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目次6 5-8世紀漢地佛像着衣法式

目次6 5-8世紀佛像の衣服


【5-8世紀漢地佛像着衣法式】 陳悦新著

著者は、1964年寧夏自治区銀山市生まれ。北京大学考古学系、歴史学博士。寧夏博物館、寧夏文物局、北京履行大学を経て、現在北京総合大学応用文理学院在職。

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 5-8世紀も北魏・南梁から唐にかけての時代、佛衣は中国化して日本に伝来した。飛鳥から奈良時代の佛像がどのルートで日本に伝来したのかを知る手懸りとして、中国の様式を具体的に知る事のできる資料と思うが、翻訳されそうにも無いので、拙訳を試みた。参考になれば幸いである。

第一章 佛と僧の着衣法式
 第一節 文献記載の佛衣と僧衣
   184 印度の佛衣と僧衣(1)
   185 印度の佛衣と僧衣(2)
   186 中国の佛衣と僧衣(3)
 第二節 遺跡に反映した佛衣と僧衣
   187 遺跡に反映した佛衣と僧衣(1)
   188 遺跡に反映した佛衣と僧衣(2)
第二章 南方地区の佛像着衣
   189 栖霞山石窟の南朝佛衣類型
   190 栖霞山石窟南朝佛衣の源流
   191 成都地区南朝佛衣類型
   192 成都地区南朝佛衣の時代区分
   193 普陀山背光式造像の着衣
第三章 山東地区の仏像着衣 
   194 青州地区北朝佛衣類型
   195 青州地区北朝佛衣の源流
   196 山東地区の隋唐佛衣
第四章 中原地区の佛衣と僧衣
   197 雲崗石窟の北魏佛衣
   198 雲崗石窟の匂聯紋(1)
   199 雲崗石窟の匂聯紋(2)
   200 龍門石窟の北魏佛衣
   201 巩県石窟の北魏佛衣
   202 天龍山石窟の東魏佛衣
   203 響堂山石窟の北朝佛衣
   204 雲崗3窟の着衣
第五章 西部地区の佛衣と僧衣
   205 麦積山北朝窟龕(1)
   206 麦積山北朝窟龕(2)
   207 麦積山北朝窟龕(3)
   208 麦積山北朝窟龕(4)
   209 金塔寺石窟佛像着衣
   210 莫高窟北朝佛像の着衣(1)
   211 莫高窟北朝佛像の着衣(2)
   212 須弥山石窟の北朝~唐代の佛衣
   213 隴東地区の北魏晩期着衣
   214 炳霊寺石窟の北魏晩期着衣
   215 西安地区立佛の佛衣
第六章 漢地佛衣の源流考
   216 南北朝早期佛衣の源流
   217 北朝から唐代の佛衣変遷(1)
   218 北朝から唐代の佛衣変遷(2)
   219 漢地佛衣の時空序列
                 【完】



     ⇒ 総目次 
     ⇒ 目次1 日本じゃ無名? の巻
     ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻

     ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
     ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
     ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻


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# by songofta | 2017-03-20 22:44 | 旅と地域

219 漢地佛衣の時空序列

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第三節 漢地佛衣類型の時空序列
 印度と漢地の佛衣は、三衣の層の分け方で上衣外覆類と中衣外露類の2系統に分かれる。上衣外覆類は、上衣の覆う形式で、通肩式、袒右式、覆肩袒右式、搭肘式と露胸通肩式の5種に分かれる。」;中衣外露類は又、上衣tp中衣の覆う形式で上衣搭肘式上衣重層式と中衣搭肘式の3種に別れる。

1.通肩式佛衣
 上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角が頚の下を巻いて左肩に掛かる。源は印度で、2世紀にガンダーラの影響を受けたマトーラの佛衣である。漢地の最早は、四川が中心である後漢~蜀漢の墓葬中の佛衣である;やや遅れて東呉~西晋期の長江下流地区の堆塑缶(※注1)の佛衣;後趙建武二年(336)金銅像の佛衣;北涼石塔上の佛衣;斉梁期の建康栖霞山石窟26窟佛衣;唐代の両京地区の流行、耀県薬王山12龕及び龍門二蓮花洞南洞の佛衣(図6-3-1)。
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   (※注1)堆塑缶;西晋期に流行した墓葬品で、頂部に人や鳥獣、楼閣などを造る。
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             ( 堆塑缶 百度百科より )

2.袒右式佛衣
 上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角が右脇下を巻いて左肩に掛かる。印度を源にし、2世紀初のマトーラ辺に起源を持つ佛衣。漢地で見るのは酒泉の北涼承陽二年(426)馬徳恵塔佛衣;唐代の両京地区の西安宝慶寺石彫像や龍門高平郡王窟の佛衣(図6-3-2)。
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3.覆肩袒右式佛衣
 上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角が右脇下を巻いて左肩に掛かる。右衣の角は右脇下方を巻いて左肩に掛かり、右胸と右臂を露出する。例えば、北涼の縁禾四年(435)索阿后塔佛衣;北魏雲崗曇曜五窟中の20窟佛衣(図6-2-3)。
4.搭肘式佛衣
 上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角が右臂下方を巻いて左肘に掛かる。例えば、紀年が最早の炳霊寺169窟西晋建康元年(420)第6号塑像の佛衣及び酒泉北涼縁禾三年(434)白双且塔の佛衣(図6-3-4)。
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5.露胸通肩式佛衣
 上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角が左肩に掛かる;頚下の衣の縁が”U”字に垂れて胸部に至る。栖霞山石窟第22窟佛衣等(図6-3-5)。
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6.上衣搭肘式佛衣
 上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角が右脇下を巻くか胸腹の前より横に通り左肘に掛かる;中衣露胸通肩或は上衣が覆う形式と相似である。例えば、栖霞山石窟24窟佛衣;四川茂汶永明元年造像碑;成都西安路出土の永明八年(490)石造像;北魏の洛陽遷都(494)前後に流行の雲崗6窟佛衣(図6-3-6)。
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7.上衣重層式佛衣
 上衣搭肘式の外面に更に1重の上衣を増やしたもの。例えば、北魏の洛陽龍門石窟の賓陽中洞と巩県1窟の佛衣(図6-3-7)。
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8.中衣搭肘式佛衣
 中衣が背中より両肩を覆い、右衣の角は垂れて右肘に掛かる;上衣は背中より両肩或は左肩を僅かに覆い、右衣の角は左肘或は左肩に掛かる。栖霞山18窟正壁右側佛衣に初めて見える;北魏520年前後制作の永寧寺彩色塑像にこの種の佛衣がある;その盛行は東魏北斉の邺城で、例えば、北響堂北洞佛衣、南響堂1窟佛衣;唐代流行は両京地区で、彬県大佛寺大佛洞の佛衣、龍門賓陽南洞の佛衣(図6-3-8)。
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 ここで、上述の漢地の2類の佛衣類型をまとめたものが、表6-3-1で、唐開元以前の漢地佛衣変遷の時間序列と空間序列を簡便に見られる様にした。
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 表6-3-1は、唐開元以前の漢地佛衣の変遷を反映して、3つの段階がある。
第一段階: およそ3世紀、漢地に佛衣が出現する。四川が中心で、後漢~蜀漢の墓葬中の通肩式佛衣で、主要には印度ガンジス河流域のマトーラ佛衣の影響を受けている。
第二段階: およそ3~5世紀末葉、漢地の佛衣は南北に分かれる。南方は、だいたい東呉~西晋時期に始まり、長江下流地区の堆塑缶上の通肩式佛衣で、晋と宋の間、戴逵と戴顒父子が仏像を善く造り、その時、漢地風格の仏像が已に有ったこと傍証がある。北方は、だいたい十六国時期に始まり、通肩式佛衣を除き、袒右式や覆肩袒右式と搭肘式佛衣が涼州地区で初めて見られる。この段階の漢地南北の佛衣変化は、文化要素を除き、佛衣の裾端が座を覆う情況で、漢地の:機構が寒冷であることと関係があるかも知れない。
第三段階: 約5世紀末葉から8世紀初葉、2つの時期に分けられる。5世紀末から6世紀まで、漢地佛衣の発展は、亦南北に分かれる。南朝小生の通肩式と露胸通肩式佛衣は、北朝後期の北響堂や麦積山、須弥山等の石窟で流行する。北朝の北魏洛陽遷都(494)から北斉(550-577)流行の上衣搭肘式、上衣重層式と中衣搭肘式佛衣は、南朝の影響を受けたかも知れない。その内、中衣搭肘式佛衣は、その上衣の覆う形式の最終の様式が右衣の角は左肩に掛かるものとなり、印度の肩に掛かる伝統を保持し、この種の様式が確定され、これは東魏北斉の昭玄大統法の僧服改制と関係があるかも知れない。
 7世紀に至りまで、頻繁に変化下佛衣類型は、だいたい中衣搭肘式佛衣と通肩式、袒右式を両京地区が選択踏襲することで、全国に影響していった。
                                   ( 完 )


  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

  ⇒ 
総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
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# by songofta | 2017-03-20 22:41 | 旅と地域

218 北朝から唐代の佛衣変遷(2)

5-8世紀漢地佛像着衣法式


二 雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の北朝佛衣の源流探求
(一) 雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の北朝佛衣の来源
1.通肩式佛衣
通肩式佛衣は印度を源とする。雲崗一期の通肩式佛衣の上には衣に襞状の突起と、相互に噛み合う匂聯紋がある(図6-2-1:1)、これは印度や中央アジアの佛像にはめったに見られない。この種の匂聯紋は、現在最早の紀年が持つのは太平真君四年(443)高陽(今の河南省博野県)の菀申造像である(図6-2-9:1)。これは雲崗一期の通肩式佛衣が直接のシルクロード東伝を除き、或は今の河北地区の影響も有ることを表明しているのかも知れない。
 響堂山石窟の東魏北斉に出現する通肩式佛衣(図6-2-1:2,3)は、南朝建康に源、例えば栖霞山石窟千佛岩区26窟の佛衣(図6-2-9:2)にあるかも知れない。栖霞山梁中大通二年(530)の28窟佛衣の裾端は座を覆わず、平らに座に敷く特徴があり、亦東魏北斉の通肩式佛衣の裾端として採用される形式となる。
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2.覆肩袒右式佛衣
 雲崗一期の覆肩袒右式佛衣の上には、匂聯紋様を装飾し(図6-2-2:1)、佛衣のこの種の覆う形式と衣紋様式は一体に集まり、凡そこれこそが涼州と河北地区の佛衣の特徴の結合した産物である。覆肩袒右式佛衣の最早は、西晋と北涼地区に見られ、例えば炳霊寺の西晋約420年の169窟9号塑像及び北涼縁禾四年(435)索阿后塔塑像(図6-2-10:1,2)の佛衣がある。匂聯紋の最早は上述の菀申造像である。北魏が、平城に都を建て始めた年から、民衆を移住させて平城とその周辺に集中し、移住させられた地点は、太行山脈東の六州や関中の長安、河西の涼州、東北と隴州及び東方の青州等で、又それは当時北中国の経済文化野発達した地区でもあった。雲崗一期石窟の開鑿は、東西各方面の技術を融合したものであり、新しい石窟のモデルを創出したと言って良い。第一期石窟を主導した高僧曇曜は、同時にまた涼州と河北地区での活動経歴がある。これにより、覆肩袒右式佛衣上の匂聯紋装飾の雲崗での出現は、一定の合理性がある。
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3.上衣搭肘式佛衣
 雲崗二期太和改制以後流行の上衣搭肘式佛衣(図6-2-3:1,2)は、現在ある材料ではまだその来源を確実にしることは出来ない。四川茂県汶南の斉永明元年(483)造像碑の正面と裏面には一坐一律物があり、皆上衣搭肘式佛衣を覆っている(図6-2-11:1,2)、それと雲崗のこの類の佛衣は同一の一来源の影響を受けたものである。浙江省普陀山法雨寺に原存した一佛に菩薩背光式三尊玉像は、佛衣が上衣搭肘式 (図6-2-11:3)で、背光の形制や題材、造像の特徴、紋飾等から総合的に考慮して、その次代は大体斉梁の境と判断される。普陀山は建康のあった揚州の範囲内で、以上の情況を基にすると、或は雲崗と茂汶の上衣搭肘式佛衣は建康と関係があるかも知れない。
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 南朝の佛衣類型は、更に前・後秦時期の長安地区まで遡ることが出来、その時の長安は佛教の中心で、佛法は南北に遍く影響を及ぼした。前・後秦時期の高僧道安は長安に7年(379-385)安住し、鳩摩羅什は長安に13年(401-413)在住し、彼等は極力訳経を奨励したことで、長安は佛理を学ぶ沙門が群れをなして集まり、佛法が興盛した。北魏文成帝の文明皇后馮氏の本籍は長楽郡信都で、父の馮朗は北燕の滅亡前に北魏に入り、秦雍二州の刺史で、馮氏と其の兄馮煕を長安で生んだ。馮氏は佛教を尊奉し、“文宣王廟を長安に建て、又思燕佛図を龍城に建てる”。“太和三年(479)、道人・・・・謀反、事が発覚・・・・偽咸陽王が道人を尽く殺そうとしたが、太后馮氏は許さず”。馮煕は又“佛法を信じ、家財を寄進し、諸州に佛図精舎を建てる”。
 弘治十五年(413)、鳩摩羅什が長安で亡くなり、その四年後、劉裕が入関(注、中原に進出)し(417)、翌年(418)赫連勃勃が長安を陥落させた。この前後に、西秦と後魏の争いがあり、関内は兵禍が頻繁で、名僧は四散し、江南淮南に南遊し、学術は転出して、段々と建康の佛学発展の基礎となっていった。このような歴史野背景を根拠とすると、長安は建康の源頭となるかも知れない。

4.上衣重層式佛衣
 龍門、巩県石窟の胡太后期に流行した上衣重層式佛衣(図6-2-4:1,2)は、成都万佛寺の梁代造像の上衣重層式佛衣(図6-2-12)と相似で、成都佛像様式は長江下流の建康を真似たのかも知れず、この推論からは、龍門、巩県の上衣重層式佛衣形式は南朝と関係があるかも知れない。
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5.中衣搭肘式佛衣
 雲崗三期出現の中衣搭肘式佛衣は、栖霞山南朝佛衣の特徴で、例えば栖霞山18窟佛衣の中衣の右衣の角は右肘に掛かり上衣の上部は残ると言っても、右衣の角は右脇下を巻いて左肘に掛かる(図6-2-13:1)。
 響堂山石窟の東魏・北斉期に流行の中衣搭肘式佛衣(図6-2-5:1,2)は、その上衣の右衣の角は左肩に掛かる形式である。この種の、中衣が右肘に掛かり上衣が左肩に掛かる新式の佛衣出現の時期は、東魏・北斉より早いかも知れない。
 参考に、洛陽永寧寺出土の2つの彩色塑像左右側半身像(図6-2-13:2,3)は、北魏で已に新式の佛衣様式が出現したことを推測させる。彩色塑像(T1:2,3)右半身と言っても、上衣は右肩臂に沿って脇の下に至り、左側の右衣の角は左肘に掛かることも可能だし左肩に掛かることも可能である;彩色塑像(T1:2385)は左側半身と言っても、上衣の右衣の角は左肩に掛かり、佛衣類型の分析から、中衣は右肘に掛かって、上衣は左肩に掛かるかも知れず、栖霞山18窟の佛衣とは異なる。神亀二年(519)八月”霊太后永寧寺に御幸し、自ら9層の佛図(注、九重塔の意)に登る。(崔)光は諫言して述べるに・・・・・未だ像が完成していないとは言っても、已に神明の居る所になって居ります”、これで塑像の完成時期は519年の後と知ることが出来、正光元年(520)秋7月、胡太后は殺害された。故に永寧寺塔の塑像の時期は大体519年8月から520年7月の間となる。
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(二)  雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の北朝佛衣の西方からの影響
 平城、洛陽、邺城の相対的な地理上の位置は、甘寧地区(注;甘寧は甘粛省と寧夏自治区、西安の西北方)の西部に属する。北朝の甘寧地区に流行の佛衣類型は、主要に覆肩袒右式、上衣搭肘式と中衣搭肘式等の3種である。
 匂聯紋装飾の覆肩袒右式佛衣は、北魏麦積山78窟と莫高窟272窟等(図6-2-14)に見られる。上衣搭肘式佛衣は、麦積山の北魏・西魏時期の92,44窟等、須弥山北魏24窟等、莫高窟北周時期428窟等(図6-2-15)に見られる。中衣搭肘式佛衣は麦積山北周時期の62窟及び莫高窟隋代427窟等(図6-2-16)である。甘寧地区の上述の3種の佛衣類型は、雲崗や龍門、響堂山石窟にも直接か間接の影響を受けたかも知れない。
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三 龍門石窟の唐代佛衣の源流探求
 隋文帝期と唐初の諸帝期は、多くが長安に住み、重要な佛教構築物は主要に長安地区に集中する。長安地区野佛衣類型は主要に中衣搭肘式と通肩式の2種で、例えば隋仁寿二年(602)六月五日の前頃に完工した麟遊慈善寺1窟は、正壁の主尊が中衣搭肘式佛衣(図6-2-17:1);完工年代が高宗永徽四年(653)より晩くない麟遊慈善寺2窟右壁大龕で、龕内の大像は通肩式佛衣である(図6-2-17:2)。
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 龍門石窟の唐代中衣搭肘式と通肩式佛衣は、やや長安より晩く、例えば、貞観十年(636)より晩く顕慶五年(660)より早い頃の賓陽南洞正壁の5身大像は、主尊は中衣搭肘式佛衣(図6-2-8:1);天授元年(690)頃開鑿の高平郡王洞の佛像は通肩式佛衣(図6-2-6:1)で、それは長安地区の影響を受けていると見るべきである。
 龍門石窟に新出現の袒右式佛衣のうち、一種は、優填王造像(図6-2-7:1)で、佛衣は薄く体に貼り付き、素のままで紋様が無く、グプタ芸術の造像風格が相似で、青州で北斉時期流行の薄い質料の佛衣の延長かも知れないし、玄奘や王玄策等が印度から携えて帰った梵天に関係があるかも知れない。もう一種は瓔珞と臂釧の佛像(図6-2-7:2)で、亦都の長安と密接な関係があり、武則天長安三年(703)に完成した長安光宅寺七宝台の、残存石彫佛像に多くこの種の佛衣が見られる。

 唐代の両京地区に集まった中衣搭肘式、通肩式と袒右式の3種の佛衣はモデルと成って、広範に西部の甘寧地区と南方地区に影響した。
 甘寧地区の中衣搭肘式佛衣は、例えば須弥山石窟105窟と莫高窟283窟等(図6-2-18:1,2);南方地区の中衣搭肘式佛衣は、例えば四川広元石窟千佛崖806窟の釈迦多宝佛窟、千佛崖211号蘇頲窟と南京栖霞山千佛岩区1窟等(図6-2-18:3~5)。
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 甘寧地区の通肩式佛衣は、例えば須弥山石窟54窟と莫高窟44窟等(図6-2-19:1,2)。南方地区の通肩式佛衣は、四川広元石窟千佛崖806号釈迦多宝佛と栖霞山石窟千佛岩区3窟等(図6-2-19:3,4)。
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 袒右式佛衣は主要には南方地区に見られ、四川広元石窟535号蓮花洞窟の佛衣等(図6-2-20)。
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 雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の北朝と唐代の佛衣類型の変遷は、異なる地域から出来した佛衣が5-8世紀の本土化の劇烈な変革を反映し、唐代に至って基本的に融合発展の家庭を完成し、大体3種の様式が確定する。その内、中衣搭肘式佛衣は印度には無く、通肩式と袒右式佛衣は印度の伝統と相似と言えども、佛衣の裾端の形式及び衣紋等の内容は却っていんどの佛衣とは雲泥の差がある。


次回は、漢地佛衣の時空序列(最終回)




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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
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217 北朝から唐代の佛衣変遷(1)

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第二節 北朝から唐代の佛衣変遷の脈絡
雲崗、龍門、巩県、響堂山等の4ヶ所の石窟は、北魏から唐代までの政治文化の中心区域内で、前後が結びついて発展の脈絡がはっきりし、当時の社会政治文化の変遷の背景と一致する。系統がこの4ヶ所の石窟の佛衣類型を明らかにし、分裂時期の南北と東西間の影響と影響を被った関係、及び唐代統一国家中央が地方の形勢に与えた影響の認識を一歩すすめる助けとなる。
 雲崗石窟は、山西省大同旧城の西15kmの十里河(武州川)北岸の山崖面に位置し、東西に連続して1km。洞窟の大部分の雕鑿は北魏中後期である。一般に三期に分ける。第一期(460-470)は、曇曜が取り仕切った5座窟で、石窟群の中部西側の第16~20窟である。第二期(471-494)窟室は、主として石窟群の中部東側に開鑿され、第7、8双窟、第9,10双窟、第1,2双窟、第11~13組窟と第5、6双窟と更に第3窟等がある。第三期(494-524)は多くが中小型の窟室で、主に第20窟以西の崖面に集中する;この外、沢山の第一・二期開鑿の窟室内や窟口両側と窟外崖面にもおおくの第三期補鑿の小窟龕がある。

 龍門石窟は、河南省洛陽師の南12kmの龍門山麓に位置し、前は伊水の河原で、その地の東北に後漢より北魏までの洛陽故城が20kmの距離に在る。洞窟の開鑿は北魏後期と唐の開元(713)以前が主である。北魏の洞窟は西山に集中し、主要な洞窟は23座で、3段階に分かれ、孝文・宣武帝期が第一段階(494-515)で、古陽洞、蓮花洞、賓陽中洞等がある。胡太后期が第二段階(516-528)で、魏字洞、普泰洞、皇甫公窟等がある。孝明帝以降北魏末期が第三段階(528-534)で、有路洞、汴州洞等である。唐窟は主要に35座で、8世紀以前の洞窟は多くが西山に分布し、賓陽南洞、潜渓寺、奉先寺、万佛洞等;8世紀以後の洞窟は多くが東山に分布し、擂鼓台三洞、高平郡王洞、二蓮花洞等である。

 巩県石窟は、河南省巩県の東北7.5kmの洛水北岸の大力山南麓に位置し、西に漢魏故城が44kmの距離にある。現存する北魏後期開鑿の洞窟は5座で、胡太后期に集中する。

 響堂山石窟は、東魏北斉の邺城(今の河南省臨漳県)の西訳30kmに在る鼓山に位置し、3ヶ所の石窟寺を包括する。南響堂は鼓山南麓、北響堂は西麓にある。水浴寺は鼓山の東斜面にあり、北響堂と山を隔てて相対し、俗称”小響堂”と言う。北響堂は主要に北洞、中洞、南洞の3ヶ大窟で、南響堂は主要な洞窟編号で7ヶ所、水浴寺は主要に西窟がある。3ヶ所の石窟は皆東魏・北斉期(534-576)に開鑿された。

一 雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の佛衣類型
1.北朝佛衣類型
 雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の北朝佛衣類型は、主要に通肩式、覆肩袒右式、上衣搭肘式、上衣重層式と中衣搭肘式の5種類型がある。
 通肩式: 上衣は背中より両肩を覆い、右衣の角は頚を巻いて左肩に掛かる。雲崗20窟、北響堂北洞、中洞の佛衣等(図6-2-1)。
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 覆肩袒右式: 上衣は背中より両肩を覆い、右衣の角が右脇下方を巻いて左肩に掛かり、右胸と右臂を露出する。雲崗20窟、龍門古陽洞太和二十二年(498)慧成龕佛衣等(図6-2-2)。
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 上衣搭肘式: 上衣は背中より両肩を覆い、右衣の角は胸腹前を巻いて左肘に向かう;中衣と上衣の覆う形式は相似で、胸前は長く垂れ中衣の帯で繋いで締める。雲崗太和十二年(489)11:14龕、6窟、龍門孝文宣武帝期の古陽洞正壁、胡太后期の龍門賓陽中洞佛衣等(図6-2-3)。
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 上衣重層式: 上衣搭肘式佛衣の外層に、更にもう1層の上衣を重ね、右腿部の外は花弁状の紋飾を呈する。重層上衣は或いは右肩を覆い、右衣の角が右脇下を巻いて左肘に掛かる;或いは両肩を覆い、右衣の角が右脇下を巻いて左肘に掛かる。龍門賓陽中洞、巩県1窟佛衣等(図6-2-4)。
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 中衣搭肘式: 中衣は背中より肩を覆い、右衣の角は直接垂れて右肘に掛かる;上衣は両肩を覆うか左型を覆い、右衣の角は右脇下を巻いて左肘か左肩に掛かる様式。雲崗第5窟外右側の補鑿編号5:11窟の佛衣、北響堂北洞、南響堂1窟佛衣等(図6-2-5)。
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2.唐代佛衣類型
 唐代佛衣類型は龍門石窟が主で、主要には通肩式、袒右式と中衣搭肘式の3種の類型である。
 通肩式: 北朝の覆う形式と相似だが、衣紋がかなり疎らである。龍門高平郡王洞、二蓮花洞佛衣等(図6-2-6:1,2)。
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 袒右式: 上衣は背中より左肩を覆い、右衣の角は右脇下を巻いて左肩に掛かる。龍門永徽六年(655)二尤填王洞、高平郡王洞佛衣等(図6-2-7:1,2)。
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 中衣搭肘式: 覆う形式は北朝と相似し、一般に上衣の右衣の角は右脇下より巻いて左肩に掛かる。龍門賓陽南洞、潜渓寺佛衣等(図6-2-8:1,2)。
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 これまでの洞窟の時期区分の成果を参照すると、雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の北朝と唐代の佛衣類型と時期の関係は、表6-2-1の様になる。
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 表6-2-1から見出だせるのは、雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の北朝と唐代の佛衣類型は5つの発展段階に分けられることである。
第一段階は、北魏和平初年(460)から太和改制(486-494)前。雲崗は通肩式と覆肩袒右式佛衣が主である。
第二段階は、北魏太和改制(486-494)後から宣武帝末(515)。雲崗、龍門は上衣搭肘式佛衣が流行し、覆肩袒右式佛衣は少量が延続する。
第三段階は、北魏胡太后時期(516-528)。龍門、巩県石窟は上衣重層式佛衣が流行、上衣搭肘式佛衣は依然として延続。
第四段階は、東魏北斉時期(534-576)。響堂山石窟に中衣搭肘式佛衣が流行中で、通肩式佛衣が再度出現。
第五段階は、唐代開元以前(618-713)。龍門石窟に中衣搭肘式と通肩式佛衣が流行中で、袒右式佛衣が出現する。


次回は、北朝から唐代の佛衣変遷(2)



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# by songofta | 2017-03-20 11:51 | 旅と地域

216 南北朝早期佛衣の源流

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第六章 漢地佛衣の源流考

第一節 南北朝早期の佛衣類型の探求
 
 南北朝時期、北朝早期文化の中心は平城(今の大同)にあり、南朝の文化の中心は長江の下流建康(今の南京)が主で、この他長江の上流の蜀では四川省成都が重要な中心の一つであった。平城に在る最も重要な佛教遺跡は雲崗石窟で、建康は栖霞山石窟が主であり、成都地区は多くの出土石刻造像があり、本論文ではこの3ヶ所の文化中心の石窟寺と石刻造像を基に、佛衣様式の可能な来現を探求する。
 以下、主要な論点は、雲崗石窟の覆肩袒右式と通肩式佛衣、及び栖霞山石窟と成都石刻造像の上衣搭肘式佛衣様式の源頭である。

一 南北朝早期の文化中心の佛衣類型
 雲崗石窟の営造は和平初年(460)に始まり、沙門統の曇曜が文成帝に出した上奏の、洞窟5ヶ所の開設からである。《魏書・釈老師》に記録された鑿窟開始時の情況は、和平初(460)“曇曜が帝に申して、都の西武州の隘路に、山の石壁を鑿し、5ヶ所の窟を開き、佛像各一を彫り、高さは70尺、次は60尺、雕飾は奇偉、一世に冠たり”。この最初の五窟は今の雲崗石窟16~20窟に相当し、五窟の開鑿の下限は献文帝末年(470)と推定される。五窟中、第16窟の主像の工程が施されたのは、都が洛陽に遷都前後にやっと竣工したのを除けば、他の四窟は基本的に皆開鑿時の計画に従って完成しているので、ここでは第17~20窟の覆肩袒右式と通肩式の2種の佛衣だけを分析する。覆肩袒右式佛衣とは、上衣が両肩を覆い、右衣の角は右脇の下方を巻いて左肩にかかる、第19,20、18窟正壁の佛衣のようなものを指す(図6-1-1:1~3)。通肩式佛衣は、上衣が両肩を覆い、右衣の角が頚を巻いて左肩にかかる、第20窟左壁、18窟右壁、17窟左右壁の佛衣を指す(図6-1-1:4~7)。
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 栖霞山石窟は開鑿が永明二年(484)に始まって以来の5世紀末である。第24窟では上衣搭肘式佛衣が見ることができ、上衣は背中より両肩を覆い、右衣の角は右脇下より巻いて左肘に掛かる;中衣は露胸通肩で覆う(図6-1-2)。
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 成都地区及びその付近で出土した簫斉時期造像は、例えば茂県永明元年(483)造像碑や、西安路永明八年(490)造像及び商業街建武二年(495)造像は、その上衣搭肘式の形式が栖霞山第24窟とやや異なる。上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角は衣が腹部を横に通って左肘に掛かる;中衣は上衣と覆う形式が一致する(図6-1-3)。
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二 南北朝早期の佛衣類型と西晋、北涼の関係
 上に述べた南北朝仏教遺跡の佛衣内容より早いものが、現在の西北地区西秦石窟と北涼石塔中の佛像に保存されている。
 炳霊寺石窟は甘粛省永靖県西南40kmの黄河北岸の小積石山に在る。その中の第169窟は開鑿が西秦時期で、壁画と塑像の完成は主要には412~420年前後である。窟内に見える壁画と塑像中の佛衣類型は、通肩式と覆肩袒右式と搭肘式の3種を含む。通肩式佛衣は東壁壁画B15と塑像S7(図6-1-4:1,2)。覆肩袒右式佛衣は東壁壁画B12と塑像S9(図6-1-4:3,4)。搭肘式佛衣は、上衣が背中から両肩を覆い、右衣の角は右脇下方を巻いて左肘に掛かる、北壁無量寿佛龕中の塑像S6(図6-1-4:5)に見られ、無量寿佛龕北側に墨書で“建弘元年(420)”の題記がある。
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 以上3種の佛衣中、通肩式佛衣の源は印度にあり、その特徴は右衣の角が肩に掛かることで、義浄の《南海寄帰内法伝》に言う印度法衣は、“衣の右角は寛く左肩に掛かり、背中に垂れ、肘の上で留めることは無い”。覆肩袒右式佛衣も亦右衣の角は左肩に掛かり、その覆う形式について、その印度の性質が未だ変化しておらず、印度の袒右式佛衣から広まったけれども、右肩部を覆う事によって、一種の漢化した表現としたものなのである。搭肘式佛衣は即ち印度の佛衣を改変し、肩に掛かって覆う性質を、漢化程度の高いものにしたものなのである。
 北涼石塔上の、佛衣も通肩式、覆肩袒右式と搭肘式の3種で、例として酒泉市発見の承玄元年(428)高善穆塔(現在甘粛省博物館蔵)、縁禾三年(434)白双且塔(現在国家博物館蔵)、敦煌発見の縁禾四年(435)索阿后塔(現在米国クリーブランド芸術博物館蔵)(図6-1-5)があり、その中の搭肘式は炳霊寺S6塑像と少し異なり、右衣の角が右脇下方を巻いて禅定印の手部に掛かる。
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 雲崗の覆肩袒右式と通肩式は西秦と北涼に遡れる。栖霞山第24窟の上衣搭肘式佛衣も西秦と北涼の搭肘式佛衣と関係するかもしれない。二者が異なるとしても、搭肘式佛衣は上衣外覆類に属し、只上衣の覆う形式を表現するだけで、而も上衣搭肘式は中衣外露類に属し、上衣と中衣の覆う形式が均しいことの表現で、漢化程度は今一歩深く進んでいる。 但、二者の上衣は2つとも両肩を覆い、右衣の角は右脇下方を巻いて左肘(或は手)に掛かり、相近い所にいる。成都地区の上衣搭肘式佛衣は、右衣の角が直接腹部を横に通り左肘に掛かり、形式上栖霞山第24窟と未だ幾らか差があるが、右衣の角が左肘に掛かる性質からも、西秦と北涼との相関を排除は出来ない。

三 南北朝早期の佛衣類型の探求
 西秦の統治者乞伏熾磐(在位412-428)は仏教を崇拝し、曾ては内外の名僧に謹んで供養を願い、曇無毗、玄高、玄紹、曇弘等は相次いで西秦に入り佛法を広め、熾磐の礼遇を受け、“尊(玄高)は国師”とされた。西秦と涼の地域は近く、高宗が行き来し、西秦仏教と涼州の関係は密接であった。“乞佛(伏)熾磐は隴西を跨いで、西に涼土に接す。・・・・・(玄高は)河南(ここでは、西秦を指す)の教化を済ますと、涼土に歩を進めた。沮渠蒙遜は深く敬った。” 涼州(今の甘粛省武威市)地区の仏教は前涼時期(301-376)に興盛し始め、“涼州は張軌以来、世は佛教を信じる”、北涼は“沮渠蒙遜(在位412-433)が涼州に在り、亦佛法を好む”、 北涼で訳経をする僧は記録に残る著名な者でも十余人に達し、涼州は当時中国の訳経の中心の一つであった。

 西秦と北涼時期、北方の佛教中心は長安地区にあった。西晋の竺法護の訳経以来、長安は重要な場所になり、前・後秦時期の苻堅や姚興は佛教を崇重し、大きく仏事を催し、高僧を礼遇、道安法師は長安に6年(379-385)、鳩摩羅什は長安に13年(401-413)滞在し、彼等は極力訳経を奨励し、仏理を学ぶ沙門が群れ集い、長安の佛法は甚だ盛んであった。
 西秦と北涼の佛教は長安との関係が緊密であった。西秦の高僧は、長安で法を修めたか長安出自の者で、玄高がいうに“関中には浮駄跋陀禅師が石羊寺で法を弘めると聞き、私高は彼を師とした。旬日の内に、禅法に妙通した。・・・・・高は西秦に杖を休め、麦積山に隠居した。山には百余人が学び、その解釈を崇め、禅の道を申し上げた。時に長安の沙門釈曇弘、秦の高僧がこの山に隠れ住み、高と会い、同業を以って友好する”。涼州の沙門竺佛念は長安で訳経し、“苻堅、姚興の2代に、訳経人の筆頭として、自ずから世に名高く、支謙以後、誰も読める者が無く、関中の僧衆は皆賞賛した。4世紀末、亀慈の高僧鳩摩羅什は涼州に居ること17年(386-401)、長安の僧をはじめ遠来の者がその業を受けた。

 以上の歴史背景は、西秦と北涼の現存佛衣類型が、晋以来長安地区の漢族伝統文化の遺風を保ち続けたことを表明している。関中地区の十六国墓葬中、墓葬形制、伎楽、生活用品、農業労働工具、出行の車乗等若干の方面では、皆漢晋の伝統文化を継承し、民族文化で無いものを主とするのも、その証拠と出来るだろう。盧水胡の沮渠氏の社会発展段階及びその経済文化生活と漢化程度は、凡そ氐族の苻氏と羌族の姚氏に次ぎ、鮮卑族の乞伏氏や禿髪氏より遥かに高かった。これにより、長安地区の漢族伝統文化は、前・後秦の継承を経て、又主に河西地区の北涼が保持し、影響が南北朝早期に及んだ。

