「地球の歩き方」では数行、団体旅行には無い、一人旅のガイド


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234 石作
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233 屋根、柱の制
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232 梁、額部材
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目次7 中国の古建築技法”以材為祖”

目次7 中国の古建築技法”以材為祖”

傳熹年 「日本飛鳥奈良時期建築中反映出的中国南北朝隋唐建築特点」
     220 飛鳥建築と”以材為祖” 1
     221 飛鳥建築と”以材為祖” 2
     222 飛鳥建築と”以材為祖” 3
     223 飛鳥建築と”以材為祖” 4
中国古代建築史 第三巻 (抜粋)
  第十章 建築著作と匠師
   第二節 《営造法式》所載の各主要工種制度
     224 用材の制度1 “材、分” 
     225 用材の制度2 “材、分”
     226 用材の制度3 ”材分”制の淵源  
     227 斗栱 1 斗、栱、昂     
     228 斗栱 2 下昂、上昂   
     229 斗栱3 組合せと変化
     230 斗栱4 鋪作の分布と分槽
     231 大木架構 殿堂式と庁堂式
     232 梁、額部材  
     233 屋根、柱の制 
     234 石作 
     235 瓦作と磚作  

中国古代建築史 第二巻 (抜粋)

  第二章 両晋南北朝建築

   第7節 仏教建築

     236 南北朝の仏教建築 1 仏寺形態の発展と変遷1
     237 南北朝の仏教建築 1 仏寺形態の発展と変遷2

     238 南北朝の仏教建築 3 仏塔の形式(1)

     239 南北朝の仏教建築 4 仏塔の形式(2)

     240 南北朝の仏教建築 5 洛陽永寧寺塔と登封嵩岳寺塔

     241 南北朝の建築技術 1 北朝の建築(1)

     242 南北朝の建築技術 2 北朝の建築(2)

     243 南北朝の建築技術 3 南朝の建築





     以下、続く





     ⇒ 総目次 
     ⇒ 目次1 日本じゃ無名? の巻
     ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻

     ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
     ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
     ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻

     ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服


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# by songofta | 2017-07-24 17:20 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

243 南北朝の建築技術 3 南朝の建築

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第二章 両晋南北朝建築
第11節 建築技術


(2)南朝建築の構成と構造情況の推測
 南朝建築は今まで、我々は最も簡単な図像さえいまだ見ることが出来ず、ただ南京地区の南朝諸大墓の羨道内の石門横木に平梁や叉手の形象が看られ、廊の構成を表しており、北朝の石室や石窟中に見るものと基本的に同じである(図2-11-26)。
e0309314_22500896.jpg
 南朝建築の最も重要な参考材料は、日本に現存する飛鳥時代建築である。日本の史書に記載する、538年(梁武帝大同4年、西魏孝静帝元象元年)仏教が百済より日本に伝来した。592年(隋文帝開皇十二年)日本で百済の木工匠が飛鳥寺を建て、後世この時期の建築を飛鳥式建築と呼んでいる。法隆寺の創建は607年(隋煬帝大業三年)で、670年に毀れ、現在の法隆寺は680年(唐高宗永隆元年)以後の再建である。但日本の学者の公認する所では、それは飛鳥時代の建築風格で建造されているとされる。飛鳥式建築は日本で最も早く出現した中国風格の建築で、以前の古墳時代の建築と甚だしく異なり、明らかに異なる体系に属していて、その発展はかなり成熟し、外来の文化で有ることは疑いがない。朝鮮半島の諸国中、百済は南朝との関係がかなり密であった。史書に記す梁武帝の大同七年(541)百済王は梁に仏経典や医工、絵師を求めた。梁武帝太清三年(549)百済の使者は建康に至り、侯景の乱で著しく破壊された宮室や町を看て、梁宮の端門で激しく泣いたといい、両国の往来の深さが知れる。現在法隆寺が所蔵する著名な仏像“百済観音”も伝説では南朝様式と言う。これにより、百済から日本に移った後、形成した飛鳥式建築は間接的に中国南北朝が源で有ることに疑いはなく、且つ南朝が源である可能性が大きい。この様に、南朝建築は図像や模型が全く存在しない今日、日本の飛鳥式建築は、間接的に南朝梁や陳時期建築の最重要の史料である。

 日本に現存する飛鳥時代建築は、法隆寺金堂、五重塔、中門、回廊と法起寺三重塔だけであり、合わせて5座、全て石積みの基台上の全木架構建築である。それらの架構は全て前に上げた第Ⅴ型で、即ち頭貫が全て柱頭の間にあり柱間を連結する部材で、柱頂で斗栱を直接承け、柱頭斗栱とし、2柱の間は頭貫上に又蜀柱を用いて中備えとし、上に柱頭の通り肘木を受け、縦架を形成し、上の屋根の荷重を支える。架構の特徴から看て、この種の木架構は実際には、上、中、下3層に重なって出来ている。下層は柱網で、柱頂の間に頭貫を架し、頭貫が矩形の框枠になって柱網を全体で1つの連結体としている。金堂と五重塔の柱網は内外2重で、後世に内槽外槽に分かれる先鞭となるものである。中層は柱網の上の縦架で、肘木と桁が重なり校倉式架構に近い。内外の柱上で皆手先を出し、縦架上の肘木や桁と交叉し、柱頭斗栱を形成する。手先を出した肘木は梁を承け、梁の両端は内外の縦架上の肘木や桁に掛かり、内外の縦架を一緒に引いて結合し、内外柱網の上に校倉構造の水平層を形成して、我々はこれを斗栱層と呼び、その建屋の全体の安定性に大きな作用を保持しているものである。水平斗栱層上は梁架構で、横向きの柱の繋ぎ毎に1本あり、梁架構と檐桁から異なる形式の屋根架構が構成される。大きく跳び出た檐として、金堂と五重塔の柱頭斗栱が2層、下層は肘木として、上層は下昂として出る。

 この5座の飛鳥建築の研究が進むと、それらが已にモジュール制の設計方法を使用していたことが発見された。それらは全て肘木の高さをモジュールとしていて、宋式建築が肘木の高さと柱頭通り肘木の高さをもって“材高”のモジュール数としたことと同じであり、宋式の“以材為祖(材を以って基本とする)”モジュール制設計方法を言い、それがまだ宋代ほど精密でないにしろ、遅くとも已にこの時出現していた。これらの建築の面幅や奥行き、柱高、大棟の高さ等は皆、肘木高(即ち材高)をモジュールとしている。
 法隆寺金堂は2層で、下層は面幅5間、奥行き4間、周囲は裳階とする。上層は面幅4間、奥行き3間、一軒の入母屋屋根とする。設計は材の高さ(即ち、肘木と通肘木)の0.75高麗尺をモジュール数とする。1層の面幅5間は、8+12+12+12+8となり、合計の材高52;奥行き4間は、8+12+12+8、合計の材高40。2層の面幅4間は7+11.5+11.5+7材高で、合計の材高37;奥行き3まは、7+11+7、合計材高25(図2-11-27)。断面では、1層の柱高は材高14、1層の柱礎上面から上層大棟頂部までの高さは1層柱高の4倍、即ち材高56。
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 五重塔は方形平面で、高さ5層、中を上下に木刹柱が貫通する。塔身は1層から4層が面幅3間、5層は2間で、これも0.75高麗尺を材高モジュールとし、1層の面幅は7+10+7で、合計材高24。それより上層は幅を材高1を減らして、2層は6+9+6、合計材高21;3層は5+8+5で、材高18;4層は4+7+4で、材高15;5層は6+6で、材高12(図2-11-28)。塔高も1層の柱高を拡大モジュール数として、1層の柱礎面から5層屋根の露盤下面(注;原文は博脊だが、入母屋ではないので意味不明)迄の、総高さは1層柱高の7倍。その柱、頭貫、斗栱は金堂と基本的に同じ。五重塔の下4層の面幅は3間で、第5層の面幅は2間は、山西省大同雲崗の北魏開鑿の第6窟後室前壁東上方の浮彫五重塔と全く同じで(参考図2-11-14)、この工法の源は中国にある。

 法起寺三重塔の平面は方形、3層、層毎に3間。1層は面幅毎に材高8、2層は面幅毎に材高6、3層は面幅毎に材高4で、3層の総面幅は材高24,18,12となる。その塔身の純高は1層の柱礎から3層の露盤下面までで、1層の柱高の5倍(参考、第3章第14節)。

 飛鳥式建築の法隆寺金堂、五重塔、法起寺三重塔の設計中、皆材高が面幅のモジュール数に使われ、高さについても1層の柱高が拡大モジュール数に使われている。この5座の飛鳥時代の日本建築中に、我々は比較的成熟した“以材為祖”のモジュール数設計工法を見ることができる。飛鳥時代建築は、間接的に南朝より来てそのモジュール数制設計方法のレベルは南朝の一般水準であろう。南朝の重要建築は、その規模と水準は更にそれらより高いと推測される。
 史籍中に載る南朝に関係する大建築の構成は工場は少ないが、かなり重要なのは:東晋太元二年(377)新建設の建康太極殿は、面幅12間長さ27丈、奥行き10丈、高さ8丈;太元十二年(387)改建の太廟は、東西16間、桁高8丈4尺、いずれも当時最大の建築である。但それらは魏晋の旧制を継承し、壁柱を用いて壁を強化した厚い壁で、依然土木混合構成に属す。只太元四年(379)建立の荊州河東寺大殿は面幅13間、通し梁55尺、只2列の柱を用い、柱上に梁を承ける部材(栾栌)が重なり、全木架構建築であるが、その構成は推測がかなりこんなんである。だが、南朝の史料中には多くの木塔の記載があり、日本の飛鳥時代遺構と結びつけて、南朝の木塔を分析すると、南朝木架構建築の発展に一歩進んだ認識ができるだろう。

 南朝盛時、建康だけで500余寺があり、仏塔が林立し、実物が無いとは言え、文献中でおおよその情況は判る。
 構造から看て、木塔の下には龍窟があり舎利を収めた。龍窟の上に刹下石を設置し、石の上に刹柱を立て、刹柱の廻りに木架構の塔身を建て、刹柱は塔頂を出て、宝瓶と承露金盤を被せ、塔の特定の標示とした。
 層数から看て、劉宋以前は只5層以下の木塔を建てられただけであった。《建康実録》に載る、東晋許詢舎は永興にあった住宅を崇化寺に変え4層塔を造った。《資治通鑑》に載る、劉宋明帝が471年湘宮寺を建て、本来10層塔を建てとうとして出来ず、2座の5層塔に改築した。この時は技術の限界があり、皇室の力を以ってしても10層の塔は建てられなかった。斉梁以後、建築技術は発展した。史籍に、梁武帝は527年同泰寺内に9層の木塔を建てた。546年塔が焼け落ちると、又12層塔を建てた。当に完成する時に、549年の侯景の乱に遭遇し中止したが、これはこの時にはすでに10余層の木塔を建てる能力が確立していたことを説明するものである。
 《南史・扶南国伝》に記す梁武帝大同三年(537)長干寺3層塔の下の舎利を発掘し、538年に新しい塔を再建した経緯があり、初めに土を4尺掘り下げた時、塔の龍窟があり前人が納めた金銀雑宝を得た。9尺まで掘ると先に建てた塔の石礫を見つけ、石礫の下に石函が有って、石函内に舎利があった。次の年(大同四年、538年)梁武帝は2座の新塔を建て、先に寺内に刹柱2柱を立て、舎利を七宝小塔中に納め、又石函は七宝小塔に収め、2刹柱の下の龍窟に分けて納めた。それから刹柱を立て、塔を建てた。この記載から判るのは、塔を建てる時、先に予定した塔心位置の地下に小室を造り、龍窟と呼び、舎利と諸宝物を収める。龍窟の上に石礫を立て、礫上に基の刹柱を立て、それから塔身を建て刹柱を内に包み込み、更に刹柱頂部に金銅の承露盤等の刹上の飾り物で装う。
 刹柱下の石礫は“刹下石”と呼び、(梁)沈約選に《湘州積園寺刹下石記》と《光宅寺刹下銘》があり、梁簡文帝選に《大愛敬寺刹下銘》、(陳)徐陵選に《四無畏寺刹下銘》があり、皆塔の定礎を記す性質に近いものである。《積園寺刹下石記》中の“抗崇表蒼雲、植重迥于玄壌”(青雲を崇めるようにそそり立ち、黒い土に深く植え付けといった意か)の句から、刹柱が地面の刹下石の上に立つべき事が判る。塔を建立で刹柱を立てるのは一大式典であり、梁簡文帝は《謝御幸普覚寺刹啓》に、梁武帝が自ら善覚寺塔の立刹に臨席したことを記した。立刹は皇帝が臨席するほど重要であることが判る。

 木塔を建てる工程中、刹柱は最重要の木材で、それは垂直に長く上下を貫通する巨材である。巨材は得難く、往々にして皇帝から特に賜ることになる。梁簡文帝が王である時天中天寺を建て、梁武帝が木刹柱を特に賜り、又銅万斤を賜って刹柱上の銅露盤を造った。梁簡文帝選の《謝、勅して柏刹柱並びに銅万斤を賜る啓》に。“九牧貢金、千尋挺樹、永曜梵輪、方興宝塔”(九州の長官が金を貢ぎ、長大な樹を用い、相輪は光輝き、正に今宝塔が建った)の句は、刹柱の高さと刹頂の承露盤の輝きを形容している。
 塔身は多層建築で、各層は一軒。(梁)沈約の《光宅寺刹下銘》に言う、その塔は“重檐(檐を重ね)、刹は甚だ高く聳える”、(陳の)江総の《懐安寺刹下銘》に形容するこの塔は”天空の甍は高く聳え、累栋(軒を重ねる)”。梁の簡文寺の《大愛敬寺刹下銘》の言うこの寺の7層塔は、“悬梁浮柱(梁は吊り上げられ柱は空に浮き)、沓起飞楹(前に見える柱は宙に重なり)、日轮下盖(太陽を隠し)、承露上擎(承露盤は上に支え上げられる)”。これら文中の“重檐”、“累栋”、“悬梁”、“浮柱”、“飞楹”等の語は皆、その塔が多層木構塔であること表しており、“悬梁”、“浮柱”は更にその架構は一層一層を重ねて上に行く事を表している。

 現存の日本の飛鳥時代に建てられた法隆寺金堂と五重塔は正にこの様であり、それらの具体的工法は、下層屋根の架構の上、隅木と垂木の上に柱盤 (柱脚方)を置き、四面の柱盤は隅木のうえで交叉し、方形の框となり、柱盤の上に柱を立て、上層の架構を建てる。どの層も柱盤から始まる一個の纏まりと成って、その立つ柱は下層より内側に下げ、上下層の柱の間は対向する必要がなく、間数も改変することさえ出来、自由に柱を立てることが出来る。南朝塔の形象が存在しないと言っても、北朝石窟中に見る物を参考にすることが出来る。大同雲崗石窟第5窟後室南壁西側に彫られた浮彫の方塔は、塔高5層、一層毎に内側に下がり、下4層は各面3間で、第5層が各面2間で、法隆寺五重塔と同じである。日本の飛鳥建築と北魏が開鑿した雲崗五重塔を参照することで、南朝木塔もこのような工法が出来たと推測できるだろう。南朝で最も有名な塔は建康の同泰寺九重塔で、梁簡文帝簫綱が曾て詩に読んで、諸人が文章に塔の細部を描写した所である。王訓の詩に言う;“重栌出漢表、層栱冒雲心。崑山雕潤玉、麗水莹明金。懸盤同露掌、垂風似飛禽”。王台卿の詩に言う;“朝光正晃朗、踊塔際千丈。儀凰異霊鳥、金盤代千掌。積栱承雕桷、高檐掛珠網”。廋信の詩に言う;” 長影臨双闕、高層出九城。栱積行雲碍、幡揺度鳥惊”。これら諸人の詩の中に言う“重栌”(大斗を重ね)、“層栱”(層をなす肘木)、“積栱”(積上がる肘木)、“雕桷”(雕刻された垂木)、“栱積”(肘木を積み)等の語により、同泰寺塔は外に向かって数層のかなり複雑な斗栱があることが知れる。近年発見された邯鄲市南響堂山の北斉開鑿の12窟の窟檐は2層の肘木を出し、日本の5座の飛鳥遺構中にも4座が1層の肘木と1層の尾垂木の例があり、梁代に建てた同泰寺塔には少なくとも2層の肘木と尾垂木が有って、更に多いことすらあり、この当時斗栱は已に成熟していた筈である。

  梁簡文帝の《大法頌》に描写する同泰寺の九重塔は、”彤彤宝塔,既等法華之座、峨峨長表、更為楽意之国(赤々とした宝塔は、既に法華の御わす所、高々とした仏の墓標は、楽意の国となる)“。彼は《大愛敬寺刹した銘》中にもこの寺の7層塔を”金刹長表、迈于意楽世界(金の刹柱の墓標は、意楽の世界に踏み出す)。(陳の)江総選の《懐安寺刹下銘》の言う“灼灼金茎、崔嵬銀表(耀く金の茎、聳え立つ銀の標)。これによって判るのは、刹柱が塔頂を突き出てまだかなりの高さが有って、やっと”長表(僧等の墓地に立つ長い柱)“と称されることである。刹柱上には承露金盤を若干重ね、刹柱外も銅を被せ、新制の銅飾りは金色に光り輝き、“灼灼金茎”と形容された。銅製の承露盤の層数は異なり、雲崗石窟で彫られた塔の刹上には、5層、7層、9層の例があり、《洛陽伽藍記》記載の北魏永寧寺塔の刹上は金盤11重で大体奇数を取る。銅盤は、雲崗に彫られたものは、全て覆せて置かれ、(飛鳥、奈良時代の塔上の金盤も覆せて置かれる)およそ水に浸かるのを避ける故である。

  木塔の最初の効能は刹柱を盛り立て壮観な美しさを見せることで、東晋南朝の木塔は上に登るようにして居らず、南朝人が散策する詩文中に、楼に登るや、台に登るは有っても、塔に登る記載は曾て看たことがない。《魏書・崔光伝》に載る北魏霊太后胡氏が516年に建てた永寧寺塔の後、519年に孝明帝が等に登ると、崔光が諌めて言うには、塔に登る危険の他に、《内経》を引いて;“宝塔が高く華やかで,(龕や)室は千万あり、唯言葉を尽くして芳しい花として礼拝すれば、どうして上に登る意義があろうか?独り称賛を受け三宝等級は上でも下でも、人と天の交接は、どちらでも相見えられ、超世奇絶、誰も真似できない、恭敬して跪拝するのは、悉く下層に在る”。このことから知れるのは、南北朝時期、尚塔に登る習俗は無く、只下層の塔内を礼拝し、胡太后の登塔の挙に出たのは当時始めてのことで、大体ここから始まり、唐代に至って、塔はようやく段々と登る事が出来るようになった。

 (唐の)粹恵琳の《一切経音義》巻2解釈“卒塔婆”と言う詞を説く時、“・・・・・唐雲高顕の所[須弥山のように高い塔の意か]は、亦四方が墓所で、即ち如来が身の舎利を安置する所である”。同書巻72解釈“支提”に言う;“又名付けて脂帝浮図、これは聚相を言い、石等を高く積み上げて墓とする相を言い、或は方形の墓と言い或は廟と言うのは、皆その義の解釈による“。両処は皆方形の墓を挙げ、おおよそ始めは方形で有った。唐以前は一般に仏塔は皆方形に作るのは、この意味から来ている筈である。

上述の種々の文献を総合すると、我々は大体この様に解釈出来る。南朝の木塔の塔心は正方形で、中は上下に貫通する木製の刹柱があり、刹柱の外は木構造の塔身で囲まれ、刹頂は宝瓶、露盤を装置する。この種の形象と構造の特徴と日本に現存する飛鳥時代の遺構である法隆寺五重塔と法起寺三重塔は基本的に同じで、これにより飛鳥の2塔の構造は又、翻って我々の南北朝仏塔の参考材料になる。日本飛鳥時代の2塔の例を参照し、南朝の諸々の木塔の塔身部材を推測すると、これも中央部は正方形の框を層を逐って構成し、刹柱を囲むだけで、その揺れ動きを制限し、刹柱と連動することはない。5層以上の塔刹は、巨材を得る事が難しく、只多くの芯柱を連結して用いる事が出来るだけである。
 日本飛鳥2塔は、設計の中で已に材高をモジュールとする設計方法を採用している。それらは只3層、5層の小塔だが、梁の同泰寺9層塔や12層塔と北魏永寧寺塔のような巨大な塔を想像させ、若し更に精密で完善なモジュール設計方法がなければ、構造設計と外観設計上、対応はかなり困難であろう。

 この時の木塔は主要にその下層に龕像を設けず、信徒に只上を拝み廻りを巡って参拝することを提供しただけである。前に引いた崔光の引く《内経》にある“(龕や)室は千万あり”の一語、梁簡文帝の《大愛敬寺刹下銘》も説く、この寺の7層塔は“百尋既に聳え、千龕を設けた”。 (唐の)恵琳《一切経音義》の巻27釈“龕室”に言う;“・・・・・龕室を案ずる者は、今の壇龕の類の如くである。大塔内面にその小龕を安置し、室の如くする、故に龕室と言う”。塔内は刹柱で制限を受けるのを知るので、龕壁は浅い龕を設けて仏像を設けるだけで、信徒は塔を巡る礼拝を供される。
 史籍中に所載の南朝建築と日本飛鳥遺構の探索を進める事を通して、我々は、南朝の、全木構造建築が北朝に比べて普遍的で、梁建康の同泰寺の9重塔(527年)と北魏永寧寺9重塔を比べると、一つは全木構造で、一つは土木混合構造で、南北地域上の建築発展上の差異を見ることが出来る。
 但し、前述の龍門路洞に開鑿の建築に反映した北朝Ⅴ型架構を見ると、それは南朝木構造と基本的に同じである。この外、近年河南で採集された桁行、梁間共3間の入母屋造陶屋は、時代が北朝康煕に属する(図2-11-29)。陶屋の表現は、全木架構の建屋で、外檐が合わせて柱10本で、柱の下は蓮花柱礎で、柱脚の間は地覆があり、柱頭は頭貫がある。各柱頭は大斗が有り、上は柱頭方を承ける。又、大斗より外に向けて3層の華栱(或は昂)が出跳する。この陶屋の架構の特徴は、外観の風格と飛鳥時代遺構、特に法隆寺玉虫厨子の屋根が頗る似ている。この他、近年発見された河北省邯鄲の南響堂山北斉天統年間(565-569年)に開鑿された第1、2窟窟龕に彫られたものには、柱が大斗を承け、ダイトの上に華栱2つが出跳し、華栱上は枋(梁頭或は枋頭)の柱頭補作形象があり(図2-11-30)、前文で推測した北斉邺南城宮城の太極殿や顕陽殿の柱網が已に3周或は4周配置される情況というのが、北朝後期に、柱網や補作層、梁を重ねる全木構造が、少なくとも北斉の重要建築例えば宮殿や仏寺に使用され、南朝と相当接近していた。これは従って、北魏末年の第建築の仏殿と、北斉立国後の建設は、南北の建築交流が日に日に緊密で、建築上共通点が益々多くなり、隋の中国統一後南方建築技術と芸術が大量に北伝し、隋唐時期の建築発展のピークへの道を切り開いた。
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 南北朝時期の木構造で地面に建てた建築は消滅して久しく、我々は只石窟中に表現された形象と文献記載の探求を結合して得られるだけである。但、この様な概貌と大体の架構類別を知ることが出来るだけで、具体的工程や工法じょうの一連の特徴は知ることが出来ない。日本に現存する飛鳥時代風格の遺構は未だ数座があり、大体中国南北朝末期の特徴を反映し、但それらは何と言っても日本の祖先逹の手によるもので、また、再建を経て、絶対年代は皆唐代にあり、世界で最古の木構造建築で世界文化遺産に属するとは言え、中国古代建築を研究するに当っては、只参考にすることが出来るだけである。近年、山西省寿陽市で発見された北斉河清元年(562)年埋葬の厙狄回洛墓は、墓室中に木構の外棺があり、家形に作り、已に朽ち果ててはいるが、木製の柱や頭貫、斗栱部材が保存されている。それは真正な建物ではないと言っても、却ってはっきりと架構の特徴を表しており、我々に珍しい部材の実物を提供し、研究を深めるのに資することができる。

 墓は方形に単室墓を磚積みし、墓室中央で略西に寄って家形木外棺があり、内に棺がある。大体の原状を知る事ができる。
 外棺の地覆は方形の框に連結され、東西3.82m、南北3.04m、その頂面は木柱底の枘に枘挿しされ、これが外棺の桁行と梁間各3間を構成し、間毎に四柱の家屋形と見ることができる。柱は八角形断面を作り、隅柱は中の柱より太く、柱頭に大斗を設け、隅柱の大斗も中の柱の大斗より大きい。大斗口の内には両端を巻いた葉瓣を雕刻した替木で、上は桁行、梁間を通した頭貫を承ける。頭貫の上は柱頭縫で1組が1斗3升の斗栱で、上に替木を設ける;2組の斗栱の間は人字形の叉手を用いる;隅柱上の斗栱は十字に交わり、外側は垂直に切って出跳しない;45度の肘木は無い;頭貫や斗栱、叉手、承ける橑檐方は共同で正側面の柱列上の縦架を構成し、屋根の梁架と屋根を承ける。その架構体系は前述のⅢ型に属し、天龍山石窟第16窟の北斉窟檐の示す所と同じである(図2-11-31)。
 以上は、木外棺の示す建築形式である。外棺として造ることから、その実際の構造は南北両面は、即ちいえの前後の軒は厚い木板で牆壁とし、この両面の柱や頭貫、斗栱、叉手の厚みは正常の厚さの半分で、板壁に釘付けされ、建屋の外貌を作り、実際は“貼絡”となっている。只、東西の妻面の柱や頭貫、斗栱、叉手、駝峰は完整な部材である。外棺の頂部形状は已に痕跡が無く、出土からは、隅梁の残部、梁上の墨書“西南”の2字が見え、入母屋造(覆両頭)では無い筈である(図2-11-32)。
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 貼絡の部材は我々はその外形を教えてくれる。真実の部材はその断面を知って、それらを貼り合わせると、大体のその反映する北斉の真実の建築情況を知ることが出来る。これ等の部材の寸法は基本的に一致し、斗繰り部分と肘木の巻瓣は皆内に凹み、手法は統一され、この時期に唐宋期の“以材為祖”のモジュール設計方法が出現していたのか否かを探求する拠り所に出来る(図2-11-33)。
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      (※注)実測図補足;山西省博物院に展示されているようである(来自、百度貼吧)
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            【山西博物院】-北齐-厙狄回洛墓屋宇式木椁構件

 現存の外棺の肘木の真断面の高さは82.5mm、幅は52mm、長さは252mm。若し唐宋期の材高15分で検算すると、則ち1分=82.5/15=5.5mm。換算すると肘木(栱)の幅=52/5.5=9.5分。肘木長=252/5.5=46分。肘木上の散斗の総高さ=51.5mm、平、欹(斗繰り)部分は共に32.5mm、合わせて5.9分で、亦即ち栔高さは5.9分。この様に、その材高は15分の時、材幅は9.5分、足枋高=材高+栔高=20.9分。唐宋の材高15分は材幅10分、栔高6分と比べて、僅かに材幅が0.5分少なく、栔高が0.1分少ない、千年余の木材の水浸後の厳しい変形を考慮すれば、基本的に同じと認識出来る。
 外棺の各建築部材寸法、分数換算と宋式の各該当部材の分値を列べて比較した表を下に示す:
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 上表から見出だせるのは、この時期の材の高さ幅の比は、全て唐宋期と貴賓的に同じである。その散斗の分値も大体宋式と同じで、但肘木(栱)と替木の長さが皆宋式より短いものが多く、宋式の泥道栱の高さ長さ比は1:4であるのに比べて1:3で、明らかに短く太く拙いが力強い;大斗の寸法も宋式より遥かに小さく、隅大斗の分数でも尚宋式の平柱ダイトより小さい。但、部材及び遺址の堆積情況に拠り復原した図を見ると、立面及び部材の比例は、皆太原天龍山石窟の北斉諸窟檐に充分相似で、故に北斉時期の特徴なのである。
 その肘木端の巻殺も頗る特徴がある:その工法は、おおよそ先ず矩形の栱材両端の下角を各1分量り、上角からこの点に直線を引き、栱端の大面をやや前傾させる;再び栱端上方に9から9.5分を栱頭とする;再び下部分を均しく4分で分ける;更に栱底を外端から内に栱端下部に長さ2倍を1段として量り出し、これも均しく4段に分ける;栱の4,3,1の3点より別々に栱底に向かって3,2,1を線で連絡し、得られる所が栱の巻殺の折れる所で、3瓣の巻殺となる;再び瓣の上毎に2/3~1/2分を凹ませて得られる(最も上の1瓣の凹みが頗る深く2/3分とし、最も下の1瓣は浅く、1/2分とする)この方法で栱頭の巻殺を描き、基本的に外棺上の栱を合わせるのが、おおよそこの時期の巻殺の工法である。(※注)

 これ等の部材を見ると、この時期の枘と枘孔は比較的簡単である。柱の上下には已に枘が出、下枘は地覆が入り、上枘は大斗が入り、大斗底も枘孔が開く。斗栱が出跳しない時は、大斗は但順身だけに口を開く。隅大斗は十字に口を開き、正側面の泥道栱を容れ、開口を隔てる耳が無い。隅に載る泥道栱の正側両面は枘結合で噛合い、外端は真直に切り出跳せず、また隅肘木は無い。隅大斗の内は正側両向きの巻葉を彫った替木が枘結合で噛合い、外端は進捗に切る。駝峰頂部に丸い枘孔を掘り、内に円柱状の木栓を挿し、その上の斗と結合する。叉手は両脚を合わせ、上端の合う所は枘栓で結合せず、桁の背とも結語する枘が無い。これ等の工法は唐宋で建てる時よりも簡単な所が多い。但、叉手が枘で結合せず桁の背の枘に跨がらないのは、実際架構としての作用を持てず、建築上の叉手はこの様なやり方は絶対にしないので、その外棺での用法は単に形式で、それ故枘を簡素化したに違いない。泥道栱上で、本当の栱の栱底は平直で、斗に枘孔が無く、ある貼絡の栱の栱底に明らかな枘孔が開いているのは、明らかに実際の工法を偶然行ったもので、本物の栱に枘孔が無いのは、その用途が外棺に用いる為に簡素化した結果である。これにより、これ等の部材が表現する工法は、模型の為に簡素化したもので、当時の建築実物はもっと複雑でもっと完善であったろう。
 厙狄回洛墓の外棺が表す架構形式は、前文に述べたⅢ型に属し、発展順序を見ると、Ⅳ型Ⅴ型より少し早いが、その部材中に表現される断面と材高は皆唐宋期に比べて基本的に同じであり、15分を以って材高とする、この様に、少なくとも我々が言えるのは、“以材為祖”のモジュール制設計方法はこの時已に基本的に形成され、材高1/15を分モジュールとする萌芽が出現しているからである。
 前文で、日本に現存する飛鳥時代の建築を分析し、その平面、高さはその材高をモジュールとする情況を知り、それを厙狄回洛墓の外棺に反映された材高を15分とするモジュールの情況と結び付けて見てくると、我々は、唐宋建築中の“以材為祖”のモジュール制設計方法は南北朝時期に已に形成されて、当然、それは未だ唐宋期のような完整、厳密なものでは無かったのである。

