の銅器“矢令毀”上に見える(図10-32)。矢令毀は建築ではないとは言え、その表面に建築の斗栱等の物を模して雕飾し、《礼記・礼器》一書に記載がある。従ってこの令毀上の斗は当時の建築物上の斗栱の斗に当るとすべきで、この大斗は4本の短柱上に置かれ、斗の間は横方向に連絡して斗口中に嵌入する。この種の柱、斗、横木(方)の組合せ関係は、後世の建築物上に見るものとそっくりである!斗と栱の組合せが一緒に有る例で現存最早の材料は、戦国期の采桑猎鈁(図10-33)と戦国期中山王陵の銅方案(図10-34)である。
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  前者は、浮彫類の雕飾で、斗栱形成の刻画は明瞭さに欠け、後者は精細な加工になっている。銅方案の四隅は等しく竜頭があり、頂上には短柱があり、柱上に斗と横肘木を置き、肘木の両端は、又短注と斗があり、方案四周の框を承け、框の1辺は1本の方形の横木で、斗口内に嵌入する。その斗は、耳、平、欹(注;斗耳、敷面、斗刳のこと)各部分の比は均しく、輪郭は優美である。この例から推測すると、建築上の斗栱は、造型は已にかなり考えられていて、肘木、横木は、枘と枘孔の形を以って斗口の構造方式が已に一種の定型的構造として運用されていた。只、提供された形象と一般建築物上に所用の肘木は異なる。漢代になり、言うまでもなく画像磚や崖墓、明器の中に、更に漢闕中(※注3)に斗栱として見出す事が出来る:簡単なものは大斗があり、上に肘木を置き、肘木の上に3個の散斗(注;巻斗のこと)があり、その上に横木を承け、典型的なものは四川省牧馬山出土の東漢の明器(図10-35)、四川省渠県馮煥闕、沈府君闕と山東省高唐漢墓である。複雑なものは、1組の斗栱の上に2,3層の肘木を置き、肘木は同じ断面を有する、例えば河北省望都漢墓出土の望楼である。明器にはまだ柱或は牆壁から方形木を出跳し、肘木の断面と同じで、これは当時已に統一した“材”の概念があったことを物語る。
     (※注3)漢闕:漢代、宮門の両脇に設けた物見やぐらの台
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  漢代の建築遺物中、四川省雅安の高頤闕は、“材”の運用に対して更に一歩前進している。高頤闕は紀元209年に建てられ、それはその頃の陵寝建築前の門闕で、且つ石構造で建造されたもので、その細部は全て模擬木構造の浮彫形式で、そのため木構造建築の一端を垣間見る事ができる。
高頤闕は母子闕で(図10-36)、母闕の垂木部分は3組の完全に整った斗栱と3個の大斗を備え、子闕部分は只2組の斗栱と3個の大斗で、ここから2個の大きさの異なる闕に使用する大斗の中に、たくさんの棟梁が材を用いた意図が反映されている。
 ①母闕の3組の斗栱中、肘木の形は弓形(弓臂)と曲線形(曲臂)の2種が有るが、それらは共同の材と栔が使用されており、且つ肘木の材高さと上部横木(方)の材高さは完全に同じである。
 ②子闕の2組の斗栱と横木は共同の標高を持つ
 ③子闕と母闕の隅斗栱は、均しく横木の断面が出跳し、即ち“材”の大きさは、子闕と母闕の用材寸法が異なるが、断面の高さ幅の比は大体同じで、子闕の材は高さ幅の比が11.20:10、母闕の高さ幅の比は11.21:10。此れにより、それは異なる等第の材を使用する概念を持っていたことが証明される。量斗栱の材寸法は、表10-4を参照せよ。
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 高頤闕は異なる等第の材を使用したことにより、子闕と母闕の異なる尺度と体量の部分を別け比較的に成功した。 ④母闕または子闕の①組の斗栱毎は言うまでもなく、肘木の造型がどう変化しようとも、斗は肘木或は横木と一緒に組合さる時、全て同様の構造組合せ方式を採用して、1材の大きさの断面が斗口中に嵌入し、木構造の標準化された節点構造の工法を反映している。
 高頤闕は四川にあり、一地方長官の陵墓の門闕であり、建築等級は高く無く、却ってこの様にある種の木構造建築の用材の基本概念を体現しており、当時の材、分制運用の細かい差を想像することが出来、工匠の材、分制運用が已に一定の熟練に達したことを説明している。
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 この他に、山東省両城山出土の漢の画像石中に、斗栱の図形が描き出されている(図10-37)。この図では出跳した肘木が横木より大きく、或は足材を用いた肘木に比べても良いかも知れず、工匠は大きくした部材断面の方式で張り出した荷重を承けた。類似の例は、明器中にも見ることが出来、出跳した肘木の断面は高く、一種の足材の肘木の雛形の使用ともみえる。これは正に、“材”に対して強度を付与した概念の体現である。
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 同時に、文献中に漢代“材”の重視を看る事ができ、《漢書》記載の、漢代建築工程を主管した将作大匠は、所轄の下級官員に、已に専門に“材”を主管する官吏が有った。
 西晋初年、《傅子》がかつて、“大きな建屋を構える者は、先に匠を選び後に材を選ぶ(簡材)”と指摘した。李誡はこの句を根拠に注釈して、ここで言う所謂“材”は一般材料の材では無く、正に“方桁”を指し、つまり四角い木のことであると知ると。“材を選ぶ(簡材)”もまた建築の用材等第を選ぶことで、これは当時已に大きな建屋を建造する人は真っ先に解決しなければならない問題と認識されていたのである。
 南北朝、隋唐、五代の発展を経て、北宋に至り、“材、分”モジュール制はとうとう成熟の段階に到達し、現在《法式》が表す用材制度の推賞だけでなく、“材、分”の高さ幅の比は《法式》が出来る前の宋代遺構中で日を追って統一されていった。下表に列挙する33棟の建築の用材の情況から知れるのは、10世紀以前の例の中に、ある材は高さに偏り、有る材は正方形に偏り、材の高さ幅の比は15:10(±0.5)の範囲内の建築はたった1/3を占めるだけだが、11世紀になると材の高さ幅の比が15:10(±0.5)の範囲内の建築は91%で、12世紀の遺物中の80%を占めて、ここから見られるのは、《法式》の材の高さ幅の比15:10は正に建築実践の基礎の上の結果であることである(図10-38)。
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 それとは別の面で、宋代の社会世論の“材、分”制に対する推賞も未曾有のことであった。“材”は北宋では又“章”と称し、所謂“章”は”章法”のことである。李誡が言った“たてものを後世する法は、その規矩制度は皆、章を以って祖とする(構屋之法、其規矩制度皆以章為祖)”は、人に対する“物腰の慌てふためく者は、これを条理を失い定めを失うと言う(挙止失措者、謂之失章失栔)”を建築に喩えて借用したもので、用材制度はこの様に章法から、全国の建築工程を管理するのに必須であると看做し、以って失章失栔のじょうきょうが出現することを免れ、正に《法式》が法規性の典籍として全国に発布された目的の一つなのである。
 北宋滅亡後、南宋時代は南方の工匠が《法式》を熟習し、当時の官式建築に運用して、再版を重ねた。ただし後には、何度かの戦乱を経て、発達した中原文化は、奴隷主の貴族統治の掃討を受けて落伍していき、“材、分”モジュール制は小さな流れになって消失し、変わって清代の“斗口”モジュール制が起こって来る。

(3) “材、分”モジュール制と“斗口”モジュール制の比較
 “斗口”モジュール制は清朝の工部による《工程做法》に載るもので、この種のモジュール制の特徴は、斗栱の建築中、斗栱の斗口の寸法を以ってモジュールとし、建築の桁行や梁間、及び梁、柱、斗栱等の大きさを判断するものである。《工程做法》巻二十八の斗科工法中、斗口モジュールでの製作に以下のような記載がある;“凡そ斗栱上の升、斗、栱、翹等の部材の長短、高さ幅寸法は、全て平身科を以って迎面安翹とし、尾垂木斗口(昂斗口)の幅寸法を以って詳しく算定する。斗口には、頭等才、2等才から11等才、即ち頭等才は迎面安翹、昂斗口は幅6寸、2等才は斗口幅5寸5分、3等才から11等まで各所5分を減じ、斗口の寸法を得る。” 表面的に見れば、“斗口”モジュール制と“材、分”モジュール制とは、非常に似ていて、斗口は材幅に相当する。人によっては両者が名称が異なるだけで実際は同じと思えるかも知れず、且つ“斗口”モジュール制は“材、分”モジュール制に比べ等級が増えて、寸法の増減が画一的であり、栔の名称を取り消せば、これらは運用にもっと便利で、進歩と言うべきだと思える。けれども“斗口”モジュール制は、“材、分”モジュール制に比べて先進的なのだろうか?実際はそうではなく、斗口モジュールは“材、分”モジュール制が持っていた深い理念は継承していない。建築設計と施工の中で、“斗口”モジュール制の地位は“材、分”制モジュール制に遠く及ばないのである。
  (注)用語:清代の用語として、
   科=科は清代の斗栱の呼称。柱頭科は柱頭斗栱のこと。
   升=肘木の両端、上下2層の間で、上層の肘木を承ける小斗。
   翹=形象は栱(肘木)と同じ。宋代の華栱(出跳する肘木)のこと。
  平身科=所謂、中備えで中唐斗栱の間に増設した斗栱のこと。
  迎面安翹=
 清の《工程做法》中の斗栱の肘木と横木の断面比例は14:10と20:10の2種で、これは《営造法式》の単材と足材の比例に近いが、“斗口”モジュール制は運用時に、肘木と横木の断面の関係が探し出せず、例えば斗口を用いて梁のモジュール単位を作ると、《工程做法》にの規定に拠れば以下の寸法が得られる:(7架梁を例にする)
   梁の幅=金柱径 + 2寸=6斗口+2寸+2寸=6寸口+4寸
   梁の高さ(成)=( 6斗口+4寸) ✕120%
   梁の断面高さ:幅=12:10
 この様な大梁断面の高さ幅の比は、“材、分”モジュール制で量って得られる大梁断面のたk差幅の比と比較して、科学性が低落して、部材は太過ぎる様になる。これは“斗口”モジュール制が、“材、分”モジュール制が持っている特有の双方向の寸法モジュールの特徴を具備しておらず、このため、材分モジュール制の包含する強度概念を失ってしまって居るためである。
 清式の梁架構構造の節点の多くは、二度と斗口モジュールの発生が必要となるような連携はなくなってしまった;宋式建築の大梁でおよそ斗栱に架け渡すものは、1個の材或は幾つかの材と幾つかの栔の断面の大きさを以って、斗口に何個も進入することを要求するが、清式建築ではこの種の構造法式の運用は已に大々的に減少してしまっている。又宋式建築は梁架に縦向きに攀間(梁の蜀柱と蜀柱を繋ぐ横木)を使用し、小型の建屋は単材の攀間を用い、大型の建屋は双材の攀間で、攀間は梁柱と交叉する時も全て材を以って基礎とし、部材の組合せを進めた。清代は三位一体の檩、墊、枋工法を用いるが、その節点構造に“斗口”モジュール制との関係は存在しない。これにより、“と口”モジュール制は、只、斗栱の組合せの中に構造概念が含まれるだけで、梁架構のその他の部位の節点構造の処理には無関係である。
  (注)檩、墊、枋:いずれも梁と梁を横に繋ぐ桁で、檩は垂木を直接承ける桁、枋は一番下の桁、墊はその間の隙間を埋める桁
 《法式》は、材を8等に分け、どの等第も使用範囲を規定し、これによって建築群内の建築尺度を管理する手段の一つと成る。《工程做法》 巻二十八は“斗口”モジュール制を紹介する時に、各等第の斗口の使用範囲を未だ詳細に規定していないとしている。その前の二十七巻は、各種規模と類型の建物の大木作工法を分けて紹介しているが、言及する斗口の使用範囲は、4寸、3寸、2.5寸に限られている。現存の実例中、4寸以下の各種斗口の運用が見られるとは言うものの、終始6寸、5.5寸斗口の建物を見ることは出来ず、これにより今に至るも1等、2等斗口の実際の意義がどこにあるのか不明である。《工程做法》中には、《営造法式》の中にあるような一つの建築群中の建物の用材が整合する関係を作るような明確な規定も無い。凡そこの各種のことは、“斗口”モジュールが建築尺度方面の概念が弱体化している事を反映している。
 “斗口”モジュール制に出現するこのような情況は、主要な原因は清式建築斗栱の構成の功能が弱体化し、寸法も大幅に減少し、実例中最大の斗栱が城楼に使用する4寸斗口で、それは宋式建築の6等材に相当するに過ぎないのである。総じて“斗口”モジュール制は已に基本的に“材、分”モジュール制の特徴を失ってしまい、数字モジュール制に近づいているのである。



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# by songofta | 2017-05-21 16:31 | 古建築

225 用材の制度2 “材、分”

中国古代建築史 (抜粋) 巻三

第十章 建築著作と匠師


(前回の続き)
  “材、栔”制の中で8等の材の寸法規定は等差級数的な逓減では無く、明らかにそれ等を3組に分けていて、1,2,3等を1組とし、等毎の材の間の高さは0.75寸、幅は0.5寸である。4,5,6等を第2組とし、等毎の材の間の高さは0.6寸、幅は0.4寸である。7,8等の材は第3組で、両者の材の間の高さも0.75寸、幅は0.5寸である。これは明らかに3組に分け、その目的は異なる等級と規模の建築の需要に適応するためと理解出来、第1組は主要に殿閣類型の大型建物に活用し、第2組は主要に庁堂類型の中型建物に活用し、第3組は主要に小さい亭榭及び殿内の藻井に活用する。これは殿閣類型の建築群内の建築は、主要に第1組の材を使用し、それは図に示す所で、庁堂類型の建築群内の建築は基本的に第2組の中からその用いる材を選択する。この2類の建築群内の附属建築は、亭榭の類のようなもので、第3組の材を採用する。上述の3類の建築中、建築物の用材等第はこの様に手配し、再配分は補助的な条件を以って行い、例えば大木作制度で部材に対して,殿閣か庁堂に用いる別に規定された細部寸法の工法に従って、他でもない、建築群中で一体としての建築に適当な尺度を取ることが出来る。しかるに、第1組の3等材と第2組の4等材の間の寸法差は、その他の格等材の間の差よりもっと小さく、高さで0.3寸、幅で0.2寸に過ぎないのは、どうしてであろうか? この種の現象の出現が看ることが出来るのは、正に殿閣と庁堂の2類の建築中に一体とした建築用材等第が互いに行き渡っているからに他ならない。殿閣類型の建築群中、4等材の建物が出現出来るのは、この種の建物が、建築群中のその他の建物と尺度上差が附けられているからである。同様に、庁堂類型も建築群中に、3等材の建築の出現を許すと、それは明らかにかなり雄偉であるが、又一際抜きん出て鶏の中の鶴とまではならない。

  この種の“材、分”モジュール制の産物は、当時の生産力や生産関係と密接な相関があり、当時の官に属する建築は全て官の手工業を施工する隊列が施工し、施工過程で、工匠逹は専業化して分業し、梁架構の工匠は全体の建築群のこの類の部材の加工や実装を担い、斗栱を製作する工匠は建築群中の大きさの異なる建屋の斗栱加工と実装を担い、工匠逹は施工の任務を引き受ける時は、今日のような詳細な施工図のようなものを見るような条件は無く、担当する工程は全て職人の口頭で手の内を見せて進め、当然ながら十分に気配りが行き届くというわけには行かず、往々にして、建築の桁行と梁間の総体的な管理範囲や間数、斗栱の手先数、組物の数等を大雑把に交流出来るだけである。工匠逹は彼等が代々相伝し、長らく用いてきた1組の規矩を基に、建築の用材等第を確定し、部材加工を進め、最後に1棟の建物を組上げるのである。“材、分”モジュール制は既に彼等が加工する部材が標準化した節点を具備することを保証しており、性格で誤りの無い組立てから、又部材の充分過ぎる強度が保証される。同時に建築群中のどの1棟の建築も適切な尺度にされるのである。“材、分”モジュール制の生命力は施工中、複雑な寸法を簡素化し、同一類の部材は、それらの材、分寸法は同じになり、異なる等第の建築に使う時、只その材、分の寸法を覚えていれば良く、実際の寸法を覚えておく必要はない。今日のレンガ積みで使用する“皮数竿”(※注1)の情況は、古代の施工中で、工匠逹が只8等材で作った材、分の標杆尺を利用して、水縄を張り、加工し、施工の誤差を減少させて、進行していく様を推測させる。この様に看てくると、“材、分”モジュール制は、設計と施工の経験を異常なまでに豊富にして、その他のモジュール制は比肩することが出来なかったのである。
(※注1)皮数竿:レンガとセメントの厚みを目盛って、基準尺とするもの。
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 但し、1棟の建築物の桁行と梁間の等第寸法は、“材、分”モジュール制を用いて量れないならば、棟梁が実際の情況に照らして設計し、学者が《法式》の巻十七の功限の中に見つけた1条“造作の功は6等材を標準とする”の文字から、これを根拠にして、巻四、五の大木作制度中の桁行と梁間に関係の有る方面で例に挙げて書き並べられた別の寸法は、6等材を用いて計算された建築の桁行或は梁間の用材の“分”数であり、またこの変成通則である。この種の工法は科学的厳密性に欠けるもので、例えば、建物の総梁間の垂木桁の距離は、《法式》が指し示す:“どの桁の水平距離は6尺を過ぎず、もし殿閣ならば或は5寸から1尺5寸を加える”は、これに対して殿閣の垂木桁の距離は一般に6尺で、極限の距離は7.5尺、庁堂は6尺以下である。もし一律に6等材で材分モジュールにすれば、垂木の出跳距離は150分から187.5分とする結論になり、通則になる。但し、それはこれを図に描くと、比例を失っている。且つ、作者が6等材を殿閣に用いると、用材制度が規定する所の範囲と相違してしまう。これとは別に、作者が証明に引く所の材料を看ると、一つは尾垂木(下昂)の寸法で、一つは小木作の裹栿板(※注2)の寸法である。
   (※注2) 裹栿板:両側に厢壁板を用い、桁の下に底板を置き強化した桁材
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尾垂木自体は斜めにおく部材で、且つ傾斜度は不定で、尾垂木の真実の長さ寸法を移し変えた尾垂木尻の”分”数と圧槽方(注;斗栱の最上層の肘木)から下平槫(下の垂木桁)までの水平投影寸法の”分”数を較べると、両者は同じで、そして垂木桁の水平距離は6尺を過ぎずを説明する“足以確証・・・・は6等を以って標準とする”は毫も意義を持たず、両者は比べることが出来る性格の物ではない。裹栿板に至っては、寸法に仕上がっていない部分が含まれ、依拠して推算することが出来ない。
 多くの現存する遺構中、垂木桁の距離と材分は秩序立って居らず協調の無い関係で、且つ1棟の建築中に常に異なる垂木桁の距離を使用する情況が出現し、下表に列挙した23棟の建築中の意味のある42個の垂木桁間の距離寸法のデータを看ると、その内で、垂木桁の距離が6尺以下は29%を占め、6.5尺から7.5尺は36.8%で、両者の和は65.8%で、6等材を一つも使っていない例である。垂木桁の距離と用材等第はどんな直接の関係もなく、例えば2等材や3等材、5等材を使用する建築で、共同の垂木桁距離----7尺前後を選択し、もし材分制で計算すれば、それらはかなり大きな差とすべきである。此れにより、《法式》がタリク桁の距離に対しては所定の数値系経験値を以って、使用時は直接参考にし、材分を用いた推算は必要としない。6等材の基礎の上に建立する建築の桁行と梁間寸法のモジュール制通則も成立出来ない。
 《法式》編者の宗旨を看ると、「定法はあるが定式は無い」を原則とし、桁行や梁間に材分モジュールを加えるのは限定的なのである。
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# by songofta | 2017-05-16 10:09 | 古建築

224 用材の制度1 “材、分”

中国古代建築史 (抜粋) 巻三

第十章 建築著作と匠師

※営造法式について、様々な著作が発表されており、ほぼ南北朝頃には、ある程度形があり、唐代には成熟した技術斗成っていたようで、中国古代建築史(全五巻)を通した伏線に見える。当然、飛鳥、天平の頃には我が国でも伝来していたとかんがえられるが、わがくにではほとんど言及されていないのはどうしてなのであろうか?古代中国の技術を踏まえずに、高麗尺がどうの、唐尺がどうのと言った議論がどんな意味を持つのか全く理解ができない。ここに、傳熹年氏の論文以降を踏まえた中国古代建築史の営造法式について紹介する。拙訳ではあるが、無いよりもましと考え、提供する。飛鳥~平安初期の古建築を看る縁になれば幸いである。


第一節《営造法式》評価 (略)

第二節《営造法式》所載の各主要工種制度
一、大木作
1.用材の制度
 《法式》巻4大木作制度は、巻首にすぐ用材制度がくる。これは、この項目が極めて重要な制度で、正しく《法式》も序に言う所の;建築工程で“材を以って分を定めることを知らざるは”、必ず“弊害を重ねて因循となる”。こう言うことで、李誡は真先に大木作構成の用材制度を制定した;即ち、“凡そ建物の機構の制はみな材を以って祖とし(以材為祖)、材は8等あり、建物の大きさを計るにはこれを用い・・・・・・・・・凡そ屋宇の高さ奥行、物の長短、曲直や反りの勢、規矩墨縄の宜しきは、皆用材の分によって制度となる。” この用材制度と現代建築工程中で使用するモジュール制度はある種似ており、“材、分”モジュール制と呼んでいる。

(1)“材、分”モジュール制の意義
  “材、分”モジュール制の内容は、3つの部分からなる;
第1部分は、“材、分”モジュール制が木構造建築に対する重要性を明らかにする。即ち“凡そ建物の構造の制は、みな材を以って祖とする”、意味は建物を建てる制度はどのような情況下においても全て“材”を以って最も基本的に依拠するからである。
第2部分は、材の形制と等級は及び等材の使用範囲を明らかにする。“材”は“足材”と“単材”の区別が有り、単材は斗栱中の肘木或いは桁材の断面が、高さ15份幅10份で、その中の1份が《営造法式》中で言う1分になる。足材の高21分幅10分。単材と足材の差は栔にあり、栔高さ6分、幅4分。”材”は総じて8等級あり、最大で9寸X6寸、最小で4.5寸X3寸(表10-2を見よ)。
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第3部分は“材、分”モジュール制は大木作中でどのように運用するかを明らかにする。即ち“凡そ屋宇の高さ奥行、物の長短、曲直や反りの勢、規矩墨縄の宜しきは、皆用材の分によって制度となる。” 大木作中に、木構建築の梁、柱、桁材、垂木、貫及び斗栱上の各種部材の長短や曲直に対して、及び加工過程の工程順序の規矩方円は如何に墨を打つのか、どの材やどの栔、どの分を見積もるべきかを見出だせる。こうして所謂”屋宇の高さ奥行”、即ち建物の桁間、梁行及び柱高は、法式制度の中に在り作る前に明確に規定している。これに対して、編者の間違いと看做されるだけではなく、反って編者が工匠の留意するその他の工法に意味が在ると看做すべきならば、工匠は客観的条件に従って”材、分”モジュール制度を運用して設計施工することが出来、この様な”材、分”モジュール制度はこれでやっと生硬で硬直した条文でないことができ、恐らく《法式》序の所謂”用材制度を変造”の”変造”の意味することになる。
 ”材、分”モジュール制度は、なぜ肘木や桁材の断面を以って基本モジュールとする必要があるのか?これは主要に肘木や桁材は大木架構の中の断面最小の部材で、同時に何度も重ねられ規則的に使用される部材で、それと大木架構は不可分の密接な関係が有るからである。それでは、この種の一部材の断面――“材”が作るモジュールは、単純な数字モジュールに比べてどのような深刻な概念なのであろうか?”材、分”モジュール制度の大木作中の運用は、気付くことが出来るように、それは強度、尺度、構造の3方面の概念を含んでおり、その他のモジュール制には具備していない特徴である。

1)強度の概念に関して
 大木作制度のなかで、”材、分”モジュール制度を用いて来たのは、主要な構成部材、例えば大梁、頭貫等で、均しく科学的断面形式を持ち、建築史学者が公認するものである。梁の断面形式の問題に関しては、あとの節で詳細に議論する。同時に、まだ見出だせるのは《法式》が推奨する所の木構成体系の中で、“足材”が出現し、大木作制度中足材を使用してモジュール単位とする主要部材は、出跳する肘木(華栱)と枘挿しの肘木(丁頭栱)である(図10-27)。当時は建築中、組物(即ち1組の斗栱)が出跳する垂木の重量を承けるのは、架構の受力部材の重要な部分で、出跳する肘木は組物の中の主要な支え上げる部材であり、1本の出跳する肘木は1本のごく短い臂梁と看做され、組物の中でその他の横向きの肘木に比べ役割が大きく、其のため断面は大きくする必要があるが、工匠逹がその断面の高さと幅を大雑把に大きくしないため、断面高さだけを増やし、その高さの比を21:10にして、臂梁の抗折力を高めた。この様な処理は多くのはっきりした体験による構造力学の基本原理ではないか!足材の使用は工匠達に”材、分”モジュール制体系中の意図に強度の概念を託す更に明確な証明となった。
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2)構造の概念に関して
  斗栱体系を使用する中国の木構造建築は、どの建屋も正しく整然と画一的に“材”を使用して肘木や桁の断面を作るので、それで始めて肘木や桁の殺ぎ接ぎ時に標準化した構造節点を保証でき、数十の其々の異なる形状を持つ斗や肘木、尾垂木、耍頭を1組1組の組物に組み上げることが出来る。だから”材、分”モジュール制が含まれる構造概念は推して知るべしである。それが表現する構造規律は材と栔の間の組合せで、高さ6分の栔は、只足材と単材の差と言うだけではなく、大斗以外の数種の小斗の水平と傾斜のある高さに相当する。例えば;1組の五鋪作(注、2手先)斗栱中、正心位置には泥道栱、慢栱、柱頭桁等の部材があるが、同時に2層の小斗を挟んでいて、合計の高さは3材2栔である(図10-28)。
 この種の材、栔間の組合せの構造方式は、組物各所の節点構造の基本の造りを成している。法式制度中、幾つの材幾つの栔にするかに当って、もし特に梁の高さと柱径を指定されて無ければ、部材の具体的寸法を表示して、大雑把に幾つの材幾つの栔と言うのは、幾つの層の肘木或いは桁と斗が互い違いに重なり一緒の構造にする工法なのかを意味する。大木作制度の中で、木構成の或る構造の節点を明らかにすることは、往々にして直接幾つの材幾つの栔を使用するという文字で表明し、例えば単栱計心造の構造節点の時は、“凡そ組物は順に計心で・・・・・一つ出跳する毎に2材1栔を置く”と書く。同時に小字で注釈し“令栱素方が2材、令栱の上は1栔とする”。此処にあるのは、制度の正文中に書く事に対して“一つ出跳する毎に2材1栔を置く”は、当時の工匠逹が広く流伝してきた口ずさみや専門用語の類と理解出来、いまの瓦工が施工中にレンガを積む構造を簡単に“一順一丁”、“五順一丁”と言って具体的な積み方を説明するようなものである(注、レンガを横向きに何個並べたら縦向きを挟むと言う簡称のこと)。そして小字は即ち法式制度の編者李誡が、“束縛している工匠が逐一話した”中で、工匠逹が話終わった所で加えた注釈だと了解出来る(図10-29①)。
 又重栱計心造を説明する時は、法式制度正文は大字で“出跳する毎に3材2栔を置く”と明示し、同時に小字で注釈して“瓜子栱、慢栱(注、二重秤肘木の上河の長い肘木)、素方は3材、瓜子栱の上の斗と慢栱の上の斗は2栔”とする(図10-29②)。
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 類似の情況はまだ、尾垂木或いは挑幹(注、梃子作用をさせる部材)の尻と下の垂木桁の間の節点構造にもあり(図10-29③)、法式制度正文に大字で言うのは“もし屋内が明造(注、天井が無い所謂化粧屋根裏)で、即ち挑幹を用いるのは、1斗であったり1材2栔であったり”。その後で小字で注釈して“所謂1栱の上下は皆斗があるものである”。上述の種々の証拠から、所謂幾つの材幾つの栔とは、ある構造法式の代名詞である。この推測により、施工の手の内を見せる時、工匠逹は只或る一節点に幾つの材幾つの栔と言えば、それは今日具体的節点構造の概要を出したのに等しく、工匠に言わせれば、構成のある位置の幾つの材幾つの栔は、その種の構造法式になるのは必定で、この種の構造方式は已に同業の衆が周知の節点構造工法なのである。

3)尺度の概念に関して
 建屋構成の強度の大きさと構造節点の標準化は、“材、栔”制と密接に関係し、法式制度の字間行間の中に、比較的はっきりと反映されている。では、“材、栔”制と建築芸術の関係はどうであろうか?詳細な研究を経て発見されたことは、“材、栔”制を制定した人は、材は8等に分け、異なる等第の建築に用いるように分け、且つ用材制度中に同一の建物でもある場合には、異なる等第の材を使用する必要があると規定する。例えば、庇(副階)を持つ大殿はその庇の用材は、《法式》規定の“庇は材分を殿身から1等減ずる”で、もし殿身が2等材なら、庇は3等材である。庇の用材等第を1級降ろすのは、採用する部材を全て殿身に採用する部材より、減少させることを意味する。当時の官式建築には普遍的に斗栱を使用する情況の下で、斗栱の大きさは敏感に建築の尺度を反映しているので、もし殿身と庇の斗栱が同じ等第であれば、庇は殿身より低いので、人に近い場所になり、庇の斗栱の勢いは必然的に太く嵩張って見える。この様な処理は建築尺度を考慮したことかた来ている。当時の工匠逹は已に人が建築物の大きさから受ける内容を認識しており、絶対寸法を用いて重量の標準としただけではなく、そうごの対比と忖度を利用して、一種の相対的な印象に到達したのである(図10-30)。
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  8等材の中の、”材、栔”制度の明文規定の7,8等材は殿内の藻井に用いるとあり、これは材、分の大きさの調整を通じて建築尺度を体現するもう一つの例証である。8等材は1等材断面のたった1/4で、8等材を使用する藻井は大殿室内装飾構図の中心であり、明らかに規格外の精細な細工であり、大殿殿身の持つ太く重量感のある部材形成と強烈な対比をなすもので、この様に藻井を利用して殿身に更に雄大さを加える事を狙ったもので、大殿本体の太く重々しい梁や柱、斗栱を通して、反って藻井の精美さを引き立てている。
 用材制度の中にはまだ、“殿の挟屋は殿身より1等減じ、廊屋は挟屋より1等減じ、その他はこれに準ずる”の規定がある。これに対して建築群を管理する為、主要建築と附属建築の間の尺度関係の規定であると理解すべきである。挟屋は即ち大殿両脇と殿身が繋がる建物で、廊屋は建築群の回廊である。中国古代建築は材料の制限により、全体の建築建造の規模を大きくすることは不可能で、一定の功能を満足するために、群全体の組合せを使用して完成させる事が必要である。建築芸術の処理としては建築建造群の中の主建築とそれに次ぐ建築をはっきり分ける事が要求され、主要建築の体量は材料の制限により余り大きくすることは不可能で、主要建築と附属建築の関係を正確に処理する必要があり、それで主と次を明確に分けた芸術効果を獲得出来る。“材、栔”制度規定が、回廊と挟屋の用材等第を下げるのは、正しくこの様な目的の為である。用材制度が提供する原則に則った、若干の建築群の実例を参考に、建築群の用材等第に対してどのように設計出来たかを見てみよう(図10-31)。
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 図中描くのは、3進の院落建築群で、主要建築は第2進の院落に配置され、第1等材を使用し、その余の建築用材は等第を1級か2級下げる。同時に、附属建築の桁行と梁間も主要建築より小さく、次に重要な建築と主要とに、建築総体量と細部部材の大きさに差を附けることを通して、主要建築を際立たせている。この種の建築芸術の処理方式を採用した建築群の実例が、山西省大同の善化寺で、その中の大殿と三聖殿の用材等第は、2、3等材の関係で、山門は4等材、普賢閣は5等材である。
  “材、栔”制は、建築尺度の問題を考慮し、更に一定範囲の中で、それは主要に大木架構の尺度を管理するが、ある種の部材、例えば建築の窓枠の台や欄干の高さ、戸の框の細部寸法など、建築尺度の影響も大分大きい。そしてこれ等の部材は大木作に属さないので、材を用いないで、分で管理する。《法式》にはその他の章にそれらに反映する尺度問題も非常に重視されている。(続く)



  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
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  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
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# by songofta | 2017-05-12 21:02 | 古建築

223 飛鳥建築と”以材為祖” 4

日本飛鳥奈良時期建築中反映出的中国南北朝隋唐建築特点

               傳熹年 著(文物1992年10月所載)


奈良後期(約751~794年)
 8世紀中葉以降、日本は奈良後期に入り、絶え間なく盛唐と中唐文化を大量に受け容れると同時に、段々と日本独自の特色を醸し出して発展する。この時期に建てられたのは、奈良東大寺、西大寺等の巨大寺院で、伝世する遺構は唐招提寺金堂、新薬師寺本堂、元興寺極楽坊五重小塔、室生寺五重塔等である。その内、唐招提寺金堂は草架(注、天井を張って上部が見えない架構)を架構し、その比例とモジュールの関係を研究する方法が無く、只元興寺小塔と室生寺塔は基本的に原状を保持しており、詳細資料があるので、探索が出来る。