 河西文化は雲崗石窟の開鑿中重要な要素の一つで、北魏が北涼を滅ぼした後(439)、”その国人は都に行き、沙門は皆、佛教関係のものを持って東行し、像を以って教える佛教が段々増えていった”。西秦の国師釈玄高は涼の地で遊行し、北涼滅亡後、また平城に至り、”太子拓跋晃は、高に仕えて師とした”、 涼州沙門釈慧崇は、尚書韓万の徳門の師として、“徳は(玄)高に次ぐ”と言われた。沙門師賢曾は涼州に遊居し、後に平城に赴き“道人統”と成った。後を継いだ道人統は曇曜で、涼州に在って高名で、雲崗最初の五ヶ所の洞窟の開鑿を主導した。
 河西文化もまた、江東の文化伝統と密接に関連し合っており、前涼の張駿時期(在位324-346)、河西と江南の交通は滞りが無く、“これより毎年命の絶えることが無かった”、同時に涼州はずっと晋愍帝の建興年号をそのまま用いた。北涼(401-439)と劉宋は信使が往来し、江南に向かう上奏の書は、魏晋が著作して江南に送った。益州刺史の朱齢石と沮渠蒙遜は互いに使節を遣わした。トルファン出土文書中の“妙法蓮華経普門品”及び“某経(法華経か?)には、劉宋昇明元年(477)簫道成(在位479-482)の題記が有り、”摩訶般若波羅蜜多経“巻十四には梁天監十一年(512)江州刺史建安王簫偉の題記が有り、敦煌出土文書S.81”大般涅槃経巻十一“には梁天監五年(506)荊州譙良顒の題記が有り、P.2196”出家人受菩薩戒法巻一”には天監十八年(519)(建康)瓦官寺僧釈慧明奉持勅写題記等が在る。河西回廊と江南の間の文化交流は頻繁で、これは見るべき一部である。

 以上の背景に基づくと、南北朝早期文化中心の雲崗石窟及び栖霞山石窟と成都石刻造像の佛衣は、西秦と北涼が保ち続けた長安の漢文化の伝統の基礎の上に、一歩進めて形成されたのかも知れない。そして南北が受けた影響又は漢化程度の深い浅い程度の差、それは例えば雲崗の覆肩袒右式佛衣の漢化程度はかなり浅く;栖霞山と成都の上衣搭肘式佛衣の漢化程度がかなり深いことを指すが、印度佛衣の覆う性質を搭肘式に改変し、同時に中衣の覆う形式を一歩進めて漢化を強めた表現を作ったのである。



次回は、北朝から唐代の佛衣変遷


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# by songofta | 2017-03-19 23:22 | 旅と地域

215 西安地区立佛の佛衣

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第七節 西安地区単体石立佛の佛衣

20世紀50年代以来、西安地区から陸続として単体石製立佛造像が出土し、青石(注、石灰岩の俗称)と白石(注、石英)が主で、おおくは金箔を貼り、大型の立佛は2m、小型の立佛は30cm。筆者の実地調査と発行資料に拠れば、上述の単体石立佛造像の保存良好なものは40件、収蔵と出土情況は以下のようである。
 西安碑林博物館蔵16件。その内旧蔵7件、1955年と1973年南郊の沙滹沱村出土2件、1959年陜西省礼泉県衛生院出土1件、1992年北郊の未央区雷寨村出土1件、2004年東郊の灞橋区湾子村出土5件。
 西安博物館蔵13件、その内、1971-1998年北郊の中官亭村出土3件、1974年西安市区王前村出土1件、1985年南郊の雁塔区隋正覚寺遺跡出土1件、1987年西郊の蓮湖区唐礼泉寺遺跡出土4件、2007年北郊の未央区漢城郷窦寨村出土4件。
 1956年西郊の土門村出土1件、収蔵組織不明。1998年北郊の未央区尤家庄出土1件、陜西省考古研究院蔵。2004年北郊の未央区中査村出土9件、西安市漢長安城遺跡保管所蔵。
 以上40件は西安地区単体石立佛の全貌をカバーは出来ないにしろ、これを基礎に、西安地区単体石立佛の大体の佛衣類型と時代に、初歩的な認識は出来る。

一 西安地区単体石立佛の佛衣類型
西安地区の単体石立佛の佛衣類型は、主に通肩式と露胸通肩式の2種である。以下、考古類型学の方法で2種の佛衣各自の変化情況を分析し、上述の単体石立佛39件を整理する。
1.通肩式佛衣
上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角は頚を巻いて左肩に掛かる。衣紋の配列により、3種の類型に分かれる。
 a型:衣紋が腹部で上下に分かれる配列で、胸腹部の衣紋が波谷状か曲線で、腿部の衣紋は2式に分かれる。
  Ⅰ式;腿部の衣紋が曲線或は波谷状。武成二年(560)像、尤家庄保定三年(563)像、中官亭村像の1、湾子村像、中査村像3件、窦寨村像、中官亭村像の2(図5-7-1)。
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  Ⅱ式;腿部の衣紋が直弧線。唐礼泉寺像(図5-7-2)。
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 b型:衣紋が上下通した配置。身体の左右側の衣紋の有無で2式に分かれる。
  Ⅰ式;頚下の衣紋は左側より右側に向かって曲線を出し、右側には対応する曲線がある。湾子村像、中査村像(図5-7-3:1,2)。
  Ⅱ式;頚下の衣紋は片方の側から曲線を出し、別の側は対応する曲線が無い。窦寨村像、隋正覚寺大業五年(609)像(図5-7-3:3,4)。
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 c型:衣紋が腹部と膝部で上中下三段の配列に分かれ、胸腹部は波谷状に、膝より上は直弧線、膝より下は波谷状及び曲線とする。礼泉県衛生院像、沙滹沱村像(1973年出土)、碑林旧蔵像(図5-7-4)。
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2.露胸通肩式佛衣
 上衣は背中より両肩を覆い、右衣の角は左肩二掛かる;頚下の衣縁は、”U”字形に垂れて胸部に至る。衣紋配布の規律で、2種の類型に分けられる。
a型:衣紋が腹部で上下二段の配列に分かれ、胸腹部と腿部の衣紋は波谷状か曲線となる。佛衣の形状により2つに分かれる。
  Ⅰ式;佛衣の裾端が緩やかに広がり、全体が“A”字形を呈する。碑林旧蔵像4件、王前村像、中査村像3件、湾子村大象二年(580)像、湾子村像(図5-7-5)。
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  Ⅱ式;佛衣の裾端がかなり絞られ、全体に直筒状を呈す。唐礼泉寺像3件(図5-7-6)。
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b型:衣紋が全体で配列し、衣紋は左側から右側に向かって曲線を出す。右側の曲線の有無で2式に分かれる。
  Ⅰ式;右側に対応する曲線がある。中査村像2件、碑林旧蔵像(図5-7-7)。
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  Ⅱ式;側に対応する曲線が無い。中官亭村像、窦寨村像2件、沙滹沱村像(1955年出土)、土門村像(図5-7-8)。
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二 西安地区単体石立佛の時代
 以上の類型分析により、39件造像の類型区分は、表5-4-1のようになる。
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 表中で、第一組の通肩式と露胸通肩式佛衣は、a型Ⅰ式とb型Ⅰ式を包括する。衣紋は腹部で上下の配列が分かれる;衣紋によっては、身体全体を通して配列し、身体の両側に均しく曲線を出す。佛衣はかなりゆったりして広がり、A字形を呈する。
 第二組の通肩式と露胸通肩式佛衣は、a型Ⅱ式とb型Ⅱ式を包括する。衣紋は、腹部で上下の配列が分かれる;或は、衣紋を身体全体を通して配列し、身体は只片側だけ曲線を出す。佛衣の裾は絞り、全体が直筒状を呈す。
 第三組の通肩式佛衣はc型が主で、衣紋は腹部と膝部で三段に配列を分ける。佛衣は体に貼り付く。

 第一組の造像中、武成二年(560)、保定三年(563)及び大象二年(580)の題記があり、その年代は三組中、最も早い;第二組中に、大業五年(609)の題記があり、年代はやや晩い;第三組は、衣紋が上下三段に配列が分かれる第一組、第二組には見られない特徴があり、最も晩い。これにより、三組の相対年代順序が確定出来、即ち第一組が第一期、第二組が第二期、第三組が第三期となる。その他の地区の紀年がはっきりしている造像資料と結合して、この三期の年代範囲がもう一歩推定出来る。
 第一期の衣紋は上への配列と体全体を通した配列の2種がある。衣紋の上下配列は、成都地区の簫斉前期造像及び須弥山石窟の北周時期の造像にあり、例えば成都万佛寺立佛、須弥山46窟立佛、須弥山45窟立佛等(図5-7-9:1~3)。衣紋が全体に配列するのは、成都地区の簫斉前期造像に近似する。例えば万佛寺出土中大通元年(529)造像(図5-7-9::4)。灞橋区湾子村像は、垂れて腹前で帯びを結び、帯の端に三角花を装飾し(図5-7-7:1)、亦成都地区の簫斉前期佛衣の帯を締めるものと相似で、例えば万佛寺出土大同三年(537)造像の帯を締めたもの(図5-7-9:5)。これらより、第一期は主に北周時期(557-581)と推測する。
 西魏廃帝二年(553)成都を落とし、恭帝元年(554)江陵を平定し、南朝佛教の影響が激しくなる。“太祖を捕らえ、梁荊を平定後、益州の大徳五十余人、各自経典を抱え像を送って京に至る”、文献と造像実物を結合すると、この時期の西安地区の単体石立佛の佛衣は成都地区との関係はかなり密接であった。
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 第二期の衣紋は、第一期を踏襲する。但し、衣紋の上下配列は、腿部に直弧線を呈し、それは莫高窟隋代の例えば427窟立佛の衣紋と近似する(図5-7-6:6)。只体の片側に曲線を出す。第二期は主に隋代(581-618)と推測する。

 第三期の衣紋は腹部と膝部で上中下三段に分かれる配列で、これは彬県大佛寺に近い実例を見ることができ、第23号(千佛洞)中心柱東壁第27龕の2身立佛の衣紋が上下に4段に分かれて配列され(図5-7-10:1)、この窟は開鑿が唐太宗の貞観中期(627-649)から高宗執政(650-683)中期迄と推測すべきである。現在日本文化庁蔵の長安宝慶寺の長安三年(703)銘石造十一面観音立像は、その腿部の衣紋が腿部で2段に分かれる配列で、膝より上は曲線を呈し、膝より下は波谷状で、第三組の立佛上下の衣紋配列と接近する。四川広元石窟の千佛崖202号龕、216号龕の地蔵立像は、衣紋が三段に分かれる配列で、膝より上が留白処理(注1)され(図5-7-10:2)、この龕の開鑿時期は開元初年頃とすべきである。これにより、第三期はおおよそ貞観時期(527-649)から開元(713-741)初年と推測される。
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        ( 広元石窟;新浪博客ー石窟妹的博客より)
  (注1)留白処理;留白は、絵画などで描かない白い空白を残して、想像の余地を残す技法とある。この場合、装飾のない空白を残す意味か?
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次回は、第六章 漢地佛衣の源流考

  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
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# by songofta | 2017-03-14 21:12 | 旅と地域

214 炳霊寺石窟の北魏佛衣

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第六節 炳霊寺石窟の北魏晩期佛像着衣

 炳霊寺石窟は甘粛省永靖県の西南約35kmの黄河北岸の小積石山の山中にあり、石窟は、下寺、洞溝、上寺の3部分から成り、合計216個所の洞窟がある。大部分の窟龕は下寺のある大寺溝西側の崖壁上に開鑿され、北魏晩期の窟龕はここに集中し、126,128,132,140,146窟及び124,125龕等を含み、その中で、126窟の窟外上方に北魏延昌二年(513)の題記がある。
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   (写真は、新浪博客ー野娃氏と百度百科より、引用)

 炳霊寺石窟の佛衣は上衣搭肘式を主とする。この種の佛衣の覆う形式は、外層の上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角が腹部を横に通って左肘に掛かり、中層の中衣と外層の上衣の覆う形式は一致する(図5-6-1)。
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佛衣の裾端は4分或は多いもので6分し、佛衣裾端の表現形式と麦積山北魏宣武帝時期頃(500-503)から北魏滅亡(534)までの上衣搭肘式佛衣中の1種(図5-6-2)とかなり相似である。
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炳霊寺佛像之坐姿は、結跏趺坐だが、右脚は腿の上に載せず、腿の前に置く。この種の坐姿は北魏龍門石窟と巩県石窟中の主尊菩薩の坐姿と相似であり、例えば魏字洞、皇甫公窟右壁、巩県1,3,4窟中心柱左壁の主尊菩薩がある。
 炳霊寺石窟の脇侍菩薩の衣飾の一種類は、上身は裸体、下身は裙を着る形式で、領巾が腹前で交叉する(披巾交叉)(図5-6-3)、
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或は腹前で環を着け結んで纏う(披巾穿環或纏結)(図5-6-4);
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一種類は、佛衣の上衣搭肘式に類似して、外層の上衣が両肩を覆い、右衣の角が胸腹前を横に通って左肘に掛かる(図5-6-5)。
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前の一種類の菩薩衣飾は、龍門石窟と巩県石窟にかなり多く見られ(図5-6-6)、後の一種類の菩薩衣飾は、麦積山の北魏宣武帝景明時期(500-503)頃から北魏滅亡(534)段階に出現するが、数は少ない(図5-6-7)。
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 以上、炳霊寺の主尊佛の坐姿や佛衣と菩薩衣飾の情況は、炳霊寺は麦積山のある秦州及び北魏文化の中心洛陽の関係が密接であることを反映していると言える。

※炳霊寺については、新浪博客ー野娃氏のブログがお薦め。中国語では”炳灵寺石窟”。


次回は、西安地区立佛の佛衣


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# by songofta | 2017-03-14 09:54 | 旅と地域

213 隴東地区の北魏晩期着衣

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第五節 隴東地区石窟寺の北魏晩期佛像の着衣

隴東地区は、甘粛省隴山以東部分を指し、今日の平涼地区と慶陽地区を包括する(注、甘粛省東部全体)。北魏晩期の佛衣着衣の保存がかなり良好で、内容もかなり豊富な石窟寺として、主に南石窟寺、北石窟寺と石拱寺の3ヶ所がある。南石窟寺は泾川県の東7.5kmの泾河の北岸にあり、編号が5ヶの洞窟である。北石窟寺は慶陽市の西峰区西南25kmの覆鐘山の麓、蒲河と茹河が窟の前で合流し、石窟は西に向いて東に鎮座し、編号は282ヶの洞窟である。石拱寺石窟は、華亭県の南25kmにあり、汘河上流の小渓谷―――秀水河が窟の脇を流れ、石窟は南面して北に坐し、編号は14ヶの洞窟である。
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        (写真は、新浪博客ー野娃的博客氏より引用。以下、同じ)
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  上述の3ヶ所の石窟中、佛衣と菩薩衣飾の保存が良好なものは、南石窟寺1窟、北石窟寺165窟と石拱寺石窟11,12窟等である。洞窟の形制、題材内容、造像特徴の風格及び碑刻記載に基づき、南石窟寺1窟の開創は北魏永平三年(510)、北石窟寺165窟の創建は北魏永平二年(509)、石拱寺石窟11,12窟は520年前後の開鑿である。

一 隴東地区北魏晩期佛像の着衣
 隴東地区の佛衣は主に上衣搭肘式である。その覆う形式は、外層の上衣は背中から両肩を覆い、右衣の角は胸腹部より横に通って左肘に掛かる;中層の中衣はもまた、背中より両肩を覆い、右衣の角は頚の下を”U”字肩に垂れ胸部に至った後左肩に掛かる様式(図5-5-1から5-5-3)。
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この種の佛衣類型は主に龍門古陽洞に見られ、古陽洞右壁と左壁の天井で交わる所に正始四年(507)二月安定王元燮が祖先と亡き母のために、釈迦を造龕したもの、左壁第3層に外から内に数えて第4龕、右壁第2層内側に小龕の佛衣等がある(図5-5-4)。
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 隴東地区の脇侍菩薩衣飾は上身は裸で、下身は裙を着る形式で、領巾は腹前で交叉し環を付け、或は腹前で交叉して結ぶ(図5-5-5と5-5-6)。
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この種の菩薩衣飾は龍門石窟と巩県石窟でかなり多く見る(図5-5-7)。
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 以上の情況は、隴東地区の佛像着衣と北魏文化中心の洛陽との関係が、密接で会ったことが反映されたものである。

二 隴東地区南、北石窟寺の関係
 南石窟寺1窟は平面が横長の長方形で、盝頂(※注1)、窟高さ11m、幅18m、奥行き13.2mで、窟壁を一周して高さ0.85mの台基があり、台基の上に7身の立佛が彫られ、配置は正壁に3身、左右壁に各2身である。北石窟寺165くつは、高さ14m、幅21.7m、奥行き15.7mで、規模が南石窟寺よりやや大きいのを除けば、その洞窟形制と題材は南石窟寺と相似である。
  (※注1) 盝頂;寄棟屋根を横に切り取って、屋上をテラス状にした屋根形式

 南石窟寺1窟の7身の立佛の佛衣の裾端は2層で(図5-5-1)、これは雲崗一期と二期の立像中に多く見られる(図5-5-8:1~3)。その内、南石窟寺1窟左壁内側の立像の佛衣装飾は一種の”匂聯紋”で(図5-5-8:4)、この種の紋飾は突起した両尾根曲線が1尾根に合流し、合流個所の両尾根の内辺線は閉じ、外辺線は伸びて1尾根になり、同時に合流個所に短い円弧線を陰刻し、雲崗二期7窟のようなこの種の匂聯紋装飾になる。南石窟寺1窟の佛衣の裾端表現形式及びそれとは別に佛衣装飾紋様と雲崗石窟の伝統は更に密接となる。
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 北石窟寺165窟の7身立佛の佛衣裾端は3層で(図5-5-2)、これは雲崗二期及び龍門石窟の立佛像中に出現する(図5-5-8:4~6)。雲崗石窟の佛衣変化の論理で見れば、佛衣の裾端3層は2層の表現形式に比べかなり晩いが、雲崗二期に在っては、佛衣の裾端の2層と3層は併存している(図5-5-8:2~6)。これは南石窟寺1窟と北石窟寺に佛衣裾端の2層と3層に差があったとしても或は後先には関係が無いのかも知れないのを表明して、只雲崗の伝統を多くうけたか洛陽の伝統を多く受けたかだけなのだろう。
 今、泾川県王母宮石窟文管所にある北魏《南石窟寺之碑》に記す、“大魏永平三年(510)歳は庚寅四月壬寅朔十四日乙卯、支持節都督泾州諸軍事、平西将□□□泾□州刺史、安武県開国男奚康生造る”。北石窟寺に在る清乾隆六十年(1795)《重修石窟寺諸神廟碑記》に言う:“今、原州の東に石窟寺が有る。その初めを調べると、鑿創は元魏永平二年(509)より始め、泾原節度使奚候が創建した“。目下、一般には南・北石窟寺の洞窟形制、題材配置及び佛像着衣の特徴分析からは、二者はあるいは同時の開鑿で、南石窟寺の佛衣は雲崗の伝統を多く受け、北石窟寺の佛衣は洛陽の伝統を多く受けた;又佛衣裾端の2層の表現形式が3層より早いと言う論理上の分析は、また南石窟寺の開鑿は北石窟寺よりやや早いという推論が出来るだろう。


次回は、炳霊寺石窟の北魏晩期着衣


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# by songofta | 2017-03-11 22:58 | 旅と地域

212 須弥山石窟の北朝~唐の佛衣

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第四節 須弥山石窟の北朝から唐代の佛衣
 須弥山石窟は、寧夏自治区南部の黄土高原の位置し、固原県城の西北約55kmに在る。現在関係の有る記載で最早は、明代嘉靖の《固原州志》;“須弥山は、州北九十里。古寺があり、松柏桃李がこんもりと茂り、古い石の関門の遺跡である”。
 須弥山は六盤山の余脈に属し、海抜1800m、山体は紫紅色や橙黄色で、やや粗い粒砂状の構造で、岩質は粗い。山中は連なった峰々が翡翠のように重なり、青い松が真っ直ぐ伸びている。石窟の開鑿は、南北に1800m伸び、東西は幅700mの範囲内にあり、洞窟位置は相対的に集中した8区に分けられ、南から北に俗称大佛楼、子孫宮、円光寺、相国寺、桃花洞、松樹洼、三個窯と黒石溝。俗称寺口子河の石門水は、窟の南堺に臨んでゆっくりと流れる。
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       (以下、写真は、百度百科より)

 須弥山石窟の現存洞窟は132個の編号があり、北朝から唐代の雕鑿が主である。唐以前の洞窟は4期に分けられ;第一期はおよそ北魏末期(約500-534)、第二期は凡そ西魏時期(5365-556)、第三期は主として北周時期から武帝法難(557-574)、第四期は隋開皇年間(581-600)。唐代洞窟は、三期に分けられ:第一期は高宗永隆元年から武周如意元年(680-692)、第二期は武周如意元年から玄宗天元年(692-712)、第三期は玄宗天元年から代宗大歴十四年(712-779)。
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 長期に渡る自然の侵蝕と地震による破壊により、造像は程度の違う損壊を受けているので、佛衣保存のかなり良い13ヶ所の洞窟を選んで、類型分析を進める、その分布は大佛楼、子孫宮、円光寺、相国寺と桃花洞の五区となる。
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一 須弥山の北朝から唐代の佛衣類型
 須弥山の北朝から唐代佛衣は主要には上衣搭肘式、露胸通肩式、中衣搭肘式と通肩式の4種である。各期の変化は主に佛衣裾端にある。
上衣搭肘式佛衣:外層の上衣が両肩を覆い、右衣の角は胸腹前を横に通って左肘に掛かる物を指す。唐以前の第一期は、24窟のように裾端は単層で、人字形か円弧形を呈す(図5-4-1:1,2);第二期は、32窟のように佛衣の裾端は単層で、小円花弁状(図5-4-1;3);第三期は、45窟のように佛衣の裾端は3層で、衣の褶曲は折り重なる(図5-4-1:4)。
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露胸通肩式佛衣:外層の上衣が両肩を覆い、右衣の角は前身を巻いて左肘に掛かり、衣の襟は“U”形を呈して垂れ胸腹部に至る。唐以前の第一期は、24窟のように佛衣の裾端は単層で、円弧形(図5-4-2:1,2);第二期は、32窟のように佛衣の裾端は単層で、小尖花弁状(図5-4-2:3);第三期は、45,46,51窟のように、佛衣の裾端は5層か4層を見られ、衣の褶曲は折り重なる(図5-4-2:4~7);第四期は、67窟のように、佛衣の裾端は2層で、衣の褶曲は折り重なる(図5-4-2:8,9)。
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中衣搭肘式佛衣:中層の中衣は、交叉襟か右衣の角が垂れて右肘に掛かり、外層の上衣は両肩を覆うか、或は右肩を覆わず右衣の角が右脇下を巻いて左肘か左肩に掛かる。唐以前の第三期は、51窟のように中衣が交叉襟で、上衣の右衣の角は左肘に掛かり、裾端は4層、衣の褶曲は折り重なる(図5-4-3:1)。第四期は、67窟のように、中衣の右衣の角は右肘に掛かり、上衣の右衣の角は左肩に掛かり、裾端は2層、衣の褶曲は折り重なる(図5-4-3:2)。唐代の5、72,69、54、62、105窟のように、中衣の右衣の角は右肘に掛かり、上衣の右衣の角は左肩に掛かる;裾端は立体状に座の上に敷き広げる(図5-4-3:5~8)。
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通肩式佛衣:外層の上衣が両肩を覆い、右衣の角は頚を巻いて左肩に掛かる。裾端は立体状に座の上に敷き広げる。唐代の69,54窟(図5-4-4)。
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二 須弥山の北朝から唐代の佛衣類型の来源
 唐以前の第一、二期は、上衣搭肘式と露胸通肩式の両種の佛衣が有り、区別は主要に佛衣の裾端にあり、第一期は人字形か円弧形で、第二期は小花弁状を呈す。第三、四期は多くが露胸通肩式佛衣で、中衣搭肘式佛衣が出現する、主要な区別は佛衣の裾端にあり、第三期は5層か4層、第四期は2層。唐代流行の中衣搭肘式と通肩式佛衣は、佛衣の裾端が立体状に座の上に敷き広げる。
 上衣搭肘式佛衣は北魏雲崗石窟、龍門石窟等で大量に流行している。須弥山第一期の佛衣の裾端は人字形か円弧形で、雲崗及び龍門と相似であり、その衣紋は密集平行の陰刻線の技法で、峡北・隴東の北朝石窟と石刻造像と相似である。これは第一期の上衣搭肘式佛衣の来源がかなり多元化していることを表明している。
 露胸通肩式佛衣の流行は斉梁時期の栖霞山石窟である(図5-4-5:1,2)。須弥山第一期から第四期のこの種の佛衣の覆う形式は南朝の影響を受けたのかも知れないが、佛衣の裾端は雲崗と龍門に近い。 中衣搭肘式佛衣は東魏・北斉の響堂山石窟の主要な佛衣類型で(図5-4-5:3,4)、須弥山第三、四期のこの種の佛衣形式の出現は、大体北斉邺都の影響と関係する。
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 須弥山唐代の中衣搭肘式と通肩式佛衣の裾端は、立体状に座の上に敷き広げるが、この種の佛衣形式の源頭は両京地区にある。例えば隋仁寿二年(602)頃完工した麟遊慈善寺Ⅰ窟、貞観十五年(641)開鑿経営の賓陽南洞正壁の大像、及び龍門二連花南洞等(図5-4-6)。
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 まとめて言うと、須弥山石窟の北魏末期(約500-534)の佛衣類型は、すでに有った東部地区と隣接する地区の伝統があり、又南朝の影響も受けた。西魏時期(535-556)の佛衣類型は、主要に北魏の要素を踏襲したかも知れない。北周(581-574)と隋代(581-600)の佛衣類型は、流行の南朝様式で、同時に東部地区の伝統裳あった。唐代は即ち両京地区の中衣搭肘式と通肩式佛衣の標準形式に一致する。


次回は、隴東地区の北魏晩期着衣


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211 莫高窟北朝仏像の着衣(2)

5-8世紀漢地佛像着衣法式


二 莫高窟北朝佛像着衣の時期区分
1.佛像着衣の時期区分
 以上30ヶ所の洞窟の佛衣類型を整理すると、組分けが帰納出来、表5-3-1のようになる。
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 表中で第268,259,254,257,251,263,260,435,437,431窟の正壁或は中心柱正壁は覆肩袒右式佛衣(A型)で、多くは匂聯紋を装飾する;その他の壁面は通肩式佛衣(B型)と搭肘式佛衣(C型)で、この内第263窟の通肩式佛衣(B型)は匂聯紋を装飾する。菩薩衣飾は下裙式披巾順体(A型)と下裙式斜披衣(B型)がかなり多く、通肩式(C型)と下裙式披巾交叉或は横腹(D型)、その内第275窟の主尊は菩薩衣で匂聯紋を装飾する。この12個の窟が第一組に帰する。

 第248窟の中心柱正壁は通肩式佛衣(B型)で、第247窟正壁は搭肘式佛衣(C型)、第285、288、249窟正壁或は中心柱正壁は露胸通肩式佛衣(D型)で匂聯紋を装飾、第432窟中心柱正壁は上衣搭肘式佛衣(E型);その他の壁面は通肩式佛衣(B型)と搭肘式佛衣(C型)が主である。菩薩衣飾A、B、C、D型の外、交領大袖式(E型)の有り、その内で第249窟の菩薩衣飾は匂聯紋を装飾する。上述の情況と第一組は近く、この6ヵ窟は第二組に帰せる。

 第438、440窟正壁は露胸通肩式佛衣(D型)だが匂聯紋が無く、第290、439、428、430、442、294、296、297、299、301窟正壁或は中心柱正壁は上衣搭肘式佛衣(E型)である。菩薩衣飾A、D型が主である。この12ヵ窟は第三組に帰せる。

 その中で、第一組の覆肩袒右式佛衣は第二組にわずかに見られ、第三組で流行の上衣搭肘式佛衣は第二組で初めて見られる。覆肩袒右式佛衣は、目下の所最早の実例は、西秦と北涼地区に在り、炳霊寺169窟の西秦420年頃開鑿の9号塑像、現米国クリーブランド芸術博物館蔵の北涼縁禾四年(435)索阿后塔上の佛像等;上衣搭肘式佛衣は、目下の所最早実例は、四川省博物院蔵の四川茂汶出土の永明元年(483)造像碑がある。この両種の佛衣類型出現の後先により、三組の順序を知ることが出来て、一組が最早、二組が続き、三組が最晩となり、三期に分ける。各期の主要特徴は、表5-3-2のようになる。
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2.各期年代の推断
 第一期の覆肩袒右式佛衣は多くが匂聯紋を装飾し、これは雲崗石窟の”曇曜五窟”中の19,20窟及び7,8窟の佛衣と相似である。雲崗19,20窟の匂聯紋は合流する所の内辺線が互いに噛み合い、尾根上の陰刻線も形に従って噛み合う(図5-3-11:1)。莫高窟の匂聯紋の細目は少し差異が有り、雲崗7窟の匂聯紋の表現と近く、7窟匂聯紋は合流する所の内辺線は閉じ、短い円弧線を陰刻する(図5-3-11:2)。
 《魏書・釈老志》が記録する雲崗石窟の開鑿初めの情況は;和平初(460)”曇曜が帝に上奏して、京城の西、武州の隘路に石窟を鑿し、五ヶ所の窟を開き、佛像各一を彫る、高さは七十尺、次は六十尺、雕飾は奇偉、一世に秀たる”。この最初の五窟は、いまの雲崗石窟の16-20窟に相当し、五窟の開鑿の下限は献文帝末年(470)と推定される。曇曜五窟の後に続いて開鑿された洞穴に7,8双窟及びやや後れて9,10双窟等が有り、9,10双窟の開鑿時期は、太和八年(484)頃に始まったと推定され、匂聯紋が飾られるのは9,10双窟では稀で、更に言えば、7,8双窟の匂聯紋の下限は大体太和八年(484)となる。雲崗石窟中、匂聯紋の装飾は覆肩袒右式と通肩式佛衣の上にある。
 河西地区張掖の金塔寺石窟東窟と西窟の泥塑造像は、通肩式と覆肩袒右式佛衣及び脇侍菩薩の腿部の裙上に、匂聯紋を装飾し(図5-3-11:3)、比較的豊富である;在る匂聯紋は両尾根曲線が相互に交叉して一尾根になり、交接個所に短円弧線を陰刻するが、尾根曲線の中央には陰刻が無く、形式は簡単である。この2つを分析すると、金塔寺石窟の匂聯紋は莫高窟よりやや早く、太和(477-499)初期頃で、莫高窟の匂聯紋の出現時期は、大体太和中期、486年前後であろう。
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 第二期露胸通肩式佛衣の匂聯紋装飾は、匂聯紋の第一期の特徴を踏襲するが、露胸通肩式佛衣は新様式になり、その最早は栖霞山石窟の簫斉時期で、永明二年(484)頃から5世紀末期で、19,22、24窟等がある(図5-3-12:1)。東部地区には北魏末東魏時期に出現し、例えば青州龍興寺の北魏永安三年(530)、東魏天平三年(536)造像等(図5-3-12:2、3)。第二期の285窟には大統四年(538)、五年(539)の題記があり、第二期の露胸通肩式佛衣は西魏時期(535-556)である。
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 第三期の露胸通肩式佛衣は、後世に加えられた部分があり、匂聯紋が消失している。主要な流行は上衣搭肘式佛衣で、その時期を推測すると、およそ北周時期で廃仏前(557-574)まであろう。
 以上の情況から莫高窟の北朝佛像着衣の三期の年代は、即ち第一期がおよそ太和中期から北魏滅亡(486年前後-534)まで、第二期はおよそ西魏時期(535-556)で、第三期はおよそ北周時期で廃仏前迄(557-574)である。

三 佛像着衣の時期区分と文化影響
 莫高窟第一期の覆肩袒右式佛衣の匂聯紋装飾は、北魏の都大同雲崗石窟の佛像着衣に遡源があり、この一側面は敦煌と平城の関係を反映している。文献に記載される、北魏時期は初め、皇族や皇后の縁戚が敦煌地方の長官に任じられ、それは、文成帝の婿で長楽王、秦州刺史、代北に列する“功臣八姓”の筆頭穆亮である。穆亮は、“官職を、使持節、征西大将軍、西戎校尉、敦煌鎮都大将に替えた。治世は寛大で、貧困なものを救済し、征討されたものも再び朝廷に復帰させ、人々はこれを追慕した”、時は太和九年(485)以前である。
 敦煌は前漢が郡を設置してから魏晋まで、逐次発展して中原西部の軍政の中心で商業都市でもあり、“西域の門戸”である、陽関と玉門関の両関を扼して、中西陸路交通の重要な要で、“華と戎の交わる所、一番の都市である”、その発展は多くをシウ業と交通に拠っている。オアシスの在る土地は肥沃で、面積はかなり大きいが、人口との業の基礎は地理的条件で限定される。前漢では戸数11200、後漢は戸数748、西晋は戸数6300、隋代は戸数7779、唐開元の最盛期は戸数6466,一般に万戸には不足する。4世紀末、人口が移動し、最多では2万戸以上に達したかも知れない。敦煌の農業生産規模は小さく、雨が少なく、水源は主要には暖かく成って山の雪が消え河に行水となるのに頼っていて、ペリオが掠め取った莫高窟蔵経洞の盛唐写本《沙州都督府図経》に記載の、十六国時期の用水路の構築は、陽開渠、北府渠、陰安渠、孟授渠等があり、この数本の用水路は皆甘泉水(今の、党河)から引いて農地を灌漑し、民衆はこれに依存し、おおよそこれに拠ってのみ当地住民の生存が維持された。敦煌の経済資源は、専門の手工芸者が長期に渡って創作し工作することは難しく、国都の平城が全国の技芸と人力、物力を集中し、創造と絶え間なく新様式を発展させる条件を兼ね備えていたこととは比べようも無かった。莫高窟の佛像着衣様式から見て、平城あるいは内地の影響を受けるべくして、一部の工匠が敦煌以外からやって来たのかも知れない。