(※注)巻殺の作図方法は、下記のようなことであろう。肘木高さは15分、長さは46分(肘木の片側で示すので23分)、斗幅(=肘木端)を9分とする。まず、肘木端から4分ずつの線を下ろし、番号を1~3とする。肘木端下部に4分の2倍=8分の段を求める。それを4分割(=2分ずつとなる)し、番号を①~④とする。1-④、2-③、3-①の交点をつなぐと巻殺の線となる。それに凹曲線を作る。②を飛ばすのが特殊と言うことか。
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# by songofta | 2017-07-24 17:16 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

242 南北朝の建築技術 2 北朝の建築(2)

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第二章 両晋南北朝建築
第11
節 建築技術


241項より続く
 古陽洞内には3つの家型龕が鑿される。北壁に一龕があり、面幅3間、四柱を用い、斗栱、頭貫、叉手、檐桁の組合せの縦架で、斗栱の中央に梁頭が露出し、その構造は宋式の” 杷头绞项”(※注)に近い。その表現は一座の全木架構建屋で、斗栱が柱と対になると言っても、中央に頭貫と隔てたままで、依然として柱列は縦架を支え、なだ柱頭の斗栱を形成しておらず、雲崗12窟の表現と基本的に同じである。洛陽遷都の初めは、尚平城の旧式であった(図2-11-17)。古陽洞南壁は2座の家型龕があり、その一つは只屋根を彫るだけで、完全ではなく論ずるべきではない。別の一つは3間四柱の小殿で、構造上前と異なる所は、柱が檐桁の真下で支えることで;頭貫は元々通しの1本であったものが柱で分割され間毎に1本に変わり、左右の端は別々に柱身に挿さる;頭貫と檐桁の間は、間毎の面幅に1個の叉手を用い、詰組とする。これは以前には見たことのない新しい架構形式である(図2-11-18)。
      (※注)杷头绞项:梁先端を檐柱より出して、大斗に載せ華栱として使う方式
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 路洞の洞壁上に木彫りには若干の小建築があり、寄棟、入母屋、切妻の屋根に分かれ、下は台基があり、正面と側面は階段があり、台基と階段の辺りには勾欄を設け、表現は仏殿の形象である。但、その架構方式は前の2種と異なり、その頭貫は柱上を下に柱頭の間に移り、柱頭の上は直接一斗三升斗栱で、柱間は頭貫の上に叉手を設け、柱頭斗栱と詰組を分けて形成し、二者共同の組合せの斗栱層は、屋根檐を支え、屋根の荷重を支える。それは已に以後唐代から清代に至る、一般に斗栱を用いる木架構建屋と基本的に同じである(図2-11-19)。
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 北魏の洛陽遷都後、平常の雲崗石窟はまだ幾つかの中小洞窟が開鑿され、即ち雲崗三期石窟で、その中で建築表現が最も真実に近いのが第39窟の塔洞である。それは方形の石窟で中心に方形の五重塔を彫り、塔身の層毎に面幅5間、柱頭に大斗を彫り、上に横桁(頭貫)を承け、桁上と柱頭に対に一斗三升を彫り、2つの斗栱の間は、間の正中央に叉手を彫り、斗栱と共同で檐桁を支え、縦架を組合せ、上に塔檐を承け、上層の柱は下層の塔檐に直に接し、平座は無く、この塔の表現する架構方法と雲崗第12窟及び龍門古陽洞北壁と基本同じである。この情況が言っているのは、北魏北方の平城一帯では旧の架構方法を延長継続し、雲崗石窟では前中後3期柱迄未だ出現しなかった、頭貫を柱頭の間に設ける工法を龍門路洞が初めて見せたことである。この塔の形象を重視する価値があるのは、それが現存の北魏石彫塔中で体量最大、表現する構造がはっきりした一例的,これの前の雲崗石窟中に掘られた塔は、上層に行くと間数が下層より少なく、この塔は上下層の間数は同じで、史料記載の北魏が洛陽に建てた永寧寺塔の高さ9層は、どの面も9間で、上下層の間数は同じで、この39窟塔柱は我々が永寧寺塔の形式構造を考える時、重要な糸口を提供し、それが北魏塔の一個の真実の模型とみなせることにある。
 この様にして、我々は雲崗石窟と龍門石窟に掘られた建築形象から、実際5種の架構形式を見出すことが出来る(図2-11-20)。
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 第一種の建築は四壁が全て厚い壁で、前の檐壁内に門窓の框が立ち、門窓を設け、壁の頂部は斗栱と叉手の組合せの縦架とし、上に屋根を承け、その表現する所は屋根と身舎の全てを承重の二重壁で承け、無柱、壁上に縦架を用い、横梁構成の屋根は、土木混合構成で、その形象は雲崗第6窟の太子四門から出遊の故事中に見出すことが出来、洛陽北魏一号遺跡は全てを壁上で承ける建屋で、我々は暫時この類の建屋をⅠ型と称することとする(図2-11-21)。
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 第二種の建築は妻壁及び後壁を厚い壁とし、前檐は両妻壁の間に斗栱と叉手の組合せで架設し、面幅長に縦架を通し、縦架の両端は妻壁で支え、中間部分は1本か2本の柱で支え、例えば雲崗第9、10窟は、前室側壁上層に3間2柱の建屋があり、その表現する所は妻壁、後壁が承重壁で、前檐及び屋根は木架構の土木混合構成の建屋とする。我々は暫時この類の建屋をⅡ型と称することとする(図2-11-22)。
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 第三種の建築は、外檐は全て柱列を用いて縦架を支え、例えば雲崗第12窟前室側壁上層と龍門古陽洞北壁の3間4柱の建屋形象である。その表現する建屋は2種かも知れず、1種は四面が皆このような木架構建築で;1種は中心部分が依然厚い壁で承重とする混合構成の建屋で、例えばⅠ型の四周にもう1廻りの全木架構の外廊を加えたものである。我々は暫時この類の建屋をⅢ型と称することとする(図2-11-23)。
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 第四種の建築は、柱が上に伸び、直接檐桁(檩)を承け、本来一体の縦架を数段に分割して、頭貫は柱の上の大斗から中間の柱頭より下の所に下げ、柱列間の支柱となり、例えば龍門古陽洞南壁にしめすもので、その表現は全木架構建屋であり、我々は暫時この類の建屋をⅣ型と称することとする(図2-11-24)。
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 第五種の建築は、頭貫が柱頭の間にあり、柱列の間の連結部材と成り、柱上は柱頭斗栱で、柱間の頭貫城に詰組(叉手、蜀柱)があり、柱頭の通り肘木や檐桁共同で縦架を構成して屋根架構を承け、龍門路洞が示すように表現は全木構造建築で、我々は暫時この類の建屋をⅤ型と称することとする(図2-11-25)。
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 時代の順序と架構の特徴からみて、Ⅰ・Ⅱ型が最早で、土木混合構造である。Ⅲ型は混合構造であるが、木架構かも知れない。Ⅳ・Ⅴ型は全木架構建築である。その内、Ⅲ型は雲崗二期の末、即ち北魏の洛陽遷都の直前、Ⅳ型は洛陽遷都の初期で、全て5世紀の末。Ⅴ型は北魏末東魏初期に初めて見られ、即ち534年頃。これらは正しく北魏中期後期の木架構が逐次進歩し、版築土壁の助けから脱して、独立架構に発展する過程である。
 もし、我々が考察範囲をもう一歩進めるならば、北朝の各主要な石窟を通して見て判ることは、Ⅱ型は北斉が開鑿した太原の天龍山石窟第1窟、第16窟中に至っても依然存在し;Ⅲ型は北斉の邯鄲南響堂山石窟第7窟に在り、北周開鑿の天水麦積山石窟第4窟、第28窟、第30窟中に全て存在する;Ⅳ型は北魏洛陽出土の寧懋石室、沁陽(河南省)東魏造像碑、瑞開皇四年開鑿の太原天龍山第8窟と天水麦積山石窟第4窟北周壁画中に出現している;Ⅴ型は天水麦積山石窟隋代の第5窟中に出現し、河南で発見された陶屋もこの型に属す。これらの情況が表すのは、北朝中後期、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ型の架構方式はかなり長い間共存し、北斉や北周末に至りⅤ型にやっと統一されたことである。
 架構の特徴からみて、Ⅱ型の両妻側と後檐の厚い土壁は、縦架両端と後檐の荷重を除き、まだ建屋の架構の安定を維持するために重要であった。Ⅲ型外檐の縦架は、全て檐柱の柱列によって支えられ、厚い土壁は無い。柱は縦架の下から支え、簡単な結合で、柱列の各柱は平行で、同時に一方の側に傾けるか同一方向に沿って向きを変えるかにより、安定性に差があるので、それは主体が混合構成の建屋の外廊で、主体に附属する者かも知れない。Ⅳ型は頭貫を柱の間に降ろし、檐柱や檐桁、斗栱列の上部連結と一体とし、湾曲フレームに近く、頭貫が柱に入る所のホゾ・ホゾ孔と、頭貫と檐桁間の叉手とは架構の縦向きの安定を保持している。但、柱や頭貫、斗栱上下が挿し込まれる施工はかなり複雑である。Ⅴ型の頭貫は柱頂の間に架され、方形の框のように巡らされた頭貫を全体が安定した柱網としている。柱と頭貫より上は、柱頭斗栱や詰組、柱頭の通り肘木、檐桁を組合せた縦架で、上の屋根架構を承ける。この種の作り方は、柱網、縦架、屋根架構を層を重ねて加えていき、施工に便里で、Ⅴ種の類型中最も先進的で、北斉に始まり隋唐に至って、段々と主導的地位を占めるようになった。唐以後、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ型は偶々みることが有るが、宮廷や官署、貴族の屋敷の建築は、基本的にⅤ型に統一される。
 以上は、只石窟中に見られる建築形象により、その架構体系の変遷を分析しているのみである。但し、石窟中に彫れたり描かれたものは皆簡単なもので、当時の建築の巨大な規模や複雑さ、豪華な面影には遠く及ばない表現である。史料に記載される北魏平城の太極殿は洛陽の魏晋太極殿跡を測量して建設し、洛陽太極殿は、魏晋大極殿跡の上に建て、いずれも面幅12間で、当時最大の建築に属し、殿身は厚い土壁を版築し、当にⅢ型かⅤ型で、体量は巨大で、その構造は石窟の示す複雑さと遠く隔たっている。《彰徳府史》記載の北斉邺南城宮中、外朝正殿の太極殿は、周回の柱120本で、図にして見ると、面幅13間奥行き8間の大建築であったことが知れる。また記載には、内廷正殿の昭陽殿は周回の柱72本、面幅10間奥行き6間(或は面幅9間奥行き7間)の大殿であった。2つの殿は、殿身に沿って、四周が4重と3重の柱網に分かれ、これは内槽と外槽に分けられ、外槽は附属の回廊が全木構造建築で、柱網の配置は唐代と異ならない。これは北魏末に北方に出現したⅤ型架構後、已に制式に北斉宮殿に用いられていることを表している。
 史料には、北朝にも多量の多層建築が記載される。《洛陽伽藍記》に載る、洛陽永寧寺の“南門楼は3重、・・・・・・地面より20丈、形制は今の端門に似る”。北魏宮の宮門は多くが楼閣と知れる。この他、北魏は大仏塔を建て、その内多層木塔の小僧は複雑で、史籍に載る木塔の分析を通して、北朝木構造発展に一歩進んだ認識が出来る。
 北朝の木塔は記載されたものが頗る多い。北魏が平城に都した初め、天興元年(398)5層の塔を建てた。献文帝期(467年頃)、平城に永寧寺を造り、”架構が7層の塔、高さは300余尺、基台架構は大きく広い、天下第一である”。この塔の建造は丁度南朝の劉宋明帝期に湘宮寺を造るのと同時で、劉宋はこの時5層塔で、北魏は已に7層塔であり、北魏の高塔建造技術は南朝に一足勝っていた。洛陽遷都後、前後して永寧寺9層塔、景明寺7層塔、瑶光寺5層塔、霊太后胡氏は又各州に5層塔を造らせ、建塔を挙げる史書は絶えない。諸塔柱永寧寺塔は最も著名で、史籍記載中最も高く壮麗な塔である。近年この塔は発掘され、文献記載と結びついて大体の情況が知られるようになった。
 永寧寺木塔は北魏孝明帝の煕平元年(516)霊太后胡氏が建設を命じた。魏は平常に都を建てた時、皇帝が永寧寺を建てた。洛陽遷都後、城内には規則で只永寧寺一寺のみを建て、皇帝の特別な功徳で建てたものなので、洛陽最大の寺廟であった。《水経注》記載によると、寺中には“9層の浮図を作る。浮図に基台は方14丈、金露盤より地面まで49丈、工法を代の都の7層塔に取り、更に高く更に広大である。2京の盛んなこと、5都の富裕、鋭い塔刹霊塔、未だこのような構造は見ず”。《洛陽伽藍記》の言うこの塔は“木架構でこれを成し、高さ90丈、上に金の塔刹がまた10丈、合わせて地上1000尺。・・・・・塔刹上に金の宝瓶、容積は25斛、宝瓶の下に承露金盤が11重。亦鉄の鎖が4筋、塔刹から塔の4隅まで引かれる。・・・・塔は4面在り、面には3つの戸と6つの窓があり、戸には朱漆が塗られる”。
 この塔の遺跡は、1979年発掘が行われ、簡報が発行されていて、塔の基座は方形で、上下2層ある。下層は東西101m、南北98m、厚さ2.5m以上、頂面と地面は平らで、塔基の地下部分となる。上層台は下層台の中心にあり、正方形、辺の長さは38.2m、高さ2.2m、四周は青石を積み、台基の辺縁に石刻の螭首(注;蛟龍の首)の残辺があり、元石の欄干があった筈である。この2層の台は塔下の基座である。基座の上に124個の方形の柱礎石が発見され、各面9間10本の列柱で、一面に配置されている。9間一面の柱は元々100本の礎石があれば良いが、この塔の最外周の4隅と最内周の4柱は皆4柱が纏って造られ、24個の礎石が多くなっていて、総数が124個となる。最外周の檐柱の所に壁の残骸があり、厚さ1.1m、外壁面は紅色、内壁面は壁画があり、塔の外壁である。塔身のそとからうちに第2周の柱礎の内側は方形の日干しレンガ積で、各面20m、第3周以内の諸柱は青の中にある。版築土積内には横木の痕跡があり、当に日干しレンガ積全体を強靭化して用いたものである。日干しレンガ積の東、南、西の3面の外壁は各5座の弧形の壁龕があり、仏像を設けるためのもので、北面の外壁には龕がなく、木柱があり、塔に登る階段を設けた筈である。塔内は塔心の廻りを廻り礼拝出来た。
 《簡報》に載る所に依れば、塔の下の基座は報38.2m。もし北魏尺が27.9cmとすれば、合わせて136.9尺で、已に崩れた石積み部分を加えると、140尺前後とすべきで、当に《水経注》の記載が信ずべきで、即ち塔の高さは49丈前後とすべきである。《洛陽伽藍記》の言う1000尺は誇張したものである。
 《簡報》中から我々が知ることができるのは、この塔は一面に柱網が広がるが、中心部分には巨大な実心の日干しレンガ積があり、故に依然土木混合構成に属すのである。この中心の日干しレンガ積は塔身架構を安定させるもので揺れや捩れに対抗する作用を起こす。日干しレンガ積内の水平の横木の情況を見ると、それは数層の高さに達することが出来、最上の数層だけが全木構造となる。この塔の下部は実際上柱と横木を用いて固めた日干しレンガ積の塔心で、四周に木構成の外廊を加えている。この外周は奥行き2間の木構成外廊の梁桁と地覆は皆土積体内に挿入されたようで、横木と柱は相連結し、土積体は木架構外廊と互いを援助し合っていた。
 この種の全木架構建築中、ある一部分を日干しレンガ積(或は版築)で実心で埋める工法は、土木混合構成が全木構造に発展変化する最後の段階である。これはこの様に造ることがこの時の木架構全体のバランスや安定性に尚限界があり、或は人々が新しく発展した木架構体系に安心出来ないが為であった。この種の現象は今判っている情況から看て、只北方に存在するだけではない。このままで唐初に至り、高宗が大明宮を建てた時、含元殿の殿身は承重壁を版築し、麟徳殿の両妻は依然として梢間にあり、間の端は版築を用いて1間分の広さの妻壁を出したのは、この種の土木混合構成の名残が宮殿等の大建築中に唐初までずっと継続していたことを物語る。永寧寺塔の構造のぶん説を通して、我々は更に具体的に見れるのは、北朝の大型木架構建築の特徴は、多くが版築の基台や日干しレンガ積体と結合して使用し、これは、南朝と明らかに異なる所である。この種の違いは木架構発展上も異なる反映があり、地方の伝統的特徴にも反映した。北方建築は防寒が必要で、厚い壁は防寒に良く、北方建築が版築壁を長い間保って来たのも、これが重要な要素であろう。
 北朝の楼閣建築は、北朝兵器がや石窟中に全てその形象を見ることができ、上下層が重なり、更に中間に唐以後常用する平座層が在り、上層の欄干は直接下層の屋根に持たせ、南北朝末期の影響を受けた日本の飛鳥時代の法隆寺金堂や五重塔の上下層の関係と似ており、その構造もかなり接近しているように思える。《長安志》記載の、崇仁坊北門の東にある宝刹寺は、原注に;“この村の仏堂院は、隋開皇時に寺になった。仏殿は後魏のときに造られ、四面に柱を立て、当中構虚な2層の閣で、檐や大棟桁は屈曲し、都の奇妙である”。この段の記載は、2層の楼閣である。“四面に柱を立て、当中構虚”の句を分析すると、その中央部分はおよそ上下貫通で、984年遼代建立の薊県独楽寺観音閣の内部空間形式に近似しているのかも知れず、時期は450年前後早く、この類の構造の初型であろう。この種の工法は北魏から唐に居当る間普通ではなく、当時の人は新奇さに驚き、“都の奇妙”と褒めたのである。






  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服
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# by songofta | 2017-07-21 22:51 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

241 南北朝の建築技術 1 北朝の建築(1)

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第二章 両晋南北朝建築
第11
節 建築技術

南北朝の建築は、現物で残存するのは、嵩岳寺塔だけである。しかし、多くの石窟に残る建築物を模した遺物と文献記載を対照して、木構造の発展過程が解明が進められた。北朝地域は、磚積み主体から段々と全木構造に進化し、生起や側脚、収分などが加わって行く過程は、興味の尽きない所があるのではないだろうか。惜しむらくは、掲載された写真がモノクロで且つ古く不鮮明なことである。同じ角度からの写真が見つかった時は、入れ替えているので承知されたい。


一、建築構造
 両晋南北朝300年間(281-581年)は中国建築にかなり大きな変化が発生した時期である。これより以前、建築の基本は古拙端厳な漢代風格で、建築は多くが直・方・正の直線に特徴があり、構造上は土木混合構造が主である:この後、豪放流麗な唐代風格になり、建築は多くが力強くそそり立つ曲線が長じて、構造上は全木構造が主となる。この両種のはっきりと異なる建築風格と構造方法の変化は、過渡期がこの300年間に発生した。もし、中国古代建築が漢代以降、漢、唐、明の3つの高潮期が有ったとすれば、その一段階は漢風の衰微と唐風の蓄積が起こる過程である。ここが、変化が段々と進む過程を、我々が主要に探求すべきこととなる。それは、一系列で漸進蓄積され、次第に甚だしく異なる新風として形成された。新しい建築風格が次第に形成されるには、時代の気風や審美趣味の変化を除き、構造・方法の逐次改良についても重要な要素の一つとなる。

1.土木混合構造の衰落
 近代の中国伝統建築構造の一般の言い方は、即ち、建築は木構造が中核で、壁は只自重を承け廻りを保護するだけのもので、“墙倒屋不塌”(※注)ということが出来ると言われてきた。実際、この言い方はもうひとつの条件を加えるひつようがあり、明清期の広大な漢族地区の建築について言えば、基本的にその通りが、幾つかの少数民族地区のことを含めて言うことは出来ない:古代にあっては、漢族地区も全くこのようなものではない。唐代以前、いくつかの大型宮殿でさえ土木混合構造であり全木構造では無かった。初唐になり。622年大明宮の含元殿は、その殿身に柱無しの版築壁を使用している。およそ盛唐以降宋代までに、宮室や官署、大邸宅はやっと基本的に全木構架構の家屋となる。宮室や官署、大邸宅、寺院等が、木構架構を土木混合構造に替えて用いられるのは、長いゆっくりとした過程を通じてである。
     (※注) 墙倒屋不塌: 壁が倒れても建物は潰れない。斗栱やホゾ等木構造が主要である意。
 春秋戦国期、台榭建築が宮室に盛行するのは、その特徴が版築で高く大きな多層土台で、層毎に版築土台中に部屋を作り出し、中央に隔壁を置き、壁の上に桁を架け、前の檐が広がる所に柱と縦向きの構架を立て(簡称して、縦架と呼び、梁を使用するの“横架”と区別する)、桁と縦架の上に檐を架し、単層屋根を構成し、実際上は横壁が荷重を承ける土木混合の構造である。台榭の頂上は全て主体建築1棟を建てるが、目下の所発見されているのは、2つの主体建築の基礎だけである。その一つは秦の咸陽宮1号遺跡で、平面は方形、中央に1.4mの柱礎が有り、その上に元は“都柱”があり、四周は版築か日干しレンガの壁で、壁本体の内外に壁柱を用いて更に固め、外壁の承重(注;荷重を承ける部材、以下同じ)とする(図2-11-1)。
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その二つ目は西安の王莽九廟柱最大の台榭で、台頂の主体建築も方形で、中央に都柱があり、四周は壁柱を用いて版築壁を固め、内外の壁柱は相対しておらず、それも外壁の承重とする。この2つの台榭頂上の主殿は依然として土木混合構造である。漢代宮殿は主要に台榭建築で、皇帝の居所の殿は全て台上にあり、陛が台頂に通っている。陛は衛士が防備しており、皇帝の左右を称して皇帝陛下と称するのはこの故である。台榭四周の片斜面屋根の附属部屋と台頂の殿は直通しておらず、陛を経由して台に登る必要が有り、警衛に利している。それとは別に空中を架す閣道があり、各台榭の頂を直通していて、皇帝の往来に供した。その為史料記載の両漢宮室は皆大量の閣道があった。(漢の)張衡《東京賦》に説く漢の宮中は“飛閣神行、莫我能形。” 薛綜注に言う:“閣道が相通ずるを言う、地面にいることが無いので、飛ぶと言う”は、この証拠である。閣道は又“飛陛”と称し、木構造である(図2-11-2)。
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 三国西晋期、限定された記載から推測すると、依然として台榭で宮殿が作られる。《元河南志》が引く《洛陽宮殿簿》曰く;“太極殿12間、南行する閣328間、南上に総章観”。太極殿も高台上にあり、台頂に閣道が通じている。《資治通鑑》に記す趙王倫の廃賈后の事に、“夜宮に入り、兵を並べ道を南し、・・・・・・・閣に並んで入り、帝を迎えて太極殿に御幸する”。文中“道を南し”の“道”は即ち太極殿に通じる閣道、又“馬道”を指し、これも太極殿が高台上に建つ事を証明する。史籍が魏晋の太極殿を具体的に描写しないと言っても、《景福殿賦》等の文によって、それより数年早く建てられた許昌景福殿は、壁柱が壁に強度を加えた版築壁を用いて承重とし、土木混合構造の台榭で、太極殿もこれと同じ筈である。北魏洛陽宮の太極殿は、魏晋故城跡に再建したもので、殿前にも馬道があり、高台上に建つことを説明している。そして史載の505年、北魏太極殿西序壁上に菌が生え、大臣の崔光が上表して、“太極殿は広大華麗、壁の築造は密、糞朽を加えず、湿気は及ばず”。“壁の築造は密”の句から、その四周は依然として厚い版築土が承重となる。
 中国南方は湿潤で多雨、木材資源が豊富で、暖かく厚い土壁で防寒をする必要がなく、漢代より全木構造の架構家屋が流行していた。広州出土の大量の前漢から後漢にいたる数十件の陶屋は、全て全架構構造のミニチュアで、その確証となる(図2-11-3)。
  但し永嘉の南渡(※注)に従い、中原文化が大量に江南に伝播した。魏晋の宮室制度は、王朝正統の標識であり、自然東晋ちょうていの遵守すべき所となった。それにより、東晋の宮殿は配置から外形、構造方法まで全て西晋洛陽を法とした。その主殿太極殿も高台上に建てた。それは南朝初期まで踏襲された。《宋書》に載る太子劉劭の宋文帝殺害事に、丹陽の尹尹弘が当直につき、宮中に異変が有ると聞き、城内の兵を率いて“閣道”の下にいたる。この閣道は即ち太極殿に登る高台の木構造の通道であり、洛陽太極殿前の“馬道”と同じである。《晋書・安帝記》と《宋書・五行志》記載の義熙五年(409)と元嘉五年(428)、雷が太廟の鴟尾に落ち、壁柱を突き通った事は、壁柱があり、即ち壁柱が版築土を固め承重壁であった。この2例で東晋南朝初期の主要殿宇は、魏晋の旧制を依然踏襲していて、版築の高台上に建ち、版築壁と木梁柱が共同で承重とする混合構造の建屋でもあったことを知ることが出来る。但し、史料が表しているのは、漢以来已に南方で形成された全木構架構の家屋は、江南地区では相変わらず流行していて、技術上発展しているのである。《法苑珠林》に載る、苻堅が東晋を伐った時(太元四年、379)、桓沖が荊州牧につき、邀翼法師が寺を建て、それは“大殿13間、唯両側に柱を立て、通した梁の長さは55尺、梁を承ける材は重なり、国中でも都でも一番である”。この記載によれば、それは面幅13間、奥行き55尺の巨大な木構造の殿宇である。《晋書》周の所に転載された、“(周)筵は姑孰に5間の建物を建て、6本の梁が跳び出して地に堕ち、衡(桁、つまり檩)は独立した柱頭零節(大斗)の上で、甚だ危険で、いくら巧みな人でもこのようにはいかない”。この建屋は面幅5間で、梁が6本有り、妻面でも梁柱を用い、それは全木構造架構の建屋で有ることに疑いは無い。《晋書。五行志》にもこのことが記され、東晋太寧元年(322)に関係し、東晋初期に属する。この他、南朝が建立した大量の塔は、これらの塔は皆刹柱があり、明らかに高層木構造建築である。梁の建康同泰寺塔は高さ9層で、南朝後期に至り、木構造建築が已に高い水準に発展したことが知られる。
 これらの情況を総合的に見ると、東晋の太廟等の重要建築は土壁と壁柱を用いわざと中原の宮室の形制を踏襲し、その正統性を表明し、当時の南方の大量の建築は依然として木構造建築であった。中原と北方は、多くが土木混合構造を使用し、南方は木構架構を使用したのはその頃の地方の特徴である。 近年雲南省昭通で発見の東晋太元□年に葬られた霍承嗣墓は、墓内に建築形象の壁画があり、土木混合構造建築の断面図を表していて、室内には暗層が有り、栾(曲肘木)で承け、漢代の建築と区別がつかない。雲南の地は辺境で、建築上中原と江南地区の古風を更に多く保存してきた(図2-7-4)。
    (※注)永嘉の南渡;西晋の滅亡頃、中原は戦乱と北方民族の流入等で、漢族の江南大移動が起こった。

2.木構造の発展
 5世紀初より始まった、南方が南朝の時期に、北方の北魏も中国北半部の統一を開始し、南北の経済文化は皆巨大な発展をした。南朝は宋孝武帝期(5世紀中葉)宮室の大改修を開始し、豪華華麗に進み、魏晋以来の旧風を替え始めた。北魏も平常の最後期、中原魏晋の遺規と南朝の新風を説教的に取り入れ始め、建築上も顕著な変化を生み出した。6世紀初梁朝の建立後、域内は長期安定となり、経済が繁栄、陸続と都や宮殿、廟社の改建を開始し、南朝建築発展のピークと成った。北魏も洛陽遷都後、漢化を全力で推し進め、宮室建設に中原と南朝の長所を吸収し、またピークを形成した。この期間、南北の統治者は、皆仏教に追従し、帝王や貴族、顕臣らは狂気のように仏寺を建立し、豪華富麗を競い会い、多くの仏寺の壮麗さは宮殿に比べられるほどであった。北魏洛陽の永寧寺の大殿は魏宮の太極殿の如くに作られ、梁武帝は建康の同泰寺を建て、浮図は9層、大殿は6ヶ所、中の栢殿は、正に梁武帝の出家時の居所であった。梁と北魏の衰亡は、仏寺を大々的に興したことと関係があるが、新しい意匠や奇抜さを好み、仏寺を大々的の興したことは、客観的には南北朝後期の建築発展を促進した。
 遺憾なのは、東晋や十六国、南北朝期の建築は、それ以外の磚石塔を除いて、全部毀亡し、僅かに北朝建築は、今に残る同時期の石窟中に幾つかの壁画と雕刻に表現された形象に見ることができ、南朝建築はこのような形象すら無い。僥倖なのは、日本に現存する飛鳥時代の遺構は、中日学者の研究に依れば、朝鮮半島から間接的に伝わった南朝末期の建築様式と思われることである。それを傍証に、我々は其の中から少しばかり南朝末期建築の形象と特徴を推測出来る。
 材料の来現は異なるが、北朝と南朝の情況を検討し、その発展を総論する。