一、元興寺極楽坊五重小塔
奈良元興寺極楽坊内に陳列され、方形の五重小塔で、高さ5.5m、約18.58尺(1天平尺=29.6cm)、毎層面幅3間。浅野清《奈良時代建築の研究》所載に拠れば、第1層3間の面幅は1.1天平尺、2層は1.0天平尺、3層は0.9天平尺、4層は0.8天平尺、5層は0.7天平尺。毎層間の面幅は下1層の面幅より1寸減少し、通面幅で3寸減少する。毎層の柱頭斗栱は皆六鋪作双抄単下昂、単栱偸心造(⇒三手先、肘木を二手持ち出し、尾垂木1本、秤肘木偸心造)である。
 1層から3層は中備えに斗付き蜀柱があり、4,5層は中備えが無い。海龍王寺小塔と外観が異なるだけではなく、この塔は内部架構も造り出しており、日本の学者はこれは本物の黙祷の10分の1模型と考えている。
 この塔の詳細測量データは得る事が出来ず、暫時依然として、唐代材分制の特徴を保持しているかどうかを推求出来ない。但、講談社新版《日本美術全集・Ⅳ》の図版152,153の解説中に発表された、立面及び断面図実測図が在り、塔身高さと塔総高さの寸法の注が有る(図十四)。
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 前述の飛鳥及び奈良前期の塔の規律に基づくと、この五重塔の塔身の高さはⅠ層柱高の7倍だが、実測図上の作図では、塔身高さは柱高の8.5倍強で、明らかにそれは上述の設計規律に基づいていない。 図の上で各種探索すると、塔身の高さは、第3層面幅の4倍で、亦即値第3層塔身の周長でもある。図を用いて数字を検算すると、塔身の高さは328.1cm。1天平尺=29.6cmで換算すると、328.1cm=11.08尺。その4分の1は2.77尺。3層の総面幅2.7尺と差がわずか0.07尺は、基本的に同じと見れる。 これによって、この塔の高さは第3層の面幅を拡大モジュールにしている事が知られる。但しこれはこの塔の特殊な情況か確かに一定の規律性によりものかは、もっと多くの例証が必要である。

二、室生寺塔
 奈良室生寺川畔に在り、奈良時代末期に建てられ、平面方形、五重、全部木構造、木製の中心塔柱が上下を貫通する(図十五、十六)。
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 この塔は明治三十四年(1901年)解体修理され、1978年又大修理を経て、実測図の《国宝室生寺五重塔修理工事報告書》が発表された。《報告書》中の記載に拠れば、塔の総高さ(1層地面から刹尖まで)は17.1m、およそ一般の五重塔の3分の1である。塔身は、毎層の面幅が皆3間で、各層の肘木と桁の高さは等しく、皆高さは0.34尺(幅は図に標示が無い)。図上に標示された2材2栔の高さは1.12尺で、ここから1材1栔は0.56尺と判り、栔高さは0.22尺である。もし、0.56尺が足材ならば21“分”相当で、この塔は毎“分”が0.02666尺となる。この“分”値で実測図に標出された各層の面幅を換算すると、即ち;
   1層は 2.565+2.95+2.565=8.08尺
      即 96+110+96=302“分” ⇒300“分”
   2層は 2.335+2.54+2.335=7.21尺
       即 87.5+95+87.5=270“分”
   3層は 2.005+2.23+2.005=6.24尺
       即 75+84+75=234“分” ⇒235“分”
   4層は 1.76+1.91+1.76=5.43尺
      即 66+72+66=204“分” ⇒200“分”
   5層は 1.565+1.67+1.565=4.8尺
      即 59+62+59=180“分”
 上述から見られるのは、各層の通面幅は皆端数とはいえ、“分”値に換算すると、300,270,235,200,180と基本的に整数となり、その各層の縮小する数の30,35,35,20“分”も規律的となる。これはこの塔が“分”をモジュールとすることの証明するものである。《修理工事報告書》の図上に立面の各寸法が標示出されていないので、我々はまだその立面の“分”数は推算する術が無い。
 これまでの各塔の情況からみて、塔は全て塔高を管理する各ダウモジュールを持っていることが判る。《修理工事報告書》の附図の標示により、塔の総高さは56.54尺。その内台基高さは3.2尺、刹高さは15.08尺で、
これにより塔身の高さ(1層地面より5層博脊まで)は、56.54-3.2-15.08=38.26尺。材高0.34尺を以って塔の総高さ56.54尺と塔身高さ38.26尺を割ると、166.3と112.5となり、整数にはならず、それは在鷹がモジュールに成っていないと判る。塔の1層柱高は《修理工事報告書》に載っておらず、実測図上で作図によって検証すると、塔身高さは1層柱高の8.3倍で整数ではなく、1層柱高が拡大モジュールではないと判る。
 最後に、元興寺極楽坊五重小塔の例により、その3層の面幅で塔身の高さを換算すると、3層塔身は幅6.24尺で、その6倍が37.44尺、この塔身高さ38.26尺と差が0.82尺、工程の誤差と多くの修理等の要素を考慮して、それは確かに3層の塔身通面幅をモジュールとしていて、手法は元興寺極楽坊小塔とおなじである。全く同じで無い所は、元興寺小塔の下3層は中備えを用い、面幅を大きくしているので塔身は相対的に寛く、塔身の高さは3層塔身面幅の4倍で、室生寺塔は各層に中備えを用いず、面幅が小さく塔身がかなり細いので、塔高さは3層面幅の5倍となり、両塔の高さと寛さの比は異なる。
 上に挙げた2例で知れるのは、奈良後期は、建築は依然“分”を以ってモジュール設計方法を取るが、その管理する高さの面では拡大モジュールで、飛鳥と奈良前期は1層柱高を拡大モジュールとするのを3層(中央の1層)の面幅を拡大モジュールとするよう改作している。

 以上の文を総括すると、我々は日本が初めて中国古代建築の影響を受けた一連の遺構を研究することを通して、翻ってその頃の中国建築の発展レベルが推測でき、以って中国建築資料の不足を補うことが出来るということである。

一、
日本の飛鳥時代、建築は材を用いるのが已に標準化されて、肘木と柱頭桁の寸法が即ち建築の標準の材で、断面が5:4であった。但し、この肘木と桁の間の隙間の寸法はまだ固定されておらず、まだ後の“栔”と“足材”の概念は無かった。建築の平面や断面、立面の寸法設計中、已に肘木と桁の標準高さ(即ち、材高、法隆寺金堂、五重塔中では、0.75高麗尺)をモジュールとし、断面と高さ設計上は、又1層の柱高さを拡大モジュールとし、1層柱高さそのものも材高をモジュールとした(法隆寺金堂と五重塔は14及び12材高に分けた)。この時、3層塔の塔身の高さは1層柱高の5倍で、五重塔の塔身の高さは1層柱高の7倍である。殿宇は法隆寺金堂1例しか無いが、それは依然として1層柱高をモジュールとしており、堂高は1層柱高の4倍である。この種の材高や柱高を以ってモジュールと拡大モジュールとする工法は中国の唐と遼の木構造建築の情況と基本的に同じで、明らかに同一の源から出ている。日本の飛鳥時代建築の源は中国南北朝末期の建築である。この様なことが、飛鳥時代建築を傍証として、中国唐、遼、宋建築の特徴を結合し、”以材為祖“のモジュール制設計方法の成熟期を唐代から早ければ南北朝後期であろうと、我々が推断した理由である。

二、
 奈良時代前期の遺構中に、我々は“以材為祖”のモジュール制設計方法とその発展を看ることが出来る。我々が中国の中唐、晩唐建築中に反映した“分”を以ってモジュールとした設計方法で検証した薬師寺東塔の時、東塔は已に“分”をモジュールとしているのを発見し、その“分”は材幅の1/10で、その平面や立面、断面を“分”で換算した時、中国の唐宋建築で常用する“分”と合致した。薬師寺東塔は代表的白鳳時期の建築として、日本の学術界は中国初唐建築の影響を反映している事を公認している。この様にして、我々は薬師寺東塔を傍証にして、中国初唐時已に材高をモジュールに用いることから、 “分”をモジュールとして用いるまでに発展し、モジュール制設計方法は更に精密になり、以前は中唐や晩唐時(ここに南禅寺と仏光寺がある)にやっと在るとされた設計方法が100余年早められた。この他、薬師寺東塔と海龍王寺五重小塔も1層の柱高が多層建築の高さの拡大モジュール設計方法であり、初唐でも依然使用されていたことが表された。

三、
 奈良時代後期遺構中、室生寺塔が依然として“分”をモジュールとする設計方法を使用していることが表された。但し、室生寺五重塔と元興寺極楽坊五重小塔は又高さを管理する拡大モジュールは、已に1層柱高から塔の中間層の面幅に改定されていることも表わしていていた。面幅を高さ管理の拡大モジュールとして、塔高さと塔幅を関係付けると、塔の細長比を管理でき、明らかに1層の柱高に比べて合理的で、この当時モジュール制設計方法上の進歩である。この状況は、ちゅうごくで1056年の遼代応県仏宮寺釈迦塔でも存在し、この塔の下4層は厳密に第3層塔身の面幅をモジュールとしている。清末民国初の人、姚承祖選の《営造法源》の中に、塔周辺の長さ(面幅の若干倍)が即ち塔高さの記述があり、工匠に口伝されてきた古法に当る。奈良後期に陸続として伝入した盛唐、中唐の影響を受けたため、我々は上に述べた2塔の傍証により、中国応県釈迦塔が表現する面幅と高さ関係の拡大モジュール制設計方法の出現時期は中唐乃至盛唐の末で、200年以上早いことが判る。中唐に“安史の乱”が在り、大規模な回復の建設が進んで、この時モジュール制設計方法に新しい発展が出現したということが頗る可能なことである。奈良後期遺構はこの方面でも我々に重要な手懸りを提供している。
 但し、この種の新しい拡大モジュールの出現後、完全に旧法に取って変わったわけでは無く、異なる建築流派が造るものが併存していた。中国の応県仏宮寺釈迦塔でも同時に1層の柱高と3層の面幅を拡大モジュールとする兆候が見える。同様になら後期から数百年後の鎌倉時代に建った奈良興福寺三重塔は、その塔身の高さは依然1層柱高の5倍で、厳格に飛鳥奈良前期の古法に沿っている(図十七)。
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 以上が、日本古建築中に含まれる、中国南北朝から唐代建築の特徴の探索である。できるだけ誤差を減らすため、文中に附けた日本と中国の建築図は全て書き直さず、直接已に発表された図に比例関係の分析線を書き加えて、原図紙上にある物を明示するだけにしている。筆者の日本古代建築に対する理解は少なく、掌握した材料も少ないので、一面的だったり正確でない事を恐れる。以後、もっと多くの材料が入手でき完全で正確にできることを希望している。但、この初歩的な探索から、我々は依然、日本古建築は確実に我々のある種の中国に無い実物、或いは実物が稀少な時代の建築を理解する鏡のようなものを見出す事が出来る。中国中唐以前の古建築は、解放後40余年文物従事者が何度も調査を行ったと言っても、未だ茫漠として得る所が無く、已に遺物が残っていないで現在に至っている。日本には現在26座の飛鳥、奈良時代の遺構を、我々はこの時期の建築の重要な傍証とすべきで、我々が深く研究する極めて高い価値がある。この他に、中国古代建築史研究に対して出来る、まだ重要な補充作用があるのは、鎌倉時代の遺構である。日本の鎌倉時代の2種の主要な建築風格、“大佛様”と“禅宗様”が、南宋と元代の福建と江蘇浙江地区というべつの源から入っている。南宋と元時期、中国南方の経済と文化は北方を遥かに超えており、建築も巨大な変化をし、段々と地方の風格を形成し、中国建築の重要な発展時期であった。その内、江蘇浙江地区建築は、明朝成立後、明の官式建築の主要な源流となり、一代の新風の先駆けで特別重要なものである。だが、現在の長江以南に在る宋元の木構造建築は10座前後で、且つ時代が離れ、地域が分散し、その系統と完全な整理探索は困難である。それに比べて日本にある鎌倉時代の建築は頗る多く、国宝の寺院建築だけでも53ヶ所の多数の建築が列なって、有力な傍証となり、我々が江南の宋元時代の建築の発展と地方風格の形成及び変遷を研究するに当たって重要な手懸りを提供できるので、極めて価値が在ると重視するのである。
 我が国の現存する元代以前の古建築はまだ多いが、時代は最早でも中唐までであり、地区からみると北方が多くて南方が少なく、この種の時代や地域分布の上で不均衡となっており、”先天缺陥”(先天性欠陥)に近く、我々が我が国古代建築発展史を全面的に系統立てて研究するのにかなりの困難を造り出している。中日両国の有給の文化関係により、日本の現存する大量の古代建築は、ある種のレベルで我々に傍証を提供し欠けた所を補い、他山の助けとして加え、我々は積極的に研究に加え利用すべきである。

引用文献;(概略)
①《国宝大事典五・建造物》、講談社、9頁、鈴木嘉吉《日本建築の発展と特質》中の統計表。
  33頁、岡田英男《法隆寺五重塔》解説
  76頁、細見啓三選《海龍王寺五重小塔》解説
  77頁、宮本長二郎選《元興寺極楽坊五重小塔》解説
  84頁、上野邦一選《室生寺五重塔》解説
  475頁、巻後年表。
②《国宝法隆寺金堂修理工事報告書》
③《国宝法隆寺五重塔修理工事報告書》
④浅野清《奈良時代建築の研究》、1969年、中央公論美術版
⑤《日本美術全集4、東大寺と平城京》、講談社、岡田英男選《奈良時代の建築とその構造技法》
⑥陳明達《応県木塔》三、《立面構図》、文物出版社、1980年、37頁
⑦姚承祖《営造法源》16頁、《枠組》一、塔の制度、建築工芸出版社、1986年、85頁


※高麗尺については、日本側の説明をそのまま用いているが、尺については、別個の議論が必要であろう。私は、無かった方に賛成の立場である。



  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


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総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服
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# by songofta | 2017-05-04 22:01 | 古建築

222 飛鳥建築と”以材為祖” 3

日本飛鳥奈良時期建築中反映出的中国南北朝隋唐建築特点

               傳熹年 著(文物1992年10月所載)


奈良時代前期(約710~750年)
 この時期は、日本と唐の文化交流は更に密接で、その宮室や寺院等の建築は、唐の影響を大きく受け、飛鳥時代とは異なる新風が出現する。この期の日本は奈良に都を建て、日本史では奈良時代と呼ぶ。奈良時代は前後二期に分けられる。前期は又白鳳文化と呼び、日本の学者は主要に初唐文化の影響を受けたと考えている。後期は又天平文化と呼び、盛唐以後の影響を反映している。
 現存する奈良前期の最重要な建築遺物は、奈良薬師寺東塔となら海龍王寺西金堂内に陳列する五重小塔である。

一、薬師寺東塔
 薬師寺は元藤原京に在り、天武十一年(682年)に創建され、文武元年(697年)完成し、和銅三年(710年)平城京に遷った。現在の日本の学界は東塔を天平二年(730年、我が国の唐玄宗開元十八年)に新しく建てられたと見做している。平城京の薬師寺は、その主体は回廊に囲まれた方形の庭院で、中軸線上の前に中門、後を講堂として、庭院の中心を金堂とする。金堂の前方に左右対称に東塔と西塔を建てる。現在の寺中は、東塔が奈良前期の実物で、金堂と西塔は今世紀70年代の新建築で、目下回廊を再建している所で、以って天平二年の旧観を回復しようとしている。
 東塔の平面は方形、高さ3層で、槽毎に裳階が在り、重層を形成し、上下合わせて6層の屋根を持つ。1,2層の塔身は各3間、3層は面幅2間;1層の裳階は毎面5間、2,3層の裳階は毎面各3間。塔身は全て木構造で、内部は上下を貫通する木刹柱がある。唐の架構の特徴は飛鳥時代と異なり、梭柱(⇒胴張り)や雲形肘木、雲斗、皿板等を用いず、斗栱は六鋪作二抄一昂単栱偸心造(⇒三手先、肘木を二手持ち出し、尾垂木1本、秤肘木偸心造)で、中備えは斗付き蜀柱を用い、通肘木(扶壁栱)に変えて秤肘木を重ね、敦煌壁画中に描かれた初唐建築に頗る似ている。それは日本と唐が直接往来後、最初に伝入した建築様式で、日本の学者は、それは中国初唐の風格を反映した、白鳳時期の最も典型的な遺構であると考えている(図十二)。
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 1981年に日本で出版された《薬師寺東塔調査報告書》に、詳細な測量データと実測図が発表され、日本の曲尺を単位としている。《報告書》で判るのは、塔身1層万幅は23.20曲尺、1層柱高は15.86曲尺、塔身の高さは78.52曲尺、塔の総高さ(1層地面から刹頂まで)は、112.65曲尺。第1層塔身の1手目の肘木と通肘木(泥道栱)の高さは0.85曲尺、柱頭の桁の高さは0.8曲尺、幅は全て0.62曲尺、二者の内一つはこの塔の材の寸法に違い無い。
 前節で検討した飛鳥時代建築の時は、已にそれらは材高をもってモジュールとして設計を勧めたことが判っている。但、ここで試しに肘木高0.85曲尺と桁高0.8曲尺を材高として、塔身の高さ78.52曲尺や1層柱高15.66曲尺、1層面幅23.40曲尺を割った時、皆端数となり、薬師寺東塔は材高をもジュースとして設計したものでは無いと言える。

 中国の現存の唐代建築、五台山南禅寺大殿(唐徳宗の建中三年、782年)と仏光寺大殿(唐宣宗の大中十一年、857年)に就いては、我々は唐代建築上、モジュールとしての材で作り、その断面の高さと幅の比は3:2である(南禅寺大殿の材は25cmX16.6cm、仏光寺大殿の材は30cmX20.5cm)。宋代の《営造法式》は又我々に告げて、宋式建築の材の断面も高さ3幅2で、且つ材高を15分割し、材幅は10分割し、毎分割を“分”と称して、建物の設計にあたって、面幅や奥行、高さ及び大小の部材を包括して設計のモジュールとした。例えば、殿閣型の架構であれば、斗栱の間の距離は一般に125“分”で、詰組の斗栱が1組あれば、毎面幅は250“分”で、且つ一定の増減幅を認めた。柱高は一般に面幅を超えず、最高で250“分”とする。この“分”を以ってモジュールとし、南禅寺と仏光寺を分析すると、得られたのは以下の結果である;
 仏光寺大殿は、毎“分”長が2cm、その中央の5間は各1組の詰組を用いており、面幅は504cm、252“分”相当で、毎斗栱平均が占めるのは126“分”。その柱高は499cm、250“分”相当で、面幅と同じである。
 南禅寺大殿は、毎“分”長が16.6cm、その面幅寸法は柱頭で計り(柱脚は側脚がある)、3間に分け331+499+331cm、総面幅1161cm。“分”に換算した時、199“分”+300“分”+199“分”、総面幅699“分”。調整して200“分”+300“分”+200“分”=700“分”。その奥行は柱頭を以って計り、3間は全て199“分”、総面幅597“分”。調整して、200“分”+200“分”+200“分”=600“分”となる筈である。
 上述の数字中、仏光寺大殿の面幅や柱高と《営造法式》所載の殿閣型架構の“分”数は同じである。南禅寺大殿は庁堂型架構で、その面幅奥行は極めて整った“分”数となる。《営造法式》中に所載の“分”を以ってもモジュールとする設計方法は遅くとも中唐には成熟していた。
 以下に我々が再度今一歩踏み込んで、薬師寺東塔中に、“分”をモジュールとした情況が出現したかどうかを看てみよう。

1.材を用いる:
 実測図上に書かれた寸法は、東塔塔身の肘木と桁の高さが頗る一律ではなく、2,3層は1層に比べ稍々小さく、柱頭桁の高さも又肘木高さより小さい。1層塔身の出跳した肘木と通肘木の高さはみな0.85曲尺で、柱頭桁の高さは0.80曲尺である。但し、その幅は同じで、皆0.62曲尺である。肘木と桁の間は斗の間に埋め込んで隙間距離を支える――宋式で言う“栔”で全て0.5曲尺である。
 肘木と桁の高さが異なるので、我々はどれが材なのか一時判断に困った。しかし、中国唐宋建築の材”分”の規則を知れば、材高と栔高は早期には固定されず、但、材幅は一般に10”分”である。東塔の肘木と桁は全て幅0.62曲尺であり、即ち肘木と桁を論ずべきではなく、もしそれを10”分”を以ってすれば、即ち毎”分”長は0.062曲尺となる。我々はこの”分”値を用いて試しに計算してみよう。
  1層の面幅は、柱頭以上の肘木と桁が形成する槽の寸法を計ると(理由は2段に平面部分が見えるため)、3間は
    7.73+7.74+7.73曲尺、   ”分”に換算して:
    124.7+124.8+124.7”分”=374.2”分”  誤差を調整して
    125+125+125=375”分”
 東塔各間は、只柱頭斗栱のみを用いて、詰組斗栱が無いので、その面幅は只1組の斗栱の寛さに相当する。従って、その面幅125”分”は、丁度仏光寺大殿及び《営造法式》中の殿閣の架構斗栱の寛さ125”分”と同じになる。
 東塔1層の柱高は15.66曲尺で、”分”に換算すると253”分”で、復興時大殿及び《営造法式》既定の250”分”と同じである。
これにより、我々は、薬師寺東塔が確実に”分”を以ってモジュール設計を進め、そのモジュールは飛鳥時代に材高をモジュールとしたのに比べ、もう一歩精密になった事を確認できるのである。
 東塔の”分”値は0.062曲尺である。もし肘木を材とすれば、肘木の高さ0.85曲尺は13.7”分”相当で、契高0.5曲尺は8.1”分”、肘木高さに栔高を加え――宋式で言う”足材”は21.8”分”となる。但し、もし桁が材であれば、即ち桁高さ0.8曲尺は12.9”分”、栔高8.1”分”を加え、その”足材”は21”分”となる。この”足材”高さ21”分”は整数であり、又《営造法式》中所載の足材の高さ21”分”と全く同じなので、薬師寺東塔の1層塔身の柱頭桁は材の可能性が最も大きい。これは、その材高0.8曲尺、幅0.62曲尺、栔高0.5曲尺、足材高13曲尺であるということを言っている。”分”に換算して、材高13”分”、幅10”分”、栔高8”分”、足材高21”分”である。

2.各層平面:
 東塔断面図上に、一つの現象を看る事が出来る。即ち1,2層は柱頭桁が形成する槽の中心線がその下の檐柱の中心線より内側に少し偏移していて、1層の内偏移は0.09曲尺、2層の内偏移は0.08曲尺。この種の内偏移は恐らく建築の側脚に源があるのだろう。或いは設計時に、檐柱に側脚があったが施工時造り忘れたか、或いは元々側脚が有ったが修理工事で直立に改造したか、このため槽と偏移が発生した。これにより、各層の原設計の面幅を計算し槽の寛さは柱脚を基にすべきではない。この様に計算すると、即:
    第1層通面幅 7.74+7.74+7.74=23.22曲尺
     換算して   125+125+125=375”分”=25材高
    第2層通面幅 5.48+5.40+5.48=16.36曲尺
     換算して   88+87+88=263”分”=17.5材高
    第3層通面幅 4.85+4.85=9.70曲尺
     換算して   78+78=156”分”=10.41材高
 得られる大部分は整数ではなく、平面は”分”を単位として設計し、材高を単位としたのではない事が知られる。

3.各層の高さの設計:
    1層檐柱高さ 15.66曲尺=252.6”分” ⇒253”分”
    1層通面幅:柱高=375:253 ⇒ 3:2
    2層柱高(柱座上面から台輪下面まで) =10.51曲尺(図から測って)=170”分”
  即ち、2層通面幅:柱高=263:170 ⇒3:2
    3層柱高=9.88曲尺 =159”分”
  即ち、3層通面幅:柱高=156:159 ⇒1:1
  即ち、1,2層塔身の幅と高さの比は3:2で、3層は1:1である。

4.塔身の高さ:
 実測図により、東塔の塔身は、地平から3層の塔頂博脊までの高さは78.52曲尺、1層の柱高は15.66曲尺。
  即ち、塔身高さ:1層柱高=78.52:15.66=5.01:1
略、施工の誤差と千余年来の変形を除けば、この比例は5:1で、即ち塔身は1層柱高の5倍である。これと飛鳥時代の法起寺塔の比例は全く同じで、三重塔の設計規律であろう。

二、海龍王寺五重小塔
  この塔は、奈良海龍王寺西金堂内に陳列され、全木製で、忠実に五重木塔の外観を模倣したもので(内部構造は表現していない)、高さは約4.1m。日本の学者が推測するには、それは10分の1比例の模型で、風格と薬師寺東塔や西金堂付近から発見された古瓦とからみて、奈良時代の作品であるとされる。
 この塔の平面は、方形で、第1層の面幅77.2cm、第5層の面幅34.5cm、層を追って逓減している。但し、前の飛鳥の2塔及び薬師寺東塔と異なるのは、どの層も面幅3間で、頂層が2間に減らない。各層塔身は皆柱頭に斗栱があり、柱頭斗栱は2手出跳し1尾垂木で、尾垂木は直線的で、薬師寺東塔と基本的に同じ、少し異なる所は出跳した2重目の肘木上に、肘木内に又1斗を加え、下の出跳肘木の先の斗と対位し、これは唐代の工法には無く、日本が新しく創り出したものである
 目下の所、この塔の詳細な測量データが得られないので、その材や分を推算する事が出来ない。但、天沼俊一《日本建築史要・付図》中に発表された立面図と断面図で分析すると、依然として、塔身と総高さ(1重地平面から5重塔頂博脊まで)は丁度1層柱高の7倍で、法隆寺五重塔が表現する比例と同じである。
 その投の総高さ(1層地平面から刹頂まで)は只1層柱高の略10倍より少し多く、法隆寺五重塔と同じである(この塔の塔刹は、明治38年(1905年)薬師寺東塔と当麻寺西塔の塔刹を参考に復原して補充したもので、その差はそれで少し有るのかも知れない(図十三)。
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 この両塔の情況が表すのは、飛鳥時期は1層の柱高を高さ方面の拡大モジュールとして設計した特徴が、奈良時代前期に至っても依然使用されていることである。但し、具体的には架構設計上、已に材高をモジュールとすることから発展して、材幅の1/10―――”分”をモジュールとするようになった。


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# by songofta | 2017-04-30 22:01 | 古建築

221 飛鳥建築と”以材為祖” 2

日本飛鳥奈良時期建築中反映出的中国南北朝隋唐建築特点

               傳熹年 著(文物1992年10月所載)

(金堂に続く、法隆寺五重塔、法起寺三重塔)

 中国に現存する唐代、遼代のかなり早期の木構造建築中、材をモジュールとしたものを除き、まだ柱高を以って拡大モジュールとするのが、多層建築ではとりわけ明白である。唐、遼の建築中、奥行が四檐の建築は、その大棟の高さは柱高の2倍で、その実例は唐代の五台山南禅寺大殿と遼代の蓟县独楽寺山門である(図三、四)。奥行が四檐より大きな建築は、その中の平槫(檐桁より上に数えて第3番目の桁、四檐時の大棟桁の位置)の高さも檐柱の2倍で、実例が唐代五台山の仏光寺大殿と遼代の薊県独楽寺観音閣上層である(図五、六)。楼閣等の多層建築中にも、1層柱高が拡大モジュールがある。遼代の薊県独楽寺観音閣の上層柱頂の高さが、丁度下層内柱高の3倍で;遼代応県仏宮寺釈迦塔の塔身(1層の地面から5層の博脊(露盤下の面戸瓦部)は、丁度1層の下檐柱高の12倍で(図七)で、下檐柱高は一般に又上檐柱高の1倍半である。これ等は皆、柱高を以って拡大モジュールとした典型的な例である。この特徴に従って、法隆寺金堂断面図で推測すると、その上層大棟桁の高さが、丁度下層柱高の4倍となるのが発現している。実測図上で、大棟の地面からの高さは49.88曲尺、1層柱高は12.35曲尺で、49.88/12.35=4.04となり、千余年の変形と解体修理を経てきた情況を考慮すれば、大棟高さは1層の柱高の4倍であることが確認出来る。もし、材高をNとして換算を進めると、則ち;
     大棟高さ49.88曲尺=12.06高麗尺=56.08N≅56N
 上述の分析は、我々が法隆寺金堂はその材高をモジュールとしていて、高さについてはその1層の柱高を拡大モジュールとしていると言えるのである。
  但、この現象は、金堂に限られれば偶然性によっても起こったのか、かなり普遍的な意義を持っているのだろうか?我々は須らく更に多くの例を検証した。以下に我々は法隆寺五重塔で開始した。

2.五重塔
 塔は金堂の西側に在り、平面は方形、高さ5層、これも全木構造建築である。塔内は1本の上下5層を貫通した木刹柱があり、塔頂から出て塔刹上に諸々の銅部材が覆っている。その柱や斗栱、架構方法と金堂は同じで、下層の通肘木(泥道栱、材に等しい)の断面の最大は0.89X0.71曲尺で、換算して0.75X0.599高麗尺、実際は0.75X0.6高麗尺で、金堂の材の用い方と同じである。(図八、九)。(注、図九は外観写真なので略す)
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 塔身第1から第4層の面幅は3間、第5層は面幅2間。実測図から知れるのは;
    1層面幅 6.168+8.839+6.168=21.175曲尺、約18高麗尺相当
     2層面幅 5.362+7.970+5.362=18.693曲尺、約15.75高麗尺相当
     3層面幅 4.429+7.104+4.429=15.963曲尺、約13.5高麗尺相当
     4層面幅 3.540+6.219+3.540=13.298曲尺、約11.25高麗尺相当
     5層面幅 5.327+5.327=10.654曲尺、約9高麗尺相当
 金堂の例に依り、材高を0.75高麗尺=Nとすると、則ち;
    1層面幅 7+10+7=24N
     2層面幅 6+9+6=21N
     3層面幅 5+8+5=18N
     4層面幅 4+7+4=15N
     5層面幅 6+6=12N
 5層中、層毎に下層より面幅が3Nずつ減り、則ち面毎に1Nの減少で、層の面幅を逓減変化を形成し、上下層の柱は対位しない。
 高さについては、塔の総高さは107.44曲尺、換算して90.59高麗尺で、120.78Nに相当する。塔身の高さ(1層地面から5層塔頂の博脊まで)は75.475曲尺、換算して63.6高麗尺で、84.9Nに相当する。
 塔1層の柱高は10.612曲尺で、8.948高麗尺相当、9高麗尺に近く、12Nに相当。1層の柱高をH1とすると則ち;
     塔身の高さ 84.9N/12N/H1=7.08H1
     塔の総高さ 120.78N/12N/H1=10.07H1
 千余年来の変形を考慮すれば、塔の総高さは1層柱高の10倍で塔身高さは1層柱高の7倍とすることができる。(※注)
 この様に、我々は法隆寺五重塔の木構造設計上の共通点を見出すことが出来、それは全て材高を設計の基本モジュールとし、高さについては又1層柱高を拡大モジュールとして、この1層柱高も材高をモジュールとしているとすることが出来る。
   (※注、5層の屋根は、後世の改造で野屋根が追加され、その分高くなっていると言われており、その情報が伝わっていないようだ。それが、8寸曲尺前後かもしれない)

二、法起寺
 寺中で、只三重塔だけが飛鳥時代遺構で、天武十三年(685年)建て始め、慶雲二年(706年、中国唐中宗の神龍二年)完成。塔は平面が方形、3重、これも全木構造建築で、1,2層は面毎に3間、3層は面毎に2間、上下に貫通する木刹柱があり、二品に現存する最古の三重塔である(図十、十一)。(図十は外観写真なので略す)。
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 この塔は、1972~1975年に解体修理され、その実測図とデータが《国宝法起寺三重塔修理工事報告書》中にある。その測量データはcmで測られ、1曲尺=0.30303m及び1高麗尺=1.186曲尺の率で、1高麗尺=0.359mに換算できる。
 各層の塔平面寸法の換算は以下の通り;
     1層 1.88+2.655+1.88=6.415m、
       即5.23+7.39+5.23=17.85高麗尺≅18高麗尺
     2層 1.334+2.121+1.334=4.789m、
       即3.71+5.9+3.71=13.32高麗尺≅13.5高麗尺
     3層 1.612+1.612=3.224m、
       即4.49+4.49=8.98高麗尺≅9高麗尺
 換算が上述の3個の近似の高麗尺を数えた後、それらは法隆寺五重塔の第1、3,5層の面幅寸法と同じであるのが表れる。日本の学者の認識は、それも0.75高麗尺をモジュールとしたものという。0.75高麗尺をNとすると、即;
     1層 7+10+7=24N
     2層 5+8+5=18N
     3層 6+6=12N。 上層は下層面幅より6N減少する。
 実測図の分析を進めると、一連の特徴が表れる。

各層の塔高は、上下層の柱脚間の距離の合計となる、即
     1層層高 3.416+2.195+1.720=6.331m、
     1層面幅6.415mとの差はたった0.084mで、等しいと看て良く、合わせて24Nである。
同様に、
     2層層高 1.835+2.190+0.710=4.735m、
     2層面幅 4.789mとの差は、たった0.054mで、等しいと看て良く、合わせて18Nである。
これは即ち、1,2層の塔身面幅及び高さは同じで、断面図上、方形を呈し、一個の内接円を描くことが出来る。

実測図上のデータに拠れば、1層塔身の内槽の四柱(=四天柱)の高さは平均値で3.408m、そして塔身の総高さ(1層地面から3層塔頂博脊)は16.934m。法隆寺塔1層柱高が、塔身高さのモジュールになる例で推算すると、この塔の塔身高さは、1層柱高の4.969倍、千余年の変化と歴代の修理を考慮すると、柱高の5倍であると出来る。

塔の用いる所の材は、
 1層の内柱上の通肘木(泥道栱)の平均値を計ると、
    その高さ25.8cm {(26.1+25.5+25.9+25.7)/4=25.8cm}。
    高麗尺に換算後、0.719尺X0.596尺⇒0.72尺X0.60尺。
 真正な材高0.72高麗尺で、平面と断面の諸寸法を割ると整数倍にならないが、0.75高麗尺で割ると皆整数になる。これはこの塔が実際は塔自身の材高を以ってではなく、0.75高麗尺を以ってモジュールとして木構造の設計をしたことを表している。この現象は、法起寺三重塔の設計時、已に材高を以ってモジュールとする設計方法に尽く從うとは限らず、法隆寺金堂や塔のデータをそのまま当て嵌めて造り、モジュールと材が無関係になる現象が出現した事を示している。これは飛鳥式設計方法が已に衰退、変異し始めていることの標示しているのかも知れない。



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# by songofta | 2017-04-28 15:55 | 古建築

220 飛鳥建築と”以材為祖” 1

日本飛鳥奈良時期建築中反映出的中国南北朝隋唐建築特点

               傳熹年 著(文物1992年10月所載)