 莫高窟第二期の露胸通肩式佛衣は、簫斉時期に都の建康の栖霞山石窟の流行を除けば、簫斉時期の成都地区の石刻造像中のものも多く見られ、例えば四川省博物院蔵”中大通元年(529)”道猷母子造像がある。敦煌と蜀地は早くから交通が有り、5世紀前半期、高僧曇摩密多は、罽宾国の人で、“博学で沢山の経典に通じ、特に禅に深く・・・・・敦煌に至って、安静の地として、精舎を建て・・・この頃、又涼州に行き・・・学徒が沢山集まり、禅が盛んになった。常に江南の王都に、法を伝えたいと思い、宋の元嘉元年(424)転じて蜀に至り・・・都に至る”。高僧釈慧欖は、酒泉のひとで、“”外国に旅し・・・・禅を罽宾国の達磨に学び・・・・于阗、沙州に至り、大衆はみな集まって、欖から教わり、国を上げて禅を思い、法を思って二食を忘れるほどであった。蜀は禅学を聞き、師と仰がないものは無かった“。敦煌蔵経洞から出た小生時期の荊州と建康題記の佛教写本も、敦煌と南朝の間の直接の往来が有ったことを説明している。
 十六国時期の河西に割拠した政権と建康との交通は多くが蜀地を経由し、前涼の張駿の遣使は“仮に道を蜀に取り、都に通好する”、蜀と“隣国として修好”し、北涼の沮渠蒙遜と益州刺史は互いに使臣を招聘した。河西から蜀地への地理を考慮すると、莫高窟露胸通肩式佛衣は成都地区から来たのかも知れない。北魏考昌元年(525)から大統十一年(545)は、宗室の東陽王元栄一家が敦煌で活動した時期である。東陽王元栄は佛教を信じ、寛く経典を施し、開窟造龕、北魏晩期から西魏前半期の莫高窟の建築興隆に対して、影響が甚だ大きかった。その洛陽から敦煌に来るや、中原地区文化を携え、その時は南朝の新風が遍く北朝地域に伝播しており、莫高窟の佛衣様式も、南朝の要素が洛陽から再伝播したのかも知れない。

莫高窟第三期の上衣搭肘式佛衣は、南北各地の流行期は過ぎていた。成都地区の斉梁時期(483-549頃)例えば四川省博物院蔵永明元年(483)、大同三年(537)造像、四川大学博物館蔵太清三年(549)背光式左側造像。北魏遷都から北魏末(494-534)例えば雲崗6窟、龍門賓陽洞、考昌三年(527)皇甫公窟造像、東魏(534-549)天龍山石窟2,3窟、市議(535-556)麦積山石窟127,123,44窟造像。
 莫高窟の北周盛期のこの種の佛衣類型は、或は都長安と関係があるかも知れない。西魏後期及び北周時期の瓜州刺史と当時の中央王朝の関係は密接で、給事黄門侍朗の申徽は、大統十二年から十六年(546-550)瓜州刺史を拝領した。京兆の名族王子直は、廃帝元年から恭帝初(552-554)瓜州の事務を処理し、京兆郡の事務を処理し、宇文氏の姓を賜った偉瑱は、恭帝三年(556)瓜州諸軍事を除く歌手刺史をなった。驃騎大将軍に累進し、儀同三司を開府し、尓錦氏の姓を賜った段永は、武成二年から保定二年(560-562)瓜州刺史に任じた。西京の名族李賢は、妻が宇文氏の姓を賜り、宇文家族と密に通好し、北周の太祖、高祖は数度その居宅に御幸し、高祖の幼時は李賢の家で6年の長きを過ごし、李賢は、保定二年から四年(562-564)瓜州刺史を授かった。建平公は義、代北の旧族で、父輩は魏武西から出て周室に功が有り、約564-574年に瓜州刺史に任じられた。その内、段永と建平公は義に又仏経に篤く、建寺造窟をする背景が有り、特に建平公は敦煌地区に在って佛教を弘めた業績は、東陽王元栄に匹敵する。
 長安地区は、西魏時期上衣搭肘式佛衣が見られ、西安碑林博物館蔵大統二年(536)高子路造像碑等が有る。但し北周はわずかで、主要な流行は通肩式と露胸通肩式佛衣で、西安碑林博物館蔵武成元年(559)、大象二年(580)造像等がある。北周時期の莫高窟と長安地区流行の佛衣が一致しない説明は、長安と敦煌の間の関係が連ながりの環の実証に乏しいことにある。

四 佛像着衣の時期区分と洞窟年代
 莫高窟北朝洞窟の年代は、目下のところ主に2種の意見がある。
 一種の意見は北朝洞窟を4つの段階に分け、第一段階は北魏孝文帝初年(471)の早くない頃から太和13年(489)前後まで;第二段階は太和11年頃から正光の末即ち487-524の間まで;第三段階は北魏正光の後から西魏時期即ち6世紀20年代後半~50年代中期まで;第四段階は北周~隋開皇4年(584)以前即ち6世紀50年代後期~80年代初迄。
 もう1種の意見は、北朝洞窟を4期に分け、第一期は北涼が敦煌を統治した時期(約420-442年頃);第二期は北魏中期相当の(約465-500年前後);第三期は東陽王元栄一家が敦煌を統治したじきに相当する(約525年以前~545年前後);第四期は西魏大統十一年から隋開皇四年(約545-584)で、主要には北周時期に当る(557~581)。
 本論文は、上述の佛像着衣の時期区分に基づき、洞窟の営造年代は大体これと相当すると見て、北朝洞窟の時期区分の参考とした。莫高窟北朝洞窟時期区分と対照すると、表5-3-3となる。
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 表に見る様に、3種の時期区分の分かれ道は、主要には西魏以前にある。第1、2種の意見は基本的に、東陽王元栄一家の敦煌統治時期(約525-545)を1個の段階とし、本論文は佛像着衣の変化の脈絡分析から、第285窟の大統四年(538)、五年(539)の題記を以って基準とし、西魏時期(535-556)を以ってひとつの段階とするのが適当とした。第2種の意見は、早期洞窟を北涼の敦煌統治時期(約420-442辺り)にしたが、覆肩袒右式佛衣の匂聯紋装飾の特徴を基にすると、未だ北涼時期の実例が発見されていないので、太和(477-499)中期前後とするのが穏当であろう。


次回は、須弥山石窟 北朝-唐の佛衣


  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
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210 莫高窟北朝仏像の着衣(1)

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第三節 莫高窟北朝佛像の着衣
 莫高窟は甘粛省河西回廊の西端戈壁中に位置し、敦煌市東南約25kmの鳴沙山東麓、大泉河の西岸にある。隋代以前の早期洞窟は、現存36ヶ、その内泥塑佛像着衣の保存良好なものは30窟の多数に達する。本論文は考古類型学の方法を運用して、佛衣及び菩薩衣飾を分析整理し、佛像着衣の時期区分及びその反映する文化影響と洞窟年代等の問題に試論を提出する。

一 莫高窟北朝佛像着衣の類型
1.佛衣
 莫高窟北朝佛衣は5種の類型が有り、覆肩袒右式(A)、通肩式(B)、搭肘式(C)、露胸通肩式(D)と上衣搭肘式(E)に分かれる。
A型:覆肩袒右式佛衣。外層の上衣が両肩を覆い、右衣の角は右脇下方を巻いて左肩に掛かる。正壁か中心柱正壁に位置する。268,272,259,254,257,251,260,435,437,431窟。268と260窟の佛衣を除き、他は均しく匂聯紋を装飾する(図5-3-1)。
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 この種の紋飾は、突起する両尾根曲線を経て一つ尾根に合わさり、尾根毎に陰刻線一筋を刻み、尾根の間の凹面上にも陰刻線一筋か二筋を刻む;合流する所の両尾根の内辺線は閉じ、外辺線は伸びて一尾根となり、同時に合流する所に短い円弧線を陰刻する。
B型:通肩式佛衣。外層の上衣が両肩を覆い、右衣の角は頚を巻いて左肩に掛かる。主要には正壁以外のその他の壁面に位置する。259,254,257,251,260,263,435,437,431,288,248,432,290窟。その内263窟は匂聯紋を装飾し(図5-3-2)、248窟は正壁に位置する。
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C型:搭肘式佛衣。外層の上衣が両肩を覆い、右衣の角は右臂下方を巻いて左肘に掛かる。主要には正壁以外のその他の壁面に位置する。257,431,248窟(図5-3-3:1,4,6);或は、右衣の角が禅定印の所に掛かる、432,247窟(図5-3-3:5,7);まだあるのは、左肘に掛かってから、左肩まで伸びて掛かるのを表現する形式、251,435窟(図5-3-3:2,3)。その内247窟は性癖に位置する。
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D型:露胸通肩式佛衣。外層の上衣が両肩を覆い、右衣の角は胸前で“U”字形を呈し左肩に掛かる。正壁か中心柱正壁に位置する。285,288,249,438,440窟、その内285,288,249窟は匂聯紋を装飾する(図5-3-4)。
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E型:上衣搭肘式佛衣。上衣は背中より両肩を覆い、右衣の角は横に腹部を通って左肘に掛かる;中衣は上衣と覆う形式は一致する。正壁か中心柱正壁に位置する。432,290,439,428,430,442,294,296,297,299,30窟(図5-3-5)。
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2.菩薩衣飾
 菩薩衣飾の分類と呼称は専門研究が少ない。叙述に便のため、現在の着用形式の主要特徴を以って名付ける。下裙式披巾順体(A型)、下裙式斜披衣(B型)、通肩式(C型)、下裙式披巾交叉或は横腹(D型)、交領大袖(E型)。菩薩は主尊となる以外は、一般に脇侍である。
A型:下裙式披巾順体菩薩衣飾。上身裸体、或は僧祇支式に似た内衣を着て、下身は裙を着て、領巾は肩に掛かり体側に沿って流れる。275,259,254,257,260,435,431,248,438,432,439,428,430,290,296,299窟。その内275窟は主尊が菩薩で、裙の上に匂聯紋を装飾(図5-3-6)。
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B型:下裙式斜披衣菩薩衣飾。上身は裸体、左肩から右腿に向かって斜めに衣が覆う。259、254、257、251、260、435、288、248、249窟。その内249窟は匂聯紋を装飾する(図5-3-7)。
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C型:通肩式菩薩衣飾。佛衣の通肩式と同じ。259,260,288,248窟(図5-3-8)。
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D型:下裙式披巾交叉或は横腹菩薩衣飾。上身裸体、下に裙を着て、領巾が交叉するか横腹前にくる。260、437、431、432、428、430、290窟(図5-3-9)。
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E型:交領大袖式菩薩衣飾。裁断した襟のある袖付きの衣を着る。285、288、432、290窟(図5-3-10)。
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# by songofta | 2017-03-09 18:26 | 旅と地域

209 金塔寺石窟佛像着衣

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第二節 金塔寺石窟の佛像着衣
 金塔寺石窟は張掖市の南62kmに在り、粛南裕固族自治県馬蹄区の祁輦山境内にある。臨松山の西面にあり、大都麻河西岸の紅石崖壁上、地面から60m余の高さに、2つのかなりの規模の洞窟を鑿し、一般に東窟、西窟と呼ばれる。
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        図1. 金塔寺石窟 全景

 東窟は深さ7,65m、幅9.70m、高さ6.05m。窟平面は、縦長の長方形で、天井に覆われ、窟内中部に中心柱を鑿し、崖が崩れた為、窟室の前半分部が早くに損壊し、中心柱が幾らか崖の縁に沿って露出している。窟内の壁面には龕を開かない。中心柱四面は3層に分かれ龕を開き造像する。下層は面毎に中央に大龕を開き、龕内に各塑佛一身、龕外の両側に各一身の脇侍菩薩或いは弟子塑像がある;中層は、毎面に3つの浅い龕を並べ、龕内は各塑佛一身、後面の3龕外は千佛塑像、他に3面には窟外に脇侍菩薩塑像各一身;上層は、右面が後補の塑像以外、残りの3面は皆十佛、十菩薩。
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        図2. 金塔寺石窟東窟

 西窟の形制は東窟と基本同じで、只規模がかなり東窟より簡略で小さく、残っている深さは3.90m、幅7.90m高さ4.30m。窟内中心柱も3層に造像し、下層は面毎に中央に大龕を1つ開き、龕内に各塑佛一身、龕外両側に各脇侍菩薩塑像或は甲冑衣の天王形象塑像一身とする;中層正面の主尊は後代の改塑でチベット式祖師像で、左面と後面は各塑佛言った、右面の主尊は思惟菩薩、正面主尊両側は各四身の脇侍菩薩塑像、後面主尊両側の上下は各脇侍二菩薩及び二弟子塑像、左右面主尊両側は合計7身の脇侍菩薩;上層波面毎に千佛或は菩薩塑像。
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         図3. 金塔寺石窟西窟

 中心柱上の泥塑佛像の着衣は保存が完全で、佛像着衣の系統整理にかなり良い条件を提供している。本論文は考古類型学の方法を運用して佛衣、菩薩及び天王衣飾、を分析し、佛像着衣の類型と年代及びその洞窟の開鑿年代に反映する問題に試論を立ててみる。
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          図4.  中心柱

一 金塔寺石窟仏像の着衣
 金塔寺石窟内の佛衣、菩薩衣と天王衣は一般に1種の衣紋で装飾され、この種の衣紋は、遠きした2つの尾根曲線が合流して1つになり各尾根の上に陰刻線を1筋か2筋刻み、同時に尾根の間の凹面上に陰刻線を1筋刻み、その外観輪郭形は叉状或は燕尾形あるいはY字形である。両尾根曲線が通過して互いに結合すると、合成した尾根を論理的表現形式として、“匂聯紋”と名付ける。金当時の匂聯紋は結合する両尾根の内辺線は閉じ、外辺線は伸びて1尾根になり、同時に結合した所に陰刻の短い円弧を刻む。
 金塔寺石窟の佛衣は覆肩袒右式と通肩式が主である。覆肩袒右式は、その外層の上衣は両肩を覆い、右衣の角は右脇下方を巻いて左肩に掛かり、多くは匂聯紋を装飾する(図5-2-1:1,2)。通肩式は、その外層の上衣が両肩を覆い、右衣の角は頚を巻いて左肩に掛かり、匂聯紋を装飾する(図5-2-1:3~5)。
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 菩薩衣飾の分類と呼称は専門研究が少ない。叙述の便のため、今ある主尊と脇侍の菩薩衣飾の主要な特徴を持って、下裙式と袒右式と名付ける。下裙式は、その上身が裸で、下身に裙を着て、領巾は肩に掛かり体側を流れる。裙上に匂聯紋を装飾する(図5-2-2:1~4)。その内、西窟中心柱右面上層の思惟菩薩は通王に位置し、形が高大で、主尊とすべきである。袒右式で、それと佛衣の袒右式は同じである。外層の上衣は左肩を覆い、右衣の角は右脇下方を巻いて左肩に掛かり、匂聯紋をそうしょくする。わずかに西窟に見える(図5-2-2:5)。
 天王は甲冑衣を着て、裙上に匂聯紋をそうしょくする。僅かに西窟に見える(図5-2-2:6)。
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二 金塔寺石窟佛像着衣の年代
 金塔寺の覆肩袒右式と通肩式佛衣の匂聯紋を装飾する形式は、雲崗石窟の”曇曜五窟”中19,20窟及び7,8窟佛衣の特徴と相似である。雲崗19,20窟の覆肩袒右式と通肩式佛衣の匂聯紋の合流する所の内辺線は相互に噛み合い、尾根上の陰刻線も形に沿って噛み合う(図5-2-3:1)。金塔寺の匂聯紋の細目とそこに差異が有り、雲崗7窟の匂聯紋の表現形式と接近し、7窟の匂聯紋は結合する所の内辺線は閉じ、短い円弧線を陰刻する(図5-2-3:2)。
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 雲崗石窟佛像の匂聯紋の形成は、衣紋の変化形式を追跡すると、西方を経由して東方までの一条の道筋が辿れる、即ちガンダーラから河西地区の北涼石塔に至った。例えば今甘粛省博物館蔵の承玄元年(428)高善穆塔、承玄二年(429)田弘塔坐佛、炳霊寺169窟の420念前後頃の7龕立佛、更に進んで現在東京国立博物館蔵の太平真君四年(443)高陽蠡吾(今の河北省博野県西南) 菀申造像、及び河北省易県出土で現材易県文管所蔵和平六年(465)交脚菩薩像、最終的に雲崗石窟佛像着衣の匂聯紋で成熟し、又雲崗石窟を経て直接或は間接的に外に向けて伝播した。
 《魏書・釈老志》に記載された雲崗の開鑿開始時の情況:和平初(460)”曇曜が帝に上奏して、京城の西武州の隘路に、石壁を鑿し、5ヶ所の窟を開き、佛像各一を彫る。高さは70尺、次は60尺、雕飾は奇偉、一世に優れる。” この最初の5窟は今の雲崗石窟16~20窟で、5窟の開鑿の下限は献文帝末年(470)と推定される。曇曜五窟に続いて開鑿された洞窟が7,8双窟とやや晩く成って9,10双窟等となり、9,10双窟の開鑿時期は、太和八年(484)頃で、匂聯紋は9,10双窟では見られず、一歩進んで推測出来るのは7,8双窟の匂聯紋の下限はおおよそ太和八年(484)となる。雲崗石窟は基本的に脇侍菩薩の匂聯紋は見られない。
 雲崗石窟年代に基づき、金塔寺の佛、菩薩、天王が普遍的に匂聯紋を装飾する情況から、金塔寺の佛像着衣の年代はおよそ太和(477-499)頃と推定できる。
 それとは別に、東窟の匂聯紋は主に主尊の佛衣と脇侍菩薩の衣飾に集中しており、西くつの匂聯紋はかなり広範で、主尊佛衣と脇侍菩薩の衣飾以外にも、主尊菩薩及び天王の衣飾上に表現され、且つ脇侍菩薩には東窟では未だ見られない袒右式服飾が出現し、この情況は西窟佛像着衣の年代がかなり東窟より晩くなることを表明している。

三 金塔寺石刻の年代
 金塔寺の年代に関して、主に十六国と北魏の2説がある。十六国説は、十六国の五涼時期(317-439)のうち、北涼時期の可能性が最大で;北涼後期頃;前涼或は北涼時期に均等に開窟活動;400年頃かその以前等がある。北魏説は太和及び稍々あとの北魏時期(486-510);北魏460年代後半期憩う;東窟の開鑿年代が5世紀50年代か60年代、西窟の開鑿年代が5世紀70年代か稍々晩い頃等。
 本論文は、上述の金塔寺石窟の佛像着衣の分析、及び雲崗7,8双窟と9,10双窟の年代推定を基に、金塔寺洞窟の営造年代は大体佛像着衣の年代に相当すると考え、即ち金塔寺の開鑿時期は太和(477-499)初年頃で、その中でも東窟の年代は少し西窟より早い。
 それとは別に、題材の内容から、龕形装飾等の方面も金塔寺石窟と雲崗7,8と9,10双窟は相似な所を見ることができる。例えば、金塔寺東窟中心柱左面、右面と西窟中心柱後面中層の主尊は交脚菩薩佛で、西窟中心柱左面中層の主尊は椅坐佛、西窟中心柱右面中層の主尊は思惟菩薩である。雲崗の交脚佛の最早は7,8窟主室左右両側壁の小龕内にある;椅坐佛、思惟菩薩の最早は、7窟主室正壁上方の大龕にあり、その配置は一交脚菩薩二椅坐佛二思惟菩薩で、8窟主室正壁上方大龕は、その配置が一交脚菩薩二椅坐佛二思惟菩薩;9窟主室主尊は椅坐大佛である。
 又、金塔寺西窟中心柱左面、右面下層は、尖楣円拱龕(※注)の尖楣中央に塑成の火炎光六角摩尼宝珠を貼り、これは雲崗7窟主室前壁の円拱門上方の中央、9窟主室窟門頂部の火炎光六角摩尼宝珠と相似である;金塔寺東窟中心柱右面、後面、左面の下層の尖楣円拱龕の円拱の両端は塑成の振り向いた龍頭或は忍冬図案とし、振り向いた龍頭は雲崗7、8窟主室前壁上層の円拱小龕の円拱端部にあり、忍冬図案は7,8窟と9,10双窟の小龕の円拱端部に少し見えるが、これは最も良く見る装飾図案である。
   (※注) 尖楣円拱龕;アーチ形で上の横木が尖るもの。火灯窓様の形
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         図5. 石窟 東・西窟全景

 河西地区は北魏朝廷が極めて重視し、河西を鎮守する人物は、多くが北魏の宗族或は朝廷の近臣であった。北魏が北涼を滅ぼした後、太武帝は即“驃騎大将軍、楽平王丕を留任、征西将軍賀多羅は鎮涼州とする”。太平真君十一年(450)、張掖王禿発保周が反乱し、“征(尉) 眷と永昌王健等が兵を率いてこれを討つ”、その後又“眷に詔して鎮涼州を留任、加えて都督涼沙河三州諸軍事、安西将軍、領護羌戎校尉とする。転じて敦煌鎮将となる”。 文成帝の時(452-465)、陽平王他を“使持節、都督涼州諸軍事、鎮西大将軍”に任じ、献文帝和平六年(465)即位し“淮南王他を以って鎮西大将軍、儀同三司、鎮涼州とした”。孝文帝延興元年(471)、“南安王禎を仮節、都督涼州及び西戎諸軍事・・・・鎮涼州”に任じた。太和九年(485)以前、文成帝は婿の長楽王秦州刺史、位は代北に列し “功臣八姓”の第一の穆亨は、“官職を、使持節、征西大将軍、西戎校尉、敦煌鎮都大将に替えた。治世は寛大で、貧困なものを救済し、征討されたものも再び朝廷に復帰させ、人々はこれを追慕した”。太和十一年(487)に亡くなった南平王渾も曾て“涼州鎮将、都督西戎諸軍事、領護西域校尉・・・・恩は涼土に著しい”等等。
 又、《魏書》の記載によれば、文成帝は太安二年(456)及び和平元年(460)、三年(462)、五年(464)の4度河西に行幸し、延興三年(473)、孝文帝も太上皇献文帝に従って河西に行幸した。
 以上、簡略に説明した北魏の国都平城と河西の関係は密接で、金塔寺石窟の佛像着衣、題材内容、龕形装飾等の内容表現と、雲崗石窟の相似姓はおよそこのような歴史背景のいたす所である。


次回は、莫高窟北朝佛像の着衣(1)


  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
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208 麦積山北朝窟龕(4)

5-8世紀漢地佛像着衣法式


(4)第四期
 麦積山第四期は、通肩式と露胸通肩式の2種の佛衣で、最早は5世紀末開鑿の栖霞山石窟で、例えば第19、22,24,18、26窟;この後成都地区でかなり流行し、中大通元年(529)造像の露胸通肩式佛衣(図5-1-21)、麦積山は成都地区とかなり密接な関係だったかも知れない。
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 麦積山第四期の中衣搭肘式佛衣は、東魏北斉の例えば北響堂北洞、南洞及び南響堂1、5、7窟の佛衣様式と相似である(図5-1-22)。北斉流行の窟街面幅三間の模擬木構造窟廊、例えば北響堂南洞及び南響堂第3,5、7窟は模擬木構造窟檐及び浮彫覆鉢式窟頂を持つ(図5-1-23:1)、天龍山第16窟は外に亦面幅三間の模擬木構造窟廊を持つが、未だ模擬木構造の屋根は表現していない(図5-1-23:2)。麦積山は東魏北斉の石窟と佛衣様式と模擬木構造建築方面に多くの一致する表現が有る。
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 第四期に七佛の題材が盛行する。北周庾信の《秦州天水群麦積崖佛龕銘并序》に言う、“麦積の崖は、陇坻の名山で、河西の霊岳・・・・・大都督李允信は、籍は宿植で、深く仏法門を悟る。壁の南崖で、雲に梯をかけ道を鑿し、亡父のため七佛龕を奉じる・・・・輦を運び山を拓き、龕を穿ち峰々に架し・・・・壁は経文を連ね、龕は佛影を重ね、輪月殿を彫り、鏡花堂を刻み、石壁を横に雕刻していき、尾根に外から見えない洞を鑿す”。この七佛龕は面幅七間で、檐柱8本、一軒寄棟屋根の窟廊の第4窟を指しているかも知れない。大都督李允信は秦州総管宇文広の“昔の部下で儀同(注、官名)”、宇文広は主に557-559年と562-568年頃の2度秦州を統治した。文中に記す“七佛”は、第四紀洞窟中の七佛題材の実施状況を反映している。
 西魏末年(553-554)蜀を下し江陵を平定し、“太祖を捕らえ梁の荊州を平定後、益州の大徳50余人、経典を懐き像を送って京に至る”。北周天和三年(568)後より、東西対峙の局面を打破し、北斉北周双方は使節を招聘した。これは南朝佛衣様式と東魏北斉様式が麦積山に並行する時代背景かも知れない。
 北周建徳三年(574)、武帝が“仏、道2教を絶ち、経典と仏像を尽く毀ち、沙門、道士を罷めさせ、民に戻させた”。第四紀は、北周時期で廃仏前(557-574)頃と推測する。

(5)第五期
 麦積山第五期の中衣搭肘式佛衣の左胸腹部は鈎紐状に結ぶ様に作るが、鈎紐は未だ出現しない。佛衣の左胸腹の所で鈎紐を結ぶ形式は、最早が済南五峰山の北斉時期の蓮花洞正壁佛像で(図5-1-24)、やや晩く山西省平定県開河寺の開皇元年(581)摩崖大佛や、山東省青州駄山石窟で隋開皇初から皇中(581-590)頃開鑿の第2龕等で、以上は主要に北斉域内と隋代東部地区である。
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 第5窟は面幅三間の模擬木構造窟廊で、頭貫が柱頭の間に位置し、三、四期の諸窟が柱頭の大斗の上に置かれるものとは似ず、天龍山隋開皇四年(584)第8窟の頭貫が柱頭の下で少しばかり柱身に挿し込まれる構造と近く(図5-1-25)、二者は柱頭の上に斗栱あるいは大斗を用いる構成の柱頭斗栱で、梁と屋根を承ける。もう一つ、第5窟の頭貫の上の叉手は已に湾曲した脚となり、第三、四期の各頭貫の上の叉手が稀で、第四期の第4、27窟壁画中に表現された叉手が僅かに曲線になっている。
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 仁壽元年(601)、隋文帝が公布した《隋国立舎利塔詔》に、“朕、三宝に帰依し、聖教を重ねて興す”、沙門を遣わして道を分け舎利を送り、諸州に塔を建て、“所司の造る様、当州に送る”。全国統一の新形勢の下、各地の舎利塔を修理する際に標準画一の風格を遵守した。この種の収束性は同時にその他の芸術表現形式にも影響したかも知れず、東西地区の佛衣様式や模擬木構造建築にも相似性を現出し、大概が属することになる例証の一つである。秦州は静念寺に塔を起て、北宋の《秦州雄武軍隴城県第六保瑞應寺再葬佛舎利記》残碑記載の、“隋文皇仁壽元年(601)、再□(開)窟龕、勅により舎利を葬り、この宝塔を建て、浄念寺を賜る。” 秦州静念寺は麦積山に在る。
 第五期は隋代(581-618)頃に相当する。

四 結語
 前述の麦積山北朝窟龕の時期区分の文章中の、《麦積山石窟的分期》は包括する北朝窟龕の数量が最多で、《麦積山石窟的分期》と本論文の時期区分情況を列べると表5-1-3のようになる。
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 時期区分の結果から見ると、両論文の差は小さい。時期区分を北朝窟龕の崖面の分布情況から見ると、本論文を例にとれば、北魏孝文初(471)から景明時期(500-503)の窟龕が多く集中するのが西崖中部で、東崖の西沿いまで伸び、中部の崩壊部分の崖面は、当時はこの期の窟龕が分泌していた可能性を表している;景明(500-503)から北魏滅亡時(534)の窟龕分布は西崖で、東崖西沿いは少量で、前期の情況と似ていて、中部崖面にもこの期の窟龕が有ったかも知れない。西魏、北周の窟龕は東崖に集中し、東崖の西沿いは依然として少量の窟龕しかなく、およそ中崖を利用したとして、同時に西崖周辺は続いて開鑿された。隋代の窟龕は多くが東崖中上部に集中する(図5-1-26)。
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 麦積山石窟の外貌の考察研究に基づくと、西崖は前傾度がかなり大きく、現山体の中部の粘着層以下の崖面は、開豁で艷やか、粘着層以上の岩石が遥かに突き出し、像は傘で蓋を掛けたように下部の岩面を遮蔽し、東崖は全くこのような条件を備えていない。東崖と中部崖面の交接個所は一筋の上下に連続した突起で、上は4窟と5窟の間から、下に向かって伸び15窟から43窟に至る。この突起の帯以西の中部崖面と西崖は、実際は、一枚の比較的緩やかな円弧状の立面で、最初は一個の全崖面として鑿造活動が進められた。洞窟の時代順序は、西崖と中崖の中間地帯を逐次拡大していき、基本的に西崖が満杯に成った後、東崖に向けて発展した。崖面の窟龕配置から推論した結果とその造型内容と歴史背景の分析を基に判断する所の開鑿次第は一致する。
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 指摘しなければならないのは、本論文と《麦積山石窟的分期》に僅かに残る差異である。 第一に、麦積山の現存最早の遺跡開鑿時期は北魏孝文帝初期(471)から景明時期(500-503)。第二に、北魏造像活動は景明時期(500-503)を境にし、前後時期に分ける。第三に、幾つかの窟龕の時期区分に帰属が異なる。例えば74,78,90,70,71,128,148,80,76,115,156,89,86,169,69,100,114,155窟等は、本論文は孝文帝初(471)から景明時期(500-503)に、《麦積山石窟的分期》は後秦から西秦(384-431)、北魏一期(431-499)と北魏二期(500-515)に分属する;135,127,28,30,120,102窟等は、本論文は西魏時期(535-556)に、《麦積山石窟的分期》は北魏三期に属する。
 これら上述の差異は、本論文が変化する類型分析による遺存内容を一歩明確に進めたことによるもので、特に麦積山窟龕の遺存中、最も豊富な佛衣列を形式配列の要領に拠ったためである。なぜなら、中国の現存佛教遺跡遺物に対しては、特に石窟寺院の観察と研究による発見は、佛教芸術表現形式中、佛衣の遺存が相対的に最も揃っており、内容が最も豊富で、且つ時期の連続性と空間の広汎性が最も備えており、その発展変化の脈絡がはっきりしており、異なる地域の異なる類別の佛教遺存が、特に石窟寺及び単体造像遺存間の参照比較が出来る唯一の遺存類型であることによる。さらに言えば、佛衣列を類型学研究に入れ、麦積山の北朝窟龕時期区分の新しい結論を得て、中国石刻寺及び単体造像遺存の変化の全景から出した結論である。

 佛教石窟寺遺跡は極めて複雑である。20世紀50年代以来、考古類型学の方法を佛教石窟寺研究の領域に応用し、繁復する遺跡現象に、科学的やり方ではっきりと筋道を立てて用い、それによって、佛教石窟寺の遺存に対し、社会的歴史的意義の深い検討と、研究が史実の基礎の上に更に近づく事を目的とする。考古類型学の方法は、遺物或は遺跡の形式を整理し、用途や制法が同じ遺物(或は遺跡)を一つの類に帰納し、並びにそれらの標準形式を確定し、その後形式の差異レベルを増減し、一つの“系列”に整理する。本論文は考古類型学の方法で麦積山石窟の北朝窟龕の時期区分を再評価し、例を持って、考古類型学研究を佛教石窟寺遺跡に用いて認識を一歩進めたいと願っている。

次回は、金塔寺石窟仏像着衣



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# by songofta | 2017-03-05 20:22 | 旅と地域

207 麦積山北朝窟龕(3)

5-8世紀漢地佛像着衣法式

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2.各期窟龕の主要特徴
麦積山北朝五期窟龕の特徴理解に便利なように、表5-1-1を概括して列べると表5-1-2になる。
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3.各期年代の推断
 麦積山北朝各期の窟龕の特徴は表5-1-2のようになる。但し、麦積山北朝窟龕の開鑿時期は、文献での明確な記載が少なく、参考となるような銘の記録も稀である。これにより各期の開鑿年代は、主要には紀年の有るものを基に考えるべきで、変化の脈絡がかなりはっきりしていて、皇室や貴族が開鑿した北朝の雲崗、龍門、響堂山石窟と南朝の栖霞山石窟及び成都地区出土の南朝石刻造像等の遺存内容により、主要なのはその中の佛衣と倣木構窟廊で、麦積山での進行と比較し、同時に文献及び銘文を結合して推断する。

(1)第一期
 麦積山第74、78窟の佛衣と菩薩衣飾及び題材配置と、雲崗第一期第20窟は類似している。雲崗第20窟正壁の佛衣は覆肩袒右式で匂聯紋装飾があり(図5-1-18:1)、左壁は通肩式佛衣で;主尊は三佛で、正壁は座佛、左壁は立佛、右壁は立佛で、残る像は無いが、まだ蓮座と腿部の跡が残る;2脇侍は正壁佛の両側に位置し、2者の左肩の右下に向けた袈裟懸けの痕跡があり、右側の菩薩の残存する裾端を基に判断して、菩薩衣は下裙式で、斜披衣(注、袈裟懸けに着る衣)を覆っていた。
 麦積山第一期洞窟中、正方形上方の両側に小龕が配置され、左側の小龕内に一思惟菩薩二脇侍菩薩の組合せがあり、右側の小龕内に一交脚菩薩二脇侍菩薩の組合せがある。雲崗第二期第7,8窟中にも思惟、交脚菩薩の題材があり、第7窟主室正壁上方の大龕内に一交脚菩薩二椅坐佛二思惟菩薩が配置され、第8窟主室正壁上方の大龕内に一椅坐佛二交脚菩薩二思惟菩薩が配置される;第7、8窟主室壁面の列龕中に一佛或は一交脚菩薩と二脇侍菩薩の組合せは、麦積山正壁上方両側小龕内の一主尊菩薩二脇侍菩薩の組合せと類似する。雲崗第7、8窟の菩薩衣は下裙式で斜披衣で覆う;或は下裙式で、領巾が腹部で交叉する。それとは別に、雲崗第7、8窟主室正壁の椅坐佛の腿部には匂聯紋が残存する(図5-1-18:2)。第7、8窟以後、匂聯紋は稀である。以上のことは、麦積山一期窟龕は、雲崗一期(460-470)と二期(471-494)の第7、8窟とが時期的に接近していることを説明し、第7、8窟の時期は孝文帝(471-499)初年と推測されるのである。
 第78窟の佛壇右壁の供養人は胡服を着て、傍らに題が有り、その中に”仇池鎮”とある。北魏が仇池鎮を設置したのは、太平真君七年(446)で、同年廃仏政策が有り、文成帝(452-465)に至って、佛教が復興され、孝文帝の太和十二年(488)仇池鎮を梁州に改めたので、第一期の窟龕開鑿は、或は文成帝の復法より早くはできず仇池鎮の改州より晩くはならない。それと雲崗第7、8窟に似ている情況から、麦積山一期の窟龕開鑿の上限は孝文帝初年(471)頃に近い。
 第115窟には、”景明三年(502)”の紀年があり、左壁の1体の影塑佛像は、上身に交領衣を着た、東晋末年から南朝初年の拼鑲磚画墓(注;壁面に部分画を描いたタイル群で1枚の画としたもの)中の人物栄啓期の、内衣が交領衣で帯を締める形式と相似で、この種の交領形式は伝統的な漢族の服装である。第114窟正壁の主尊佛衣は上衣搭肘式は南朝の影響を受け(詳細は後述)、上身は亦内衣に交領衣を着る。宣武帝の景明治期(500-503)、麦積山は新旧の風習交代を開始する。
 この他、第一期壁面の影塑配置は涼州石窟の影響を受けているかも知れず、武威天梯山石窟第1、4等窟は涼州石窟の早期に属し、年代は北涼が姑臧に都した頃(412-439)である。その中で、第1窟の“中心柱中層四面は全て浮塑或は影塑の小佛像を造る。
 第一期は、北魏孝文帝初期(471)から宣武帝時期(500-503)頃と推測される。
    (注)拼鑲磚画墓:壁面に部分部分を描いた多数のタイル群で1枚の画を作るもの
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(2)第二期
 麦積山第二期は、上衣搭肘式佛衣で、その裾端は3分か4分し、衣縁の褶紋は鋭角に造る形式で、最早は四川小成都地区出土の南朝石刻造像に見られ、例えば永明元年(483)造像碑正面、永明八年(490)背光式造像、建武二年(495)背光の式造像等の佛衣がある(図5-1-19:1~3)。第二期の菩薩下君式衣飾は、領巾が腹部で交叉し、瓔珞が領巾の上で重なり、成都万佛寺出土の普通四年(523)や、中大通五年(533)背光式造像等の菩薩衣飾と同じである(図5-1-19:4、5)。
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 第二期のもう一つの上衣搭肘式佛衣は、裾端が2分し、彫刻は3衣の前後を表現し、前3層は三衣の前身頃で、一般に上衣は右腿の所が花弁状を呈し、中衣は縦筋の裾で、この種の形式は龍門の北魏賓陽中洞正壁の上衣重層式佛衣の裾端に最も近い(図5-1-20)。
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 おそらく景明時期(500-503)に、麦積山の在る秦州の気風が一変したのは、張彝が景明三年秦州刺史に任じられたことと関係が在るだろう。“張彝が儀式を務める時は、故事に基づいた。陇右(注、甘粛の古名)に臨んで、弥加を深く研究し、そこで直衛の出入りし、地方長官の威儀は、人を驚かすものだった。羌族は畏れ伏して、その威風を恐れ、粛として静まったので、良牧と呼ばれた・・・・・張彝が陇右を治めると、多くの制度を作り、新風を吹き込み、その旧俗を革め、民衆はこれを愛仰した。国は佛寺を作り名付けて興皇寺とした。” 張彝は洛陽より来て、秦州に“新風を吹き込み”、“国は佛寺を造った”は、おそらく北魏が洛陽遷都後、漢化を一層進めたことの反映である。麦積山の佛衣中に、北魏龍門石窟の幾つかの特徴を見出すのは、洛陽からの影響を受けたのかも知れない。
 正始三年(506)、邢峦が梁秦二州の刺史に任じられると、“益州(注、四川)の賑わい、戸数十万余り、寿春、義陽に比べ3倍に匹敵し、ことに乗ずれば利を得られること、実にこのようである。もし朝廷が民を保とうと願うが、未だ攻め取ることをしない、臣の考えはここにあり、すぐに実行しても問題がない”として、屡々蜀を手に入れようと上表するなど、正始時期(504-508)、梁秦二州は蜀地との往来が密接であった。麦積山は大量に成都地区の南朝佛衣の影響要素が出現したのは、南北交通の状態を反映したものだろう。
 第二期窟龕の数量は多く、短い時期に作り上げることは出来ないとすべきで、下限はおおよそ北魏滅亡(534)と推測する。第二期は宣武帝の景明時期(500-503)から北魏滅亡(534)ではないだろうか。