(1)北朝の建築構成と構造

 北朝の建築遺物は、正光四年(523)の登封嵩岳寺塔と安陽の北斉石塔等の磚石建築都除けば、木構造と土石混合構成の建築形象は、只雲崗や、敦煌、龍門、響堂山、天龍山、麦積山の諸石窟に見ることが出来る。
 敦煌石窟早期壁画中の建築形象はかなり少ないが、多くは土木混合構成建屋を表した形象である。第275窟は北涼の造った可能性があるが、その南壁の遊四門故事中に描く門闕の壁には上下3層の壁帯があり、明らかに外壁が上に架した木屋根の承重とする混合構成である(図2-11-5)。北魏の諸窟中、257窟西壁の鹿王本生故事と248窟の店休伎楽中の建物も厚い妻壁が描かれ、壁上には水平方向の壁帯があり、表現されるのも妻壁を用いて承重とする土木混合構成である(図2-11-6)。やや晩い時期の285窟西魏壁画の500強盗の故事などや、296窟北周壁画の須菩提本生故事、304窟西壁隋代壁画の天宮伎楽等、描かれる建物は皆厚い妻壁で承重とするものである(図2-11-7)。北涼より隋代まで、壁画中には極少数の全木構造架構の家屋が有るが、大量にある建築は皆外壁と妻壁で承重とし、上に架した木構造屋根の混合構成建屋である。この現象は少なくともこの時期の西北地区の建築の特徴を反映しているはずである。
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 雲崗石窟は、彫られた建築が主要に北魏の都した平城の当時の建築の面影を反映している。石窟の時期区分により、我々は異なる時期の石窟中の建築形式や構造がどのくらい変化下かで、北魏が平城に都した時期の建築上の発展を理解することが出来る。
 雲崗早期の曇曜五窟等は建築形象を表現したものが完全に無く、建築形象の主は第二期孝文帝時代である。
 孝文帝時代、専門家の分析に依れば、およそ5グループに分けられ、時代により7,8窟、9,10窟、11から13窟、1,2窟、5,6窟である。(その内、11から13のこの3窟中、12窟の完成は洛陽遷都以前で、11,13窟の2窟の完成は遷都後である)
 第7,8の2窟の建築表現は簡単で、構造ははっきりせず、論じない。第9,10の双窟は、皆前・後室を持ち、基本的に同じである。各窟の前は窟廊になり、面幅は3間、中央に2本の八角柱を用い、上には大斗を用いる、両端は日干しレンガを積んだように見せて、柱はなく、共通する1本の長い3間の横桁(頭貫)を承ける。横桁より上は甚だしく風化しており、構造は不明である(図2-11-8,2-11-9)。
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9窟の全室東壁と10窟全室の西壁の上部は浮彫で面幅3間の寄棟屋根の小殿を造り、中央の2本の八角柱もそうなっていて、両端は日干しレンガを積んだように見せ、共通の横桁で承け、桁の上は斗栱と叉手を置き、檐の桁を承け、組合わせて縦向きの架構を構成する(簡称して”縦架”と称し、奥行き方向の梁架構組合わせと区別する)。注意すべきは、2本の柱上に全て大斗があり、大斗の上に替木を用い、横桁の下で支えるが、桁上の斗栱は柱の中心線から離れていて、柱に対置していないことである(図2-11-10)。
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2窟の窟廊と前室の3間の小殿は、形式と比例が異なるとしても、皆3間2柱で、両端に日干しレンガ積み或は妻壁を用いて承重とする架構方式は全く同じである。その表現する所は、左右を妻壁で承重とし、前の檐は縦架として、下に2柱で支え、上に屋根を架す土木混合構成の建屋である。第9,10窟前室の後壁は後室の門で、木の門框を彫り出し、門額両端の方立の外まで伸ばし、古代の衡門の形式の如くである。但、門框の表面は凹みが入り、前壁の四周に沿って斜めの面に取り去って、その表現する所は厚い壁の中に木の門をあつらえた形象である(図2-11-11)。
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これに依れば、この2窟の表現は、主室は厚い壁で承重とし、木構造の前廊は土木混合構成の建屋である(図2-11-12)。この窟は一般に太和八年から十三年(484-489)王遇(即ち鉗耳慶時)が主導して開鑿したものとされる。王遇は平城に在った時、方山に文明馮太后の陵園と霊泉宮を建設し、洛陽遷都後、文昭太后の墓園、太極殿東西堂と洛陽宮内外の諸門を建設した。かれの監修した石窟表現に表れる建築の特徴は、当時の平城宮室の形式に一致する筈である。
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 第12窟形式は9,10窟と似ていて、これも前・後室に分かれ、前室は3間の窟廊で、左右壁の上部にも3間の殿を浮彫し、異なる所は、これらは4柱を用い、両端が本来日干しレンガ積みか妻壁の所を柱を用いていて、縦架上の斗栱と柱が対になる。従って第12窟の表現する建屋は、少なくともその外廊部分は全木構造のものである。斗栱と柱を対にすることは、木架構が縦架主体から横架主体への過渡期で有ることを表し、この時期建築上の発展の趨勢に有ることを反映している(図2-11-13)。
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 第5,6窟中注意に値するのは、塔の形象である。第5窟後室南壁上部の東西側に各1つの5層塔を彫り、その内、西面の塔は、1層から4層の面幅3間で、5層の面幅が2間となり、日本の法隆寺五重塔と間数と層数が同じで、二者は相互に証明しあい、その架構の特徴を推測出来る(図2-11-14)。第6窟中心柱上部の4隅に4つの9層方塔が彫られ、その底層四隅に各一小塔が附属し(図2-11-15)、朔県崇福寺原蔵の北魏天安元年(466)石塔下層の情況と同じで、この時の塔の特殊な構造方法である。第6窟四壁の仏伝故事の浮彫は、底層に一巡の回廊、柱上に大斗を用いて頭貫を支え、一斗三升(注;一大斗と三小斗の平三斗)の斗栱を柱頭の斗栱として、柱の間には叉手(注;割束)を用い、檐桁及び屋根を承ける。これは一般の宮殿や仏殿中の回廊を克明に写した筈のものである。回廊より上の浮彫の仏伝中に、かなり多くの建築形象があり、全て四壁に厚い壁を用い、正面は凹ませた門框とし、壁の上に斗栱と叉手を組合せた縦架を用い、上に屋根を承け、表現は依然下には承重とする厚い壁、うえには木構造の土木混合構成の建屋である(図2-11-16)。
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 総じて雲崗第二期石窟中に表現される建築形式と構造は、見る限り、平城地区早期の建築は、主要に土木混合構成で、その後、逐次屋根身舎混合構成や外檐木架構と全木架構方向に向かって変遷していく。これは、敦煌及びその他北朝石窟中に表わされた趨勢と一致する。
 この時の建屋の木架構部分は、屋根身舎方向に向かって平行で、横桁(頭貫)と檐桁の間に斗栱と叉手を配置し、組合せは平行弦桁架構の縦向きのコア功と類似し、前後の檐壁上に置き、前檐は門窓がある時は、下に柱で支え、柱頭に大斗を用いる。但し柱及び大斗は縦架上の斗栱に対してはいない。奥行き方向は梁と叉手の組合せを用い、横向きに梁に架す。柱は只簡単に縦架の下を支え、全体の建屋の縱橫の双方向の安定は、只厚い壁で維持しているだけである。即ち、全木架構を、その妻柱や後檐柱までも土壁中に包み込み、柱列の安定を保持させているのである。
 龍門石窟に彫る建築形象は、主に洛陽遷都時に開鑿された古陽洞と北魏末東魏初開鑿の路洞柱に、北魏遷都後40年間の建築上の格好の発展と変化を見ることが出来る。
次回に続く



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# by songofta | 2017-07-21 21:34 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

240 南北朝の仏教建築 5 洛陽永寧寺塔と登封嵩岳寺塔

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第二章 両晋南北朝建築
第7節 仏教建築


 ※北魏の建築で現存するのは、レンガの塔(磚塔)の嵩岳寺塔だけである。この密檐式塔は突如表れる。また木造(塔心部は土木混交で純木造では無い)では、永寧寺塔遺跡が出て来る。恐らくは史上最も高い木造塔であったろうが、巨大な基礎と基台が発掘されたが、現在の所、唯一の発掘木塔資料のようだ。日本の塔とは異質なものであるだけに、鮮卑族の漢文化受容の違いも感じる。木造の古塔は、山西省の応県木塔(現存する世界で最も高い木塔)と河北省正定の天寧寺塔(下層は磚積みで上層が木塔)だけである。
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         (参考) 永寧寺塔の推定復原図 (百度百科より)
     
     
(5)北魏洛陽永寧寺塔
 北魏孝明帝の煕平元年(516)、洛陽永寧寺の九層の浮図を起ち上げた。神亀二年(519)に至って“装飾は華を悉くし”、当時の中国領域内で第一の大塔で、時の人はこれを言うのに西域の雀離浮図(※1)と“倶に荘重で素晴らしい”。但この塔はたった18年しか存在せず、永煕三年(534、北魏最後の1年)二月火事により全焼した。
   (※1) 《魏书・西域传》:“(乾陀国)所都东城南七里有佛塔,高七十丈,周三百步,
      即所谓‘雀离佛图’也。” (乾陀国の都から南7里に仏塔がある。高さ70丈、
      周300歩、即ち言う所の雀離塔である)
 永寧寺遺跡は今の洛陽市の東15kmの漢魏故城内にあり、東は城中央南北の銅駝街から250m、東北は宮城の南門から約1km。1963年、中国社会科学院考古研究所洛陽工作隊が遺跡の平面配置の探査を行い、1979年発掘を開始し、先ず遺跡の中心、仏塔の基礎跡を発掘した。簡報中の記述では、遺跡の情況は以下の通り:
 塔基は上下2層の版築の台がある。底層の台基は、東西101m,南北98m、高さは2.5mを越え、これは仏塔の地下基礎部分である;上層の台基は底層台基の正中央に位置し、四周を切青石で包み、長さと幅は均しく38.2m、高さ2.2mで、これは地面以上の基座部分である。基座の四面正中央は、各一本の斜面の馬道がある。
 上層の台基上に124本の方形の柱礎跡があり、その中に残留した木柱の炭化痕跡及び部分的礎石が有った。柱礎は内外に5周、碁盤目に配置;最内周は16個、4個1組で、四隅に分布;第二周は12個、毎面4柱;第三周は20個、毎面6柱;第四周は28個、面毎に各7間8柱;第五周は檐柱で、計48柱分、面毎に各9間10柱(※2)
    (※2)第五周は、四隅部が隅の3柱と少し離れた内側にもう1柱の4柱で
      1組構成のため、9間10柱 で48柱になる。
第四周の内側に、日干し煉瓦を積んだ方形の実体があり、長さ幅が均しく約20mで、残高で3.6m、東西南の3側壁面は中の5間に、其々仏龕の遺跡があり、北側壁面は仏龕が見当たらず、却って1列の20cm平方の壁貫があり、梯を掛けるのに用いたと推測される。外周の檐柱の間は、壁の基礎が残っており、高さは20-30cm、内側には彩色絵があり、外側は紅色に塗られ、併せて戸や窓の痕跡も保存されている。同簡報が発表した遺跡の俯瞰写真によって、仏塔の底層の間の広さは基本的に一致し、外檐の隅部に作る2本柱及び隅肉内の外の添え柱位置、並びに間の広さは階段幅及び馬道の斜度等と比例関係にある(図2-7-21)。
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 北朝の文献中の洛陽永寧寺に関する記載は、主要に以下の3ヶ所で:
 魏収《魏書》巻114〈釈老志〉;“粛宗の煕平中、城内太社の西に、永寧寺を起こす。霊太后は自ら百僚を率いて、標柱を作り塔刹を建てる。塔は九層、高さ40余丈。諸費用は計算も出来ない”。
 郦道元《水経注》巻13〈谷水〉;“水の西に永寧寺があり、煕平中に創建され、九層塔に作り、塔の基台は方14丈、金露盤の下地面まで49丈。代都の7層に方法を取り更に高く広くした。二京の盛んなことや、五都の富は、寺廟霊塔に有利とは言っても、未だこのような構造は無かった。
 楊衒之《洛陽伽藍記》巻1;“永寧寺は、煕平元年霊太后胡氏の建てたものである。宮城の前阊阖門の南一里の御道の西にある。・・・・・・・中に九層塔があり、木材でこれを架す。高さ九十丈。上に金の塔刹があり、また高さが十丈で、併せて地面から一千尺である。・・・・刹の上に金の宝瓶があり、容量は二十五斛(=10斗)。宝瓶の下に金の承露盤を十一個重ね、周囲は皆、金の風鐸を吊り下げ、また鉄の鎖が四筋あり、塔刹から塔の四隅に向かって引かれる。・・・・塔は九重、隅は皆金之風鐸を下げ、上下併せて120個の風鐸がある。塔は四面あり、面毎に3つの戸と6つの窓を持つ。戸は皆朱色の漆で、扉には各5行の金釘が打たれ、併せて5400枚、また金の門環(※3)がある・・・・・・”。
   (※3)門環;原文は「金環鋪首」、多くは直径10数㌢の円形のシンバルのようで、
      門にかけられており 中央には輪がついている。客は来訪の際に門に吊り下
      げられている輪を扉に打ち付けてコンコン(澄んだ)音を立てる。主人は
      客の来訪を知ると扉を開けて迎える。
考古発掘と文献記載を対照すると、互いに実証出来るのは以下の数点である。
一、塔基の位置は、宮城の南門の西南、銅駝街 (御道)の西側250mで、《洛陽伽藍記》所載と基本的に符合する
二、塔基上層の長さと幅は約38.2m、《水経注》の記す“方十四丈”と基本的に符合する。北魏の尺度は今の制度で25.5~29.5cm/尺の間で、即ち十四丈は今の35.7~41.3mの間。もし38.2m=十四丈で割ると、建塔時の用いた尺度は27.29cm/営造尺となる。
三、塔基は方形平面で、面は各九間、土木構造は、檐柱間に門と窓の痕跡があり、《洛陽伽藍記》中の“木材でこれを架す”及び“塔は四面、面は3つの戸と6つの窓がある”の記載と一致する。

 これとは別に、幾つかの問題は考古発掘中に解決が難しかった。例えば塔の層数や高さ及び外観の造型等で、但文献記載と既知の形象資料と対照して分析した基礎の上で推定を加えた。
 塔身の九層は、未だ異議を見ず、定説に属すべきであろう。但し塔の高さは、統一した節が無い。その内、郦道元の記す “金露盤の下地面まで49丈”は、相対的に信頼出来るデータである。これに從うと又有る、“代都の7層の方法を取り”、即ち平城永寧寺7層仏塔の制度で建造の言い方は、現存の北魏平城時期の仏塔形象を参照して検証に追加することが出来る:
 雲崗石窟仏塔中、3、5層塔の塔身の高さは、一般に底層の面幅の3倍位で、第7窟の浮彫7層塔と第6窟中心柱上層四隅の9層塔は、塔身高さが底層面幅の5倍位である。これとは別に推測に拠るが、曹天度の造った9層千仏小塔の塔身の高さはおよそ底層の面幅の4倍余である。ここから推定すると、平城仏塔の高さと底層面幅の比は仏塔の層数により異なって変化するが、但最も多くても5:1であろう。
 簡報に拠れば、塔基第4周の木柱土台は方20m、柱礎の寸法と間の距離を考慮し、即ち塔身中心の7間面幅は22m(魏尺で8.06丈)前後で、これにより計算すると、間の広さは8.06丈/7=1.15丈。外周の檐柱の万幅は9間、即ち1.15X9=10.35丈、加えて隅の添え柱の柱距離を加えると、約11.25丈、これは49丈の1/4.35で、上述の平城仏塔と、とりわけ曹天度造像塔の比例関係と符合する。《水経注》中の塔高及びその“代都の7層の方法をとり”を証明する記載は信じられる。
 既知の平城の多層木構造仏塔形象中、塔身の下層から上層の層幅の逓減、層高の逓減、各層の檐口外縁は基本的に1本の直線で構成され、且つ底層の檐口の地面からの高さ距離は、上層の檐口の間の距離より大きい。これらの規律を参照して、永寧寺9層木塔の各層の面幅と層高を推算することが出来る(表2-7-2)。その内、底層の層高は7丈、露盤の地面からの高さは49丈/7;底層の柱高3.75丈、これは底層の面幅11.25丈の1/3、又塔身総高(頂層屋根棟上皮から階段面)45丈の1/12;第6層の間の広さ0.9丈、面幅9丈、層高4.5丈、これは寸法が最も整った層である(表2-7-2)。この塔の間の比例は狭く高い、これは高層建築は上部の巨大荷重を承ける為、柱網を密にする工法を採ったものである。この種の情況は漢代の石廟雕刻及び北朝から隋唐の石刻楼閣形象中に見つけることが出来る。北朝石窟中の仏殿窟の間の広さは最大で4.6mに達する(麦積山代4窟)、このようにして、上面を推定し、北朝第一の大塔である永寧寺塔は、底層の間の広さは僅かに1.15丈(換算して3m)。当時の仏塔と仏殿の設計と異なる規制であると知られる。
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 石刻仏塔形象は、永寧寺塔の外観形式を推測する参考になるとは言え、両者は実際の効能は異なり、外観にかなり大きな違いがでる。その内、特に石雕塔身の表面は大きく龕像を彫り、永寧寺塔の塔身四面には”3つの戸口と6つの窓があり”、仏龕は即ち中心土台の側壁に設け、表面に龕を設けた一座の仏塔の外に一周の木構造の外廊を作って巡回礼拝の通り道を作る。それとは別に、石雕仏塔の塔身の上下層の間には僅かに斜め屋根面の瓦軒があって、平座(※4)は見当たらず、永寧寺塔は各層の四面には戸口があり、内から外に出られる説明するので、即ち各層には平座があり、勾欄を設けて周囲を保護した。
    (※4)平座;塔身と勾欄の間の通路部分。回廊。
 塔基遺跡の中心は方形の土台で、当時の塔建築は、依然として秦漢以来の台榭建築(※5)から抜け出せず、高い台の上に木構造を架構し、木構建築の外観を持つ構造方式であった。但、土台の上の柱礎遺構が表明するのは、この時已に基本的に完全に成熟した木構造で重力を承ける体型が形成され、只中心高台は構造の安定作用を助ける為だけのものとなっている。それとは別に注意すべきことは、底層の檐柱の隅角の部分で、依然として漢代建築中の双柱で荷重を承ける工法を保持しているが隅肉の外に一柱を増やしていて、これは木構造技術が尚発達不十分な時期で、隅角の堅固さを確保するために採った必要処置である。
   (※5)台榭;古代中国で、宮殿等の建築には、高い版築の土台を築き、その上に
      木構造の高殿を造った。 木構造部を榭と言い、土台と併せて台榭と言う。
      初期には、無壁で規模の小さなものだったが、次 第に高大な房屋に成って
      いった。
 塔基の中心には、一辺が1.7mの竪穴があり、穴の内壁四面は皆版築で締められ、簡報に依れば、木塔の地宮である。《洛陽伽藍記》巻1永寧寺の条に記す、胡太后立塔の始め、“百僚を率いて、基を表し刹を立てる”、又記す“永煕三年(534)二月、塔は火により燃え・・・・・、火は三月にも消えず、火は地中の刹柱にも入り、1年を経ても煙の匂いがした。”、これにより、中心竪穴は刹柱を立てた所で、塔身の真ん中には上下に刹柱が貫いていた筈である。南朝文献中に多い“刹下の石に記す”或は“刹下の銘”、日本の飛鳥時代の仏塔基礎中に均しくある刹下石(心礎、最早の例は6世紀末の飛鳥寺塔)で、その上に円形或は方形の凹槽を掘って刹柱の柱脚を据え、凹槽の底部或は側面に舎利を置く小孔を設ける。永寧寺塔基の中心竪穴は破壊に遭い、具体的な情況は深く明らかにできない。
 洛陽永寧寺塔は煕平元年(516)に建てられ、先の平城永寧寺塔の建造(467年)から已に半世紀が経っている。且つ南遷の後、北魏の建築芸術と装飾は均しく更に多くの南朝の影響を受入れた。故に洛陽永寧寺塔は、外観形式と細部処理上、全て平城早期仏塔と一定の違いがある。実際、この種の差は大同雲崗石窟の早期、晩期の石雕仏塔形式及び雲崗、龍門両地の家型龕形式の変化の中にも見ることが出来る。
 以上見てきた建築尺度、比例、構造、外観諸方面の初歩的な探求に関して、洛陽永寧寺9層木塔の復原図を描いた(図2-7-22,23,24)。その中で尚多くの具体的問題がいま一歩深く検討が必要で、皇崗発掘の証明を待つ所である。
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         (参考) 永寧寺塔の推定復原図の一つ (百度百科より)

(5)河南省登封嵩岳寺塔
 嵩岳寺は即ち、北魏嵩高閑居寺で、隋代に改名した。寺内の仏塔は、現存する唯一の南北朝時期建築の実例である。
閑居寺は北魏宣武帝の永平年間(508-511年)に建てられ、皇室の建てた寺である。孝明帝の正光元年(520年)正式に寺名を掲げ、多く拡建した。仏塔の創建もこの時の筈である。同年7月、朝廷に変乱があり、工程が止まった。大体正光四年(523年)にやっと工事が再開した。近年、塔下の地宮から(大魏正光四年)銘記の仏像が発見されたのも、この点の実証となる。 閑居寺の沿革及び寺塔の記載は、最早が唐の李邕の選になる《嵩岳寺碑》の碑文に、“嵩岳寺と言うのは、後魏孝明帝の離宮である。正光元年閑居寺と掲げ、宏大な仏刹は、国財を尽くす。僧衆はたくさん集り、700の衆であふれる:堂宇はおおらかに広がり、千間を超える。・・・・・(隋の)仁寿二年、嵩岳寺と名を変え、・・・・・15層の塔は、後魏の建てたものである。地を発するに4つにして高く聳え、天に届く程で八相に変化し円になり、方丈は12(※)、門と窓は数百”。
    (※)方丈12;円形だが、面で言えば12面体の意か?禅宗の方丈ではない。
 嵩岳寺塔の現状は、15層の密檐磚塔で、塔身の平面は12辺形までで、各層各面は皆、1戸2窓の形象で、碑文が述べる所と符合する。塔下の地宮と塔身は磚(焼成レンガ)を用い、熱ルネッセンス年代測定を行った。年代は今から1560(1580)±160年前で、これもこの塔が北魏の原物の証明である。嵩岳寺塔の塔身と基座は均しく磚積みで、塔刹だけが石彫であり、その中の仰蓮より上の部分は唐末宋初の修繕で追加された。
 磚塔の底層の東西南北に門が開き、塔内は塔頂まで真直ぐ塔心室となり、心柱は無く、塔心室の底層は正十二辺形の平面を作り、上段以上は正八辺形に変える。塔身底層は直径約10.6m、塔心室の内径は約5m、塔壁の厚さは約2.5m(図2-7-25)。
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 磚塔の高さは約39.5m。高さ約1mの台基の上に在り、15層の密檐塔身である。底層の塔身高は約9m、上下2段に分かれる。下段は四正面に門が開設されるのを除けば、その他の8面の壁には何も無く、やや収分があり(上が細くなる意)、上周は持送りで迫り出し、上段の塔身を承ける。上段の塔身は直径が略下段より大きく、壁体は収分が無く、平面の隅の折れる所には八角形の倚柱を積出し、柱下は覆盆礎として、柱頭は火珠垂蓮で装飾する。四正面の門道は下段で連絡する。門の上は半円のアーチで、外飾は尖アーチ面である。その他の8面は均しく倚柱の間に積出した1座の塔形の小室を作る。小室の下基は直線の方形で、中に2つの壺門があり、内に獅獣を彫る;室壁の中央にアーチ門を開き、上は亦尖アーチに飾る;アーチ門の中は心室があり、元は像を置いたが、今は無い。室頂は覆鉢で山花蕉葉、側面は隅角の処理を設け、表現は一種方形の建築形式を意図している。嵩岳寺塔の底層上段の塔身高さは、底層下段の持送りの上面から塔刹の覆蓮底部までの高さの1/5で、これは全体設計の方法と関係があるかも知れない。外観の造型から見ると、この一部分も塔身全体の中の充填的な装飾部分である。
 底層塔身の上は、14層の密檐式塔身で、層を逐って内に退き且つ高さを逓減する。第2層から始まり、塔身高さはわずかに0.5m前後で、隅部は倚柱が無く、各面の正中央は尖アーチ門で、両側に各1個の方形の連子格子の小窓が有る。頂層は面幅がかなり狭く、僅かに四正面に門を設けるのみで、その他の8面に窓は無い。各層の塔身は低いとは言っても、持送りの檐の迫り出し長さは皆、底層上段と同じである。これにより、塔身の1層1層毎の収分は、各層の檐の出の外端を結ぶ線は、1本の優美なアーチ形曲線を形成する。塔刹の高さは約4m。下から上まで石彫の覆蓮や束腰、仰蓮及び磚を積んだ7層の相輪と宝珠である。前に述べたように、磚積みの部分は後世に加えたもので、元の塔刹形式及び高さは考察できない(図2-7-26)。
 嵩岳寺塔の造型と構造方式は、全く北魏時期に流行した多層方塔と異なる。その十二辺形平面や底層が高く大きく、上部各層が低い密檐仏塔の立面構図及び塔心が中空の筒状構造方式は、均しく已に知られた北魏仏塔形象中には見ることが出来ない。但し、この塔の規模は宏壮、造型は優美、設計手法は爛熟、濫觴時期とは思えない作品である。東魏天平二年(535年)の《中岳嵩岳寺碑》に記す北魏太和八年(484年)、高僧生禅師が嵩山に始めて仏寺を建てる時、“そこで千善霊塔15層を建てようと、始め7層までで、缘が届かず中止。7層の状態で、・・・・仏法光興よりいまだこの様な壮観を見ず”。その15層の高僧は、嵩岳寺塔と同じで、当時平城の仏塔形象中、9級を超えるものはなく、それもまた密椽塔と疑う者でもない。即ちこの類の塔は、早くは平城時期に已に出現したが流行せず、遷都後、嵩山は中岳の尊さを以って、皇室が重視し、嵩岳寺様式の塔は或は人々の注意を引き始めたのかも知れない。史料記載に拠れば、北朝晩期已に層数が17層に達した仏塔があり、嵩岳寺塔と同一類型の密椽磚塔の筈である。
 《魏書・釈老志》が記す、“煕平元年(516年)沙門恵生を西域に遣わし、諸々の経律を採集した。正光三年冬、都に戻る”。《洛陽伽藍記》に記す、恵生と宋雲一行は西域乾陀羅城に至り、雀離浮図を礼拝した後、“恵生は遂に旅費を削って、良い工匠を選び、銅に雀離浮図の様一躯を模した”。その西域の道行きを記録するに留まらず、経典と仏像を携えて帰国し、皇室二献上したが、正に嵩岳寺塔を建て始めた時で、故に嵩岳寺塔の造型にこの事の影響が関係したかも知れない。
 嵩岳寺塔塔身の細部装飾中に採用された一連の造型は、北朝康煕石窟中に大量に出現する。例えば火珠垂蓮の柱頭形式及び門窓の尖アーチ面は、北斉響堂山や天龍山、北周麦積山石窟は中に全て良く見られる。これ等の明らかに外来の特徴を持つ装飾造型は、この一時期、外来仏教芸術が、漢地仏教建築の形式及び風格に変化発展を起こし、従来とは異なる影響を与えた事を語っているが、具体的に来源はまだ証明を待っている。




  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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# by songofta | 2017-07-19 23:25 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

239 南北朝の仏教建築 4 仏塔の形式(2) 

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第二章 両晋南北朝建築
第7節 仏教建築



(4)造像塔と墓塔
①造像塔
 東晋十六国以降、内置する仏像や供養する者が都に入って像を見て礼拝する仏塔以外は、建造規模がかなり小さく、内部空間を備えない造像塔も、信徒達が功徳福利のため喜んで建てた。この類の造像塔は或いは仏塔の周囲に立て、或は仏堂や精舎及び窟室の中に置いた。現存の重要な実例は、北涼石塔と北魏の2座の造像石塔である。
 甘粛省出土の北涼石塔は12件、外観は大体円柱形で、高さ30~60cmで異なり、直径は高さの1/3~1/4。底部にホゾを出し、元は基座の上に置かれた筈である。東晋は数層に分かれる:下層は八稜柱体に作り、面毎に1幅の人物像を彫り、像の上側に方位に対応する八卦の符号を刻む:中層は経文或は願文を刻む:上層は仏龕が一周し、通常七仏と弥勒を配置し、上下2層仏龕の工法もある。塔頂部分は円錐体に相輪と宝瓶を雕りだし、宝瓶には星象図を刻む。北涼石塔の年代は皆5世紀前半で、塔身と仏像は西域の風格を具有し、同時に又、漢地の道教の八卦や星象符号が入り混じり、未だ早期仏教は方士の神仙迷信相互の附会する特徴から徹底して脱し切れていない(図2-7-16)。
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 北魏時期の造像塔は、多層方塔の形象を示す。その内で、著名なのが天安元年(466)に造られた平城曹天度造像塔である。塔全体は、底座、塔身、塔刹の3部分に分かれ、総高さ約2.5m。基座の四面は、供養人像と発願文が刻まれる。塔身は9層で、底層各面の正中央に龕を造る以外、各層四面いっぱいに千仏を彫る。各層の塔檐は皆、傾斜屋根を作り、檐の軒と瓦を刻む。底層は4つの角を持つ。各1座の3層小塔を作り、塔頂は亦傾斜屋根を彫り、上に鴟尾を置く。塔刹の残高は49.2cm、完整な単層方塔形象を呈し、これは特別な例である。刹頂部分の造型は、下に山花蕉葉、中は伏鉢、上は九重の相輪(図2-7-17)。
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曹天度塔の体量と造型は、北魏文成帝の仏法復興の後、平城仏塔の形式がかなり大きな発展をしたことを反映している。史料に依れば、当時平城で最大の永寧寺塔は7層だけで、造像塔には已に9層の塔身が出現している。だが、雲崗第6窟中心柱上層の四隅の9層小塔に比べ、曹天度塔の形式は、已にかなり多くの早期の特徴を帯びており、例えば塔身一杯に千仏を彫り、且つ梁と柱の構造を表現しておらず、唯塔檐に漢地の屋根形式を採用するだけである。この種の情形は孝文帝の太和年間に更に改変され、北魏造像塔の別の典型的な実例は甘粛省酒泉出土の曹天護塔で、年代は太和二十年(496)、現存の全残高さは38cm、僅かに有るのは底座、塔身及び塔刹の下部の方座のみで、上部の覆鉢や相輪は無い。塔身は3層、面は方形16cm、各層は面幅3間四柱の木構造仏殿の形象を表現し、柱頭に斗栱と頭貫を彫り出し、塔檐上に瓦屋根を彫り、下に檐軒を刻み、外観形式は雲崗中の仏塔、特に第3窟窟外の平台上両側の3層仏塔に充分近い。前述の北涼石塔と曹天度塔を較べると、明らかに北朝仏塔形式が漢化する過程が見出だせる(図2-7-18)。曹天護塔の出土地点は、北魏中期以後、域内各地の仏教芸術が、大きな程度で平城模式の影響を受けている。即ち、西域に近い河西回廊一帯でも、例外ではない。

②墓塔
 西晋末から、漢地に僧の墓塔或は焼身(火葬者)塔の工法で建造する塚が出現する。前者は本来、印度の高級な葬式で;後者は、西域地区の葬俗であり、仏教の東伝に従って、先ず涼州、秦隴、蜀地に流行し、後に内地に伝播した。東晋太元五年(380)、僧竺法義が建康で亡くなり、孝武帝は“銭10万で新亭崗を墓として買い、塔3層を建てた”。北魏沙門恵始の死後10年(445年)、平城南郊に改葬し、“塚上に石の精舎を立て、その形象を訊ねるに、(武帝の)廃時、尚全てが立っていた”というのは、北朝の僧の墓塔上に僧の法像が彫られるかなり早い例証である。焼身塔の工法は、相対的に晩く出現し、北魏早期では、尚火葬が許されず(闍维の法)、北朝後期にこの法が相当流行した。
 早期の僧の墓塔形式は、記載に依れば、多くが3層か単層磚石塔である。焼身塔の実例は、北朝後期の安陽宝山(霊泉)寺の道凭法師の焼身塔である。塔高2m余、単層石造。方形基座2重、高さの1/3強を占める。方形塔身は、立面は正方形に近い。南に向いて拱門(アーチ)を開き、上側は尖った拱券とする。塔身に重ねた軒を出し、塔頂は覆鉢で、四周に巻葉紋を彫り、中央に相輪宝珠を立てる。塔身の南壁下に” 宝山寺大論師道凭法師焼身塔”、併せて”大斉河清二年(563)二月十七日”の銘文を刻む。塔心室は中空だが、未だ造像は見られないが、寺内の隋唐時期の浮彫焼身塔の多くが僧の法像の情形が有ることから推測して、道凭法師塔には本来道凭法像が有った筈である(図2-7-19)。安陽の僧の焼身塔と北斉石窟柱の浮彫仏塔を較べるとその外観形式が一致するのを見ることが出来る(図2-7-20)。歴代僧の墓塔(焼身塔)の形式を推測すると、全て当時当地で流行の仏塔と類似しており、只規模や体量がかなり小さく装飾が簡単に省かれているだけであろう。
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  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


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  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服
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# by songofta | 2017-07-19 22:14 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

238 南北朝の仏教建築 3 仏塔の形式(1)