 最近でも、まだ飛鳥建築は高麗尺の説を見かけるが、法隆寺の九州からの移設説など、本筋から外れたような論が目につくなど、こじつけ論も流行るのか、まるで邪馬台国論争のようだ。しかしながら、古建築についてなら、中国の研究成果を抜きにしたのでは、みのりはないのではないか。中国の研究成果は、中国古建築史(全5巻)が、中国の最新のものと思われるが、第2巻に>傳熹年氏の研究を基にしたような分析が載っている。日本の古建築を語るのに、これら中国の研究成果を踏まえるのは必須と思うが、どこにも翻訳が見当たらない。甚だしきは、北宋の「営造方式」の”以材為祖”は法隆寺より500年後のもので、法隆寺に適用できる筈が無いと言われたと言う。批判者は、営造法式を読まれているのだろうか? 
 傳熹年氏の「日本飛鳥奈良時期建築中反映出的中国南北朝隋唐建築特点」は、1992年10月版の「文物」に発表されたもので、25年前のこの遠慮満載の、だが鋭い指摘はその後日本で余り真面目に取り上げられていないように見えるので、先ずはここから拙訳を始めたい。

「日本の飛鳥奈良時代の建築に反映された中国南北朝と隋唐の建築の特徴」

  1990年10月、奈良中国文化村の工程設計のため、筆者は奈良を訪問した。奈良日日新聞社と華芸顧問工程公司の好意を承り、集りの後、奈良、京都、滋賀、兵庫等日本古建築30余ヶ所を参観することができた。
  日本は昔から古代文化や文物に加えて保護の伝統を重視し、大量の古代の珍しい建築遺物を完全な整った保存をして今日に至っていて、日本及び全世界の珍しい文化を遺産としていて、現存の大量の日本の古代、近代建築物中、既に国宝と成ったもの207件、計249棟;重要文化財が1982件、計3196棟となる。国宝207件中、我が国隋唐時期(日本の飛鳥、奈良時代)に相当するものは、計25件26棟となる。この旅行で栄山寺八角堂を除いて、幸いにも全てを見ることができた。
  これら珍しい古建築を参観しての、第一印象は保存が極めて良好なことである。これ等国宝級の建築は、全て数度の修理を経て、多くの解体修理までも経ているが、全て厳格に”整旧如旧(昔のやり方で昔通りに)”の原則を遵守し、外観上基本的に行った補修の痕跡が見付けられず、その歴てきた千年の古貌を保持することに意を用いている。日本は現代的国家であるが、これ等の国宝級建築の周囲も、出来る限りある種の局部的に世に隔絶した環境を創り出していて、観る者に千年前の時代の雰囲気を暫し味わう機会を提供している。古建築保護と保護区の範囲を管理する方面については、日本は我々が学ぶ価値のある多くのものがある。
  これ等の古建築が人に与える第2の印象は、遺物が多くあり、時代が継っていることである。現存の飛鳥時代の遺物中、前後40年間(約672-706年)に6座の遺構がある。我が国の唐前半に相当する奈良時代の約70年間(710-788年)に、19座の遺構が保存されている。これ等の遺構を通して、この段階での日本建築の発展変遷の脈絡がはっきりと見て取れる。これ等の豊富な建築遺産は、日本の建築史家が入念に補修保護や大量の研究と広範な宣伝を進めてきた。およそ修繕を行うと、必ず修理工事報告書を作成し、その中に測量データや実測図、竣工図、修繕の詳細過程が入っている。精密測量の基礎の上に、日本の学者は、大量の研究論文と専門書を発表し、分野別に系統を掘り下げた研究を進めてきた。日本古代建築を成就させる為に、国内外の人士を共に賞し、さらには普及本から豪華本に至るまで異なるレベルの図録を出版している。これに対して、我々は日本の同業者にがこのような多くの古代遺物が研究に供されるのは羨ましくもあり、彼等の厳粛で真面目な研究姿勢と豊富な成果に対して敬服もする。
 但、中国の建築史研究者として、賞賛するに余り有るが、私は別の一面を考慮している。日本は古来中国と密接な交流があった。日本で曾て出土した漢委奴国金印は、遠く漢代に両国に連係があったことを証明している。南北朝時、日本は多くを朝鮮半島を仲介して、中国文化を輸入した。日本の学者の研究に依れば、日本の飛鳥式建築は百済を経由して伝入した中国南朝文化と仏教の影響の下に誕生した。隋煬帝の大業三年(607年)、日本は小野妹子を隋に派遣し、翌年隋は裴世清が答礼のため訪問した。唐朝建立後、関係は更に密接になる。太宗の貞観四年(630年)日本は第一次遣唐使を派遣し始めて、894年までに前後18次の遣唐使が派出され、大体唐王朝の始めから終わりまで往来した。中国の唐代文化と仏教は、この期間絶え間なく日本に伝頼した。日本の正倉院に所蔵する奈良時期の書跡と日本で作った器物はおよそ唐人の書法及び唐代の工芸品と異ならず、唐文化が日本に重要な影響を及ぼしたことを物語っている。仏教が唐より伝来し朝野の尊信を売るに従って、日本は大量の仏寺を建造し、唐風の建築は仏寺に従って大量に出現し、日本建築は飛鳥時代に比べ大きな変化をする。
 日本は唐代風格の建築を伝入した後ではあるが、自己の伝統文化と審美趣味を融合させ、絶え間なく創新し、段々と自己の発展の道を歩むが、ゆっくりした200年中、唐代建築も発展変化し、一度又一度と仏教が日本の唐代建築に新風を伝入するに従って、必然的にこの時期の日本建築中にも異なる段階層や異なるレベルの堆積と表現を形成した。
 我が国唐代建築は、今までに只4座の発見が有るだけで、数量は日本の25座とは比べられない。4座中、最早は山西省五台山の南禅寺大殿で、唐徳宗の建中三年(732年)、大体日本の奈良時代後期に相当し、25座中最晩期の数座がほぼ同時期となる。実物、特にかなり早いじきの実物が無く、我々の南北朝と唐前期建築の研究に大きな困難を造り出している。但、もし我々が日本の現存する飛鳥、奈良時代の遺構を分析探求するならば、その中に含まれている中国南北朝から唐代建築の特徴と規則を発掘して、中国国内の遺存実物が少ない欠落を補い、我々に対し、その時代の建築発展レベルの認識を充実させ、実際に莫大な助けをもたらすのである。
 以下は、日本飛鳥時代遺構(約672-706年の間)と奈良時代(約710-788年の間)を検討し、何が中国南北朝から唐代の建築の特徴に属すると出来るかを分析し試したものである。

飛鳥時代(約592-710年)
 6世紀後半、仏教が日本に伝入するに従って、中国形式の仏寺と造寺工匠も相次いで伝入した。592年、日本で初めて最早の仏寺法興寺、又の名を飛鳥寺が建てられた。中国南北朝風格の建築伝入は、日本建築に巨大な転変が起こした。日本史では、この時期を飛鳥時代と呼ぶ。
  現存の日本が持つ飛鳥時代風格の建築遺物は、奈良法隆寺西院と法起寺塔である。更に近代に毀去したが実測図が残る、大阪四天王寺と奈良法輪寺塔が研究の参考に利用出来る。
  これ等の建築は、統一した風格と共通の手法を持ち、例えば柱身が杼形で、柱頭の大斗の下に皿板があり、出跳の肘木が雲形肘木で、第1層の壁の通肘木上の斗を雲形に作り、通肘木上に積み重ねた柱頭の桁が井干(校倉)の様であったり、平座の中備えに叉手を用いる等等。これ等の特徴は、中国唐代の建築や唐代建築の影響を最も受けた奈良時代の建築に比べても更に古く、故に日本の学会は、飛鳥式建築は中国南北朝時代後期の建築特徴であると公認している。
  飛鳥時期の建築遺物は、日本の建築史家が精密な測量を行い、繰り返しして研究してきて、その特徴と以後の日本建築発展への影響をたくさん論述してきた。但、私は更にその内容に関して、中国南北朝後期の建築の特徴を反映させてみる。以下は、日本の既に公開された実測資料を利用して、試しに考えたものである。

一、法隆寺
  法隆寺は、607年聖徳太子の創建で、670年に毀れ、680年以後原位置の西北に再建され、710年頃完成、これが現在の法隆寺西院建築群で、金堂、五重塔、中門と回廊の4部分を包括する。再建と言っても、日本の学術界が胡人するようにその風格は飛鳥時代に属する。

1.金堂
 即ち仏殿である。西院の庭院中、東寄りにあり、西面が五重塔と並列になる。金堂は全木構造で、2層。下層は面幅5間、奥行き4間、内外槽に分かれ、外槽は回廊となり、内槽は仏像に供される。上層は面幅4間、奥行き3間で、下層とは別に1間を減じて、地下の柱は対応していない。上層は楼板が無く、登ることは出来ない(図一、二)。(注;図一は金堂外観写真なので略)
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  金堂の底層の寸法は、日本の曲尺で計り(1曲尺=0.30303m);
    1層面幅 7.12+10.68+10.68+10.68+7.12=46.26曲尺
    1層奥行 7.12+10.68+10.68+7.12=35.60曲尺
  上述の実測数値がすべて端数であり、金堂設計時この曲尺を単位としてはいない。日本の学者の繰り返しした研究で、現在公認しているのは、法隆寺金堂は当時日本で通用していた高麗尺を単位としてもちいて設計したとされる。1高麗尺=1.186曲尺=0.359m。これで計算すると;
    1層面幅 6+9+9+9+6=39高麗尺
    1層奥行 6+9+9+6=30高麗尺
  この寸法は整数で、金堂は確かに高麗尺を単位に設計したと証明出来る。但し、高麗尺換算は2層寸法時。又問題が発生し、全て端数寸法が表れる。
    面幅 5.25+8.60+8.60+5.25=27.7高麗尺
    奥行 5.25+8.26+5.25=18.76高麗尺
 上下層の寸法を結合して、日本の学者が繰り返し推算し、金堂の1,2層平面寸法はすべて0.75高麗尺の倍数である事を発見した。N=0.75高麗尺と置くと、則ち;
    1層面幅 8+12+12+12+8=52N
    1層奥行 8+12+12+8=10N
    2層面幅 7+11.5+11.5+11.5+7=37N
    2層奥行 7+11.5+11.5+7=25N
 N値を用いて金堂のその他の寸法を換算すると、更に発現出来、
    1層柱高=12.35曲尺 =10.41高麗尺 =13.88N ≅14N
    1層斗栱跳出=6.155曲尺 =5.19高麗尺 =6.92N ≅7N
    2層柱高=6.30曲尺 =5.31高麗尺 =7.08N ≅7N
この様に、金堂設計時駒尺を単位としてその0.75尺を以ってモジュールとした証拠とできる。
 以上が日本の学者が金堂の設計尺度とモジュールの分析結果である。
 但し、この0.75高麗尺のモジュールはどのようにして確定したのだろうか?我々も一歩探求する必要がある。
 法隆寺の属する飛鳥式は最も早く日本に伝入した中国建築様式で、中国南北朝の特性に属し、これより前の日本古墳時代の建築とは全く異なり、完全に別の体系である。常識的に推測すれば、日本に伝入した当初、日本で自ら発展させ創造した部分は恐らく少なくて、主要に中国の特性を反映しており、モジュール制のような類の、この体系の基本的な設計方法に関係のある方面では、特にそうで有ったはずである。中国の現存する唐代建築の遺物の研究に拠れば、我々が了解するのは、唐代に既にかなり詳細な“以材為祖”のモジュール制設計方法が出現していたことである。そして甘粛省天水の麦積山石窟や山西省太原の天龍山石窟、河北邯鄲の響堂山石窟中に彫られた北朝建築の形象を看ると、それらの斗栱や桁は非常に規格化され、唐代までの成熟は無いけれども、既に“以材為祖”の特徴は明確に表現されており、これにより、我々は先ず材を用いた方法で探索を試してみよう。
 日本で発表された《国宝法隆寺金堂修理工事報告書》中、大量の測量データが公布されている。その中に金堂下層の通肘木の断面(泥道栱を指す、雲形肘木ではない)は、最大で0.71X0.89曲尺、換算して0.599X0.750高麗尺は、木材の千余年来の変形を考慮すると、0.6X0.75高麗尺のことで、その断面の成と幅の比は5:4になる。この0.75高麗尺が則ち中国建築中の“材高”で、これこそ法隆寺金堂が実際上材高をもって、モジュールとして設計を進めたからなのである。

参考;
《ものさし》 小泉 袈裟勝著 法政大学出版局 1977
《まぼろしの古代尺》 新井 宏著 吉川弘文館 1993
《法隆寺の物差しは中国南朝尺の「材と分」》川端俊一郎 計量史研究27-1 2005

  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”

  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服


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# by songofta | 2017-04-28 15:54 | 古建築

目次6 5-8世紀漢地佛像着衣法式

目次6 5-8世紀佛像の衣服


【5-8世紀漢地佛像着衣法式】 陳悦新著

著者は、1964年寧夏自治区銀山市生まれ。北京大学考古学系、歴史学博士。寧夏博物館、寧夏文物局、北京履行大学を経て、現在北京総合大学応用文理学院在職。

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 5-8世紀も北魏・南梁から唐にかけての時代、佛衣は中国化して日本に伝来した。飛鳥から奈良時代の佛像がどのルートで日本に伝来したのかを知る手懸りとして、中国の様式を具体的に知る事のできる資料と思うが、翻訳されそうにも無いので、拙訳を試みた。参考になれば幸いである。

第一章 佛と僧の着衣法式
 第一節 文献記載の佛衣と僧衣
   184 印度の佛衣と僧衣(1)
   185 印度の佛衣と僧衣(2)
   186 中国の佛衣と僧衣(3)
 第二節 遺跡に反映した佛衣と僧衣
   187 遺跡に反映した佛衣と僧衣(1)
   188 遺跡に反映した佛衣と僧衣(2)
第二章 南方地区の佛像着衣
   189 栖霞山石窟の南朝佛衣類型
   190 栖霞山石窟南朝佛衣の源流
   191 成都地区南朝佛衣類型
   192 成都地区南朝佛衣の時代区分
   193 普陀山背光式造像の着衣
第三章 山東地区の仏像着衣 
   194 青州地区北朝佛衣類型
   195 青州地区北朝佛衣の源流
   196 山東地区の隋唐佛衣
第四章 中原地区の佛衣と僧衣
   197 雲崗石窟の北魏佛衣
   198 雲崗石窟の匂聯紋(1)
   199 雲崗石窟の匂聯紋(2)
   200 龍門石窟の北魏佛衣
   201 巩県石窟の北魏佛衣
   202 天龍山石窟の東魏佛衣
   203 響堂山石窟の北朝佛衣
   204 雲崗3窟の着衣
第五章 西部地区の佛衣と僧衣
   205 麦積山北朝窟龕(1)
   206 麦積山北朝窟龕(2)
   207 麦積山北朝窟龕(3)
   208 麦積山北朝窟龕(4)
   209 金塔寺石窟佛像着衣
   210 莫高窟北朝佛像の着衣(1)
   211 莫高窟北朝佛像の着衣(2)
   212 須弥山石窟の北朝~唐代の佛衣
   213 隴東地区の北魏晩期着衣
   214 炳霊寺石窟の北魏晩期着衣
   215 西安地区立佛の佛衣
第六章 漢地佛衣の源流考
   216 南北朝早期佛衣の源流
   217 北朝から唐代の佛衣変遷(1)
   218 北朝から唐代の佛衣変遷(2)
   219 漢地佛衣の時空序列
                 【完】



     ⇒ 総目次 
     ⇒ 目次1 日本じゃ無名? の巻
     ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻

     ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
     ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
     ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
     ⇒ 目次7  中国の古建築技法”以材為祖”


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# by songofta | 2017-04-25 19:53 | 旅と地域

総目次

総目次

中国を歩いてみると、日本には随分沢山のものが中国からやってきたのだと実感します。更に注意して歩くと、中国ではありふれているのに、レンガ造のように、日本には無いものもある。書などはストレートに受け入れ、建築はかなり独自の発達をしている。同じようなことが、北方騎馬民族の漢族文化の受容にも、垣間見えるのです。   
 北方騎馬民族とは、鮮卑族(北魏・隋・唐)、突厥族(五代)、契丹族(遼)、女真族(金・清)、蒙古族(元)など、日本の歴史教科書では、単語が出てくるのみで実態がありませんが、中華文明との関わりを振り払ってみれば、日本と随分近い集団に見えてきます。
 かつての日本人が、何を受容し、何を受容しなかったのか、中国をみると「日本とは」が、もっと良く見えてきます。共産党政府は鬱陶しいですが、国民は基本的には善人です。マスコミ報道にめげずに、一度出かけてみては、、、 

第一部 日本じゃ無名?の巻 ⇒ 目次1
 日本では、余り聞かないとか、教科書では言葉だけ登場と行った所は沢山あります。中国で検索すると面白そうなので、行ってみた所の紹介です。
 中国の古塔探しから、古建築探し、仏像探しと広がっていったので、かなりの偏りと独断がありますが、どれも一級の文物と思います。


第二部 中国に有って、日本に無いもの          ~ 知っていたら教えての巻 ⇒ 目次2
第三部 日本に有って、中国に無いもの          ~ 渡来品ってホントの巻  ⇒ 目次2


あれこれ見てきた結果、中国では有りふれているのに、日本では見かけないものがある。素材や技術、嗜好から、日本人が採用しなかった物のまとめ。
 中国や古代朝鮮から伝わったと教科書で教わったけれども、本当にそうなの???という疑問が消せない品々。もともと日本に有ったのでなければ、何故、中国で見当たらないのだろうか?三角縁神獣鏡ではないけれども、中国になければ、日本で創ったというのが合理的でしょのいくつか。

番外編  その他 行ってみればの巻 ⇒ 目次3

 全国的には有名でなくても、上海近辺で結構楽しめる所、少しマニアックな所の紹介、、のつもりが、余談も含めて、あちこちの博物館もついでに紹介してしまうことに。
 多分ツアーでは行けないのではないかとか、仏教遺跡でこれは是非というところも含めて、洗いざらい。

義縣奉国寺(抜粋)1 中国の修理工事報告書 ⇒ 目次4
 「義縣奉国寺(上)(下)」は、遼寧省文物保護中心が発行した報告書で、詳細な図面と写真と経過が記述され、日本で言えば、県教育委員会などが発行する修理工事報告書に当たる。
 大雄殿そのものや脇侍菩薩についても詳しく解説してあり、日本で詳しく紹介されることも無いので、僭越ではあるが、翻訳して紹介したい。 
 読んで行くと、中国の文献では、唐宋遼金元代の建築については、《営造法式》を基準に論を進める事がお約束のようになっており、我が国建築への中国の影響についても、もっと研究の必要があるのではないだろうか。

日本と中国 あれこれ思うこと   ⇒ 目次5
 中国からたくさんの文化が輸入されたが、全部を吸収出来なかったのか、はたまた、旧来の方法で済むと考えたのか。細部をみると、異なる所も沢山あるのは、なぜなのか。戦前の学者の論は、現地現物からくる実証的でなるほどと思う所が多い。それやこれやを、徒然なるままに......。

5-8世紀漢地佛像着衣法式(翻訳)  ⇒ 目次6
 5-8世紀も北魏・南梁から唐にかけての時代、佛衣は中国化して日本に伝来した。飛鳥から奈良時代の佛像がどのルートで日本に伝来したのかを知る手懸りとして、中国の様式を具体的に知る事のできる資料と思うが、翻訳されそうにも無いので、拙訳を試みた。参考になれば幸いだが...

中国の古建築技法”以材為祖”(翻訳)  ⇒ 目次7
 飛鳥奈良の古建築の設計をたどるには、ものさしも大事だが、設計技法も踏まえる必要があるのではないか。中国南北朝の設計技法を、「中国古建築史」から抜粋して、紹介したいが、先ず、傳熹年 《日本飛鳥奈良時期建築中反映出的中国南北朝隋唐建築特点》を先に、翻訳紹介する。”材”とは、モジュールの単位であるが、日本の古建築を理解するのにも重要と思う。 






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# by songofta | 2017-04-25 19:46 | 旅と地域

219 漢地佛衣の時空序列

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第三節 漢地佛衣類型の時空序列
 印度と漢地の佛衣は、三衣の層の分け方で上衣外覆類と中衣外露類の2系統に分かれる。上衣外覆類は、上衣の覆う形式で、通肩式、袒右式、覆肩袒右式、搭肘式と露胸通肩式の5種に分かれる。」;中衣外露類は又、上衣tp中衣の覆う形式で上衣搭肘式上衣重層式と中衣搭肘式の3種に別れる。

1.通肩式佛衣
 上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角が頚の下を巻いて左肩に掛かる。源は印度で、2世紀にガンダーラの影響を受けたマトーラの佛衣である。漢地の最早は、四川が中心である後漢~蜀漢の墓葬中の佛衣である;やや遅れて東呉~西晋期の長江下流地区の堆塑缶(※注1)の佛衣;後趙建武二年(336)金銅像の佛衣;北涼石塔上の佛衣;斉梁期の建康栖霞山石窟26窟佛衣;唐代の両京地区の流行、耀県薬王山12龕及び龍門二蓮花洞南洞の佛衣(図6-3-1)。
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   (※注1)堆塑缶;西晋期に流行した墓葬品で、頂部に人や鳥獣、楼閣などを造る。
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             ( 堆塑缶 百度百科より )

2.袒右式佛衣
 上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角が右脇下を巻いて左肩に掛かる。印度を源にし、2世紀初のマトーラ辺に起源を持つ佛衣。漢地で見るのは酒泉の北涼承陽二年(426)馬徳恵塔佛衣;唐代の両京地区の西安宝慶寺石彫像や龍門高平郡王窟の佛衣(図6-3-2)。
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3.覆肩袒右式佛衣
 上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角が右脇下を巻いて左肩に掛かる。右衣の角は右脇下方を巻いて左肩に掛かり、右胸と右臂を露出する。例えば、北涼の縁禾四年(435)索阿后塔佛衣;北魏雲崗曇曜五窟中の20窟佛衣(図6-2-3)。
4.搭肘式佛衣
 上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角が右臂下方を巻いて左肘に掛かる。例えば、紀年が最早の炳霊寺169窟西晋建康元年(420)第6号塑像の佛衣及び酒泉北涼縁禾三年(434)白双且塔の佛衣(図6-3-4)。
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5.露胸通肩式佛衣
 上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角が左肩に掛かる;頚下の衣の縁が”U”字に垂れて胸部に至る。栖霞山石窟第22窟佛衣等(図6-3-5)。
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6.上衣搭肘式佛衣
 上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角が右脇下を巻くか胸腹の前より横に通り左肘に掛かる;中衣露胸通肩或は上衣が覆う形式と相似である。例えば、栖霞山石窟24窟佛衣;四川茂汶永明元年造像碑;成都西安路出土の永明八年(490)石造像;北魏の洛陽遷都(494)前後に流行の雲崗6窟佛衣(図6-3-6)。
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7.上衣重層式佛衣
 上衣搭肘式の外面に更に1重の上衣を増やしたもの。例えば、北魏の洛陽龍門石窟の賓陽中洞と巩県1窟の佛衣(図6-3-7)。
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8.中衣搭肘式佛衣
 中衣が背中より両肩を覆い、右衣の角は垂れて右肘に掛かる;上衣は背中より両肩或は左肩を僅かに覆い、右衣の角は左肘或は左肩に掛かる。栖霞山18窟正壁右側佛衣に初めて見える;北魏520年前後制作の永寧寺彩色塑像にこの種の佛衣がある;その盛行は東魏北斉の邺城で、例えば、北響堂北洞佛衣、南響堂1窟佛衣;唐代流行は両京地区で、彬県大佛寺大佛洞の佛衣、龍門賓陽南洞の佛衣(図6-3-8)。
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 ここで、上述の漢地の2類の佛衣類型をまとめたものが、表6-3-1で、唐開元以前の漢地佛衣変遷の時間序列と空間序列を簡便に見られる様にした。
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 表6-3-1は、唐開元以前の漢地佛衣の変遷を反映して、3つの段階がある。
第一段階: およそ3世紀、漢地に佛衣が出現する。四川が中心で、後漢~蜀漢の墓葬中の通肩式佛衣で、主要には印度ガンジス河流域のマトーラ佛衣の影響を受けている。
第二段階: およそ3~5世紀末葉、漢地の佛衣は南北に分かれる。南方は、だいたい東呉~西晋時期に始まり、長江下流地区の堆塑缶上の通肩式佛衣で、晋と宋の間、戴逵と戴顒父子が仏像を善く造り、その時、漢地風格の仏像が已に有ったこと傍証がある。北方は、だいたい十六国時期に始まり、通肩式佛衣を除き、袒右式や覆肩袒右式と搭肘式佛衣が涼州地区で初めて見られる。この段階の漢地南北の佛衣変化は、文化要素を除き、佛衣の裾端が座を覆う情況で、漢地の:機構が寒冷であることと関係があるかも知れない。
第三段階: 約5世紀末葉から8世紀初葉、2つの時期に分けられる。5世紀末から6世紀まで、漢地佛衣の発展は、亦南北に分かれる。南朝小生の通肩式と露胸通肩式佛衣は、北朝後期の北響堂や麦積山、須弥山等の石窟で流行する。北朝の北魏洛陽遷都(494)から北斉(550-577)流行の上衣搭肘式、上衣重層式と中衣搭肘式佛衣は、南朝の影響を受けたかも知れない。その内、中衣搭肘式佛衣は、その上衣の覆う形式の最終の様式が右衣の角は左肩に掛かるものとなり、印度の肩に掛かる伝統を保持し、この種の様式が確定され、これは東魏北斉の昭玄大統法の僧服改制と関係があるかも知れない。
 7世紀に至りまで、頻繁に変化下佛衣類型は、だいたい中衣搭肘式佛衣と通肩式、袒右式を両京地区が選択踏襲することで、全国に影響していった。
                                   ( 完 )


  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
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218 北朝から唐代の佛衣変遷(2)

5-8世紀漢地佛像着衣法式


二 雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の北朝佛衣の源流探求
(一) 雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の北朝佛衣の来源
1.通肩式佛衣
通肩式佛衣は印度を源とする。雲崗一期の通肩式佛衣の上には衣に襞状の突起と、相互に噛み合う匂聯紋がある(図6-2-1:1)、これは印度や中央アジアの佛像にはめったに見られない。この種の匂聯紋は、現在最早の紀年が持つのは太平真君四年(443)高陽(今の河南省博野県)の菀申造像である(図6-2-9:1)。これは雲崗一期の通肩式佛衣が直接のシルクロード東伝を除き、或は今の河北地区の影響も有ることを表明しているのかも知れない。
 響堂山石窟の東魏北斉に出現する通肩式佛衣(図6-2-1:2,3)は、南朝建康に源、例えば栖霞山石窟千佛岩区26窟の佛衣(図6-2-9:2)にあるかも知れない。栖霞山梁中大通二年(530)の28窟佛衣の裾端は座を覆わず、平らに座に敷く特徴があり、亦東魏北斉の通肩式佛衣の裾端として採用される形式となる。
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2.覆肩袒右式佛衣
 雲崗一期の覆肩袒右式佛衣の上には、匂聯紋様を装飾し(図6-2-2:1)、佛衣のこの種の覆う形式と衣紋様式は一体に集まり、凡そこれこそが涼州と河北地区の佛衣の特徴の結合した産物である。覆肩袒右式佛衣の最早は、西晋と北涼地区に見られ、例えば炳霊寺の西晋約420年の169窟9号塑像及び北涼縁禾四年(435)索阿后塔塑像(図6-2-10:1,2)の佛衣がある。匂聯紋の最早は上述の菀申造像である。北魏が、平城に都を建て始めた年から、民衆を移住させて平城とその周辺に集中し、移住させられた地点は、太行山脈東の六州や関中の長安、河西の涼州、東北と隴州及び東方の青州等で、又それは当時北中国の経済文化野発達した地区でもあった。雲崗一期石窟の開鑿は、東西各方面の技術を融合したものであり、新しい石窟のモデルを創出したと言って良い。第一期石窟を主導した高僧曇曜は、同時にまた涼州と河北地区での活動経歴がある。これにより、覆肩袒右式佛衣上の匂聯紋装飾の雲崗での出現は、一定の合理性がある。
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3.上衣搭肘式佛衣
 雲崗二期太和改制以後流行の上衣搭肘式佛衣(図6-2-3:1,2)は、現在ある材料ではまだその来源を確実にしることは出来ない。四川茂県汶南の斉永明元年(483)造像碑の正面と裏面には一坐一律物があり、皆上衣搭肘式佛衣を覆っている(図6-2-11:1,2)、それと雲崗のこの類の佛衣は同一の一来源の影響を受けたものである。浙江省普陀山法雨寺に原存した一佛に菩薩背光式三尊玉像は、佛衣が上衣搭肘式 (図6-2-11:3)で、背光の形制や題材、造像の特徴、紋飾等から総合的に考慮して、その次代は大体斉梁の境と判断される。普陀山は建康のあった揚州の範囲内で、以上の情況を基にすると、或は雲崗と茂汶の上衣搭肘式佛衣は建康と関係があるかも知れない。
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 南朝の佛衣類型は、更に前・後秦時期の長安地区まで遡ることが出来、その時の長安は佛教の中心で、佛法は南北に遍く影響を及ぼした。前・後秦時期の高僧道安は長安に7年(379-385)安住し、鳩摩羅什は長安に13年(401-413)在住し、彼等は極力訳経を奨励したことで、長安は佛理を学ぶ沙門が群れをなして集まり、佛法が興盛した。北魏文成帝の文明皇后馮氏の本籍は長楽郡信都で、父の馮朗は北燕の滅亡前に北魏に入り、秦雍二州の刺史で、馮氏と其の兄馮煕を長安で生んだ。馮氏は佛教を尊奉し、“文宣王廟を長安に建て、又思燕佛図を龍城に建てる”。“太和三年(479)、道人・・・・謀反、事が発覚・・・・偽咸陽王が道人を尽く殺そうとしたが、太后馮氏は許さず”。馮煕は又“佛法を信じ、家財を寄進し、諸州に佛図精舎を建てる”。
 弘治十五年(413)、鳩摩羅什が長安で亡くなり、その四年後、劉裕が入関(注、中原に進出)し(417)、翌年(418)赫連勃勃が長安を陥落させた。この前後に、西秦と後魏の争いがあり、関内は兵禍が頻繁で、名僧は四散し、江南淮南に南遊し、学術は転出して、段々と建康の佛学発展の基礎となっていった。このような歴史野背景を根拠とすると、長安は建康の源頭となるかも知れない。

4.上衣重層式佛衣
 龍門、巩県石窟の胡太后期に流行した上衣重層式佛衣(図6-2-4:1,2)は、成都万佛寺の梁代造像の上衣重層式佛衣(図6-2-12)と相似で、成都佛像様式は長江下流の建康を真似たのかも知れず、この推論からは、龍門、巩県の上衣重層式佛衣形式は南朝と関係があるかも知れない。
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5.中衣搭肘式佛衣
 雲崗三期出現の中衣搭肘式佛衣は、栖霞山南朝佛衣の特徴で、例えば栖霞山18窟佛衣の中衣の右衣の角は右肘に掛かり上衣の上部は残ると言っても、右衣の角は右脇下を巻いて左肘に掛かる(図6-2-13:1)。
 響堂山石窟の東魏・北斉期に流行の中衣搭肘式佛衣(図6-2-5:1,2)は、その上衣の右衣の角は左肩に掛かる形式である。この種の、中衣が右肘に掛かり上衣が左肩に掛かる新式の佛衣出現の時期は、東魏・北斉より早いかも知れない。
 参考に、洛陽永寧寺出土の2つの彩色塑像左右側半身像(図6-2-13:2,3)は、北魏で已に新式の佛衣様式が出現したことを推測させる。彩色塑像(T1:2,3)右半身と言っても、上衣は右肩臂に沿って脇の下に至り、左側の右衣の角は左肘に掛かることも可能だし左肩に掛かることも可能である;彩色塑像(T1:2385)は左側半身と言っても、上衣の右衣の角は左肩に掛かり、佛衣類型の分析から、中衣は右肘に掛かって、上衣は左肩に掛かるかも知れず、栖霞山18窟の佛衣とは異なる。神亀二年(519)八月”霊太后永寧寺に御幸し、自ら9層の佛図(注、九重塔の意)に登る。(崔)光は諫言して述べるに・・・・・未だ像が完成していないとは言っても、已に神明の居る所になって居ります”、これで塑像の完成時期は519年の後と知ることが出来、正光元年(520)秋7月、胡太后は殺害された。故に永寧寺塔の塑像の時期は大体519年8月から520年7月の間となる。
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(二)  雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の北朝佛衣の西方からの影響
 平城、洛陽、邺城の相対的な地理上の位置は、甘寧地区(注;甘寧は甘粛省と寧夏自治区、西安の西北方)の西部に属する。北朝の甘寧地区に流行の佛衣類型は、主要に覆肩袒右式、上衣搭肘式と中衣搭肘式等の3種である。
 匂聯紋装飾の覆肩袒右式佛衣は、北魏麦積山78窟と莫高窟272窟等(図6-2-14)に見られる。上衣搭肘式佛衣は、麦積山の北魏・西魏時期の92,44窟等、須弥山北魏24窟等、莫高窟北周時期428窟等(図6-2-15)に見られる。中衣搭肘式佛衣は麦積山北周時期の62窟及び莫高窟隋代427窟等(図6-2-16)である。甘寧地区の上述の3種の佛衣類型は、雲崗や龍門、響堂山石窟にも直接か間接の影響を受けたかも知れない。
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三 龍門石窟の唐代佛衣の源流探求
 隋文帝期と唐初の諸帝期は、多くが長安に住み、重要な佛教構築物は主要に長安地区に集中する。長安地区野佛衣類型は主要に中衣搭肘式と通肩式の2種で、例えば隋仁寿二年(602)六月五日の前頃に完工した麟遊慈善寺1窟は、正壁の主尊が中衣搭肘式佛衣(図6-2-17:1);完工年代が高宗永徽四年(653)より晩くない麟遊慈善寺2窟右壁大龕で、龕内の大像は通肩式佛衣である(図6-2-17:2)。
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 龍門石窟の唐代中衣搭肘式と通肩式佛衣は、やや長安より晩く、例えば、貞観十年(636)より晩く顕慶五年(660)より早い頃の賓陽南洞正壁の5身大像は、主尊は中衣搭肘式佛衣(図6-2-8:1);天授元年(690)頃開鑿の高平郡王洞の佛像は通肩式佛衣(図6-2-6:1)で、それは長安地区の影響を受けていると見るべきである。
 龍門石窟に新出現の袒右式佛衣のうち、一種は、優填王造像(図6-2-7:1)で、佛衣は薄く体に貼り付き、素のままで紋様が無く、グプタ芸術の造像風格が相似で、青州で北斉時期流行の薄い質料の佛衣の延長かも知れないし、玄奘や王玄策等が印度から携えて帰った梵天に関係があるかも知れない。もう一種は瓔珞と臂釧の佛像(図6-2-7:2)で、亦都の長安と密接な関係があり、武則天長安三年(703)に完成した長安光宅寺七宝台の、残存石彫佛像に多くこの種の佛衣が見られる。