(3)第三期
 麦積山第三期の上衣搭肘式佛衣は、裾端が2分し、有るものは右腿の所が花弁状を呈し、中衣は縦筋の衣縁を飾り、二期の佛衣に北魏龍門石窟から来た特徴を踏襲する。窟外は倣木構窟廊の一軒寄棟の屋根でだいたい洛陽の遺風で、例えば龍門石窟の北魏末皇甫公窟、唐字洞、汴州洞等で、その窟廊は幅一間、一軒(ひとのき)の寄棟である。東魏北斉時期は、北響堂北洞、中洞のように窟外の崖に貼付いて立柱を彫り出し、架構は幅三間の模擬木構造建築で、模擬木の窟軒と浮彫の覆鉢式窟頂があり、只まだ柱廊の空間は形成されていない。幅三間の模擬木構造建築の形制は、麦積山と響堂山がかなり共通性を持っている。
 第43窟は面幅三間の柱廊、檐柱4本、一軒の寄棟屋根である。窟内は前後室に分け、後室には模擬几帳構造が出現する。この窟の形制は特殊で、窟廊建築の比例は丁度良く、装飾は華麗、西魏文帝乙弗皇后の陵蔵かも知れない。文帝の文皇后乙弗氏一派は“秦州に居住し、子は秦州刺史の武都王である。(大統)六年(540)春、(帝)は皇后に自殺させた。侍婢数十人を出家させ、自らの手で落髪した。落髪が終わると、入室して、布団を被り窒息して亡くなった。年31。麦積山の崖に龕を鑿して葬る・・・・寂陵と言う”。麦積山に現存する北宋《秦州雄武軍隴城県第六保瑞応寺再葬仏舎利記》の残碑記載に、“昔西魏大統元年(535)、崖閣を再修理し、寺宇を興す。” 西魏時期(535-556)麦積山には、かなり大規模な開窟の寺廟建築活動があったかも知れない。 第三期は西魏時期(535-556)頃に相当する。


次回は、麦積山北朝窟龕(3)


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206 麦積山北朝窟龕(2)

5-8世紀漢地佛像着衣法式

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3.題材配置
洞窟内主尊と脇侍造像の組合せ、更には壁面配置の内容に基づき、造像組合せと壁面の小龕を、影塑(※注1)併存の配置のものを、造像組合せ及び壁面配置(A型)と名付け、只主尊と脇侍造像の組合せだけで、壁面に小龕の無いものを、影塑配置を造像組合せ(B型)と名付ける。
  (※注1)影塑; 雕塑の一つで、一般に膠、粘土、細砂と繊維(紙や綿花等)を混ぜて塑泥を作り、表面が乾燥した後、彩色粉で磨き上げる。骨に芯木が有る場合と無い場合がある。一般に崖や壁面に附属する。主尊に附随して、内容を補充するか形式上装飾するもの。麦積山や莫高窟の羽人や飛天等が有名。
A型:造像組合せ及び壁面配置。主尊は三佛か一佛で、その他にも三尊中一身が菩薩もある。脇侍造像及び壁面配置の変化で2式に分かれる。
  Ⅰ式;脇侍造像は菩薩が主。壁面は小龕を配置し、中に思惟菩薩、交脚菩薩、坐佛を奉る;或いは壁面に影塑を配置し、或いは壁面に小龕と影塑を均等に並べ、坐佛や思惟菩薩、交脚菩薩、立像、飛天、供養像等を彫る。第51、74、78、128、148、144、80、76、115、156、89、86、100、114163、16、17、159、132窟(図5-1-13)。その内、第51、74、78窟は僅かに正壁上層の両側に各1ヶの小龕があり;第163窟左壁の主尊は菩薩である。
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  Ⅱ式;脇侍は菩薩以外に、弟子や螺髪の脇侍と力士等の形象が出現する。壁面配置は影塑が主で、坐佛、立像、飛天、供養像、蓮花等がある。第155、92、122、126、142、133、112、154、162、85、87、83、101、121窟(図5-1-14)。その内、第142窟の右壁主尊、第101窟左壁主尊は交脚菩薩である;第155窟壁面の小龕と影塑は均等に列ぶ。
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B型:造像組合せ。脇侍は主要に菩薩と弟子で、壁面は配置が無い。主尊の変化で2式に分かれる。
  Ⅰ式;主尊は三佛か一佛で、別に三尊中に維摩詰と文殊が出現する。第161、158、139、140、81、135、172、127、147、146、120、102、20、44、123、145、105、62、14、5、24窟(図5-1-15:1、2)。その内、第102窟左壁と123窟右壁の主尊は、維摩詰と文殊である;第139と14窟の脇侍は力士で、だい14お窟は螺髪の脇侍で、だい123窟の脇侍は菩薩と弟子を除いて、男童子と女童子の供養像である。
  Ⅱ式;主尊は流行の七佛で、五佛が出現する。第141、36、39、32、109、35、4、9、65、12、7、27、26、15窟(図5-1-15:3)。その内、第15窟の主尊は五佛。
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4.模擬几帳、模擬木構造
 洞窟内外の模擬几帳と模擬木構造の雕飾の内容は、窟内の模擬几帳と架構を倣帳構陳設(A型)と名付け、窟外の模擬木構造建築を倣木構窟廊(B型)と名付け、洞窟内の模擬木構造建築を倣木構梁架(C型)と名付ける。
A型:倣帳構陳設。窟内の四隅には多くは帳柱(注、几帳の足)が彫られ、四壁の頂端には帳楣(注、几帳の手、横木の意)を彫り出し、四隅から中心に向かって斜めに帳桿を出し、窟頂で交わる。窟頂の形制の変化で2式に分かれる。
  Ⅰ式:長方形で窟頂を覆う。第127、43窟(図5-1-16:1、2)。
  Ⅱ式:正方形で窟頂を覆う。第141、36、39、32、109、35、4、65、62、12、7、27、26、14窟(図5-1-16:3、4)。
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B型:倣木構窟廊。平面の桁行は3間か7間。頭貫と柱の一の関係で2式に分かれる。
  Ⅰ式:頭貫が柱頭の大斗の上に置かれるか、大斗の上に直接垂木を彫る。第43、49、28,30、1、4窟(図5-1-17:1~3)。その内、第43、49、28、30、4窟は単椽の寄棟屋根である。
  Ⅱ式:頭貫が柱頭の間に位置し、柱と繋いで一体となる。頭貫の上に湾曲した脚状の叉手(※注1)を置く。第5窟(図5-1-17:4)。
C型:倣木構梁架。窟内に梁を彫り出し、叉手、替木及び脊椽(※注2)等の細部に模擬木構造の梁を架す。第3、15窟(図5-1-17:5)。
  (※注1);原文に「叉手」とあるが、図から見て、人字型の間斗束であろう。
  (※注2);替木は、柱頭と梁や桁を三角形状に固める材。脊椽は、大棟を受ける主桁材。
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三 北朝窟龕の時代区分と年代
1.北朝窟龕の時代区分
 以上の99ヶ所の窟龕の4項目の内容を基に対比すると、時期区分は表5-1-1のようになる。
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 表中、第51,74,78,70,71,128,148,144,80,76,115,156,89,86,143,77,75,68,73,169,69,100,114,155等25ヶ窟龕は、佛衣が覆肩袒右式(AⅠ)と通肩式(BⅠ)である。菩薩衣飾は下裙式(AⅠ)。題材配置は主尊三佛か一佛と脇侍菩薩の組合せで;壁面に小龕と影塑を配置し、内容は思惟菩薩、交脚菩薩、坐佛、立像、飛天、供養人等(AⅠ)。この25ヶ窟龕の佛像着衣と題材配置の形式はかなり一致し、第一組に帰納する。

 第163,16,17,159,132,131,92,23,122,126,142,133,112,154,162,85,87,83,101,121,161,158,129,164,138,99,139,140,81等29ヶ窟龕は、佛衣が上衣搭肘式で、一種の裾端は3分或は4分し(CⅡ)、もう一種は2分する(CⅢ)。菩薩の衣飾は下裙式(AⅡ、AⅢ)と交領大袖式(B)。題材配置は主尊が三佛か一佛が主で、別に三尊中一身が菩薩で、脇侍が菩薩を除いて、弟子、力士、螺髪脇侍等を増やすものが出現する;壁面配置は、小龕と影塑で、内容は坐佛、立像、思惟菩薩、交脚菩薩、飛天、供養人、蓮花等(AⅠ、AⅡ)があり、壁面に配置しないものもある(BⅠ)。この29ヶ窟龕の佛像着衣と題材配置の形式は2つともかなり多く、第二組に帰納する。

 第135,172,127,43,49,28,30,1,147,146,120,102,20,44,123,145,105等17ヶ窟龕で、佛衣は上衣搭肘式、裾端は2分する(CⅢ)。菩薩の衣飾は交領大袖式(C)と下裙式(AⅢ)。題材配置は、主尊が三佛か一佛が主で、別に三尊中に維摩詰と文殊が出現し、脇侍は菩薩と弟子が主である;壁面は配置が無い(BⅠ)。模擬几帳と模擬木構造(AⅠ、BⅠ)が流行を開始する。この17ヶ窟龕の佛像着衣や題材配置と模擬几帳、模擬木構造の形式はかなり接近して居り、第三組に帰納する。

 第141,36,41,45,157,22,82,94,97,166,39,32,109,35,4,3,9,31,65,62,12,7,27,26等24ヶ窟龕で、佛衣は覆肩袒右式(AⅡ)、通肩式(BⅡ)、露胸通肩式(DⅡ)と中衣搭肘式(EⅠ)。菩薩衣飾は下裙式(AⅣ)が主である。題材配置は、主尊七佛が主で、脇侍は多くの菩薩と弟子で、壁面は配置が無い(BⅡ)。模擬几帳と模擬木構造(AⅡ、BⅠ、C)が盛行する。この24ヶ窟龕n佛像着衣、題材配置と模擬几帳、模擬木構造の形式は多くの同じ所があり、第四期に帰納する。

 第14,15,5,24等4ヶ窟龕で、佛衣は中衣搭肘式(EⅡ)。菩薩の衣飾は下裙式(AⅣ)。題材配置は、主尊を三佛か一佛で、五佛が出現し、脇侍は菩薩と弟子が主で、壁面は配置が無い(BⅠ、BⅡ)。模擬几帳と模擬木構造が踏襲される(AⅡ、BⅡ、C)。この4ヶ窟の佛像着衣、題材配置と模擬几帳と模擬木構造形式はかなり近似しており、第五組に帰納する。

その中で、第一組の第115窟の佛座正面の墨書に“景明三年(502)”の紀年が有る。第二組の佛像着衣は新様式の出現で、脇侍の形象が増加する。第三組壁面には配置が無く、模擬几帳と模擬木構造が出現する。第四組は主尊七佛と模擬几帳、模擬木構造が流行する。第五組は、佛衣に鈎紐状を作る。佛衣が鈎紐で飾られるのは隋唐東部地区で甚だ流行したもので、例えば龍門石窟の貞観十五年(641)頃完工した賓陽南洞正壁、済南神通寺千佛崖顕慶二年(657) 駙馬劉玄意造像、顕慶三年(658)趙王福造像の佛衣等。
 これに基づき、五組の間には、最早の第一組から最晩の第五組までの変化の相対年代順序があり、麦積山の5つの時期の窟龕の発展と変化を反映している。


次回は、麦積山北朝窟龕(3)


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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
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# by songofta | 2017-03-03 21:49 | 旅と地域

205 麦積山北朝窟龕(1)

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第五章 西部地区の佛像着衣

第一節 麦積山石窟北朝佛像の着衣
一 麦積山北朝窟龕の時期区分回顧
麦積山は秦嶺山脈の西端北麓にあり、甘粛省天水市の東南、45kmに位置する。山は142m、窟龕群は垂直にそそり立つ絶壁南面上に開鑿されていて、洞窟の最も低い洞窟は地面から20mで、最も高い者は地面から80mにある。湿った雨が多く、度々の地震により、岩壁の中央部は崩壊が激しく、一般に遺存する窟龕の分布は西崖と東崖の両地区に計画されたものとなる。1941年の初めて調査で付けられた編号は121窟龕だが、1953年に194に増やされ、21世紀初めに三度目に補編されて、現在麦積山の窟龕は合計221ヶ所である。
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 現存遺跡の調査研究では、麦積山石窟は北朝の窟龕数が多く、規模大で、続いた時期が長い事で最も知られる。20世紀80年代以来、絶え間なく学者の注目を引いてきた麦積山北朝洞窟の時期区分問題は主要に3説ある。

 薫玉祥《麦積山石窟的分期》は窟龕の形制、造像内容、造像の特徴及び関係する歴史文献と造像銘文に依拠し、北朝洞窟を十六国(後秦、西秦を含め)、北魏(中を3期に分ける)、西魏、北周、隋等の7期に分ける。この説は、この問題に関して深く検討したかなり早い1篇で、含まれる北朝の窟龕数量がかなり多く、逐一の細かい分析は未だで、加えて対比に用いたその他の石窟は、造像等の資料に限りが有り、現在から見ると区分の根拠が充分とはいえない。
 閻文儒《麦積山石窟の歴史、分期と其の題材》は、文献と結び付けて記載し、窟龕の形制及び造像の特徴と芸術風格等、北朝洞窟を4つの時期に分けた。即ち一、二期(西秦と北朝早期)と、三、四期(北周、隋)。この説の主旨は、北朝洞窟の区分に注意を向ける事ではないので、北朝窟龕については部分的で、くつ龕の前面的な観察を基にしている訳ではない。
 李裕群《北朝晩期石窟寺研究》は考古類型法を運用して、初めて中原北方地区の北朝晩期石窟の総合的研究を進め、麦積山石窟は其の中の一部分である。文中、麦積山のどの洞窟も、窟龕の形制や題材内容と造像の特徴の3方面の類型を対比し、その基礎の上に文献記載とその他紀を考えるべき石窟や造像等の資料を根拠として、麦積山の北朝晩期洞窟を、西魏、北周、隋の3つの時期に分け、その時期区分の結論は合理的である。但、文章研究は遺存する年代の充填が北朝晩期に有り、麦積山の北朝窟龕の全面的な時期区分研究には成っていない。

 本論文は、以上の初研究の基礎の上に、考古類型学の方法で麦積山の北朝窟龕の時期区分を再検討する。前人と異なる所は、類型対比の窟龕形制、題材内容と造像特徴の3項目の遺存を更に細分化し、明確にして、造像特徴は主尊の佛衣と脇侍菩薩の衣飾に注目し、題材内容は造像の組合せ及び壁面配置の間の関係を考慮し、窟龕形制は洞窟内外の模擬帳と模擬木構造の雕飾等に充填を置く。以下は、上述の3項目の遺存情況のかなり良好の99ヶ窟龕を選択して分析研究し、或る種の新しい論証を増補或いは明確にするものである。

二 佛像着衣と題材配置及び模擬帳、模擬木構造の類型対比
1.主尊佛衣
 麦積山北朝佛衣は合計5種の類型があり、分けると覆肩袒右式(A型)、通肩式(B型)、上衣搭肘式(C型)、露胸通肩式(D型)、中衣搭肘式(E型)である。
A型:覆肩袒右式佛衣。外層は上衣が両肩を覆って、右衣の角は右脇の下方を巻いて左肩に掛かる。衣紋の変化で2式に分かれる。
  Ⅰ式:衣のしわは細密。第74、78、90、70、71、128、148、115、156、89、86、143、77、68、73、114、155窟龕(図5-1-1:1~6)。その内、第74、78、90、70、71、128、148、115、89、143、77、155窟龕の上衣の衣飾は匂聯紋。
  Ⅱ式:衣のしわは疎ら。第141、109、31窟龕(図5-1-1:7)。
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B型:通肩式佛衣。外層の上衣は両肩を覆い、右衣の角は頚を巻いて左肩に掛かる。衣紋と裾端の変化で2式に分かれる。
  Ⅰ式:衣のしわは細密。第76、75、69、114、155窟龕(図5-1-2:1~3)。
  Ⅱ式:衣のしわは疎らで、裾端は多くが座の前を覆い、二分される。第141、36、41、45、157、39、32、109、31、65、62、12、7、27窟(図5-1-2:4~6)。
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C型:上衣搭肘式佛衣。外層の上衣は両肩を覆い、右衣の角は胸腹の前を横切り左肘に掛かる。;中層の中衣は上衣の覆う形式と一致する。衣紋と裾端の形式の変化で4式に分かれる。
  Ⅰ式:衣のシワは細密である。胸腹部に少量の匂聯紋がある;裾端は座の前を覆わず。第114窟(図5-1-3:1)
  Ⅱ式:裾端が座の前を覆い、三分或は四分する。大163、16、17、131、23、122、126、142、133、112、154、85、101、121、161、158、129、164、138、140、81窟(図5-1-3:2~8)。
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  Ⅲ式:裾端が座の前を覆い、二分する。第159、132、92、154、162、87、83、101、121、139、81、135、172、127、147、146、120、102、20、44、123、145、36窟龕(図5-1-4:1~11)。一般に上衣の右腿のところに花弁状の装飾があり、中衣は縦筋の衣縁を飾る。その内で、第162、101、20窟は只上衣の右腿に花弁状の飾りがある;第146、120、102、44窟は只中衣に縦筋の衣縁を飾る;第159、121、123、145、36窟の上衣は花弁状の装飾をせず、中衣に縦筋の衣縁を持たない。
  Ⅳ式:裾端が平らに椅坐佛の脛前を覆う。第5窟(図5-1-4:12)。
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D型:露胸通肩式佛衣。外層の上衣は両肩を覆い、右衣の角は前身を巻いて左肩に掛かり、衣縁は“U”字形を呈して垂れて胸腹部に至る。裾端の変化で2式に分かれる。
  Ⅰ式:裾端は座の前を覆い、三分する。第17、1422、99窟(図5-1-5:1)。
  Ⅱ式:裾端は座の前を覆い、二分する。第120、141、36、22、82、94、97、166、39、32、26窟(図5-1-5:2~4)。
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E型:中衣搭肘式佛衣。中層の中衣は両肩を覆い、右衣の角は垂れて右肘に掛かる;外層の上衣は、両肩を覆うか右肩は覆わないで、右衣の角は右脇下を巻いて左肩に掛かる。裾端の変化で2式に分かれる。
  Ⅰ式:裾端は座の前を覆い、二分する。第109、31、65、62、12、7、26窟(図5-1-6:1~4)。
  Ⅱ式:裾端は座の前を覆って、座の両側まで伸び、だいたい立方体形状を呈する。第14、15、5、24窟(図5-1-6:5、6)。その内、第14、5窟の上衣の右衣の角は、胸腹の所で鈎紐に架けている様に作るが、鈎紐は未だ出現していない。
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2.脇侍菩薩の衣飾
 菩薩衣飾の分類と呼称に関して、専門の研究はかなり少ない。叙述の都合のため、現在の着用形式の主要な特徴を以下のように名付ける事とする:上身裸体、或は僧祇支式内衣に似た物を着て、下身は裙を着るので、下裙式(A型)と名付ける。;裁断した交叉襟の大袖の繋ぎ服を着るのを、交領大袖式(B型)と名付ける。;佛の上衣搭肘式に相似なものは、上衣搭肘式(C型)とする。
A型:下裙式菩薩衣飾。下裙及び領巾の変化で4式に分かれる。
  Ⅰ式:上身は裸身、下に裙を着る。左肩から右腿に向かって斜めに領巾が覆い、斜めの領巾と下裙は波谷紋で飾る。領巾は肩に掛かり体側に沿って流れる。第74、78、70、71、128、80、76、115、156、68、169、100、114、155、163、23窟(図5-1-7)。その内、第74窟の菩薩は斜めの領巾と下裙の波谷紋部に匂聯紋を飾る。
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  Ⅱ式:上身に僧祇支式に似た内衣を着るか裸で、下に裙を着る。裙の裾端は2層で、内層の裙は波谷紋を飾る。領巾は肩に掛かり、一般に腹の前で交叉する。第69、163、16、17、122、142、133、85、139、140窟(図5-1-8)。その内、第163窟の領巾は体側に沿って流れる;その他に、第122、142、85、139、140窟は、瓔珞が領巾の上に重なって置かれる。
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  Ⅲ式:上身に僧祇支式に似た内衣を着るか裸で、下に裙を着る。裙の裾端は単層で、領巾は肩に掛かり、腹前で交叉するか体側に沿って流れる。第159、133、87、83、140、81,127、44、145、105、141、22、65、27窟(図5-1-9)。その内、第159、140、44窟の領巾は腹前で交叉し、第105、141、22、65、27窟の領巾は腹前で交叉して輪を作って着、第87、83、81、127、44、145窟の領巾は体側に沿って流れる;第87窟の瓔珞は腹前で交叉し、だい140、27窟の瓔珞は領巾の上で重なって置かれる。
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  Ⅳ式:上身は僧祇支式に似た内衣を着るか裸で、下に裙を着る。裙の裾端は単層で、領巾は肩に掛かり腹前を横に1筋か2筋が通る。第36、141、45、82、94、166、62、12、26、14、5、24窟(図5-1-10)。その内、第166窟は領巾が無い;第45、94、166窟龕の瓔珞は片方の肩から下に垂れて腿前で横切る;第62、12、26窟の瓔珞は両肩から下に垂れ大円環状を呈す。
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B型:交領大袖式菩薩衣飾。裁断した交領大袖の繋ぎ服を着て、領巾は肩に掛かって腹前で交叉するか体側に沿って流れる。第132、92、87、101、121、81、135、172、146、120、102、20、123、105窟龕(図5-1-11)。その内、だい132、101、121、135、146窟龕の領巾は腹前で交叉し、第87、102窟の領巾はは前で交叉し輪を作って着、第92、81、135、120、20、123、105窟の領巾は体側に沿って流れる。
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C型:上衣搭肘式菩薩衣飾。外層の上衣は両肩を覆い、右衣の角は胸腹の前を横切って左肘に掛かる。第126、142窟(図5-1-12)。
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次回に、続く


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# by songofta | 2017-03-02 08:57 | 旅と地域

204 雲崗石窟3窟の着衣

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第七節 雲崗石窟第3窟佛像の着衣

 雲崗石窟第3窟は窟郡の東部に位置し、雲崗石窟最大の洞窟で、開鑿時期は第二期頃(471-494)、但、北魏一代では内部工程まで終わって未完成のままである。
 第3窟は、前室と皇室に分かれ、平面は横長方形で、前室下層は東西幅50m、後室平面は凹形で東西幅43m、後室正壁西側とアーチ門に相対した所に一大龕が在り、内部に一椅坐佛二脇侍菩薩を彫り、椅坐佛の高さ10m、脇侍菩薩の高さ5.7mである。
 第3窟後室のこの椅坐大佛とその脇侍菩薩は、風格が北魏造像と甚だしく異なる。その雕鑿時期は、20世紀30年代以来、隋像と論ずる者や、初唐と呼ぶ者、更には晩いのでは遼代とする者までいる。文献の記載により、今は一般に初唐が適当だろうとされている。本論文では、三尊造像の着衣の基礎から大像の開鑿時期を分析してみよう。

 第3窟椅坐佛の左手は、掌を横に外向きに左膝に置き、右手の掌を外に向け、指を上向きに胸前に立て、施無畏印を結ぶ。佛衣は通肩式(図4-7-1)で、即ち外層の上衣は両肩を覆い、右衣の角は頚を巻いて左肩に掛かる。この種の佛衣類形の源は印度で、漢地に流伝したのはかなり早く、例えば米国サンフランシスコアジア芸術館蔵の後趙建武四年(338)銅佛像があり、通肩式佛衣は、北朝と唐代にいずれもかなり流行した佛衣類型である。但し、唐代の通肩式佛衣の胸前は波谷状の衣紋飾の円弧度が緩やかで、線条の距離は適度である。北朝は多種の形式が有り、或る者は斜めに右胸に走る、例えば米国ハーバード大学フォッグ美術館蔵金銅像;或は胸前で四角く折れ曲がる、例えば上述の建武四年像;或は胸前でV状となる、例えば雲崗一期17、19、20窟佛像;或は胸前で平らに展開した円弧状のもの、例えば東魏・北斉の北響堂北銅と中洞の造像等。
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 現在知られるかなり早い唐代の通肩式佛衣は、完工年代が唐高宗永徽四年(653)頃の早い時期の麟遊慈善寺石窟2窟右壁大龕内主尊佛衣(図4-7-2)がある。主尊の左手は左膝上に置き、掌を上に向け、足付き小鉢を握り、右手の掌を外の向け、指を上に向けて胸前に立て、施無畏印を結ぶ。雲崗第3窟大佛の佛衣と手印は慈善寺2窟右壁主尊像と相似である。
 第3窟大佛の両側の脇侍菩薩は、上体は斜めにネット状のものを腋に被せ、下は裙を着て、腰部は帯を締め、両肩部は領巾を被り、装飾は簡単である(図4-7-3)。右側の菩薩は頭に花冠を戴き、花冠の中央には宝瓶がある(図4-7-4)。上述の麟遊慈善寺2窟左壁大龕内二脇侍菩薩の衣飾(図4-7-5)と雲崗第3窟のは関係が近い。貞観二年(628)開鑿の彬県大佛洞、龍門石窟の貞観十年(636)にやや晩く、顕慶五年(660)より早い宾陽南洞正壁の五身大像、及び永徽末から顕慶年間(655-661)営造の潜渓寺等は、その右脇侍菩薩の花冠の真ん中に宝瓶を刻む。
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 魏末に平城が荒廃し、北斉が平城の東御河東岸に恒安鎮を建て、その遺跡が今の大同市の東郊、故城村一帯に在るが、唐初に長安の高僧が、かつての雲崗石窟を恒安石窟とする多くの記述が在る。雲崗石窟の再建設に関する記録が唐初に見え、《大金西京武州山重修大石窟寺碑》に記す“唐貞観十五年(641)、守臣重建”、《古清涼伝》巻上:“中台の南30余里、山の麓に四通八達の所があり・・・・・傍らに石室3間・・・・・咸亨三年(672) 儼禅師これを建てる・・・・儼は朔州の人である・・・・その修業すること純粋で、精励刻苦は並外れて、徳行は深く、このような人は太原以北では彼だけである。恒安で孝文帝の石窟故像を修理し・・・・咸亨四年(673)石室で亡くなる。” 《古清涼伝》は唐藍谷の沙門慧祥の選で、生地は上元三年(676)迄で、慧祥の選書が高宗期であると知れる。
 以上の実物と文献記載とを対比して、第3窟大像は高宗前期に置かれ、永徽から咸亨年間(650-674)頃であろう。

第八節 浚県大佛の佛衣

 河南省浚県の東南1kmの大伾山の東崖に、山に懸かって開鑿した高さ22.29mの椅坐大佛がある。大佛の鑿造年代は、文献材料と造像風格から推測して、目下の所、主要には後趙雕鑿と北斉開鑿唐初完成の2種の意見がある。本論文は、大佛の坐姿、手印と佛衣を基礎に、大佛の年代問題に試論を述べる。

一 浚県大佛の形制の特徴
 浚県大佛の両腿は椅坐を下に垂れる;左手は手の平を下に向け膝を撫で、右手は掌を外に向け、指を上に向けて胸前に立て、施無畏印を結ぶ。
 大佛は度々後代の修補を受け、主要には胸腹部の泥塑衣縁と彩色絵、螺髪の泥塑、僧祇支の形状も改変されているが、佛衣の基本様式は動いていないようで、中衣搭肘式類型に属す(図4-8-1)。中衣は身体の後ろを通って両肩に掛かり、右衣の角は直接右肘に垂れ、上衣は左肩を覆い中衣に遮られ、上衣の右衣の角は右脇下より下方を巻いて左形二掛かる。
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 以上浚県大佛の具有する坐姿、手印と佛衣様式は、南北朝時期に既に出現している。佛が椅坐する形式は、例えば雲崗8、7窟主室正壁上層大龕内佛像にある(図4-8-2:1、2)。雲崗第8、7双窟は曇曜五窟の後に続いて開鑿された洞窟で、雲崗石窟の営造は和平初年(460)に始まり、沙門統の曇曜の文成帝への請求の提出を経て、洞窟5ヶ所が開設した。この最初の5窟は一般に今の雲崗第16~20窟とされて居り、5窟開鑿の下限は献文帝末年(470)と推定され、第8、7双窟の開鑿時期は孝文帝初年(471)に置かれる。
 佛の椅坐は、左手を膝にあて、右手は施無畏印の形式で、例えば雲崗19窟の東・西脇洞正壁佛像(図4-8-2:3、4)、第19窟東・西脇洞は北魏の洛陽遷都(494)後になって完工下かも知れない。
 佛衣が中衣搭肘式の様式は、例えば北魏の洛陽遷都(494)後の大5:11窟の主尊佛衣(図4-8-2:5)である。浚県大佛との大体の区別は、雲崗第5:11窟佛衣の上衣は先に右肩の一部を覆って、その後右衣の角は右脇下より巻いて左肘に掛かることである。
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 浚県大佛は南北朝前後に出現した数種の要素を集めて一つにして椅坐式として、左手は膝を撫で、右手は施無畏印とし、中衣搭肘式佛衣を着る。

二 浚県大佛と相似の造像
 この種の椅坐式は、左手が膝を撫で、右手は施無畏印で、中衣搭肘式佛衣の石刻造像、主要には唐代に出現し、銘文が有って主題が明確なのは弥勒像である。例えば山西省博物館蔵咸亨三年(672)裴居倹造像は、高さ1.03m(図4-8-3:1);米国サンフランシスコ・アジア美術館蔵上元二年(675)弥勒像は、高さ0.70m;東京国立博物館蔵長安七宝台長安三年(703)造像は、高さ1.08m;山西省博物館蔵天宝四年(754)李村十九人造弥勒像は、高1.57m(図4-8-3:2)等。龍門石窟恵簡洞は唐咸亨四年(673)完成で、主尊は弥勒椅坐像の中衣搭肘式佛衣の上述の造像で、手印はやや異なり、右手は膝を撫で、左手は掌を上に向けて膝の上に置く。
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 浚県大佛の坐姿と手印と佛衣の3項目が基本的に一致する摩崖大像も、唐代に集中する。例えば、天龍山第9窟摩崖大像は、高さ5.2m、武則天(684-704)から玄宗の開元初期(713-720)頃の開鑿で(図4-8-4:1)、この像の上衣は上身の左側部分を(中衣で)遮蔽されていない;莫高窟第96窟即ち北大像は、高さ33m、武周延載二年(695)造、左手の掌を上に向け膝の上に置き、他の違いは略す。莫高窟第130窟即ち南大像の弥勒佛は、高さ26m、造られたのが開元九年(721)から天宝初(742-756)で、前後約25年以上かかっている(図4-8-4:2)。甘谷大像山大佛は、高さ23.3m(図4-8-4:3);武山木梯寺第14窟大佛は、高さ6.38m。
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 この他、唐代摩崖大佛と浚県大佛は坐姿と佛衣が同じだが、手印は異なり、両手で膝を撫でる形式である。例えば楽山大佛は、高さ71m、唐徳宗(在位780-805)期の名宦官で、剣南西川節度使に任じ、蜀を統治した21年に符合し、貞元十九年(803)選の《嘉州凌雲寺大弥勒佛石像記》には、楽山大佛の建造始末を記述して:開元(713-741)初、海通和尚は東岷江と青衣江、大渡江の合流による水害の解決のため、“未来因を重んじ、弥勒像を作る”、“天険を慈悲の力で奪い、暴浪を安流に変える”事を願い、工程は大規模で、海通が亡くなった時、大佛はなお“全身未だ終わらず”;開元(713-74)中工事が続いた;貞元(785-805)時期、韋臯が主持して蓮花座から膝部の造型の開鑿を続け、貞元十九年(803)完工した。その主体の工程は開元(714-741)時期にある。自貢市榮県大佛は、高さ36.67m;固原須弥山第5窟大佛は、高さ20.60m(図4-8-4:4)、開鑿は高宗の永隆元年から武周如意元年(680-692)。
 それ以外にまだ、唐代の摩崖大像と浚県大佛の坐姿と手印が同じだが、佛衣が後代の修復を受けて、様式が区別出来ないものに、武夷天梯山第13窟大佛、高さ23mがある。
 炳霊寺第171窟大佛は高さ27m、唐開元十九年(731)の建設かも知れない。この像は椅坐は浚県大佛と同じで、佛衣と手臂が後代の修理改造を受け、はっきりと判らない。
 以上、石刻造像と摩崖大像で椅坐式を具備して、左手は膝を撫で、右手は施無畏印、中衣搭肘式佛衣等の3項目の要素を具えるもの、及び摩崖大像で坐姿と佛衣の2項目或は坐姿が上述の造像は、主な流行が高宗(650-683)後期から玄宗の開元時期(713-741)までである。
 これらと浚県大佛と相似の造像は、主題が”弥勒”で、弥勒像のある種の造型と考えられる。唐代の弥勒像は、特に摩崖弥勒大像の出現は、武則天の唐から周への変更と関係があるかも知れない。載初元年(689)、”沙門十人が偽選した《大雲経》が上表、神皇受命が盛んに流布し、天下に発布して、諸州に大雲寺を置き、総度僧は千人“。又、”懐義と法明等は《大雲経》を作り、陳符命に、武則天は弥勒の生まれ変わり、閻浮提の主となし、唐の宗室は衰微した“。証聖元年(695)、武則天は自ら弥勒に仮託して、”尊号を加えて慈氏、越古金輪聖神皇帝と言った”。