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第二章 両晋南北朝建築
第7節 仏教建築



3.仏塔形式 
 仏塔(造像塔、僧人の墓塔を含む)は、外観上通常は基座、塔身、塔頂の3つの基本部分で構成される。塔の形式変化は、各部分の比例、様式及び構成形式の改変で表現される。この種の変化は、更に多くの異なる時期の外来仏教芸術の影響とその土地の建築形式の制約によるものであり、塔の効能及び構造方式とは直接の関連は無い。例えば塔の効能が、仏像の安置や舎利の供奉或は墓所の為に作るとしても、外観造型上は相応する厳格な区別は無い;同一の時期と地域に在って、異なる構造方式で建造した同一風格様式の仏塔が存在し、そして又異なる時期の仏塔中に、却って同一材料と工法を採用していても、仏塔形式が尽く異なる情況がある。漢地仏塔形式の来源と発展は、内外両方面の要素の作用と密接に相関がある。現存の南北朝期仏塔の形象資料と実物の例証に関して、石窟雕刻と壁画中の仏塔及び小型造像塔と墓塔を除いて、まだ2つの充分重要で貴重な例証がある;これは、考古発掘により提供された北魏洛陽の永寧寺九層仏塔の遺跡情況であり;それとは別に現存唯一の北朝地面建築の実例――北魏嵩山閑居寺(後に嵩岳寺)十五層密檐磚塔である。この2つの例証は漢地仏塔の発展の特徴を研究検討するに際して、充分重要な意義を備えている。この他にも、新疆地区の古城遺跡中に今まで幾つかの早期仏塔の残跡が保存され、漢地仏塔と西域仏塔に形式の変遷上の相互の影響に、有益な証拠を提供する。

(1)漢地仏塔形式の本源
 後漢時、漢地には已に仏塔があった(前文を見よ)。魏晋文献中、呼び慣れた“浮図(浮屠、仏図)“は、南北朝期に、”塔“と”浮図“は併用された。仏教経典が転訳されるにつれて、漢地にも又、仏塔が”卒塔婆(Stupaの訳から来る)、“支提(Caityaの訳から来る)”等の呼称及び仏図の各種釈義が知られた。実際、どの釈義も全て仏塔の特定の発展段階の形式と効用を反映していた。仏塔名称の多くは、正しくそれが不断に新形式と内在的要素が発展していることの表明している。同時に、仏教の伝播と仏教中心の転移につれて、各時期や各地区の典型的な仏塔様式も、形式上の変異を出現している。
 文献記載により、漢地仏塔の出現と期限前後の西域地区仏教の東伝は密接な関係がある。
 《魏書・釈老志》中の仏塔の解釈と形式の記述は、作者魏収(東魏人、505-572年)が外来仏典中の仏塔に関する釈義の理解と漢地での建塔活動を理解していたことを反映している;先ず、仏塔は仏舎利を安置するために建造する宮宇で、漢地の宗廟の如きものであり、人々が入って礼拝する場所とした;次に、洛陽白馬寺浮図が完成した後、漢地の仏塔のモデルと成った;魏晋以来の仏塔は、天竺の特徴を保持しているとは言え、層を幾重にも重ね、層数は一から九まで、只奇数を取り(上下の文を連係すると、洛陽白馬寺浮図は天竺様式である)。後漢の使者が前に西域に取経に言った史実と已に実物資料により、その強調する“天竺式”は即ち北印度クシャン朝時期の仏塔形式で、印度南方の早期仏塔形式ではない。
 今知られる印度南方の早期仏塔は、一種類は仏骨(或いは高僧の遺骨)を埋蔵する墓塔で、塔期が円形平面で、上が覆鉢状の塔身、頂部中央に神祠及び傘蓋を立て、基座の辺縁と傘蓋四周及び塔の外縁に欄柵を廻し、入口の所に標識性の塔門が有り、全体の比例が扁平で広い。紀元前1~3世紀建立のサンチー大塔は、この種の仏塔の典型的な実例である;もう一種は、礼拝窟(Caitya)中に立つ小塔で、その外観構成は大塔と似せてあり、只各部分の比例が改変され、特に基座が高くされ、全体の比例は痩せて長く、段々と2層基座の工法が出現する(図2-7-6)。
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 紀元1世紀以後、仏像芸術が西北印度のクシャン朝域内で流行し始める。同時にギリシャやペルシャ及び中央アジア地方の建築形式の影響により、この時の仏塔形式は南方の早期小仏塔の変化に沿って更に一歩発展させ、大量の新しい建築造型の語彙を融合した。最も顕著な変化は、方形平面の基座の出現で、四面には倚柱で間を分け、柱頭はギリシャ、ペルシャ風格の様式で、柱間には仏龕は無い。塔身部分も同様に方形や多層、表面に列柱と龕を設ける工法が出現する。多層基座の変遷に直面して、人はこれを“重層基壇”と称した。本来、塔身主体であった覆鉢は、その比例が相対的に縮小して、段々退化し、四周的に傘蓋部と合併して、塔頂部分となった。中央アジア地区に現存するクシャン朝期の仏塔は、大体方形基壇の上に建てられる。タキシラ(今のパキスタン、ラワルピンディの西北)出土の方形多層陶塔は、ガンダーラ仏塔の典型的風格を体現する。文献記載の西域乾陀羅城(今のパキスタン、ペシャワールの西北)東南に塔廟があり、雀離浮図と言う。塔基は方形、周300余歩、層基は五層、高さ150尺、その上に十三層の木構造の塔身が建ち、上に又金盤13重、併せて地面より700尺。建造年代は、およそ紀元2世紀中頃、世に言う西域第一大塔。これにより知ることが出来るのは、方形重層の仏塔は当時西域一帯で流行の仏塔形式の一つである。
 同時に、西域地区では、まだ方形基座の上に円形平面の塔身が立つ工法が流行していた。基座の正面は、門洞を設け、四面に倚柱を配列し、方形の殿堂形式を表現する。今のアフガン東北部一帯と中国西域の新疆地区の古代遺跡中に、今に至るもこの種形式の仏塔を見ることが出来る。塔身表面も上下数層に作り、倚柱を切出すか仏龕を設置する(図2-7-7,8)。明らかにこの両種の方形基座や多重塔身は、主要な特徴とする西域仏塔形式と魏収が言う所の“天竺様式”の間には明らかな連係がある。
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 文献記載と考古発掘及び石窟中に出現する仏塔形象中から見出すことの出来るのは、漢地仏塔は構造工法と外観形式上種々異なると言っても、全体の発展の趨勢は重(単)層方塔を基本形式を採用している。この方面では西域仏教芸術の影響であり、それとは別に、漢地固有の建築構造体系及び伝統習俗と大きな関係がある。戦国期より、土木混淆の台榭式建築構造体系は已に中国北方で成熟に向かっていて、同時に構造に多層楼閣を建造する工法を採用している。この種の情況の下、西域仏塔中の方形重層様式を受容するのは、充分自然であり、似合っている。漢代の盛行した巫祝神仙の迷信は、”千人は楼居を好む”の言い方に照らして、都から地方まで多くの神仙を求めて建造した重楼式建築がある。当時は正しく”浮屠と黄老は同じく祀る”時代で、これにより、この種の習俗も漢地出現の方形木構造重楼式仏塔の一つの重要な原因と成った。

(2)漢地仏塔形式の変遷
①層数と体量の変化
 漢より南北朝に至り、漢地の仏塔の層数は増加し、体量を大きく加える趨勢は明らかである。
 前述の《牟子理惑論》に記す漢明帝の時、洛陽西門外に仏寺(即ち白馬寺)を建て、”人はその壁画に向けて車馬が盛んに行き交い、塔をめぐること3周“。当時(紀元1世紀前後)の西域仏塔の基本的な特徴を推測すると、下は3層の基壇の仏塔で有る筈で、各層の基壇外壁には全て壁画が描かれる。前述の《魏書・釈老志》記載の、白馬寺浮図建成後、漢地仏塔の規範となり、且つ仏教が初めて中国に入り、各方面の制約を受け、仏塔建造は大きな発展が出来ず、三国西晋時期の仏塔形式は、白馬寺浮図に近いものであった。《洛陽伽藍記》の城西宝光寺の条に記す、寺は西陽門の外御道の北(白馬寺は西陽門外3里、御道の南)、寺内に”3層浮図一つ、石で基台を作り、形制は甚だ古く、画を描き雕刻をする“、隠士趙逸が指す西晋石塔寺は、その言うことに“晋朝三(四)十二寺尽く皆焼亡し、唯一この寺のみ存す”。この3層石塔の形式は、勢い白馬寺浮図の影響を受けている。文献記載に依れば、漢魏西晋時期、漢地は尚3層以上の仏塔は出現せず、塔身の体量は構成の仏塔よりかなり小さい。
 東晋十六国時、仏教は迅速に流布し、社会は仏教建築活動の熱情と財力の投入も大きく増大し、仏塔の層数と体量は更に発展を開始した。釈道安が南下して襄陽に壇渓寺を造ったのは“5層の建塔”で、後趙期5層の仏塔(345年前後)の出現は可能であった。この後、前秦の長安と北魏の平城に相次いで5層の大塔が出現する。この時層数が増加しただけではなく、仏塔の体量もかなり前期より宏大となった。これとは別に、史料に記載する、東晋期4層の仏塔が出現し、例えば荊州の四層寺や永興崇化寺(347年建)は、皆塔は4層で立ち、また南朝初期、長安は六重寺が有り、この期に出現した一種の過渡期の現象で、その後みることはかなり少ない。
 南北朝期、7層塔が出現し始める。北魏平城の永寧寺塔(467年)及び劉宋建康の荘厳寺塔(454-465年)は、みな7層である。平城永寧寺塔は“高さ300尺、基台架構は広々とし、天下第一”、当時の仏塔の体量の極限であったことが知れる。宋明帝が湘宮寺を造り、荘厳寺塔を超える10宋を欲して、結果は出来ず、2座の5層塔に替えたことは、当時尚更に多くの層数と更に大きな体量の仏塔を建造する条件が備わっていなかった事を説明している。同時に仏塔の体量と層数の間には既定の比例関係があり、層数が多くなるほど体量も大きくなる事を表しており、設計に一定の制限が有ることを推測させる。
 南北朝後期(6世紀前半)、高い塔の建造は皇室や貴族、富豪の間で互いに豪華さを競う方法の一つで、仏塔の層数と体量を発展させたことは人を驚かすものがある。北魏洛陽の永寧寺の建てた9層仏塔(516年)は、基台が方14丈、塔高49丈で、平城永寧寺7層塔の規模(30余丈)を遥かに超える。南朝梁武帝の大通元年(527)、建康にも同泰寺の9層浮図を建造した。漢地仏塔の規模は、ここに至って頂点に達し、その後史料の中に、11、15乃至17層仏塔の記載はあるが、規模が縮小し、密檐仏塔を指して言うのみである。

②構造方式と建築形式の特徴
 各時期や各地区の社会歴史文化の背景の違いにより、仏塔の構造方式と建築形式も異なる特徴を表す。
 現在知られる最早の中国仏塔の形象史料は、四川省後漢の画像磚の3層木構造仏塔である。直線的方形の基座の上に、3層の塔身が立ち、各層は皆3間4柱の木構造外観を持ち、各層は塔檐と塔頂に傾斜屋根を作り、やや緩やかな漢地の凹曲面の屋根の特徴を持つ。頂上の中心には刹竿を立て、3重の露盤と塔刹端に宝珠が有る(図2-7-9)。漢末の笮融浮図祠も、重楼式木構造の仏塔である。前に述べた様に、漢地の木構造仏塔の出現は、漢代の仙人を迎える楼観と関係があるかも知れず、これにより、漢代に方士の巫祝が盛行した地区は、民間が塔を立て多くが木構造を採用したが、洛陽等外来の僧が集まる中心地区は、官側が寺を立て、往々にして僧が関与し、故に形式上西域仏塔と比較的近く、磚石構造が主となった。
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 東晋の立塔は、文献中常々見るのは、先ず刹柱を立て、後に一層を架し又加えて3層に至る記載で、説明は木構造を採用し、財力に応じて層を加え塔を架していった。北方十六国の後趙領域にも、外来僧建造の木塔が出現し、例えば仏図澄の建てた邺城白馬寺塔で、この時漢地の塔の形式が已に段々とその土地化の報告に変遷し、木構造塔形式も外来僧が受け入れはじめたことを表している。
 南北朝期になると、木構造仏塔の建造は、技術上已に成熟し、多層宏大に向かって発展していった。北魏の磚石仏塔中にも、模擬木構造の工法が出現する。例えば平城3層石塔は、“垂木や棟木、梁や柱は、上下に重ねて造り、大小とも皆石で、高さは10丈“で、この時の仏塔の一種最新の形式であった。雲崗石窟二期の諸窟中、普遍的に屋根面に瓦や檐、柱や梁の交叉する木構造仏塔の形象を彫り出す。仏塔の構造方式と外観形式の変遷を説明するのは、孝文帝時期に推進した漢化政策と関係がある。この期の仏塔形式は、雲崗各窟の中心柱及び浮彫仏塔(図2-7-10)に見ることが出来る。その中に見られるのは、仏塔の平面が多く方形に作られ塔の層数は1から9層で、その中でも3層と5層が多くを占める。多層の仏塔の塔身は一般に木構造外観を表現する。各層は皆、柱や頭貫・斗栱、垂木や飛燕垂木を架し、上は瓦を葺いた屋根で、大棟には鴟尾の形象が見える。仏塔の頂部は、伏鉢や露盤、宝珠等の外来の造型が有って、仏塔を特定する標識を作る。但し、この部分は、全体の中で占める割合はかなり小さく、このため仏塔の外観形式は、かなり多くを漢代の建築風格を表している。文献記載の中の北魏洛陽の永寧寺塔はこの種の仏塔の傑出した例証である。遺跡発掘に基づくと、塔身の構造は、方格の柱網と中心土台の結合された構造方式で、外観は”繍柱金鋪“の木構造様式である。
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 南朝木塔の実例は存在せず、又証拠となるような形象資料が無い。文献記載に基づき、並びに日本の飛鳥時代の仏塔実例から推測すると、南朝木塔は、北朝の土木結合方式と異なる、純木構造方式を採用していて、塔身外観は、北朝木塔よりかなり軽快で繊細秀麗であった。
 木構造仏塔を除いて、磚石仏塔の建造は、北魏期に大きく発展し、密檐磚塔が出現する。河南省登封市の嵩岳寺塔は僅かに残る一例である。北朝後期の石窟中、かなり多く単層伏鉢式小塔の形象が出現し、平面は多くが方形で、塔身は磚石構造、上部は持送りで軒を迫り出し(或は、横木を並べ、交錯させて重ねる方式で軒部を迫り出す)、軒口の四周上に山花蕉葉を立て、中央は伏鉢で、中央に刹竿を立てる(図2-7-11)。この種の小塔と上述の密檐塔は皆、外来建築の風格を濃厚に持ち、北朝社会の外来建築及び装飾芸術を偏愛する気風を反映している。これとは別に北斉響堂山石窟の窟檐造型中に、一種の単層方形塔殿の形式を表し、殿身は面幅3(5)間、外周は木構造瓦屋根の檐廊、頂部外観形式と単層仏塔が相似で、伏鉢は大きく緩やかである。この種の塔と殿の特徴を融合した建築形式は、北斉期に伝統形式の継承と外来様式の吸収両面の新しい発展を表している。
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 漢魏南北朝期の仏塔は、層数の多少や体量の大きさに関わらず、一般に塔に登る条件を具備していない。只仏塔底層の仏像を礼拝するだけで、上層の塔身は実際には効用を持たない。日本に現存する飛鳥時代以降の木構造仏塔も皆この種の情況である。只北魏神亀二年(519)、洛陽永寧寺9層木塔が成って、仏像が未だ入らず、“霊太后が永寧寺に御幸し、自ら九層浮図に登る”は、この塔が登ることが出来る事を説明している。侍中の崔光曾はこの事に上表して、仏塔の底層に像を安置するもので、その上に登ることは仏に対して、恭しくないと諫言した。この種の禁忌は、北朝以後、段々と破られ、隋唐期は、登塔は已に常と成った。

(3)新疆地区の早期仏塔形式
 古く西域と言った新疆地区は、中央アジア西部地区と漢地の交通が必ず経由する地である。この一地区の早期仏塔形式は、漢地に直接の影響を与えた。
 新疆仏塔の構造方式は、日干しレンガを積むか版築が主であったが、仏塔の外観は多くの形式があった。
 一つは、伏鉢塔。その中は大小2種に分けられる。大塔平面は下方上円形である。下部が方形の高台で、台は内実か中空で殿堂とし、台上は円形平面の塔身が立ち、塔頂は伏鉢状に収め、塔頂の中央に刹竿相輪等が立つ。この類の仏塔は通常仏寺の中心的主体建築で、例えばクチャ(亀茲国)スバシ古城の仏寺遺跡が示す所である(図2-7-7)。塔身の溝孔跡が表すのは、当初上下に層が分かれるか表面に飾りを貼り付ける等の工法である。史料に記載の所謂“覆鉢浮図”は、即ちこの種の類型の仏塔を指している筈である。単層方(円)形覆鉢頂小塔の形象は、拝城県克孜尔石窟壁画に多く見られる。塔身は通常1間で下に基座が有り、上には檐の軒口が方(円)形の小室が有り、室内は仏像或は舎利容器を安置する。塔頂は覆鉢形で、中央に刹竿相輪を立て(図2-7-12)、クチャ地区流行の供養塔形式と推測され、年代は約4世紀。《法苑珠林・敬塔編・感応縁》に記す西晋期の会稽貿県(今の浙江省寧波市)出土の小塔は、“高さ1尺4寸、方7寸、5層の露盤で、西域于阗で造る”。当時この種の単層方形小塔が、西域于阗の仏塔の典型的形式と認識されていたことが知れる。単層小塔は北朝後期に頗る流行し、西域のクチャや于阗等の仏塔形式と関係が有り、尚もう一歩の考証を待っている。
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 二つめは、集合式塔である。後世の所謂”金剛宝座塔”は、或はこの発展したものである。新疆トルファン交河故城遺跡の北部に膨大な塔群があり、中心は1座の日干し煉瓦と版築の集合式仏塔である。方形基座の上に、大4小5座の仏塔が真っ直ぐに立ち、大塔は中央に小塔は四隅に、塔身表面は並んだ溝孔が残る(図2-7-13)。年代はおよそ4,5世紀が変わる頃で、東晋十六国晩期である。敦煌莫高窟第428窟も、集合式仏塔群を描き、東晋は方形平面を作り、3層、表面に木構造の柱と横木や斗栱及び連続する壁の形象を描き、交河故城の仏塔と対比され、已にかなり多くの漢地建築形式の成分を具有する(図2-7-14)。
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 三つめは、方形重層塔である。スタインの《西域考古記》中に新疆トルファン東部のSIRKIP大塔を記す。塔身の残存は6層で、元は7層から9層であろう。方形平面で、どの層も面幅は7間、どの間にも仏龕一つがあり、底層は間柱と柱頭斗栱の痕跡が残る。塔身の各層はかなり下層より下がっていて、全体に収分を形成する。上下層の間は水平な残孔があり、木構造の檐を出すため設けられたと思われる。この塔の年代は不明、外形と雲崗第39窟中心柱は頗る似ていて、仏龕上部の龕の横木の様式と北朝晩期に流行の尖券(持送りアーチ)と良く似ている(図2-7-15)。新疆地区の仏塔形式は西方の影響を受けると同時に、漢地の仏塔形式の影響を受けた可能性もある。
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   (続く)

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# by songofta | 2017-07-18 19:47 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

237 南北朝の仏教建築 2 仏寺形態の発展と変遷2

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第二章 両晋南北朝建築
第7節 仏教建築



(4)「舎宅為寺」(舎宅を寺とする)
 宗教の伝播と発展は、ある時にはそれと当地の伝統的思想文化との相互交流の程度により決まる。東晋時期、仏教は広範に流布し、仏教建築活動が興盛で、戦乱が頻繁で、人民の苦難と解脱を渇求する社会条件を除き、かなり大きな程度、仏教の提唱する信仰方式と中国伝統的観念や習俗との迅速で緊密な結合によるのである。天子や祖先、家族の追福の目的から、宅第や舎宅を仏寺とするのは、東晋の士大夫階層の特定条件下で採用された一種の仏教信仰の方法である。
 前述の釈道安が秦に入って、僧尼の規範を制定し、“天下の寺舎は、規則を逐ってこれに従う”。当時仏教の僧人の生活方式を知ることが出来、漸う漸う早期の“不貴専守(貴族化せず、寺を専守する)”、“住無再宿(住まいを定めず遊行する)”から転じて、集団で定住し、統一的な戒律を実行することが必要にもなった。同時に安定して経済的に保証された生活環境は僧人が目標を追求する様に成り始めた。多くの仏寺は、実際上、僧人が住まいを乞うことと信者の舎宅を結合した産物なのである。

 舎宅を寺とすることは、宅内の元々ある建築物を前提とする。通常、正庁は仏殿或は講堂とし、その他の坊舎や厨房倉庫の類は皆そのように用い、対が宇野は仏塔だけである。宅内に仏塔を建てるのは、位置と体量に必ず限定があり、このため、いつでも立塔が可能な訳ではない。東晋の穆帝の時、許詢は永興、山影の2宅を寺とし、その中の1個所だけに4層の仏塔を建てた。この種の基本的に邸宅の総体配置を保持した仏寺に、中国仏寺形態の発展により産み出された影響を見つけることは、明確であり容易である。東晋から南北朝まで、大部分の城市の仏寺は皆、この理由で居住建築の形態を見せている:主体建築物は中軸線に沿って前後に配列し、数重の院落を形成する。両側に分かれて次に重要な附属建築物が列ぶ。北魏末年(529-531年)、尚書令爾朱隆が兄の爾朱栄の追福のために、宦官の劉騰宅を建中寺とした。“寺内は、廊や両側建物が充溢している。堂は宣光殿と競い、門は乾明門に匹敵し、・・・・・以前の正庁は仏殿に、後殿は講室とした”は、典型的な例証である。
 邸宅を除いて、又官庁衙署を改造して仏寺の情形とするものもあった。北魏太和四年(480年)孝文帝は“詔して鷹師曹を報徳寺とする”、梁武帝の大通元年(527年)宮後を自己の造る同泰寺とし、即ち大理寺署を改築して出来た“。

(5)仏殿の造立と形式

 仏殿は大型仏像を安置する場所なので、仏殿の出現は先ず先に仏像の鋳造と関係がある。
 仏教がインド南方に流伝した時、仏の形象は未だ出現せず、信徒は一般に、塔や法輪、菩提樹、仏足等を礼拝の対称とした。これは一面では仏の尊重から来て、同時に偶像崇拝を提唱しない意思である。1世紀に西北印度のクシャン王朝期、ギリシャ芸術の影響で世にいう“ガンダーラ芸術”が出現し、今に至る多くの石質の仏菩薩像が流伝し、仏伝故事の場景の各種石部材が彫刻された。
 仏教が始めて中国に入る頃は、正に仏像が流行し始めると言う時である。西域の僧人が中国に来た時、小型の仏像或は画像を身に付けていたのかも知れない。史料記載に拠れば、漢末期の人は浴仏を已に知っていて、銅鋳金鍍金の仏像が出現している。東晋十六国期、漢地では造像が広範に流行していた。現存の紀年が明確な銅造像で最早期は、後趙建武四年(338年)坐像で、像高40cm(現蔵サンフランシスコ・Asian Art Museum)。《法苑珠林》に記す劉宋時期の人が見つけた後趙の仏像は、高さ2尺2寸(換算して50cm)で、銘に曰く:“建武六年(340年)、歳は庚子、官寺の道人法新僧行の造る所”。この類の小型仏像は、通常台案の上に供奉し、大きな空間は必要としない。但し、仏像の寸法が大きく、且つ数量が多ければ、これの配置に適した空間条件を具備すべきである。東晋の釈道安が壇渓寺を建てた時(365-375年)、涼州刺史は銅万斤を送り、以って丈六の仏像(高さ約4m)を鋳造し、この後、前秦の苻堅は又使いを遣って各式の仏像を送り、“講義毎に集う法衆は、いつも並んだ尊像に、・・・・階を登って門を入る者は、厳粛でないものはなく尽く敬わないものは無い”。又、東晋興寧年間(363-365年)、沙門竺道邻は無量寿像を造り、高僧竺法曠はこれの為に大殿を建てた。これで知れることは、当時漢地は依然として大型仏像の鋳造を開始せず、大量の仏像は西域や涼州から来たものであった。正にこの種の情勢の下で、仏寺中に専門に仏像を安置するために建造した仏殿が出現する。

 南北朝期、国家の財力で大規模な鋳造と広い仏殿を建てる活動が頻りに続き、社会各層も皆、持つものをその中に投入した。仏教経典の宣伝は重要な原因の一つである。後秦弘始八年(406年)の後、亀慈国の高僧鳩摩羅什が長安で《法華経》の重訳を始めて社会に広範に流伝し、経典中で仏身は常住不滅、变化無尽を宣揚した。人々は只仏の為に、建寺造塔、造像し、画を描き、各種供養をして、成仏を望んだ。これにより、多くの仏菩薩像の供養は、社会で最流行の仏教信仰方式となり、仏殿の数量や規模もそれに従って迅速に増加した。文献記載に拠れば、南北朝初期には、已に専門に七仏を供奉するために建てられる仏殿の工法が存在した。北魏雲崗石窟の彫刻中にある並列七仏は、上を寄棟造の形象で覆われ(図2-7-4)、北周麦積山石窟第4窟は、更に全体として表現した1棟の桁行7間、間毎に1仏を設けた寄棟大殿である。それとは別に、諸仏から千万億仏並びに観音、普賢等多くの菩薩を供養することを提唱したので、寺院中の殿堂の数量は絶えず増加した。一寺の内、往々にして正殿を除いて、前後に数重の殿堂と両側の配殿があった。皇家の大寺中は殿が`特に多かった。梁武帝の大通元年(527年)同泰寺を建て、内に大殿6個所、小殿10余個所、中大通四年(532年)に至り、又瑞像殿を造り、“帝は同泰寺の御幸し、講会を開き、諸殿を礼拝して廻り、黄昏になって始めて瑞像殿に至った”。
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                  参考   図2-7-4のカラー写真

 仏殿の建造と形式は、仏像の帝王化と関係がある。北魏の僧法果は天子を尊んで今の如来を造り、文成帝の仏法復興の後、祈福のために造った仏像と帝王の形象は一致してくる。興安元年(452年)、“担当の官に詔があり、石像を帝身の如くにさせる”、興光元年(454年)、“担当の官に勅して、5級の大寺内に、太祖から5帝の為に、釈迦立像5を鋳造させ、各高さ1丈6尺”。雲崗の曇曜5窟中の5座の大像も、5帝の祈福の為に造り、外貌は皆、鮮卑族の特徴を持つ。孝文帝の改制後、仏像の着る装束も帝王服飾の漢化に従って改変するのは、正にこの種の工法の証明の一つである。仏像は已に帝王の如くで、帝王の宮殿形式に倣って、仏殿を建造するのは自然の流れである。仏殿の概観だけでなく、殿内の陳列・設備までも帝王宮殿と同じとなる。北魏煕平元年(516年)に建てられた洛陽永寧寺大殿内は、早くも“形は太極殿(洛陽宮の正殿)の如くである”。皇家の大寺だけでなく、地方の仏寺の主要な仏殿も宮殿形式を許された。帝王の形象に依って仏像は鋳造され、宮殿の規則の下に仏殿が建築されて仏寺が整備されるのは、南北朝時期で、特に北魏中後期の造像立寺が突出点の一つとなる。

 宮殿規模と殿内の仏像設置方式は直接の関係が有る。南北朝時期の仏殿の実例は存在しない。故に只文献記載と石窟内部の空間形式を根拠に少し探索しよう。
南北朝期に流行した仏像設置方式は3種である:一つは七仏で、通常は7座の仏像が並列される;2つ目は、三仏で、早期形式は雲崗の曇曜5窟に見ることが出来、主仏は中央に居り、別の2仏は脇に相対する;3つ目は、主仏の両側に菩薩や弟子諸像が揃った造像が立つ。早期の仏像は、多くが単像で、後に成る程脇侍が多く成る。此れにより、七仏や三仏の設置は、後になると7組や3組揃いに列べて置くようになる。北魏雲崗第5窟に見る七仏は7身が並列した立像で、北周麦積山石窟第4窟に見るものは、已に7帳並列で、帳は各1揃えの形式である。史料記載に拠れば、殿内の像の置き方は、又、中央に主像があり、四周に天王諸像が取り囲み、或は菩薩主像の両側に並列して位置する形式もある。仏殿を建造する時、まず先にぞうの設置を考えて平面方式を確定する。若し、七仏殿ならば、長方形平面に作る。三仏或は単仏に1揃い付く形式は、平面が正方形に近くなり、前述の梁武帝の同泰寺の瑞像殿は、殿内に“七宝の帳座を設け、以って瑞像を安置し、又金銅の菩薩2躯を造り”、一仏二菩薩を設置し、これにより“3間両覆”を選択し、即ち方形平面で、入母屋造の屋根形式とした。北朝各地の石窟中の3壁3龕式の方形窟及び雲崗第9、10、12窟と麦積山大28、30、43、49の諸窟が示すのは、大体がこの類である。并びに多くの外観上の表現が桁行3間の仏殿は、屋根を寄棟造か入母屋造に作り、又中には覆鉢で、四周が木構造の軒を出す様式がある(例えば、南響堂山大7窟)。窟内の正面側面3壁は3座の仏張龕を彫り、3揃の仏像を置く;或は正壁の前に主像を置き、窟頂は彫った天蓋形状とし、地面も装飾文様を彫って、殿内像に相応の方式で表現したものと像頂に掛かる天蓋、地面に敷設したフェルト或は花模様の磚の工法を採った。已に知られる様に雲崗の仏殿中、内部の頂上は多く天井が表現され、北魏平城の仏殿の頂棚形式の反映とすべきものである。史料記載とは別に、南朝仏殿中、彻上明造の工法がある。北魏が洛陽遷都後、開削した龍門石窟中、頂部に天井を彫らず、改めて天蓋を彫ったのは、或は当時の仏殿形式のかなり多くが、南朝の影響を受け入れた現象を反映したのかもしれない。

(6)仏寺の配置
 南北朝期、各地に盛行した建塔造像は、それを以って追福とするやり方である。仏寺中の塔や殿の数量と規模は、東晋十六国時期に比べて大きく発展し、南北の仏寺の配置も皆、これに従って変化した。文献中の一連の大型仏寺の描写から見ると、南北の仏寺の配置風格は略異なる。だいたい北朝の建寺は伝統に則り、正統性の観念がかなり強く、平面はかなり整然とし、塔や殿の占める者が多い;南朝の仏寺は東晋の山林仏寺の特徴に則り、土地の状態に合わせて配置は自由である。この種の差異は、両地の自然環境が異なる事に関係がある。南朝の都建康の地勢は、元々山水の間にあり、たとえ都下の仏寺であっても、往々にして山に依り水に臨んで建てた;北魏の都洛陽の情形は異なり、城郭の内は、御道が縱橫に走り、坊里は整然と決められ、仏寺は多く街に臨み或は坊の形に依り範囲が設けられた。それとは別に、南朝の大寺中には、東晋期の旧寺の基礎の上に拡張建設してできたものが多くあり、総体の配置が又歴史条件に制限された。以下に文献記載と発掘史料の基づき、南北を分けて仏寺配置の特徴を、少し述べる。