 唐代の両京地区に集まった中衣搭肘式、通肩式と袒右式の3種の佛衣はモデルと成って、広範に西部の甘寧地区と南方地区に影響した。
 甘寧地区の中衣搭肘式佛衣は、例えば須弥山石窟105窟と莫高窟283窟等(図6-2-18:1,2);南方地区の中衣搭肘式佛衣は、例えば四川広元石窟千佛崖806窟の釈迦多宝佛窟、千佛崖211号蘇頲窟と南京栖霞山千佛岩区1窟等(図6-2-18:3~5)。
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 甘寧地区の通肩式佛衣は、例えば須弥山石窟54窟と莫高窟44窟等(図6-2-19:1,2)。南方地区の通肩式佛衣は、四川広元石窟千佛崖806号釈迦多宝佛と栖霞山石窟千佛岩区3窟等(図6-2-19:3,4)。
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 袒右式佛衣は主要には南方地区に見られ、四川広元石窟535号蓮花洞窟の佛衣等(図6-2-20)。
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 雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の北朝と唐代の佛衣類型の変遷は、異なる地域から出来した佛衣が5-8世紀の本土化の劇烈な変革を反映し、唐代に至って基本的に融合発展の家庭を完成し、大体3種の様式が確定する。その内、中衣搭肘式佛衣は印度には無く、通肩式と袒右式佛衣は印度の伝統と相似と言えども、佛衣の裾端の形式及び衣紋等の内容は却っていんどの佛衣とは雲泥の差がある。


次回は、漢地佛衣の時空序列(最終回)




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# by songofta | 2017-03-20 12:12 | 旅と地域

217 北朝から唐代の佛衣変遷(1)

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第二節 北朝から唐代の佛衣変遷の脈絡
雲崗、龍門、巩県、響堂山等の4ヶ所の石窟は、北魏から唐代までの政治文化の中心区域内で、前後が結びついて発展の脈絡がはっきりし、当時の社会政治文化の変遷の背景と一致する。系統がこの4ヶ所の石窟の佛衣類型を明らかにし、分裂時期の南北と東西間の影響と影響を被った関係、及び唐代統一国家中央が地方の形勢に与えた影響の認識を一歩すすめる助けとなる。
 雲崗石窟は、山西省大同旧城の西15kmの十里河(武州川)北岸の山崖面に位置し、東西に連続して1km。洞窟の大部分の雕鑿は北魏中後期である。一般に三期に分ける。第一期(460-470)は、曇曜が取り仕切った5座窟で、石窟群の中部西側の第16~20窟である。第二期(471-494)窟室は、主として石窟群の中部東側に開鑿され、第7、8双窟、第9,10双窟、第1,2双窟、第11~13組窟と第5、6双窟と更に第3窟等がある。第三期(494-524)は多くが中小型の窟室で、主に第20窟以西の崖面に集中する;この外、沢山の第一・二期開鑿の窟室内や窟口両側と窟外崖面にもおおくの第三期補鑿の小窟龕がある。

 龍門石窟は、河南省洛陽師の南12kmの龍門山麓に位置し、前は伊水の河原で、その地の東北に後漢より北魏までの洛陽故城が20kmの距離に在る。洞窟の開鑿は北魏後期と唐の開元(713)以前が主である。北魏の洞窟は西山に集中し、主要な洞窟は23座で、3段階に分かれ、孝文・宣武帝期が第一段階(494-515)で、古陽洞、蓮花洞、賓陽中洞等がある。胡太后期が第二段階(516-528)で、魏字洞、普泰洞、皇甫公窟等がある。孝明帝以降北魏末期が第三段階(528-534)で、有路洞、汴州洞等である。唐窟は主要に35座で、8世紀以前の洞窟は多くが西山に分布し、賓陽南洞、潜渓寺、奉先寺、万佛洞等;8世紀以後の洞窟は多くが東山に分布し、擂鼓台三洞、高平郡王洞、二蓮花洞等である。

 巩県石窟は、河南省巩県の東北7.5kmの洛水北岸の大力山南麓に位置し、西に漢魏故城が44kmの距離にある。現存する北魏後期開鑿の洞窟は5座で、胡太后期に集中する。

 響堂山石窟は、東魏北斉の邺城(今の河南省臨漳県)の西訳30kmに在る鼓山に位置し、3ヶ所の石窟寺を包括する。南響堂は鼓山南麓、北響堂は西麓にある。水浴寺は鼓山の東斜面にあり、北響堂と山を隔てて相対し、俗称”小響堂”と言う。北響堂は主要に北洞、中洞、南洞の3ヶ大窟で、南響堂は主要な洞窟編号で7ヶ所、水浴寺は主要に西窟がある。3ヶ所の石窟は皆東魏・北斉期(534-576)に開鑿された。

一 雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の佛衣類型
1.北朝佛衣類型
 雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の北朝佛衣類型は、主要に通肩式、覆肩袒右式、上衣搭肘式、上衣重層式と中衣搭肘式の5種類型がある。
 通肩式: 上衣は背中より両肩を覆い、右衣の角は頚を巻いて左肩に掛かる。雲崗20窟、北響堂北洞、中洞の佛衣等(図6-2-1)。
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 覆肩袒右式: 上衣は背中より両肩を覆い、右衣の角が右脇下方を巻いて左肩に掛かり、右胸と右臂を露出する。雲崗20窟、龍門古陽洞太和二十二年(498)慧成龕佛衣等(図6-2-2)。
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 上衣搭肘式: 上衣は背中より両肩を覆い、右衣の角は胸腹前を巻いて左肘に向かう;中衣と上衣の覆う形式は相似で、胸前は長く垂れ中衣の帯で繋いで締める。雲崗太和十二年(489)11:14龕、6窟、龍門孝文宣武帝期の古陽洞正壁、胡太后期の龍門賓陽中洞佛衣等(図6-2-3)。
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 上衣重層式: 上衣搭肘式佛衣の外層に、更にもう1層の上衣を重ね、右腿部の外は花弁状の紋飾を呈する。重層上衣は或いは右肩を覆い、右衣の角が右脇下を巻いて左肘に掛かる;或いは両肩を覆い、右衣の角が右脇下を巻いて左肘に掛かる。龍門賓陽中洞、巩県1窟佛衣等(図6-2-4)。
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 中衣搭肘式: 中衣は背中より肩を覆い、右衣の角は直接垂れて右肘に掛かる;上衣は両肩を覆うか左型を覆い、右衣の角は右脇下を巻いて左肘か左肩に掛かる様式。雲崗第5窟外右側の補鑿編号5:11窟の佛衣、北響堂北洞、南響堂1窟佛衣等(図6-2-5)。
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2.唐代佛衣類型
 唐代佛衣類型は龍門石窟が主で、主要には通肩式、袒右式と中衣搭肘式の3種の類型である。
 通肩式: 北朝の覆う形式と相似だが、衣紋がかなり疎らである。龍門高平郡王洞、二蓮花洞佛衣等(図6-2-6:1,2)。
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 袒右式: 上衣は背中より左肩を覆い、右衣の角は右脇下を巻いて左肩に掛かる。龍門永徽六年(655)二尤填王洞、高平郡王洞佛衣等(図6-2-7:1,2)。
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 中衣搭肘式: 覆う形式は北朝と相似し、一般に上衣の右衣の角は右脇下より巻いて左肩に掛かる。龍門賓陽南洞、潜渓寺佛衣等(図6-2-8:1,2)。
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 これまでの洞窟の時期区分の成果を参照すると、雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の北朝と唐代の佛衣類型と時期の関係は、表6-2-1の様になる。
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 表6-2-1から見出だせるのは、雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の北朝と唐代の佛衣類型は5つの発展段階に分けられることである。
第一段階は、北魏和平初年(460)から太和改制(486-494)前。雲崗は通肩式と覆肩袒右式佛衣が主である。
第二段階は、北魏太和改制(486-494)後から宣武帝末(515)。雲崗、龍門は上衣搭肘式佛衣が流行し、覆肩袒右式佛衣は少量が延続する。
第三段階は、北魏胡太后時期(516-528)。龍門、巩県石窟は上衣重層式佛衣が流行、上衣搭肘式佛衣は依然として延続。
第四段階は、東魏北斉時期(534-576)。響堂山石窟に中衣搭肘式佛衣が流行中で、通肩式佛衣が再度出現。
第五段階は、唐代開元以前(618-713)。龍門石窟に中衣搭肘式と通肩式佛衣が流行中で、袒右式佛衣が出現する。


次回は、北朝から唐代の佛衣変遷(2)



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216 南北朝早期佛衣の源流

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第六章 漢地佛衣の源流考

第一節 南北朝早期の佛衣類型の探求
 
 南北朝時期、北朝早期文化の中心は平城(今の大同)にあり、南朝の文化の中心は長江の下流建康(今の南京)が主で、この他長江の上流の蜀では四川省成都が重要な中心の一つであった。平城に在る最も重要な佛教遺跡は雲崗石窟で、建康は栖霞山石窟が主であり、成都地区は多くの出土石刻造像があり、本論文ではこの3ヶ所の文化中心の石窟寺と石刻造像を基に、佛衣様式の可能な来現を探求する。
 以下、主要な論点は、雲崗石窟の覆肩袒右式と通肩式佛衣、及び栖霞山石窟と成都石刻造像の上衣搭肘式佛衣様式の源頭である。

一 南北朝早期の文化中心の佛衣類型
 雲崗石窟の営造は和平初年(460)に始まり、沙門統の曇曜が文成帝に出した上奏の、洞窟5ヶ所の開設からである。《魏書・釈老師》に記録された鑿窟開始時の情況は、和平初(460)“曇曜が帝に申して、都の西武州の隘路に、山の石壁を鑿し、5ヶ所の窟を開き、佛像各一を彫り、高さは70尺、次は60尺、雕飾は奇偉、一世に冠たり”。この最初の五窟は今の雲崗石窟16~20窟に相当し、五窟の開鑿の下限は献文帝末年(470)と推定される。五窟中、第16窟の主像の工程が施されたのは、都が洛陽に遷都前後にやっと竣工したのを除けば、他の四窟は基本的に皆開鑿時の計画に従って完成しているので、ここでは第17~20窟の覆肩袒右式と通肩式の2種の佛衣だけを分析する。覆肩袒右式佛衣とは、上衣が両肩を覆い、右衣の角は右脇の下方を巻いて左肩にかかる、第19,20、18窟正壁の佛衣のようなものを指す(図6-1-1:1~3)。通肩式佛衣は、上衣が両肩を覆い、右衣の角が頚を巻いて左肩にかかる、第20窟左壁、18窟右壁、17窟左右壁の佛衣を指す(図6-1-1:4~7)。
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 栖霞山石窟は開鑿が永明二年(484)に始まって以来の5世紀末である。第24窟では上衣搭肘式佛衣が見ることができ、上衣は背中より両肩を覆い、右衣の角は右脇下より巻いて左肘に掛かる;中衣は露胸通肩で覆う(図6-1-2)。
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 成都地区及びその付近で出土した簫斉時期造像は、例えば茂県永明元年(483)造像碑や、西安路永明八年(490)造像及び商業街建武二年(495)造像は、その上衣搭肘式の形式が栖霞山第24窟とやや異なる。上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角は衣が腹部を横に通って左肘に掛かる;中衣は上衣と覆う形式が一致する(図6-1-3)。
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二 南北朝早期の佛衣類型と西晋、北涼の関係
 上に述べた南北朝仏教遺跡の佛衣内容より早いものが、現在の西北地区西秦石窟と北涼石塔中の佛像に保存されている。
 炳霊寺石窟は甘粛省永靖県西南40kmの黄河北岸の小積石山に在る。その中の第169窟は開鑿が西秦時期で、壁画と塑像の完成は主要には412~420年前後である。窟内に見える壁画と塑像中の佛衣類型は、通肩式と覆肩袒右式と搭肘式の3種を含む。通肩式佛衣は東壁壁画B15と塑像S7(図6-1-4:1,2)。覆肩袒右式佛衣は東壁壁画B12と塑像S9(図6-1-4:3,4)。搭肘式佛衣は、上衣が背中から両肩を覆い、右衣の角は右脇下方を巻いて左肘に掛かる、北壁無量寿佛龕中の塑像S6(図6-1-4:5)に見られ、無量寿佛龕北側に墨書で“建弘元年(420)”の題記がある。
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 以上3種の佛衣中、通肩式佛衣の源は印度にあり、その特徴は右衣の角が肩に掛かることで、義浄の《南海寄帰内法伝》に言う印度法衣は、“衣の右角は寛く左肩に掛かり、背中に垂れ、肘の上で留めることは無い”。覆肩袒右式佛衣も亦右衣の角は左肩に掛かり、その覆う形式について、その印度の性質が未だ変化しておらず、印度の袒右式佛衣から広まったけれども、右肩部を覆う事によって、一種の漢化した表現としたものなのである。搭肘式佛衣は即ち印度の佛衣を改変し、肩に掛かって覆う性質を、漢化程度の高いものにしたものなのである。
 北涼石塔上の、佛衣も通肩式、覆肩袒右式と搭肘式の3種で、例として酒泉市発見の承玄元年(428)高善穆塔(現在甘粛省博物館蔵)、縁禾三年(434)白双且塔(現在国家博物館蔵)、敦煌発見の縁禾四年(435)索阿后塔(現在米国クリーブランド芸術博物館蔵)(図6-1-5)があり、その中の搭肘式は炳霊寺S6塑像と少し異なり、右衣の角が右脇下方を巻いて禅定印の手部に掛かる。
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 雲崗の覆肩袒右式と通肩式は西秦と北涼に遡れる。栖霞山第24窟の上衣搭肘式佛衣も西秦と北涼の搭肘式佛衣と関係するかもしれない。二者が異なるとしても、搭肘式佛衣は上衣外覆類に属し、只上衣の覆う形式を表現するだけで、而も上衣搭肘式は中衣外露類に属し、上衣と中衣の覆う形式が均しいことの表現で、漢化程度は今一歩深く進んでいる。 但、二者の上衣は2つとも両肩を覆い、右衣の角は右脇下方を巻いて左肘(或は手)に掛かり、相近い所にいる。成都地区の上衣搭肘式佛衣は、右衣の角が直接腹部を横に通り左肘に掛かり、形式上栖霞山第24窟と未だ幾らか差があるが、右衣の角が左肘に掛かる性質からも、西秦と北涼との相関を排除は出来ない。

三 南北朝早期の佛衣類型の探求
 西秦の統治者乞伏熾磐(在位412-428)は仏教を崇拝し、曾ては内外の名僧に謹んで供養を願い、曇無毗、玄高、玄紹、曇弘等は相次いで西秦に入り佛法を広め、熾磐の礼遇を受け、“尊(玄高)は国師”とされた。西秦と涼の地域は近く、高宗が行き来し、西秦仏教と涼州の関係は密接であった。“乞佛(伏)熾磐は隴西を跨いで、西に涼土に接す。・・・・・(玄高は)河南(ここでは、西秦を指す)の教化を済ますと、涼土に歩を進めた。沮渠蒙遜は深く敬った。” 涼州(今の甘粛省武威市)地区の仏教は前涼時期(301-376)に興盛し始め、“涼州は張軌以来、世は佛教を信じる”、北涼は“沮渠蒙遜(在位412-433)が涼州に在り、亦佛法を好む”、 北涼で訳経をする僧は記録に残る著名な者でも十余人に達し、涼州は当時中国の訳経の中心の一つであった。

 西秦と北涼時期、北方の佛教中心は長安地区にあった。西晋の竺法護の訳経以来、長安は重要な場所になり、前・後秦時期の苻堅や姚興は佛教を崇重し、大きく仏事を催し、高僧を礼遇、道安法師は長安に6年(379-385)、鳩摩羅什は長安に13年(401-413)滞在し、彼等は極力訳経を奨励し、仏理を学ぶ沙門が群れ集い、長安の佛法は甚だ盛んであった。
 西秦と北涼の佛教は長安との関係が緊密であった。西秦の高僧は、長安で法を修めたか長安出自の者で、玄高がいうに“関中には浮駄跋陀禅師が石羊寺で法を弘めると聞き、私高は彼を師とした。旬日の内に、禅法に妙通した。・・・・・高は西秦に杖を休め、麦積山に隠居した。山には百余人が学び、その解釈を崇め、禅の道を申し上げた。時に長安の沙門釈曇弘、秦の高僧がこの山に隠れ住み、高と会い、同業を以って友好する”。涼州の沙門竺佛念は長安で訳経し、“苻堅、姚興の2代に、訳経人の筆頭として、自ずから世に名高く、支謙以後、誰も読める者が無く、関中の僧衆は皆賞賛した。4世紀末、亀慈の高僧鳩摩羅什は涼州に居ること17年(386-401)、長安の僧をはじめ遠来の者がその業を受けた。

 以上の歴史背景は、西秦と北涼の現存佛衣類型が、晋以来長安地区の漢族伝統文化の遺風を保ち続けたことを表明している。関中地区の十六国墓葬中、墓葬形制、伎楽、生活用品、農業労働工具、出行の車乗等若干の方面では、皆漢晋の伝統文化を継承し、民族文化で無いものを主とするのも、その証拠と出来るだろう。盧水胡の沮渠氏の社会発展段階及びその経済文化生活と漢化程度は、凡そ氐族の苻氏と羌族の姚氏に次ぎ、鮮卑族の乞伏氏や禿髪氏より遥かに高かった。これにより、長安地区の漢族伝統文化は、前・後秦の継承を経て、又主に河西地区の北涼が保持し、影響が南北朝早期に及んだ。

 河西文化は雲崗石窟の開鑿中重要な要素の一つで、北魏が北涼を滅ぼした後(439)、”その国人は都に行き、沙門は皆、佛教関係のものを持って東行し、像を以って教える佛教が段々増えていった”。西秦の国師釈玄高は涼の地で遊行し、北涼滅亡後、また平城に至り、”太子拓跋晃は、高に仕えて師とした”、 涼州沙門釈慧崇は、尚書韓万の徳門の師として、“徳は(玄)高に次ぐ”と言われた。沙門師賢曾は涼州に遊居し、後に平城に赴き“道人統”と成った。後を継いだ道人統は曇曜で、涼州に在って高名で、雲崗最初の五ヶ所の洞窟の開鑿を主導した。
 河西文化もまた、江東の文化伝統と密接に関連し合っており、前涼の張駿時期(在位324-346)、河西と江南の交通は滞りが無く、“これより毎年命の絶えることが無かった”、同時に涼州はずっと晋愍帝の建興年号をそのまま用いた。北涼(401-439)と劉宋は信使が往来し、江南に向かう上奏の書は、魏晋が著作して江南に送った。益州刺史の朱齢石と沮渠蒙遜は互いに使節を遣わした。トルファン出土文書中の“妙法蓮華経普門品”及び“某経(法華経か?)には、劉宋昇明元年(477)簫道成(在位479-482)の題記が有り、”摩訶般若波羅蜜多経“巻十四には梁天監十一年(512)江州刺史建安王簫偉の題記が有り、敦煌出土文書S.81”大般涅槃経巻十一“には梁天監五年(506)荊州譙良顒の題記が有り、P.2196”出家人受菩薩戒法巻一”には天監十八年(519)(建康)瓦官寺僧釈慧明奉持勅写題記等が在る。河西回廊と江南の間の文化交流は頻繁で、これは見るべき一部である。

 以上の背景に基づくと、南北朝早期文化中心の雲崗石窟及び栖霞山石窟と成都石刻造像の佛衣は、西秦と北涼が保ち続けた長安の漢文化の伝統の基礎の上に、一歩進めて形成されたのかも知れない。そして南北が受けた影響又は漢化程度の深い浅い程度の差、それは例えば雲崗の覆肩袒右式佛衣の漢化程度はかなり浅く;栖霞山と成都の上衣搭肘式佛衣の漢化程度がかなり深いことを指すが、印度佛衣の覆う性質を搭肘式に改変し、同時に中衣の覆う形式を一歩進めて漢化を強めた表現を作ったのである。



次回は、北朝から唐代の佛衣変遷


  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
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# by songofta | 2017-03-19 23:22 | 旅と地域

215 西安地区立佛の佛衣

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第七節 西安地区単体石立佛の佛衣

20世紀50年代以来、西安地区から陸続として単体石製立佛造像が出土し、青石(注、石灰岩の俗称)と白石(注、石英)が主で、おおくは金箔を貼り、大型の立佛は2m、小型の立佛は30cm。筆者の実地調査と発行資料に拠れば、上述の単体石立佛造像の保存良好なものは40件、収蔵と出土情況は以下のようである。
 西安碑林博物館蔵16件。その内旧蔵7件、1955年と1973年南郊の沙滹沱村出土2件、1959年陜西省礼泉県衛生院出土1件、1992年北郊の未央区雷寨村出土1件、2004年東郊の灞橋区湾子村出土5件。
 西安博物館蔵13件、その内、1971-1998年北郊の中官亭村出土3件、1974年西安市区王前村出土1件、1985年南郊の雁塔区隋正覚寺遺跡出土1件、1987年西郊の蓮湖区唐礼泉寺遺跡出土4件、2007年北郊の未央区漢城郷窦寨村出土4件。
 1956年西郊の土門村出土1件、収蔵組織不明。1998年北郊の未央区尤家庄出土1件、陜西省考古研究院蔵。2004年北郊の未央区中査村出土9件、西安市漢長安城遺跡保管所蔵。
 以上40件は西安地区単体石立佛の全貌をカバーは出来ないにしろ、これを基礎に、西安地区単体石立佛の大体の佛衣類型と時代に、初歩的な認識は出来る。

一 西安地区単体石立佛の佛衣類型
西安地区の単体石立佛の佛衣類型は、主に通肩式と露胸通肩式の2種である。以下、考古類型学の方法で2種の佛衣各自の変化情況を分析し、上述の単体石立佛39件を整理する。
1.通肩式佛衣
上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角は頚を巻いて左肩に掛かる。衣紋の配列により、3種の類型に分かれる。
 a型:衣紋が腹部で上下に分かれる配列で、胸腹部の衣紋が波谷状か曲線で、腿部の衣紋は2式に分かれる。
  Ⅰ式;腿部の衣紋が曲線或は波谷状。武成二年(560)像、尤家庄保定三年(563)像、中官亭村像の1、湾子村像、中査村像3件、窦寨村像、中官亭村像の2(図5-7-1)。
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  Ⅱ式;腿部の衣紋が直弧線。唐礼泉寺像(図5-7-2)。
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 b型:衣紋が上下通した配置。身体の左右側の衣紋の有無で2式に分かれる。
  Ⅰ式;頚下の衣紋は左側より右側に向かって曲線を出し、右側には対応する曲線がある。湾子村像、中査村像(図5-7-3:1,2)。
  Ⅱ式;頚下の衣紋は片方の側から曲線を出し、別の側は対応する曲線が無い。窦寨村像、隋正覚寺大業五年(609)像(図5-7-3:3,4)。
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 c型:衣紋が腹部と膝部で上中下三段の配列に分かれ、胸腹部は波谷状に、膝より上は直弧線、膝より下は波谷状及び曲線とする。礼泉県衛生院像、沙滹沱村像(1973年出土)、碑林旧蔵像(図5-7-4)。
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2.露胸通肩式佛衣
 上衣は背中より両肩を覆い、右衣の角は左肩二掛かる;頚下の衣縁は、”U”字形に垂れて胸部に至る。衣紋配布の規律で、2種の類型に分けられる。
a型:衣紋が腹部で上下二段の配列に分かれ、胸腹部と腿部の衣紋は波谷状か曲線となる。佛衣の形状により2つに分かれる。
  Ⅰ式;佛衣の裾端が緩やかに広がり、全体が“A”字形を呈する。碑林旧蔵像4件、王前村像、中査村像3件、湾子村大象二年(580)像、湾子村像(図5-7-5)。
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  Ⅱ式;佛衣の裾端がかなり絞られ、全体に直筒状を呈す。唐礼泉寺像3件(図5-7-6)。
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b型:衣紋が全体で配列し、衣紋は左側から右側に向かって曲線を出す。右側の曲線の有無で2式に分かれる。
  Ⅰ式;右側に対応する曲線がある。中査村像2件、碑林旧蔵像(図5-7-7)。
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  Ⅱ式;側に対応する曲線が無い。中官亭村像、窦寨村像2件、沙滹沱村像(1955年出土)、土門村像(図5-7-8)。
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二 西安地区単体石立佛の時代
 以上の類型分析により、39件造像の類型区分は、表5-4-1のようになる。
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 表中で、第一組の通肩式と露胸通肩式佛衣は、a型Ⅰ式とb型Ⅰ式を包括する。衣紋は腹部で上下の配列が分かれる;衣紋によっては、身体全体を通して配列し、身体の両側に均しく曲線を出す。佛衣はかなりゆったりして広がり、A字形を呈する。
 第二組の通肩式と露胸通肩式佛衣は、a型Ⅱ式とb型Ⅱ式を包括する。衣紋は、腹部で上下の配列が分かれる;或は、衣紋を身体全体を通して配列し、身体は只片側だけ曲線を出す。佛衣の裾は絞り、全体が直筒状を呈す。
 第三組の通肩式佛衣はc型が主で、衣紋は腹部と膝部で三段に配列を分ける。佛衣は体に貼り付く。

 第一組の造像中、武成二年(560)、保定三年(563)及び大象二年(580)の題記があり、その年代は三組中、最も早い;第二組中に、大業五年(609)の題記があり、年代はやや晩い;第三組は、衣紋が上下三段に配列が分かれる第一組、第二組には見られない特徴があり、最も晩い。これにより、三組の相対年代順序が確定出来、即ち第一組が第一期、第二組が第二期、第三組が第三期となる。その他の地区の紀年がはっきりしている造像資料と結合して、この三期の年代範囲がもう一歩推定出来る。
 第一期の衣紋は上への配列と体全体を通した配列の2種がある。衣紋の上下配列は、成都地区の簫斉前期造像及び須弥山石窟の北周時期の造像にあり、例えば成都万佛寺立佛、須弥山46窟立佛、須弥山45窟立佛等(図5-7-9:1~3)。衣紋が全体に配列するのは、成都地区の簫斉前期造像に近似する。例えば万佛寺出土中大通元年(529)造像(図5-7-9::4)。灞橋区湾子村像は、垂れて腹前で帯びを結び、帯の端に三角花を装飾し(図5-7-7:1)、亦成都地区の簫斉前期佛衣の帯を締めるものと相似で、例えば万佛寺出土大同三年(537)造像の帯を締めたもの(図5-7-9:5)。これらより、第一期は主に北周時期(557-581)と推測する。
 西魏廃帝二年(553)成都を落とし、恭帝元年(554)江陵を平定し、南朝佛教の影響が激しくなる。“太祖を捕らえ、梁荊を平定後、益州の大徳五十余人、各自経典を抱え像を送って京に至る”、文献と造像実物を結合すると、この時期の西安地区の単体石立佛の佛衣は成都地区との関係はかなり密接であった。
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 第二期の衣紋は、第一期を踏襲する。但し、衣紋の上下配列は、腿部に直弧線を呈し、それは莫高窟隋代の例えば427窟立佛の衣紋と近似する(図5-7-6:6)。只体の片側に曲線を出す。第二期は主に隋代(581-618)と推測する。

 第三期の衣紋は腹部と膝部で上中下三段に分かれる配列で、これは彬県大佛寺に近い実例を見ることができ、第23号(千佛洞)中心柱東壁第27龕の2身立佛の衣紋が上下に4段に分かれて配列され(図5-7-10:1)、この窟は開鑿が唐太宗の貞観中期(627-649)から高宗執政(650-683)中期迄と推測すべきである。現在日本文化庁蔵の長安宝慶寺の長安三年(703)銘石造十一面観音立像は、その腿部の衣紋が腿部で2段に分かれる配列で、膝より上は曲線を呈し、膝より下は波谷状で、第三組の立佛上下の衣紋配列と接近する。四川広元石窟の千佛崖202号龕、216号龕の地蔵立像は、衣紋が三段に分かれる配列で、膝より上が留白処理(注1)され(図5-7-10:2)、この龕の開鑿時期は開元初年頃とすべきである。これにより、第三期はおおよそ貞観時期(527-649)から開元(713-741)初年と推測される。
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        ( 広元石窟;新浪博客ー石窟妹的博客より)
  (注1)留白処理;留白は、絵画などで描かない白い空白を残して、想像の余地を残す技法とある。この場合、装飾のない空白を残す意味か?
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次回は、第六章 漢地佛衣の源流考

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# by songofta | 2017-03-14 21:12 | 旅と地域

214 炳霊寺石窟の北魏佛衣

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第六節 炳霊寺石窟の北魏晩期佛像着衣

 炳霊寺石窟は甘粛省永靖県の西南約35kmの黄河北岸の小積石山の山中にあり、石窟は、下寺、洞溝、上寺の3部分から成り、合計216個所の洞窟がある。大部分の窟龕は下寺のある大寺溝西側の崖壁上に開鑿され、北魏晩期の窟龕はここに集中し、126,128,132,140,146窟及び124,125龕等を含み、その中で、126窟の窟外上方に北魏延昌二年(513)の題記がある。
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   (写真は、新浪博客ー野娃氏と百度百科より、引用)

 炳霊寺石窟の佛衣は上衣搭肘式を主とする。この種の佛衣の覆う形式は、外層の上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角が腹部を横に通って左肘に掛かり、中層の中衣と外層の上衣の覆う形式は一致する(図5-6-1)。
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佛衣の裾端は4分或は多いもので6分し、佛衣裾端の表現形式と麦積山北魏宣武帝時期頃(500-503)から北魏滅亡(534)までの上衣搭肘式佛衣中の1種(図5-6-2)とかなり相似である。
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炳霊寺佛像之坐姿は、結跏趺坐だが、右脚は腿の上に載せず、腿の前に置く。この種の坐姿は北魏龍門石窟と巩県石窟中の主尊菩薩の坐姿と相似であり、例えば魏字洞、皇甫公窟右壁、巩県1,3,4窟中心柱左壁の主尊菩薩がある。
 炳霊寺石窟の脇侍菩薩の衣飾の一種類は、上身は裸体、下身は裙を着る形式で、領巾が腹前で交叉する(披巾交叉)(図5-6-3)、
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或は腹前で環を着け結んで纏う(披巾穿環或纏結)(図5-6-4);
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一種類は、佛衣の上衣搭肘式に類似して、外層の上衣が両肩を覆い、右衣の角が胸腹前を横に通って左肘に掛かる(図5-6-5)。
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前の一種類の菩薩衣飾は、龍門石窟と巩県石窟にかなり多く見られ(図5-6-6)、後の一種類の菩薩衣飾は、麦積山の北魏宣武帝景明時期(500-503)頃から北魏滅亡(534)段階に出現するが、数は少ない(図5-6-7)。
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 以上、炳霊寺の主尊佛の坐姿や佛衣と菩薩衣飾の情況は、炳霊寺は麦積山のある秦州及び北魏文化の中心洛陽の関係が密接であることを反映していると言える。

※炳霊寺については、新浪博客ー野娃氏のブログがお薦め。中国語では”炳灵寺石窟”。


次回は、西安地区立佛の佛衣


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# by songofta | 2017-03-14 09:54 | 旅と地域

213 隴東地区の北魏晩期着衣

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第五節 隴東地区石窟寺の北魏晩期佛像の着衣

隴東地区は、甘粛省隴山以東部分を指し、今日の平涼地区と慶陽地区を包括する(注、甘粛省東部全体)。北魏晩期の佛衣着衣の保存がかなり良好で、内容もかなり豊富な石窟寺として、主に南石窟寺、北石窟寺と石拱寺の3ヶ所がある。南石窟寺は泾川県の東7.5kmの泾河の北岸にあり、編号が5ヶの洞窟である。北石窟寺は慶陽市の西峰区西南25kmの覆鐘山の麓、蒲河と茹河が窟の前で合流し、石窟は西に向いて東に鎮座し、編号は282ヶの洞窟である。石拱寺石窟は、華亭県の南25kmにあり、汘河上流の小渓谷―――秀水河が窟の脇を流れ、石窟は南面して北に坐し、編号は14ヶの洞窟である。
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        (写真は、新浪博客ー野娃的博客氏より引用。以下、同じ)
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  上述の3ヶ所の石窟中、佛衣と菩薩衣飾の保存が良好なものは、南石窟寺1窟、北石窟寺165窟と石拱寺石窟11,12窟等である。洞窟の形制、題材内容、造像特徴の風格及び碑刻記載に基づき、南石窟寺1窟の開創は北魏永平三年(510)、北石窟寺165窟の創建は北魏永平二年(509)、石拱寺石窟11,12窟は520年前後の開鑿である。

一 隴東地区北魏晩期佛像の着衣
 隴東地区の佛衣は主に上衣搭肘式である。その覆う形式は、外層の上衣は背中から両肩を覆い、右衣の角は胸腹部より横に通って左肘に掛かる;中層の中衣はもまた、背中より両肩を覆い、右衣の角は頚の下を”U”字肩に垂れ胸部に至った後左肩に掛かる様式(図5-5-1から5-5-3)。
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この種の佛衣類型は主に龍門古陽洞に見られ、古陽洞右壁と左壁の天井で交わる所に正始四年(507)二月安定王元燮が祖先と亡き母のために、釈迦を造龕したもの、左壁第3層に外から内に数えて第4龕、右壁第2層内側に小龕の佛衣等がある(図5-5-4)。
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 隴東地区の脇侍菩薩衣飾は上身は裸で、下身は裙を着る形式で、領巾は腹前で交叉し環を付け、或は腹前で交叉して結ぶ(図5-5-5と5-5-6)。
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この種の菩薩衣飾は龍門石窟と巩県石窟でかなり多く見る(図5-5-7)。
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 以上の情況は、隴東地区の佛像着衣と北魏文化中心の洛陽との関係が、密接で会ったことが反映されたものである。