三 浚県大佛の年代推測
 浚県は、漢代冀州魏郡に属し、黎陽と言い、《漢書・地理志》の晋灼の注に、“黎山はその南にあり、黄河が東に流れる。その山上碑の言う県を取って山の名とし、黄河の陽(注;北岸の意)から名とした。“ 黎山即ち太伾山である。北魏考昌(525-527)中、黎陽郡を置く、司州に属す。隋の衛州、唐武徳二年(619)黎州を置き、貞観十七年(643)黎州を廃し衛州に戻す。
 隋開皇三年(583):”衛州に黎陽倉を置き、洛州に河陽倉を置き、陜州に常平倉を置き、華州に広通倉を置き、転相灌注(注;水を移して注ぐ、の意か)。関東を漕だして(山西省の) 汾川に至り、晋の粟を京師に供給する。“ ”黎陽倉と洛陽口が重なり、一邑の倉ではなく、天下の倉である“。”《一統志》に言う:黎陽倉は大明府浚県の東2里、大伾山北麓、隋文帝の置く所である。隋が乱れた時、李密は倉を襲い兵や民を賑わす。唐宋は皆その制度を復し、河北の糧秣を以って京師の食卓に載せた。政和(1111-1118)後黄河は流れを変え、初めて廃止した。” 宋人は太伾山に遊び、”倉はまだ残り、数十万を収容し、一山の上に遍く広がる”。
 春秋時代より、黄河は黎陽一帯は水害が史上絶えることが無かった。例えば、漢の文帝が“十二年(前168)冬十二月、黄河が東郡で決壊”、漢武帝元豊二年(前109)“夏四月、泰山を祀る。瓠子に至り、黄河の決壊に臨んで、従う臣や将軍に命じ、皆薪を背負い堤防を塞ぐ、《瓠子の歌》を作る”;唐憲宗元和八年(813)十二月“黄河溢れ・・・・万人を徴発し、黎陽の境で黄河の旧河道を開き、南北の長さ18里、東西に60歩、深さ1丈7尺、決壊した旧黄河の水勢であった”;宋大中祥符四年(1011)八月“黄河が通利軍で決壊し、御河と合流、州城を壊し田や家を傷つけた。遣使して粟を出しこれを振る舞う”、“天禧(1017-1021)中、黄河が決壊、陳堯佐を起用し滑州の知事となり、木龍を造って水勢を殺し、又堤防を築いた。人はこれを‘陳公堤’と呼んだ”等。唐宋時期の治水は漢代と異なり、主として浚渫する積極的な措置で、これは黎陽倉の特別な地位に関係し、水運を保証するだけでなく、これにより京師の糧食の供給が保証出来ることになる。嘉慶の《浚県志》に引く《名勝志》は:“太伾東岸は大佛岸と言い、即ち山に佛像一躯あり、高さは尋丈余り、昔の人はこれを鑿し黄河を鎮める者とした。” 説明は大伾山東麓に鑿した大佛を説明し、その効用は楽山大佛と相似で、亦、弥勒の慈悲力を借りて水害を鎮めようとした。
 造像遺跡と歴史背景の結合に基づくと、浚県大佛の年代は、武則天(684-704)から玄宗開元時期(713-741)となる。

次回は、麦積山北朝窟龕(1)


  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
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# by songofta | 2017-02-28 09:48 | 旅と地域

203 響堂山石窟の北朝佛衣

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第六節 響堂山石窟の北魏佛衣
響堂山石窟は太行山東麓の華北平原に位置し、東魏北斉の都邺城(今の河北省邯鄲市臨漳県)の西30kmの鼓山にあり、滏陽河が鼓山の南面を流れ、邺城と東魏北斉のもう一つの都太原との交通線上にある。邺城は河北省の南端にあり、西には太行山脈が北から南に連綿と繋がって天険となり、南部は黄河が西から東に横切って隔て、地形は殊勝、“平原千里、舟は四通”。邺は禹貢の冀州の域で、秦の天下統一後、上党・邯鄲二郡の地で、漢高帝が魏郡を分置し、後漢末に冀州を置き、曹魏が陪都とし、後趙、冉魏、前燕も同じで、北魏孝文帝が相州と改め、東魏北斉が邺城を都とし、周武帝が斉を平定すると、相州に戻し、隋大業三年相州を魏郡に改めた。
 響堂山石窟と東魏北斉の皇室の関係は密接であった。文献に高歓が邺に遷都した時(534)、石窟寺院を建てたと記載があり、又文献に石窟寺を高洋(在位550-559)が建てたと記載されている。石窟は北響堂山、南響堂山と水浴寺(小響堂)の3ヶ所である。北響堂山は鼓山の西斜面、南響堂山は鼓山の南麓、水浴寺は鼓山の東山麓にある。北朝佛衣の保存は比較的良く、北響堂山の北洞、中洞と南洞、南響堂山の1、5、7窟と水浴寺の西窟:その他に南響堂山の2、4窟造像は既に無いが、旧写真で大体のその情形を知ることが出来る。

一 響堂山石窟の佛衣類型
 響堂山石窟の佛衣は通肩式と中衣搭肘式の2種が主である。
通肩式佛衣:外層の上衣は背中より両肩を覆った後、右衣の角が頚から下を巻いて左肩に向けて掛かる。衣縁は3本の装飾線がある。北響堂北洞と中洞の佛衣(図4-6-1)。
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中衣搭肘式:中層の中衣は両肩を覆い、右衣の角は垂れて右肘に掛かる;外層の上衣は背中を覆って左肩或は両肩を通り、右衣の角は右脇より下を巻いて左肘或は左肩に掛かる。上衣の右衣の角が左肘に掛かるか或は左肩に掛かるかにより2つに分ける。
Ⅰ式;上衣の右衣の角が左肘に掛かる。例えば北響堂南洞の佛衣(図4-6-2)
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Ⅱ式;上衣の右衣の角が左肩に掛かる。例えば北響堂北洞と南洞外の唐邕碑造像、南響堂4、5、7、1、2窟、更には水浴寺西窟の佛衣(図4-6-3)。
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 佛衣類型により、以上の洞窟を2組に分ける。表4-6-1。
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一組は、通肩式佛衣を主とし、この種の佛衣類型は印度に源があり、漢地に流伝した時期は比較的早く、例えばサンフランシスコ・アジア芸術館蔵の後趙建武四年(338)銅造像がある。但、一組の通肩式佛衣の裾端は平らに座上に敷かれ、この種の形式の最早は栖霞山石窟28窟に見え、その紀年は梁代の中大通二年(530)。
二組は、中衣搭肘式佛衣で、新様式の一種である。これにより、2組の総体年代の序列は、一組が二組より早く、即ち一組が一期で、二組が二期となる。
 北響堂南洞の外に《晋昌郡公唐邕刻経記》碑記載;“鼓山石窟で、維摩詰経1部、勝鬘経1部、孛経1部弥勒成仏経1部を写経する。天統四年(568)三月一日に始め、武平三年(572)壬辰五月八日終わる”。四部の経文は南洞前廊の内外壁面上に刻まれ、故に南洞の開鑿は天統四年(568)三月一日以前となる。水浴寺西窟後壁左側の定光佛頭光右側に“武平五年(574)”の造像発願文がある。南響堂山2窟の窟門外両側龕内の隋代沙門道浄選《滏山石窟之碑》記載:“霊化寺比丘慧義・・・・・斉国天統元年(565)乙酉の年、この石山を切り、寺廟を興建する。時に大丞相淮陰王高阿那肱、翼帝都を出て、ここに駕を停め憩い、草創を見て、大心を発し、坊舎を広げ珍貴な財を寄進、この□□の窟を開く。霊像は千躯の如く、厳然として□を照らす・・・・功成って幾許もなく、武帝が山東を平定、塔寺を一掃し、思うままに探しだして破壊した。“この段の文字の叙述に基づき、南響堂山石窟の開鑿は天統元年(565)頃で、建設期間に当時の朝廷の丞相高阿那肱の資金援助があり、完工時期は北周武帝が北斉を滅亡させり以前で余り前ではない頃で、周武帝が北斉を滅ぼすのは建徳六年(577)である。(※注1)
 以上の記載により、二期の年代を推断すると河清から北斉滅亡の562-577年頃;一期の時期は大体東魏から北斉文宣帝時期の534-559年頃となる。

二 響堂山石窟の中衣搭肘式佛衣の源流
響堂山石窟に中衣搭肘式佛衣は、これ以前に較べてはっきりした佛衣類型である。
そのⅠ式佛衣は、外層の上衣の右衣の角は右脇を経て下を巻いて左肘に掛かる。この種の形式の最早は、南朝栖霞山石窟の開鑿が斉と梁の境の18窟の佛衣(図4-6-4:1)で、これに較べやや晩いのが雲崗三期(494-524)の5:11窟佛衣(図4-6-4:2)である。栖霞山18窟佛衣の上身は損毀し、外層の上衣の覆う情況は不明だが、上衣の右衣の角は腹の前を横に通り左肘に掛かる。雲崗5:11窟佛衣は、外層の上衣は両肩を覆い、じょういの右衣の角は腹の前を横に通り左肘に掛かる。両者の中衣は均しく帯で互いを締め、この一つの特徴は上衣搭肘式佛衣の形式に受け継がれてきた。例えば四川省博物院蔵茂県永明元年(483)造像碑の上衣搭肘式佛衣は、モネの前で中衣の帯びを締める。響堂山石窟の中衣搭肘式Ⅰ式佛衣は、主要に見られるのは北響南洞で、それは南朝の影響を受けたかも知れず、主な変化は中衣の間の帯び締めを覗いたことである。
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 響堂山石窟の中衣搭肘式佛衣Ⅱ式は、響堂山が初めて造ったものである。それはⅠ式を踏襲し即ち南朝の特徴と言う基礎の上で、最大の変革の所は、外層の上衣右衣の角は右脇下を経て巻いて左肩に掛かる。右衣の角は左肩に掛かって覆う形式は、まさに印度の伝統である。義浄が《南海寄帰内法伝》の中で説く:“その着る法衣は・・・・・・衣の右角を以って寛く左肩に掛け、此れを背後に垂れて、肘の上に安んじる。”である。こうして初唐時期、やはり誤った現象が存在し、このため義浄が又“唐三蔵が伝えた搭肩法(注、肩に掛ける意)”と説いた。同時に、肩に掛けた右衣の角の滑落防止のため、肩部に鈎紐を置いて固定した。《四分律》に言う:“風に吹かれて割截衣が肩から落ちて患うと、諸比丘が佛に申すと、佛が言う:肩の上に鈎紐を付けなさいと”。このように見ると、響堂山石窟の中衣搭肘式佛衣Ⅱ式は、確立した制度としては、がいそうの上衣の覆う形式が印度の搭肩法式に回復させたものである。

 響堂山石窟の中衣搭肘式佛衣Ⅱ式は、北朝後期に東西両地に流行し、唐代に両京地区の主要な佛衣類型となり、この影響を経て全国に及んだ。例えば山東地区の済南五峰山北斉蓮花洞、駝山石窟隋代第2龕の佛衣等、西部地区の麦積山石窟北周と隋代62、5窟の佛衣、完工が隋仁寿二年(602)六月五日前頃の麟遊慈善寺1窟の佛衣、莫高窟隋代427窟の佛衣等;唐代の完工が貞観二年(628)頃の琳県大佛寺大佛洞の佛衣、貞観十五年(641)頃開鑿経営の龍門石窟宾陽南洞正壁大像の佛衣等(図4-6-5)。その中で済南蓮花洞、駝山2龕及び龍門宾陽南洞の佛衣は、左肩に鈎紐の表示を見ることが出来る。そのまま明代に至ると、中衣搭肘式佛衣Ⅱ式は、依然として最多の佛衣類型として表現され、例えば北京法海寺、四川剣閣覚苑寺壁画中の佛衣がある。
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  印度と漢地で、佛教造像に反映した8種の佛衣類型中、中衣搭肘式佛衣Ⅱ式の流伝は、空間の広範さと時間の持久性で、正にどちらも最も突出している。

三 法上の僧服改制問題
 響堂山石窟に集中して出現した中衣搭肘式佛衣の現象は、昭玄統法(※注2)上の僧服改制と関係があるかも知れず、この一点は益々と多くの研究者が賛同してきている。本論文は、この問題に新たな視点を加えるわけでは無いが、響堂山石窟の中衣搭肘式佛衣類型の整理を通して、法上が僧服改制を一歩進めたと言う推断と分析を行う。
《続高僧伝》の記載:
 「(法上は)年40、遊行を願い、守ったが、魏の大将軍高澄が奏して邺城に入城した。含蓄の在る言は重く、民衆が集まること雲のようであった・・・・故に魏斉二代に統帥を歴任。昭玄一曹となり、僧録を一手に掌った。官吏は50人ばかりを置き、僧尼200余万が所属した。綱領将つくこと40年、僧俗は歓喜し、朝廷も喜び・・・・・詔勅して戎師とする、文宣帝は常に布髪の礼をとり、実践された。・・・・・・亡くなると故地の合水寺に戻って埋葬された。享年86歳、周大象二年(579)七月十八日であった・・・・・任につく前は、儀礼服は入り混じっていたが、僧綱を統一し、制度の詳細は別々に、僧俗は2つを異なるものにし、功績があった・・・・・初め、天保年中、国毎に十統を置き、皇帝に報告させ、事の良し悪しを須く判決した。文宣帝は手注状で言う:法師を大統となし、他のことも師を介す。故に帝の待遇し、事えること仏に対する如くで、凡そ、その言は全て用いた。」

法上は、深く東魏の皇室の尊崇を得て、魏斉二代の昭玄統師を歴任し、又戎師となり、天保(550-559)年間、大統に昇任した。” 天保年中、国毎に十統を置き、皇帝に報告させ、事の良し悪しを須く判断した。文宣帝は手注状で言う:法師を大統となし、他のことも師を介し“の記述から見ると、法上の” 制度の詳細は別々に、僧俗は2つを異なるもの“の改革は、おおよそ、文宣帝が在位の時で、彼が大統に成った後に進行している。そしてこの” 制度の詳細“の要旨は、外層の上衣が覆う形式が、印度式の肩に掛かる伝統に回復することかも知れず、それが響堂山石窟の中衣搭肘式佛衣Ⅱ式に反映し、主要に南響堂山と水浴寺で流行したと言える。
 響堂山一期の北響堂北洞中心柱左面の椅坐像は、中衣搭肘式Ⅱ式佛衣で、その完成時期は中心柱正面と右面の通肩式佛衣より少し晩く、法上の改制の産物かも知れない。
 この他、響堂山石窟の脇侍弟子も、多くは中衣搭肘式僧衣である。その内、Ⅰ式は一期北響堂中洞と北響堂南洞部分(図4-6-6)に見える;Ⅱ式は二期北響堂南洞部分と南響堂及び水浴寺(図4-6-7)。唐以後、Ⅱ式は亦僧衣の主流と成り、その中衣は交叉襟と大袖の“直綴” に変化し、中衣直綴式と呼ぶべきものである(図4-6-8)。今日に至るも僧人が仏事を挙行する時に、依然として交叉襟の長袍の外装をし、袒右式の上衣を覆う、即ち外層の上衣は背中より左肩を覆い、右衣の角は右腋下を巻いて左肩に掛かるのは、源が印度佛衣の覆う形式にある。
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 響堂山石窟の佛衣と僧衣の類型を見ると、大量に集中する形式は外層の上衣が右脇下より巻いて左肩に掛かる印度伝統を現出し、これは正にこの一点が、服制が“僧俗は2つを異なるもの”で、この後、漢地は連綿と千余年、この法上による改制が固めた基礎に依っているである。

(※注1);北周武帝の廃仏
 中国古代の大きな廃仏に、“三武一宗の法難”が有る。三武一宗は、北魏太武帝、北周武帝、唐武宗、後周世宗を指す。北周武帝は、北斉を滅ぼした後、北周の仏・道教による荒廃に驚き577年廃仏を宣布、「寺廟8万余ヶ所を邸宅に変え、僧尼300万を還俗、経典仏像を焚毀し、寺の財産を没収した」とある。但し、全面的に禁止したわけではなく、地方毎に1寺は残された。

(※注2);昭玄統法
北魏の頃、佛教教団を統括する官が置かれ、北朝には代々この官職があり、役所を「監福曹」、主事を「道人統」、「沙門統」、「昭玄統」等と呼んだが、後に役所を「昭玄寺」、主事を「大統」と改め、隋代に「崇玄署」と改めた。州等の地方毎に沙門曹等を置き、殺人以外の僧侶の統制を行った。道人統には、曇曜、法上等がいる。唐以後は僧録を設けて僧官機構とした。南朝には、この名称は無く、僧正、法主等の官を置いた。


次回は、雲崗石窟3窟の着衣


  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
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# by songofta | 2017-02-26 12:57 | 旅と地域

202 天龍山石窟の東魏佛衣

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第五節 天龍山石窟の東魏佛衣
天龍山石窟は太原市の西南36kmに位置し、洞窟の主要部は東西2つの峰の山腹の間に在り、編号の有る洞窟は前部で25。第2、3窟は東峰にあり、天龍山石窟で最早の双窟で、雕鑿の時期は北魏末から東魏武定(543-549)の中頃。
 太原の古称は晋陽で、“左に恒山の険があり、右を大河で固める”、“最も天下の雄と言うべき町”と言われた。北魏永煕元年(532)、高歓が“晋陽の四要塞を以って、大丞相府を建て、定住した。・・・・・ここから軍国の政務を取り、皆丞相府に靡いた”。永煕三年(534)、高歓は孝静帝に迫って邺城(今の河南省臨漳県)に遷都させ、自らは晋陽を根拠地として、東魏の朝政を遠隔操作し、晋陽が政治、軍事上の特殊な地位を顕示した。”并州の太原、青州の斉郡は覇業の在る所、王命の基である。”、晋陽の重要性はこのようであった。
 天龍山第2、3窟は隣り合い、両窟の間に鑿窟功徳碑があり、惜しいことに文字が毀れている。両窟の長、幅、高は約2.5m、ほぼ正方形で、頭頂を覆い、3壁3龕、龕毎に一佛に菩薩を彫る。洞窟内の盗掘は甚だしく、幸い5身の主尊は頭部を盗掘されている他は、基本的に保存は良い。」;第3窟右壁龕内佛像は全体が盗掘され、但旧状の写真により、その情形が知れる。本論文は、この6身の主尊を主とし、天龍山東魏時期の佛衣類型とその他の南北朝文化中心の関係を論ずる。

一 天龍山石窟の東魏佛衣類型
 天龍山石窟の東魏の佛衣類型は主要には上衣搭肘式で、即ち上衣は背中より両肩を覆った後、右衣の角は横に腹前を通って左肘に掛かる様式である。その中衣の覆う形式は、2種の類型に分かれる。
a型;中衣と上衣の覆う形式は一致し、背中より両肩を覆った後、右衣の角は腹前より横に通って左肘に掛かる。例えば第2、3窟左右龕の佛衣(図4-5-1)。
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b型;中衣と上衣の覆う形式が異なり、中衣は露胸通肩で覆い、胸部の内側の辺縁が捲れて外に出、上衣の右衣の角は右腋下より巻いて左肘に掛かる。例えば第2、3窟正龕の佛衣(図4-5-2)。
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 この両種の類型の上衣搭肘式佛衣は、上身の内層は均等に袒右の僧祇支が見える;中衣は胸前で帯びを結び、第2窟の左龕以外、余った中衣の身体全体の層数ははっきりしている。佛衣は精緻に考えられ、その裾端の下衣、中衣、上位の縁は線刻が装飾され、頗る華美である。

二 天龍山石窟の上衣搭肘式佛衣の来源
 天龍山石窟の東魏上衣搭肘式佛衣a型と相似な様式は、最早が茂県永明元年(483)造像碑の佛衣で(図4-5-3:1)、南北朝時期に比較的流行し、達エバ成都地区南朝石刻造像佛衣や北魏の政治文化の中心平城と洛陽地区の雲崗と龍門石窟の佛衣等がある(図4-5-3:2~4)。天龍山東魏時期の佛衣の裾端は外にあまり膨らまず、直平で、龍門石窟の北魏末の佛衣と比較的近く、更に多くを洛陽地区の特徴を踏襲している。
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 天龍山石窟の東魏上衣搭肘式佛衣b型と相似な様式は、南京栖霞山石窟の簫斉時期24窟正壁龕内の佛衣(図4-5-4:1) に見られ、さらに現在上海博物館蔵の伝蜀地出土梁中大同元年(546)慧影造像(図4-5-4:2) 等、上衣の右衣の角が均しく右脇下から巻いて左肘に掛かる。
 同時に、栖霞山石窟24窟右壁龕内の佛衣も上衣搭肘式佛衣b型に近く、但上衣が両肩を覆った後、右衣の角が直接前身から腹の前を横に通って左肘に掛かり(図4-5-4:3)、この種の上衣の覆う形式は上衣搭肘式佛衣a型に相似する。
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北魏の遷都(494)後の洛陽地区と西部地区は、いくつか栖霞山石窟24窟右壁龕内の佛衣と相似の実例を見かけられる。例えば、龍門の古陽洞右壁と正壁の頂上が交叉する所にある正始四年(507)二月安定王元夑が亡祖の為、亡くなった母が造った釈迦造龕、左壁第3層の外から内に第4の龕、右壁第2層内側の小龕の佛衣、北魏孝明 (516-528) の始め頃の水泉石窟正壁佛衣、北魏永明二年(509)と三年(510)開鑿の南北石窟寺佛衣等(図4-5-5)。
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 龍門石窟の北魏佛衣類型を整理した情況から見ると、一般に流行の佛衣様式は洞窟の正壁に配置し、やや早く出現したがまだ依然として流行している佛衣様式は、多くが洞窟の正壁以外の位置に配置している。これにより、栖霞山石窟24窟正壁の上衣搭肘式佛衣b型は当時最も流行した様式で、右壁の佛衣の上衣が覆う形式は正壁から格が下がった形式で、左壁の佛衣は露胸通肩式で、栖霞山石窟出現時期が最早のものである。
 天龍山第2、3窟佛衣の配置形式は、上衣搭肘式佛衣b型は両窟の正龕内に位置し、上衣搭肘式a型は両窟の側壁の龕内にあり、北魏龍門と南朝栖霞山と情況が一致する。
 以上の分析から知られることは、天龍山第2、3窟側壁の佛衣類型は洛陽地区を継承;正壁の佛衣類型は南朝建康の影響を受け、この他に、第2、3窟正壁の佛衣に中衣の胸部の内側の辺縁が捲れて外に出る形式は、水泉石窟と相似で、中衣が帯で締める形式とa型は相似で、その幾つかの装飾の細目は洛陽地区の伝統に近い。


次回は、響堂山石窟の北朝佛衣

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# by songofta | 2017-02-24 20:30 | 旅と地域

201 巩県石窟の北魏佛衣

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第四節 巩県石窟の北魏佛衣
 巩県石窟は河南省巩県の東北7.5kmの洛水北岸の大力山南麓に位置し、漢魏洛陽故城の西44kmに在る。現存する北魏後期開鑿の洞窟は5座で、編号は西から東に1-5窟である。
 その内、第1から第4は中心柱窟で、第5窟は3壁3龕窟である。第1、3,4窟は前壁に浮彫の礼佛図がある。
第1窟は、正、左、右壁に各4つの龕を開龕し、右壁の外から第2龕は主尊が菩薩なのと、左壁内の龕の主尊が維摩と文殊である以外、その他の龕は主尊が佛である。第3窟と第4窟は、正、左、右壁の中間に各1龕を開龕し、第3窟の正・左壁龕の主尊は佛で、右龕内は主尊を失っていて情況は不明;第4窟の正・右壁龕は主尊が佛で、左壁龕の主尊は菩薩である。
第1、第3窟の中心柱は単層で開龕し、左面龕の主尊が菩薩である以外は他の3面の龕の主尊は佛である。第4窟の中心柱は上下2層に開龕し、正面上層龕と左面下層龕の主尊が菩薩で、残りは主尊が佛である。
第5窟前壁は各1立佛を彫り、正・右壁龕の主尊は佛で、左壁龕の主尊は菩薩である。第2窟は窟形に開鑿した所で中断しているが、洞窟空間の比例から、中心柱は単層で開龕する雪渓であろう。この他、第1窟外の立面左側と第2窟に繋がる岩壁上に一佛二菩薩の3身の大立像を彫る。
 以上、第2窟を除く、他の窟の佛衣保存は比較的良く、演変脈略ははっきりしている。本論文では、考古類型学の方法で現存の主要佛衣を分析し、併せて佛衣様式の来源とそレを反映して洞窟の開鑿年代問題を深く検討する。

一 巩県石窟の上衣重層式佛衣
 巩県石窟は上衣重層式佛衣が主で、少量の上衣搭肘式佛衣がある。上衣搭肘式佛衣は、上衣は背中より両肩を覆った後、右衣の角は右腋下から巻いて左肘に掛かるものを指し;中衣と上衣の覆う形式は一致し、左右の胸部の衣の縁はそれぞれ2層を表現する。上衣重層式佛衣は即ち上衣搭肘式佛衣の外面に一重の上衣を加えたもの。
 重層上衣が覆う形式は異なり、4式に分けられる。
Ⅰ式:上身の左右胸部の衣縁は各2層で、中衣と上衣の2層を表示し、重層の上衣は上身に表現されない;但し、身体の右側から衣縁が横に腹部を通り、左肘に掛かり、腿部は花弁状の装飾がある。例えば1窟右壁の外から数えて第3龕、第4窟中心柱後面上層と左面上層、第3窟中心柱正面と右面の佛衣である(図4-4-1)。
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Ⅱ式:上身の左右胸部の衣縁は各2層で、中衣と上衣の2層を表示し、重層の上衣は右肩を覆い、身体の右側から衣の縁が横に腹部を通り、左肘に掛かり、腿部は花弁状の装飾がある。重層上衣は上身の右半分を覆う。例えば第1窟正壁右から数えて第1龕、第4窟西壁と北壁、第4窟中心柱右面左側と中心柱後面の佛衣(図4-4-2)。
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Ⅲ式:上身左胸部の衣縁は3層、中衣と上衣の外に又重層上衣があり、右胸部の衣縁は2層、中衣と上衣を表示し、重層上衣は右肩を覆い、身体の右側横から腹部を通り、左肘に掛かる。腿部は花弁状の装飾がある。重層上衣の表現は上身の両側に均しく覆う。例えば、第1窟左壁右から数えて第4龕、第1窟中心柱正右後の3面、第4窟中心柱正面と中心柱右面右側、第3窟中心柱正面後面、第5窟正壁の佛衣(図4-4-3:1-3,5-7)。この他、第1窟外の立面左側立佛の佛衣は左右の胸部衣縁は各3層で、中衣、上衣と重層上衣を表現し、重層上衣は全体を覆う(図4-4-3:4)。
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Ⅳ式:上身の左右胸部の衣縁は各1層で、三衣は簡易化され、中衣は省略、重層上衣は上身に表現されず、身体の右側横から腹部を通り、左肘に掛かる。腿部は花弁状の装飾がある。例えば、第5窟右壁、第2窟左壁補鑿の小龕の佛衣(図4-4-4)。
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 上衣重層式佛衣を除き、少量の上衣搭肘式佛衣があり、例えば第3窟正壁と左壁、第5窟前壁右側の立佛佛衣(図4-4-5)。
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 以上の類型分析により、上衣重層式及び上衣搭肘式佛衣は、表4-4-1のように配列できる。
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二 巩県石窟の上衣重層式佛衣の年代及び来源
 上の4式の上衣重層式佛衣の内、龍門石窟で見られるのはⅡ式で、例えば宾陽中洞、普泰洞、魏字洞、皇甫公窟、地花洞、弥勒北一洞(図4-4-6)。
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その内、宾陽中洞は、即ち《魏書・釈老志》記載の高祖孝文帝、文昭高太后と世宗宣武帝が開鑿した3窟の一つで、約正始二年(505)に開工し、延昌末から煕平初年(515-517)完工したと推測される。皇甫公窟の窟外右側の鑿刻造像碑は、碑文末に”考昌三年(527)”の紀年があり、洞窟の開鑿年代はこの年である。この2つの洞窟の開鑿年代からたどると、龍門石窟の上衣重層式佛衣は、正始二年(505)頃宾陽中洞の開鑿後出現し、武泰元年(528)胡太后が黄河に沈められた段階までに多く見られる。また、龍門石窟の北魏の数種の佛衣類型の分析から、上衣重層式は新様式に属し、孝文、宣武帝時期の旧様式とは別に、その流行時期は胡太后時期(516-528)に分けるのが適当であろう。
 附表に見られるのは、巩県第1、4窟の上衣重層式佛衣のⅠ式、Ⅱ式及びⅢ式は均等に分布し、一つの洞窟中に雛形を経て成熟に至る佛衣形式を表現し、それらの間の前後の順序を表明し、その隔たりが長い期間では無く、龍門石窟の情況と対照してみると、Ⅰ式、Ⅱ式及びⅢ式の上衣重層上衣佛衣の期間は、大体胡太后期(516-528)に集中する。
 成都地区出土の石刻造像中に、Ⅲ式上衣重層式佛衣が見られ、例えば万佛寺紀年無し単体坐像(図4-4-7)。佛衣の裾端を二分し、左肘に掛かる衣の角は小さい紐結びを飾る工法を基に、その他の類型の南朝佛衣とこの2つの特徴を比較すると、およそ普通(520-527)から中大通(529-534)年間に流行したと判断出来る。これも、巩県Ⅰ式、Ⅱ式及びⅢ式の上衣重層式佛衣の時期がおよそ胡太后期(516-528)である傍証を提供している。
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 これらの推測を経て、巩県石窟Ⅳ式の上衣重層式佛衣の時期は、およそ孝明以後北魏滅亡(528-534)か東魏(534-549)初期となる。
 上衣重層式佛衣は、成都と洛陽地区に現存する遺跡中、流行の時期が大体一致し、それらが同一の源頭の影響を受けたことを表明している。関係する研究は成都地区造像の淵源が主要に南朝の都建康からのものと推測され、推測を一歩進めて、龍門と巩県の上衣重層式佛衣も建康の影響と関係が有るかも知れない。5世紀末、北魏王朝の漢化速度は段々と加速し、太和以後、北朝文学の復興は実質上南朝文学の文体文風をまねている;また、梁武帝中期頃、南朝造型芸術の新風は既に北魏洛陽新都に影響し、胡太后が建てた皇家の大寺、永寧寺内に塑像は簫梁の人物形象に極めて接近している。
 重層上衣の覆う形式から見て、巩県Ⅲ式と成都万佛寺のものは更に接近している。但、巩県と龍門石窟の上衣重層式佛衣の腿武は皆花弁状の装飾で、この佛衣様式は北朝の細部の変化のようで、巩県と龍門がどういつの設計の出自をもっている。

三 上衣重層式佛衣が反映する洞窟の開鑿年代問題
 巩県石窟第1、2窟は西区に分布し、第3、4,5窟は東区に在り、東西両区の間の岩壁は約27mで、中区に区分され、北斉の佛龕40座と唐代の優填(ウダヤナ)王像3尊が分布する。 東西両区のこの5座の洞窟の開鑿年代と次第の認識については、この研究の前に主要に2種の意見があった。
第1の意見は、第1窟は煕平二年から正光四年頃(517-523)、第2窟が煕平二年頃(517)開始し窟形を鑿出後放棄、第3、4窟が煕平二年或はややあとの考昌末年頃(517或は稍々後の528)、第5窟が永安二年から東魏元象二年(529-539)。
第2の意見は、第1窟を早く推定し、第4窟がこれに次ぎ、両窟の完工は胡太后が幽閉される(520)前で、第5窟、第3窟がこれに次ぎ、龍門皇甫公窟から路洞の間(527-533)に当てる。第2窟は晩く河陰の変(528)以前とする。
   (注;河陰の変は、将軍爾朱栄によって、胡太后が幽閉後、黄河に沈められた事変)

 本論文は上衣重層式佛衣の洞窟中の変化情況を分析し(表4-1-1)、第1と第4窟のⅠ式、Ⅱ式及びⅢ式上衣重層式佛衣は均等に分布するので、両窟の開鑿時期は接近しているかも知れない;第3窟はⅠ式とⅢ式の上衣重層式佛衣が有るが、上衣搭肘式佛衣が出現しているので、その開鑿時期は前の2窟より後れ、この3窟が続いた時間はやや長く、大体胡太后時期(516-528)に集中する。第5窟は上衣搭肘式佛衣が出現するのを除けば、上衣重層式はⅣ式で、この窟の完成は晩くとも孝明以後までか北魏滅亡(528-534)、或は東魏初(534-549)である。自然区域の形勢を見ると、西区は第1窟が中心で、その左側の摩崖立像を含み、第2窟は大体同時期かやや後れ、窟形を鑿出して中断した;東区は、第4窟が中心で、第4窟が中心で、第3窟はやや晩く、第5窟は更に少し晩い。
 2種の意見を比べて、本論文は5座の洞窟年代とその年代の近さを推定し、主要には胡太后期(516-528)にあり、別なものは晩くとも孝明以後から北魏の滅亡頃(528-534)或は東魏(534-549)の初期とする。上述の2種の意見の差は、主要には洞窟の営造計画と開鑿次第での調整からであり、本推論は東西区は同時期に開鑿が組織され、主体の工程が全胡太后時期を経過したと見て;西区は第1窟を中心に、東区は第4窟を中心にして、西区は第2窟が第1窟と同時か稍々晩く、開鑿が始まって間もなく中止し、東区の第3窟がその頃、第4窟は後れて、第5窟はその頃で第3窟は後れた。


次回は、天龍山石窟の東魏佛衣


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# by songofta | 2017-02-24 20:22 | 旅と地域