①北魏の仏寺配置の特徴
 北魏が平城に都した期間、文成帝の仏法復興(注;太武帝の廃仏からの復帰)から孝文帝が洛陽遷都までの30余年(約460-495年)は、平城の建寺が真っ盛りであった。諸記載の平城仏寺を見ると、多くは国家或は皇家の成員が建てたものである。その中の5級大寺、永寧寺、方山思遠仏図、北苑鹿野仏図、皇舅寺及び3級寺の石仏図等は皆、仏塔が中心主体の仏寺で、仏寺の命名も魏晋時期の立塔を寺とする観念の残余を帯びている。
 孝文帝の洛陽遷都の後30年(約495-525年)中は、洛陽の建寺はピークに達する。仏寺配置はおおよそ、仏塔が中央を保持し、併せて体量が寺院の主体の造りと成る。特に皇室の建てた永寧寺、瑶光寺、秦太上公二寺及び嵩山閑居寺(後の嵩岳寺)等は、均しくこの種の配置方式を採用した。
 永寧寺は《洛陽伽藍記》一書中にあって諸寺の首とされ、北魏洛陽で最顕要な仏寺であった。洛陽伽藍記の描写から、永寧寺の配置には2つの突出した特徴がある。一つは仏塔が中央に位置し、且つ体量が巨大であり、寺内の主体建築物と言うだけでなく、同時に洛陽仏寺の顕著な標識でもあり、“都を去る100里、まだ遥かにこれを見る”と言われた;2つには、仏寺の配置と宮殿が類似し、建築形式もまた近い。仏寺の南門の形は皇宮正門と同じで、仏殿の形は前朝の正殿と同じ、壁で囲む工法及び、四門の方位と等級が分けて設置されるのは、宮中と全く同じである。1963年、中国社会科学院考古研究所が永寧寺遺跡を初期調査した時、寺院平面は長方形で、南北約305m、等材約215m、周長1060mであった。東、西、北の3面の塀基礎と門跡はほぼあった。塔基礎は寺院中部に位置し、南門に正対、下層は約100m見当の方形の版築基座であった。塔基の北面に1座のかなり大きな版築の残基があり、仏殿の遺址と思われた(図2-7-5)。遺址の平面と《洛陽伽藍記》中の記載は基本的に符合した。
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 永寧寺のこの種の寺門の内は、即ち仏塔配置方式で、一般の仏寺にも見られる。例えば洛陽城西の王典御寺は、“門内は、3層の浮図一所があり”、北魏時期の比較的良く見られる仏寺配置の形式であった。 洛陽景明寺は、宣武帝の景明年間(500-503年)、建寺の初め未だ建塔されず、正光年中に、“胡太后始めて7層の浮図1所を造る、地を去ること100仭”で、体量は永寧寺塔に僅かに及ばなかった。この寺は総体配置での仏塔の位置ははっきり言えないが、永寧寺から推測して、寺門と仏殿の間華も知れない。

 北魏後期、舎宅を寺にするやり方が段々盛行すると、洛陽城内の仏寺の大半は舎宅から成り、その中の多くは、立寺の初めに建塔されず、後に追福の名目で増建される、例えば平等寺、沖覚寺等である。建義元年(528年)の河陰の変(注※)後、北魏皇室成員の死傷の大半は、城西の寿丘里内の王侯の邸宅は、多くが寺となり、“刹を列べて望み、祇園精舎のごとく繁茂し、宝塔は高く聳える”。これ等の仏寺中の仏塔は、間違いなく後で建てたものである。一般的に言って、手宅を建寺年経中に体量の大きな仏塔を設置するのはかなり困難で、このため跡から建てる仏塔は、体量が減少し、或は位置が中央にならない。同時に、これ等の仏寺は、例えば前述の爾朱世隆が劉騰宅に建てた建中寺は、寺内の建塔の記載を見ない。これは北魏の仏寺配置が、後期になって、新しい変化が出現させ、かつての仏塔を中心主体とする配置観念を突破したことを示している。
 北魏洛陽の仏寺の用地は、往々にして坊を単位とするので、総体平面はかなり方形に整っている。洛陽の坊里は方300歩、換算すると今の410m見当である。前述の永寧寺遺跡の平面は、幅215、長さ305mで、広さは、半坊を占める。延年里の景明寺は、“その等材南北方500歩”、換算すると今の680m見当である。北魏洛陽城平面に拠れば、宣陽門と平唱門の間の全部を占める。

  (注※)河陰の変;専横を振るい、孝明帝も毒殺した胡太后に対し、太原の爾朱栄が孝明帝の報仇を      名分として反乱し、胡太后を河陰で黄河に沈め、漢化した鮮卑王侯貴族2000余を殺した。北魏南方の王族は南朝に亡命相次ぎ、爾朱栄も殺され、国力が衰退に向かう一歩と成った。

②南朝仏寺の配置の特徴

 仏寺内は中院を除き、又数多くの“別院”を設け、これが南朝大型仏寺の一つの突出した特徴である。主体建築(塔、殿)を備える院落は、“中院”と称し、往々にして最初に建立した部分である。その他の院落は即ち“別院”と称し、職能院、僧房院及び陸続と拡建した仏殿院や仏塔院等を包括する。梁武帝が建てた建康の大愛敬寺は、内に別院36個所が有り、“皆池台を設け、周囲をぐるりと取り囲む”、《法苑珠林》が記す荊州河東寺は、“別院の大きさは、今10個所有り、般舟と方等の2院は、荘厳最勝で、夏にはいつも別に千人がいる”、記すのは初唐期の僧の夏安居の盛況とは言え、別院の規模は、南朝期にも具備していた。

 寺内の建築物配置は自由で、南朝仏寺のもう一つの特徴である。東晋の偉業を承け、南朝の立寺は亦多くが山川景勝を選んだ。仏寺の配置は、地形条件の制限され、中軸線に塔と殿を中央配列とする方式は適用されず、当然その中も社会の気風と審美価値観念の影響を排除しなかった。浙江西部一帯は山寺が集中する地で、往々にして“高く続く山なみに刹を建て”、“曲がった谷を跨いで、室とした”。梁武帝の大愛敬寺の“創塔はイエアを抱く奇”は、中院が大門を去ること、延々7里であった“。山寺に建塔するのを知れば、崖に依る構造の例はかなりの数があり、その他の建物も皆、地面の条件で建て、仏寺の形態はすこぶる多くが変化に富んで様々である。斉の明帝時(495-498年)、鄂州の頭陀寺を続建し、“層の軒は延々連なり、上は雲虹より高く、・・・・飛閣はくねくねと伸び、下に天地を望む”は、南朝山寺の典型的風貌である。
 注意に値するのは、南朝の仏寺中、多くが前代の旧寺を拡張建築して出来たのである。例えば、東呉の建初寺や、東晋建康の彭城、瓦官、道場、中興の諸寺及び荊州の上明、河東寺は、歴代の建築を経て、堂殿と僧坊別院を増造し、南朝後期には、均しく著名な大寺と成った。その総体配置は変化発展し、実に南朝から漢地仏寺形態の変遷発展の趨勢を代表している。今後の考古努力と結合して研究を加えれば、たいそう有意義なことであろう。

(7)仏塔の仏寺配置での地位
 南北朝中期に始まり、仏塔は仏寺配置の中心主体の地位が漸く改変してくる。その原因は前述の仏殿の造立と舎宅を寺として仏塔建にいっていの限界性を産んだことを除いて、人間の観念上のある種の変化も、仏寺配置中の塔と殿の相互関係及び地位の変化の一つの重要な原因をもたらした。
 早期仏寺の主体である仏塔は実際上、一種の外来の仏殿形式である。前述したように、紀元前後に形成して流行した西北印度のガンダーラ芸術中、仏像は已に人間の礼拝対称に成っていて、その時から東に伝播した仏教信仰方式も、二度と単純な舎利等の物象崇拝ではなくなっていった。それで、仏塔は外観形式及び内部空間上、仏像との関係を発生させ始める。東晋時期に訳出された《観仏三昧経》の中に、多くの所で“人塔観像”を提唱し、仏像を塔内に安置し礼拝することを説く。東晋の葛洪(284-364年)の《字苑》釈塔に言う;“塔は、仏堂である”(玄応《一切経音義》巻六)は、即ち、功能という角度から仏塔を説明するのは、この意義から講じたもので、早期の仏寺が仏塔を主体であったが、実際は仏殿が主体であり、伝統形式の仏殿の出現は、最初は只仏塔の功能に対する一種の拡充に過ぎず(塔内の空間が像を置く需要を満足出来ない)、或は代替として(寺内に未だ塔が立っていない)であった。仏塔は総体配置中の位置は、このため改変するが、その地位は往々にして依然として仏殿の上であり、塔内に置く像の功能も、これによっては取って代わることは無かった。北魏洛陽の永寧寺のように南朝宋明帝の湘宮寺は、たとえ配置が門、塔、殿3者が前後重ねて置かれたと言っても、まだ建築技術の制約を受けて2塔に分立し、事実上未だ仏塔が総体配置の首要な地位に影響が無かった。但、寺院規模が拡大し、寺内建築物が増加し、早期のようには、“浮図”を以って仏寺の代称にはならかった。

 そして、東晋期に始まり、建造する仏塔も舎宅からの立寺と同じように、三宝を敬う信徒が副業で建設する方式で成った。南北朝期、造塔祈福の気風は益々盛んになる。北魏孝文帝は即位後、文明太后と“二聖”と並び称され、社会はこれにより“二聖”祈福として造立する双塔の工法が出現する。宕昌公王遇は、陜西省本郷の旧宅に暉福寺を建て、“上は二聖の為に3級の塔を各1区建てた”。造塔の意義は、まるで造像をするように本身を“1区”に限り、二度と立寺とは看做させなかった。南方は即、舎利を求めての立塔が盛行し、これにより一寺の中でも数座の仏塔を建造し、例えば長乾寺のように、前後して舎利塔5座を起こし、その内、梁武帝が2座を建造した。この様に思いのままに建塔したので、反って仏塔は中心主体の地位を失っていった。これと同時に、殿内に像を置く工法と伝統的帝王や聖賢の礼拝の方式を結合し、已に人々の為に常用され、伝統的宮殿の規画配置方式は、段々と自然に仏寺建築群に用いられる様になり、仏塔の位置は逐次中心から脇の方へ移っていった。だが、目下知る所では、尚未だに確実な例証ではないが、北朝の仏寺中に仏殿の宏大な中に、仏塔が殿の前の両側の情形に分けて置かれるものが、すでに出現している。事実上、仏塔は仏寺中のその中心主体の地位の変化の過程は、ゆっくりとしたものであった。隋唐以後、仏殿が中心主体となり、仏塔は両側に分けて置かれ、別院の配置形式はやっと定型となった。この一変化の原因を造ったのは、早くも南北長時期に已に出現していたと言うべきである。


  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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# by songofta | 2017-07-17 14:19 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

236 南北朝の仏教建築 1 仏寺形態の発展と変遷1

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第二章 両晋南北朝建築

※飛鳥から貞観頃までの古建築を語る場合、中国古建築を抜きにしては語れないし、《営造法式》を踏まえずには、北魏・六朝から隋唐の古建築を理解することは出来ない。それが上梓されたのは北宋時代とは言え、内容は現場の工匠逹の数世紀に渡る伝統的な経験則を基に記述されたものだからである。
 日本で言えば、現代建築学の権威ある大学教授より、千年の経験を受け継いだ西岡棟梁の言のほうが、桧の木構造大建築については、遥かに信頼出来るのと同じことである。中国の論調やブログも皆、営造法式をベースに議論が進む。特に90年台以降、文革の破壊からの修復と、相次ぐ考古学的発見から、古代建築の研究が大きく進展している様に見える。残念ながら、我が国では、こうした東アジア全体の大きな流れとは無頓着に、未だに高麗尺がどうとか、枝割で解析すると云々と言った論調を見かけると悲しくなる。
 営造法式の部分は先に紹介したので、そちらを先に見られたい。
 ここから、北魏、南梁(簫梁)から隋唐の仏教建築と進んでいく。

第7節 仏教建築

漢地仏教建築の始まりは後漢にあり、三国から南北朝が、その発展開始と昌盛の時期である。これは歴史的条件の転変と仏教の次第の拡大につれて、中国社会が受け入れていった過程と一致する。
 後漢時期、思想領域は儒家の経学と讖緯の説(注;一種の未来予言の説)の天下で、初め人々が知る仏教は一種の外来宗教で、頗る発展が難しく、漢代末年から始まる、中国社会の長期の分裂と戦乱の激動する局面の中にあった。漢族政権は内部の権力争奪の軋轢で、北方少数民族が漢地に政権を建て、漢王朝が400年の統治で形成した相対的に安定した統治機構と思想体系及び異民族と漢族を分けた壁は、重大な打撃と破壊を受けた。社会の劇烈な激動は統治階級の中に、栄枯無常、精神困惑により、心身の離脱と解脱を求めさせた;新興の地方政権の統治者逹は先を争って強固な政権の手段を求め;広大な民衆は深重な苦難に陥り、脱出を渇望する境地にあった。この局面は、仏教が中国の広範な伝播をする新たな条件であった。仏教僧は讖言異術と思想同化の方法で、中国の上層社会に進入し、段々と各国統治者の信仰と漢族士太夫層の一体感を得て、確固とした社会的地位を獲得し、仏教は広汎な流布を開始する。

 後漢時期、少量の外来僧の建造した寺舎があっただけだが、この時最も多いのは黄帝や老子と同祀するか、墓室の石刻と器物装飾の中に、仏像と神話伝説の人物及び吉祥物を一緒に混雑させる現象が出現する。三国や西晋時期、官立の寺の数が段々と多くなるが、仏教発展に対して依然制限があった。東晋十六国時期からは、国家政権が仏教を支援する下で、仏教経典が大量に翻訳され、僧尼の人数が増大し、官の政策が経済援助を許す条件の下、仏寺は官立、民立、僧人立等多種方式で建立され始め、規模が段々と拡大し、機能が完全に成っていった。南北朝時期になると、呪願目的の仏教建築活動が主要な社会活動の一つとなる。大量の財富と人力が、世俗宗教の熱情に連れ持って、建塔や立寺、開窟、造像に投入される。この時、仏寺の建立は、単純な仏教発展の必要の為だけでなく、帝王や貴族の仏に呪願し豪華さを競う特殊な方法に成っていく。都の中に大型の仏寺を建造するのは、往々にして皇室構成員が関係し、地方の仏寺でも官府の間で類似の関係があった。

仏寺の建立と、外来の僧の活動地域や行動は、方式と当地統治者の仏教に対する態度に直接関係し;仏寺携帯の変化は、主要に仏寺建立の方式及び仏寺の功能の発展で決められ、後者と仏教発展の各段階に対応し、訳経と経講義活動の発展の如きは、僧人の生活規範の確立と礼拝方式の改変等、全て仏寺配置と建築形式の変遷発展に決定的作用をもたらした。外来の仏教僧人による伝道時、常に帝王や士太夫、庶民に対して心理上の迎合する方式を採る;その他、東晋期に始まり、いよいよ漢族の高僧が増えて伝道の主力に成ってきて、これにより仏寺の配置及び単体建築の形式は、外来の仏教芸術の影響以外に、同時に中国建築の式様や、工法及び伝統価値概念の制約の影響を受ける。事実上、たとえ仏教伝播がどの地方でも、仏寺建築形式の中国化は、皆仏経の転訳と同じで避けることが出来ない。
 従って建築総体について言えば、仏教建築は主要に仏寺を指し、その中には石窟寺を含む(石窟寺の実例はかなり多く、文中仏寺と石窟寺を分け、両部分を論述し、この狭義の仏寺は地面に建てられた仏寺を指す)。それとは別に宮室や邸宅或は独立の林野の仏教精舎、及び早期の建立された里坊中の僧坊等は、仏教発展過程中に出現した特定現象で、個人の仏教建築の範疇に帰すべきである。それらの専用の名詞は、浮図(仏図、浮屠)、精舎等で、文中ではそれと仏教建築に関連する意義を持つ。
 この時期の仏教建築の遺物は極めて少なく、只北朝の1座の磚塔と数座の小石塔が保存されているのみで、大量の建築形象と寺院配置の資料は石窟中に保存され、本章の実例はかなり多くを石窟寺から採取されざるを得ないのである。

一、仏寺
1.仏寺の出現と流布

(南北朝の仏寺の概観が述べられているが、別の項目などと重なるので、省略する)

2.両晋南北朝期の仏寺形態の発展と変遷
 仏寺の形態は此処に指摘する2つの面がある;一つは寺院組成の建築成分である。その発展は、寺内の建築類型の増加で表される。:もう一つは寺院の総体配置である。その変化は主要に仏塔と仏殿等の主要建築物の相互関係の改変に体現される。この時期の仏寺の実物は無く、遺跡は只発掘を経る以外なく、このため、主要には文献資料に依拠して研究するしかない。
 中国の仏寺形態の変遷発展は、南北朝中期を境に、前後2つの段階に分かれる。前の段階は、仏教が中国に伝入後、段々と社会が受け容れる発展過程で、仏寺形態は主要に寺院の功能の絶えざる拡充と完善を反映している;後の段階は南北朝後期から隋唐までで、仏教が中国社会にもう一歩深く入り込み、中国仏教体系を形成する過程で、仏寺形態は伝統建築の配置の手法で表現され、これに付加して外来の仏寺建築の種々の言い方と関係があり、段々と城市や宮殿、邸宅等が持つものと同じ規画原則で中国寺院の総体的配置形式を形成していく。
 たとえ、仏寺形態がまだ単体建築形式の変遷発展だとしても、総て固有文化の基礎に、外来仏教文化を絶えず吸収して改造する過程なのである。固有文化の差異により、この種の吸収と改造の程度や方式の異なる地区や民族中にも異なるものがある。中国の領土は広大で、全趨勢からみて、仏寺形態は漢化の方向で発展したと言っても、各地区の情形は尽く異なる。理想的で統一的な仏寺形態などは存在しない。そして、どのような仏寺配置或は建築形式の流行と衰亡であっても、全て相当長期間を経て、同時に往々にしてその他の形式と交錯して併存したのである。

(1)「立塔為寺」(塔を立て寺とする)
 仏経典に記す、釈迦牟尼の滅後火葬し、弟子が舎利を取って、これに塔を建て、世の人は敬仰したとある。又八国の王が兵を起こし舎利を争って取り、各自が塔を建てて供養したとの記載がある。従って仏塔は仏教信徒の最初に礼拝した対称の一つである。仏塔の建立は、仏教が有る地区に進入した顕著な標示となり、その為至る所に皆仏塔を建て、伝道する僧の奮闘する目標となった。
 漢魏西晋の頃、たとえ官が外来僧の為に寺を立てたとしても、更に民間も仏の為に祠廟を立て、全て仏塔が主体であって、この当時は、“浮屠”や“浮図”、“仏図”と称していた。それ故、かなりの長期間、漢地では“浮図”と“寺”が存在し、呼称を混同する現象があった。この時の仏塔の客観的な作用は、主要には新奇の外来建築形象が社会の各階層の注意を引き、伝道を拡大する目的を達した。仏塔の外囲は、或は一群の附属建築があり、例えば閣道、寺舎等である(図2-7-2)。この当時、漢人の出家は禁止され、立寺は主要には外来僧の礼拝観仏や、儀式や研習の挙行、経典の翻訳の需要を満足する為で、多数の外来僧は“常に無官の貴族化し、(寺を)専守したがらない”で、居食定めず、故に仏寺は只少数の僧だけが居住し、仏寺の占める地は極めて限られ、以下の諸文献に記載される幾つかの漢魏西晋の仏寺で見てみよう。

①後漢洛陽の白馬寺
 漢末の牟子《理惑論》は漢明帝が遣使し(58-75年)“大月氏で経典四十二章を写し、蘭台石室第14間に蔵す。この時洛陽城の雍門西外に仏寺を起こし、その壁画は千騎万乗の人が押し寄せ、塔を3度廻った。東魏の魏収《魏書・釈老志》に記す使者を天竺に使わし“沙門摂摩騰と竺法蘭を東の洛陽に迎える。・・・・・白馬に経を背負って至り、漢は白馬寺を洛陽城雍門の西に立てた。・・・・・仏図を盛んに飾り、描く跡は甚だ妙である”。梁慧皎《高僧伝・摂摩騰伝》に記す中国に来た後、“明帝は甚だ褒美を与え、城西門外に精舎を立てこれに処した。摂摩騰の住む所は、今の洛陽城西の雍門外の白馬寺がそれである”。上述の記載を総合すると、漢明帝が立寺に時、仏塔は寺内の主体建築で、併せて外来僧を安置するため、寺内に僧人の居所があるが、仏塔に相対した位置は、考えようがない。

②漢末の徐州笮融浮屠祠
 晋陳寿の《三国志・呉書・劉繇伝》に記す漢献帝初平年間(190-193年)、丹陽の人笮融は“大きく浮図祠を起こし・・・・・銅盤九重を垂らし、下は重楼、閣道は三千余人を収容出来た”。南朝劉宋の范曄の《後漢書・陶謙伝》の記す:“(笮融は)大いに浮屠寺を起こす。上は金盤を重ね、下は重楼、又堂閣を回廊が周り、三千余人を収容できる”。上野記載に依れば、笮融の建てた浮図祠は、仏塔(上に金盤を重ねた重楼)が中心で、四周を隔道が囲む。隔道はまた復道と言い、上下2層(下層は宙に架け、上層は屋根がある)の走廊で、秦漢時に宮室の間の通行に多用された。

③曹魏洛陽の宮西仏図
 《魏書・釈老志》記載の:“魏明帝は、かつて宮西の仏図を壊そうとした。外国沙門は金盤に水を盛って、仏殿の前面に置き、仏舎利を水中に投げ入れると、水面に五色の光が現れたので、明帝は驚いて曰く、「もし神霊でなければ、この様な怪異は起こらないだろう」、直ちに仏塔を大道の東面に移し、周囲に閣道百間を建立し、仏塔のあった旧地には、汜濛池を掘り、芙蓉を中に植えた。魏明帝は227-240年に在位し、青龍3年(235年)以後は洛陽で治世した。故に仏図を建て、笮融の浮図祠に遅れること約40年である。記述から知れるのは、両者の配置形式は近く、皆仏塔が中央で、周囲を隔道が囲む。仏教が始めて中国に入った時、洛陽が中心で、このため洛陽の仏寺は気風の先を行き、聖域から伝入した様式に近い。仏図の四面が“周囲に閣百間を作る”を推測すると、或は外国沙門の描く仏寺平面に基いたか、或は洛陽城中の漢代仏寺の遺構を参照したのであろう。同時に、この種の主体の四周を附属建築で囲む配置の方式は、漢代の礼制建築の配置中にいつも見るもので、漢地の官庁から受け継ぐのも容易である。宮西仏図の規模は、若し隔道が間幅毎1丈で、各面が25間ならば、合計60m見当となる(1魏尺=0.241m)。
④東呉建業の建初寺
 《高僧伝・康僧会伝》に“祖先は康居国の人で、天竺に生まれ、・・・・呉赤烏十年(247年)始めて建業に至り、茅屋を建て仏像を設け仏教を説いた。・・・・・(後に壇を建て舎利を求めて、呉帝孫権は)塔を建てた。これが仏寺の始まりで、故に建初寺と号した。その名に因んでその地を仏陀里となった”とある。呉国の領域では、康僧会が舎利を求め得たので、呉帝はこれの塔を建て仏寺を始めたのは、仏寺建立が外来僧人が最初に目標に奮闘すると言う典型的な説明であり、仏教がある地区に進入する標識ということでもある。同時に、立塔即建寺であり、外来僧人が帝王の信任を得るには、尚法術霊験を借りる必要があった時期で、仏寺の功能と規模が超越的な発展をすることが不可能でもあった。寺内は仏塔の他、その他の主要建築は在り得なかった。

⑤西晋の阿育王寺
 《魏書。釈老志》に記載する、当時の洛陽や彭城、姑城、臨淄等の地は、皆阿育王寺である。阿育王は、クシャン王朝第3代国王で、在位期間は(B.C.273-232年、中国戦国末年に当たる)、仏教の扶持に大きな力を注いだ。近年インド学者が調査考証して、確実に阿育王が埋葬した舎利容器と建立した仏塔の形跡を発見した。安息国の僧安法欽は、西晋太康二年から光煕元年(281-306年)に訳出した《阿育王経》5巻は、この時から阿育王建塔伝説に関する漢地での流行が始まり、阿育王塔の建造が開始した。
《高僧伝・釈慧達伝》に記す遇異僧をして“出家して、丹陽、会稽、呉郡に行き阿育王塔像を探して、礼拝し過ちを悔いて、前非を懺悔した。・・・・晋寧康(373-375年)中に都に至った”。《法苑珠林》にもこの事が記載されている。これで判るのは、晩くとも東晋時期、中国の領域内には已に多くの阿育王寺が出現し、僧と信者が遊行礼拝していた。阿育王塔の実物は存在せず、《高僧伝・佛図澄伝》記載の“(石)虎が臨漳で旧塔を修理し、承露盤が少なかった。澄が言うには、臨淄城内に古い阿育王塔が有って、地中に承露盤と仏像が有り、その上に林木が繁茂しているので、掘ってこれを取るべし”と。これに基づけば、阿育王塔の尺度と形式は一般の仏塔と大体一致している筈である。
 「立塔が寺」は、漢地の仏寺の初期の発展段階の特徴である。仏教の影響が深化するにつれ、仏寺の功能はもう一歩発展し、この種の単一の仏塔が主体の仏寺形態は改変していく。
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(2)「堂塔並立」
 西晋末年、仏経典が絶えず訳出され、外来僧及び漢地の出家人数が増加し、社会が動揺し苦難が深刻化する情勢の下、仏教信者は大幅に増加した。仏教は中国に始めて入った時の困難な曲面を脱し、大発展の時期に入り、仏寺の功能と形態も相応の新しい変化が出現した。東晋十六国時期、仏塔と講堂を以って主体とし、その他の附属建築を兼ねた仏寺形態が出現した(図2-7-3)。
 説法、議論と経典の習読活動は広範に発展し、仏寺は単純な礼拝儀式を行う場所ではなくなった。新しい功能の需要に適応して、寺内には仏塔以外の別の主体建築が出現した、即ち専門に法師が経を講義し、僧徒がこれを聞く講堂(後期には法堂とも言う)である。講堂は僧人の活動する場所なので、一般には仏像を供奉せず、その出現は仏塔の中心主体としての地位に影響しなかった。講堂は通常仏塔の後側に設立し、中国伝統の配置手法に基づけば、両者は1本の縦線を形成する。《法苑珠林》記載の、北斉沙門僧苑が邺城の顕義寺講堂で経を講じた時、“華厳経の六地に至ると、忽然として1羽の雁が飛来し、塔から東に巡って堂に入り、高座に対して、地に伏せて法を聞き、講義が終わると出て、塔の西を巡って飛び去った”。これで知れるのは、この寺は北朝後期まで、典型的塔堂配置形式を保持していたことである。
 東晋興寧中(364年)、晋哀帝は瓦官寺の建立を勅し、寺内は“堂塔を止めるのみ”であった。数年後(371年)道安の弟子竺法沙が寺に住み、主体建築物の周囲に、大門とその他の附属建築物を増設し、仏寺形態を更に厳整にした。それ以外に、来て講義する人数が増え、仏寺は僧衆が集散する所となり、このため、大幅に僧坊を建て住ま得る様にする必要ができた。前述の釈道安は南に下り襄陽に檀渓寺を建て、“5層塔を建て、僧坊400を建てる”、その中で僧坊が主であった。後に道安は秦に入り、長安の五重寺に住み、僧衆数千、大いに弘法し、院寺の規模はまた宏大であった。但記載に拠れば、寺内の僧坊は依然として住むには足らず、講堂はある時は僧人が住む効用を兼ねていた。
 仏寺中に付属する建築物が比例して増大する別の重要な原因は、大乗仏教の興隆であり、早期の小乗仏教が提唱した苦行実践に派出する方式に改変を発生させた。僧人は日々の食を乞い、山野に居住する必要がなくなり、私産を持っても良く、甚だしくは居所で蓄えを持っても良くなった。とりわけ亀慈国の高僧鳩摩羅什の後、仏寺中の上層の僧人の地位は段々と安定し、寺院経済は発展を開始した。僧坊やそのたの日常に使う建物だけでなく、穀物倉や厨房倉庫の類も段々と増えていった。寺内の僧坊の建設は、又僧衆の管理にも有利な一面があった。東晋の釈道安の時、已に僧尼の規範が制定され、その中には毎日の6時の行道飲食唱経時の作法が有る。この時より、出家僧尼は段々と寺院を定住の場所とするように成っていき、仏寺も仏教の象徴体から一種の社会組織と経済実態に変わり始めた。

(3)「精舎の建立」
 西晋末年に始まり、仏寺中に出現した堂塔並立配置の変化を除くと、又一種の講学修行が主要な功能である学院式の仏教建築が出現し、それと儒家の講学修行の活動方式が近く、そのため当時それも精舎と呼んだ。正に立塔を持って寺として体現した中国寺院の発展初期段階の特徴は、この種の精舎で仏寺は一歩発展した所産の一種特殊な形式を持つ事になった。
 両晋の変わる頃、講経典は大きく盛んになり、禅法が漸漸と行われる様になる。仏教の高僧と一群の上層の人士は、しきりに坊舎を建て、仏典の講授を受け、禅法の修行に用いた。東晋十六国時期、精舎の建立は更に普遍的となり、都城や山林の中に沢山建築された。かつて敦煌に建てた精舎に講学する羯宾国の僧人県摩密多は、“この頃また涼州に行く、元は公府であったとは言え、堂宇を修築し、学徒は多士済々、禅業甚だ盛んである“は、衙署を利用して改築し精舎にしたものである。この種の禅を修める講学に供された精舎は、その形態が或は当時の太学や府学に近かったのである。

 学院式の精舎を除き、この時期又、仏教僧人は釈迦牟尼の修行の方法を模倣した小型の精舎を建造した。その形式と配置は充分に自由で、草庵や竹の掛小屋から、石室、茅葺き庵まであり、通常は山に依り谷のそばで、僧人の墓所或は宮室や邸宅の中に建てる者もあった。この類の精舎は往々にして段々と発展して仏寺と成る。例えば慧遠は廬山に行きはじめに龍泉精舎に住み、後に龍泉寺と称した;その弟慧持は蜀に至り、龍淵精舎に逗まり、亦龍淵寺と称された。大抵、この時期の仏寺は尚未だ厳格な規制が無かったが、およそ僧人が主持し、社会が供養し、官が認可して、立寺ができた。故に精舎と仏寺の間は、明確な境が無く、南朝初期に至っても、これと東晋時期の仏教発展の特徴に関係はない。精舎は修行の為に立て、形式は通常粗末で、仏塔を建てる必要は無い。東晋の王劭は積園精舎を造り、“建屋は厳整にできたとは言え、美しい寺はまだ出来ていない”といった。僧徒が禅観礼拝するための仏像を供し、建屋の中に安置された。民間のこの種の気風の影響を受け、精舎を建て供仏のやり方もあった。精舎は、規格や性質上、官が建立する仏寺とは差別があり、その中の一部分は高僧主持者或は逐次発展する著名な寺院であるが、多数について言えば、精舎は終始仏教の基層組織の形式で、ほぼ後世の“蘭若”である。





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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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# by songofta | 2017-07-17 14:12 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