二 隴東地区南、北石窟寺の関係
 南石窟寺1窟は平面が横長の長方形で、盝頂(※注1)、窟高さ11m、幅18m、奥行き13.2mで、窟壁を一周して高さ0.85mの台基があり、台基の上に7身の立佛が彫られ、配置は正壁に3身、左右壁に各2身である。北石窟寺165くつは、高さ14m、幅21.7m、奥行き15.7mで、規模が南石窟寺よりやや大きいのを除けば、その洞窟形制と題材は南石窟寺と相似である。
  (※注1) 盝頂;寄棟屋根を横に切り取って、屋上をテラス状にした屋根形式

 南石窟寺1窟の7身の立佛の佛衣の裾端は2層で(図5-5-1)、これは雲崗一期と二期の立像中に多く見られる(図5-5-8:1~3)。その内、南石窟寺1窟左壁内側の立像の佛衣装飾は一種の”匂聯紋”で(図5-5-8:4)、この種の紋飾は突起した両尾根曲線が1尾根に合流し、合流個所の両尾根の内辺線は閉じ、外辺線は伸びて1尾根になり、同時に合流個所に短い円弧線を陰刻し、雲崗二期7窟のようなこの種の匂聯紋装飾になる。南石窟寺1窟の佛衣の裾端表現形式及びそれとは別に佛衣装飾紋様と雲崗石窟の伝統は更に密接となる。
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 北石窟寺165窟の7身立佛の佛衣裾端は3層で(図5-5-2)、これは雲崗二期及び龍門石窟の立佛像中に出現する(図5-5-8:4~6)。雲崗石窟の佛衣変化の論理で見れば、佛衣の裾端3層は2層の表現形式に比べかなり晩いが、雲崗二期に在っては、佛衣の裾端の2層と3層は併存している(図5-5-8:2~6)。これは南石窟寺1窟と北石窟寺に佛衣裾端の2層と3層に差があったとしても或は後先には関係が無いのかも知れないのを表明して、只雲崗の伝統を多くうけたか洛陽の伝統を多く受けたかだけなのだろう。
 今、泾川県王母宮石窟文管所にある北魏《南石窟寺之碑》に記す、“大魏永平三年(510)歳は庚寅四月壬寅朔十四日乙卯、支持節都督泾州諸軍事、平西将□□□泾□州刺史、安武県開国男奚康生造る”。北石窟寺に在る清乾隆六十年(1795)《重修石窟寺諸神廟碑記》に言う:“今、原州の東に石窟寺が有る。その初めを調べると、鑿創は元魏永平二年(509)より始め、泾原節度使奚候が創建した“。目下、一般には南・北石窟寺の洞窟形制、題材配置及び佛像着衣の特徴分析からは、二者はあるいは同時の開鑿で、南石窟寺の佛衣は雲崗の伝統を多く受け、北石窟寺の佛衣は洛陽の伝統を多く受けた;又佛衣裾端の2層の表現形式が3層より早いと言う論理上の分析は、また南石窟寺の開鑿は北石窟寺よりやや早いという推論が出来るだろう。


次回は、炳霊寺石窟の北魏晩期着衣


  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
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# by songofta | 2017-03-11 22:58 | 旅と地域

212 須弥山石窟の北朝~唐の佛衣

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第四節 須弥山石窟の北朝から唐代の佛衣
 須弥山石窟は、寧夏自治区南部の黄土高原の位置し、固原県城の西北約55kmに在る。現在関係の有る記載で最早は、明代嘉靖の《固原州志》;“須弥山は、州北九十里。古寺があり、松柏桃李がこんもりと茂り、古い石の関門の遺跡である”。
 須弥山は六盤山の余脈に属し、海抜1800m、山体は紫紅色や橙黄色で、やや粗い粒砂状の構造で、岩質は粗い。山中は連なった峰々が翡翠のように重なり、青い松が真っ直ぐ伸びている。石窟の開鑿は、南北に1800m伸び、東西は幅700mの範囲内にあり、洞窟位置は相対的に集中した8区に分けられ、南から北に俗称大佛楼、子孫宮、円光寺、相国寺、桃花洞、松樹洼、三個窯と黒石溝。俗称寺口子河の石門水は、窟の南堺に臨んでゆっくりと流れる。
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       (以下、写真は、百度百科より)

 須弥山石窟の現存洞窟は132個の編号があり、北朝から唐代の雕鑿が主である。唐以前の洞窟は4期に分けられ;第一期はおよそ北魏末期(約500-534)、第二期は凡そ西魏時期(5365-556)、第三期は主として北周時期から武帝法難(557-574)、第四期は隋開皇年間(581-600)。唐代洞窟は、三期に分けられ:第一期は高宗永隆元年から武周如意元年(680-692)、第二期は武周如意元年から玄宗天元年(692-712)、第三期は玄宗天元年から代宗大歴十四年(712-779)。
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 長期に渡る自然の侵蝕と地震による破壊により、造像は程度の違う損壊を受けているので、佛衣保存のかなり良い13ヶ所の洞窟を選んで、類型分析を進める、その分布は大佛楼、子孫宮、円光寺、相国寺と桃花洞の五区となる。
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一 須弥山の北朝から唐代の佛衣類型
 須弥山の北朝から唐代佛衣は主要には上衣搭肘式、露胸通肩式、中衣搭肘式と通肩式の4種である。各期の変化は主に佛衣裾端にある。
上衣搭肘式佛衣:外層の上衣が両肩を覆い、右衣の角は胸腹前を横に通って左肘に掛かる物を指す。唐以前の第一期は、24窟のように裾端は単層で、人字形か円弧形を呈す(図5-4-1:1,2);第二期は、32窟のように佛衣の裾端は単層で、小円花弁状(図5-4-1;3);第三期は、45窟のように佛衣の裾端は3層で、衣の褶曲は折り重なる(図5-4-1:4)。
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露胸通肩式佛衣:外層の上衣が両肩を覆い、右衣の角は前身を巻いて左肘に掛かり、衣の襟は“U”形を呈して垂れ胸腹部に至る。唐以前の第一期は、24窟のように佛衣の裾端は単層で、円弧形(図5-4-2:1,2);第二期は、32窟のように佛衣の裾端は単層で、小尖花弁状(図5-4-2:3);第三期は、45,46,51窟のように、佛衣の裾端は5層か4層を見られ、衣の褶曲は折り重なる(図5-4-2:4~7);第四期は、67窟のように、佛衣の裾端は2層で、衣の褶曲は折り重なる(図5-4-2:8,9)。
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中衣搭肘式佛衣:中層の中衣は、交叉襟か右衣の角が垂れて右肘に掛かり、外層の上衣は両肩を覆うか、或は右肩を覆わず右衣の角が右脇下を巻いて左肘か左肩に掛かる。唐以前の第三期は、51窟のように中衣が交叉襟で、上衣の右衣の角は左肘に掛かり、裾端は4層、衣の褶曲は折り重なる(図5-4-3:1)。第四期は、67窟のように、中衣の右衣の角は右肘に掛かり、上衣の右衣の角は左肩に掛かり、裾端は2層、衣の褶曲は折り重なる(図5-4-3:2)。唐代の5、72,69、54、62、105窟のように、中衣の右衣の角は右肘に掛かり、上衣の右衣の角は左肩に掛かる;裾端は立体状に座の上に敷き広げる(図5-4-3:5~8)。
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通肩式佛衣:外層の上衣が両肩を覆い、右衣の角は頚を巻いて左肩に掛かる。裾端は立体状に座の上に敷き広げる。唐代の69,54窟(図5-4-4)。
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二 須弥山の北朝から唐代の佛衣類型の来源
 唐以前の第一、二期は、上衣搭肘式と露胸通肩式の両種の佛衣が有り、区別は主要に佛衣の裾端にあり、第一期は人字形か円弧形で、第二期は小花弁状を呈す。第三、四期は多くが露胸通肩式佛衣で、中衣搭肘式佛衣が出現する、主要な区別は佛衣の裾端にあり、第三期は5層か4層、第四期は2層。唐代流行の中衣搭肘式と通肩式佛衣は、佛衣の裾端が立体状に座の上に敷き広げる。
 上衣搭肘式佛衣は北魏雲崗石窟、龍門石窟等で大量に流行している。須弥山第一期の佛衣の裾端は人字形か円弧形で、雲崗及び龍門と相似であり、その衣紋は密集平行の陰刻線の技法で、峡北・隴東の北朝石窟と石刻造像と相似である。これは第一期の上衣搭肘式佛衣の来源がかなり多元化していることを表明している。
 露胸通肩式佛衣の流行は斉梁時期の栖霞山石窟である(図5-4-5:1,2)。須弥山第一期から第四期のこの種の佛衣の覆う形式は南朝の影響を受けたのかも知れないが、佛衣の裾端は雲崗と龍門に近い。 中衣搭肘式佛衣は東魏・北斉の響堂山石窟の主要な佛衣類型で(図5-4-5:3,4)、須弥山第三、四期のこの種の佛衣形式の出現は、大体北斉邺都の影響と関係する。
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 須弥山唐代の中衣搭肘式と通肩式佛衣の裾端は、立体状に座の上に敷き広げるが、この種の佛衣形式の源頭は両京地区にある。例えば隋仁寿二年(602)頃完工した麟遊慈善寺Ⅰ窟、貞観十五年(641)開鑿経営の賓陽南洞正壁の大像、及び龍門二連花南洞等(図5-4-6)。
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 まとめて言うと、須弥山石窟の北魏末期(約500-534)の佛衣類型は、すでに有った東部地区と隣接する地区の伝統があり、又南朝の影響も受けた。西魏時期(535-556)の佛衣類型は、主要に北魏の要素を踏襲したかも知れない。北周(581-574)と隋代(581-600)の佛衣類型は、流行の南朝様式で、同時に東部地区の伝統裳あった。唐代は即ち両京地区の中衣搭肘式と通肩式佛衣の標準形式に一致する。


次回は、隴東地区の北魏晩期着衣


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# by songofta | 2017-03-11 18:07 | 旅と地域

211 莫高窟北朝仏像の着衣(2)

5-8世紀漢地佛像着衣法式


二 莫高窟北朝佛像着衣の時期区分
1.佛像着衣の時期区分
 以上30ヶ所の洞窟の佛衣類型を整理すると、組分けが帰納出来、表5-3-1のようになる。
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 表中で第268,259,254,257,251,263,260,435,437,431窟の正壁或は中心柱正壁は覆肩袒右式佛衣(A型)で、多くは匂聯紋を装飾する;その他の壁面は通肩式佛衣(B型)と搭肘式佛衣(C型)で、この内第263窟の通肩式佛衣(B型)は匂聯紋を装飾する。菩薩衣飾は下裙式披巾順体(A型)と下裙式斜披衣(B型)がかなり多く、通肩式(C型)と下裙式披巾交叉或は横腹(D型)、その内第275窟の主尊は菩薩衣で匂聯紋を装飾する。この12個の窟が第一組に帰する。

 第248窟の中心柱正壁は通肩式佛衣(B型)で、第247窟正壁は搭肘式佛衣(C型)、第285、288、249窟正壁或は中心柱正壁は露胸通肩式佛衣(D型)で匂聯紋を装飾、第432窟中心柱正壁は上衣搭肘式佛衣(E型);その他の壁面は通肩式佛衣(B型)と搭肘式佛衣(C型)が主である。菩薩衣飾A、B、C、D型の外、交領大袖式(E型)の有り、その内で第249窟の菩薩衣飾は匂聯紋を装飾する。上述の情況と第一組は近く、この6ヵ窟は第二組に帰せる。

 第438、440窟正壁は露胸通肩式佛衣(D型)だが匂聯紋が無く、第290、439、428、430、442、294、296、297、299、301窟正壁或は中心柱正壁は上衣搭肘式佛衣(E型)である。菩薩衣飾A、D型が主である。この12ヵ窟は第三組に帰せる。

 その中で、第一組の覆肩袒右式佛衣は第二組にわずかに見られ、第三組で流行の上衣搭肘式佛衣は第二組で初めて見られる。覆肩袒右式佛衣は、目下の所最早の実例は、西秦と北涼地区に在り、炳霊寺169窟の西秦420年頃開鑿の9号塑像、現米国クリーブランド芸術博物館蔵の北涼縁禾四年(435)索阿后塔上の佛像等;上衣搭肘式佛衣は、目下の所最早実例は、四川省博物院蔵の四川茂汶出土の永明元年(483)造像碑がある。この両種の佛衣類型出現の後先により、三組の順序を知ることが出来て、一組が最早、二組が続き、三組が最晩となり、三期に分ける。各期の主要特徴は、表5-3-2のようになる。
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2.各期年代の推断
 第一期の覆肩袒右式佛衣は多くが匂聯紋を装飾し、これは雲崗石窟の”曇曜五窟”中の19,20窟及び7,8窟の佛衣と相似である。雲崗19,20窟の匂聯紋は合流する所の内辺線が互いに噛み合い、尾根上の陰刻線も形に従って噛み合う(図5-3-11:1)。莫高窟の匂聯紋の細目は少し差異が有り、雲崗7窟の匂聯紋の表現と近く、7窟匂聯紋は合流する所の内辺線は閉じ、短い円弧線を陰刻する(図5-3-11:2)。
 《魏書・釈老志》が記録する雲崗石窟の開鑿初めの情況は;和平初(460)”曇曜が帝に上奏して、京城の西、武州の隘路に石窟を鑿し、五ヶ所の窟を開き、佛像各一を彫る、高さは七十尺、次は六十尺、雕飾は奇偉、一世に秀たる”。この最初の五窟は、いまの雲崗石窟の16-20窟に相当し、五窟の開鑿の下限は献文帝末年(470)と推定される。曇曜五窟の後に続いて開鑿された洞穴に7,8双窟及びやや後れて9,10双窟等が有り、9,10双窟の開鑿時期は、太和八年(484)頃に始まったと推定され、匂聯紋が飾られるのは9,10双窟では稀で、更に言えば、7,8双窟の匂聯紋の下限は大体太和八年(484)となる。雲崗石窟中、匂聯紋の装飾は覆肩袒右式と通肩式佛衣の上にある。
 河西地区張掖の金塔寺石窟東窟と西窟の泥塑造像は、通肩式と覆肩袒右式佛衣及び脇侍菩薩の腿部の裙上に、匂聯紋を装飾し(図5-3-11:3)、比較的豊富である;在る匂聯紋は両尾根曲線が相互に交叉して一尾根になり、交接個所に短円弧線を陰刻するが、尾根曲線の中央には陰刻が無く、形式は簡単である。この2つを分析すると、金塔寺石窟の匂聯紋は莫高窟よりやや早く、太和(477-499)初期頃で、莫高窟の匂聯紋の出現時期は、大体太和中期、486年前後であろう。
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 第二期露胸通肩式佛衣の匂聯紋装飾は、匂聯紋の第一期の特徴を踏襲するが、露胸通肩式佛衣は新様式になり、その最早は栖霞山石窟の簫斉時期で、永明二年(484)頃から5世紀末期で、19,22、24窟等がある(図5-3-12:1)。東部地区には北魏末東魏時期に出現し、例えば青州龍興寺の北魏永安三年(530)、東魏天平三年(536)造像等(図5-3-12:2、3)。第二期の285窟には大統四年(538)、五年(539)の題記があり、第二期の露胸通肩式佛衣は西魏時期(535-556)である。
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 第三期の露胸通肩式佛衣は、後世に加えられた部分があり、匂聯紋が消失している。主要な流行は上衣搭肘式佛衣で、その時期を推測すると、およそ北周時期で廃仏前(557-574)まであろう。
 以上の情況から莫高窟の北朝佛像着衣の三期の年代は、即ち第一期がおよそ太和中期から北魏滅亡(486年前後-534)まで、第二期はおよそ西魏時期(535-556)で、第三期はおよそ北周時期で廃仏前迄(557-574)である。

三 佛像着衣の時期区分と文化影響
 莫高窟第一期の覆肩袒右式佛衣の匂聯紋装飾は、北魏の都大同雲崗石窟の佛像着衣に遡源があり、この一側面は敦煌と平城の関係を反映している。文献に記載される、北魏時期は初め、皇族や皇后の縁戚が敦煌地方の長官に任じられ、それは、文成帝の婿で長楽王、秦州刺史、代北に列する“功臣八姓”の筆頭穆亮である。穆亮は、“官職を、使持節、征西大将軍、西戎校尉、敦煌鎮都大将に替えた。治世は寛大で、貧困なものを救済し、征討されたものも再び朝廷に復帰させ、人々はこれを追慕した”、時は太和九年(485)以前である。
 敦煌は前漢が郡を設置してから魏晋まで、逐次発展して中原西部の軍政の中心で商業都市でもあり、“西域の門戸”である、陽関と玉門関の両関を扼して、中西陸路交通の重要な要で、“華と戎の交わる所、一番の都市である”、その発展は多くをシウ業と交通に拠っている。オアシスの在る土地は肥沃で、面積はかなり大きいが、人口との業の基礎は地理的条件で限定される。前漢では戸数11200、後漢は戸数748、西晋は戸数6300、隋代は戸数7779、唐開元の最盛期は戸数6466,一般に万戸には不足する。4世紀末、人口が移動し、最多では2万戸以上に達したかも知れない。敦煌の農業生産規模は小さく、雨が少なく、水源は主要には暖かく成って山の雪が消え河に行水となるのに頼っていて、ペリオが掠め取った莫高窟蔵経洞の盛唐写本《沙州都督府図経》に記載の、十六国時期の用水路の構築は、陽開渠、北府渠、陰安渠、孟授渠等があり、この数本の用水路は皆甘泉水(今の、党河)から引いて農地を灌漑し、民衆はこれに依存し、おおよそこれに拠ってのみ当地住民の生存が維持された。敦煌の経済資源は、専門の手工芸者が長期に渡って創作し工作することは難しく、国都の平城が全国の技芸と人力、物力を集中し、創造と絶え間なく新様式を発展させる条件を兼ね備えていたこととは比べようも無かった。莫高窟の佛像着衣様式から見て、平城あるいは内地の影響を受けるべくして、一部の工匠が敦煌以外からやって来たのかも知れない。

 莫高窟第二期の露胸通肩式佛衣は、簫斉時期に都の建康の栖霞山石窟の流行を除けば、簫斉時期の成都地区の石刻造像中のものも多く見られ、例えば四川省博物院蔵”中大通元年(529)”道猷母子造像がある。敦煌と蜀地は早くから交通が有り、5世紀前半期、高僧曇摩密多は、罽宾国の人で、“博学で沢山の経典に通じ、特に禅に深く・・・・・敦煌に至って、安静の地として、精舎を建て・・・この頃、又涼州に行き・・・学徒が沢山集まり、禅が盛んになった。常に江南の王都に、法を伝えたいと思い、宋の元嘉元年(424)転じて蜀に至り・・・都に至る”。高僧釈慧欖は、酒泉のひとで、“”外国に旅し・・・・禅を罽宾国の達磨に学び・・・・于阗、沙州に至り、大衆はみな集まって、欖から教わり、国を上げて禅を思い、法を思って二食を忘れるほどであった。蜀は禅学を聞き、師と仰がないものは無かった“。敦煌蔵経洞から出た小生時期の荊州と建康題記の佛教写本も、敦煌と南朝の間の直接の往来が有ったことを説明している。
 十六国時期の河西に割拠した政権と建康との交通は多くが蜀地を経由し、前涼の張駿の遣使は“仮に道を蜀に取り、都に通好する”、蜀と“隣国として修好”し、北涼の沮渠蒙遜と益州刺史は互いに使臣を招聘した。河西から蜀地への地理を考慮すると、莫高窟露胸通肩式佛衣は成都地区から来たのかも知れない。北魏考昌元年(525)から大統十一年(545)は、宗室の東陽王元栄一家が敦煌で活動した時期である。東陽王元栄は佛教を信じ、寛く経典を施し、開窟造龕、北魏晩期から西魏前半期の莫高窟の建築興隆に対して、影響が甚だ大きかった。その洛陽から敦煌に来るや、中原地区文化を携え、その時は南朝の新風が遍く北朝地域に伝播しており、莫高窟の佛衣様式も、南朝の要素が洛陽から再伝播したのかも知れない。

莫高窟第三期の上衣搭肘式佛衣は、南北各地の流行期は過ぎていた。成都地区の斉梁時期(483-549頃)例えば四川省博物院蔵永明元年(483)、大同三年(537)造像、四川大学博物館蔵太清三年(549)背光式左側造像。北魏遷都から北魏末(494-534)例えば雲崗6窟、龍門賓陽洞、考昌三年(527)皇甫公窟造像、東魏(534-549)天龍山石窟2,3窟、市議(535-556)麦積山石窟127,123,44窟造像。
 莫高窟の北周盛期のこの種の佛衣類型は、或は都長安と関係があるかも知れない。西魏後期及び北周時期の瓜州刺史と当時の中央王朝の関係は密接で、給事黄門侍朗の申徽は、大統十二年から十六年(546-550)瓜州刺史を拝領した。京兆の名族王子直は、廃帝元年から恭帝初(552-554)瓜州の事務を処理し、京兆郡の事務を処理し、宇文氏の姓を賜った偉瑱は、恭帝三年(556)瓜州諸軍事を除く歌手刺史をなった。驃騎大将軍に累進し、儀同三司を開府し、尓錦氏の姓を賜った段永は、武成二年から保定二年(560-562)瓜州刺史に任じた。西京の名族李賢は、妻が宇文氏の姓を賜り、宇文家族と密に通好し、北周の太祖、高祖は数度その居宅に御幸し、高祖の幼時は李賢の家で6年の長きを過ごし、李賢は、保定二年から四年(562-564)瓜州刺史を授かった。建平公は義、代北の旧族で、父輩は魏武西から出て周室に功が有り、約564-574年に瓜州刺史に任じられた。その内、段永と建平公は義に又仏経に篤く、建寺造窟をする背景が有り、特に建平公は敦煌地区に在って佛教を弘めた業績は、東陽王元栄に匹敵する。
 長安地区は、西魏時期上衣搭肘式佛衣が見られ、西安碑林博物館蔵大統二年(536)高子路造像碑等が有る。但し北周はわずかで、主要な流行は通肩式と露胸通肩式佛衣で、西安碑林博物館蔵武成元年(559)、大象二年(580)造像等がある。北周時期の莫高窟と長安地区流行の佛衣が一致しない説明は、長安と敦煌の間の関係が連ながりの環の実証に乏しいことにある。

四 佛像着衣の時期区分と洞窟年代
 莫高窟北朝洞窟の年代は、目下のところ主に2種の意見がある。
 一種の意見は北朝洞窟を4つの段階に分け、第一段階は北魏孝文帝初年(471)の早くない頃から太和13年(489)前後まで;第二段階は太和11年頃から正光の末即ち487-524の間まで;第三段階は北魏正光の後から西魏時期即ち6世紀20年代後半~50年代中期まで;第四段階は北周~隋開皇4年(584)以前即ち6世紀50年代後期~80年代初迄。
 もう1種の意見は、北朝洞窟を4期に分け、第一期は北涼が敦煌を統治した時期(約420-442年頃);第二期は北魏中期相当の(約465-500年前後);第三期は東陽王元栄一家が敦煌を統治したじきに相当する(約525年以前~545年前後);第四期は西魏大統十一年から隋開皇四年(約545-584)で、主要には北周時期に当る(557~581)。
 本論文は、上述の佛像着衣の時期区分に基づき、洞窟の営造年代は大体これと相当すると見て、北朝洞窟の時期区分の参考とした。莫高窟北朝洞窟時期区分と対照すると、表5-3-3となる。
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 表に見る様に、3種の時期区分の分かれ道は、主要には西魏以前にある。第1、2種の意見は基本的に、東陽王元栄一家の敦煌統治時期(約525-545)を1個の段階とし、本論文は佛像着衣の変化の脈絡分析から、第285窟の大統四年(538)、五年(539)の題記を以って基準とし、西魏時期(535-556)を以ってひとつの段階とするのが適当とした。第2種の意見は、早期洞窟を北涼の敦煌統治時期(約420-442辺り)にしたが、覆肩袒右式佛衣の匂聯紋装飾の特徴を基にすると、未だ北涼時期の実例が発見されていないので、太和(477-499)中期前後とするのが穏当であろう。


次回は、須弥山石窟 北朝-唐の佛衣


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# by songofta | 2017-03-10 08:16 | 旅と地域

210 莫高窟北朝仏像の着衣(1)

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第三節 莫高窟北朝佛像の着衣
 莫高窟は甘粛省河西回廊の西端戈壁中に位置し、敦煌市東南約25kmの鳴沙山東麓、大泉河の西岸にある。隋代以前の早期洞窟は、現存36ヶ、その内泥塑佛像着衣の保存良好なものは30窟の多数に達する。本論文は考古類型学の方法を運用して、佛衣及び菩薩衣飾を分析整理し、佛像着衣の時期区分及びその反映する文化影響と洞窟年代等の問題に試論を提出する。

一 莫高窟北朝佛像着衣の類型
1.佛衣
 莫高窟北朝佛衣は5種の類型が有り、覆肩袒右式(A)、通肩式(B)、搭肘式(C)、露胸通肩式(D)と上衣搭肘式(E)に分かれる。
A型:覆肩袒右式佛衣。外層の上衣が両肩を覆い、右衣の角は右脇下方を巻いて左肩に掛かる。正壁か中心柱正壁に位置する。268,272,259,254,257,251,260,435,437,431窟。268と260窟の佛衣を除き、他は均しく匂聯紋を装飾する(図5-3-1)。
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 この種の紋飾は、突起する両尾根曲線を経て一つ尾根に合わさり、尾根毎に陰刻線一筋を刻み、尾根の間の凹面上にも陰刻線一筋か二筋を刻む;合流する所の両尾根の内辺線は閉じ、外辺線は伸びて一尾根となり、同時に合流する所に短い円弧線を陰刻する。
B型:通肩式佛衣。外層の上衣が両肩を覆い、右衣の角は頚を巻いて左肩に掛かる。主要には正壁以外のその他の壁面に位置する。259,254,257,251,260,263,435,437,431,288,248,432,290窟。その内263窟は匂聯紋を装飾し(図5-3-2)、248窟は正壁に位置する。
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C型:搭肘式佛衣。外層の上衣が両肩を覆い、右衣の角は右臂下方を巻いて左肘に掛かる。主要には正壁以外のその他の壁面に位置する。257,431,248窟(図5-3-3:1,4,6);或は、右衣の角が禅定印の所に掛かる、432,247窟(図5-3-3:5,7);まだあるのは、左肘に掛かってから、左肩まで伸びて掛かるのを表現する形式、251,435窟(図5-3-3:2,3)。その内247窟は性癖に位置する。
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D型:露胸通肩式佛衣。外層の上衣が両肩を覆い、右衣の角は胸前で“U”字形を呈し左肩に掛かる。正壁か中心柱正壁に位置する。285,288,249,438,440窟、その内285,288,249窟は匂聯紋を装飾する(図5-3-4)。
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E型:上衣搭肘式佛衣。上衣は背中より両肩を覆い、右衣の角は横に腹部を通って左肘に掛かる;中衣は上衣と覆う形式は一致する。正壁か中心柱正壁に位置する。432,290,439,428,430,442,294,296,297,299,30窟(図5-3-5)。
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2.菩薩衣飾
 菩薩衣飾の分類と呼称は専門研究が少ない。叙述に便のため、現在の着用形式の主要特徴を以って名付ける。下裙式披巾順体(A型)、下裙式斜披衣(B型)、通肩式(C型)、下裙式披巾交叉或は横腹(D型)、交領大袖(E型)。菩薩は主尊となる以外は、一般に脇侍である。
A型:下裙式披巾順体菩薩衣飾。上身裸体、或は僧祇支式に似た内衣を着て、下身は裙を着て、領巾は肩に掛かり体側に沿って流れる。275,259,254,257,260,435,431,248,438,432,439,428,430,290,296,299窟。その内275窟は主尊が菩薩で、裙の上に匂聯紋を装飾(図5-3-6)。
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B型:下裙式斜披衣菩薩衣飾。上身は裸体、左肩から右腿に向かって斜めに衣が覆う。259、254、257、251、260、435、288、248、249窟。その内249窟は匂聯紋を装飾する(図5-3-7)。
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C型:通肩式菩薩衣飾。佛衣の通肩式と同じ。259,260,288,248窟(図5-3-8)。
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D型:下裙式披巾交叉或は横腹菩薩衣飾。上身裸体、下に裙を着て、領巾が交叉するか横腹前にくる。260、437、431、432、428、430、290窟(図5-3-9)。
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E型:交領大袖式菩薩衣飾。裁断した襟のある袖付きの衣を着る。285、288、432、290窟(図5-3-10)。
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  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
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209 金塔寺石窟佛像着衣

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第二節 金塔寺石窟の佛像着衣
 金塔寺石窟は張掖市の南62kmに在り、粛南裕固族自治県馬蹄区の祁輦山境内にある。臨松山の西面にあり、大都麻河西岸の紅石崖壁上、地面から60m余の高さに、2つのかなりの規模の洞窟を鑿し、一般に東窟、西窟と呼ばれる。
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        図1. 金塔寺石窟 全景

 東窟は深さ7,65m、幅9.70m、高さ6.05m。窟平面は、縦長の長方形で、天井に覆われ、窟内中部に中心柱を鑿し、崖が崩れた為、窟室の前半分部が早くに損壊し、中心柱が幾らか崖の縁に沿って露出している。窟内の壁面には龕を開かない。中心柱四面は3層に分かれ龕を開き造像する。下層は面毎に中央に大龕を開き、龕内に各塑佛一身、龕外の両側に各一身の脇侍菩薩或いは弟子塑像がある;中層は、毎面に3つの浅い龕を並べ、龕内は各塑佛一身、後面の3龕外は千佛塑像、他に3面には窟外に脇侍菩薩塑像各一身;上層は、右面が後補の塑像以外、残りの3面は皆十佛、十菩薩。
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        図2. 金塔寺石窟東窟

 西窟の形制は東窟と基本同じで、只規模がかなり東窟より簡略で小さく、残っている深さは3.90m、幅7.90m高さ4.30m。窟内中心柱も3層に造像し、下層は面毎に中央に大龕を1つ開き、龕内に各塑佛一身、龕外両側に各脇侍菩薩塑像或は甲冑衣の天王形象塑像一身とする;中層正面の主尊は後代の改塑でチベット式祖師像で、左面と後面は各塑佛言った、右面の主尊は思惟菩薩、正面主尊両側は各四身の脇侍菩薩塑像、後面主尊両側の上下は各脇侍二菩薩及び二弟子塑像、左右面主尊両側は合計7身の脇侍菩薩;上層波面毎に千佛或は菩薩塑像。
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         図3. 金塔寺石窟西窟

 中心柱上の泥塑佛像の着衣は保存が完全で、佛像着衣の系統整理にかなり良い条件を提供している。本論文は考古類型学の方法を運用して佛衣、菩薩及び天王衣飾、を分析し、佛像着衣の類型と年代及びその洞窟の開鑿年代に反映する問題に試論を立ててみる。
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          図4.  中心柱

一 金塔寺石窟仏像の着衣
 金塔寺石窟内の佛衣、菩薩衣と天王衣は一般に1種の衣紋で装飾され、この種の衣紋は、遠きした2つの尾根曲線が合流して1つになり各尾根の上に陰刻線を1筋か2筋刻み、同時に尾根の間の凹面上に陰刻線を1筋刻み、その外観輪郭形は叉状或は燕尾形あるいはY字形である。両尾根曲線が通過して互いに結合すると、合成した尾根を論理的表現形式として、“匂聯紋”と名付ける。金当時の匂聯紋は結合する両尾根の内辺線は閉じ、外辺線は伸びて1尾根になり、同時に結合した所に陰刻の短い円弧を刻む。
 金塔寺石窟の佛衣は覆肩袒右式と通肩式が主である。覆肩袒右式は、その外層の上衣は両肩を覆い、右衣の角は右脇下方を巻いて左肩に掛かり、多くは匂聯紋を装飾する(図5-2-1:1,2)。通肩式は、その外層の上衣が両肩を覆い、右衣の角は頚を巻いて左肩に掛かり、匂聯紋を装飾する(図5-2-1:3~5)。
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 菩薩衣飾の分類と呼称は専門研究が少ない。叙述の便のため、今ある主尊と脇侍の菩薩衣飾の主要な特徴を持って、下裙式と袒右式と名付ける。下裙式は、その上身が裸で、下身に裙を着て、領巾は肩に掛かり体側を流れる。裙上に匂聯紋を装飾する(図5-2-2:1~4)。その内、西窟中心柱右面上層の思惟菩薩は通王に位置し、形が高大で、主尊とすべきである。袒右式で、それと佛衣の袒右式は同じである。外層の上衣は左肩を覆い、右衣の角は右脇下方を巻いて左肩に掛かり、匂聯紋をそうしょくする。わずかに西窟に見える(図5-2-2:5)。
 天王は甲冑衣を着て、裙上に匂聯紋をそうしょくする。僅かに西窟に見える(図5-2-2:6)。
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二 金塔寺石窟佛像着衣の年代
 金塔寺の覆肩袒右式と通肩式佛衣の匂聯紋を装飾する形式は、雲崗石窟の”曇曜五窟”中19,20窟及び7,8窟佛衣の特徴と相似である。雲崗19,20窟の覆肩袒右式と通肩式佛衣の匂聯紋の合流する所の内辺線は相互に噛み合い、尾根上の陰刻線も形に沿って噛み合う(図5-2-3:1)。金塔寺の匂聯紋の細目とそこに差異が有り、雲崗7窟の匂聯紋の表現形式と接近し、7窟の匂聯紋は結合する所の内辺線は閉じ、短い円弧線を陰刻する(図5-2-3:2)。
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 雲崗石窟佛像の匂聯紋の形成は、衣紋の変化形式を追跡すると、西方を経由して東方までの一条の道筋が辿れる、即ちガンダーラから河西地区の北涼石塔に至った。例えば今甘粛省博物館蔵の承玄元年(428)高善穆塔、承玄二年(429)田弘塔坐佛、炳霊寺169窟の420念前後頃の7龕立佛、更に進んで現在東京国立博物館蔵の太平真君四年(443)高陽蠡吾(今の河北省博野県西南) 菀申造像、及び河北省易県出土で現材易県文管所蔵和平六年(465)交脚菩薩像、最終的に雲崗石窟佛像着衣の匂聯紋で成熟し、又雲崗石窟を経て直接或は間接的に外に向けて伝播した。
 《魏書・釈老志》に記載された雲崗の開鑿開始時の情況:和平初(460)”曇曜が帝に上奏して、京城の西武州の隘路に、石壁を鑿し、5ヶ所の窟を開き、佛像各一を彫る。高さは70尺、次は60尺、雕飾は奇偉、一世に優れる。” この最初の5窟は今の雲崗石窟16~20窟で、5窟の開鑿の下限は献文帝末年(470)と推定される。曇曜五窟に続いて開鑿された洞窟が7,8双窟とやや晩く成って9,10双窟等となり、9,10双窟の開鑿時期は、太和八年(484)頃で、匂聯紋は9,10双窟では見られず、一歩進んで推測出来るのは7,8双窟の匂聯紋の下限はおおよそ太和八年(484)となる。雲崗石窟は基本的に脇侍菩薩の匂聯紋は見られない。
 雲崗石窟年代に基づき、金塔寺の佛、菩薩、天王が普遍的に匂聯紋を装飾する情況から、金塔寺の佛像着衣の年代はおよそ太和(477-499)頃と推定できる。
 それとは別に、東窟の匂聯紋は主に主尊の佛衣と脇侍菩薩の衣飾に集中しており、西くつの匂聯紋はかなり広範で、主尊佛衣と脇侍菩薩の衣飾以外にも、主尊菩薩及び天王の衣飾上に表現され、且つ脇侍菩薩には東窟では未だ見られない袒右式服飾が出現し、この情況は西窟佛像着衣の年代がかなり東窟より晩くなることを表明している。