200 龍門石窟の北魏佛衣

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第三節 龍門石窟の北魏佛衣
龍門石窟は河南省洛陽市の南12kmの龍門山麓にあり、前は伊水に面し、この地の東北20kmに後漢から北朝までの洛陽故城がある。北魏期の洞窟は龍門の西山に集中し、主要な洞窟が23座で、3つの段階に分かれる:第一段階は、孝文、宣武帝期(494-515)で、古陽洞、蓮花洞、賓陽洞等;第二段階は、胡太后期(516-528)で、魏字洞、普泰洞、皇甫公窟等;第三段階は、孝明以後北魏末期(528-534)で、路洞、党屈蜀窟等。その内、北魏時期に洞窟の工事を止めた宾陽南、北洞や主尊が佛像ではない弥勒洞のようなもの、主尊が残毀した火炎洞のようなもの、載せる材料がはっきりしない䮾驤将軍洞等を除き、本論文では15座の洞窟中の佛衣類型を討論する。

一 龍門石窟の北魏佛衣類型
 龍門石窟の北魏佛衣は、上衣外覆類中の覆肩袒右式佛衣、及び中衣外露類中の上衣搭肘式佛衣と上衣重層式の合計3種である。
 覆肩袒右式佛衣:上衣は背中より両肩を覆った後、右衣の角は右腋の下方を巻いて左肩に掛かり、右胸と右臂を露出する様式。主要には古陽洞両側壁の下と上第3層の7大龕に見られ、その中でも左壁外側の龕は太和二十二年(498)銘の慧成龕(図4-3-1)で、右壁外側から内に数えて第3龕は景明三年(502)銘の孫秋生龕、右壁外側から内に数えて第2龕は景明四年(503)銘の比丘法生龕である。
上衣搭肘式佛衣:上衣は背中より両肩を覆った後、右衣の角は腹の前を横切って左肘に掛かる;中衣と上衣の覆う形式は相似。この種形式の佛衣の分布は、洞窟の正壁が、例えば古陽洞、蓮花洞、来思九洞、党屈蜀窟等(図4-3-2:1~4);分布が洞窟の側壁は、例えば宾陽中洞、考昌三年(527)皇甫公窟、弥勒北一洞、地花洞等(図4-3-2:5~8);洞窟の正壁と側壁に均しく分布するのは、神亀三年(520)慈香洞、弥勒北二洞、六獅洞、天統洞、路洞等(図4-3-2:9、10)。
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上衣重層式:上衣搭肘式佛衣の外面に又1層の衣を増加させたのは、重層式上衣かも知れず、この層の衣は右肩と左右の腿を覆い、右腿部は多くが花弁状の装飾で、右衣の角は衣の角は右腋下方から巻いて左肘に掛かる。主要な分布は洞窟の正壁で、例えば宾陽中洞、普泰洞、魏字洞、考昌三年(527) 皇甫公窟、地花洞、弥勒北一洞等(図4-3-3)。
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 ここに龍門石窟の開鑿次第の参考に、龍門石窟の北魏佛衣類型と洞窟内の分布位置を、表4-3-1に示す。
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表4-3-1を見ると、第一段階は孝文、宣武帝期(494-515)で、上衣搭肘式佛衣は主要に正壁に在り、覆肩袒右式佛衣は正壁以外に位置する。第二段階は胡太后期(516-528)で、上衣重層式と上衣搭肘式の両種の佛衣が並行して発展し、上衣重層式が主となり、一般には正壁に在る。上衣搭肘式佛衣は多くは正壁以外の位置に在る。第三段階は孝明帝以降(528-534)で、上衣搭肘式佛衣が又主要な流行様式になる。

二 龍門石窟の北魏佛衣の源流
(一)龍門石窟の北魏佛衣の来源
 上述の覆肩袒右式と上衣搭肘式佛衣と雲崗の両種の佛衣形式は最も相似なので、二者の間には直接の伝承関係がある。雲崗一期と二期の太和改制前は覆肩袒右式佛衣が主要な様式であり、例えば第20、7、8窟の佛衣(図4-3-4:1);太和改制(486-494)後と三期は上衣搭肘式佛衣が流行し、例えば5,6,5:11窟の佛衣(図4-3-4:2~3)がある。洛陽遷都後の孝文、宣武期(494-515)、龍門は両種の佛衣様式を継続し、覆肩袒右式佛衣が短期間の出現後、基本的に消失する;上衣搭肘式佛衣は、一貫して龍門で流行し、只北魏末になって、佛衣の裾端の変化が比較的大きく、外に大きく膨らむ事は無く、直平になっていく。

 上衣重層式佛衣は、成都万佛寺の梁代造像に見られ(図4-3-4:4)、成都の佛像が長江下流の建康を真似た可能性を推測する根拠であったが、今一歩話を進めて推測すると、龍門の上衣重層式佛衣が龍門と万佛寺の重層式上衣は全くおなじでは無いにしても、南朝の都建康の影響と関係があるかも知れない。龍門の重層上衣は、主要に身体の右側を覆うが(注;原文は(図三とあるが、図4-3-3の誤りであろう)、万佛寺の重層上衣は身体の両側を覆う。
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 5世紀末、北魏王朝の漢化の速度が段々と速まり、例えば太和以後の北朝文学の復興が実質上南朝文学の文体や作風にならうというように;又、梁武帝中期頃の南朝造型芸術の新風が北魏洛陽新都に影響し、胡太后の建てた皇家の大寺、永寧寺内の塑像が簫梁の人物形象に極めて近い等等。龍門の上衣重層式佛衣の盛行も南朝文化の影響が加わった例証の一つと数えることが許されるだろう。

(二)龍門石窟の北魏佛衣の影響
1.龍門と巩県石窟
 巩県石窟は河南省巩県の東北7.5kmの洛水北岸の大力山南麓に位置し、漢魏洛陽故城の西44kmに在る。現存する北魏後期開鑿の洞窟は5座で、胡太后時期に集中する。上衣重層式は巩県で最も流行し、例えば1,4くつの中心柱の佛衣等(図4-3-5:1)。龍門と異なるのは、巩県の重層上衣は多くが身体の両側を覆い、上身と万佛寺の重層上衣は更に接近しているが、重層上衣の腿部の処理にある花弁状の形式は即ち龍門と一致し、巩県の上衣重層式佛衣は、南北を結合して形成した特徴を一歩進めた。
 巩県石窟の開鑿は、荥陽(注;今の鄭州の西隣)の雲上人名家鄭氏と関係があると推測できよう。荥陽鄭氏は、魏晋以来,汴州(注;今の開封市)と鄭州の間で転々として、北魏一代では帝室の姻戚で、権勢を持ち、代々官に上った;鄭氏は佛教を崇拝し、龍門古陽洞の窟頂前部に景明二年(501)の鄭長猶造の弥勒像銘を記す;《続高僧伝》巻二四に記録する、北魏北周の境頃、終南の高僧静蔼は、荥陽鄭氏の子である;Ⅰ窟中心柱後壁左側の銘に記す“儀同で昌国侯の鄭叡の陳州刺史開府に贈る 息乾智が佛に侍る時“、右側の銘に記す”叡の妻成郡君が佛に侍る時“、、この両種の銘に記す時期は、北周期頃か、或は鄭氏の先祖の開窟し、子孫が継続して供養する情況を説明するものである;鄭氏と南朝の関係は連続して絶えず、例えば自ら淮南に内附する者、南疆を務める者、南朝に遣わされるもの等等。たとえ巩県石窟の開鑿と荥陽鄭氏に関係が遭っても無くても、その上衣重層式佛衣の表現する特徴は、全て功徳主の身分は赫々として、佛に従い、南朝文化の背景がある事を反映している。

2.龍門と西部・東部の石窟
 現有するデータから見て、龍門で一度主要な位置についた上衣重層式佛衣は、どうやら巩県以外のその他の石窟にも広範な影響を産み出したようだが、上衣搭肘式佛衣は、西部地区に直接あるいは間接の影響を生み出した。上衣搭肘式佛衣が西部で比較的流行したのは、麦積山、炳霊寺及ぶ須弥山等の石窟の北時期の佛衣である(図4-3-5:2)。
 534年北魏が滅亡し、東西魏に分裂して対峙する局面になり、北朝の統治の中心が分かれて邺城と長安に移った。上衣搭肘式佛衣は引き続き西部の石窟で流行し、麦積山の西魏時期や、莫高窟の北周時期の佛衣となる(図4-3-5:3,4)。東魏北斉のもう一つの政治文化中心は晋陽(今の太原)に在り、東魏の実権者高歓は晋陽に大丞相府を建て、朝政を遠隔操作し、又曾て天龍山に避暑宮を建て、上衣搭肘式佛衣は太原天龍山石窟の東魏時期に流行する(図4-3-5:5)。
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 上衣搭肘式佛衣は北朝の平城で興盛して、洛陽で引き継がれ、文化の中心が直接北朝各地に影響し、龍門の覆肩袒右式佛衣・上衣重層式と比較して、更に強い本土化の適応性を顕示している。

三 “褒衣博帯”と“裳懸座”について
 上述の上衣搭肘式佛衣と上衣重層式佛衣は、学会では一般に”褒衣博帯”或は”裳懸座”とされ、この2つの文化概念の術語で命名された。
 ”褒衣博帯”は、20世紀50年代に佛衣を称するのに用いられ、最初主要には、雲崗6窟の上衣搭肘式佛衣を描述した;その後使用範囲が段々拡大し南北朝時期の佛衣を形容するようになった。”褒衣博帯”は元々古典文献に描述された漢族士人の服装の幅広い用語で、例えば《漢書》巻七一《隽不疑伝》に曰く:
  「(隽不疑は)進退に必ず礼を以ってし、名は州郡に有名で・・・・・・冠は進賢冠、欙(注;山道を行く輿)と剣を帯び、玉環と玉玦を配し、褒衣博帯。」

また《顔氏家訓・渉務篇》に曰く;
  「梁の時代、士大夫は皆褒衣博帯で、冠は大きく履物は高く、外出は車輿で、家に入っては手を借りて支え、町の外郭内では馬に乗らない。」

宋代陳祥道の《礼書》中にこの種の士大夫の服飾に関しての深衣の制作図式があり(図4-3-6:2)、裁断縫合の工芸を表現している。大量の考古データの出土は漢地服装の裁断特徴を充分証明している。特に1982年湖北省江陵県馬山一号戦国中晩期の楚墓から出た14件の綿袍は、単衣と裙の実物で、更に具体的な形象は漢地伝統の衣の特徴を示し、墓主の身分が推測されるのは、士階層中の比較的地位の高い者である。小さい菱形紋が鮮やかな綿袍(編号N15)がその例で、袍の上衣は真っ直ぐ裁ち、正身2片、両袖は各3片、計8片で、下裳も真っ直ぐ裁ち、計5片(図4-3-6:3)。綿袍と単衣は均しく襟が右前で交わり(注;中国の右前は向かって右を前にする。日本式の呼称では左前で逆である)、上衣と下裳が繋がって一体となり、裁断時全幅で刺繍面を剪り、どの片もおおよそ刺繍図案の主題が壊されないよう、縫合と渾然一体となって、緻密で華美な工芸である(図4-3-6:4)。
 この種の裁断縫合の服装と佛衣形状・覆う形式(図4-3-6:1)とは、制作工芸と着装方式上、甚だしい相違がある。如何に“褒衣博帯”の形容する境地と南北朝時期の漢地佛衣段階の外形が甚だ似ているとしても、“褒衣博帯”の一語は決して佛衣の覆う概念を説明することは出来ない。

 “裳懸座”は、日本人が漢文で佛衣を描述する名詞に用いたもので、20世紀20年代末に産み出され、最初に用いられたのは、飛鳥時代(548-645)の法隆寺釈迦像の服飾のようなものに対してで、その意味は“衣端が垂れて座の前に懸かるので、裳懸座と呼んだ”。40年代以後、“裳懸座”の使用範囲が逐次拡大して、南北朝時期の佛衣にまで至った。
 漢文化の伝統服飾概念中、下身を遮蔽するものを“裳”、または“裙”と言い、漢の劉煕の《釈名》巻五《釈衣服》に曰く;
   「凡そ、服は、上を衣と言い・・・・・下を裳と言う、裳は障である。即ち自ずから障蔽する・・・・・裙は、下裙であり、繋がった裾布である。」
 陳祥道は《礼書》中に形容して“深衣の裳は、十二幅”と言い、深衣図式は前身が斜めに裁断して6幅を縫合している(図4-3-6:2)。“十二幅”系は後身の合計数である。江陵馬山一号墓出土の単裙(編号N17-3)は、展開後扇形で、腰部が狭く、下が寛く、裙面は8片(図4-3-6:5);上述の小菱形が鮮やかな綿袍(編号N15)の下裳は四角い片である(図4-3-6:3)。
 “裳”の制作工芸は、祭壇縫合は同様で、佛衣の形状と覆う形式(図4-3-6:1)とは、亦はっきりと異なっている。即ち、簡単に訳せば“裳”は日本人の言う“衣端”の意味で、“裳懸座”の意味する所は、単に佛衣の裾端の階段状の輪郭を形容するだけで、どのみち佛衣の覆う概念を説明するものではない。

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次回は、巩県石窟の北魏佛衣



  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻

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# by songofta | 2017-02-23 18:58 | 旅と地域

199 雲崗石窟の匂聯紋(2)

5-8世紀漢地佛像着衣法式


三 雲崗Ⅰ式の匂聯紋と相似の衣紋飾りの分布
 およそ孝文帝期(在位471-499)から宣武帝初(約500-504)、雲崗Ⅰ式の匂聯紋と相似の衣紋飾りは河北、北京、内蒙古、陜西、甘粛の銅石造像及び石窟寺の泥塑造像で比較的流行していた。
 《中国佛教彫刻史論》(注;松原三郎著、1995)所収の北魏紀年銘記のものは:
碑林博物館蔵陜西興平県出土皇興五年(471)石坐像、
米国ボストン博物館蔵承明元年(476)石坐佛、
収蔵地未記入の太和元年(477)安熹県(今の河北省定州付近)陽氏造銅坐佛、
内蒙古博物館蔵烏藍察布盟拓克拓県古城出土太和八年(484)比丘僧安造銅坐佛、
米国ハーヴァード大学フォッグ美術館蔵太和八年(484)揚僧景造銅坐佛、
根津美術館蔵太和十三年(489)九門県(今の河北省藁城市西北) 賈法生兄弟造銅二佛並びに坐像、
米国クリーブランド美術館蔵太和二十三年(499)比丘僧欣造石背光式立佛三尊像、
米国メトロポリタン美術館蔵太和十年(486)銅立佛、
宣武帝初期もまだ継続し、チベット自治区文物管理委員会蔵正始三年(504)高阿興造銅坐佛(図4-2-10:1~3)がある。
 以上、皇興五年(471)石坐佛、承明元年(476)石坐佛、太和十年(486)銅立佛、太和十三年(489)賈法生兄弟造像左側坐佛、太和二十三年(499) 比丘僧欣石立佛等は、覆肩通肩式佛衣で、残りは覆肩袒右式佛衣で、匂聯紋装飾は外層の上衣にある。
 それ以外に紀年がはっきりしないか紀年の無い銅佛像の佛衣は覆肩袒右式佛衣で、匂聯紋装飾は外層上衣にあり、紀年の有る造像と比べ、大体太和時期(477-499)に属す。《中国佛教彫刻史論》所収の収蔵地未記入の比丘法恩造銅坐佛、首都博物館蔵北京延慶県宗家営出土“大代”銘銅坐佛等(図4-2-10:4)がある。
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 天水麦積山石窟のおおよその開鑿時期は、北魏孝文帝初期(471)から宣武帝景明帝時期(500-503)の洞窟が、74,78,90,70,71,128,148,115,89,143,77と155窟龕中の泥塑坐佛で、佛衣は覆肩袒右式佛衣で、その外層上衣に匂聯紋を装飾し、74窟遺存の脇侍菩薩は、左腿部の裙都左肩から右腿を斜めに覆う衣の上に、匂聯紋を飾る(図4-2-11:1~4)。この他、114窟の上衣搭肘式佛衣の胸腹部にはまだ匂聯紋が少し残る(図4-2-11:5)。
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 明代嘉靖年間、酒泉城内石佛湾子出土の石坐佛は、現在酒泉市博物館に在るが、覆肩袒右式佛衣で匂聯紋装飾があり、大体太和頃(477-499)に属す遺物である。
 上述の造像中、場所が明確か造像の銘文に場所が明記されるのは河北(定州が中心)、北京、内蒙古、陜西、甘粛(天水、酒泉)等である。

四 雲崗Ⅱ式の匂聯紋と相似の衣紋飾りの分布
 およそ孝文帝の太和時期(477-499)から6世紀までの後、雲崗Ⅱ式の匂聯紋相似の衣紋飾りを見るのは、河西、隴東、山西及び新疆の石窟或は寺院の泥塑造像か石雕である。
 張掖市の金塔寺石窟東窟と西窟の泥塑造像は、通肩式佛衣と覆肩袒右式佛衣の外層上衣に匂聯紋装飾が在り、脇侍菩薩と天王は腿部の裙上にある(図4-2-12)。
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金塔寺の匂聯紋は通肩式と覆肩袒右式の両種の佛衣上に均しく表現され、比較的豊富である;匂聯紋は、2筋の尾根曲線が合流して一つになり、合流点の外側に短い陰刻の円弧線が在るが、尾根曲線の中間には陰刻線が無く、形式はやや簡単である。雲崗匂聯紋の第二期を参考に推測すると、金塔寺石窟の開鑿年代は、およそ太和(477-499)初期である。

 莫高窟の北魏洞窟中、泥塑主尊佛衣は覆肩袒右式佛衣で、匂聯紋は外層上衣にある。現存早期の268,272,275の3窟中、例えば272窟佛衣(図4-2-13:1);275窟主尊は交脚菩薩で、腿部の裙上に匂聯紋装飾がある(図4-2-13:2)。佛衣の様式が単一であることから、脇侍菩薩の匂聯紋無しの情況を分析すると、272、275窟の匂聯紋の時期はおよそ金塔寺より晩く、太和(477-499)中期頃で、この3窟の開鑿開始年代の総合研究に依る推断とほぼ相似で、その上限は太和八年(484)と太和十一年(494)に近維持期に始まり、下限は太和十八年(494)の洛陽遷都後から余り経っていないに比定される。3窟に比べてやや晩いその他の北魏洞窟中の匂聯紋は、下限が北魏滅亡(534)頃かも知れず、例えば259、254、257、251、437、435窟(図4-2-13:3~4)は、西魏時期で、匂聯紋が継続するが、佛衣は露胸通肩式佛衣で、例えば285、288、249窟等(図4-2-13:5)で、その中の285窟には大統四年(538)、五年(539)の題記がある。露胸通肩式佛衣は上衣外覆類に属し、通肩式に近似するが、頚下の衣の縁が“U”字形を呈して垂れ胸腹部に至る。
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 山西省東南の武郷県良侯店石窟は、窟内の正壁と左右壁の3壁面に、各2佛の石彫の主尊が坐し、其の中の正壁右側と右壁左側の主尊は覆肩袒右式佛衣で、匂聯紋は僧祇支と外層の上衣に均しく表現される(図4-2-14)。良侯店石窟の開鑿時期は、孝文帝の太和中期前後(486頃)と推定される。
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 隴東地区で、元々合水県太莪老庄村廟内にあり、現在合水博物館にある交脚菩薩石像は、裙に匂聯紋を装飾し、時期はおおよそ太和年間(477-499)である。泾川県南石窟寺1窟は北魏永平三年(510)に建てられ、窟内に7身の石彫立佛があり、正壁に3身、側壁に各2身で、左壁内側の立佛は上衣搭肘式佛衣で匂聯紋を残す(図4-2-15)。
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 新疆地区の石窟と寺院の泥塑佛像は、匂聯紋もある。庫木吐喇溝口20(新1)窟入口右壁の龕の主尊は、覆肩袒右式佛衣(図4-2-16:1)。それは上衣外覆類に属し、上衣は背中より両肩を覆った後、右衣の角は右臂下より下方を巻いて左肘に掛かる。この種の佛衣は、印度では見られず、漢地の最早実例は炳霊寺169窟の西秦建弘元年(420)第6号塑像と、国家博物館蔵酒泉出土の北涼縁禾三年(434)白双且塔の佛衣である。庫木吐喇溝口20(新1)窟の佛衣の上衣と僧祇支には均しく匂聯紋が飾られ、雲崗20窟の佛衣装飾部位と同じである。ドイツのル・コックが1904-05年トルファンで盗掘出土の泥塑佛像は、上身が多く残り、衣紋から観察すると、覆肩袒右式佛衣のようだ(図4-2-16:2)。西北科学考察団が1928年焉耆回族自治区の七個星明屋で発掘した泥塑立佛は、覆肩袒右式佛衣で(図4-2-16:3)、この像は現在国家博物館にある。克孜尓新1窟右壁に残る立佛の腿部には、内層下衣と外層上衣に匂聯紋を飾る(図4-2-16:4)。フランスのペリオが1906年図木舒克で盗掘した脱库孜萨来佛寺出土の佛像残缺は、佛衣の中間部分に匂聯紋が残る(図4-2-16:5)。漢地Ⅱ式の匂聯紋の流行時期と匂聯紋の装飾部位は、庫木吐喇溝口20(新1)窟佛像の匂聯紋時期から推測すると、約6世紀前後で、トルファン、焉耆、克孜尓新1窟と図木舒克佛像の匂聯紋年代は、おおよそ6世紀以降である。
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 上述の遺跡遺物中で、造像紀年が明確か、造像年代が総合的な要素分析により割り出せるのは、多くが孝文帝(在位471-499)から6世紀以後で、時期は雲崗石窟一期より晩く、分布地が主要に雲崗石窟以西・以南で、この現象から雲崗石窟以外の匂聯紋
飾りは、直接或は間接に雲崗石窟の影響を受け、特に雲崗Ⅱ式匂聯紋に相似の紋飾りは、西に向けて新疆に至り、流伝したのは6世紀以後で、その内地との関係は今一歩探求する価値がある。

次回は、龍門石窟の北魏佛衣


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# by songofta | 2017-02-21 15:09 | 旅と地域

198 雲崗石窟の匂聯紋(1)

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第二節 雲崗石窟佛像着衣の匂聯紋
 雲崗石窟に現存する7,8,17,19,20窟の主尊佛衣と主尊菩薩衣の装飾は一種の複雑華麗な紋様で、雲崗石窟近在と、例えば大同士西北約10kmの鹿野苑石窟6窟にもこの紋様が見られる。この種の衣紋は突起した2筋の曲線尾根が合流して1つになり、尾根の上ごとに陰刻した線を1本または2本彫り、同時に各尾根の間の谷筋に1本の線を陰刻し、その外観輪郭形は、刺股状或は燕尾形或はY字形である。2筋の曲線が互いに結合して、1筋に合成されるのを論理的に表現して、本論文では“匂聯紋”と名付ける。雲崗石窟の匂聯紋飾りの変遷を整理し、その来源と引き起こした影響を深く検討することで、匂聯紋の龍脈を少しばかり明らかにしてみたい。この北朝早期石窟造像の時期と相互の関係を知ることは、頗る重要な意義がある。

一 雲崗石窟佛像着衣の匂聯紋の時期区分
雲崗石窟の匂聯紋装飾は、通肩式と覆肩袒右式の両種の佛衣状に在る。通肩式佛衣は、上衣が両肩を覆って、右衣の角は衣の角は頚を巻いて左肩に掛かる。この種の佛衣類型の源は印度にあり、漢地に流伝した時期は比較的早く、例えば米国サンフランシスコ・アジア芸術館蔵の後趙建武四年(338)銅造像がある。この種の佛衣類型は印度には見当たらず、漢地に出現した最早の実例は西秦と北涼地区にあり、例えば炳霊寺169窟の開鑿が西秦約420年前後の9号塑像、及び現在米国クリーブランド芸術博物館の北涼縁禾四年(435)索阿后塔上の佛像。菩薩の上身は裸体で、瓔珞を付け、下身は裙を着て、匂聯紋装飾は裙に在る。
 匂聯紋は両筋の交わる所の連結法式は異なり、2式に分けられる
Ⅰ式: 突起した両尾根の曲線が一つに合流し、各尾根上に陰刻した線を1本または2本彫り、同時に各尾根の間の谷筋に1本の線を陰刻する;合流点の両尾根の内側の線はお互いに噛み合い、各尾根上の陰刻線も形に合わせて噛み合い、外側の線は伸びて一つになる。
  覆肩袒右式佛衣;19窟正壁の匂聯紋は僧祇支の上を装飾する(図4-2-1:1);20窟正壁は佛衣の上身と僧祇支に均しく匂聯紋が見られる(図4-2-1:2)、腿部は残るが、匂聯紋は不明;鹿野苑6窟正壁は腿部に匂聯紋を飾る(図4-2-1:3)。
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  通肩式佛衣;20窟左壁と17窟左壁は、前身を匂聯紋で飾る(図4-2-2:1、2);8窟主室正壁上龕内の中間佛衣は、上身が破損し、右肩部から残存する衣紋が斜めに左下方に走る勢いがあり、通肩式佛衣かも知れない。上身の残跡を観察すると、匂聯紋は無い様だが、只腿部に匂聯紋を表現する(図4-2-2:3)。
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  菩薩衣;7窟主室正壁上龕にいる交脚菩薩の腿部に後代に塗った表面が剥落した所に匂聯紋が見える(図4-2-3)。

Ⅱ式:突起した両尾根の曲線が1つに合流し、各尾根上に陰刻した線を2本彫り、同時に各尾根筋の間の谷に1本の線を陰刻する;合流点の両尾根の内側の線はそこで閉じ、外側の線は伸びて一つになる。同時に噛み合う所の陰刻線は短い弧線となる。7窟主室正壁上龕内左側の覆肩袒右式佛衣は、上身が破損していて、残跡を観察すると、匂聯紋は無い様だが、只腿部に匂聯紋を表現する(図4-2-4)。
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 以上、Ⅰ式の匂聯紋は、19,20,17窟主尊佛衣の上身及び全身に排列し、第一組に帰納する;Ⅰ式或はⅡ式の匂聯紋は、鹿野苑6窟及び雲崗8,7窟主尊佛衣及び主尊菩薩衣の腿部に排列し、第二組に帰納する。表4-2-1を見よ。
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 雲崗石窟の営造開始は和平初年(460)、沙門統の曇曜が文成帝に請求を提出し、洞窟五ヶ所を開設した。《魏書・釈老志》に記録された開鑿開始の情況は:和平初年(460)“曇曜が帝に申したのは、都の西、武州塞に、山の石壁を鑿き、五ヶ所の窟を開いて、佛像各1尊を雕刻し、高さは70尺、次は60尺、雕刻は素晴らしく雄大で、この世に冠たるもの。”
この最初の五窟は一般に今の雲崗石窟16~20窟に相当すると思われており、五窟の開鑿時期の下限は献文帝末年(470)が推断される。
 鹿野苑石窟に関して言えば、《魏書・顕祖紀》記載の;“(皇興四年)12月甲辰、鹿野苑石窟に御幸す”から、献文帝時期(在位466-471)に建てられたのが知られる。又、洞窟の形制、題材や配置と造像の特徴等の総合的な研究に拠れば、雲崗で曇曜五窟の後に続いて、開鑿された洞窟は7,8双窟及びやや遅れて9,10窟等が有り、その中で、9,10双窟の開鑿時期は太和八年(484)に始まった。匂聯紋飾りは9,10窟中にはっきり見られ、一歩進めて推測すれば、7,8双窟の匂聯紋の下限は、およそ太和八年(484)となる。
 此れに拠り、2組の洞窟の匂聯紋は2期に分けられ、第一期は約460-470年、第二期は約470-484年となる。

二 雲崗石窟佛像着衣の匂聯紋の来源の検討
 印度西北部のガンダーラ石佛像の衣紋は、有るものは匂聯紋の形成と関係が有り、ボストン美術館蔵(?)の結跏趺坐造佛のように、覆肩袒右式佛衣で前身の衣紋が対称曲線状を造る(図4-2-5:1)。有るものは匂聯紋に近く、匂聯紋の雛形と見ることが出来る。ペシャワール博物館蔵の立佛は、覆肩袒右式佛衣で、腹の下部両腿の間に、2筋の尾根曲線が相互に交わって1筋になる(図4-2-5:2);ワルトシュミットのDie Buddhisishe Spaetantike in Mittelasien所収の立佛は、覆肩袒右式佛衣で、胸及び腹腿部に、2筋の曲線が交わって1筋になる。曲線の内側の線は相交わる所で閉じ、外側の線は伸びて1筋になる(図4-2-5:3)。
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 河西地区の北涼石塔は、現在甘粛省博物館蔵の承玄元年(428)高善穆塔、承玄二年(429)田弘塔上の結跏趺坐坐佛(図4-2-6:1、2)のように、覆肩袒右式佛衣で、胸腹部の衣紋が対称曲線状を呈し、ボストン美術館蔵(?)ガンダーラの佛衣と相似する。炳霊寺169窟の西秦約420年前後開鑿の7龕立佛(図4-2-6:3)は、覆肩袒右式佛衣を覆い、胸腹部の衣紋は両筋の曲線が一つに合流して、これを較べるとペシャワール博物館蔵のガンダーラのものより複雑である。
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 故宮博物院蔵劉宋元嘉二十五年(448)石佛像(図4-2-7)は、衣紋が2筋の曲線が一つに合流し、其の数が多く、分布は対称で、炳霊寺169窟7龕の立佛の衣紋よりもっと豊富で、像の銘文に“始康郡晋豊県”とあり、《宋書》によれば、始康郡は益州に属し、成都の管理であった。 雲崗石窟Ⅰ式匂聯紋に似た最早の実例は、東京国立博物館蔵太平真君四年(443)銘の高陽蠡吾(今の河北省博野県西南) 菀申造銅佛立像である。立佛は覆肩袒右式佛衣で、前身は2筋の突起曲線が合流する所で内側の線は齟齬に噛み合い、各尾根上の陰刻線も形に沿って噛み合う、外側の線は伸びて一つになる(図4-2-8)。

 雲崗石窟Ⅱ式の匂聯紋と似ている最早の実例は、河北省易県文管所蔵の易県出土和平六年(465)交脚菩薩像である。菩薩の残った下半身は腿部の裙上に2つの突起曲線が一つに合流し、各筋上に陰刻線を刻み、合流点の両内側線は閉じて、外側線は伸びて一つになり、両曲線の合流点には別の陰刻の短い円弧線が見える(図4-2-9)。
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 この2つの例は、比較的成熟した匂聯紋は、河北地区で生まれたことを示す。河北平原は経済が繁栄し、文化が発達、後漢末には佛教がこの地に伝来していた。元康元年(291)、《放光経》を訳出し、中山(今の河北省定州市)の支和尚は人を遣って持ち帰らせ、“中山王と衆僧は城南40里に幢幡を立てて経典を迎えた”。河北の佛法が盛んになったのは佛図澄からで、“澄は佛法を既に理解し、民衆の多くが佛を奉じて、皆寺廟を造り、競って出家した”。佛図澄の弟子も又、多年に渡り河北を教科し、例えば徳業と学識が群を抜いていた常山扶柳(今の河北省冀州市西北)の道安がおり、初め飛龍山(今の河北省元氏県西北)で学び、後に太行恒山(今の河北省曲陽県西北)に寺塔を創立し、“服を改め出家して河北と別れてから・・・・・45年になり、また冀州に戻る、寺を受け持ち、衆徒数百、常に法を説いた”。又格義仏教(注1)を創立した河間(今の河北省河間市)の笠法雅は、“後に高邑(今の河北省高邑県)に寺を立て、僧衆が百余、教誨し怠らない”。法雅の弟子曇習は、“先師を祖述し、言論に善く、偽趙太子石宣の敬う所”と言う。このような事例は河北仏教の基礎が深く堅固で有ることを表明している。
   (注1);格義仏教とは、魏晋時期の仏教が中国固有の思想で理解しようとした段階を指す。道安、鳩摩羅什以降、急速に衰退した。

 博野と易県の両地は定州付近に在る。定州は昔から精巧な工芸の町で、戦国と東・西漢の中山国の遺跡だが、精緻な青銅器が出土して注目を集めた。六朝・隋から盛唐まで佛教芸術品が繁栄し、4世紀、燕趙地区には塔や像が建ち、北魏皇始二年(397)太祖拓跋珪中山を平定し、群県の佛寺に敬意を表して巡った;現存する太武の廃以前で、明確な紀年と造像者の郷里の銘文が有る遺物は、多くが定州とその付近に在る;年来、定州とその付近で発見された北魏から盛唐までの金銅や白石の造像は千や百ではなく、一度に発見された最多は、1953~54年に曲陽修徳寺遺跡の発掘で、合計2200余件の文物であった。河北地区佛教の基礎は雄厚で、定州の雕刻・鋳造の工芸水準は極めて高く、佛教形象が今一歩中国化の変革をする必要条件を提供した。

 北魏が平城を都とした都市(398)より、強制的に民衆を平城とその付近に移住させ集中し、移住させた地域が太行山以東六州、関中長安、河西涼州、東北龍城と東方の青州等で、それは北中国のとうじの経済、文化の発達した地区であった。雲崗第一期石窟群の開鑿には、東西各方面の技術が融合して新模式を創造する基本的条件がそなわったのである。この中に、涼州と河北に関係した経歴を持つ高僧颇が注目される。例えば、皇始(396-398)年中、趙郡(今の河北省趙県)の沙門法果は京師に赴き道人統になって、泰常(416-423)中に亡くなり、“帝はその喪に三度訪れ、老寿将軍、趙胡霊公を追贈した”。 西秦の国師釈玄高は、後に涼州に遊び、沮渠蒙逊(注;匈奴人)を深く敬礼し、太武帝が涼を滅ぼした時(439)、玄高も又平城に着き、佛法を大きく普及させ、“太子拓跋晃は、(玄)高に仕え師とした”;涼州沙門釈慧崇は、尚書韓万徳の門師で、“徳は(玄)高に次ぐ“。沙門師賢は曾て涼州に遊居し、後に涼州が平定されると、平城に赴き、太武の廃仏後、医術を以って還俗し、文成帝が佛法を復法(452)した日、”帝は自ら髪を下ろした。師賢を道人統とした“。道人統を継いだのが曇曜で、既に涼州で高名であり、また中山での活動が背景にあり、雲崗最初の五ヶ所の洞窟の開鑿を主導した。

 以上から推察するに、雲崗の佛像着衣は涼州と河北の佛教と工芸レベルとの関係がさらに密接であったのかも知れず、例えば雲崗の覆肩袒右式佛衣の匂聯紋装飾は、その覆肩袒右式佛衣様式は最初に涼州地区で見られ、匂聯紋の成熟した形式は河北地区で見られる。

次回は、雲崗石窟の匂聯紋(2)



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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
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# by songofta | 2017-02-20 10:48 | 旅と地域