235 瓦作と磚作

中国古代建築史 (抜粋) 巻三

第十章 建築著作と匠師



五、瓦作と磚作制度
1.結瓦と用瓦制度
 《法式》巻十三の瓦作制度に載る宋代木構造建築の瓦屋根に用いる瓦は2種の類型があり、一つは㼧瓦で、殿閣、庁堂、亭榭等の建築のもの;一つは瓪瓦で、僅かに庁堂及び常用の建屋に用いる。瓦屋根の下は、先に“鋪衬“1層が必要で、椽上に置く;その上に再び鋪泥をし、瓦で終わる。《法式》に載る鋪衬は3種ある。:
  柴桟:粗い樹枝を用いて作る。
  板桟:木板を用いて作る。
  竹笆葦箔:
     殿閣の7間以上は;竹笆1重+葦箔5重。
     殿閣の5間以下は;竹笆1重+葦箔4重。
     庁堂の5間以上は;竹笆1重+葦箔3重。
     庁堂の3間以下廊屋までは;竹笆1重+葦箔2重。
     散屋は;葦箔2~3重。
     葦箔だけを用いることも出来、2重を竹笆1重に代替する。或は全部を荻箔に変えて用いる場合、
     2重荻箔は3重葦箔の代わりが出来る。 
  鋪衬の上は、胶泥或は石灰を用いて先に找平層を作り(即ち、清式の苫背)、それから瓦を葺く。
  瓦寸法の大きさは、建築の尺度に一定の影響があり、これにより建築の等第の高さに従い、瓦部材を若干の等第に分ける。《法式》の瓦作は窯作制度に当時の瓦部材の寸法を列べている(表10-17、10-18)。
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瓦を葺く前に焼き上がりの良い瓦を外形を正敷く矯正して、平でないもの或は歪曲した所を取り除き、瓦の内側の稜を修正し、“四隅を平穏”にする、これを“解挢(翅)”と言う。并びに筒瓦の半円を半円の模型に咬み合わせて検査しなければならず、(模型から)出る者は修正が必要で、これを“撺窠”と言う。“解挢”と“撺窠”をした後に瓦を葺いて始めて、瓦の畝が均しく生前となり、雨水の染み込みを防止出来る。
 瓦を葺く過程で、檐頭の筒瓦を小連檐上に釘打ちし、仰瓪瓦の下は、小連檐上に燕頷版を設け(即ち清式建築の瓦口に相当)、滑落を防止する。大型殿堂に対しては、6椽以上は瓦釘を施工し、大棟の下第4枚目及び第8枚目の瓦の一で再度釘を打ち、前もって鋪衬の上で横板2枚を置き、釘脚を承ける。

2.屋脊と脊獣
 宋代建築の瓦屋根面は条瓦を以って脊を積み重ね、脊の高さは瓦の層数で調整し、建築等第に依り《法式》規定は表10-19の様になる:
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 屋根と鴟尾と脊獣の尺度
 鴟尾と脊獣は、屋根のなかでは不可欠の装飾部材で、同時に一定の実用的功能を持つ部材で、蓋釘や脊桩の類を覆うことが出来る。吻獣と建築尺度の関係は同様に密接で、建築等第に從ってその高さを決める。《法式》巻十三に基づき整理すると表10-20の様になる。:
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3.用磚制度と規格
 磚は木構造建築中で用いることは少なく、主要に磚を用いる部位は塁階基や、地面の舗装、壁の下或は土レンガ壁下部の1段(“牆下隔減”と言う=壁の下の湿気を防ぐ意)、踏道を積む等である。磚を用いて須弥座を積むこともある。以上の角部分の形制は以下の通り:
   (注)磚;磚は焼成レンガのことで、我が国寺院では、床の敷面か腰壁にしか見られないが、中国
        の寺院や建築では、一般的に良く見かける。レンガに関する用語は訳語を知らないので、
        そのまま、用いることにする。
(1) 塁階基
 木構造建築の磚階基并びに全部の殿宇が磚で敷き詰められていないもの、そして台基四周の条磚を厚く積んだ磚壁は、中の部分は土をぎっしり詰める。階基の縁のこの道壁は、土壁から雨風を遮る役割を充当している。《法式》巻十五磚作制度の中で、磚壁の厚さと階基の高さの関係を規定している(図10-167)。
   殿堂亭榭の階基高さが、4尺以下の者;階基外壁は2磚を列べ塁積;
   殿堂亭榭の階基高さが、5尺から1丈の者;階基外壁は3磚を列べ塁積;
   楼台の階基高さが、1丈~2丈の者;4磚を列べ塁積
                2丈~3丈の者;5磚を列べ塁積
                4丈以上の者;6磚を列べ塁積
 殿階基は外檐柱より伸ばした広さが3~3.5尺の範囲で、階基面層の積み方は2つあり、一つは平砌(平積み)で、即ち面層は一直線で僅かに1.5%内に下げる。別の一つは露龈砌(鋸歯積み)で、層毎に上が1分を内に下げ、この1分は線圧の1/10に相当し、楼台亭榭は2分に出来る。一般に表層の磚は磨き加工をかけ、光沢滑かな美観で、並べる磚がまだ加工していない者は、《法式》の言う細磚と粗磚で、細磚が10層積む時、粗磚は只8層だけ積む。
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(2)鋪地
 室の内外は方磚を敷き詰め、室内地面は0.2%の斜度を持ち、室外の階基部分は打ちから外に下って、斜度は2%~3%である。階頭は圧闌石に変えて圧闌磚をもちいても良い。階基の外は磚散水を施工する。地面磚も表面と4側面を磨く必要があり、側面毎に内に1%下げ、以って継ぎ目の細密さと石灰漿が充分満ちるのを保証する。

(3)牆下隔減
 これを施工するのは建築下半部の磚壁で、それは土壁に比べもっと防潮性があり、其のため“隔減(碱)”と言われ、隔減壁上は土壁を承けるため、厚さは大きく、殿閣で副階の有るものは、内壁の下の隔減壁の厚さは6~4.5尺、高さは5~3尺である。副階のないものや庁堂の者は、4~3.5尺、高さ3~2.4尺に減り、廊屋の塁は厚さ3~2.5尺、高さ2~1.6尺で、隔減壁の上部の収(上面の減の意)は、階基の収制度に従う。現存の遼・金の殿堂にこの工法を見ることが出来るが、但し、高さ、厚さは均しく減るものが多く、一般に高さは2~3尺の間、厚さは3尺前後である(図10-168)。

(4)踏道(注;台基の階段)
 磚踏道の形制と石踏道は大同小異で、只踏道の斜度が緩やかで、1:2.5である。踏板毎の高さは4寸で、広さは1尺、両側は1磚幅の両頬が有り、踏板は斜めに積まれる。両頬の側面は象眼を作り、1層1層が後ろに退き、2寸を決まりとする。大門の類の建築では時に前部を磚積みの傾斜道にする、即ち後世の礓䃰である。斜度は更に緩やかで、1:3.87であり、その幅は間口に従い、両側も斜度と同じ傾斜道にし、これを三瓣蝉翅と言う。

(5)須弥座
 条磚を加工して、混肚、罨牙、合蓮等の異なる形状にし、13層の磚を積んで須弥座に迫真の表現が出現する(図10-169)。これを除いて、磚積みを用いた構築物に城壁や城壁水道、巻輂河口、馬台、馬槽、井壁等があり、其の中で城壁には多くの異型磚を用い、例えば走趄磚、趄条磚、牛頭磚等がある。宋代の城壁は未だ普遍的に包磚(注;レンガ積みの城壁)は無く、僅かに城門或は城壁の転角等の所に磚積みされるだけである。
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(6)用磚規格
《法式》に記す宋代建築の用磚規格は以下の如くである(単位尺)(表10-21)。
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方磚:
2✕2✕0.3 殿閣11間以上に用いる;
1.7✕1.7✕0.28 殿閣7間以上に用いる;
1.5✕1.5✕0.27 殿閣5間以上に用いる;
1.3✕1.3✕0.25 殿閣、庁堂、亭榭に用いる;
1.2✕1.2✕0.2 行廊、小亭榭、散屋に用いる。
条磚:
1.3✕0.65✕0.25;
1.2✕0.6✕0.6
圧闌磚;2.1✕1.1✕0.25
磚碇;1.15✕1.15✕0.43
牛頭磚;1.3✕0.65✕0.25(0.2)
走趄磚;1.2✕0.6(0.55)✕2
趄条磚;1.2(1.15)✕0.6✕0.2
鎮子磚;0.6✕0.6✕0.2




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# by songofta | 2017-07-03 17:57 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

234 石作

中国古代建築史 (抜粋) 巻三

第十章 建築著作と匠師



二、壕寨と石作制度
壕寨制度:
   (この項目は、城塞や堀に関するものなので、略す)

石作制度:中国古代建築は、大体が石構造の建築ではないのは、中国人が陰陽五行思想の影響があったからかもしれないが、陵墓建築に石の建造を用い、等級の高い木構建築は、又石塊を補助材料にする必要があり、其の理由は石塊は防潮が出来るためで、石の台基や石壇、石柱礎の類があり、木構成に堅実な基礎を持たせる事が出来る。更に石碑、石橋の類は長い期間伝えられる。《法式》の石作制度は木構造との密接な組合せを、特に皇家建築中に常用する石構造部材の形制や加工順序、彫刻制度を整理し規章を定めている。
1.常用する石構造部材類型及び形制
(1)台基
 木構建築の台基の高さは、大木作用材制度に従って定め、“台基の高さは材の5倍”。この規定は1等材の大殿は高さ4尺5寸が可能で、6等材の庁堂の台基は高さ3尺を越えず、8等材の小亭榭は、台基の高さはわずか2尺2寸5分である。当然この数値は、調整をしても良く、“ものが広い場合、5分から10分を加え・・・・・・・・もし殿堂に庭を作る者は、その位置を量り宜しく高さを加え、加えるのは高いとしても材の6倍を越えない”。更に高い台基を必要とする建築は、基壇を構築して解決する。石台基の広さは、外檐柱の中心線より四辺に向けて伸ばした寸法で、石作制度には規定が無く、《法式》巻十五磚作中の規定の磚階基に“柱心より3尺から3尺5寸出る”がある。これは石台基の広さを確定出来る参照である。石台基は中まで全部を石塊を積んで無く、基壁の表層だけを石で積み、内部は土を充填する必要がある。平面について言えば、台基の外椽周辺は圧闌石で一周し、石の段は長さ3尺、幅2尺、厚さ6寸。立面で見れば、隅部は隅柱を設ける。台基の下は土衬石を施工する。台基の壁は2種の工法があり、1種は石塊の平積みで、1種は疊澀坐で、石条を1層1層持ち送りにする、中間は束腰で、束腰の中に隔身版柱を設け、版柱の間は突壺門を立てる(図10-80)。《法式》巻二十九は僅かに殿基の疊澀坐の隅柱の図があり、現存の宋代実物と対照し、この類の台基の全貌を知ることが出来る。
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(2)壇
 石壇と《法式》が称するのは、3層の作り、大型建築の基壇を指す。その寸法は建築の性質に依って定め、宮殿について、更に礼制建築について見る。《法式》は壇の高さについて載せていない。その1層の立面毎に下に土衬石を施工し、上に数層の石重ねて持送りし、中を束腰とし、隔身版柱造を用い、或は柱間に壺門を造る。実物中には1層の室内佛壇だけがあり、例えば正定の隆興寺大悲閣に宋代の佛壇である(図10-81)。

(3) 鈎阑(勾欄)
 単鈎阑と重台鈎阑の2種類があり、《法式》は両者に対して長さと高さの限定を作っている。重台鈎阑は段毎の高さ4尺、長さ7尺。単鈎阑は段毎の高さ3尺5寸、長さ6尺。その他の部材は皆、勾欄の高さの百分比で詳細寸法を出し、即ち“尺毎の高さの積み上げを法とする”。《法式》は勾欄の寸法の限定に対して最大値を以って理解出来、実際の応用中で調整させて、さらに増大させるべきではなく、勾欄の高さがもし再び増大すれば使用功能に影響するので、《法式》は高さを3.5~4尺に、それは1,14m~1.3mに相当するが、正に人体の寸法に符合し、勾欄の長さは勾欄全体の造型に則り、石の段は採掘の可能性、及び重量の大きさ、施工操作に都合が良いかどうか等の諸要素と関係し、《法式》が管理する寸法6~9尺、1.97~2.3m相当は、正に以上の諸用紙を総合的にして得た理想的な寸法である(図10-82、10-83)。
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 2種類の勾欄の寸法の違い以外、重台鈎阑は盆唇と地栿の間に上下の2重華版を、単鈎阑はただ万字版式或は1重華版だけとなる。紹興の八字橋に使用の単鈎阑は、《法式》規定に倣い、只万字版或は華版陽の素版をこれに変える(図10-84)。
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(4)柱礎
 重要建築の柱礎は正方形の礎石上に円形の覆盆を採用し、常用する者は素覆盆があり、動植物文様の帯を持つものもある。礎石は“方は柱径に倍する”、厚さは方の5/10~8/10、覆盆の高さは礎石辺長の1/10。覆盆径は文様花飾に依り調整出来、一般に覆盆上部は均しく覆盆高さの1/10の“盆唇”相当の厚さが有り、雕飾を行い、上部の木柱櫍と接する(参考図10-91-略)。

(5)踏道
 建物毎の前に有る階段を踏道と称し、踏道は、踏石、副子、象眼の組合せである。踏道の幅は、建築の間口に従い、高さは台基に従い、長さは高さの1倍。踏道の両側は象眼を作り、踏道の高さに従い3ないし6層の石条を積み上げ、層を逐って内に退く。実例は登封の少林寺初祖庵大殿の踏道である(図10-85)。
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(6)門砧、門限
 門砧は門の竺を固定するための長方形の石塊で、大門門竺の下部に置き、半分は外に半分は内にある。内の半分には、円孔1個を開け、門軸を納め、極めて大きな門扇の下の場合は、円孔を半円球の突起に変え、鵝台石砧と称す(小木作制度で詳しく見よ)(図10-86)。門限は即ち門檻で、大門の下部に置き、2つの門砧の間にある。大型建築群の大門の下に使用する時、往々にして門限を取り除いて、門砧の所に臥立柣を設け、すぐに装置を取り外せる門限として、車馬の通行に便にする、この種の工法を断砌造と言う(図10-87)。 これを除いて他に、《法式》に載る石部材はまだ、殿階螭首、殿内斗八、流杯渠、巻輂水窗、水槽、馬台、井口石、山棚鋜脚石、幡竿類、贔屓鰲座碑、笏頭碣等がある。
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2.石部材の造作次序
《法式》は石部材の加工編制に対して、一通りの整然とした工作順序を制定し、即ち“造作次序”で、施工管理が依拠するのに作られた。各種が持つ異なる芸術処理の石部材は、採用する加工工程も異なり、石部材の加工特徴を基礎にして、彫鎸制度を編制した。
 “造作次序”にある石部材の加工を帰納すると6通の工程になる:
 (1)打剥:鏨(小歯)で石面の突起部分を削り取る。
 (2)粗摶:粗加工のことで、石部材の表面に必要な輪郭を彫り出すこと。
 (3)細漉:密に鏨を入れ、表面の凹凸を浅くすること。
 (4)褊棱:小さい鏨で稜隅を削り、四辺の周を正しい形にする。
 (5)斫砟:彫飾類型に依り、斧で1遍から3遍の一律ではなく、彫刻がうまく出来るよう下準備をする。
 (6)磨陇:砂に水を加えて表面の削り模様を磨き、光沢を出させる。
前の3通りの工程はどのような彫刻制度も必要不可欠な通則で、後者の往く工程かは、彫刻の具体的状況に依り、前後の順序を調整し、柱礎の覆盆に突起を削り出す彫刻などは、その褊棱と磨陇は花紋の彫刻が皆完成した後に行うなどである。

2.石部材の造作次序 《法式》は石部材の加工編制に対して、一通りの整然とした工作順序を制定し、即ち“造作次序”で、施工管理が依拠するのに作られた。各種が持つ異なる芸術処理の石部材は、採用する加工工程も異なり、石部材の加工特徴を基礎にして、彫鎸制度を編制した。 “造作次序”にある石部材の加工を帰納すると6通の工程になる:
 (1)打剥:鏨(小歯)で石面の突起部分を削り取る。
 (2)粗摶:粗加工のことで、石部材の表面に必要な輪郭を彫り出すこと。
 (3)細漉:密に鏨を入れ、表面の凹凸を浅くすること。
 (4)褊棱:小さい鏨で稜隅を削り、四辺の周を正しい形にする。
 (5)斫砟:彫飾類型に依り、斧で1遍から3遍の一律ではなく、彫刻がうまく出来るよう下準備をする。
 (6)磨陇:砂に水を加えて表面の削り模様を磨き、光沢を出させる。
前の3通りの工程はどのような彫刻制度も必要不可欠な通則で、後者の往く工程かは、彫刻の具体的状況に依り、前後の順序を調整し、柱礎の覆盆に突起を削り出す彫刻などは、その褊棱と磨陇は花紋の彫刻が皆完成した後に行うなどである。

3.石部材の彫鎸制度
 《法式》は石作制度の中で、先ず最初に建築石彫の彫刻類型を分類し、“その彫刻制度には4等あり、1つは剔地起突で、2つ目は圧地隠起、3つ目は減地平鈒、4つ目は素平である”。その持つ異なる芸術効果に從って、る異なる等第の建築の異なる部位に使用される。(以下、細目が続くが、略す)



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233 屋根、柱の制

中国古代建築史 (抜粋) 巻三

第十章 建築著作と匠師



(4)屋根:
1)屋根形式
《法式》は3種の屋根を記載する。
①四阿頂(柱;寄棟屋根):これは①種の4斜面の屋根で、清式では廡殿頂と称し、主要に殿閣類建築に用いる。《法式》の規定に照らすと、四阿頂の4条の戧脊(※注1)の平面投影の多くは隅部の45°線上に無く、この様に作るのは大棟が太く短く成るのを避けるためで、その場合は大棟の両端を増出する。《法式》巻五“陽馬”の1節に載る、“もし8椽5間から10椽7間の建物は、両頭は大棟を各3尺増加する”、この様に隅梁上部の尽きる所は45°投影線より外に3尺出すのである。実例は山西省大同の善化寺三聖殿で、8椽5間類に属するが、その大棟の増出は1.35尺で、3尺には不足する。河北省新城の開善寺大殿は6椽5間と言っても、大棟も増出1.3尺で、善化寺大殿は10椽7間に属するが、増出は見られず、その他の実例も大棟の増出は少ない。多分当時、尚普遍的に行われる精度では無かったのであろう(図10-72)。
   (※注1)戧脊;大棟両端から四隅に下る棟
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②厦両頭造(九脊頂)(注;入母屋屋根);清式では歇山頂と称し、庁堂類の建築に用いる事ができ、殿閣類建築にも用いる事ができる。
 《法式》巻五“陽馬”の1節に載る:“およそ庁堂がもし厦両頭造ならば、両梢間は隅梁を用いて2椽を転過し、(亭榭に類は1椽、今亦この制を用いるのは殿閣を作る者で、俗に言う曹殿、又は漢殿、又は九脊殿)。このため丁堂建築に使用する時は“厦両頭造”と称し、殿閣に用いる時はそれを“九脊頂”と称する“様になった。“厦両頭”を解釈すると、1棟の両屋根斜面の建物の両頭に垂木を架け両厦(注;庇の意)を加え、一般に両厦の寛さは2椽で、小亭榭は1椽である。もう一つ別の解釈は“厦”字の音は“殺”と同じで、即ち叩き切る、切り落とすの意味で、両斜面屋根の建築に対して、両頭は1間上部の屋根を切り落とし再び隅梁を用いて両椽を転過し、厦両頭造を後世する。その構造の特徴は屋根の両斜面部分にあり、両端は出際(※注2)に作る。巻五“棟”の1節に出際の制があり、“もし殿閣の隅角を作るならば、出際の長さは架構に従う”とある(図10-73)。
  九脊頂は出際が長くなるので、“丁栿の背に夾際柱子を立て、或は更に柱槫梢或は更に丁栿の背に系(門構えに系が入る字)頭栿を添える“。これは出際の槫(垂木桁)に対して支点を増加させるものを指し、この工法は河南省登封の少林寺初祖庵大殿の妻面に見られ、この殿はわずか3間だが、転角部の隅梁は只1椽だが、桁は中央間の2縫(継ぎ手)の梁架が伸びて、中間は支点が無く、これにより夾際柱子を立て以って槫梢を助け、合わせて系頭栿が妻面の垂木尻を承ける(図10-74)。
   (※注2)出際;入母屋の切妻部分で、妻側に飛び出した垂木。
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③不厦両頭造(注;切妻造):即ち両斜面屋根で、清式では懸山頂に相当する。庁堂建築に用いるとその特徴が2つあり、その一は屋根斜面が平直ではないことで、屋根斜面は双曲面となる。横断面方向では挙折制度が凹曲線を作り、立て方向では柱の生起及び槫梢が生頭木を加え、屋根面も凹曲面を作る。その2は、屋根は梢間から出際が必要で、《法式》の規定に照らせば、“両梢間の両の際は各柱頭を出し・・・・・2椽の建屋は2尺から2尺5寸、4椽の建屋は3尺から3尺5寸、6円の建屋は3尺5寸から4尺、8椽から10椽の建屋は4尺5寸から5尺を出す。”

2)挙折制度:
 挙折制度は2つの部分出構成され、一つは挙屋の法で、即ち総挙高、屋根自体の高さを定める法で、つまり屋根の橑檐方の背面から大棟桁背面までの総高さで、その寸法は前後の槫檐枋中心の距離(A)を基数として、建築の等第によって異なり、総挙高の計算方法も異なる。
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二つめは、折屋の法で、屋根の垂木桁の位置毎に発生する折れを指し、第1折は上平槫に1縫にあり、大棟桁から橑檐方との間を結ぶ線の交点から下にH/10降ろし、第2折は中平槫の所で、第1折点から橑檐方の間の不スブ線からH/20降ろし、このように次々にH/40、H/80・・・・・折点を求めた後、それらを繋いで屋根曲線を作る(図10-75)。
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(5)椽架、出檐、椽径、布椽
 椽架は、椽が両槫の間の水平面投影の長さを指し、《法式》の規定は“どの架も水平距離は6尺を超えず、もし殿閣ならば或は5寸から1尺5寸を加える”、即ち一般の建築は椽架長は6尺以下で、大型の殿閣は7.5尺まで可能で、このような規定と現存の同時期の実物は一致するが、幾つか超えるものが有り、例えば上華厳寺大雄宝殿で、椽架長は9尺に達し、奉国寺大殿の椽架長は8.5尺に達する。椽架が長く成る程、断面は必然的に大きくなり、消耗する材料もそれに従って増加する。《法式》が採取した適中する態度は、最もなもので、明清建築の椽架は短く変化し、明らかに材料を節約する目的から来ている。
 
 挙折制度に従い橑檐方より内の屋根曲線を求め、橑檐方より外の檐頭(軒先)までは、《法式》はその帰属を“造檐の制”に置き、その内容は主要に、一つは軒の寛さで、一つは隅の生出の寸法であり、軒の寛さは建築物の大きさで決め、殿堂か庁堂か余屋に属すかと、同時に又は張り出す垂木の粗密に密接に相関する。《法式》は先に建築類型に依り椽の材分を制定し、一般に殿閣は9~10分、庁堂は7~8分、余屋は6~7分。軒の出の寛さはほんとうの寸法に転換下後の檐径で、2級に分け、檐径5寸は檐の出(檐椽の張出し)4~4.5尺、それとは別に飛檐の寸法を加え、それは檐出の60%に相当し、2.4~2.7尺に等しく、総軒の出は6.4~7.2尺で、換算して2.04~2.30mで、これは殿閣類建築の寸法と成る。もう一つの級は檐径3寸の者で、総軒の出は5.6尺、換算して1.79m。もしこの2類に適合しないかもっと小さい建築に出会った場合、この類に比べて調整する。建築遺物中、檐の出の寸法は普遍的に《法式》規定より小さく、僅かに上華厳寺大雄宝殿だけが2.76mに達し、《法式》規定範囲を超えるのみである。

 隅軒の生出(※注3)は建築規模により定まり、即ち“1間は生4寸、3間は生5寸、5間は生7寸(5間以上は大体の大きさを測って加減する)”。どうして隅軒の生出は材の分数で定めないのか、又軒の寛さの某かの比例として定めないのか、突き詰めると其の原因は隅軒の翅上がりの存在との対応関係かも知れず、《法式》は専門的に跳ね上がりの寸法を決めていないとしても、順に柱の生起の値が有り、(詳しくは柱の制の1節を見よ)、更に正心方から隅部までの加える生頭木があり、共に軒の翅上がりに影響する。生出は生起の値より大きいとしても、軒の生出は翅上がりと依然として相近いのである。
  (※注3)生出:軒が反る事によって必要と成る垂木の伸び。隅に行く程大きくなる。
       生起:隅に近づく程、柱を伸ばすこと

 《法式》は椽の布局(布椽、=配置)に対して特に明らかにして、“1間の中心にする、もし詰組があれば、1間の耍頭を中心にする”も、即ち椽(垂木)間を以って建屋の中心線或は間毎の中心線に対して中心を当てるが、未だ柱の中心線位置に椽の中心を当てるのかは言われていない。清式建築では、柱の中心線位置に、垂木桁が繋がる隙間を当て、椽を釘打ち出来ず、故に柱中心線の所は必ず椽当となる。宋式建築ではそうではなく、垂木桁の相接する所は蟷螂頭口の枘を採用し、椽の釘打ちに影響せず、柱中心線の所も椽当を作らずとも良い。椽が屋根の向きが換わる角はどのようにするか?《法式》は“もし四方に垂れる隅梁で方向を変えるならば、隅梁の分布に従い、垂木先端の密度のままに、隅を超して軒に帰る(次の詰組の中心に至る)“。しかし、垂木尻はどのように交叉させるか?未だ規定には無い。この時期の遺構には2種の工法があり、一つは垂木尻を1点で交わらせ、この点を詰組の中心線と隅梁の交点に起き、垂木を扇形に展開する、大多数の遺構はこの様にしている。別の一つは短かい垂木とし、垂木を皆平行に置くが、但し翼角の垂木は損傷しやすく、木構造の遺物は已に無くなり、福州鼓山の涌泉寺門前の宋代の陶塔に見られる。しかし、この種の工法は日本の古代木構造建築に保存されて来ている。
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  《 福州鼓山涌泉寺門前千仏陶塔 》

(6)用材の制
 《法式》は柱の太さに対して、柱の造型ないし柱が架構中で以下に置かれるかを詳細に規定している。
 1)柱径:殿閣は、2材2栔から3材。庁堂は2材1栔。余屋は1材1栔。

 2)柱身:巻殺(丸く殺ぐこと)が必要だが、どのようにするか? 《法式》に載るのは:“凡そ梭柱に殺ぐ法は、柱の長さを3分割し、上1分割を又3分割し、上に行くにつれて巻殺し、大斗底の四周が各4”分“出て、又柱頭の4“分”を量り、最後は覆盆のように殺ぎ、柱頭と大斗底が一繋がりのようにし、その柱身に下1分割分は殺いで径周囲は中の1分割と同じにする“。この段の文章で人を悩ますのは最後の1句の解釈で、即ち柱身の下部3分の1は巻殺をするだろうか、しないのだろうか?文章の中の“その柱身に下1分割分は殺いで径周囲は中の1分割と同じにする“の、「中の1分割」は、柱身の中の1分割なのか、それとも上の1分割を又3分した後の中の1分割なのか?もし前者ならば、“殺ぐ”必要はなく、一般にいつも見る建築での柱の状況で、下の段は殺がないが、江南にある木構造或いは石構造建築では下1分割を巻殺する例をよく見るが、宋初の遺物で、杭州の霊隠寺大殿の前の石塔の柱は、柱身の下部に巻殺を持つ(図10-76、10-77)。木構造建築の例では、元代の浙江省武義の延福寺大殿がある。字面から理解すると“梭柱”と称するから、上下に皆巻殺が有るべきとなる。
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 3)生起と側脚:柱は架構中に置く時は生起と側脚のやり方を採用し、全体的に架構に強固さを加える。所謂、生起は中央間の柱は平柱で、中央間から隅に段々と高くし、間毎に生2寸、“もし13間殿堂ならば、隅柱は平柱より生1尺2寸高くする”。側脚は外檐柱の柱脚を外側にずらし、正面柱は“長さ1尺毎に側脚1分”即ち1%、側面柱は“長さ1尺毎側脚8厘”即ち0.8%、この様に柱に内向きの傾きを出現させる。生起と側脚は共に工作し、一種の内に集まる力を産み出し、上部の屋根の下向きの圧力と外向きの拡張する力の平衡を産み出す。

 4)柱高:柱高に関して、《法式》は僅かに“もし副階や廊舎の下檐柱が長い場合、間幅の広さを越えさせない”。そして一般に副階のない殿堂或は庁堂は、結局、柱高をどう確定するのかを《法式》は規定して居らず、実例から見る檐柱高も皆中央間幅の広さを越えない。但、両者は未だ固定的な比例関係が見いだせない。当時の建築は、檐柱の柱径もかなり後期まで太く、径と高さの比は最大で1/7ばかりで、少量のものが1/10に達する。《法式》は柱高は未だ規定を作らず、この部分は設計者の感覚が決めていると言える。

 5)拼合柱:柱の用材がかなり大きく、大きな材料が供給されない時は、拼合柱の採用をしても良い。《法式》巻三十の図に2段或は3段に拼合した1本の柱の工法を描き、梁類の部材も“上に繳背を加え、下に両挟を貼る”工法が有り、これは宋代の工匠が已に天然材料の組合せを探し始めた事を述べていて、小材を大材に用いることができる問題である。但《法式》がこの様なだけではなく、残っている木架構で拼合柱を使用した珍しい遺例が―――浙江省寧波の保国寺大殿である。これは木構建築技術が前向きに発展した重要な一方面である。
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         《 寧波市保国寺大殿の拼合柱 》





  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


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総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服
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# by songofta | 2017-06-19 21:16 | 旅と地域 | Trackback | Comments(0)

232 梁、額部材

中国古代建築史 (抜粋) 巻三

第十章 建築著作と匠師



(2)梁、額類部材の長さと位置
 《法式》は加工中の梁類部材を分類し、凡そ横向きに重畳して組む柱上にある者は“梁”或いは“栿”、縦向きに組み柱上にある者を“額”と称して、傾斜屋根の四隅の者を”角梁”(注;隅梁)と称する。
1)梁類:梁類部材の多くは、長さと位置から来る区分にその性質がある。
 梁の長さは椽の水平投影長さから計り、幾椽長の梁かを幾椽栿と称する。《法式》巻五所載の梁は以下の数種である。
 ①檐栿:一般に前後の檐柱或は内柱間の長さの梁で、長さは3架椽から8架椽めで可能で、即ち3椽栿、4椽栿・・・・・・・・8椽栿である。
 ②乳栿:外檐柱と内柱間の両椽長の短梁。
 ③平梁:屋根最上部の両椽長の梁。
 ④劄牵:乳栿の上或はその他の部位に位置し、1椽長の短梁。
 ⑤丁栿:妻面と主要な梁に架かり丁字形となる短梁で、長さは多くが両椽。
 ⑥系頭栿;入母屋造の妻面で、妻面の椽檐の尻にある梁。(注;原文では、系は門構えに系を書く)以上の数類の梁は皆明栿にも可で、草栿でも可である。

2)額類:額類部材は多く縦の列柱の間に位置し、長さは皆、間幅に従い、位置と断面のみが各種の変化をし、その位置は以下の数種である。
 ①闌額(注;頭貫):檐柱の柱頭の間に置く。
 ②由額:殿身の頭貫の下に置き、副階の檐尾を承ける。
 ③屋内額:内柱柱頭の間に置く。
 ④門額、額:頭貫の下に位置しそれと平行で、門窓(注;戸口の框)に装置して設置する部材は皆額と称して、戸口の上側の横材を門額と言う。