三 金塔寺石刻の年代
 金塔寺の年代に関して、主に十六国と北魏の2説がある。十六国説は、十六国の五涼時期(317-439)のうち、北涼時期の可能性が最大で;北涼後期頃;前涼或は北涼時期に均等に開窟活動;400年頃かその以前等がある。北魏説は太和及び稍々あとの北魏時期(486-510);北魏460年代後半期憩う;東窟の開鑿年代が5世紀50年代か60年代、西窟の開鑿年代が5世紀70年代か稍々晩い頃等。
 本論文は、上述の金塔寺石窟の佛像着衣の分析、及び雲崗7,8双窟と9,10双窟の年代推定を基に、金塔寺洞窟の営造年代は大体佛像着衣の年代に相当すると考え、即ち金塔寺の開鑿時期は太和(477-499)初年頃で、その中でも東窟の年代は少し西窟より早い。
 それとは別に、題材の内容から、龕形装飾等の方面も金塔寺石窟と雲崗7,8と9,10双窟は相似な所を見ることができる。例えば、金塔寺東窟中心柱左面、右面と西窟中心柱後面中層の主尊は交脚菩薩佛で、西窟中心柱左面中層の主尊は椅坐佛、西窟中心柱右面中層の主尊は思惟菩薩である。雲崗の交脚佛の最早は7,8窟主室左右両側壁の小龕内にある;椅坐佛、思惟菩薩の最早は、7窟主室正壁上方の大龕にあり、その配置は一交脚菩薩二椅坐佛二思惟菩薩で、8窟主室正壁上方大龕は、その配置が一交脚菩薩二椅坐佛二思惟菩薩;9窟主室主尊は椅坐大佛である。
 又、金塔寺西窟中心柱左面、右面下層は、尖楣円拱龕(※注)の尖楣中央に塑成の火炎光六角摩尼宝珠を貼り、これは雲崗7窟主室前壁の円拱門上方の中央、9窟主室窟門頂部の火炎光六角摩尼宝珠と相似である;金塔寺東窟中心柱右面、後面、左面の下層の尖楣円拱龕の円拱の両端は塑成の振り向いた龍頭或は忍冬図案とし、振り向いた龍頭は雲崗7、8窟主室前壁上層の円拱小龕の円拱端部にあり、忍冬図案は7,8窟と9,10双窟の小龕の円拱端部に少し見えるが、これは最も良く見る装飾図案である。
   (※注) 尖楣円拱龕;アーチ形で上の横木が尖るもの。火灯窓様の形
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         図5. 石窟 東・西窟全景

 河西地区は北魏朝廷が極めて重視し、河西を鎮守する人物は、多くが北魏の宗族或は朝廷の近臣であった。北魏が北涼を滅ぼした後、太武帝は即“驃騎大将軍、楽平王丕を留任、征西将軍賀多羅は鎮涼州とする”。太平真君十一年(450)、張掖王禿発保周が反乱し、“征(尉) 眷と永昌王健等が兵を率いてこれを討つ”、その後又“眷に詔して鎮涼州を留任、加えて都督涼沙河三州諸軍事、安西将軍、領護羌戎校尉とする。転じて敦煌鎮将となる”。 文成帝の時(452-465)、陽平王他を“使持節、都督涼州諸軍事、鎮西大将軍”に任じ、献文帝和平六年(465)即位し“淮南王他を以って鎮西大将軍、儀同三司、鎮涼州とした”。孝文帝延興元年(471)、“南安王禎を仮節、都督涼州及び西戎諸軍事・・・・鎮涼州”に任じた。太和九年(485)以前、文成帝は婿の長楽王秦州刺史、位は代北に列し “功臣八姓”の第一の穆亨は、“官職を、使持節、征西大将軍、西戎校尉、敦煌鎮都大将に替えた。治世は寛大で、貧困なものを救済し、征討されたものも再び朝廷に復帰させ、人々はこれを追慕した”。太和十一年(487)に亡くなった南平王渾も曾て“涼州鎮将、都督西戎諸軍事、領護西域校尉・・・・恩は涼土に著しい”等等。
 又、《魏書》の記載によれば、文成帝は太安二年(456)及び和平元年(460)、三年(462)、五年(464)の4度河西に行幸し、延興三年(473)、孝文帝も太上皇献文帝に従って河西に行幸した。
 以上、簡略に説明した北魏の国都平城と河西の関係は密接で、金塔寺石窟の佛像着衣、題材内容、龕形装飾等の内容表現と、雲崗石窟の相似姓はおよそこのような歴史背景のいたす所である。


次回は、莫高窟北朝佛像の着衣(1)


  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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目次1 日本じゃ無名? の巻
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# by songofta | 2017-03-06 22:12 | 旅と地域

208 麦積山北朝窟龕(4)

5-8世紀漢地佛像着衣法式


(4)第四期
 麦積山第四期は、通肩式と露胸通肩式の2種の佛衣で、最早は5世紀末開鑿の栖霞山石窟で、例えば第19、22,24,18、26窟;この後成都地区でかなり流行し、中大通元年(529)造像の露胸通肩式佛衣(図5-1-21)、麦積山は成都地区とかなり密接な関係だったかも知れない。
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 麦積山第四期の中衣搭肘式佛衣は、東魏北斉の例えば北響堂北洞、南洞及び南響堂1、5、7窟の佛衣様式と相似である(図5-1-22)。北斉流行の窟街面幅三間の模擬木構造窟廊、例えば北響堂南洞及び南響堂第3,5、7窟は模擬木構造窟檐及び浮彫覆鉢式窟頂を持つ(図5-1-23:1)、天龍山第16窟は外に亦面幅三間の模擬木構造窟廊を持つが、未だ模擬木構造の屋根は表現していない(図5-1-23:2)。麦積山は東魏北斉の石窟と佛衣様式と模擬木構造建築方面に多くの一致する表現が有る。
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 第四期に七佛の題材が盛行する。北周庾信の《秦州天水群麦積崖佛龕銘并序》に言う、“麦積の崖は、陇坻の名山で、河西の霊岳・・・・・大都督李允信は、籍は宿植で、深く仏法門を悟る。壁の南崖で、雲に梯をかけ道を鑿し、亡父のため七佛龕を奉じる・・・・輦を運び山を拓き、龕を穿ち峰々に架し・・・・壁は経文を連ね、龕は佛影を重ね、輪月殿を彫り、鏡花堂を刻み、石壁を横に雕刻していき、尾根に外から見えない洞を鑿す”。この七佛龕は面幅七間で、檐柱8本、一軒寄棟屋根の窟廊の第4窟を指しているかも知れない。大都督李允信は秦州総管宇文広の“昔の部下で儀同(注、官名)”、宇文広は主に557-559年と562-568年頃の2度秦州を統治した。文中に記す“七佛”は、第四紀洞窟中の七佛題材の実施状況を反映している。
 西魏末年(553-554)蜀を下し江陵を平定し、“太祖を捕らえ梁の荊州を平定後、益州の大徳50余人、経典を懐き像を送って京に至る”。北周天和三年(568)後より、東西対峙の局面を打破し、北斉北周双方は使節を招聘した。これは南朝佛衣様式と東魏北斉様式が麦積山に並行する時代背景かも知れない。
 北周建徳三年(574)、武帝が“仏、道2教を絶ち、経典と仏像を尽く毀ち、沙門、道士を罷めさせ、民に戻させた”。第四紀は、北周時期で廃仏前(557-574)頃と推測する。

(5)第五期
 麦積山第五期の中衣搭肘式佛衣の左胸腹部は鈎紐状に結ぶ様に作るが、鈎紐は未だ出現しない。佛衣の左胸腹の所で鈎紐を結ぶ形式は、最早が済南五峰山の北斉時期の蓮花洞正壁佛像で(図5-1-24)、やや晩く山西省平定県開河寺の開皇元年(581)摩崖大佛や、山東省青州駄山石窟で隋開皇初から皇中(581-590)頃開鑿の第2龕等で、以上は主要に北斉域内と隋代東部地区である。
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 第5窟は面幅三間の模擬木構造窟廊で、頭貫が柱頭の間に位置し、三、四期の諸窟が柱頭の大斗の上に置かれるものとは似ず、天龍山隋開皇四年(584)第8窟の頭貫が柱頭の下で少しばかり柱身に挿し込まれる構造と近く(図5-1-25)、二者は柱頭の上に斗栱あるいは大斗を用いる構成の柱頭斗栱で、梁と屋根を承ける。もう一つ、第5窟の頭貫の上の叉手は已に湾曲した脚となり、第三、四期の各頭貫の上の叉手が稀で、第四期の第4、27窟壁画中に表現された叉手が僅かに曲線になっている。
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 仁壽元年(601)、隋文帝が公布した《隋国立舎利塔詔》に、“朕、三宝に帰依し、聖教を重ねて興す”、沙門を遣わして道を分け舎利を送り、諸州に塔を建て、“所司の造る様、当州に送る”。全国統一の新形勢の下、各地の舎利塔を修理する際に標準画一の風格を遵守した。この種の収束性は同時にその他の芸術表現形式にも影響したかも知れず、東西地区の佛衣様式や模擬木構造建築にも相似性を現出し、大概が属することになる例証の一つである。秦州は静念寺に塔を起て、北宋の《秦州雄武軍隴城県第六保瑞應寺再葬佛舎利記》残碑記載の、“隋文皇仁壽元年(601)、再□(開)窟龕、勅により舎利を葬り、この宝塔を建て、浄念寺を賜る。” 秦州静念寺は麦積山に在る。
 第五期は隋代(581-618)頃に相当する。

四 結語
 前述の麦積山北朝窟龕の時期区分の文章中の、《麦積山石窟的分期》は包括する北朝窟龕の数量が最多で、《麦積山石窟的分期》と本論文の時期区分情況を列べると表5-1-3のようになる。
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 時期区分の結果から見ると、両論文の差は小さい。時期区分を北朝窟龕の崖面の分布情況から見ると、本論文を例にとれば、北魏孝文初(471)から景明時期(500-503)の窟龕が多く集中するのが西崖中部で、東崖の西沿いまで伸び、中部の崩壊部分の崖面は、当時はこの期の窟龕が分泌していた可能性を表している;景明(500-503)から北魏滅亡時(534)の窟龕分布は西崖で、東崖西沿いは少量で、前期の情況と似ていて、中部崖面にもこの期の窟龕が有ったかも知れない。西魏、北周の窟龕は東崖に集中し、東崖の西沿いは依然として少量の窟龕しかなく、およそ中崖を利用したとして、同時に西崖周辺は続いて開鑿された。隋代の窟龕は多くが東崖中上部に集中する(図5-1-26)。
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 麦積山石窟の外貌の考察研究に基づくと、西崖は前傾度がかなり大きく、現山体の中部の粘着層以下の崖面は、開豁で艷やか、粘着層以上の岩石が遥かに突き出し、像は傘で蓋を掛けたように下部の岩面を遮蔽し、東崖は全くこのような条件を備えていない。東崖と中部崖面の交接個所は一筋の上下に連続した突起で、上は4窟と5窟の間から、下に向かって伸び15窟から43窟に至る。この突起の帯以西の中部崖面と西崖は、実際は、一枚の比較的緩やかな円弧状の立面で、最初は一個の全崖面として鑿造活動が進められた。洞窟の時代順序は、西崖と中崖の中間地帯を逐次拡大していき、基本的に西崖が満杯に成った後、東崖に向けて発展した。崖面の窟龕配置から推論した結果とその造型内容と歴史背景の分析を基に判断する所の開鑿次第は一致する。
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 指摘しなければならないのは、本論文と《麦積山石窟的分期》に僅かに残る差異である。 第一に、麦積山の現存最早の遺跡開鑿時期は北魏孝文帝初期(471)から景明時期(500-503)。第二に、北魏造像活動は景明時期(500-503)を境にし、前後時期に分ける。第三に、幾つかの窟龕の時期区分に帰属が異なる。例えば74,78,90,70,71,128,148,80,76,115,156,89,86,169,69,100,114,155窟等は、本論文は孝文帝初(471)から景明時期(500-503)に、《麦積山石窟的分期》は後秦から西秦(384-431)、北魏一期(431-499)と北魏二期(500-515)に分属する;135,127,28,30,120,102窟等は、本論文は西魏時期(535-556)に、《麦積山石窟的分期》は北魏三期に属する。
 これら上述の差異は、本論文が変化する類型分析による遺存内容を一歩明確に進めたことによるもので、特に麦積山窟龕の遺存中、最も豊富な佛衣列を形式配列の要領に拠ったためである。なぜなら、中国の現存佛教遺跡遺物に対しては、特に石窟寺院の観察と研究による発見は、佛教芸術表現形式中、佛衣の遺存が相対的に最も揃っており、内容が最も豊富で、且つ時期の連続性と空間の広汎性が最も備えており、その発展変化の脈絡がはっきりしており、異なる地域の異なる類別の佛教遺存が、特に石窟寺及び単体造像遺存間の参照比較が出来る唯一の遺存類型であることによる。さらに言えば、佛衣列を類型学研究に入れ、麦積山の北朝窟龕時期区分の新しい結論を得て、中国石刻寺及び単体造像遺存の変化の全景から出した結論である。

 佛教石窟寺遺跡は極めて複雑である。20世紀50年代以来、考古類型学の方法を佛教石窟寺研究の領域に応用し、繁復する遺跡現象に、科学的やり方ではっきりと筋道を立てて用い、それによって、佛教石窟寺の遺存に対し、社会的歴史的意義の深い検討と、研究が史実の基礎の上に更に近づく事を目的とする。考古類型学の方法は、遺物或は遺跡の形式を整理し、用途や制法が同じ遺物(或は遺跡)を一つの類に帰納し、並びにそれらの標準形式を確定し、その後形式の差異レベルを増減し、一つの“系列”に整理する。本論文は考古類型学の方法で麦積山石窟の北朝窟龕の時期区分を再評価し、例を持って、考古類型学研究を佛教石窟寺遺跡に用いて認識を一歩進めたいと願っている。

次回は、金塔寺石窟仏像着衣



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  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
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# by songofta | 2017-03-05 20:22 | 旅と地域

207 麦積山北朝窟龕(3)

5-8世紀漢地佛像着衣法式

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2.各期窟龕の主要特徴
麦積山北朝五期窟龕の特徴理解に便利なように、表5-1-1を概括して列べると表5-1-2になる。
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3.各期年代の推断
 麦積山北朝各期の窟龕の特徴は表5-1-2のようになる。但し、麦積山北朝窟龕の開鑿時期は、文献での明確な記載が少なく、参考となるような銘の記録も稀である。これにより各期の開鑿年代は、主要には紀年の有るものを基に考えるべきで、変化の脈絡がかなりはっきりしていて、皇室や貴族が開鑿した北朝の雲崗、龍門、響堂山石窟と南朝の栖霞山石窟及び成都地区出土の南朝石刻造像等の遺存内容により、主要なのはその中の佛衣と倣木構窟廊で、麦積山での進行と比較し、同時に文献及び銘文を結合して推断する。

(1)第一期
 麦積山第74、78窟の佛衣と菩薩衣飾及び題材配置と、雲崗第一期第20窟は類似している。雲崗第20窟正壁の佛衣は覆肩袒右式で匂聯紋装飾があり(図5-1-18:1)、左壁は通肩式佛衣で;主尊は三佛で、正壁は座佛、左壁は立佛、右壁は立佛で、残る像は無いが、まだ蓮座と腿部の跡が残る;2脇侍は正壁佛の両側に位置し、2者の左肩の右下に向けた袈裟懸けの痕跡があり、右側の菩薩の残存する裾端を基に判断して、菩薩衣は下裙式で、斜披衣(注、袈裟懸けに着る衣)を覆っていた。
 麦積山第一期洞窟中、正方形上方の両側に小龕が配置され、左側の小龕内に一思惟菩薩二脇侍菩薩の組合せがあり、右側の小龕内に一交脚菩薩二脇侍菩薩の組合せがある。雲崗第二期第7,8窟中にも思惟、交脚菩薩の題材があり、第7窟主室正壁上方の大龕内に一交脚菩薩二椅坐佛二思惟菩薩が配置され、第8窟主室正壁上方の大龕内に一椅坐佛二交脚菩薩二思惟菩薩が配置される;第7、8窟主室壁面の列龕中に一佛或は一交脚菩薩と二脇侍菩薩の組合せは、麦積山正壁上方両側小龕内の一主尊菩薩二脇侍菩薩の組合せと類似する。雲崗第7、8窟の菩薩衣は下裙式で斜披衣で覆う;或は下裙式で、領巾が腹部で交叉する。それとは別に、雲崗第7、8窟主室正壁の椅坐佛の腿部には匂聯紋が残存する(図5-1-18:2)。第7、8窟以後、匂聯紋は稀である。以上のことは、麦積山一期窟龕は、雲崗一期(460-470)と二期(471-494)の第7、8窟とが時期的に接近していることを説明し、第7、8窟の時期は孝文帝(471-499)初年と推測されるのである。
 第78窟の佛壇右壁の供養人は胡服を着て、傍らに題が有り、その中に”仇池鎮”とある。北魏が仇池鎮を設置したのは、太平真君七年(446)で、同年廃仏政策が有り、文成帝(452-465)に至って、佛教が復興され、孝文帝の太和十二年(488)仇池鎮を梁州に改めたので、第一期の窟龕開鑿は、或は文成帝の復法より早くはできず仇池鎮の改州より晩くはならない。それと雲崗第7、8窟に似ている情況から、麦積山一期の窟龕開鑿の上限は孝文帝初年(471)頃に近い。
 第115窟には、”景明三年(502)”の紀年があり、左壁の1体の影塑佛像は、上身に交領衣を着た、東晋末年から南朝初年の拼鑲磚画墓(注;壁面に部分画を描いたタイル群で1枚の画としたもの)中の人物栄啓期の、内衣が交領衣で帯を締める形式と相似で、この種の交領形式は伝統的な漢族の服装である。第114窟正壁の主尊佛衣は上衣搭肘式は南朝の影響を受け(詳細は後述)、上身は亦内衣に交領衣を着る。宣武帝の景明治期(500-503)、麦積山は新旧の風習交代を開始する。
 この他、第一期壁面の影塑配置は涼州石窟の影響を受けているかも知れず、武威天梯山石窟第1、4等窟は涼州石窟の早期に属し、年代は北涼が姑臧に都した頃(412-439)である。その中で、第1窟の“中心柱中層四面は全て浮塑或は影塑の小佛像を造る。
 第一期は、北魏孝文帝初期(471)から宣武帝時期(500-503)頃と推測される。
    (注)拼鑲磚画墓:壁面に部分部分を描いた多数のタイル群で1枚の画を作るもの
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(2)第二期
 麦積山第二期は、上衣搭肘式佛衣で、その裾端は3分か4分し、衣縁の褶紋は鋭角に造る形式で、最早は四川小成都地区出土の南朝石刻造像に見られ、例えば永明元年(483)造像碑正面、永明八年(490)背光式造像、建武二年(495)背光の式造像等の佛衣がある(図5-1-19:1~3)。第二期の菩薩下君式衣飾は、領巾が腹部で交叉し、瓔珞が領巾の上で重なり、成都万佛寺出土の普通四年(523)や、中大通五年(533)背光式造像等の菩薩衣飾と同じである(図5-1-19:4、5)。
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 第二期のもう一つの上衣搭肘式佛衣は、裾端が2分し、彫刻は3衣の前後を表現し、前3層は三衣の前身頃で、一般に上衣は右腿の所が花弁状を呈し、中衣は縦筋の裾で、この種の形式は龍門の北魏賓陽中洞正壁の上衣重層式佛衣の裾端に最も近い(図5-1-20)。
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 おそらく景明時期(500-503)に、麦積山の在る秦州の気風が一変したのは、張彝が景明三年秦州刺史に任じられたことと関係が在るだろう。“張彝が儀式を務める時は、故事に基づいた。陇右(注、甘粛の古名)に臨んで、弥加を深く研究し、そこで直衛の出入りし、地方長官の威儀は、人を驚かすものだった。羌族は畏れ伏して、その威風を恐れ、粛として静まったので、良牧と呼ばれた・・・・・張彝が陇右を治めると、多くの制度を作り、新風を吹き込み、その旧俗を革め、民衆はこれを愛仰した。国は佛寺を作り名付けて興皇寺とした。” 張彝は洛陽より来て、秦州に“新風を吹き込み”、“国は佛寺を造った”は、おそらく北魏が洛陽遷都後、漢化を一層進めたことの反映である。麦積山の佛衣中に、北魏龍門石窟の幾つかの特徴を見出すのは、洛陽からの影響を受けたのかも知れない。
 正始三年(506)、邢峦が梁秦二州の刺史に任じられると、“益州(注、四川)の賑わい、戸数十万余り、寿春、義陽に比べ3倍に匹敵し、ことに乗ずれば利を得られること、実にこのようである。もし朝廷が民を保とうと願うが、未だ攻め取ることをしない、臣の考えはここにあり、すぐに実行しても問題がない”として、屡々蜀を手に入れようと上表するなど、正始時期(504-508)、梁秦二州は蜀地との往来が密接であった。麦積山は大量に成都地区の南朝佛衣の影響要素が出現したのは、南北交通の状態を反映したものだろう。
 第二期窟龕の数量は多く、短い時期に作り上げることは出来ないとすべきで、下限はおおよそ北魏滅亡(534)と推測する。第二期は宣武帝の景明時期(500-503)から北魏滅亡(534)ではないだろうか。

(3)第三期
 麦積山第三期の上衣搭肘式佛衣は、裾端が2分し、有るものは右腿の所が花弁状を呈し、中衣は縦筋の衣縁を飾り、二期の佛衣に北魏龍門石窟から来た特徴を踏襲する。窟外は倣木構窟廊の一軒寄棟の屋根でだいたい洛陽の遺風で、例えば龍門石窟の北魏末皇甫公窟、唐字洞、汴州洞等で、その窟廊は幅一間、一軒(ひとのき)の寄棟である。東魏北斉時期は、北響堂北洞、中洞のように窟外の崖に貼付いて立柱を彫り出し、架構は幅三間の模擬木構造建築で、模擬木の窟軒と浮彫の覆鉢式窟頂があり、只まだ柱廊の空間は形成されていない。幅三間の模擬木構造建築の形制は、麦積山と響堂山がかなり共通性を持っている。
 第43窟は面幅三間の柱廊、檐柱4本、一軒の寄棟屋根である。窟内は前後室に分け、後室には模擬几帳構造が出現する。この窟の形制は特殊で、窟廊建築の比例は丁度良く、装飾は華麗、西魏文帝乙弗皇后の陵蔵かも知れない。文帝の文皇后乙弗氏一派は“秦州に居住し、子は秦州刺史の武都王である。(大統)六年(540)春、(帝)は皇后に自殺させた。侍婢数十人を出家させ、自らの手で落髪した。落髪が終わると、入室して、布団を被り窒息して亡くなった。年31。麦積山の崖に龕を鑿して葬る・・・・寂陵と言う”。麦積山に現存する北宋《秦州雄武軍隴城県第六保瑞応寺再葬仏舎利記》の残碑記載に、“昔西魏大統元年(535)、崖閣を再修理し、寺宇を興す。” 西魏時期(535-556)麦積山には、かなり大規模な開窟の寺廟建築活動があったかも知れない。 第三期は西魏時期(535-556)頃に相当する。


次回は、麦積山北朝窟龕(3)


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# by songofta | 2017-03-05 20:12 | 旅と地域

206 麦積山北朝窟龕(2)

5-8世紀漢地佛像着衣法式

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3.題材配置
洞窟内主尊と脇侍造像の組合せ、更には壁面配置の内容に基づき、造像組合せと壁面の小龕を、影塑(※注1)併存の配置のものを、造像組合せ及び壁面配置(A型)と名付け、只主尊と脇侍造像の組合せだけで、壁面に小龕の無いものを、影塑配置を造像組合せ(B型)と名付ける。
  (※注1)影塑; 雕塑の一つで、一般に膠、粘土、細砂と繊維(紙や綿花等)を混ぜて塑泥を作り、表面が乾燥した後、彩色粉で磨き上げる。骨に芯木が有る場合と無い場合がある。一般に崖や壁面に附属する。主尊に附随して、内容を補充するか形式上装飾するもの。麦積山や莫高窟の羽人や飛天等が有名。
A型:造像組合せ及び壁面配置。主尊は三佛か一佛で、その他にも三尊中一身が菩薩もある。脇侍造像及び壁面配置の変化で2式に分かれる。
  Ⅰ式;脇侍造像は菩薩が主。壁面は小龕を配置し、中に思惟菩薩、交脚菩薩、坐佛を奉る;或いは壁面に影塑を配置し、或いは壁面に小龕と影塑を均等に並べ、坐佛や思惟菩薩、交脚菩薩、立像、飛天、供養像等を彫る。第51、74、78、128、148、144、80、76、115、156、89、86、100、114163、16、17、159、132窟(図5-1-13)。その内、第51、74、78窟は僅かに正壁上層の両側に各1ヶの小龕があり;第163窟左壁の主尊は菩薩である。
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  Ⅱ式;脇侍は菩薩以外に、弟子や螺髪の脇侍と力士等の形象が出現する。壁面配置は影塑が主で、坐佛、立像、飛天、供養像、蓮花等がある。第155、92、122、126、142、133、112、154、162、85、87、83、101、121窟(図5-1-14)。その内、第142窟の右壁主尊、第101窟左壁主尊は交脚菩薩である;第155窟壁面の小龕と影塑は均等に列ぶ。
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B型:造像組合せ。脇侍は主要に菩薩と弟子で、壁面は配置が無い。主尊の変化で2式に分かれる。
  Ⅰ式;主尊は三佛か一佛で、別に三尊中に維摩詰と文殊が出現する。第161、158、139、140、81、135、172、127、147、146、120、102、20、44、123、145、105、62、14、5、24窟(図5-1-15:1、2)。その内、第102窟左壁と123窟右壁の主尊は、維摩詰と文殊である;第139と14窟の脇侍は力士で、だい14お窟は螺髪の脇侍で、だい123窟の脇侍は菩薩と弟子を除いて、男童子と女童子の供養像である。
  Ⅱ式;主尊は流行の七佛で、五佛が出現する。第141、36、39、32、109、35、4、9、65、12、7、27、26、15窟(図5-1-15:3)。その内、第15窟の主尊は五佛。
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4.模擬几帳、模擬木構造
 洞窟内外の模擬几帳と模擬木構造の雕飾の内容は、窟内の模擬几帳と架構を倣帳構陳設(A型)と名付け、窟外の模擬木構造建築を倣木構窟廊(B型)と名付け、洞窟内の模擬木構造建築を倣木構梁架(C型)と名付ける。
A型:倣帳構陳設。窟内の四隅には多くは帳柱(注、几帳の足)が彫られ、四壁の頂端には帳楣(注、几帳の手、横木の意)を彫り出し、四隅から中心に向かって斜めに帳桿を出し、窟頂で交わる。窟頂の形制の変化で2式に分かれる。
  Ⅰ式:長方形で窟頂を覆う。第127、43窟(図5-1-16:1、2)。
  Ⅱ式:正方形で窟頂を覆う。第141、36、39、32、109、35、4、65、62、12、7、27、26、14窟(図5-1-16:3、4)。
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B型:倣木構窟廊。平面の桁行は3間か7間。頭貫と柱の一の関係で2式に分かれる。
  Ⅰ式:頭貫が柱頭の大斗の上に置かれるか、大斗の上に直接垂木を彫る。第43、49、28,30、1、4窟(図5-1-17:1~3)。その内、第43、49、28、30、4窟は単椽の寄棟屋根である。
  Ⅱ式:頭貫が柱頭の間に位置し、柱と繋いで一体となる。頭貫の上に湾曲した脚状の叉手(※注1)を置く。第5窟(図5-1-17:4)。
C型:倣木構梁架。窟内に梁を彫り出し、叉手、替木及び脊椽(※注2)等の細部に模擬木構造の梁を架す。第3、15窟(図5-1-17:5)。
  (※注1);原文に「叉手」とあるが、図から見て、人字型の間斗束であろう。
  (※注2);替木は、柱頭と梁や桁を三角形状に固める材。脊椽は、大棟を受ける主桁材。
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三 北朝窟龕の時代区分と年代
1.北朝窟龕の時代区分
 以上の99ヶ所の窟龕の4項目の内容を基に対比すると、時期区分は表5-1-1のようになる。
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 表中、第51,74,78,70,71,128,148,144,80,76,115,156,89,86,143,77,75,68,73,169,69,100,114,155等25ヶ窟龕は、佛衣が覆肩袒右式(AⅠ)と通肩式(BⅠ)である。菩薩衣飾は下裙式(AⅠ)。題材配置は主尊三佛か一佛と脇侍菩薩の組合せで;壁面に小龕と影塑を配置し、内容は思惟菩薩、交脚菩薩、坐佛、立像、飛天、供養人等(AⅠ)。この25ヶ窟龕の佛像着衣と題材配置の形式はかなり一致し、第一組に帰納する。

 第163,16,17,159,132,131,92,23,122,126,142,133,112,154,162,85,87,83,101,121,161,158,129,164,138,99,139,140,81等29ヶ窟龕は、佛衣が上衣搭肘式で、一種の裾端は3分或は4分し(CⅡ)、もう一種は2分する(CⅢ)。菩薩の衣飾は下裙式(AⅡ、AⅢ)と交領大袖式(B)。題材配置は主尊が三佛か一佛が主で、別に三尊中一身が菩薩で、脇侍が菩薩を除いて、弟子、力士、螺髪脇侍等を増やすものが出現する;壁面配置は、小龕と影塑で、内容は坐佛、立像、思惟菩薩、交脚菩薩、飛天、供養人、蓮花等(AⅠ、AⅡ)があり、壁面に配置しないものもある(BⅠ)。この29ヶ窟龕の佛像着衣と題材配置の形式は2つともかなり多く、第二組に帰納する。

 第135,172,127,43,49,28,30,1,147,146,120,102,20,44,123,145,105等17ヶ窟龕で、佛衣は上衣搭肘式、裾端は2分する(CⅢ)。菩薩の衣飾は交領大袖式(C)と下裙式(AⅢ)。題材配置は、主尊が三佛か一佛が主で、別に三尊中に維摩詰と文殊が出現し、脇侍は菩薩と弟子が主である;壁面は配置が無い(BⅠ)。模擬几帳と模擬木構造(AⅠ、BⅠ)が流行を開始する。この17ヶ窟龕の佛像着衣や題材配置と模擬几帳、模擬木構造の形式はかなり接近して居り、第三組に帰納する。

 第141,36,41,45,157,22,82,94,97,166,39,32,109,35,4,3,9,31,65,62,12,7,27,26等24ヶ窟龕で、佛衣は覆肩袒右式(AⅡ)、通肩式(BⅡ)、露胸通肩式(DⅡ)と中衣搭肘式(EⅠ)。菩薩衣飾は下裙式(AⅣ)が主である。題材配置は、主尊七佛が主で、脇侍は多くの菩薩と弟子で、壁面は配置が無い(BⅡ)。模擬几帳と模擬木構造(AⅡ、BⅠ、C)が盛行する。この24ヶ窟龕n佛像着衣、題材配置と模擬几帳、模擬木構造の形式は多くの同じ所があり、第四期に帰納する。

 第14,15,5,24等4ヶ窟龕で、佛衣は中衣搭肘式(EⅡ)。菩薩の衣飾は下裙式(AⅣ)。題材配置は、主尊を三佛か一佛で、五佛が出現し、脇侍は菩薩と弟子が主で、壁面は配置が無い(BⅠ、BⅡ)。模擬几帳と模擬木構造が踏襲される(AⅡ、BⅡ、C)。この4ヶ窟の佛像着衣、題材配置と模擬几帳と模擬木構造形式はかなり近似しており、第五組に帰納する。

その中で、第一組の第115窟の佛座正面の墨書に“景明三年(502)”の紀年が有る。第二組の佛像着衣は新様式の出現で、脇侍の形象が増加する。第三組壁面には配置が無く、模擬几帳と模擬木構造が出現する。第四組は主尊七佛と模擬几帳、模擬木構造が流行する。第五組は、佛衣に鈎紐状を作る。佛衣が鈎紐で飾られるのは隋唐東部地区で甚だ流行したもので、例えば龍門石窟の貞観十五年(641)頃完工した賓陽南洞正壁、済南神通寺千佛崖顕慶二年(657) 駙馬劉玄意造像、顕慶三年(658)趙王福造像の佛衣等。
 これに基づき、五組の間には、最早の第一組から最晩の第五組までの変化の相対年代順序があり、麦積山の5つの時期の窟龕の発展と変化を反映している。


次回は、麦積山北朝窟龕(3)


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# by songofta | 2017-03-03 21:49 | 旅と地域

205 麦積山北朝窟龕(1)