197 雲崗石窟の北魏佛衣

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第四章 中原地区佛像の佛衣

第一節 雲崗石窟の北魏佛衣
雲崗石窟は山西省大同市の旧市街の西15kmの武州川北岸の山崖に在り、東西に連続して約1kmある。洞窟のほとんどの部分は北魏中後期に雕鑿され、一般に三期に分けられる:第1期(460-470)は曇曜が主に開鑿した5ヶ窟で、即ち石窟中部西側の第16~20窟:第2期(471-494)は、主要に石窟中部東側、第7・8双窟、第9・10双窟、第1・2双窟、第11~13組窟と第5・6双窟、更に第3窟等:第3期(494-524)は多くが中小型の窟室で、主要には第20窟以西の崖面に集中し、この他、第1期、第2期に開鑿された窟室内や窟口の両側、窟外の崖面にも、第3期に補鑿された小窟龕が数多く存在する。
 雲崗石窟は新疆以東に最早で出現した大型石窟群で、又当時北中国を統治した北魏皇室が全国の技術と人力・物力を集中して初めて造ったもので、それは創造的で不断に発展する新しい模式であり、北中国の影響範囲の広がりと影響の持続時間の長さは、どの他の石窟であっても比較しようがないと言うべきで、東方の早期石窟中に極めて重要な地位を占めている。


一 雲崗石窟の北魏佛衣類型
 雲崗石窟の佛衣は主要に、上衣外覆類の通肩式と覆肩袒右式、中衣外露類の上衣搭肘式と中衣搭肘式の4種の類型である。
通肩式佛衣:上衣は背中より両肩を覆った後、右衣の角は頚より下を巻いて左肩に向かって掛かる様式。衣のヒダは相互に噛み合う匂聯紋と狭浅階段紋の2種。20、18、17及び8~13窟の佛衣(図4-1-4:1-4)。
覆肩袒右式:上衣は背中より両肩を覆った後、上衣の右側は肩臂に沿ってから右脇下を巻いて左肩に掛かり、右衣の角は側の胸臂を露出する。衣のヒダは相互に噛み合う匂聯紋と狭浅階段紋の2種。19、20、18、7~13窟の佛衣(図4-1-1:5-8)。その内11窟東壁上方に“太和七年(483)”の題記がある。
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上衣搭肘式:衣は背中より両肩を覆った後、上衣の右衣の角は胸腹を巻いて左肘に掛かり、衣のヒダは寛深階段紋を作り、中衣は胸口と下裾が見える。立佛は16、5,6,11、13窟の佛衣(図4-1-2)。
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 坐佛の上衣は裾端を三分し、例えば5窟並びに“太和十三年(489)”銘文の有る11:14窟龕と6窟の佛衣(図4-1-3;1-3)で、裾端が多層になって座を覆い、あるものは裾端を後身部分も表現する、例えば“正始四年(507)銘の28:2窟及び30,35:1、5:11窟の佛衣(図4-1-3:4-7)。
中衣搭肘式:中衣の右衣の角は右肘の上に掛かり、上衣は背中より両肩を覆った後、右側は肩臂に沿ってから右脇下を巻いて左肩に掛かる。5:11窟の佛衣(図4-1-3:8)。
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 ここに上述の雲崗石窟の時期区分と佛衣類型の間の関係を示すと表4-1-1になる。
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 第1期:19窟の覆肩袒右式佛衣は僧祇支の上に匂聯紋を置き、上衣は狭浅階段紋;20窟の通肩式と覆肩袒右式佛衣は均しく匂聯紋;17窟の通肩式佛衣は匂聯紋と狭浅階段紋の両種形式;18窟の通肩式と覆肩袒右式佛衣は均しく狭浅階段紋。
 第2期:太和改制(486-494)以前、7~13窟は狭浅階段紋覆肩袒右式佛衣が主で、通肩式はやや少ない。改制以後は上衣搭肘式佛衣が多い。
 第3期:裾端が多層に座を覆う上衣搭肘式佛衣が流行し、少量の中衣搭肘式佛衣が出現する。

二 雲崗佛衣類型の来源
1.通肩式と覆肩袒右式佛衣
 第1期及び第2期の太和改制(486-494)以前の両種の佛衣は、多く印度伝統を踏襲する。佛教がシルクロードを通って中国に伝来し、中央アジアが非常に重要な媒介を果たしたが、現在の中央アジアの佛衣の情況は、或は存在がミッシングリンクであったり、或は発見された材料が不十分であったりで、雲崗のこの3種の佛衣の来源を討論するだけの条件が熟していない。文中では、既に知られた漢地の材料から初歩的な認識を提出するだけである。
 通肩式佛衣の源は印度である。但、通肩式佛衣上の匂聯紋の装飾は、印度や中央アジアではほとんど見かけず、いま知られる最早の紀年の有るのは、太平真君四年(443)高陽(今の河北省博野県)菀申造像である(図4-1-4:1)。雲崗のこの種の匂聯紋通肩式佛衣は、直接の源はシルクロードでの東伝を除き、今の河北地区の影響なのかも知れない。
 覆肩袒右式佛衣の最早は西秦と北涼地区で、炳霊寺169窟西秦約420年前後の9号塑像(図4-1-4:2)及び北涼縁禾四年(435)索阿后塔佛衣(図4-1-4:3)である。雲崗の覆肩袒右式佛衣は、其の上に匂聯紋を装飾し、この種の覆肩袒右式佛衣と匂聯紋を一緒に結合する形式は、雲崗で形成されたのかも知れない。北魏は自ら都を平城に置いた時から、民衆を強制的に移住させて平城とその付近に集中し、転出させられた地方は、太行山以東の六州、関中の長安、河西の涼州、東北の龍城と東方の青州等で、又これらは全て当時の中国の文化の発達した地区であった。雲崗第1期石窟の開鑿は、東西各方面の技術を融合することが出来たものであろうし、新しい石窟の模式を創造するもので、その他に、第1期石窟を開鑿した曇曜は、又同時に涼州と河北地区での活動経歴を持ち、このため、雲崗匂聯紋覆肩袒右式佛衣はこの両地域の特徴を表現することに一定の合理性があった。
 第2期太和改制(486-494)以前、覆肩袒右式佛衣が主で、通肩式佛衣は少なく、匂聯紋は段々と消失する。

2.上衣搭肘式と中衣搭肘式佛衣
 第2期の太和改制(486-494)以後と第3期の主要な流行は、上衣搭肘式佛衣で、第3期に少量の中衣搭肘式佛衣が出現する。
 この両種の佛衣は漢地の伝統に偏っており、南朝の影響と関係があるかも知れない。四川茂汶南斉永明元年(483)造像碑、碑の表裏に坐像と立像があり、均しく上衣搭肘式佛衣(図4-1-4:4、5)で、立像の佛衣は裾端が3層で、坐像の裾端は多層が座を覆い、雲崗は同じ一つの来源の影響を受けたらしい。浙江省普陀山の法雨寺に元あった一佛二菩薩背光式三尊玉像は、背光の形制、題材、造像の特徴、紋飾等の方面を総合して考慮すると、その時代はおよそ斉梁の境であり;主尊が着る上衣搭肘式佛衣は、裾端右側外層と内層も間に衣の角が有り(図4-1-4:6)、雲崗の立佛と近似する。普陀山は建康のある揚州の範囲に属し、以上の情況から、或は論理的には茂汶と雲崗の上衣搭肘式佛衣は建康を関係があると推測される。雲崗の中衣搭肘式佛衣と南京栖霞山石窟千佛岩区の斉梁の境の18窟佛衣(図4-1-4:7)は相似で、大体源頭は建康にある。
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 その他に、長安は曾て漢地佛教の中心で、前後秦時期、高僧道安が長安に7年在り(379-385)、鳩摩羅什は長安に13年在り(401-413)、彼等は極力訳経に励み、長安は学問をする沙門が群集し、佛法が隆盛した。北魏文成帝の文明皇后馮氏は、本貫が長楽郡信都(注;今の河北省冀州市)で、父の馮朗は北燕滅亡前に北魏に入り、秦雍二州の刺史に任じ、馮氏とその兄馮煕を長安で生んだ。馮氏は佛教を尊奉し、既に“文宣王廟を長庵に建て、又龍城に思燕佛図(注;今の朝陽北塔の前身塔)を建てる”。“太和三年(479)、道士の法秀・・・・謀反、偽咸陽王は道士を尽く殺そうとしたが、太后の馮氏は許さず”。馮煕も又“佛法を信じ、家財を投じ、諸州鎮に佛図精舎を建て、并せて七十二ヶ所;一切経を書写すること十六部、徳の名高い沙門を呼び日々講論し、精勤して倦ない”。馮氏兄妹と長安の関係を考慮すると、雲崗と南朝佛衣は尽く同じとは限らないが、或は長安の要素があるかも知れない;同時に気候条件は佛衣発生変化の要素の一つかも知れない。
 雲崗で最も流行した覆肩袒右式佛衣と上衣搭肘式佛衣は、北中国が放った影響が広範で、引き続き発展が長く、西部の麦積山、莫高窟から中原の龍門石窟まで、その一端を見ることが出来る。

三 雲崗と麦積山、莫高窟それに龍門石窟
1.雲崗と麦積山・莫高窟
 麦積山石窟と莫高窟は西部に位置し、麦積山石窟は甘粛省天水市の東南45kmに在る。莫高窟は甘粛省敦煌市の東南25kmに在る。両方の早期洞窟の開鑿年代は学術界の関心が高いが、雲崗と麦積、莫高間の佛衣関係によれば、早期洞窟の開鑿時期に一歩進めた認識を提供出来るかも知れない。
 麦積山の最早期洞窟は、一般に74、78、165等の窟と言われるが、その開鑿開始時期についての意見の隔たりは大きく、主要には以下の3種がある:後秦から西秦期間(384-431);西秦から北朝早期、或は十六国晩期から北魏滅亡前(約385-446);北魏注記やぅ452-486年の間。
 莫高窟268、272、275三窟は相次いでいて、公認された現存最早期の洞窟群で、その年代問題も我が国石窟遺跡を研究する学者の注意を引いていて、代表的な意見では一つは北涼期(421-439);一つは北魏に開始とし、近いものは太和八年(484)と太和十一年(487)に始まり太和十八年(494)洛陽遷都以後の長くない時期。
 覆肩袒右式佛衣で匂聯紋装飾は麦積山と莫高窟早期洞窟で流行した。例えば麦積山78窟、莫高272窟(図4-1-5:1、2)。”雲崗模式”形成の歴史的背景に依れば、おおよそ匂聯紋の覆肩袒右式佛衣は雲崗から麦積、莫高に向かって影響した可能性が比較的高く、反対に影響した可能性は好かないようだ。このため推論が許されるならば、麦積と莫高の両地方の早期洞窟中の仏像の開鑿時期は雲崗第1期より遅い。
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2.雲崗と龍門
 太和十八年(494)、北魏は都を平城から洛陽に遷都し、今の洛陽市の南約12kmの龍門山麓に龍門石窟を開鑿し始めたが、平城は未だ荒廃してはおらず、少なくとも煕平年間(516-518)までは旧都の風貌を維持し、雲崗石窟は雕鑿が持続していて、同時に龍門石窟も継続し、上衣搭肘式佛衣様式は両地方で並行して発展した。
 龍門の孝文、宣武帝期(494-515)、上衣搭肘式佛衣が主導的地位を占め、例えば古陽洞、蓮花洞正壁佛衣(図4-1-5:3)で、裾端は2層。
 胡太后期(516-528)、龍門の新様式が主線に成り、正壁の主尊は多く上衣重層式佛衣を着る様になる。上衣搭肘式佛衣は副線として発展し、多くは正壁以外の位置に配置される。例えば宾陽中洞、皇甫公窟側壁佛衣(図4-1-5:4、5)、立佛の佛衣裾端は3層で、坐佛の裾端は多層で座を覆う。
 考昌以後の北魏末期(528-534)、上衣搭肘式佛衣が又主流と成り、例えば路洞、党屈蜀窟正壁佛衣(図4-1-5:6)で、但、この時の佛衣裾端は外に膨らまず、直平に向かい、雲崗の上衣搭肘式佛衣の裾端形状が改変される。
 雲崗石窟の佛衣は460年から534年まで続き、栄枯盛衰、百年近く繁栄し、北中国佛衣の印度伝統の踏襲から漢地伝統の偏重までの全発展過程を代表し、雲崗石窟の地位と巨大な影響を存分に反映している。


次回は、雲崗石窟の匂聯紋


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# by songofta | 2017-02-17 22:33 | 旅と地域

196 山東地区隋唐佛衣

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第二節 山東地区隋唐佛衣
 山東地区の隋唐時期の紀年が明確な造像は多くが磨崖窟龕中にあり、規模は小さく、数量も少ないが、却って隋唐時期の佛像着衣の変化を研究するための、標準指標を提供している。本論文は佛衣の保存が良く、年代のはっきりしている済南付近の玉函山や、霊岩寺方山証明龕、神通寺四門塔と千佛崖、東平理明窝、青州駝山、雲門山等を基礎資料として、山東地区の隋唐時期の佛衣類型とその淵源を深く分析する。
 玉函山磨崖造像は済南市の南約10kmに在り、俗称を西佛峪と言い、造像は上下5層の排列で、造像の銘が十余ヶ所有る。霊岩寺は、済南市長清県泰山西北麓の方山の南に位置し、証明龕は方山頂上の岩壁に在る。龕内には、一佛、二弟子、二菩薩と二頭の護法獅子がある。神通寺は、泰山北麓に位置し、済南市歴城区柳埠鎮の東北で、四門塔は神通寺遺跡の東南奉公の青龍山南麓で、単層方形の亭閣式石塔で、心柱の台座の各面に石像一尊を彫る;千佛崖は神通寺遺跡の西側、白虎山東麓に在り、現存する磨崖造像は210余尊、造像題記は43。理明窝磨崖造像は泰安市東平県の西北斑鳩店鎮の六工山西峰南麓に在り、番号の在る8龕と2ヶの小附随龕が有り、造像は47躯、題記は18。駝山石窟は青州市濟南5km、5ヶ洞窟に番号が在り、1ヶ所は磨崖造像で、造像は計638尊;雲門山石窟は、青州市城南2kmで、現存5窟、造像は計727尊である。

一 山東地区隋唐佛衣類型
 山東地区の隋唐時期の佛衣は、主要に上衣搭肘式、露胸通肩式と中衣搭肘式の3種である。
上衣搭肘式佛衣;上衣は身体の後ろより両肩を覆い、右衣の角は横に腹部を通って左肘に掛かる;中衣と上衣の覆う形式は一致する。例えば青州駝山3窟像、済南玉函山開皇四年(584)像等(図3-2-1:1、2)。駝山第3窟のこの像の座の前に題記が有り”大像の主は、青州総管柱国平桑公”、”平桑公”を考えると北周から隋にかけて尉迟炯を平定した功績で、青州総管に任じられ平桑郡公に封じられた韦操である。又”平桑公”の題記のそばに別の主要な功徳を記した“像主は楽安郡の沙門都僧蓋”とあり、楽安郡の廃止は隋開皇三年(583)十一月で、第3窟の戎s躯年代はおよそ開皇元年(581)から開皇三年(583)の間と推測出来る。
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露胸通肩式;上衣は身体の後ろより両肩を覆い、右衣の角は胸前より”U”字形に巻いて通り左肩に掛かる。例えば青州雲門山第1窟像、済南市玉函山開皇二十年(600)像等(図3-2-1:3,4)。雲門山第1窟内の補鑿の小龕は、開皇十年(590)、十八年(598)、十九年(599)、仁寿二年(602)らの紀年で、窟内の大像は早くても開皇十年(590)であろう。
中衣搭肘式;中層の中衣の右衣の角は垂れて右肘に掛かり、外層の上衣の右衣の角は右脇下を巻いて左肘或は左肩に掛かる。1種類は上体がやや狭く削り、衣紋はやや疎らで、例えば青州駝山第2窟像、済南神通寺四門塔の四面像、済南市霊岩寺方山証明龕像等(図3-2-2)。
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もう1種類は上体はやや寛く厚く、衣紋は密で、例えば済南市神通寺貞観十八年(644)僧明徳造像、顕慶三年(658) 駙馬劉玄意造像、顕慶三年(658)青州刺史趙王福造像、東平理明窝長安三年(703)造像、開元八年(720)造像、青州雲門山第5窟造像等(図3-2-3)。
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 青州駝山第2窟の平面は略横の楕円形で、開放式の大龕である;佛像は螺髪があり、顔は隅丸の方形、頭部の比は大きく、佛衣は薄く貼体;菩薩像の領巾は横に腹膝に二筋、その洞窟の形制と造像の特徴は第3窟と同じだが、造像はもっと成熟し、第2窟の完工年代を判断すると第3窟より少しおそいかも知れず、或は開皇中(590)になる。済南市神通寺の四門塔内頂部の三角石梁上に“大業七年(611)造”の銘があり、佛像の年代も塔の建造年代と同じ頃である。済南市霊岩寺方山の証明龕の佛像と四門塔の四面佛像は相似で、これから考えて、その雕鑿年代も隋大業年間(605-617)であろう。青州雲門山第5窟には益郡県令唐道周の選した《青州雲門山功徳并びに序》があり、第5窟が開元十九年(731)に造られた証明となる。

 このように、山東地区の上衣搭肘式、露胸通肩式と中衣搭肘式の3種の佛衣は隋代に並行し、その中でも露胸通肩式と中衣搭肘式佛衣は比較的流行した。済南市城南約15kmにある龍洞では、小洞内の佛像は露胸通肩式と中衣搭肘式の両種の佛衣があり、造型は上体を狭く削り、衣紋はやや疎らで、隋代に帰すべきである。唐代の山東地区は中衣搭肘式佛衣が盛行する。

二 山東地区隋唐佛衣類型の来源
 上衣搭肘式佛衣の最早は南朝に見え、四川茂県永明元年(483)、成都西安路永明八年(490)、成都商業街建武二年(495)等の造像がある。この種の佛衣は北朝でもかなり流行し、雲崗石窟の北魏洛陽遷都(494)頃開鑿の6窟、洛陽遷都後開鑿の龍門石窟古陽洞、蓮花洞等がある。山東地区の北朝造像中にも多く見られ、山東省博物館蔵北魏神亀元年(518)孫宝憘造像、東魏武定二年(544)路文助兄弟造像等がある。
 露胸通肩式佛衣の最早は南朝栖霞山石窟の簫斉時期、19、22、24窟等である。北魏末期に流行が始まり、山東地区の青州龍興寺永安三年(530) 贾淑姿造像、天平三年(536)張河間字尼智明造像、天平三年(536)邢長振造像、臨朐明道寺武定元年(543)劉天恩造像、諸城武定三年(545)士継淑造像、武定四年(546)夏侯豊珞造像、天保三年(552)僧済本造像等がある。河南では天保元年(550)開鑿の安陽小南海中窟立佛、河南博物館蔵天保十年(559)劉紹安造像碑、鄭州市博物館蔵天統三年(567)比丘宝進造像等である。西部地区は麦積山石窟と須弥山石窟の北周造像等。
 中衣搭肘式佛衣の成熟した最早は響堂山石窟で、北斉・北周に流行し、唐代には両地区の主要な佛衣類型と成った。山東地区では済南五峰山の北斉蓮花洞の佛衣、西部地区では麦積山の北周62窟・隋代5窟の佛衣、完工が隋仁寿二年(602)六月五日の前になる麟遊慈善寺1窟の佛衣、莫高窟の隋代427窟の佛衣等;唐代貞観二年(628)頃完工の彬県大佛寺大佛洞の佛衣、貞観十五年(641)頃開鑿の龍門宾陽南洞正壁大像の佛衣等。

 この3種の佛衣の変遷情況から見ると、山東地区の隋代上衣搭肘式と露胸通肩式佛衣は、北朝で流行した南朝伝統を踏襲し;そして、中衣搭肘式は北朝の伝統を継続したのかも知れず、佛像の腿部は比較的方形に整い、仏座はやや平たく真直ぐで、ただ正面を表現するだけである。山東地区の唐代中衣搭肘式佛衣は、長安・洛陽の両京地区からの影響を受け、その佛衣の構造と北朝のそれとの差は少なく、但造型がやや寛く厚く、衣紋が密で、仏座がやや立体状になり、側面を表現する様になる。

 隋代の全国統一の局面の下、山東地区の佛衣は南北朝の伝統を継続し、或は隋代の立国時間が短かったためか、文化がまだ全国一致に至らなかった。隋代の南北統一は、強固な中央集権による統一された政治経済、そして東京の建設(注;今の洛陽。長安に対する東の京の意。漢魏の洛陽とは異なる場所)と大運河の開鑿等、経済・文化の発展に大きな作用を起こした。但し隋代の徭役と兵役は極めて頻繁で重く、突厥から防御するため長城の修築に数度に渡る大量の農民の徴発、開皇十八年(598)と大業七年(611)の2度の高句麗侵攻は、最終的に内乱を引き起こし、王朝は瓦解する。唐王朝が建国し、中央集権政治制度を更に一歩進め、生産と発展を回復し、貞観の治を経て、永徽から開元初年に至り、封建統治制度が安定し、唐王朝の経済は繁栄し、国家は統一され、社会は安定し、中心文化の影響力が遍く全国と域外に及んだ。山東とその他の地区の唐代の中衣搭肘式佛衣は両京地区と一致するのは、当にこの歴史背景の産物である。


次回は、中原地区 雲崗石窟の北魏佛衣




  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
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# by songofta | 2017-02-15 21:02 | 旅と地域

195 青州地区北朝佛衣の源流

5-8世紀漢地佛像着衣法式


二 青州地区北朝佛衣類型の来源
青州地区北朝一、二期の佛衣類型は主要には上衣搭肘式佛衣と露胸通肩式の2種で、普通は裾端の右側で、上衣の内層に衣の角が露出し、造型形態は多くが背光式(造像碑を含む)である。
 上衣搭肘式佛衣の最早は南朝で見られ、例えば四川茂県永明元年(483)造像碑、西安路永明八年(490)、商業街建武二年(495)等の造像で、立佛佛衣の裾端右側は、上衣の内層が衣の角を露出し、成都西安路天監三年(504)比丘釈法海造像、成都商業街天監十年(511)李兼女造像、成都万佛寺普通四年(522)康勝造像、成都万佛寺中大通五年(533)上官法光造像(図3-1-9:1~4)、これらの造像形態は多くが背光式(造像碑を含む)である。
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 この種の佛衣類型は北朝も大変流行し、比較的早期の例えば雲崗石窟の北魏洛陽遷都頃(494)開鑿の6窟及び11窟と13窟の補鑿の造像等(図3-1-10:1)、背光式(造像碑を含む)造像中に多く見られ、例えば河南湛県の北魏田延和造像、河北曲陽県修徳寺興和三年(541)李晦夫婦造像等(図3-1-10:2、3)がある。
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 露胸通肩式佛衣の最早は南朝栖霞山石窟簫斉時期の19、22、24窟等(図3-1-11:1、2)に見られる。それは四川成都地区にも比較的多く見られ、佛衣の裾端右側、上衣の内層にも衣の角が露出し、例えば万佛寺中大通元年(529)道猶母子造像(図3-1-9:5)で、その銘には;中大通元年太歳巳酉の年、藉莫と道猶は景光・景煥にまみえ、母子は鄱陽王の世子に侍従して西上し、安浦寺に敬って釈迦像一躯を造る。” 鄱陽王世子簫笵は梁武帝の第九弟簫恢の子で、父子二人とも曾て益州刺史で、” 鄱陽王の世子に侍従して西上し”に依り、造像主の道猶母子が建康から来たことが知れる。この時期、北朝その他の地域で、露胸通肩式佛衣を見ることはほぼない。
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 以上の情況から、青州地区の北朝の一、二期の上衣搭肘式佛衣と露胸通肩式佛衣は、其の造像形態と佛衣形式が四川成都地区と相似で、関係する研究から推測して、成都地区の造像の淵源は建康から来たか、或は更に推測を一歩進めて言えば、青州地区は成都地区佛衣類型を南朝の文化の中心建康と言うこの同一の源頭の影響を受入れたのだろう。その他、上衣搭肘式佛衣が北朝でかなり普遍的で、露胸通肩式佛衣は主要には山東地区で見られるのは、山東地区と南朝は更に一歩進んだ関係から来ることの反映と言えよう。
 青州地区北朝三期の佛衣類型は、露胸通肩式が引き続いて、同時に通件式と袒右式も流行する。佛衣は軽く薄く身体に貼り付き、一つは雕飾衣紋で、もう一つは衣紋無しである。造像形態は単尊円雕式が主である。
 露胸通肩式は、この期の北朝その他の地域特に西部地区でも多く見られ、例えば天保元年(550)に開鑿した安陽小南海中窟立佛、河南博物館蔵天保十年(559)劉紹安造像碑、鄭州市博物館蔵天統三年(567)比丘宝進造像、麦積山石窟、須弥山石窟の北周造像等。但し東部地区造像の佛衣は、軽く薄く身体に貼り付き、西部地区は、むしろ寛くゆったりとした造型で、大体は文化の差異に依る。

 通件式と袒右式は典型的な印度佛衣形式で、佛衣は軽く薄く身体に貼り付き、雕飾の細密衣紋が規則的に排列され、これらの特徴はグプタ期(4~6世紀)中印度マトラ芸術の特徴風格である(図3-1-12:1);佛衣が軽く薄く身体に貼り付き、衣紋無しの特徴は、グプタ期の中印度サールナート芸術の風格に相似である(図3-1-12:2)。
(注;サールナートは、釈迦が初転法輪を行ったとされる鹿野園もある)
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 此れに拠り、青州地区北朝三期の露胸通肩式佛衣は南朝伝統の要素を保持し、通肩式と袒右式は印度佛衣に則り、同時に3種の佛衣は、軽く薄く貼体で、雕飾衣紋或は衣紋無しは又グプタ期の中印度の2種の芸術特徴を吸収している。成都地区の露胸通肩式と通肩式佛衣は衣紋が細密で、排列が規則的、佛像は螺髪があり、その特徴はグプタ期のマトラ芸術の風格特色を持つ。見たところ青州地区と成都地区はやはり同一の源頭建康の影響を受けた可能性がある。
 青州地区の北魏末―東魏時期、上衣搭肘式と露胸通肩式佛衣は南朝と密接で、南朝文化中心の建康の影響を受けたのかも知れない;北斉時期の露胸通肩式佛衣は南朝の伝統を保持し、通肩式と搭肘式佛衣は印度の影響で、同時に、3種の佛衣は軽薄貼体、雕飾衣紋或は衣紋無しは同様に印度の影響である。印度の影響は、およそ建康を経て山東地区に伝わった可能性がある。

三 南北朝時期の青州地区
 以上北朝佛像の出土地点は大体青州・斉州・光州と冀州東部で、青州・斉州と光州は、今の山東省北部で、冀州は今の河北省東南部にあたる。青州は今の青州市、高青県、博興県、広饒県、臨淄県、臨朐県、昌邑県、諸城市等;斉州は、今の済南市を含め、章丘県等;光州は、今の青島市を含め、莱陽市等;冀州は、恵民県、無棣県等と、隣接する斉州と青州西北部である。《晋書・地理志》《宋書・州郡志》に拠ると、上述の地点は、大体西晋に含まれ、劉宋期の青州の範囲内である。西晋青州の“統郡六、県三十七、戸数五万三千”、劉宋青州は“領郡九、県四十六。戸数四万五百四、人口四十万二千七百二十九”。
 西晋滅亡後、青州は前後して、後趙、前燕、前秦、東晋、南燕等の政権が統治し、東晋安帝の義煕五年(409)、劉裕が南燕を攻め、義煕六年(410)2月南燕が滅亡、青州は東晋の版図に入り、“長史の羊穆之を留めて青州刺史とし、東陽城を築きここに居住した”。劉宋が東晋に取って変わり、青州は劉宋に属す。北魏皇興三年(469)魏将慕容白曜が東陽を攻略、青州が初めて北魏の版図に入る。410年から469年、青州地区は南朝東晋の治下半世紀を超える。

 青州の佛教活動は約3世紀に始まり、高僧佛図澄の言う臨淄城内に阿育王寺塔や、西晋太安元年(302)の寧福寺建立がある。劉宋時期は孫泰寺、白苟寺及び“佛堂”と称される元劉善明宅、これは北斉期の南陽寺で、唐代に龍興寺と改称された。北魏時期には、史伝と金石に記録された青州の寺院は七級寺を含め、建安寺、皆公寺、馬鳴寺、吉祥寺、延祥寺、施福寺等。北斉期は、南陽寺を除き、大業寺等。
 青州が北魏に入る前、其の地の佛教は教学、教法は晋宋と同じである。多くの名家の子弟が出家して教えを受け、経典を講義、読経した。例えば琅琊の竺法深、釈道宝、臨淄の釈普明、渤海の釈僧遠、斉の釈法晤、青州の釈法申、東莞の釈宝亮、楽安の釈僧密等である。江南の観音の効験が流行すると、青州も信奉する所となる。栖霞山石窟の創始者高士に明僧紹は斉郡平原の人である。これら種々の情況は青州の佛教が南方と密接な関係が有ることを表している。
 文献が記す青州佛教と南方の関係を除いても、青州地区の北朝墓葬の発掘資料は、南朝から影響が出ていること示している。例えば臨朐冶源鎮海浮山南坡の北斉天保元年(550) 崔芬墓、済南旧城南東八里洼の北朝墓は、皆壁面の絵に人物画像屏風の壁画を特徴とし、それは明らかに南方で早くから流行の”七賢”画像である。青州地区の北斉墓中の副葬器物はも、南朝造型の特色のある物品で、例えば淄川区和庄墓中出土の青釉蓮花尊は、その全体の造型は湖北省武漢市の南朝墓出土の蓮花尊に近似する。

 青州は海岸に面し、南方交通は海路が便利である。東晋義煕八年(412)、高僧法顕が印度から帰った時、風に流されて青州長広郡牢山(今の青島崂山)南岸に漂着した。長広郡太守の李嶷は佛法を敬信し、“聞く所では、沙門は経典と佛像を持って乗船し海を渡って至った、私は海岸に行って、経典と佛像を迎え、郡役所に帰る。商人は揚州に行かせ・・・・・(法顕は)思うままに南下して都(建康)に向かう”。五世紀初、印度の高僧佛駄跋陀羅(359-429)もベトナムから乗船して北上、青州東莱郡(今の東掖県)で上陸した
。 南朝梁の武帝(502-549在位)の時、領内は基本的に50年間安定し、扶南や印度の僧が相次いで海を渡って来て、南朝の寺院は全盛であった。佛像の供奉に対し、印度の形制をたどることが重視されるようになり、荊州の長沙寺の金像の梵文に“アショカ王が造る所”とあり、荊州大明寺のウダヤナ王の栴檀像は、武帝が天監元年(502)この像が入国する夢を見て、天監十八年(519)扶南国に遣使して印度のめでたい栴檀像を送らせた。この故にグプタの薄衣貼体様式の佛像が江南で盛んになった。

 青州の歴史地理、佛教の状況、墓葬壁画と器物の風格、海上交通等の内容は、倶に南朝との密接な関係を示す。青州北朝時期の佛衣類型は成都地区と比較的多くの相似を持ち、梁武帝時期からの印度佛像の再度の流行を記載して来ると、二者共同して南朝文化中心の建康の影響を受入れた、間違いの無い可能性が在り、新しい文献或は考古資料で今一歩支持されるのを待っている。


次回は、山東地区隋唐佛衣




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# by songofta | 2017-02-15 21:00 | 旅と地域

194 青州地区北朝佛衣類型

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第三章 山東地区佛像の着衣

第一節 山東地区北朝佛衣

20世紀70年代以来、山東省博興、無棣、諸城、高青、邹県、章丘、青州、広饒、恵民、昌邑、臨胊、青島、済南等々で度々北朝佛教の造像が出土し、石製や銅製、白陶などの材料で、数量、造型は優美、彩りは精緻で、学術界に上述したおおよそ西晋・劉宋時期の青州域の佛教造像の広範な関心を引き起こした。特に1988年から1990年諸城南郊でスポーツセンター建設時に、300件を超える北朝石像が出土し、1996年に青州龍興寺遺跡から400余件の北朝の石造を主体とした造像が出土し、青州地区の佛教造像が更に注目を浴びた。関係する主要な研究成果は、以下の通り;「山東博興出土の銅造造像を語る」「山東地区北朝佛教造像の初期探査」「山東地方東部の造像考――特に諸城出土佛像を中心として」「南北朝時期の青州考古について考える」「青州城考古略」「龍興寺の沿革」「青州龍興寺窖蔵所から出た佛像の幾つかの問題」「青州龍興寺造像の芸術的成就――青州背屏式造像及び北斉“曹家様”を論ず」「山東青州北朝石佛像総論」「雕刻の妙諦を尽くし世間の眼を騒がす――青州佛像断想」「青州地区北朝晩期石佛像と“青州風格”」「山東早期佛教造像考――劉宋から北魏時期」「青州北斉石造像の考察」「山東地方に於ける北斉如来立像に関する一考察」等。
 これらの研究は異なるレベルで造像中の佛衣類型の問題に触れているが、ここではこれらの基礎の上に出土する数が多く、佛衣の保存良好な石造像を主とし、青州地区の北朝佛衣類型の進展系統を分析し、その佛衣類型の変化の脈絡を今一歩深く検討する。

一 青州地区北朝佛衣の類型
 青州地区北朝佛衣は主要に、上衣搭肘式、露胸通肩式、通肩式と袒右式の4種である。以下に造像の異なる形態を基に、背光式(造像碑を含め)と単尊円雕式に佛衣類型を分け、その内、背光式は主要に紀年造像を選択する。

1.背光式造像(造像碑を含む)
 この種の背光式造像形態の佛衣は、上衣搭肘式と露胸通肩式を主とする。
上衣搭肘式佛衣: 上衣は身体の後ろより両肩を覆い、右衣の角は横に腹部を通って左肘に掛かる;中衣と上衣の覆う形式は一致する。比較的多くは裾端右側に、上衣の内層に衣の角が露出する。佛衣外形は二分式。
Ⅰ式: 佛衣は寛く緩やかで、裾端は外に膨らむ。神亀元年(518)孫宝憘造像、正光四年(523)博興利城村造像、正光六年(525)張宝珠等造像、正光六年(525)王世和等造像、考昌三年(527)比丘道休造像、考昌三年(527)六十人共造石像、考昌三年(527)比丘僧慶造像、考昌三年(527)邑義六十人等造像、永安二年(529)韓小華造像、永安二年(529)道□夫妻造像、永安二年(529)王淙等造像、永安三年(530)比丘恵鋪等造像、永煕二年(533)青州段家庄造像、天平四年(537)永寧寺比丘造像等(図3-1-1)。
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Ⅱ式: 佛衣は狭く削り、例えば底端はやや内に収める。天平四年(537)比丘道玉等造像、興和三年(541)章丘張官村造像、武定二年(544)路文助兄弟造像、武定四年(546)比丘恵愍造像、武定八年(550)程旿造像等(図3-1-2)。
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・露胸通肩式佛衣。上衣は身体の後ろより両肩を覆い、右衣の角は胸から“U”字形で前を巻いて通り左肩に掛かる。あるものは裾端の右側に、上衣の内層に衣の角が露出する。佛衣の外形は二分式。
Ⅰ式: 佛衣は寛くゆったりして、裾端は外に膨らむ。例えば永安三年(530)賈淑姿造像、天平三年(536)張河間寺尼智明造像、天平三年(536) 邢長振造像等(図3-1-3:1~3)。
Ⅱ式: 佛衣は狭く削り、裾端はやや収める。例えば武定元年(543)劉天恩造像、武定三年(545)士継姿造像、武定四年(546)夏候豊珞造像等(図3-1-3:4,5)。他に天保三年(552)僧済本造像(図3-1-3:6)は、主尊は坐像で、ここに列べるべきでは無いが、ほぼこの類型中のものだ。
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2.単尊円雕式佛像
 この種の単尊円雕式造像の形態の佛衣は、露胸通肩式、通肩式と袒右式が主で、佛衣の最も主要な特徴は、軽く薄く身体に貼り付いている事である。この3種の佛衣類型は又2種に分けられ、一類は雕刻で衣紋を飾り、もう一類は衣紋が無い。
雕飾衣紋の露胸通肩式佛衣;覆う形式は背光式(造像碑を含む)と同じ。例えば青州龍興寺、博興龍華寺、青州法海寺、済南県西巷、臨胊明道寺等出土の造像(図3-1-4:1~9)。有るものは左肩に衣の固定用鈎紐が出現する。
・雕飾衣紋の通件式佛衣;外層の上衣は両肩を覆い、右衣の角は頚を巻いて左肩に掛かる。例えば青州龍興寺等出土造像(図3-1-4:10)。
・雕飾衣紋の袒右式佛衣;上衣は身体の後ろより両肩を覆い、右衣の角は右腋を巻いて下を通り左肩に掛かる、右肩露出の様式。例えば青州龍興寺、博興龍華寺、臨胊明道寺等出土の造像(図3-1-4:11)。
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・衣紋無しの3種佛衣;その覆う形式は雕飾衣紋の佛衣と同じ。例えば青州龍興寺、博興龍華寺、臨胊明道寺、諸城南郊、青島法海寺等出土造像の露胸通肩式佛衣(図3-1-5:1~3)、通肩式佛衣(図3-1-5:4~7)、袒右式佛衣(図3-1-5:8~10)。
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 以上の背光式(造像碑を含む)紀年造像の佛衣類型を帰納して分類すると表3-1-1の様になる。
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 表3-1-1の中の第一組の上衣搭肘式佛衣と露胸通肩式佛衣はⅠ式で、第二組のⅡ式とは区別され、造像の紀年を根拠にすると、第一組は一期となり、およそ北魏末-東魏初(約518-537)で、第二組は二期となり、およそ東魏初-東魏末(約537-550)。第三組は三期で、およそ北斉時期(550-577)となる。