3)隅梁類
 ①大隅梁と子隅梁は、隅鋪作の橑檐方と下平槫の交叉する間の梁で、前に伸びて檐(注;地垂木)の先端に至るのが大隅梁で、子隅梁は大隅梁の背に載って、飛燕垂木まで前に伸び、子隅梁の尻は《法式》が元々言う“柱心に至る”、即ち檐柱中心までを指し、もし《法式》図のように据えると檐隅の高く翅あがらない状況からみて、前部が非常に長く突き出すことに依って転覆するかも知れない。実例中に出現した3種の工法は、一つは太原の晋祠聖母殿で、採用した工法は子隅梁の尻の上に1本のかなり短い続角梁を挿し、下平槫まで伸ばす(図10-69①)。もう一つの工法は高翅角を造り、子隅梁の尻を大隅梁に挿して、転覆の可能性を小さくするもので、南方に現存する明清時期の建築の高翅角工法は正にこれで、この種の工法は宋代磚石建築遺物中に先例を見ることが出来、例えば福建省鼓山の湧泉寺の陶塔が在る。これに拠れば《法式》に記すのは南方の高翅角建築中の子隅梁の工法かも知れない。第3種の工法は、子隅梁の尻と大隅梁が共に下平槫まで伸びる、正定の隆興寺摩尼殿の例である(図10-69②)。
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 ②隠角梁と続角梁:寄棟屋根建築なかでは、大隅梁の尻が大棟垂木桁まで隅梁が続いて伸びて行く必要があり、平槫(注;垂木桁)層との交点毎に、続角梁を形成する。隅梁と続角梁の背の折線が1条の優美な曲線に成るために、往々にして転折点の上に木片を当てるが、これを隠角梁と呼ぶ。
 ③隠襯角栿:《法式》巻五造梁の制の1節に載る“およそ隅梁の下は又隠襯角栿を設け、明栿の上で、外は橑檐方に至り、内は角後に栿項柱に至り、長さは両椽材で斜め分はこれを加える”、この位置と高さに対して設ける梁を隠襯角栿と称するが、未だ宋代の実例は見ていない。

(3)梁、額の造型と断面
 架構中の草栿は皆、長方形断面の直梁に造り、明栿は直梁と突く梁に分かれ、明栿で直梁にする者の断面は依然として長方形ではあるが、月梁にする者は上下の表面を盛り上げ凹ませ、梁を三日月形に整え、両側面を丸く殺いで、やや凸形の弧面を造る。額類部材中外に見えるものは極力均しくするため、月梁式で無いもの出会っても、断面は皆長方形だが、両側面だけは殺いで弧面を造る。《法式》巻四造梁の制所載の梁の断面は下表に示す。
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 表8に見ることが出来るのは:
 ①梁の断面寸法は、梁の長さに従って変化する。梁が長く成るほど、断面寸法が大きくなる。
 ②梁の断面寸法と梁表面架構の精粗の程度は関係がある。凡そ表面にかなり精細な加工をするものは、断面寸法は少し小さい;表面を粗く加工するものは、断面寸法が少し大きい。これは表面の粗い仕上げは荷重を受ける能力がやや劣るためである。表10-8中の明栿と草栿寸法は異なる。
 ③異なる類型の建築での梁の強度に対する要求は異なり、殿閣類の建築要求での強度は高く、その承ける屋根は、構造工法が複雑で、瓦飾は重厚で、荷載重量は大きく、梁の断面寸法は大きさを増やしている。庁堂類の建築は荷載重両は稍々軽く、梁の断面寸法は少し小さい。
 ④表面に芸術加工を行い、やや湾曲した月梁を作ると、芸術加工をしない直梁に比べて、断面の大きさは異なるものになる。梁面の芸術加工を考慮し、弧形表面を作った後、積載力の有効値は減少し、梁断面はやや拡大する(図10-70)。更にその他一連の要因で、建築上使う斗栱の等級は、建築処理の要求を満足し、或は梁先端が出跳する構造の要求等も、ある種梁の断面寸法の調整がいる。
 この他、《法式》はまだ梁の頭、尻の処理も規定を作る。一般に月梁の梁頭断面は均しく“足材”の大きさまで減少させ、21分✕10分で、その後斗栱の斗口中に進入させ、或は柱身に挿入する。

  《法式》の梁の長さ斗断面寸法の規定は、技術要求と芸術要求を加味して総合的に考慮した後、制定されてきた。今日、その梁の受力状況にたいする認識レベルは、見る限り、当時の工匠の実践経験を総括しただけでは無く、科学的結論を高めたものである。この問題に関して、一面では《法式》が出来た前後の中国古代建築遺物の比較の中に証拠があり、別な面では西洋の材料力学発展史から関係する論述の比較の中に証拠が得られる。
 現在、《法式》が出来た3,400年後のダ・ヴィンチの論述と少し比較してみよう。ダ・ヴィンチが提出したその当時普遍的な原理とは:“どのように支持される自由湾曲材も、もし断面と材料が均一ならば、支点からの距離が最も遠い所で、湾曲も最大になる”。かれは実験を経て得た結論は:“両端支持梁の強度と其の長さは反比例し、その幅とは正比例する。”つまり、同じような断面の梁は、長いほど強度は小さくなる。同じような長さの梁は、幅が広いほど強度が高く成る。この結論と《法式》の総括を対照すると、《法式》は梁の長細比の規定に長さと強度が反比例関係にある事を内包し、ダ・ヴィンチの梁の強度と幅の関係に下した結論は、《法式》が梁の高さ幅比の規定に更に問題の実質が近い。《法式》規定の梁の高さ寸法は幅の1.5倍で、当時已に梁の高さ寸法の大きさは、梁の幅寸法の大きさに比べて、力を受けるのに更に重要と認識されていたことを述べていて、ダ・ヴィンチは未だこの点まで認識されていない。17世紀になって、ガリレオはやっとこの点でダ・ヴィンチの結論を突破した。ガリレオは《2つの新科学論》の中で:“1本の木の物差しか太い竿があれば、もしその幅が厚さより大きければ、その幅のほうを縦に立てる時、その断裂の抵抗能力は平に置くよりも大きく、それは厚さと幅の比に比例する。”ここに有るのはガリレオが已に竿の受ける力に影響するキーポイントは断面高さであると証明し、竿を立てた時の積載能力が高く、強度と断面高さが密接な関係にあると言っている。立てる時と平に置く時の強度の比は厚さと幅の比と言う結論は、竿の幅の変化と強度の影響は小さいと言っている。但し、竿の断面高さ比の最適当な比例は言っていない。これにより、この問題上、ガリレオの結論は未だ《法式》の梁断面の高さ幅比は3:2が適切と言う結論の深さには至らない。
 これに引き続き、17世紀後半から18世紀初の数学、物理学者Parent(1666~1716年)は梁の湾曲についての1編の報告の中で、いかにして1本の丸い木材の中から最大強度の矩形梁を取り出すかを語る時に、一種の科学的方法を導き出して、即ち矩形梁の両辺ABとADの乗数が必ず最大値を要求する時、矩形梁の対角線DBは円木の直径となり、AとCからの垂直線分が3等分と成るとした(図10-71)。
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この結論に基づき、矩形梁を求めた長短辺の比例関係は、短辺が2の時、長編が2.8となる。これと《法式》に規定される梁断面の高さ幅比3;2はかなり近い。
 18世紀末から19世紀初、英国の科学家トーマス・ヤング(1773~1829年)もParentの結論を証明し、更に進めて、円柱体から1本の矩形梁を取り出す時、“剛性最大の梁はその断面の高さと幅の比が√3:1の比例となる;強度最大の梁の高さと幅の比は両者が√2:1の比例で;但し最も弾性の有る梁はその高さと幅の比が等しい梁である。
 この結論と《法式》の梁断面の高さ幅比の結論を対照すると、√3:1は即3.46:1、√2:1は2.8:2である。《法式》規定の梁断面の高さ幅比は3:2で、両者の中間値となり、剛性を考慮し、強度も考慮している。
 この様に認識する人がいるかも知れない、《法式》は只当時の実践経験の総括で、必ずしもこの様な考慮をしたわけではないと。しかし、当時の実物を見ると、簡単に“実践経験の総括”と解釈することはとても出来ない。表10-9に列挙した24の建築物中、梁の断面寸法に関係する95個のパラメータから見出だせるのは、50%前後は梁断面の高さ幅比が√2:1から√3:1の範囲内で、只37%だけの梁断面の高さ幅比が1.5(±0.1):1の範囲内である。《法式》は梁断面の高さ幅比の適切な規定は3:2の比例関係で、これは古代の棟梁が梁の強度と剛性に対して承認したものに、詳細な研究の後に得た結論とすべきなのである。これにより、この結論は一種の理論的昇華と看做すべきである。
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 まだ指摘する必要があるのは、《法式》の規定する梁の断面寸法は、現存の唐宋時代の一般の古建築実物の梁断面寸法より、遍くやや大きく、これは《法式》と言う書の所定の規章精度は、皇族が使用する建築皇帝に専門的に活用するもので、皇帝品質と安全は特別重視しているためである。
 12世紀初(1103年)に出来た《法式》は、時間的には西洋の科学者Parentより約600年早く、科学的には已に後世の数多くの科学者の実験と実践で証明された、意外にもこのような価値のある結論を、得ることが出来たのは、賛嘆せざるを得ない。


  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


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# by songofta | 2017-06-19 12:57 | 旅と地域 | Trackback | Comments(0)

231 大木架構 殿堂式と庁堂式

中国古代建築史 (抜粋) 巻三

第十章 建築著作と匠師



3.大木架構
(1)架構類型
 《法式》は当時の建築を三大類型に分ける;殿堂、庁堂と余屋で、その架構類型も3類に分け、巻三十一中に殿堂と庁堂の側面図を描来出す。余屋類は庁堂架構と同じものを除き、《法式》巻五挙折制度の1節中に“柱梁作”1詞があり、即ち第3類架構を指す。これを除き楼閣建築の1類がある。

1)殿堂式架構
 等級の高い建築に用い、その特徴は3つある:
 ①明栿草栿の2つの架構があり、その違いは“およそ明梁は天井が載り、草栿はその上に在って、屋根の荷重を承ける”。
 ②内外の柱は同じ高さで、柱間に頭貫、地栿を置き、柱框層を形成する。
 ③明確な鋪作層が在る。
 殿堂の架構毎に、屋根、鋪作層、柱框層が重なって出来る。この他、副階を付ける者は、殿身の四周に又副階架構を挿入し、即ち片流れ屋根、鋪作層、副階柱框層が必要になる(図10-64,65)。
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 《法式》巻三十二所載の殿堂側面4式は、副階を持つ者3、殿身部分は皆3層畳落式で、その殿身の草栿は、均しく殿身に依って多層に積み重なった梁が全て深く進入し、明栿部分は内柱の数目に依って、位置と斗栱の分層形式を違えて場所に合わせて変化し、図様中の明栿架構の形式は下記の如くである(以下、幾かの例に示す殿堂は副階を持ち殿身は7間で、副階の無い者は殿身が9間である):
(A)双槽或は金箱斗底槽式
 十架椽(注;奥行が、垂木桁の間で10在る建物の意)で、殿内は双槽(頭底槽はこれによる)、外側は8鋪作重栱で出跳は2杪3下昂、内は6鋪作重栱で出跳は3杪。明栿と草栿はゆるい対位関係で、前後の明栿は長さ約3椽、明栿架構形式は前後3椽栿で4柱を用いる。もし金箱斗底槽とすれば、最後の一次間は梁架を用いず、柱間の頭貫に改造し、上に内槽鋪作を設け、外檐鋪作と相応じる。副階の梁架は皆、乳栿を設ける;明乳、草栿は各1本、乳栿首は外檐鋪作に入り、乳栿尻は殿身檐柱の柱身に挿入し、明栿の下は丁頭栱を以ってこれを承ける。
(B)双槽式
 十架椽で、殿内は双槽、外は7鋪作重栱で出跳は2杪2下昂、内は6鋪作重栱で出跳は3杪。明栿の架構は上と同じ。副階の外側は5鋪作重栱で出跳は1杪1下昂、内は5鋪作で出跳は2杪。以上は各計心造。副階の架構形式と工法は同上。
(C)単槽式
 8架椽の殿内は単槽、外は5鋪作重栱で出跳は1杪1下昂、内は5鋪作重栱で出跳は2杪。明栿と草栿はゆるい対位関係。明栿の架構は3椽栿に対して3柱形式の5椽栿を採用している。副階の外は4鋪作の挿昂造で、内は1つ出跳する。副階の架構形式工法は上と同じ。
(D)分心槽式
 十架椽で、殿内は単槽、外は6鋪作重栱で出跳は1杪2下昂、内は5鋪作重栱で出跳は2杪、以上は各計心造。明栿の架構は前後5椽栿分心で3柱式。

2)庁堂式架構の特徴
①内外の柱の高さが異なる。内柱は梁端或は梁下面を承ける所まで高く上がり、その上に垂木桁を承ける。
②梁栿は皆、彻上明造で、草栿は無く、梁尻は内柱身に挿入する。梁栿の間に順脊串を使用し、襻間等縦向きに連繋する部材が比較的多い。
③鋪作は比較的簡単で、最多は6鋪作で、一般に4鋪作を用い、内柱が高く上がり、梁栿の尻が直接内柱の柱身に挿入できる場合、鋪作を使用しないので、鋪作宋を形成せず、外の鋪作が主と成る(図10-66)。
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庁堂の架構は建屋の奥行の大きさに従って、内柱の数は多くの変化を産み、《法式》巻三十一は庁堂の側面図を19種の多数を描き、それは下の数種に分けられる。
  前後の通檐に2柱を用いる:《法式》中、僅かに4架椽の建屋に用いる。実例中6架椽建屋で通檐2柱を用いる者は、山西省平遙の鎮国寺大殿である。

  3柱を用いる者:10架椽建屋で分心に3柱を用いる。
            8架椽建屋で乳栿対6椽栿に3柱を用いる。
            6架椽建屋で分心に3柱を用いる。
            6架椽建屋で乳栿対4椽栿に3柱を用いる。
            4架椽建屋で分心に3柱を用いる。
            4架椽建屋で劄牵、3椽栿に3柱を用いる。
  4柱を用いる者:10架椽建屋で前後3椽栿に4柱を用いる。
            8架椽建屋で前後乳栿に4柱を用いる。
            8架椽建屋で前後3椽栿に4柱を用いる。
            6架椽建屋で前の乳栿と後の劄牵に4柱を用いる。
  5柱を用いる者:10架椽建屋で前後の乳栿に5柱を用いる。
            8架椽建屋で分心乳栿に5柱を用いる。
  6柱を用いる者:10架椽建屋で前後并びに乳栿に6柱を用いる。
            10架椽建屋で前後の各劄牵乳栿に6柱を用いる。
            8架椽建屋で前後劄牵に6柱を用いる。

3)柱梁作
 《法式》巻五の挙折の1節に拠れば:”挙屋の法は、殿閣楼台の如きは、先に前後の橑檐方の間の距離を量り、3“分”に分け(もし余屋の柱梁作或は出跳が無い場合は、前後の檐柱中心で)、橑檐方の後ろから大棟桁までを1“分”挙げる・・・・・” この段の文字が言うのは、明柱の梁作一類架構は“余屋”類の建築中での使用は、この種の架構形式の名称から判るのは柱梁組成から来ている事で、具体的形制は《法式》が今一歩記載していないが、実物資料の分析から、架構は梁柱が一緒に繋がるだけでなく、多くは斗栱を使用せず、或は“斗1つが替木一類を支え”、《清明上河図》に見られる民家(図10-67)の如くである。《法式》の余屋類の建築は主要に穀物蔵や物置である。
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4)楼閣架構
 楼閣建築は《法式》が未だその見立てをしていない類の一つである。その屋根部分は殿堂式か庁堂式の架構を採用し、楼層の間の構造は、ただ巻四の平座の制度の1節で3種の工法が在るとノベルだけである。
(A)挿柱造平座、即ち楼閣上層の“柱根が(平座層の)大斗の上で交叉”する。平座は柱框層(即ち短柱と頭貫、梁栿等が形成する構造の架構)と平座鋪作層により構成し、柱框層は又楼閣の下1層の鋪作層の上に置かれる。実例は天津市薊県の独楽寺観音閣や山西省大同の善化寺普賢閣等である。
(B)纏柱造平座は、楼閣上層柱が平座柱より1柱径分後退し、この時、柱根は地板の鋪板方及び下部柱頭方の上にあり、方向の変わる隅部では、上層柱は正・側両面で1柱径分後退し、平座鋪作は隅の大斗3枚に置かれ、上層柱周囲をぐるりと廻り、このため纏柱造と言われる。未だ実例を見ない。
(C)永柱造平座は、楼閣上層柱と平座層の関係はA或はBと同じで、平座層は楼閣下層に依拠せず、直接地面より立柱して平座層の柱框層を構成し、柱框層の上は即ち平座鋪作層となり、例えば河北省正定の隆興寺慈氏閣の用になる(図10-68)。
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 上に列挙した3種の工法より知れるのは、たとえどの1種であっても、楼層の間にも皆平座層があり、室内は楼板を承け、室外は張出し台を形成し、登って眺望を見る事が出来る。一般に平座鋪作の下には腰檐一周が設けられる。有る場合は平座層は室内を暗層を作り、只構造物として作用し、しようする空間として作られず、例えば応県木塔の様なものである。暗層を作らないこともでき、室内空間は上層に直通する、河北省正定の隆興寺転輪蔵殿のごとくである。この種の1層1層の積み重ねに依ってできる楼閣は垂直方向の剛性部材の不足は最大の欠陥である。水平荷重を受ける時、均等でない変形を生じ、楼閣に傾斜か捩れが発生する。


  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服
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# by songofta | 2017-06-19 12:26 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

230 斗栱4 鋪作の分布と分槽

中国古代建築史 (抜粋) 巻三

第十章 建築著作と匠師


4)扶壁栱
 一列の補作の長手の中心線上で使用する栱を扶壁栱と謂い、又は影栱と謂う。《法式》所載の計心造標準型の補作は、扶壁栱も標準的と成る筈で、重栱造の者は、泥道栱、慢栱、素方となる。但し、補作が局部的に偸心造を採用する時、扶壁栱は調整する必要が出て来る;《法式》には以下の調整方案が示される:
 “5鋪作1杪1昂でもし下1杪偸心ならば、泥道重栱之上に素方を設け、素方の上に又令栱を置き、令栱のの上に承檐方を設ける。“
 “単栱6鋪作1杪2昂或は2杪1昂は、もし下1杪偸心ならば、ダイトの上に2令栱2素方を設け、(方の上は平鋪遮檐板)或は只泥道重栱上に素方を設ける。“
 “単栱7鋪作2杪2昂・・・・・もし下1杪偸心ならば、大斗の上に2令栱2素方を設け(素方の上は平鋪遮檐板)或は泥道重栱上に素方を設ける。“
 “単栱8鋪作2杪3昂は、もし下2杪偸心ならば、泥道栱の上に素方を設け、素方の上は又重栱素方を設ける“(素方の上は平鋪遮檐板)。
 以上の初条件から見て取れるのは、《法式》が偸心造の扶壁栱に提供するモデルは“令栱、素方、令栱、素方”或は“重栱、素方、重栱、素方”で、その核心の考え方は即ち素方を設け、正心位置の素方に2つの重栱以上の位置を示させ、それによって偸心造で減少した出跳素方が引き起こすかも知れない荷重を承ける力点の弱さを補って、鋪作が外力を受けた時に発生する変移が少なく成るように保証している。現存の実例は、《法式》が提示する正心素方に比べてもっと多く、正心位置の泥道栱或は慢栱や令栱は前部素方に改変され、或は1本の泥道栱だけ残り、その上は皆若干層の素方である(図10-62)。
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5)鋪作の分布と分槽
①鋪作の分布:
 鋪作は、早い時期は只柱頭に置くだけで大きく張り出す垂木の需要を満足していたが、発展して宋代になると詰組が1、2組増加し、宋以後、詰組の数量が増加し、清代になると平身科即ち6組の多きに至る。この変化は鋪作の功能に対する認識を反映し、単純な出跳を承ける功能から“鋪作層”の概念に発展してきた。この様に古代建築が鋪作の運用に対して質的な飛躍が産まれ、構成の中で再び1個1個の孤立的な部材とはならず、構成全体の把握が出現し、鋪作層はまるで一廻りの梁で有るかの如く、各間の梁架構を全体として連成する。鋪作層を形成するために、《法式》は詰組の処理に対してまるで重視しているかのように、真っ先に詰組の数を少なくとも柱頭鋪作と同じにするよう要求し、同時に詰組の分布情況に対して規定を作っている。“中央間においては須らく詰組2組を用い、次間及び梢間は各1組を用い、その鋪作分布は遠近皆均しくさせる”。接続又は結合する柱間の区分が異なる情況は、もう一歩注釈をすると、第1種の情況はこうである:“もし一つ一つの間が皆、2組の詰組を用いるならば、間毎の幅寸法は皆同じと成る”。第2種の情況はこうである: “只中央の間に2組の詰組を用いる者ならば、仮に中央間が1丈5尺で、次間が1丈の類である”。第3種の情況はこうである:“或は間の幅が均しくなく、1組の詰組が、1尺を超えられない”。第1、第2種の情況に対して、鋪作分布と間の区分との関係は非常にはっきりしていて、この両種の情況の下では、鋪作の間の距離は完全に等しい。ただ第3種の情況は比較的複雑で、《法式》は未だ明間の幅寸法の大きさと間の幅寸法が異なる場合の条件を示さず、只1条の原則を提示して、鋪作分布の遠近が皆等しいという前提の下、“1組の詰組が、1尺を超えられない”という。この句の説明する意味を徹底していないので、人々に各種の異なった理解をさせる事になった。この1尺は隣り合う2組の補作の立面の隙間と認識するかも知れないし;この1尺は補作の中止から中心が建築の間幅の逓減に従って低減する距離と認識するかも知れないし、隣り合う2つの間の補作の中心から中心の差かも知れない。現存の若干の古建築の実例を結合して見てみると、第2種の理解は比較的合理的である。ここで主要に言っているのは、間幅が異なる情況で、現存の唐、宋、遼、金時代の古建築実例にも多く間幅が異なる情況があり、この“1尺”の含意を見極めるのに有力な証拠を提供するということである。

  表7に列挙した建築を根拠に見てみると、間幅の逓減につれて、補作中の中心から中心の距離も逓減し、其の中の半分以上の建築は、その鋪作の中心から中心の逓減差は1尺以内で、これ等の建築物上の鋪作分布も確実に比較的ムラがない。残る半分足らずの建築物は、その鋪作分布は遠かったり近かったりで、鋪作の中心から中心距離は大きかったり小さかったりで、晋祠聖母殿上の檐側の中央間の鋪作の芯々距離は次間の補作の芯々距離より95cm小さく、3尺に近く、次間詰組の芯々距離は梢間の詰組の芯々距離に比べてただ17cm小さいだけで、補作はこの様に分布して、完全に所謂“遠近皆均しく”の原則に符合せず、討論のしようが無い。従って“1組の詰組が、1尺を超えられない”は補作の中心から中心の距離の逓減の幅は1尺を超えてはならないと理解すべきである。
 しかるに隣り合う2つの補作の間の隙間が1尺を超えないという理解はどうであろうか?この問題は間幅が異なる範疇の中に有るので、間幅が中央間から始まって段々と逓減して、もし2組の鋪作の間の隙間が1尺を超えないという要求を満足出来て、又間幅を逓減させる必要があれば、まあ想像出来ることは、この時の間幅は逐次逓減の幅は非常に小さくなり、言うまでもなく数個の間を保つ建物で、中央間から梢間までの手源の総寸法は一定の範囲内に制限する必要があり、もしどの間も皆1組の詰組ならば、この範囲は只2尺あるだけであり;もし中央間に2組の詰組を用いれば、次間が中央間に比べて“1/3中央間の広さ”を逓減するのを除いて、次間から梢間までの逓減値は依然只2尺有るだけで、且つこの2尺はある種極端な情況であり、梢間の鋪作の間の隙間はゼロに等しくさせ、実際に建物を建造する時にこの様な処理は不可能で、全て2組の鋪作の間は一段の距離を必要とする。梢間の鋪作の分布は《法式》が許す特殊処理をするにしても、梢間の間幅がかなり小さい時、詰組は隅鋪作と連栱交隠とすべきである。即ちこの様にする時、この2尺の範囲は依然として梢間のもう半分の鋪作との距離の管理下にある。表10-7に列挙した奉国寺大雄宝殿、晋祠聖母殿、隆興寺摩尼殿、玄妙観三清殿ら13座の5間と7間の建築に反映された間幅の逓減値から、11座は2尺を超える範囲で、わずかに仏光寺大殿、仏光寺文殊殿の間幅逓減の総値が2尺の範囲内で、間数がかなり少ない建築、例えば3間などは、まだ造ることはできるが、間数の多い建築の実現は困難である。上述の仏光寺大殿と仏光寺文殊殿はこの種の情況に符合すると言っても、その間幅寸法の変化はかなり小さく、間幅が異なると言っても、仏光寺大殿の梢間は第2次間に比べて逓減は僅かに2尺で、その他の間の間幅は完全に等しく、且つ詰組は非常に簡単で、この2つの建築は一種特例と言うことが出来る。
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 《法式》の大木作制度中、普遍的に貫徹する“定法が有ってこそ、定法でないやり方がある”の指導思想は、もし鋪作の隙間が1尺を超えない事を要求が成立するとするならば、建築の間の変化を制限することにも等しく、制度の中の全てに対する指導思想と矛盾してしまう。所謂、鋪作の芯々の逓減差を1尺の内に管理する意味は、間幅の逓減幅を突然変化させず、平均して減らしていき、且つ間数の多寡に応じて逓減の総寸法を異ならせることである。このような推測は、歴史上の若干の建築実例の情況と符合し、“鋪作分布の遠近は皆均しい”の原則にも符合する。
 《法式》がこの様に詰組の配置を重視するのは、立面の造形美の為だけではなく、果汁を平均して承ける効果を得るためで、計算が証明する所に拠れば“詰組と柱頭鋪作は橑檐方(注;丸桁に当たる)から来る荷重を承ける時、その分配比はだいたい等しい”。 詰組が申し分無く改善された柱頭鋪作が荷重を承ける状況は、計算の中では柱頭鋪作の荷重の集中は昂尾に発生し、剪断破壊を受け易い。詰組の存在と増加したその数は、柱頭鋪作の剪断破壊の傾向を減少させることが出来る。

②鋪作と分槽
 鋪作にたいして遠近を皆均しくするのを除いて、建築内部は如何に分布するだろうか?《法式》巻三十一大木作制度の図様中に殿閣の地盤分槽図(注;伏図)が4枚載っている。即ち;
  “殿閣身地盤九間身内分心斗底槽”;
  “殿閣地盤殿身七間副階周匝各両架椽、身内金箱斗底槽”;
  “殿閣地盤殿身七間副階周匝各両架椽身内単槽”;
  “殿閣地盤殿身七間副階周匝各両椽身内双槽”(図10-63)。
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 此処の“地盤”は建築物の平面図に当たり、“分槽図”は即ち建築物の仰視平面図を指し、柱頭部位の平面に相当する;これにより、その分解は2つの概念から理解出来る。“分槽図”の寸法と平面図は異なり、それは柱は側脚を持つからで、柱頭平面は柱脚平面の寸法より小さいのは謂うまでもない。そして“槽“の概念は《法式》巻四の多出跳の華栱に対して“騎槽檐栱”と称し、鋪作の正心最上に置く“圧槽方”等が知られるが、つまり1列の鋪作が在るのが縦中心線と言うことである。建築物の中で、柱配置網の形式が異なることにより、異なる鋪作分布方式を形成する。凡そ建築内部に只1列の内柱を設ける者は、柱上に配置した斗栱を称して“身内単槽”と言い、中心に1列の中柱を設けた者は、柱上配置の斗栱を“分心槽”と言い、もし建築内部に2列の内柱を設ければ、柱上配置の斗栱を“身内双槽”と称し、建築内部の柱が囲い状の配列ならば、その上段一周の斗栱は“金箱槽”と称する。一組一組の槽上の鋪作により、出跳する先端に従って横栱の方向は素方を置き、計心造は1出跳毎の先端は皆1本の素方が有り、且つ鋪作の正心位置は又正心方と扶壁栱を共通で工作し、この様に1棟の建築中に多くの高低位置の異なる木方が組み合わさって一つの閉じた木框が出現し、且つ木框は1組の鋪作位置毎に足材栱が形成するものと垂直に交叉する短木があり、木框は一つの立体的な長方形の網目層を形成し、これが鋪作層で、その構成模型は平面的ではなく、今日の空間構成に類似したものである。隅華栱や虾須栱(注;虾はヒキガエルの意)或は斜華栱を持つ鋪作層中で、この種の“空間構造”は水平面位置に幾組かの45°方向の斜め部材を出現させ、更に完全さを加えた。遺憾な事に、《法式》制度中に虾須栱や隅華栱は述べていても、斜華栱使用の消息には無関係であった。但し《法式》が出来る前、已に斜華栱を使用した実例が有り、例えば北宋皇祐余年(1052年)に建った河北正定の隆興寺摩尼殿である。《法式》より晩い例では山西大同の善化寺三聖殿(1128~1143年)と大同の上華厳寺大雄宝殿(1140年)等である。


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# by songofta | 2017-06-14 15:46 | 旅と地域 | Trackback | Comments(0)

229 斗栱3 組合せと変化

中国古代建築史 (抜粋) 巻三

第十章 建築著作と匠師



(3)鋪作の組合せと変異
鋪作の組合せは使用する部材類型から3種に区分される。即ち、巻頭造、下昂造と上昂造である。巻頭造は、斗と栱組成の鋪作で、《法式》中で多く内檐の鋪作に用いられ、実例は遼代建築に多く見られる。下昂造は、鋪作と下昂組成の鋪作を指し、外檐の鋪作に用いられる。上昂造は、上昂と斗と栱組成の鋪作を指し、内檐及び平座の鋪作に用いる。
 鋪作の組合せは横肘木と出跳する肘木、昂の関係から来る区分で、偸心造と計心造の別がある:偸心造は出跳する栱(肘木)、昂(尾垂木)の先端に横肘木を設けず、計心造は出跳する栱、昂の先端に皆横肘木を設ける。《法式》巻三十に描く下昂造鋪作の側面、及び巻三十一に描く殿堂側面中の下昂造及び内檐の巻頭造鋪作は皆計心造で、これは正に《法式》が高く評価する鋪作の組合せ方式である。偸心造鋪作は、《法式》の図中僅かに巻三十一に描く上昂造鋪作にあり、上昂造の6,7,8鋪作は皆偸心造を採用するが、意外にも騎鋪作を設けて、偸心造で出跳させた栱や昂の不安定さを補い、変移や是正の問題の発生を簡単に解決する。且つ、上昂造の側面の内(外)への出跳は、依然として計心造を採用している(図10-55)。実例は蘇州市玄妙観三清殿の内檐鋪作で、6鋪作の上昂造の下一枝は偸心で、外隅は7鋪作巻頭造で下一枝は偸心とする(図10-56)。
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但し、巻四の“総鋪作順序”の一節の局部偸心の工法に謂うのは、次の如くである:
“5鋪作は1枝1昂で、もし下1枝が偸心ならば:・・・・・・”
“単栱7鋪作が2枝2昂及び6鋪作で1枝2昂は、もし下1枝が偸心ならば:・・・・・・”
“8鋪作は2枝3昂に作り、もしもし下2枝が偸心ならば:・・・・・・”(図10-57)。
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 実例で使用する全ての偸心は、宋代以後見当たらないが、大多数の建築は尚、全計心造を使わず、局部に偸心工法を採用する。現存の11個の7鋪作の実例中、9個が局部偸心工法を採用している。例えば、独楽寺観音閣上層、応県木塔1層は2枝2下昂を採用し、1,3枝は偸心である。玄妙観三清殿、保国寺大殿は皆、2枝2下昂で、下1枝は偸心である。
 鋪作にあっては、計心でも良く、局部偸心でも良く、どちらも横肘木を如何に安置するかと謂う問題で、出跳した斗の上が1層の者は単栱造となり、構造は簡単明瞭である。出跳した斗の上が2層は重栱造となり、盛大な芸術効果があり、“桁梧復畳、勢合形離(アオギリの桁が積み重なり、形は独立しているが構造は不可分である)”で、雄壮な勢いがある。《法式》の殿堂の図様は皆“重栱造”に描き、同時に巻十七、巻十八の大木作功限一、二に列挙する“殿閣の外檐鋪作”“殿閣身槽内鋪作”“楼閣平座鋪作”等の“4鋪作から8鋪作に至る内外そして重栱計心”がある。ここに表れる重栱計心造は当時の殿堂鋪作の主要な工法である。