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第五章 西部地区の佛像着衣

第一節 麦積山石窟北朝佛像の着衣
一 麦積山北朝窟龕の時期区分回顧
麦積山は秦嶺山脈の西端北麓にあり、甘粛省天水市の東南、45kmに位置する。山は142m、窟龕群は垂直にそそり立つ絶壁南面上に開鑿されていて、洞窟の最も低い洞窟は地面から20mで、最も高い者は地面から80mにある。湿った雨が多く、度々の地震により、岩壁の中央部は崩壊が激しく、一般に遺存する窟龕の分布は西崖と東崖の両地区に計画されたものとなる。1941年の初めて調査で付けられた編号は121窟龕だが、1953年に194に増やされ、21世紀初めに三度目に補編されて、現在麦積山の窟龕は合計221ヶ所である。
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 現存遺跡の調査研究では、麦積山石窟は北朝の窟龕数が多く、規模大で、続いた時期が長い事で最も知られる。20世紀80年代以来、絶え間なく学者の注目を引いてきた麦積山北朝洞窟の時期区分問題は主要に3説ある。

 薫玉祥《麦積山石窟的分期》は窟龕の形制、造像内容、造像の特徴及び関係する歴史文献と造像銘文に依拠し、北朝洞窟を十六国(後秦、西秦を含め)、北魏(中を3期に分ける)、西魏、北周、隋等の7期に分ける。この説は、この問題に関して深く検討したかなり早い1篇で、含まれる北朝の窟龕数量がかなり多く、逐一の細かい分析は未だで、加えて対比に用いたその他の石窟は、造像等の資料に限りが有り、現在から見ると区分の根拠が充分とはいえない。
 閻文儒《麦積山石窟の歴史、分期と其の題材》は、文献と結び付けて記載し、窟龕の形制及び造像の特徴と芸術風格等、北朝洞窟を4つの時期に分けた。即ち一、二期(西秦と北朝早期)と、三、四期(北周、隋)。この説の主旨は、北朝洞窟の区分に注意を向ける事ではないので、北朝窟龕については部分的で、くつ龕の前面的な観察を基にしている訳ではない。
 李裕群《北朝晩期石窟寺研究》は考古類型法を運用して、初めて中原北方地区の北朝晩期石窟の総合的研究を進め、麦積山石窟は其の中の一部分である。文中、麦積山のどの洞窟も、窟龕の形制や題材内容と造像の特徴の3方面の類型を対比し、その基礎の上に文献記載とその他紀を考えるべき石窟や造像等の資料を根拠として、麦積山の北朝晩期洞窟を、西魏、北周、隋の3つの時期に分け、その時期区分の結論は合理的である。但、文章研究は遺存する年代の充填が北朝晩期に有り、麦積山の北朝窟龕の全面的な時期区分研究には成っていない。

 本論文は、以上の初研究の基礎の上に、考古類型学の方法で麦積山の北朝窟龕の時期区分を再検討する。前人と異なる所は、類型対比の窟龕形制、題材内容と造像特徴の3項目の遺存を更に細分化し、明確にして、造像特徴は主尊の佛衣と脇侍菩薩の衣飾に注目し、題材内容は造像の組合せ及び壁面配置の間の関係を考慮し、窟龕形制は洞窟内外の模擬帳と模擬木構造の雕飾等に充填を置く。以下は、上述の3項目の遺存情況のかなり良好の99ヶ窟龕を選択して分析研究し、或る種の新しい論証を増補或いは明確にするものである。

二 佛像着衣と題材配置及び模擬帳、模擬木構造の類型対比
1.主尊佛衣
 麦積山北朝佛衣は合計5種の類型があり、分けると覆肩袒右式(A型)、通肩式(B型)、上衣搭肘式(C型)、露胸通肩式(D型)、中衣搭肘式(E型)である。
A型:覆肩袒右式佛衣。外層は上衣が両肩を覆って、右衣の角は右脇の下方を巻いて左肩に掛かる。衣紋の変化で2式に分かれる。
  Ⅰ式:衣のしわは細密。第74、78、90、70、71、128、148、115、156、89、86、143、77、68、73、114、155窟龕(図5-1-1:1~6)。その内、第74、78、90、70、71、128、148、115、89、143、77、155窟龕の上衣の衣飾は匂聯紋。
  Ⅱ式:衣のしわは疎ら。第141、109、31窟龕(図5-1-1:7)。
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B型:通肩式佛衣。外層の上衣は両肩を覆い、右衣の角は頚を巻いて左肩に掛かる。衣紋と裾端の変化で2式に分かれる。
  Ⅰ式:衣のしわは細密。第76、75、69、114、155窟龕(図5-1-2:1~3)。
  Ⅱ式:衣のしわは疎らで、裾端は多くが座の前を覆い、二分される。第141、36、41、45、157、39、32、109、31、65、62、12、7、27窟(図5-1-2:4~6)。
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C型:上衣搭肘式佛衣。外層の上衣は両肩を覆い、右衣の角は胸腹の前を横切り左肘に掛かる。;中層の中衣は上衣の覆う形式と一致する。衣紋と裾端の形式の変化で4式に分かれる。
  Ⅰ式:衣のシワは細密である。胸腹部に少量の匂聯紋がある;裾端は座の前を覆わず。第114窟(図5-1-3:1)
  Ⅱ式:裾端が座の前を覆い、三分或は四分する。大163、16、17、131、23、122、126、142、133、112、154、85、101、121、161、158、129、164、138、140、81窟(図5-1-3:2~8)。
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  Ⅲ式:裾端が座の前を覆い、二分する。第159、132、92、154、162、87、83、101、121、139、81、135、172、127、147、146、120、102、20、44、123、145、36窟龕(図5-1-4:1~11)。一般に上衣の右腿のところに花弁状の装飾があり、中衣は縦筋の衣縁を飾る。その内で、第162、101、20窟は只上衣の右腿に花弁状の飾りがある;第146、120、102、44窟は只中衣に縦筋の衣縁を飾る;第159、121、123、145、36窟の上衣は花弁状の装飾をせず、中衣に縦筋の衣縁を持たない。
  Ⅳ式:裾端が平らに椅坐佛の脛前を覆う。第5窟(図5-1-4:12)。
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D型:露胸通肩式佛衣。外層の上衣は両肩を覆い、右衣の角は前身を巻いて左肩に掛かり、衣縁は“U”字形を呈して垂れて胸腹部に至る。裾端の変化で2式に分かれる。
  Ⅰ式:裾端は座の前を覆い、三分する。第17、1422、99窟(図5-1-5:1)。
  Ⅱ式:裾端は座の前を覆い、二分する。第120、141、36、22、82、94、97、166、39、32、26窟(図5-1-5:2~4)。
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E型:中衣搭肘式佛衣。中層の中衣は両肩を覆い、右衣の角は垂れて右肘に掛かる;外層の上衣は、両肩を覆うか右肩は覆わないで、右衣の角は右脇下を巻いて左肩に掛かる。裾端の変化で2式に分かれる。
  Ⅰ式:裾端は座の前を覆い、二分する。第109、31、65、62、12、7、26窟(図5-1-6:1~4)。
  Ⅱ式:裾端は座の前を覆って、座の両側まで伸び、だいたい立方体形状を呈する。第14、15、5、24窟(図5-1-6:5、6)。その内、第14、5窟の上衣の右衣の角は、胸腹の所で鈎紐に架けている様に作るが、鈎紐は未だ出現していない。
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2.脇侍菩薩の衣飾
 菩薩衣飾の分類と呼称に関して、専門の研究はかなり少ない。叙述の都合のため、現在の着用形式の主要な特徴を以下のように名付ける事とする:上身裸体、或は僧祇支式内衣に似た物を着て、下身は裙を着るので、下裙式(A型)と名付ける。;裁断した交叉襟の大袖の繋ぎ服を着るのを、交領大袖式(B型)と名付ける。;佛の上衣搭肘式に相似なものは、上衣搭肘式(C型)とする。
A型:下裙式菩薩衣飾。下裙及び領巾の変化で4式に分かれる。
  Ⅰ式:上身は裸身、下に裙を着る。左肩から右腿に向かって斜めに領巾が覆い、斜めの領巾と下裙は波谷紋で飾る。領巾は肩に掛かり体側に沿って流れる。第74、78、70、71、128、80、76、115、156、68、169、100、114、155、163、23窟(図5-1-7)。その内、第74窟の菩薩は斜めの領巾と下裙の波谷紋部に匂聯紋を飾る。
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  Ⅱ式:上身に僧祇支式に似た内衣を着るか裸で、下に裙を着る。裙の裾端は2層で、内層の裙は波谷紋を飾る。領巾は肩に掛かり、一般に腹の前で交叉する。第69、163、16、17、122、142、133、85、139、140窟(図5-1-8)。その内、第163窟の領巾は体側に沿って流れる;その他に、第122、142、85、139、140窟は、瓔珞が領巾の上に重なって置かれる。
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  Ⅲ式:上身に僧祇支式に似た内衣を着るか裸で、下に裙を着る。裙の裾端は単層で、領巾は肩に掛かり、腹前で交叉するか体側に沿って流れる。第159、133、87、83、140、81,127、44、145、105、141、22、65、27窟(図5-1-9)。その内、第159、140、44窟の領巾は腹前で交叉し、第105、141、22、65、27窟の領巾は腹前で交叉して輪を作って着、第87、83、81、127、44、145窟の領巾は体側に沿って流れる;第87窟の瓔珞は腹前で交叉し、だい140、27窟の瓔珞は領巾の上で重なって置かれる。
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  Ⅳ式:上身は僧祇支式に似た内衣を着るか裸で、下に裙を着る。裙の裾端は単層で、領巾は肩に掛かり腹前を横に1筋か2筋が通る。第36、141、45、82、94、166、62、12、26、14、5、24窟(図5-1-10)。その内、第166窟は領巾が無い;第45、94、166窟龕の瓔珞は片方の肩から下に垂れて腿前で横切る;第62、12、26窟の瓔珞は両肩から下に垂れ大円環状を呈す。
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B型:交領大袖式菩薩衣飾。裁断した交領大袖の繋ぎ服を着て、領巾は肩に掛かって腹前で交叉するか体側に沿って流れる。第132、92、87、101、121、81、135、172、146、120、102、20、123、105窟龕(図5-1-11)。その内、だい132、101、121、135、146窟龕の領巾は腹前で交叉し、第87、102窟の領巾はは前で交叉し輪を作って着、第92、81、135、120、20、123、105窟の領巾は体側に沿って流れる。
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C型:上衣搭肘式菩薩衣飾。外層の上衣は両肩を覆い、右衣の角は胸腹の前を横切って左肘に掛かる。第126、142窟(図5-1-12)。
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次回に、続く


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総目次 
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  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
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  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
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# by songofta | 2017-03-02 08:57 | 旅と地域

204 雲崗石窟3窟の着衣

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第七節 雲崗石窟第3窟佛像の着衣

 雲崗石窟第3窟は窟郡の東部に位置し、雲崗石窟最大の洞窟で、開鑿時期は第二期頃(471-494)、但、北魏一代では内部工程まで終わって未完成のままである。
 第3窟は、前室と皇室に分かれ、平面は横長方形で、前室下層は東西幅50m、後室平面は凹形で東西幅43m、後室正壁西側とアーチ門に相対した所に一大龕が在り、内部に一椅坐佛二脇侍菩薩を彫り、椅坐佛の高さ10m、脇侍菩薩の高さ5.7mである。
 第3窟後室のこの椅坐大佛とその脇侍菩薩は、風格が北魏造像と甚だしく異なる。その雕鑿時期は、20世紀30年代以来、隋像と論ずる者や、初唐と呼ぶ者、更には晩いのでは遼代とする者までいる。文献の記載により、今は一般に初唐が適当だろうとされている。本論文では、三尊造像の着衣の基礎から大像の開鑿時期を分析してみよう。

 第3窟椅坐佛の左手は、掌を横に外向きに左膝に置き、右手の掌を外に向け、指を上向きに胸前に立て、施無畏印を結ぶ。佛衣は通肩式(図4-7-1)で、即ち外層の上衣は両肩を覆い、右衣の角は頚を巻いて左肩に掛かる。この種の佛衣類形の源は印度で、漢地に流伝したのはかなり早く、例えば米国サンフランシスコアジア芸術館蔵の後趙建武四年(338)銅佛像があり、通肩式佛衣は、北朝と唐代にいずれもかなり流行した佛衣類型である。但し、唐代の通肩式佛衣の胸前は波谷状の衣紋飾の円弧度が緩やかで、線条の距離は適度である。北朝は多種の形式が有り、或る者は斜めに右胸に走る、例えば米国ハーバード大学フォッグ美術館蔵金銅像;或は胸前で四角く折れ曲がる、例えば上述の建武四年像;或は胸前でV状となる、例えば雲崗一期17、19、20窟佛像;或は胸前で平らに展開した円弧状のもの、例えば東魏・北斉の北響堂北銅と中洞の造像等。
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 現在知られるかなり早い唐代の通肩式佛衣は、完工年代が唐高宗永徽四年(653)頃の早い時期の麟遊慈善寺石窟2窟右壁大龕内主尊佛衣(図4-7-2)がある。主尊の左手は左膝上に置き、掌を上に向け、足付き小鉢を握り、右手の掌を外の向け、指を上に向けて胸前に立て、施無畏印を結ぶ。雲崗第3窟大佛の佛衣と手印は慈善寺2窟右壁主尊像と相似である。
 第3窟大佛の両側の脇侍菩薩は、上体は斜めにネット状のものを腋に被せ、下は裙を着て、腰部は帯を締め、両肩部は領巾を被り、装飾は簡単である(図4-7-3)。右側の菩薩は頭に花冠を戴き、花冠の中央には宝瓶がある(図4-7-4)。上述の麟遊慈善寺2窟左壁大龕内二脇侍菩薩の衣飾(図4-7-5)と雲崗第3窟のは関係が近い。貞観二年(628)開鑿の彬県大佛洞、龍門石窟の貞観十年(636)にやや晩く、顕慶五年(660)より早い宾陽南洞正壁の五身大像、及び永徽末から顕慶年間(655-661)営造の潜渓寺等は、その右脇侍菩薩の花冠の真ん中に宝瓶を刻む。
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 魏末に平城が荒廃し、北斉が平城の東御河東岸に恒安鎮を建て、その遺跡が今の大同市の東郊、故城村一帯に在るが、唐初に長安の高僧が、かつての雲崗石窟を恒安石窟とする多くの記述が在る。雲崗石窟の再建設に関する記録が唐初に見え、《大金西京武州山重修大石窟寺碑》に記す“唐貞観十五年(641)、守臣重建”、《古清涼伝》巻上:“中台の南30余里、山の麓に四通八達の所があり・・・・・傍らに石室3間・・・・・咸亨三年(672) 儼禅師これを建てる・・・・儼は朔州の人である・・・・その修業すること純粋で、精励刻苦は並外れて、徳行は深く、このような人は太原以北では彼だけである。恒安で孝文帝の石窟故像を修理し・・・・咸亨四年(673)石室で亡くなる。” 《古清涼伝》は唐藍谷の沙門慧祥の選で、生地は上元三年(676)迄で、慧祥の選書が高宗期であると知れる。
 以上の実物と文献記載とを対比して、第3窟大像は高宗前期に置かれ、永徽から咸亨年間(650-674)頃であろう。

第八節 浚県大佛の佛衣

 河南省浚県の東南1kmの大伾山の東崖に、山に懸かって開鑿した高さ22.29mの椅坐大佛がある。大佛の鑿造年代は、文献材料と造像風格から推測して、目下の所、主要には後趙雕鑿と北斉開鑿唐初完成の2種の意見がある。本論文は、大佛の坐姿、手印と佛衣を基礎に、大佛の年代問題に試論を述べる。

一 浚県大佛の形制の特徴
 浚県大佛の両腿は椅坐を下に垂れる;左手は手の平を下に向け膝を撫で、右手は掌を外に向け、指を上に向けて胸前に立て、施無畏印を結ぶ。
 大佛は度々後代の修補を受け、主要には胸腹部の泥塑衣縁と彩色絵、螺髪の泥塑、僧祇支の形状も改変されているが、佛衣の基本様式は動いていないようで、中衣搭肘式類型に属す(図4-8-1)。中衣は身体の後ろを通って両肩に掛かり、右衣の角は直接右肘に垂れ、上衣は左肩を覆い中衣に遮られ、上衣の右衣の角は右脇下より下方を巻いて左形二掛かる。
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 以上浚県大佛の具有する坐姿、手印と佛衣様式は、南北朝時期に既に出現している。佛が椅坐する形式は、例えば雲崗8、7窟主室正壁上層大龕内佛像にある(図4-8-2:1、2)。雲崗第8、7双窟は曇曜五窟の後に続いて開鑿された洞窟で、雲崗石窟の営造は和平初年(460)に始まり、沙門統の曇曜の文成帝への請求の提出を経て、洞窟5ヶ所が開設した。この最初の5窟は一般に今の雲崗第16~20窟とされて居り、5窟開鑿の下限は献文帝末年(470)と推定され、第8、7双窟の開鑿時期は孝文帝初年(471)に置かれる。
 佛の椅坐は、左手を膝にあて、右手は施無畏印の形式で、例えば雲崗19窟の東・西脇洞正壁佛像(図4-8-2:3、4)、第19窟東・西脇洞は北魏の洛陽遷都(494)後になって完工下かも知れない。
 佛衣が中衣搭肘式の様式は、例えば北魏の洛陽遷都(494)後の大5:11窟の主尊佛衣(図4-8-2:5)である。浚県大佛との大体の区別は、雲崗第5:11窟佛衣の上衣は先に右肩の一部を覆って、その後右衣の角は右脇下より巻いて左肘に掛かることである。
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 浚県大佛は南北朝前後に出現した数種の要素を集めて一つにして椅坐式として、左手は膝を撫で、右手は施無畏印とし、中衣搭肘式佛衣を着る。

二 浚県大佛と相似の造像
 この種の椅坐式は、左手が膝を撫で、右手は施無畏印で、中衣搭肘式佛衣の石刻造像、主要には唐代に出現し、銘文が有って主題が明確なのは弥勒像である。例えば山西省博物館蔵咸亨三年(672)裴居倹造像は、高さ1.03m(図4-8-3:1);米国サンフランシスコ・アジア美術館蔵上元二年(675)弥勒像は、高さ0.70m;東京国立博物館蔵長安七宝台長安三年(703)造像は、高さ1.08m;山西省博物館蔵天宝四年(754)李村十九人造弥勒像は、高1.57m(図4-8-3:2)等。龍門石窟恵簡洞は唐咸亨四年(673)完成で、主尊は弥勒椅坐像の中衣搭肘式佛衣の上述の造像で、手印はやや異なり、右手は膝を撫で、左手は掌を上に向けて膝の上に置く。
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 浚県大佛の坐姿と手印と佛衣の3項目が基本的に一致する摩崖大像も、唐代に集中する。例えば、天龍山第9窟摩崖大像は、高さ5.2m、武則天(684-704)から玄宗の開元初期(713-720)頃の開鑿で(図4-8-4:1)、この像の上衣は上身の左側部分を(中衣で)遮蔽されていない;莫高窟第96窟即ち北大像は、高さ33m、武周延載二年(695)造、左手の掌を上に向け膝の上に置き、他の違いは略す。莫高窟第130窟即ち南大像の弥勒佛は、高さ26m、造られたのが開元九年(721)から天宝初(742-756)で、前後約25年以上かかっている(図4-8-4:2)。甘谷大像山大佛は、高さ23.3m(図4-8-4:3);武山木梯寺第14窟大佛は、高さ6.38m。
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 この他、唐代摩崖大佛と浚県大佛は坐姿と佛衣が同じだが、手印は異なり、両手で膝を撫でる形式である。例えば楽山大佛は、高さ71m、唐徳宗(在位780-805)期の名宦官で、剣南西川節度使に任じ、蜀を統治した21年に符合し、貞元十九年(803)選の《嘉州凌雲寺大弥勒佛石像記》には、楽山大佛の建造始末を記述して:開元(713-741)初、海通和尚は東岷江と青衣江、大渡江の合流による水害の解決のため、“未来因を重んじ、弥勒像を作る”、“天険を慈悲の力で奪い、暴浪を安流に変える”事を願い、工程は大規模で、海通が亡くなった時、大佛はなお“全身未だ終わらず”;開元(713-74)中工事が続いた;貞元(785-805)時期、韋臯が主持して蓮花座から膝部の造型の開鑿を続け、貞元十九年(803)完工した。その主体の工程は開元(714-741)時期にある。自貢市榮県大佛は、高さ36.67m;固原須弥山第5窟大佛は、高さ20.60m(図4-8-4:4)、開鑿は高宗の永隆元年から武周如意元年(680-692)。
 それ以外にまだ、唐代の摩崖大像と浚県大佛の坐姿と手印が同じだが、佛衣が後代の修復を受けて、様式が区別出来ないものに、武夷天梯山第13窟大佛、高さ23mがある。
 炳霊寺第171窟大佛は高さ27m、唐開元十九年(731)の建設かも知れない。この像は椅坐は浚県大佛と同じで、佛衣と手臂が後代の修理改造を受け、はっきりと判らない。
 以上、石刻造像と摩崖大像で椅坐式を具備して、左手は膝を撫で、右手は施無畏印、中衣搭肘式佛衣等の3項目の要素を具えるもの、及び摩崖大像で坐姿と佛衣の2項目或は坐姿が上述の造像は、主な流行が高宗(650-683)後期から玄宗の開元時期(713-741)までである。
 これらと浚県大佛と相似の造像は、主題が”弥勒”で、弥勒像のある種の造型と考えられる。唐代の弥勒像は、特に摩崖弥勒大像の出現は、武則天の唐から周への変更と関係があるかも知れない。載初元年(689)、”沙門十人が偽選した《大雲経》が上表、神皇受命が盛んに流布し、天下に発布して、諸州に大雲寺を置き、総度僧は千人“。又、”懐義と法明等は《大雲経》を作り、陳符命に、武則天は弥勒の生まれ変わり、閻浮提の主となし、唐の宗室は衰微した“。証聖元年(695)、武則天は自ら弥勒に仮託して、”尊号を加えて慈氏、越古金輪聖神皇帝と言った”。

三 浚県大佛の年代推測
 浚県は、漢代冀州魏郡に属し、黎陽と言い、《漢書・地理志》の晋灼の注に、“黎山はその南にあり、黄河が東に流れる。その山上碑の言う県を取って山の名とし、黄河の陽(注;北岸の意)から名とした。“ 黎山即ち太伾山である。北魏考昌(525-527)中、黎陽郡を置く、司州に属す。隋の衛州、唐武徳二年(619)黎州を置き、貞観十七年(643)黎州を廃し衛州に戻す。
 隋開皇三年(583):”衛州に黎陽倉を置き、洛州に河陽倉を置き、陜州に常平倉を置き、華州に広通倉を置き、転相灌注(注;水を移して注ぐ、の意か)。関東を漕だして(山西省の) 汾川に至り、晋の粟を京師に供給する。“ ”黎陽倉と洛陽口が重なり、一邑の倉ではなく、天下の倉である“。”《一統志》に言う:黎陽倉は大明府浚県の東2里、大伾山北麓、隋文帝の置く所である。隋が乱れた時、李密は倉を襲い兵や民を賑わす。唐宋は皆その制度を復し、河北の糧秣を以って京師の食卓に載せた。政和(1111-1118)後黄河は流れを変え、初めて廃止した。” 宋人は太伾山に遊び、”倉はまだ残り、数十万を収容し、一山の上に遍く広がる”。
 春秋時代より、黄河は黎陽一帯は水害が史上絶えることが無かった。例えば、漢の文帝が“十二年(前168)冬十二月、黄河が東郡で決壊”、漢武帝元豊二年(前109)“夏四月、泰山を祀る。瓠子に至り、黄河の決壊に臨んで、従う臣や将軍に命じ、皆薪を背負い堤防を塞ぐ、《瓠子の歌》を作る”;唐憲宗元和八年(813)十二月“黄河溢れ・・・・万人を徴発し、黎陽の境で黄河の旧河道を開き、南北の長さ18里、東西に60歩、深さ1丈7尺、決壊した旧黄河の水勢であった”;宋大中祥符四年(1011)八月“黄河が通利軍で決壊し、御河と合流、州城を壊し田や家を傷つけた。遣使して粟を出しこれを振る舞う”、“天禧(1017-1021)中、黄河が決壊、陳堯佐を起用し滑州の知事となり、木龍を造って水勢を殺し、又堤防を築いた。人はこれを‘陳公堤’と呼んだ”等。唐宋時期の治水は漢代と異なり、主として浚渫する積極的な措置で、これは黎陽倉の特別な地位に関係し、水運を保証するだけでなく、これにより京師の糧食の供給が保証出来ることになる。嘉慶の《浚県志》に引く《名勝志》は:“太伾東岸は大佛岸と言い、即ち山に佛像一躯あり、高さは尋丈余り、昔の人はこれを鑿し黄河を鎮める者とした。” 説明は大伾山東麓に鑿した大佛を説明し、その効用は楽山大佛と相似で、亦、弥勒の慈悲力を借りて水害を鎮めようとした。
 造像遺跡と歴史背景の結合に基づくと、浚県大佛の年代は、武則天(684-704)から玄宗開元時期(713-741)となる。

次回は、麦積山北朝窟龕(1)


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# by songofta | 2017-02-28 09:48 | 旅と地域

203 響堂山石窟の北朝佛衣

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第六節 響堂山石窟の北魏佛衣
響堂山石窟は太行山東麓の華北平原に位置し、東魏北斉の都邺城(今の河北省邯鄲市臨漳県)の西30kmの鼓山にあり、滏陽河が鼓山の南面を流れ、邺城と東魏北斉のもう一つの都太原との交通線上にある。邺城は河北省の南端にあり、西には太行山脈が北から南に連綿と繋がって天険となり、南部は黄河が西から東に横切って隔て、地形は殊勝、“平原千里、舟は四通”。邺は禹貢の冀州の域で、秦の天下統一後、上党・邯鄲二郡の地で、漢高帝が魏郡を分置し、後漢末に冀州を置き、曹魏が陪都とし、後趙、冉魏、前燕も同じで、北魏孝文帝が相州と改め、東魏北斉が邺城を都とし、周武帝が斉を平定すると、相州に戻し、隋大業三年相州を魏郡に改めた。
 響堂山石窟と東魏北斉の皇室の関係は密接であった。文献に高歓が邺に遷都した時(534)、石窟寺院を建てたと記載があり、又文献に石窟寺を高洋(在位550-559)が建てたと記載されている。石窟は北響堂山、南響堂山と水浴寺(小響堂)の3ヶ所である。北響堂山は鼓山の西斜面、南響堂山は鼓山の南麓、水浴寺は鼓山の東山麓にある。北朝佛衣の保存は比較的良く、北響堂山の北洞、中洞と南洞、南響堂山の1、5、7窟と水浴寺の西窟:その他に南響堂山の2、4窟造像は既に無いが、旧写真で大体のその情形を知ることが出来る。

一 響堂山石窟の佛衣類型
 響堂山石窟の佛衣は通肩式と中衣搭肘式の2種が主である。
通肩式佛衣:外層の上衣は背中より両肩を覆った後、右衣の角が頚から下を巻いて左肩に向けて掛かる。衣縁は3本の装飾線がある。北響堂北洞と中洞の佛衣(図4-6-1)。
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中衣搭肘式:中層の中衣は両肩を覆い、右衣の角は垂れて右肘に掛かる;外層の上衣は背中を覆って左肩或は両肩を通り、右衣の角は右脇より下を巻いて左肘或は左肩に掛かる。上衣の右衣の角が左肘に掛かるか或は左肩に掛かるかにより2つに分ける。
Ⅰ式;上衣の右衣の角が左肘に掛かる。例えば北響堂南洞の佛衣(図4-6-2)
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Ⅱ式;上衣の右衣の角が左肩に掛かる。例えば北響堂北洞と南洞外の唐邕碑造像、南響堂4、5、7、1、2窟、更には水浴寺西窟の佛衣(図4-6-3)。
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 佛衣類型により、以上の洞窟を2組に分ける。表4-6-1。
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一組は、通肩式佛衣を主とし、この種の佛衣類型は印度に源があり、漢地に流伝した時期は比較的早く、例えばサンフランシスコ・アジア芸術館蔵の後趙建武四年(338)銅造像がある。但、一組の通肩式佛衣の裾端は平らに座上に敷かれ、この種の形式の最早は栖霞山石窟28窟に見え、その紀年は梁代の中大通二年(530)。
二組は、中衣搭肘式佛衣で、新様式の一種である。これにより、2組の総体年代の序列は、一組が二組より早く、即ち一組が一期で、二組が二期となる。
 北響堂南洞の外に《晋昌郡公唐邕刻経記》碑記載;“鼓山石窟で、維摩詰経1部、勝鬘経1部、孛経1部弥勒成仏経1部を写経する。天統四年(568)三月一日に始め、武平三年(572)壬辰五月八日終わる”。四部の経文は南洞前廊の内外壁面上に刻まれ、故に南洞の開鑿は天統四年(568)三月一日以前となる。水浴寺西窟後壁左側の定光佛頭光右側に“武平五年(574)”の造像発願文がある。南響堂山2窟の窟門外両側龕内の隋代沙門道浄選《滏山石窟之碑》記載:“霊化寺比丘慧義・・・・・斉国天統元年(565)乙酉の年、この石山を切り、寺廟を興建する。時に大丞相淮陰王高阿那肱、翼帝都を出て、ここに駕を停め憩い、草創を見て、大心を発し、坊舎を広げ珍貴な財を寄進、この□□の窟を開く。霊像は千躯の如く、厳然として□を照らす・・・・功成って幾許もなく、武帝が山東を平定、塔寺を一掃し、思うままに探しだして破壊した。“この段の文字の叙述に基づき、南響堂山石窟の開鑿は天統元年(565)頃で、建設期間に当時の朝廷の丞相高阿那肱の資金援助があり、完工時期は北周武帝が北斉を滅亡させり以前で余り前ではない頃で、周武帝が北斉を滅ぼすのは建徳六年(577)である。(※注1)
 以上の記載により、二期の年代を推断すると河清から北斉滅亡の562-577年頃;一期の時期は大体東魏から北斉文宣帝時期の534-559年頃となる。

二 響堂山石窟の中衣搭肘式佛衣の源流
響堂山石窟に中衣搭肘式佛衣は、これ以前に較べてはっきりした佛衣類型である。
そのⅠ式佛衣は、外層の上衣の右衣の角は右脇を経て下を巻いて左肘に掛かる。この種の形式の最早は、南朝栖霞山石窟の開鑿が斉と梁の境の18窟の佛衣(図4-6-4:1)で、これに較べやや晩いのが雲崗三期(494-524)の5:11窟佛衣(図4-6-4:2)である。栖霞山18窟佛衣の上身は損毀し、外層の上衣の覆う情況は不明だが、上衣の右衣の角は腹の前を横に通り左肘に掛かる。雲崗5:11窟佛衣は、外層の上衣は両肩を覆い、じょういの右衣の角は腹の前を横に通り左肘に掛かる。両者の中衣は均しく帯で互いを締め、この一つの特徴は上衣搭肘式佛衣の形式に受け継がれてきた。例えば四川省博物院蔵茂県永明元年(483)造像碑の上衣搭肘式佛衣は、モネの前で中衣の帯びを締める。響堂山石窟の中衣搭肘式Ⅰ式佛衣は、主要に見られるのは北響南洞で、それは南朝の影響を受けたかも知れず、主な変化は中衣の間の帯び締めを覗いたことである。
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 響堂山石窟の中衣搭肘式佛衣Ⅱ式は、響堂山が初めて造ったものである。それはⅠ式を踏襲し即ち南朝の特徴と言う基礎の上で、最大の変革の所は、外層の上衣右衣の角は右脇下を経て巻いて左肩に掛かる。右衣の角は左肩に掛かって覆う形式は、まさに印度の伝統である。義浄が《南海寄帰内法伝》の中で説く:“その着る法衣は・・・・・・衣の右角を以って寛く左肩に掛け、此れを背後に垂れて、肘の上に安んじる。”である。こうして初唐時期、やはり誤った現象が存在し、このため義浄が又“唐三蔵が伝えた搭肩法(注、肩に掛ける意)”と説いた。同時に、肩に掛けた右衣の角の滑落防止のため、肩部に鈎紐を置いて固定した。《四分律》に言う:“風に吹かれて割截衣が肩から落ちて患うと、諸比丘が佛に申すと、佛が言う:肩の上に鈎紐を付けなさいと”。このように見ると、響堂山石窟の中衣搭肘式佛衣Ⅱ式は、確立した制度としては、がいそうの上衣の覆う形式が印度の搭肩法式に回復させたものである。

 響堂山石窟の中衣搭肘式佛衣Ⅱ式は、北朝後期に東西両地に流行し、唐代に両京地区の主要な佛衣類型となり、この影響を経て全国に及んだ。例えば山東地区の済南五峰山北斉蓮花洞、駝山石窟隋代第2龕の佛衣等、西部地区の麦積山石窟北周と隋代62、5窟の佛衣、完工が隋仁寿二年(602)六月五日前頃の麟遊慈善寺1窟の佛衣、莫高窟隋代427窟の佛衣等;唐代の完工が貞観二年(628)頃の琳県大佛寺大佛洞の佛衣、貞観十五年(641)頃開鑿経営の龍門石窟宾陽南洞正壁大像の佛衣等(図4-6-5)。その中で済南蓮花洞、駝山2龕及び龍門宾陽南洞の佛衣は、左肩に鈎紐の表示を見ることが出来る。そのまま明代に至ると、中衣搭肘式佛衣Ⅱ式は、依然として最多の佛衣類型として表現され、例えば北京法海寺、四川剣閣覚苑寺壁画中の佛衣がある。
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  印度と漢地で、佛教造像に反映した8種の佛衣類型中、中衣搭肘式佛衣Ⅱ式の流伝は、空間の広範さと時間の持久性で、正にどちらも最も突出している。