 単尊円雕式造像;高青出土の武平五年(574)高次造像は背光式立佛三尊で、佛衣は軽く薄く身体に貼り付き、衣紋を雕飾し単尊円雕式造像中の雕飾衣紋の佛衣造型と近接している。衣紋無し造像は国内で余り見かけず、いま知られるのは北斉天統二年(566)董丑造像(図3-1-6)で、背光式立佛三尊で、来源は不明、原存は少林寺和尚の墓地で、現在少林寺碑廊に在り、単尊円雕式造像中の衣紋無し佛衣造型はこれと相似である。この故に、単尊円雕式造像の露胸通肩式、通件式と袒右式佛衣は、主要に三期に帰納できる。
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 青州地区の佛衣類型の変化は次の如くである。一期はおよそ北魏末-東魏初(約518-537)で、造像形態は背光式(造像碑を含む)が主で、佛衣類型は主要に上衣搭肘式佛と露胸通肩式で、佛衣は寛くゆったりとし、裾端が外に膨らむ。
二期は、およそ東魏初-東魏末(約537-550)で、造像形態と佛衣類型は基本てきに一期を踏襲するが、佛衣は狭く削られ、裾端はやや収められ、身体に貼り付く趨勢が出現する。
三期は、およそ北斉時期(550-577)で、造像形態は単尊円雕式が主で、佛衣類型は継続する露胸通肩式を除き、同時に流行する通件式と袒右式は、佛衣が軽く薄く身体に貼り付き、一つは雕飾衣紋で、一つは衣紋無しとなる。
 山東地区に現存する五尊の佛像は、身高5,6mの丈八大石佛で、2尊は臨淄西天寺(現在、臨淄石刻館)(図3-1-7:1、2)、其の中の1尊は康山寺から移したもの、2尊は原在が臨淄龍泉寺で現在青島市博物館(図3-1-7:3、4)、1尊は博興興国寺にある(図3-1-7:5)。其の中で博興興国寺の大佛の年代はおよそ東魏初にあり、遺跡内に現存する明代景泰元年(1450)《重修興国寺紀》碑に拠れば、興国寺は東魏天平元年(534)に建立され、《博興県志》にあるように“丈八佛石像は城東南の旧北塞社興国寺内にあったもので、廃寺後石像は露座で屹立していた。造像年月を考える手懸りがないが、興国寺の建立と同時かも知れない”。この5尊のダウ物の佛衣は上衣搭肘式で、佛衣は寛くゆるやかで、裾端が外に膨らみ、北魏末-東魏初(約518-537)の佛衣の特徴と同じで、一期の中に帰納出来る。
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 済南付近の北朝磨崖窟龕は、黄石崖と龍洞石窟が主で、黄石崖は7ケ所の北魏末と東魏初紀年の佛像で、最早は北魏正光四年(523)、最晩は東魏興和二年(540);龍洞は“天平四年(537)紀年。黄石崖大窟内及び龍洞東洞口内の佛像(図3-1-8)は、上衣搭肘式佛衣で、佛衣は寛くゆったりとして、裾端は外に膨らみ、北魏末-東魏初(約518-537)の佛衣の特徴と同じで、一期の中に帰納出来る。
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次回は、青州地区北朝佛衣の源流



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193 普陀山背光式造像の着衣

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第三節 普陀山法雨寺の背光式造像着衣
 1920-1929年常磐大定は、前後5回我が国の古代文化遺跡の広範な調査研究を行った。第3回の1922年10月26日午前浙江省普陀山調査の時、法雨寺玉佛殿内で南北朝時期の背光式三尊玉像1件を発見した。常磐大定と関野貞共著「支那佛教史跡」と「支那文化史跡」中に収められたこの造像の写真(図2-3-1)、二氏の「支那佛教史跡評解」及び「支那文化史跡解説」に簡単にこの造像が玉佛殿内左側の小龕に在り、それは普陀山中で最優秀なものとしている。

一 玉佛殿と背光式造像
 法雨寺は普陀山光煕峰下に在り、明万暦八年(1580)大智禅師建立で、三十四年(1606)勅により護国鎮海禅寺となり、清康煕三十八年(1699)法雨禅寺の名を賜った。山志(注;南海普陀山志)に記す康煕・乾・道光帝時期の法雨寺の主要建築は、天王殿、大円通殿、大雄宝殿、その他に中軸線に沿って2座の小殿がその間に挿まれ、1座は康煕帝の御碑亭(原名を万寿亭)で、円通殿と大雄宝殿の間に建てられ;もう1座は雍正帝の御碑亭で、後に玉佛殿に改められ、円通殿の前に建つ。「支那佛教史跡評解」と「支那文化史跡解説」に記す法雨寺の中軸線は、天王殿、玉佛殿、大円通殿、寿亭、大雄宝殿などで、文中に採用した伊藤忠太が描く法雨寺平面図には、玉佛殿と寿亭は均しく御碑亭として描かれ、この図は伊藤忠太が1907年に考察した普陀山の絵と言うべきである。伊藤忠太が「南海普陀山」の一文に記す法雨寺建築とこの図の名称は一致し、当時御碑亭は未だ玉佛殿に改名されなかったようだ。この文末に山中には多くの新造像があり、古佛像が破却されたことを略記していて、未だこの件の珍品に言及していない。上述の情況から見て、“玉佛殿”の名称と背光式造像を法雨寺蔵となったのは、およそ1907年移行1922年の間と推測される。

二 背光式三尊立像造像
 この背光式立佛三尊造像は早くには存在せず、そのため“玉像”と呼ばれるが、白石造像のためかも知れない。その寸法や、金箔彩色等の情況からは、どちらもはっきり判らない。今、写真を基に造像の内容を描写してみる。
 写真(図2-3-1:1)注の後ろ面は木板で、前には柵が有って造像の底端部分を隠していて、蓮座下面の情況が未だ良く判らず、背光式造像が木龕中に安置されていることが知れる。その造型は、調和し、雕刻は精緻で、背光尖り部と二菩薩髪髻がやや損傷するが、その他は保存が完整している(図2-3-1)。
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 背光は大きな蓮弁慧で、尖頂両側のアールはやや緩やか。背光の縁辺と上半部は地を削って火炎紋を陽刻し、上半部の火炎紋上に浮彫で半円形排列の龍と飛天を彫る。龍は半円周の中間に置き、身体は飛舞状、爪は三指、竜頭はふり向き、左爪を佛の頭光に伸ばして押さえ、頗る力強い。龍の両側上下に各二体の飛天が、対称に配置され、形体は清痩、姿態は飄逸である。頭髪は束ねてY字に作り顔は基本背光と同方向を向く;上体はやや真っ直ぐで、片手を挙げ、片手を腹の前に置く;腹と膝の間は内凹し、スネは後ろに折れて、下半身の裙は足先を覆う。腿部には褶曲紋、裙裾端は鋭角に上に翻る;領巾の中段は尖円状で、両側の領巾は肩を巻いてから中段の両側に翻る。上に並ぶ両飛天は両手に捧げ物を持ち、上身は裸体で、尖円の頂点の廻りに載せ、下に並ぶ両飛天は捧げ物がなく、上身は襟の交叉したような衣を着る。
 龍の下方は立佛の頭光と背光である。頭光は円形、内円には一廻りの細長い蓮弁がある。外向きに3廻りの弦紋があり、弦紋の外に寛い帯が一廻りし、内に忍冬唐草を飾り、一絡みの間に二つの枝が背中合わせに忍冬の4弁の葉を出し、最上方の長い葉は絡んだ枝の上に纏わりつく、背中合わせの忍冬の間は蓮葉或は三葉形の花が在る。(図2-3-2)。頭光の下方は、繰り返し圧を掛けて楕円になったような背光で、縁に沿って寛い帯状が在り、内側には二組の蓮が茎と葉を上に伸ばした図案になっている。佛足下の蓮座は、上が小さい円台で、下は尖円の蓮弁となる。
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 佛像は清痩、肉髻は柱状に隆起し、髪は渦巻き紋、両耳は頬に貼り付く。左臂は曲げて胸の左に置き、掌を外に向け、指は下に向く;右手は胸の右に貼り付き、掌を外に向け、指は上に向く。両腿は分かれて立つ。佛衣は上衣搭肘式で、上衣は身体の後ろより両肩を覆い、右衣の角は胸より腹の前を横に通って左肘に掛かる;中衣と上衣は覆う形式が相似である。上身は僧祇支を着て、下身は足の表まで垂れて下衣とする;中衣は胸部で帯を締めて下に垂らし、下端の右側は上衣と下衣の間の衣の角は露出した中衣かも知れない;上衣は両肩を覆って、右側の衣の縁が中衣の帯を締めた所の少し下で折れて、左の前腕の上に掛けて外に垂らす。両肩と腹腿の間の衣紋は双陰線を作る。 佛の両側の飛天の下を二菩薩の頭光とし、頭光は円形、内円の中には一廻りの蓮弁、外に向けて3廻りの弦紋。菩薩の足下の蓮座は上を小円台、下は尖円の蓮弁を飾り、蓮弁は宝装、即ち花弁の中間は背が起ち、両側が楕円形に膨らみ、蓮の下は一段のただの円台となる。

 菩薩の形象もまた清痩、額の上の頭髪は真ん中で分け、頭頂で束髪に結び、頂部は欠け、頭髪は耳の両側に沿って垂れ肩臂に至る。片手は胸側に貼り付き、掌は内に向く、宝物を持つようだ;片方の臂を身体側に曲げ、手に桃形の物を提げる。両の腿は分かれて立つ。菩薩は襟の交叉する大袖を着て、胸腹部で帯を締め、長い帯を下に垂らし引掛けた領巾に隠され、大袖は膝下まで垂れ下がる。引掛けた領巾は両肩に掛かり、肩臂の所で鋭角状を呈し、その後大袖に沿って内側に垂れ、両膝の所で折れ上がり、両臂に掛かって体側に長く蓮座の中程まで垂れ、右側の菩薩の引掛けた領巾の右側は繰り返し外に圧され、左側の菩薩の引掛けた領巾は左側に繰り返し外に圧される。

三 造像の地域的特徴
 目下の所、知られている紀年の在る最も早い背光式立佛三尊像は、太和二十三年(499)比丘僧欣造の弥勒像で、背光上方と背光・頭光中に陰線を浅く刻む;河南省汲県正始二年(505)造像の風格と相似で、この種の陰線の浅刻は北朝の地域特性を反映していると言える。

 1996年10月山東省青州市窖蔵出土の“北魏太昌元年(532)恵照造の弥勒像”(図2-3-3:1,2)は、その背光に陰線で火炎紋を刻み、火炎紋上に半円形排列の龍と飛天を浮彫りする;立佛の頭光は3つの弦紋と、寛い帯の中に忍冬唐草を飾り、一絡みの間に2枝の背向した忍冬が在り、最上方の長い葉は枝に絡む(図2-3-2:2);佛、菩薩飛天の姿態と法雨寺造像は相似で、佛衣の残存する上部の様式も法雨寺と同じである。1920年前後、青州西王孔庄の古廟発見の“北魏正光六年(525)張宝珠等造像”(図2-3-3:3)、題材の配置、造像の特徴、装飾紋様方面、特に佛衣下端の右側に衣の角が在り、菩薩が襟の交叉した大袖を着て、蓮座の蓮弁の下が一段の只の円台である等、法雨寺造像と同じである。原山東省済南金石保存所蔵の“北魏神亀元年(518)青州孫宝憘造像”(図2-3-3:4)の背光上方の浮彫、佛像の頭光の弦紋及び佛衣様式も法雨寺造像と相似である。
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 青州済南佛教と南方の関係は密接であって、同じ佛教学理を説き、明らかにする教法は、晋宋(注;東晋、南朝宋)と同じ気風であった;469年に青州済南が北魏に組込まれる前、その地の造像は長江東部と同じで、多くは銅製木製で、石製はわずかであり、青州北魏末のこの種の背光式造像は、南朝の特徴を反映している。
 南朝造像は、多く成都地区で発見され、佛衣の下端右側に衣の角がある形式が比較的よく見かけ、西安路出土梁天監三年(504)造像(図2-3-4:1)、商業街出土梁天監十年(511)造像(図2-3-4:2)、万佛寺梁普通四年(522)康勝造像、中大通元年(529)道猶母子造像、中大通五年(533)上官□光造像、大同三年(537)侯朗造像等の佛衣は皆この特徴を持つ。天監三年(504)造像の背光の上部は惜しくも残毀し、佛像頭光の弦紋及び佛衣様式は青州と法雨寺造像と同じである。天監十年(511)造像の背光上方の浮彫及び佛衣様式は青州と法雨寺と相似である。
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四 造像の年代推測
 常磐大定は、法雨寺の背光式立佛三尊像の年代を南北朝か北魏代とした。近年、考古材料が大量に刊布され、佛教考古研究が深まるにつれ、なるべく今でも依拠する文献に欠乏するが、背光式造像の題材配置や造像の特徴、装飾紋様等の内容と年代が比較的頼れる実物材料を比べて、いま一歩この造像の具体的な時間範囲を推断してみよう。
 東晋劉宋時期の造型芸術の特徴は清秀な形象で、宋斉の間に至り清痩で風尚が優れ、簫衍が梁を建国後、南朝の気風は重々しい神韻な作風に変わり“その肉を得て”、人物形象はともに豪勢で強健な特徴を持つ。これを青州及び成都の背光式造像中の形象と較べると、法雨寺造像は依然として清痩な造型に向かう趨勢で、法雨寺造像の下限はおよそ遅くとも梁初と言うことができる。
 1968年に整理された丹陽胡橋呉家村の南朝墓装から、発掘者は墓室の構造や、磚紋壁画、副葬の器物、周囲の環境等から、墓葬の時代を簫斉時期(483-502)と推断したが、墓室中の墓磚装飾の忍冬唐草は、一絡みの間に2枝の背向した忍冬があり、長い葉が唐草の上に絡んでいた(図2-3-4:3);天人形象は清麗飄逸(図2-3-4:4)である。四川茂県永明元年(483)石造像の肉髻は柱上隆起を呈し、両耳は頬に貼り付き、佛衣の下端は大げさに外に広がらない(図2-3-4:5)。南京栖霞山石窟の開鑿開始の永明二年(484)以降、建武四年(497)或は永仁二年(500)の前、例えば22、24窟の菩薩の蓮座蓮弁下方は只の円台(図2-3-4:6)で、佛像の頭光装飾は蓮弁と弦紋(図2-3-4:7)である。これらの内容は、均しく法雨寺造像と相似で、法雨寺造像の上限はおよそ簫斉時期と言える。
 上述の比較分析を総合すると、法雨寺の背光式造像の時代はおよそ斉梁の境と推断出来る。


次回は、青州地区北朝佛衣類型




  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
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# by songofta | 2017-02-08 22:02 | 旅と地域

192 成都地区南朝佛衣の時代区分

5-8世紀漢地佛像着衣法式

二 成都地区南朝佛衣の時期区分

 以上の成都地区南朝佛衣類型を帰納して分類すると、表2-2-1となる。
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 表中、第一組の坐佛と立佛はA型Ⅰ式;第二組は坐佛と立佛はA型Ⅱ式で、坐佛B型と立佛C型が出現し、更には坐佛と立佛D型Ⅰ式がある;第三組は立佛A型Ⅱ式、坐佛A型Ⅲ式、C型及びD型Ⅱ式;第四組は、阿育王立像D型Ⅱ式。
 19件の紀年造像に基づき、四組の年代序列が大一組から第四組に向かって発展するのが知られる。即ち成都地区の佛衣類型は4つの発展の階段があり、第一期は簫斉時期頃(479-502)、第二期が梁前期頃(天監元年・502~中大通・529-534)、第三期が梁後期頃(大同元年・535~太清・547-549)、第四紀が梁末~北周廃仏頃(太清・547~建徳三年・574)である。
 佛衣の特徴并びに造像の題材内容を結合し、もう一歩進めて成都地区の南朝石刻造像の時代を区分する。各期の佛衣と造像の特徴を概括すると、表2-2-2のようになる。
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三 成都地区南朝佛衣類型の来源と北朝佛衣の関係
1.簫斉時期頃(479-502)
 上衣搭肘式佛衣が主で、この種の佛衣と炳霊寺169窟第6龕西秦建弘元年(420)搭肘式佛衣(図2-2-13)と関連が在るようだ。搭肘式佛衣は上衣外覆類に属し、只上衣の覆う形式の表現上、そして成都地区の上衣と中衣の覆う形式に則り表現している。但し、二者の上衣は皆両肩を覆い、右衣の角は左肘に掛かり、近い所に在る。西秦の統治者乞伏炽磐(注、鮮卑人)は佛教を尊崇し、曾て内外の名僧にお願いと供養を行い、西秦佛教の発展に外界の多くの影響を受けさせ、北方佛教の中心長安との関係は更に密接だったように見えるので、炳霊寺169窟第6龕の佛衣様式は、長安からのものかも知れない。
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 成都地区の上衣搭肘式佛衣は下裾を三分し、これは簫斉時期の栖霞山石窟22窟正壁の背光上の千佛佛衣の裾端と相似で(図2-2-14)、二者の間にある種の関連がありそうだ。関係性の研究から推測すると、成都地区造像の淵源は、主要には建康から来ている。
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 北朝の上衣搭肘式佛衣で下裾が三分或は四分するのは、西安市博物館蔵太昌元年(532)造像碑、麦積山石窟の北魏163、122、142窟佛像等がある(図2-2-15)。
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2.梁前期頃(天監元年・502~中大通・529-534)
 この時期の佛衣様式は最も盛んである。その中で、上衣搭肘式佛衣は、多くが右スネの衣の間にもう一つの衣の角を持ち、現存で最早は紀年が天監三年(504)だが、この衣の角は持たない。この2種形式は、北朝では最早が雲崗石窟の洛陽遷都 (494) 頃開鑿の6窟及び11と13窟の追加開鑿の造像等である。(図2-2-16)
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 上衣重層式佛衣は裾端が二分し、左肘に掛かる衣の角に小さな紐飾りを結ぶ工法で、判断するにそれは大体普通(507-527)から中大通(529-534)年間に流行した。この種の佛衣は多く北魏龍門と巩県石窟に見え、胡太后時期(516-528)の佛像であり、宾陽中洞、普泰洞、魏字洞、考昌三年(527)皇甫公窟及び巩県1,4窟等である。(図2-2-17)
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 以上2種の佛衣は成都地区と北魏の平城、洛陽出現或は流行の時間はほぼ近く、成都地区と北朝東部は、同一の源から影響を受け、それは長江下流の佛教中心建康を指している可能性がある。
 万佛寺露胸通肩式佛衣造像銘に記す;“中大通元年(529) 太歳己酉に,藉莫と道猶は景光・景煥に見え、母子は鄱陽王の世子に侍従して西上し、安浦寺に敬って釈迦像一躯を造る。” 鄱陽王世子簫笵は梁武帝の第九弟簫恢の子で、父子二人とも曾て益州刺史で、” 鄱陽王の世子に侍従して西上し”に依り、造像主の道猶母子が建康から来たことが知れる。露胸通肩式佛衣の最早は栖霞山石窟の簫斉時期19,22、24窟等に見える(図2-2-18:1)。
 成都地区露胸通肩式佛衣と通肩式佛衣は、衣紋が細密で、排列が規則的で、螺髪があり、これらの特徴はグプタ期(4-6世紀)の印度マトラ芸術の風格特色で(図2-2-18:2)、梁武帝が再度要請した天竺佛像の影響に関係があり、伝来は恐らく海南諸国を経由して建康に入り、再度成都地区に至った。
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 梁武帝は数回皇室の成員を益州刺史に送った。例えば、武帝の甥簫淵藻(約504-510出任)、武帝の子簫憺(510-514出任)、武帝弟簫恢(514-518出任)、武帝の子簫綱即ち簡文帝(520任)、簫藻弟淵猷(出任時期不詳)、簫恢の子簫笵(約526-535出任)など。その多くは佛教を特別愛好し、しばしば高僧を同行した。例えば簫淵藻は益州在任時の天監五年(506)石佛を造り、高僧僧副が簫淵藻に随行して蜀に入り法を弘めた;簫憺在任の天監十三年(514)、吐谷渾の使者が益州に九層佛寺を建てた;簫恢は成都に亡き母の為孝愛寺を建てた;簫憺と簫恢は益州に高僧の往来が途切れることがなかった等。これはこの時期成都地区の佛衣類型が多様であった重要な背景かも知れない。

3.梁後期(大同元年・535~太清・547-549)
 佛衣様式は主要に梁前期を踏襲している。坐佛の裾は座の前に垂れて覆う事無く、栖霞山中大通二年(530)28窟の佛衣(図2-2-19)の裾端の処理に手法が相似で、この種の変化は建康の影響を受けたかも知れない。
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 梁後期、武帝の第八子武陵王簫紀が蜀地を17年に渡り治め、やや安定した政治局面と穏やかな社会秩序をもたらした。“大同三年(537)、都督として、益州刺史・・・・・・簫紀は蜀に在り、寧州(注;雲南省東南部)と越嶲郡(今の越西、四川省南部)を創建し、献上する方物は前任の十倍・・・・・太清初(547)、帝思うに、名画家の張僧繇(注、画竜点睛の故事で有名な画家)を蜀に派遣してその有様を描かせた。蜀に在ること17年、南に寧州、越嶲、西に資陵、吐谷渾を開く。内に桑塩鉄を発展させる功績を挙げ、外には遠方との通商の利をもたらした。”
 簫紀は又佛教を信仰し建康の高僧名師との交流も密であった。例えば大同七年(541)造弥勒像碑;揚州釈慧韶の、“梁武陵王は四川に出任し・・・・・・・蜀に至る。諸寺で講論し、道を開くこと川の流れのようであった”。揚州の釈宝海の、“蜀に帰って謝鎮寺に住し、講論を広く発展させ、武陵王紀は町を作り蜀の荒れ地を拓き、今までになく敬愛された。泊まるたびに、深遠な真理を語り合い、昼夜を忘れた”。“善図寺壁”の張僧繇の”天監年(502-519)中、武陵王は国侍郎、直秘閣知画事(注;いずれも梁の官名)、・・・・・武帝は佛寺を崇拝装飾して、張僧繇に命じて沢山これに描かせた”、又曾て江陵の天皇寺の為に《盧遮那仏像》を描き、更に《定光如来像》、《維摩詰》と《二菩薩》等の作品を描き、亦成都に佛画を流伝し、“唐益州城下の法衆寺に地蔵菩薩像を描き・・・・本像は張僧繇の描いたものだ”。
 梁前期と後期に流行の露胸通肩式と通肩式佛衣は、北朝にも比較的普遍的にある。東部地区の露胸通肩式は青州博物館蔵龍興寺北魏永安三年(530)、東魏天平三年(536)造像など(図2-2-20:1、2):北斉時、露胸通肩式と通肩式は並行し、青州博物館蔵龍興寺2件の紀年無し造像など(図2-2-20:3,4)で、薄衣が身体に貼り付く、共に印度グプタ期のマトラ芸術の風格特色を持つ。
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 西部地区の露胸通肩式は、北魏西安の碑林博物館蔵景明二年(501)四面造像、麦積山石窟17窟(図2-2-21:1)、西魏莫高窟大統四年(538)題記の285窟など(図2-2-21:2)。北魏の露胸通肩式と通肩式の流行は、露胸通肩式は西安碑林博物館蔵灞橋区出土紀年無し像と大象二年(580)造像、麦積山石窟141窟、須弥山石窟46窟(図2-2-21:3~6);通肩式は西安碑林博物館蔵武成二年(560)造像、麦積山石窟62窟等(図2-2-21:7,8)。
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4.梁末~北周廃仏(太清・547-549~建徳三年・574)
 阿育王立像が主である。その通肩式佛衣の衣紋排列規則と彫刻された螺髪形式は、共に中印度マトラ芸術の風格特色を持つ(図2-2-15:2)。
 梁武帝の時、多くの阿育王像を奉請したことがある。“荊州長沙寺のめでたい像は・・・・・・金の像で、長沙寺の僧が歓んで寺に迎えた。光輝く中に梵字で;阿育王を造る。梁武帝が聞き、都に迎え至り、大光明を放つ”。自ら《阿育王経》の翻訳に参与して、天監五年から天監十七年(506-518)の間、勅して扶南国僧の僧伽婆羅訳《阿育王経》を取り寄せ、“初めて阿育王経をめくった日、寿光殿に於いて、法座に身を屈めて臨み、その文を筆受した。”、阿育王像の粉本も扶南から来て、建康を経て成都に伝来したのだろうか。
 太清二年(548)侯景が謀反挙兵し、三年(549)梁武帝が崩御し、指標としてきた簫梁が滅亡する。553年西魏が武陵王簫紀を伐ち、四川を攻め取り、益州が西魏、北周のものとなる。“正統である”と見做された南朝文化が依然主導したのが、例えば万佛寺北周益州総管宇文招が造った阿育王像(562-565)は、西安路梁太清五年(551)阿育王像を完全になぞっている。
 これまで述べてきた様に、成都地区の南朝佛衣類型は、十六国時期の長安地区に関係が在る以外は、主要には都のあった建康との関係が緊密で、特に梁武帝の崇仏に関わる様式の影響に対応する所がある。南朝佛衣様式は、北朝の東西区域の発展と存在する時期の早い遅いや様式の多い少ないに差異が見られる。例えば東部地区と南朝流行の佛衣はほぼ同じ歩みをとり、西部地区は大略停滞;又、上衣重層式佛衣が東部地区で流行している時、西部地区では余り見かけない等等。これは、一面では影響のもたらされる来源が異なる事で説明出来るかも知れない。東部地区と成都地区は同一の源――長江下流の佛教中心地区、建康の影響で、西部地区はは成都地区を経るか、その他の区域から再伝来した;別な面では、東西の政治、経済、文化唐の先進と落伍に関係が在るかも知れず、陳寅恪先生の分析では、当時南北は3つの情況があり、“宇文泰は6鎮だけの武力で、陜西関中に割拠したが、山東・江東との3方面で対立していた時に、物質論的に言えば、その人力・財力は高歓(注;北斉の高祖)所轄の境域には遠く及ばないのは、固より言うに及ず;文化について言えば、北魏孝文帝以来の洛陽と洛陽を継承した邺都の法令制度と、荒れ果てて辺鄙な陜西関中と比べることができるだろうか。”と述べられている。



次回は、普陀山背光式造像の着衣


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# by songofta | 2017-02-06 22:20 | 旅と地域

191 成都地区南朝佛衣類型

5-8世紀漢地佛像着衣法式

第二節 成都地区の南朝石刻造像の佛衣

清末から20世紀末、成都地区は相次いで沢山の南朝仏教の石刻造像が出土した。并せてこの造像時代と淵源を探求する文章が沸き起こってきた。例えば「四川茂汶南斉永明造像碑及有関問題」「成都万佛寺出土佛像与建康仏教」「試論成都地区出土南朝仏教石造像」「四川南朝仏教造像的初歩研究」「成都地区南朝佛教造像研究」「関与中国成都地区的佛教造像――以520~540年間造像為中心」等。近年考古資料が刊行されるに従って、刑事される内容が益々豊富になって、特にその中で佛衣の保存が良好で、変化の脈絡がはっきりし、石刻造像比較検討の鍵となる要素になる。考古類型学の方法分析と佛衣様式を並行処理して、試しに成都地区の南朝佛衣類型とその反映する時期区分と源流に若干の認識を提示する。

成都地区では、これまで南朝佛教の石刻造像が、9度出土している。
 清末から20世紀50年代に成都市西北の万佛寺から30余件、四川省博物館院蔵。
 1921年茂県出土1件、四川省博物館院蔵。
 20世紀20年代成都市発見2件、四川省博物館院蔵
 20世紀80年代広元市出土3件、広元皇澤寺博物館蔵。
 1989年汶川県出土4件、汶川県文物管理所蔵。
 1990年成都市西商業街出土9件、四川省博物館院蔵。
 1994年彭州市龍興塔地宮出土1件、彭州市佛教協会蔵。
 1995年成都市西西安路出土8件、成都市博物館蔵。
 成都市西寛巷子曽発見3件、成都市草堂博物館蔵。

上述の南朝石刻造像中、佛衣保存良好なものは47件、万佛寺23件、茂県1件、川大蔵2件、広元1件、汶川3件、商業街8件、彭州龍興塔1件、西安路8件、その内紀年のある造像19件。

一 成都地区の南朝佛衣類型
 成都地区南朝佛衣は、主要に上衣搭肘式、上衣重層式、露胸通肩式と通肩式の4種である。その他に、佛像の頭髪の特徴が明確で、佛衣の分析時にその内容を付帯して、造像の特徴の認識が充実出来る。
・A型上衣搭肘式佛衣:上衣は身体の後ろより両肩を覆い、右衣の角は横に腹を通って左肘に掛かる:中衣は上衣と覆う形式が一致する。佛衣の下裾の変化に拠り、3分式である。
・Ⅰ式 坐像と立像で上衣の下裾が多く3分し、4分もある。茂県永明元年(483)造像碑、西安路永明八年(490)、商業路建武二年(495)と汶川の紀年無しの背光式造像(図2-2-1)など。頭髪は無い(著者注;本来、彩色の螺髪があった可能性は排除しないが、雕刻はされて居ない)。
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・Ⅱ式 坐像で上衣の下裾が2分される。 商業街の紀年無しの4件、万佛寺普通六年(525)と中大通三年(531)背光式造像(図5-2-2)等。頭髪は無い。
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 立像の上衣裾はやはり3分されるが、上衣はやや短い:右スネの2層の衣の間に多くは衣の角がある。背光式造像、例えば西安路天監三年(504)、商業街天監十年(511)、万佛寺普通四年(523)、万佛寺紀年無し、西安路中大通二年(530)、万佛寺中大通四年(532)、川大蔵中大通四年(532)、万佛寺中大通四年(532)(図5-2-3)、彭州龍興塔中大通五年(533)、西安路紀年無し、商業街紀年無し造像2件。
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 単体立像は西安路紀年無し、万佛寺大同三年(537)及び紀年無し造像2件(図2-2-4)。多くは 左肘に掛かる衣の角に小さな紐の飾りを持つ。髻は髪が無いものと螺髪とが並行する。その他、万佛寺出土の螺髪仏頭(図2-2-5)があり、身体量を推算すると、この単体立像と整合する。
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・Ⅲ式
 坐像で衣の下裾が座の前を覆わない。背光式が主で、西安路紀年無し三坐佛の中身、川大蔵大清三年(549)釈迦双身像の左身(図2-2-6)及び汶川紀年無し三坐佛の中身等。頭髪は無い。・B型 上衣重層式佛衣。A型上衣搭肘式佛衣の外面に又一重の上衣を覆う。重層上衣は両肩を覆い、左胸の衣の縁は3筋の線で、中衣・上衣・重層上衣とする:右胸は只中衣と上衣の2筋の線で、重層上衣は右肩を覆った後、右の衣の角は右脇より下方を巻いて左肘に掛かり、下裾は二分し、左肘に掛かった衣の角は多く小さな紐飾りを結ぶ。背光式は万佛寺紀年無し造像、単体佛は万佛寺紀年無し及び広元の紀年無し造像がある(図2-2-7)。頭髪は無い。
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・C型 露胸通肩式佛衣。上衣は身体の後ろより両肩を覆い、右衣の角は胸前より“U”字型を呈して左肩に掛かる。坐佛の衣の端は座の前を覆わない。背光式造像が主で、西安路大同十一年(545)(図2-2-8)と紀年無し三坐佛の左身(図2-2-6:1)。頭髪は無い。立像単体が主で、多くは右スネの2層の衣の間に一衣の角があり、左肩の衣の角に多くは小さい紐飾りを結ぶ。例えば、万佛寺中大通元年(529)及び紀年無し5件(図2-2-9)。万佛寺出土螺髪仏頭(図2-2-5)、体量の推算は単体立像に整合するかも知れない。
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・D型 通肩式佛衣。上衣は身体の後ろより両肩を覆い、右の衣の角は頚下より下を巻いて左肩に掛かる。多くは螺髪で、頭髪無しにはしない。坐佛は佛衣の裾端に坐り、立像は衣紋の並びが二分式である。
・Ⅰ型 坐佛の裾端は二分、汶川紀年無し単体組合せ式造像(図2-2-10:1)。立像の衣紋は、波と谷状に右側にあり、例えば、万佛寺紀年無し単体立像(図2-2-10:2)である。万佛寺出土螺髪仏頭(図2-2-5)、体量の推算は単体立像に整合するかも知れない。
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・Ⅱ型 坐佛の裾端は座の前を覆わない。例えば西安路紀年無し背光式三坐佛の右身(図2-2-6:1)。阿育王立像は衣紋の波と谷が中央にあり、頚下の衣紋は尖った状態で、両スネの間及び左手下方は規則的な縦紋で飾る。例えば西安路太清五年(551)像、万佛寺保定二~五年(562~565)像及び万佛寺紀年無し4件(図2-2-11)。
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万佛寺の2件の阿育王頭像は相似で、大きな螺髪、八字型の口ひげ(図2-2-12)で、体量を推算すると阿育王像に整合するかもしれない。
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次回は、成都地区南朝佛衣の時代区分


  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
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# by songofta | 2017-02-02 14:34 | 旅と地域