三 法上の僧服改制問題
 響堂山石窟に集中して出現した中衣搭肘式佛衣の現象は、昭玄統法(※注2)上の僧服改制と関係があるかも知れず、この一点は益々と多くの研究者が賛同してきている。本論文は、この問題に新たな視点を加えるわけでは無いが、響堂山石窟の中衣搭肘式佛衣類型の整理を通して、法上が僧服改制を一歩進めたと言う推断と分析を行う。
《続高僧伝》の記載:
 「(法上は)年40、遊行を願い、守ったが、魏の大将軍高澄が奏して邺城に入城した。含蓄の在る言は重く、民衆が集まること雲のようであった・・・・故に魏斉二代に統帥を歴任。昭玄一曹となり、僧録を一手に掌った。官吏は50人ばかりを置き、僧尼200余万が所属した。綱領将つくこと40年、僧俗は歓喜し、朝廷も喜び・・・・・詔勅して戎師とする、文宣帝は常に布髪の礼をとり、実践された。・・・・・・亡くなると故地の合水寺に戻って埋葬された。享年86歳、周大象二年(579)七月十八日であった・・・・・任につく前は、儀礼服は入り混じっていたが、僧綱を統一し、制度の詳細は別々に、僧俗は2つを異なるものにし、功績があった・・・・・初め、天保年中、国毎に十統を置き、皇帝に報告させ、事の良し悪しを須く判決した。文宣帝は手注状で言う:法師を大統となし、他のことも師を介す。故に帝の待遇し、事えること仏に対する如くで、凡そ、その言は全て用いた。」

法上は、深く東魏の皇室の尊崇を得て、魏斉二代の昭玄統師を歴任し、又戎師となり、天保(550-559)年間、大統に昇任した。” 天保年中、国毎に十統を置き、皇帝に報告させ、事の良し悪しを須く判断した。文宣帝は手注状で言う:法師を大統となし、他のことも師を介し“の記述から見ると、法上の” 制度の詳細は別々に、僧俗は2つを異なるもの“の改革は、おおよそ、文宣帝が在位の時で、彼が大統に成った後に進行している。そしてこの” 制度の詳細“の要旨は、外層の上衣が覆う形式が、印度式の肩に掛かる伝統に回復することかも知れず、それが響堂山石窟の中衣搭肘式佛衣Ⅱ式に反映し、主要に南響堂山と水浴寺で流行したと言える。
 響堂山一期の北響堂北洞中心柱左面の椅坐像は、中衣搭肘式Ⅱ式佛衣で、その完成時期は中心柱正面と右面の通肩式佛衣より少し晩く、法上の改制の産物かも知れない。
 この他、響堂山石窟の脇侍弟子も、多くは中衣搭肘式僧衣である。その内、Ⅰ式は一期北響堂中洞と北響堂南洞部分(図4-6-6)に見える;Ⅱ式は二期北響堂南洞部分と南響堂及び水浴寺(図4-6-7)。唐以後、Ⅱ式は亦僧衣の主流と成り、その中衣は交叉襟と大袖の“直綴” に変化し、中衣直綴式と呼ぶべきものである(図4-6-8)。今日に至るも僧人が仏事を挙行する時に、依然として交叉襟の長袍の外装をし、袒右式の上衣を覆う、即ち外層の上衣は背中より左肩を覆い、右衣の角は右腋下を巻いて左肩に掛かるのは、源が印度佛衣の覆う形式にある。
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 響堂山石窟の佛衣と僧衣の類型を見ると、大量に集中する形式は外層の上衣が右脇下より巻いて左肩に掛かる印度伝統を現出し、これは正にこの一点が、服制が“僧俗は2つを異なるもの”で、この後、漢地は連綿と千余年、この法上による改制が固めた基礎に依っているである。

(※注1);北周武帝の廃仏
 中国古代の大きな廃仏に、“三武一宗の法難”が有る。三武一宗は、北魏太武帝、北周武帝、唐武宗、後周世宗を指す。北周武帝は、北斉を滅ぼした後、北周の仏・道教による荒廃に驚き577年廃仏を宣布、「寺廟8万余ヶ所を邸宅に変え、僧尼300万を還俗、経典仏像を焚毀し、寺の財産を没収した」とある。但し、全面的に禁止したわけではなく、地方毎に1寺は残された。

(※注2);昭玄統法
北魏の頃、佛教教団を統括する官が置かれ、北朝には代々この官職があり、役所を「監福曹」、主事を「道人統」、「沙門統」、「昭玄統」等と呼んだが、後に役所を「昭玄寺」、主事を「大統」と改め、隋代に「崇玄署」と改めた。州等の地方毎に沙門曹等を置き、殺人以外の僧侶の統制を行った。道人統には、曇曜、法上等がいる。唐以後は僧録を設けて僧官機構とした。南朝には、この名称は無く、僧正、法主等の官を置いた。


次回は、雲崗石窟3窟の着衣


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# by songofta | 2017-02-26 12:57 | 旅と地域

202 天龍山石窟の東魏佛衣

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第五節 天龍山石窟の東魏佛衣
天龍山石窟は太原市の西南36kmに位置し、洞窟の主要部は東西2つの峰の山腹の間に在り、編号の有る洞窟は前部で25。第2、3窟は東峰にあり、天龍山石窟で最早の双窟で、雕鑿の時期は北魏末から東魏武定(543-549)の中頃。
 太原の古称は晋陽で、“左に恒山の険があり、右を大河で固める”、“最も天下の雄と言うべき町”と言われた。北魏永煕元年(532)、高歓が“晋陽の四要塞を以って、大丞相府を建て、定住した。・・・・・ここから軍国の政務を取り、皆丞相府に靡いた”。永煕三年(534)、高歓は孝静帝に迫って邺城(今の河南省臨漳県)に遷都させ、自らは晋陽を根拠地として、東魏の朝政を遠隔操作し、晋陽が政治、軍事上の特殊な地位を顕示した。”并州の太原、青州の斉郡は覇業の在る所、王命の基である。”、晋陽の重要性はこのようであった。
 天龍山第2、3窟は隣り合い、両窟の間に鑿窟功徳碑があり、惜しいことに文字が毀れている。両窟の長、幅、高は約2.5m、ほぼ正方形で、頭頂を覆い、3壁3龕、龕毎に一佛に菩薩を彫る。洞窟内の盗掘は甚だしく、幸い5身の主尊は頭部を盗掘されている他は、基本的に保存は良い。」;第3窟右壁龕内佛像は全体が盗掘され、但旧状の写真により、その情形が知れる。本論文は、この6身の主尊を主とし、天龍山東魏時期の佛衣類型とその他の南北朝文化中心の関係を論ずる。

一 天龍山石窟の東魏佛衣類型
 天龍山石窟の東魏の佛衣類型は主要には上衣搭肘式で、即ち上衣は背中より両肩を覆った後、右衣の角は横に腹前を通って左肘に掛かる様式である。その中衣の覆う形式は、2種の類型に分かれる。
a型;中衣と上衣の覆う形式は一致し、背中より両肩を覆った後、右衣の角は腹前より横に通って左肘に掛かる。例えば第2、3窟左右龕の佛衣(図4-5-1)。
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b型;中衣と上衣の覆う形式が異なり、中衣は露胸通肩で覆い、胸部の内側の辺縁が捲れて外に出、上衣の右衣の角は右腋下より巻いて左肘に掛かる。例えば第2、3窟正龕の佛衣(図4-5-2)。
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 この両種の類型の上衣搭肘式佛衣は、上身の内層は均等に袒右の僧祇支が見える;中衣は胸前で帯びを結び、第2窟の左龕以外、余った中衣の身体全体の層数ははっきりしている。佛衣は精緻に考えられ、その裾端の下衣、中衣、上位の縁は線刻が装飾され、頗る華美である。

二 天龍山石窟の上衣搭肘式佛衣の来源
 天龍山石窟の東魏上衣搭肘式佛衣a型と相似な様式は、最早が茂県永明元年(483)造像碑の佛衣で(図4-5-3:1)、南北朝時期に比較的流行し、達エバ成都地区南朝石刻造像佛衣や北魏の政治文化の中心平城と洛陽地区の雲崗と龍門石窟の佛衣等がある(図4-5-3:2~4)。天龍山東魏時期の佛衣の裾端は外にあまり膨らまず、直平で、龍門石窟の北魏末の佛衣と比較的近く、更に多くを洛陽地区の特徴を踏襲している。
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 天龍山石窟の東魏上衣搭肘式佛衣b型と相似な様式は、南京栖霞山石窟の簫斉時期24窟正壁龕内の佛衣(図4-5-4:1) に見られ、さらに現在上海博物館蔵の伝蜀地出土梁中大同元年(546)慧影造像(図4-5-4:2) 等、上衣の右衣の角が均しく右脇下から巻いて左肘に掛かる。
 同時に、栖霞山石窟24窟右壁龕内の佛衣も上衣搭肘式佛衣b型に近く、但上衣が両肩を覆った後、右衣の角が直接前身から腹の前を横に通って左肘に掛かり(図4-5-4:3)、この種の上衣の覆う形式は上衣搭肘式佛衣a型に相似する。
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北魏の遷都(494)後の洛陽地区と西部地区は、いくつか栖霞山石窟24窟右壁龕内の佛衣と相似の実例を見かけられる。例えば、龍門の古陽洞右壁と正壁の頂上が交叉する所にある正始四年(507)二月安定王元夑が亡祖の為、亡くなった母が造った釈迦造龕、左壁第3層の外から内に第4の龕、右壁第2層内側の小龕の佛衣、北魏孝明 (516-528) の始め頃の水泉石窟正壁佛衣、北魏永明二年(509)と三年(510)開鑿の南北石窟寺佛衣等(図4-5-5)。
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 龍門石窟の北魏佛衣類型を整理した情況から見ると、一般に流行の佛衣様式は洞窟の正壁に配置し、やや早く出現したがまだ依然として流行している佛衣様式は、多くが洞窟の正壁以外の位置に配置している。これにより、栖霞山石窟24窟正壁の上衣搭肘式佛衣b型は当時最も流行した様式で、右壁の佛衣の上衣が覆う形式は正壁から格が下がった形式で、左壁の佛衣は露胸通肩式で、栖霞山石窟出現時期が最早のものである。
 天龍山第2、3窟佛衣の配置形式は、上衣搭肘式佛衣b型は両窟の正龕内に位置し、上衣搭肘式a型は両窟の側壁の龕内にあり、北魏龍門と南朝栖霞山と情況が一致する。
 以上の分析から知られることは、天龍山第2、3窟側壁の佛衣類型は洛陽地区を継承;正壁の佛衣類型は南朝建康の影響を受け、この他に、第2、3窟正壁の佛衣に中衣の胸部の内側の辺縁が捲れて外に出る形式は、水泉石窟と相似で、中衣が帯で締める形式とa型は相似で、その幾つかの装飾の細目は洛陽地区の伝統に近い。


次回は、響堂山石窟の北朝佛衣

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# by songofta | 2017-02-24 20:30 | 旅と地域

201 巩県石窟の北魏佛衣

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第四節 巩県石窟の北魏佛衣
 巩県石窟は河南省巩県の東北7.5kmの洛水北岸の大力山南麓に位置し、漢魏洛陽故城の西44kmに在る。現存する北魏後期開鑿の洞窟は5座で、編号は西から東に1-5窟である。
 その内、第1から第4は中心柱窟で、第5窟は3壁3龕窟である。第1、3,4窟は前壁に浮彫の礼佛図がある。
第1窟は、正、左、右壁に各4つの龕を開龕し、右壁の外から第2龕は主尊が菩薩なのと、左壁内の龕の主尊が維摩と文殊である以外、その他の龕は主尊が佛である。第3窟と第4窟は、正、左、右壁の中間に各1龕を開龕し、第3窟の正・左壁龕の主尊は佛で、右龕内は主尊を失っていて情況は不明;第4窟の正・右壁龕は主尊が佛で、左壁龕の主尊は菩薩である。
第1、第3窟の中心柱は単層で開龕し、左面龕の主尊が菩薩である以外は他の3面の龕の主尊は佛である。第4窟の中心柱は上下2層に開龕し、正面上層龕と左面下層龕の主尊が菩薩で、残りは主尊が佛である。
第5窟前壁は各1立佛を彫り、正・右壁龕の主尊は佛で、左壁龕の主尊は菩薩である。第2窟は窟形に開鑿した所で中断しているが、洞窟空間の比例から、中心柱は単層で開龕する雪渓であろう。この他、第1窟外の立面左側と第2窟に繋がる岩壁上に一佛二菩薩の3身の大立像を彫る。
 以上、第2窟を除く、他の窟の佛衣保存は比較的良く、演変脈略ははっきりしている。本論文では、考古類型学の方法で現存の主要佛衣を分析し、併せて佛衣様式の来源とそレを反映して洞窟の開鑿年代問題を深く検討する。

一 巩県石窟の上衣重層式佛衣
 巩県石窟は上衣重層式佛衣が主で、少量の上衣搭肘式佛衣がある。上衣搭肘式佛衣は、上衣は背中より両肩を覆った後、右衣の角は右腋下から巻いて左肘に掛かるものを指し;中衣と上衣の覆う形式は一致し、左右の胸部の衣の縁はそれぞれ2層を表現する。上衣重層式佛衣は即ち上衣搭肘式佛衣の外面に一重の上衣を加えたもの。
 重層上衣が覆う形式は異なり、4式に分けられる。
Ⅰ式:上身の左右胸部の衣縁は各2層で、中衣と上衣の2層を表示し、重層の上衣は上身に表現されない;但し、身体の右側から衣縁が横に腹部を通り、左肘に掛かり、腿部は花弁状の装飾がある。例えば1窟右壁の外から数えて第3龕、第4窟中心柱後面上層と左面上層、第3窟中心柱正面と右面の佛衣である(図4-4-1)。
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Ⅱ式:上身の左右胸部の衣縁は各2層で、中衣と上衣の2層を表示し、重層の上衣は右肩を覆い、身体の右側から衣の縁が横に腹部を通り、左肘に掛かり、腿部は花弁状の装飾がある。重層上衣は上身の右半分を覆う。例えば第1窟正壁右から数えて第1龕、第4窟西壁と北壁、第4窟中心柱右面左側と中心柱後面の佛衣(図4-4-2)。
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Ⅲ式:上身左胸部の衣縁は3層、中衣と上衣の外に又重層上衣があり、右胸部の衣縁は2層、中衣と上衣を表示し、重層上衣は右肩を覆い、身体の右側横から腹部を通り、左肘に掛かる。腿部は花弁状の装飾がある。重層上衣の表現は上身の両側に均しく覆う。例えば、第1窟左壁右から数えて第4龕、第1窟中心柱正右後の3面、第4窟中心柱正面と中心柱右面右側、第3窟中心柱正面後面、第5窟正壁の佛衣(図4-4-3:1-3,5-7)。この他、第1窟外の立面左側立佛の佛衣は左右の胸部衣縁は各3層で、中衣、上衣と重層上衣を表現し、重層上衣は全体を覆う(図4-4-3:4)。
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Ⅳ式:上身の左右胸部の衣縁は各1層で、三衣は簡易化され、中衣は省略、重層上衣は上身に表現されず、身体の右側横から腹部を通り、左肘に掛かる。腿部は花弁状の装飾がある。例えば、第5窟右壁、第2窟左壁補鑿の小龕の佛衣(図4-4-4)。
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 上衣重層式佛衣を除き、少量の上衣搭肘式佛衣があり、例えば第3窟正壁と左壁、第5窟前壁右側の立佛佛衣(図4-4-5)。
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 以上の類型分析により、上衣重層式及び上衣搭肘式佛衣は、表4-4-1のように配列できる。
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二 巩県石窟の上衣重層式佛衣の年代及び来源
 上の4式の上衣重層式佛衣の内、龍門石窟で見られるのはⅡ式で、例えば宾陽中洞、普泰洞、魏字洞、皇甫公窟、地花洞、弥勒北一洞(図4-4-6)。
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その内、宾陽中洞は、即ち《魏書・釈老志》記載の高祖孝文帝、文昭高太后と世宗宣武帝が開鑿した3窟の一つで、約正始二年(505)に開工し、延昌末から煕平初年(515-517)完工したと推測される。皇甫公窟の窟外右側の鑿刻造像碑は、碑文末に”考昌三年(527)”の紀年があり、洞窟の開鑿年代はこの年である。この2つの洞窟の開鑿年代からたどると、龍門石窟の上衣重層式佛衣は、正始二年(505)頃宾陽中洞の開鑿後出現し、武泰元年(528)胡太后が黄河に沈められた段階までに多く見られる。また、龍門石窟の北魏の数種の佛衣類型の分析から、上衣重層式は新様式に属し、孝文、宣武帝時期の旧様式とは別に、その流行時期は胡太后時期(516-528)に分けるのが適当であろう。
 附表に見られるのは、巩県第1、4窟の上衣重層式佛衣のⅠ式、Ⅱ式及びⅢ式は均等に分布し、一つの洞窟中に雛形を経て成熟に至る佛衣形式を表現し、それらの間の前後の順序を表明し、その隔たりが長い期間では無く、龍門石窟の情況と対照してみると、Ⅰ式、Ⅱ式及びⅢ式の上衣重層上衣佛衣の期間は、大体胡太后期(516-528)に集中する。
 成都地区出土の石刻造像中に、Ⅲ式上衣重層式佛衣が見られ、例えば万佛寺紀年無し単体坐像(図4-4-7)。佛衣の裾端を二分し、左肘に掛かる衣の角は小さい紐結びを飾る工法を基に、その他の類型の南朝佛衣とこの2つの特徴を比較すると、およそ普通(520-527)から中大通(529-534)年間に流行したと判断出来る。これも、巩県Ⅰ式、Ⅱ式及びⅢ式の上衣重層式佛衣の時期がおよそ胡太后期(516-528)である傍証を提供している。
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 これらの推測を経て、巩県石窟Ⅳ式の上衣重層式佛衣の時期は、およそ孝明以後北魏滅亡(528-534)か東魏(534-549)初期となる。
 上衣重層式佛衣は、成都と洛陽地区に現存する遺跡中、流行の時期が大体一致し、それらが同一の源頭の影響を受けたことを表明している。関係する研究は成都地区造像の淵源が主要に南朝の都建康からのものと推測され、推測を一歩進めて、龍門と巩県の上衣重層式佛衣も建康の影響と関係が有るかも知れない。5世紀末、北魏王朝の漢化速度は段々と加速し、太和以後、北朝文学の復興は実質上南朝文学の文体文風をまねている;また、梁武帝中期頃、南朝造型芸術の新風は既に北魏洛陽新都に影響し、胡太后が建てた皇家の大寺、永寧寺内に塑像は簫梁の人物形象に極めて接近している。
 重層上衣の覆う形式から見て、巩県Ⅲ式と成都万佛寺のものは更に接近している。但、巩県と龍門石窟の上衣重層式佛衣の腿武は皆花弁状の装飾で、この佛衣様式は北朝の細部の変化のようで、巩県と龍門がどういつの設計の出自をもっている。

三 上衣重層式佛衣が反映する洞窟の開鑿年代問題
 巩県石窟第1、2窟は西区に分布し、第3、4,5窟は東区に在り、東西両区の間の岩壁は約27mで、中区に区分され、北斉の佛龕40座と唐代の優填(ウダヤナ)王像3尊が分布する。 東西両区のこの5座の洞窟の開鑿年代と次第の認識については、この研究の前に主要に2種の意見があった。
第1の意見は、第1窟は煕平二年から正光四年頃(517-523)、第2窟が煕平二年頃(517)開始し窟形を鑿出後放棄、第3、4窟が煕平二年或はややあとの考昌末年頃(517或は稍々後の528)、第5窟が永安二年から東魏元象二年(529-539)。
第2の意見は、第1窟を早く推定し、第4窟がこれに次ぎ、両窟の完工は胡太后が幽閉される(520)前で、第5窟、第3窟がこれに次ぎ、龍門皇甫公窟から路洞の間(527-533)に当てる。第2窟は晩く河陰の変(528)以前とする。
   (注;河陰の変は、将軍爾朱栄によって、胡太后が幽閉後、黄河に沈められた事変)

 本論文は上衣重層式佛衣の洞窟中の変化情況を分析し(表4-1-1)、第1と第4窟のⅠ式、Ⅱ式及びⅢ式上衣重層式佛衣は均等に分布するので、両窟の開鑿時期は接近しているかも知れない;第3窟はⅠ式とⅢ式の上衣重層式佛衣が有るが、上衣搭肘式佛衣が出現しているので、その開鑿時期は前の2窟より後れ、この3窟が続いた時間はやや長く、大体胡太后時期(516-528)に集中する。第5窟は上衣搭肘式佛衣が出現するのを除けば、上衣重層式はⅣ式で、この窟の完成は晩くとも孝明以後までか北魏滅亡(528-534)、或は東魏初(534-549)である。自然区域の形勢を見ると、西区は第1窟が中心で、その左側の摩崖立像を含み、第2窟は大体同時期かやや後れ、窟形を鑿出して中断した;東区は、第4窟が中心で、第4窟が中心で、第3窟はやや晩く、第5窟は更に少し晩い。
 2種の意見を比べて、本論文は5座の洞窟年代とその年代の近さを推定し、主要には胡太后期(516-528)にあり、別なものは晩くとも孝明以後から北魏の滅亡頃(528-534)或は東魏(534-549)の初期とする。上述の2種の意見の差は、主要には洞窟の営造計画と開鑿次第での調整からであり、本推論は東西区は同時期に開鑿が組織され、主体の工程が全胡太后時期を経過したと見て;西区は第1窟を中心に、東区は第4窟を中心にして、西区は第2窟が第1窟と同時か稍々晩く、開鑿が始まって間もなく中止し、東区の第3窟がその頃、第4窟は後れて、第5窟はその頃で第3窟は後れた。


次回は、天龍山石窟の東魏佛衣


  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
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# by songofta | 2017-02-24 20:22 | 旅と地域

200 龍門石窟の北魏佛衣

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第三節 龍門石窟の北魏佛衣
龍門石窟は河南省洛陽市の南12kmの龍門山麓にあり、前は伊水に面し、この地の東北20kmに後漢から北朝までの洛陽故城がある。北魏期の洞窟は龍門の西山に集中し、主要な洞窟が23座で、3つの段階に分かれる:第一段階は、孝文、宣武帝期(494-515)で、古陽洞、蓮花洞、賓陽洞等;第二段階は、胡太后期(516-528)で、魏字洞、普泰洞、皇甫公窟等;第三段階は、孝明以後北魏末期(528-534)で、路洞、党屈蜀窟等。その内、北魏時期に洞窟の工事を止めた宾陽南、北洞や主尊が佛像ではない弥勒洞のようなもの、主尊が残毀した火炎洞のようなもの、載せる材料がはっきりしない䮾驤将軍洞等を除き、本論文では15座の洞窟中の佛衣類型を討論する。

一 龍門石窟の北魏佛衣類型
 龍門石窟の北魏佛衣は、上衣外覆類中の覆肩袒右式佛衣、及び中衣外露類中の上衣搭肘式佛衣と上衣重層式の合計3種である。
 覆肩袒右式佛衣:上衣は背中より両肩を覆った後、右衣の角は右腋の下方を巻いて左肩に掛かり、右胸と右臂を露出する様式。主要には古陽洞両側壁の下と上第3層の7大龕に見られ、その中でも左壁外側の龕は太和二十二年(498)銘の慧成龕(図4-3-1)で、右壁外側から内に数えて第3龕は景明三年(502)銘の孫秋生龕、右壁外側から内に数えて第2龕は景明四年(503)銘の比丘法生龕である。
上衣搭肘式佛衣:上衣は背中より両肩を覆った後、右衣の角は腹の前を横切って左肘に掛かる;中衣と上衣の覆う形式は相似。この種形式の佛衣の分布は、洞窟の正壁が、例えば古陽洞、蓮花洞、来思九洞、党屈蜀窟等(図4-3-2:1~4);分布が洞窟の側壁は、例えば宾陽中洞、考昌三年(527)皇甫公窟、弥勒北一洞、地花洞等(図4-3-2:5~8);洞窟の正壁と側壁に均しく分布するのは、神亀三年(520)慈香洞、弥勒北二洞、六獅洞、天統洞、路洞等(図4-3-2:9、10)。
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上衣重層式:上衣搭肘式佛衣の外面に又1層の衣を増加させたのは、重層式上衣かも知れず、この層の衣は右肩と左右の腿を覆い、右腿部は多くが花弁状の装飾で、右衣の角は衣の角は右腋下方から巻いて左肘に掛かる。主要な分布は洞窟の正壁で、例えば宾陽中洞、普泰洞、魏字洞、考昌三年(527) 皇甫公窟、地花洞、弥勒北一洞等(図4-3-3)。
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 ここに龍門石窟の開鑿次第の参考に、龍門石窟の北魏佛衣類型と洞窟内の分布位置を、表4-3-1に示す。
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表4-3-1を見ると、第一段階は孝文、宣武帝期(494-515)で、上衣搭肘式佛衣は主要に正壁に在り、覆肩袒右式佛衣は正壁以外に位置する。第二段階は胡太后期(516-528)で、上衣重層式と上衣搭肘式の両種の佛衣が並行して発展し、上衣重層式が主となり、一般には正壁に在る。上衣搭肘式佛衣は多くは正壁以外の位置に在る。第三段階は孝明帝以降(528-534)で、上衣搭肘式佛衣が又主要な流行様式になる。

二 龍門石窟の北魏佛衣の源流
(一)龍門石窟の北魏佛衣の来源
 上述の覆肩袒右式と上衣搭肘式佛衣と雲崗の両種の佛衣形式は最も相似なので、二者の間には直接の伝承関係がある。雲崗一期と二期の太和改制前は覆肩袒右式佛衣が主要な様式であり、例えば第20、7、8窟の佛衣(図4-3-4:1);太和改制(486-494)後と三期は上衣搭肘式佛衣が流行し、例えば5,6,5:11窟の佛衣(図4-3-4:2~3)がある。洛陽遷都後の孝文、宣武期(494-515)、龍門は両種の佛衣様式を継続し、覆肩袒右式佛衣が短期間の出現後、基本的に消失する;上衣搭肘式佛衣は、一貫して龍門で流行し、只北魏末になって、佛衣の裾端の変化が比較的大きく、外に大きく膨らむ事は無く、直平になっていく。

 上衣重層式佛衣は、成都万佛寺の梁代造像に見られ(図4-3-4:4)、成都の佛像が長江下流の建康を真似た可能性を推測する根拠であったが、今一歩話を進めて推測すると、龍門の上衣重層式佛衣が龍門と万佛寺の重層式上衣は全くおなじでは無いにしても、南朝の都建康の影響と関係があるかも知れない。龍門の重層上衣は、主要に身体の右側を覆うが(注;原文は(図三とあるが、図4-3-3の誤りであろう)、万佛寺の重層上衣は身体の両側を覆う。
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 5世紀末、北魏王朝の漢化の速度が段々と速まり、例えば太和以後の北朝文学の復興が実質上南朝文学の文体や作風にならうというように;又、梁武帝中期頃の南朝造型芸術の新風が北魏洛陽新都に影響し、胡太后の建てた皇家の大寺、永寧寺内の塑像が簫梁の人物形象に極めて近い等等。龍門の上衣重層式佛衣の盛行も南朝文化の影響が加わった例証の一つと数えることが許されるだろう。

(二)龍門石窟の北魏佛衣の影響
1.龍門と巩県石窟
 巩県石窟は河南省巩県の東北7.5kmの洛水北岸の大力山南麓に位置し、漢魏洛陽故城の西44kmに在る。現存する北魏後期開鑿の洞窟は5座で、胡太后時期に集中する。上衣重層式は巩県で最も流行し、例えば1,4くつの中心柱の佛衣等(図4-3-5:1)。龍門と異なるのは、巩県の重層上衣は多くが身体の両側を覆い、上身と万佛寺の重層上衣は更に接近しているが、重層上衣の腿部の処理にある花弁状の形式は即ち龍門と一致し、巩県の上衣重層式佛衣は、南北を結合して形成した特徴を一歩進めた。
 巩県石窟の開鑿は、荥陽(注;今の鄭州の西隣)の雲上人名家鄭氏と関係があると推測できよう。荥陽鄭氏は、魏晋以来,汴州(注;今の開封市)と鄭州の間で転々として、北魏一代では帝室の姻戚で、権勢を持ち、代々官に上った;鄭氏は佛教を崇拝し、龍門古陽洞の窟頂前部に景明二年(501)の鄭長猶造の弥勒像銘を記す;《続高僧伝》巻二四に記録する、北魏北周の境頃、終南の高僧静蔼は、荥陽鄭氏の子である;Ⅰ窟中心柱後壁左側の銘に記す“儀同で昌国侯の鄭叡の陳州刺史開府に贈る 息乾智が佛に侍る時“、右側の銘に記す”叡の妻成郡君が佛に侍る時“、、この両種の銘に記す時期は、北周期頃か、或は鄭氏の先祖の開窟し、子孫が継続して供養する情況を説明するものである;鄭氏と南朝の関係は連続して絶えず、例えば自ら淮南に内附する者、南疆を務める者、南朝に遣わされるもの等等。たとえ巩県石窟の開鑿と荥陽鄭氏に関係が遭っても無くても、その上衣重層式佛衣の表現する特徴は、全て功徳主の身分は赫々として、佛に従い、南朝文化の背景がある事を反映している。

2.龍門と西部・東部の石窟
 現有するデータから見て、龍門で一度主要な位置についた上衣重層式佛衣は、どうやら巩県以外のその他の石窟にも広範な影響を産み出したようだが、上衣搭肘式佛衣は、西部地区に直接あるいは間接の影響を生み出した。上衣搭肘式佛衣が西部で比較的流行したのは、麦積山、炳霊寺及ぶ須弥山等の石窟の北時期の佛衣である(図4-3-5:2)。
 534年北魏が滅亡し、東西魏に分裂して対峙する局面になり、北朝の統治の中心が分かれて邺城と長安に移った。上衣搭肘式佛衣は引き続き西部の石窟で流行し、麦積山の西魏時期や、莫高窟の北周時期の佛衣となる(図4-3-5:3,4)。東魏北斉のもう一つの政治文化中心は晋陽(今の太原)に在り、東魏の実権者高歓は晋陽に大丞相府を建て、朝政を遠隔操作し、又曾て天龍山に避暑宮を建て、上衣搭肘式佛衣は太原天龍山石窟の東魏時期に流行する(図4-3-5:5)。
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 上衣搭肘式佛衣は北朝の平城で興盛して、洛陽で引き継がれ、文化の中心が直接北朝各地に影響し、龍門の覆肩袒右式佛衣・上衣重層式と比較して、更に強い本土化の適応性を顕示している。

三 “褒衣博帯”と“裳懸座”について
 上述の上衣搭肘式佛衣と上衣重層式佛衣は、学会では一般に”褒衣博帯”或は”裳懸座”とされ、この2つの文化概念の術語で命名された。
 ”褒衣博帯”は、20世紀50年代に佛衣を称するのに用いられ、最初主要には、雲崗6窟の上衣搭肘式佛衣を描述した;その後使用範囲が段々拡大し南北朝時期の佛衣を形容するようになった。”褒衣博帯”は元々古典文献に描述された漢族士人の服装の幅広い用語で、例えば《漢書》巻七一《隽不疑伝》に曰く:
  「(隽不疑は)進退に必ず礼を以ってし、名は州郡に有名で・・・・・・冠は進賢冠、欙(注;山道を行く輿)と剣を帯び、玉環と玉玦を配し、褒衣博帯。」

また《顔氏家訓・渉務篇》に曰く;
  「梁の時代、士大夫は皆褒衣博帯で、冠は大きく履物は高く、外出は車輿で、家に入っては手を借りて支え、町の外郭内では馬に乗らない。」

宋代陳祥道の《礼書》中にこの種の士大夫の服飾に関しての深衣の制作図式があり(図4-3-6:2)、裁断縫合の工芸を表現している。大量の考古データの出土は漢地服装の裁断特徴を充分証明している。特に1982年湖北省江陵県馬山一号戦国中晩期の楚墓から出た14件の綿袍は、単衣と裙の実物で、更に具体的な形象は漢地伝統の衣の特徴を示し、墓主の身分が推測されるのは、士階層中の比較的地位の高い者である。小さい菱形紋が鮮やかな綿袍(編号N15)がその例で、袍の上衣は真っ直ぐ裁ち、正身2片、両袖は各3片、計8片で、下裳も真っ直ぐ裁ち、計5片(図4-3-6:3)。綿袍と単衣は均しく襟が右前で交わり(注;中国の右前は向かって右を前にする。日本式の呼称では左前で逆である)、上衣と下裳が繋がって一体となり、裁断時全幅で刺繍面を剪り、どの片もおおよそ刺繍図案の主題が壊されないよう、縫合と渾然一体となって、緻密で華美な工芸である(図4-3-6:4)。
 この種の裁断縫合の服装と佛衣形状・覆う形式(図4-3-6:1)とは、制作工芸と着装方式上、甚だしい相違がある。如何に“褒衣博帯”の形容する境地と南北朝時期の漢地佛衣段階の外形が甚だ似ているとしても、“褒衣博帯”の一語は決して佛衣の覆う概念を説明することは出来ない。

 “裳懸座”は、日本人が漢文で佛衣を描述する名詞に用いたもので、20世紀20年代末に産み出され、最初に用いられたのは、飛鳥時代(548-645)の法隆寺釈迦像の服飾のようなものに対してで、その意味は“衣端が垂れて座の前に懸かるので、裳懸座と呼んだ”。40年代以後、“裳懸座”の使用範囲が逐次拡大して、南北朝時期の佛衣にまで至った。
 漢文化の伝統服飾概念中、下身を遮蔽するものを“裳”、または“裙”と言い、漢の劉煕の《釈名》巻五《釈衣服》に曰く;
   「凡そ、服は、上を衣と言い・・・・・下を裳と言う、裳は障である。即ち自ずから障蔽する・・・・・裙は、下裙であり、繋がった裾布である。」
 陳祥道は《礼書》中に形容して“深衣の裳は、十二幅”と言い、深衣図式は前身が斜めに裁断して6幅を縫合している(図4-3-6:2)。“十二幅”系は後身の合計数である。江陵馬山一号墓出土の単裙(編号N17-3)は、展開後扇形で、腰部が狭く、下が寛く、裙面は8片(図4-3-6:5);上述の小菱形が鮮やかな綿袍(編号N15)の下裳は四角い片である(図4-3-6:3)。
 “裳”の制作工芸は、祭壇縫合は同様で、佛衣の形状と覆う形式(図4-3-6:1)とは、亦はっきりと異なっている。即ち、簡単に訳せば“裳”は日本人の言う“衣端”の意味で、“裳懸座”の意味する所は、単に佛衣の裾端の階段状の輪郭を形容するだけで、どのみち佛衣の覆う概念を説明するものではない。

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次回は、巩県石窟の北魏佛衣



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# by songofta | 2017-02-23 18:58 | 旅と地域