1) 《法式》中の鋪作類型(図10-58)
 《法式》中に言及する鋪作組合せは若干異なる情況が有り、それによって以下の諸形式が形成された。
①単斗支替:垂木桁の下に用い、早期建築遺物中にも外檐に用いる者があり、例えば雲崗の北魏9窟など。
  (注;支替は替木=舟肘木様の横材を支える意)
②単栱支替:垂木桁の下に用い、単材の攀間。(注;攀間は梁の蜀柱を繋ぐ横材)
③単栱支替:垂木桁の下に用い、両材の攀間。
④斗口跳:庁堂の柱頭鋪作に用い、梁の先端を柱外に伸ばして華栱の先端とする。
⑤把頭絞項造:庁堂の柱頭鋪作に用い、梁の先端を柱外に伸ばして耍頭とする。
⑥4鋪作巻頭造:庁堂の外檐鋪作に用いる時、内に出跳して華栱頭を作っても良く、両側が出跳して㭼头(注;一種の手挟様の雀替の類)を作っても良く、その詰組は挑斡を用いても良く、上は垂木桁を突き抜ける。(注;この項は良くわからない)
⑦4鋪作挿昂造:外檐鋪作に用いる
⑧5鋪作重栱計心下昂造:外檐鋪作に用いる。
⑨5鋪作重栱計心上昂造:外檐鋪作に用い、及び平座鋪作にも。
⑩5鋪作重栱計心巻頭造:外檐鋪作と平座鋪作に用いる。
⑪5鋪作単杪単昂下一杪偸心:外檐鋪作に用いる。
⑫6補作重栱計心単杪双下昂:外檐鋪作に用いる。
⑬6鋪作重栱計心巻頭造:内檐鋪作、平座鋪作に用いる。
⑭6鋪作双杪単上昂偸心;出跳した先端の中央に騎鋪作を設け、内に三杪重栱計心造を出す:内檐鋪作、平座鋪作に用いる。
⑮6鋪作単杪双下昂下一杪偸心単栱造(内側は規定無し):外檐鋪作に用いる。
⑯6鋪作双杪単下昂下一杪偸心単栱造(内側は規定無し):外檐鋪作に用いる。
⑰7鋪作双杪双下昂重栱計心造;内に6鋪作三杪重栱計心造を出す:外檐に用いる。
⑱7鋪作重栱計心巻頭造:内檐鋪作、平座鋪作に用いる。
⑲7鋪作双杪双上昂偸心;内に出跳した中央に騎鋪作を設け、内に6鋪作で三杪重栱計心造を出す:内檐鋪作、平座鋪作に用いる。
⑳7鋪作双杪双下昂下一杪偸心単栱造(内側は規定無し):外檐鋪作に用いる。この類型は重栱造を以って更に理に合う様になる、図10-58に示す。
㉑8鋪作双杪三下昂重栱計心造;内に6鋪作で三杪重栱計心造を出す:外檐鋪作に用いる。
㉒8鋪作重栱計心巻頭造:内檐鋪作、平座鋪作に用いる。
㉓8鋪作三杪双上昂偸心;内に出跳した中央に騎鋪作を設け、内に6鋪作で三杪重栱計心造を出す:内檐鋪作に用いる。
㉔8鋪作双杪三下昂下双杪偸心単栱造(内側は規定無し):外檐鋪作に用いる。この類型は重栱造を以って更に理に合う様になる、図10-58に示す。
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2)減鋪と減跳
 前の段で列挙した鋪作は所謂、《法式》が帰納する標準型で、これ等の標準型からは、1組の鋪作中に存在している“減鋪”問題を見出す事ができ、これは主要には下昂造の鋪作中に発生し、昂尾が斜めに上がることで、内に出跳する栱が必ず1層或は2層減少せざるを得ず、1組の鋪作の内に出跳する部材の長さが非常に短く無くとも、どの部材も均しく荷重を支えるという要求をかなり良く満足する。これにより《法式》巻四造栱之制の規定に“もし鋪作が数多く重なる時、或は内外倶に均しくする、或は内に1鋪或は2鋪減らして出跳する”がある。ここで特別強調している“もし鋪作が数多く重なる時”は、主要に7,8鋪作を指して内の出跳に減鋪が発生する様に言っている。更に情況によっては、内装に天井を作る時の高さと位置を考慮して、減鋪する必要があるかどうかを見る必要がある。これにより《法式》巻四の総“鋪作次序”の一節にある“もし鋪作が多く、内の出跳が恐ろしく遠く成るなら、内を1鋪或は2鋪減らす”の工法がある。この種の情況は、乳栿位置に在る天井に対しては特に重要で、ここは2つの檐長の幅があるだけで、即ち12尺で、もし外檐鋪作の内側の出跳と殿身の槽内鋪作が均しく7鋪作か8鋪作の巻頭造ならば、3等材の建物について言えば、7鋪作は、鋪作本体の出跳が5.4尺で、両側の鋪作が占める空間の寛さは10.8尺、中間の天井の寛さは1.2尺となり、明らかに美観にそぐわず、もし両側の鋪作の出跳を減じて、一側から3尺とり去れば、間の天井は尚6尺残り、天井の寛さ寸法が似合ったものになるが、この様にするには新しい問題が出てくる、つまり天井が低くなり、《法式》が謂う“もし天井が低ければ、天井の下に更に慢栱を追加する”があり、これは内側の出る最後の出跳の令栱は本来単栱1つだが、この時は重栱に改変して天井桁を承ける(図10-59)。一般に鋪作に入る乳栿は高さ42分、最後の出跳した先端が重栱に変わった後、下の乳栿を納めるのに丁度良く、天井桁は乳栿の背の上に掛かり、梁面を抉る事がない。
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 減鋪のもう一つの意味は、建築全体に就いて言えば、例えば《法式》巻四で指摘する“副階と腰廻の鋪作は殿身を超えてはならず、或は殿身から1鋪を減らす”。この様に造ることで、主と従がはっきりする芸術効果が得られる。楼閣建築に対して、《法式》巻四にある“凡そ楼閣の上層の鋪作は、或は下層より1鋪を減ずる”の規則は、この「或は」は、上層が下層の内部寸法より小さくなるので、鋪作もそれにつれて減少することで、例は応県木塔である。但し現存するこの時期の楼閣は、往々にして上下層の鋪作は皆同じで、この文の“或は”の語気が見えるのは、この一項が非常に弾力性のある規定だからなのである。

 “減跳”は、《法式》巻四“総鋪作次序”一節中に、詰組と隅鋪作の関係の時に出された“凡そ隅鋪作は詰組と互いに干渉してはならず、或は梢間が近い者は須らく栱を連ねて交差を隠すべきであり、(詰組が遠くに移して、間が不均等になるべきではない)。或は隅から2つ目の詰組の隅に近い所は上から出跳1つを減ずる”。この規定から知れるのは、“減跳”は建築の局部で発生し、別の1組の鋪作を指し、“減跳”は実際上1層の華栱或は桁を減少させると言っても、但7鋪作の内側出跳だけでなく、外観上その特殊性を識別出来ることから、この所の詰組は出跳1つを少なくし、立面上の鋪作の層の中から出跳1つを明確に取り去る(図10-60)。
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3)列栱
 隅鋪作中で、大斗内から3筋の栱が出る必要があり、栱の形式や、枘孔、長さは皆変化が発生し、これ等の変異した栱が即ち列栱である。
 《法式》巻四造栱之制の中に一節があり、専門に列栱の特徴を叙述して、“凡そ栱は、隅に至って出跳が交叉するがこれを列栱と謂い”、その意味は元々“横栱”は隅大斗或は隅華栱の交互斗を通った後、“出跳の栱”に変成するが、これに反して、出跳栱は横栱に変成する。例えば、泥道栱と華栱が出跳して相列ぶと、この栱は一端が泥道栱で、もう一端が華栱になる。鋪作の組合せ中、一種の鋪作毎に隅の所では皆列栱を使用し、これによって栱の形制は隅斗栱中で大きな変化を発生し、鋪作の鋪数はより高く列栱はより複雑になる。《法式》巻四は、列栱を列挙して、以下の数種をあげる:
 ①“泥道栱と華栱が出跳し列ぶ”
 ②“瓜子栱と小栱頭が出跳して列ぶ”;小栱頭は即ち長さが華栱より稍々短く、23分しか無く、3瓣巻殺。其の上に散斗を設ける。
 ③“瓜子栱と華栱頭が列ぶ”、平座鋪作に用いる。
 ④“慢栱と切幾頭が列ぶ”、“切幾頭”は家具の幾案(注;小さい机)の出る先端を裁断したような形式のもの
 ⑤“慢栱と華頭子の出跳が列ぶ”、隅の内側に下昂時使用する。
 ⑥“令栱と瓜子栱の出跳が列ぶ”、此処での両者は皆横栱で、列栱と似て本来の意味と反するが、実際ここでは瓜子栱は未だ出跳の位置にいて、但瓜子栱の型制を採用しているだけである。
 この他、《法式》巻十八には、大木作功限の中に記す隅斗栱の列栱には、若干の“分首相列“或は“分首相列身内隠出鴛鴦交首栱”の列栱が出現し、次のようである:
“瓜子栱列小栱頭分首”
“瓜子栱列小栱頭分首,身内に鴛鴦交首栱を隠出”
  “慢栱列切幾頭分首”
  “慢栱列切幾頭分首,身内に鴛鴦交首栱を隠出”
  “令栱列瓜子栱分首”
  “令栱列瓜子栱分首,身内に鴛鴦交首栱を隠出”
  “華栱列瓜子栱分首”
  “華栱列慢栱分首”
 所謂、分首相列は、栱の両端が切り離されて開き、隅の鋪作の構成が、正、側、隅3面に均しく出跳する栱が設けられることにより、巻四の所謂列栱の長さが皆、45°方向の隅肘木をを超えた後、依然元の肘木長を維持し、或は小栱頭に変化し、切幾頭類の部材は、45°方向の隅華栱を超える過程で、同時に正または側方向の出跳栱を超え、この様な列栱は長さを増すことで、列栱両端は出跳する隅華栱に切り離され、例えば第一華栱の先端の瓜子栱とそれに列ぶ小栱頭は第一華栱の外ですぐに処理される、これが分首相列である。そして第二華栱先端の瓜子栱とそれに列ぶ小栱頭はもっと遠くで切り離され、且つ第二華栱と隅華栱の間の一段栱身は鴛鴦交首栱と成って隠刻されなければならなくなる。1組の外檐隅7補作斗栱中には、14条の列栱を使用し、9条の分首列栱が有る(図10-61)。
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 栱と栱が相列する者を除いて、まだ栱とその他の部材が列ぶ者、例えば慢栱と耍頭の相列は、4鋪作斗栱中に用い、華頭子と泥道栱は、4鋪作挿昂造斗栱に用いるなどがある。令栱と耍頭分首相列は、楼閣の平座鋪作に用いる。華栱と柱頭桁列は平座鋪作に用いる。更に耍頭と方桁列は楼閣平座に用いる。 4鋪作から8鋪作の列栱は16種の多さに上り、現在各種列栱の使用部位は下表の如くになる(表10-6)。
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  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服
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# by songofta | 2017-06-09 21:53 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

228 斗栱2 下昂、上昂

中国古代建築史 (抜粋) 巻三

第十章 建築著作と匠師



3)下昂、上昂
 (注;下昂は尾垂木、上昂は上向きの物で日本では未だ知らない)

 ①下昂:早期の斗栱は、本来“昂”の類の部材で、斗栱の発展に従い、やっと1組の鋪作中にこの種の斜めに置く部材を加える様になったものである。下昂の出現は、垂木を大きく伸張させる需要を満足し、軒の張り出しを深く遠くし且つ斗栱が層を重ねて出跳しないでも、軒口が高く上げ、斜め向きの昂で軒口を承け、同時に又張り出した屋根の重量を、昂尾(尾垂木尻)に架かる屋根の重量で平衡させる。下昂の斜度は、《法式》では規定は作らず、軒垂木の傾斜度を取って決め、軒垂木の傾斜度は又挙折制度(注;屋根に照りを付けること)により建物毎の軒深さが求められ、固定の数値とならない。これにより、昂の斜度は具体的情況によって定められる:但し下昂の総長さの規定は“もし昂身が屋内で上に伸びる時は皆、下平垂木桁まで”で昂尾を処理し、《法式》が示す4種のやり方で行う(図10-48)。
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 :“もし屋内で(天井の無い)明造ならば挑斡(注;梃子となる尾垂木後半部を言う)を用い、
   或は只1つの斗で承ける“。即ち、昂尾の上に只1個の斗が替木との距離を支え、
   下平槫(注;檐柱から一つ内側の垂木桁)との高さの差は18分。
 :“或は1材2栔”。即ち昂尾上に2斗と1肘木、1替木で、下平槫との高さの差は39分。
 :“もし天井を用いる時は、槫から蜀柱を出し、昂尾に挿し込む”。
 :“もし柱頭にあれば、草栿或は丁栿でこれを圧える”。
     (注);草栿は隠れて見えない梁、丁栿は身舎から妻面に渡した梁
 前の3種は、昂尾と下平槫の間の高さの差は随意であることを反映し、出跳する昂の斜め率の不安定性を暗示する。
 昂の先端は、《法式》記載に“琴面”と“批竹”等、3種の形式がある:
第1種の、昂を承ける交互斗より“外に下向きに斜めに殺ぎ、2分の厚さを残す”は昂の先端の言い、“昂上面の中央を2分凹ませ、凹みは緩やかに丸める”、昂鼻の表は凹曲面と成る。
第2種は、これを踏まえて、昂の上面は“凹みに沿って更に1分、両側の稜線を丸く殺ぎ”、昂鼻の表は双曲面になり、これを琴面昂と謂う。
第3種は、“(交互)斗より外は斜めに殺いで尖らせ、その昂の上面は平直で、これを批竹と謂う”。この他、実物中によく見るものにまだ一種の琴面批竹昂とでも謂うものが有り、批竹昂の昂上面が再度弧面を作る(図10-49,10-50)。
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下昂は長さの変化により、昂の呼び方に変化が生じる情況が2つ有り、一つは“挿昂”で、只昂頭だけが有って昂尻が無く、4鋪作で常用し、“其の長さは斜めに出跳する先端に従い”、実例は応県浄土寺大殿にある(図10-51)。もう一つは、挑斡で、その前半部分は昂を出ず、肘木を用いて、ただ後半が昂尾を作る。この種の工法の実例は虎丘二山門に見ることが出来る(図10-52)。この他、昂の長さも位置が異なることで変化が発生し、隅鋪作のように、隅昂即ち“斜め方向の長さを以ってこれを加える”。
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 下昂断面は只1材が有るのみで、それが斗栱の中ではかなり大きな曲げ応力を承けるので、《法式》に依れば昂身が肘木や梁部材にぶつかる時の枘は浅い槽とし、深さは2分で昂下面に斜めに開け、両側面は各深さ1分を隠し、交差する部材は昂の斜度に合わせて昂と噛み合う枘孔を開け、昂身が曲げ応力の要求を満足出来る様にする。更に注意するのは、昂の斗口と昂の上に座る斗の所は、昂身が皆“斜めに鐙口を作り”、以って滑り落ちるのを防止する。

②上昂:其の作用は下
昂の反対で、出跳がぶつかる部分が高く飛ばねばならない時、斜撑(注;筋交いや、突っかい棒)類似の上昂を使用し、層を重ねて出跳する華栱に替わって、小さなもので大きな効果を出している。最も良く使用される所は屋内の垂木で天井を承ける所と外の檐の平座(廻縁)の斗栱である。実例で上昂を用いるのは、蘇州玄妙観三清殿の屋内斗栱と、応県浄土寺大殿の藻井及び天井の斗栱である(図10-53)。《法式》が列挙する上昂の工法は皆、肘木及び上昂組成の斗栱で、未だ下昂と併用する者は見えず、実例は浙江省金華市天寧寺大殿が、外に下昂が出て内に上昂を用いる工法である。この殿は元代に建てられ、《法式》が完成する年代より晩く、後世に出来た新しい方法かも知れない(図10-54)。
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# by songofta | 2017-06-02 17:19 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

227 斗栱1 斗、栱、昂

中国古代建築史 (抜粋) 巻三

第十章 建築著作と匠師



2.斗栱:《法式》中で言う鋪作
 “斗栱”この言葉は宋以前に已に使用され、唐の孔颖逹疏《礼、礼器》に“管仲镂簋朱紘,山節藻棁(管仲は食物を盛る器に紅い帯や山飾りを付ける)”時、“山節は柱頭に斗栱が有るのを謂い、形は山の如し”。但、《法式》の大木作制度の中に、“斗”と“栱”の単独の呼称を除くと、組上げた全体の斗栱に対して“鋪作”と称している。どうして“斗栱”を称して鋪作とするかは、李誡は総釈の中に引く《景福殿賦》の中に、“桁梧復疊、勢合形離”、解釈して言う:“桁梧は、斗栱であり、皆折り重なって施工し、その勢いは、或は合し、或は離れる”。それとは別の所の《含元殿賦》を引いて“懸櫨骈湊(櫨の木が二つ合わさる所)”の句の下で、鋪作の含む意味に就いてはっきりと述べて、“今斗栱の層が重なって出跳の多寡を言うのに、これを鋪作と言う”とある。
 此処での鋪作表示の意義は、多層の斗と肘木(栱)を一定の秩序で重ねて一緒にした構造方式にある。《法式》の大木作制度中には、更に“総鋪作の順序”の一節があり、専門に1組の斗栱の構造特徴を描写して、
  出跳一つの四鋪作;
  出跳二つの五鋪作;
  出跳三つの六鋪作;
  出跳四つの七鋪作;
  出跳五つの八鋪作;
 この段の文字が明らかにするのは、“出跳の多寡の順序”と鋪作数の関係は、出跳一つ毎に一鋪作が増えることである。
 同時に《法式》はこの種の構造方式の呼称を、1組の斗栱の言い方を拡げたが、それは “柱頭鋪作”、“補間鋪作(中備え)、“転角鋪作(隅斗栱)の3種の事である。これは、或は李誡の“無理やり職人に逐一言わせた(勒人匠逐一講説)”過程で形成されたもので、この様な“鋪作”は、斗栱の同義語と成ったのである。
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 しかるに、どうして“出跳一つが四鋪作”で、どうして一鋪作では無いのか? これは正に前に言った所謂“斗栱の層は重ねで数える”の意味が含まれており、四鋪作は4層の部材が重なって、4層の木部材を敷く(鋪)と言えるからである。図に示す様に(図10-39)、第1層は大斗で、第2層は華栱、第3層は耍頭、第4層は襯方頭で、四鋪作は只出跳するのが1段だめではなく、その中に大斗や耍頭、襯方頭の3層が不可欠の疊ねる部材で、どのような1組の斗栱でも、何段かの出跳でも、この3層の部材は大多数の情況下で不可欠なのである。大斗無しでは1組の鋪作にならず、耍頭無しでは最も上の横肘木---令栱の正確な位置を保証できない、襯方頭無しでは垂木桁の正確な位置を保証出来ず、令栱と垂木桁は耍頭と襯方頭の支えに全てを頼っているのである。その為、1組の鋪作は出跳数に3を加え、鋪作数とできるので、以下の式のように書くことが出来る:
          出跳数 X+3= 鋪作数 Y
 (注)耍頭、襯方頭:
    耍頭;最上層の肘木或は尾垂木の上に乗り、令栱と直交して外に出跳し、水平を作る部材。
    襯方頭;耍頭の上に乗り、外端は露出せず垂木桁を承ける部材。
 出跳数とは何か?《法式》の大木作制度中に指し示す:“およそ補作の大斗の口内から出る肘木(栱)或は尾垂木(昂)はこれを出跳1(1手先)と言い、出跳5迄で終わる”。この定義に、人は出跳についての大雑把な概念を得られるにしても、さほど厳密なものではない。例えば、8補作の1組の斗栱は、出跳5とは言え、大斗の口内からは第1出跳の華栱のみで、それ以外の出跳は大斗から直接出るのではなく、交互斗の口内から出る(図10-40)。それとは別の面で見れば、出跳する1肘木(栱)或は1尾垂木(昂)は出跳1としての条件と成っている。出跳の肘木或いは尾垂木は出跳部材を持ち挙げるのにどうしても必要な部材で、その端部は上層の出跳部材の支点と成ることが必要で、これでやっと出跳1と数えることが出来、一般の柱頭斗栱と詰組では、出跳の先端が承ける上1層の部材の下層は、幾つかの異なる情況がある。(図10-41)
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 ①単純に華栱1本を承ける
 ②単純に昂1本(下昂或は上昂)を承け、下昂を使用する時、出跳の先端と昂の間は一般に華頭子を挟み、上昂使用時は先端と昂の間に鞾楔を挟む。
 ③十字に交叉した瓜子栱と華栱を承ける
 ④十字に交叉した令栱と耍頭を承ける
 ⑤十字に交叉した瓜子栱と華栱及び下昂を承ける
 ある種の古建築の実例に、1本の尾垂木(昂)が出るが、出跳1とは呼ばないものがある。例えば、福建省福州市の華林寺大殿の斗栱で(図10-42)、外には栱2つと昂3つが出る様に見えるが、8層の部材が重なった8鋪作ではない。原因は第3昂は耍頭の変体で、この鋪作は耍頭を昂の形式に変えて造ったもので、この層の昂は出跳した部分の先端に、上面の部材の支点を承けるものに成って居らず、これにより出跳1と数えられないのである。同時に襯方頭を省き、厳密に言えば6層の部材が重なるに過ぎず、只習慣で7補作と呼んでいるだけである。
 更に説明が必要ならば、1組の鋪作の中の出跳は、往々にして襯方頭が見えず、鋪作を数える公式で計算する時、公式の中の“3”は定数なのである。
 有る学者は、垂木桁も鋪作を数える時の不可欠の部材だと言っているが、これは“鋪作”の定義と符合せず、垂木桁は鋪作に承けられる部材で、鋪作中にはめ込まれる一部分ではない。

(3) 鋪作中の斗、栱、昂
 《法式》大木作制度はこの様に言っている:“肘木(栱)を造る制に5種有り”、“斗を造る制に4種有り”、“尾垂木(昂)を造る制に2種有る”、これは1組1組の複雑な鋪作を、分解して帰納して出来た主要部材の類型である。その言う所の5種の肘木は即ち、華栱、泥道栱、瓜子栱、慢栱、令栱である。4種の斗は即ち、大斗、交互斗、斉心斗、散斗である。2種の尾垂木は即ち、上昂、下昂である。これはつまり、斗と肘木、尾垂木を異なる名称を通して言うのは、主要にどの種類の部材も斗栱のなかの位置が異なり、力の受ける情況が異なり、枘と枘孔の割り方の形式が異なると言うことである。施工中、斗栱は皆先に部材を分けて制作し、それから組上げて1組の鋪作とするので、1棟の大型建築の場合、千を数える斗や肘木部材が出現するかも知れず、斗栱が合理的に力を受け、構造が合理的で、施工が容易に弁別認識できるためには、どの部材にも“正しい名称”を与えるのは必須で、その形制は厳格な寸法規定を造り出した。

1)5種の肘木及びその変化;
 《法式》は、鋪作中の栱(肘木)を分けて“足材栱”と“単材栱”の大きく2つの類とし、足材栱は只華栱1種で、単材栱は泥道栱、慢栱、瓜子栱、令栱の4種である。
 《法式》が言う、“華栱或は謂う杪栱、又謂う巻頭、亦謂う跳頭”。大木作中、度々出現する“杪”(読みは秒)の字は、鋪作中の華栱を形容する時、常に“何杪出跳”、或は“1杪下げ・・・・・”、“第2杪の華栱・・・・・”などと言うが、この“杪”字は一体どんな意味なのだろうか?《説文》に拠ると“木の末端である”、《方言》は“杪は小なり。木の細い枝を杪と言う”。杪は末端、樹の梢の意を持ち、これと“跳頭、巻頭”の意味は一致し、これだけではなく、《法式》巻四鋪作の次序の一節に“凡そ鋪作は逐次出跳して上に肘木を置き、これを計心と言う。もし出跳して上に肘木を置かず再出跳するか尾垂木を置くものを偸心と言う”。併せて注釈して、“凡そ中心で出跳して枝を出して、計心は葉が転じるものを言い、偸心は葉が転じないものを言い、その言う所は実に一つである”。これは更にはっきりと、出跳する華栱を樹の枝を使った喩えで説明し、樹の枝が上に長く伸びた樹葉を計心造と形容し、樹葉が伸びないものを偸心造と非常に形象的に形容したものである。それから、ある種の版本に度々転抄とあるのは、杪の字を誤って“抄”(音は超)と書いたもので、もし抄の字が華栱を形容するならば、当然人は理解出来ず、この種の転抄の間違いは必ず正されなければならない。

 《法式》が肘木を“足材”と“単材”の2類に分けるのは、それ等は受ける力の情況の違いと一致するからである。足材栱が在る所は建築の立面の位置に垂直に存在し、1層1層が出跳し、又出跳する栱と言える。単材栱は皆、建築立面に平行の位置に在り、足材栱の前端は、出跳した先端上面の横肘木を承け、比較的大きな断面を持ちそれで以って掛かる力を承ける。このため、枘と枘孔は栱身の下部でなければならない。そして横肘木は簡単に梁を支える形を呈し、承ける力は華栱より小さく、単材を用い、華栱と交わる時、枘と枘孔は肘木の上部にある。4種の横肘木のうち、慢栱は最長で、当然特殊な名称を持ち、その他の3種の肘木は、長さは近く、只使用位置が異なり、その内泥道栱は柱の中心線上にある為、栱身は槽を切り分け、栱眼の壁面(斗栱の間の壁)に納まり、暗栔を用いて栱眼を填めるので、その性質は、明確である。瓜子栱と令栱の差は最も小さく、只その位置が異なるので長さを調整しているのみである。瓜子栱は慢栱を承ける必要から、慢栱が瓜子栱の両端から伸びる一定の長さを保証するため、瓜子栱自身は只62分の長さで、慢栱に比べ30分小さい。令栱は瓜子栱と区別するため、72分を加える。
そして、実際の応用では、建築の複雑な情況に対して、どの種類の部材も沢山の変化が発生するので、《法式》は小さな注釈を通して、引き起こされるかも知れない変化に補充する説明をして、幾つかの面で概括して述べている:
 ①肘木を伸ばす-----騎槽檐栱、隅華栱、鴛鴦交首栱
 華栱は、斗栱の数は増加した時、肘木長は“出跳する場所に従ってこれを加え、出跳する長さは、芯で30分を過ぎず、伝跳は多くても150分を過ぎない”。この種のいくつも跳ぶ長さの華栱は、騎槽檐栱である。それとは別に華栱位置に変化が発生下時、例えば隅斗栱で、斜めに出る隅華栱は、その長さは“斜めの長さはこれを加える”。その次は横肘木で、2個の斗栱が近くで隣合う場合、横肘木を“繋ぎの肘木を隠して交わる”のに鴛鴦交首栱を造る。その長さは具体的情況を斟酌して決める(図10-43)。
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 ②肘木の外形変化-----里跳巻頭は㭼頭或は木方に成る
 華栱自身は左右対称の巻頭形式で、庁堂の柱頭鋪作を施工するに当って、内側の出跳が㭼頭に変化する形式、即ち“もし庁堂で内に出跳して梁を承ける場合、㭼頭は更に出跳1を加え、その㭼頭を或は圧跳と言う”(図10-44)。更に内への出跳は短い木方の華栱に変化し、平座の斗栱中に使用する。
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 ③肘木長を短く截つ-----丁頭栱及び蝦須栱
 丁頭栱は内柱の柱身に嵌め込み、梁の尻を半截した華栱で承け、それにより柱と“丁”字形に成るのでその名が付いたもので、丁頭栱は長さ33分、2つ出跳する時は出跳を長くする。半截の華僑は有る時には鋪作の中でも用いる、即ち“向きを転ずる隅で内に出跳する場合、蝦須栱と言い、股卯到心(鋪作中心を指す)を用いる”。ここの鋪作は、丁字形に槽を分ける場所の上の位置し、丁字形槽の両方の内角上に施す鋪作の中に在り、45°に斜めに出跳する半截の華栱に沿って必要なので、蝦須栱と成る。蝦須栱の実例は寧波保国寺大殿に見られる(図10-45)。
 ④肘木の開口変化----騎栿栱、絞栿栱、騎昂栱、絞昂栱
 柱頭鋪作の中には往々にして梁や桁まで達し、《法式》巻十七に載る;“凡そ鋪作は・・・・・・柱頭の騎絞梁栿の所は、出跳はその用いる所に従う”、この様にすぐ騎栿栱と絞栿栱が出現する。騎絞栿栱は横肘木と均しく、瓜子栱や慢栱、令栱の類であり、梁や桁と垂直に交差する。その特徴は、元々は枘と枘孔を改変する事にあり、大きさは梁や桁を納められる程度まで加え、およそ開口が肘木身の下部は騎栿栱で、開口が肘木身の上部は絞栿栱とする。騎栿栱は肘木身の高さを加え、《法式》巻四令栱の条に言う: “もし内に騎栿栱が出跳すれば即ち足材を用いる”。只令栱だけではなく、瓜子栱、慢栱、騎栿栱の足材を用いる必要がある。そして開口の大きさは“皆、用いる所に従う”、単栱造の鋪作中、“其の瓜子栱は令栱に改作する“。肘木と梁桁が交差する者は、梁桁幅が3材以上に当る時、肘木身が梁桁の中部に当る情況が生まれ、肘木身に枘孔を開けられず、実例では肘木身の1分を2分として、梁桁に挿し込み、《法式》巻十八の“殿閣身舎内側の隅斗栱に用いる等数”の一節の“7補作だけに用いる”条に記す“瓜子栱4個”は、正にこの種の情況に当たり、それは現在金箱頭槽(注;内槽と外槽の二重槽より成る殿閣)の、内側の隅斗栱中、瓜子栱が半截華栱に変化し、梁桁と丁字形を成し、故に“瓜子丁頭栱”と言う(図10-46)。
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 騎昂栱と絞昂栱は前者と異なり、栱身の開口を広げる必要はなく、枘孔を尾垂木の傾きに従って斜めに開ければよく、尾垂木身に置かれ、絞昂は枘孔が上に、騎昂は枘孔が下にある。

2)4種の斗及びその変化
 斗は鋪作中では肘木や尾垂木を組合せる節点で、耳、平、欹(注;耳、敷面、斗繰のこと)の3部分からなる。その位置により、納める肘木や尾垂木の方向で差が必要となり、異なる形式と寸法が生まれる。
 ①大斗:斗栱の下部に用いる。鋪作の中で最重要で、体積は最大で、方形や円形、海棠形(注;鬼斗の様な花形)等異なる形式があり、方形は長さ幅が32分で、隅は36分まで、円形は径36分、高さ20分、一般は十字に開口し耳4つの斗だが、出跳しない補作では、耳2つに変わり、場所に併せて開口し、方向の変わる隅部では隅華栱を納める必要から斗耳は減って1隅だけになる。

 ②交互斗:補作の出跳する先端に用い、それは華栱や昂(尾垂木)と瓜子栱或は令栱の交差する節点であり、このため斗耳4つだが、正方形ではなく、長さ18分、幅16分である。開口場所は横に耳を包む。騎昂の交互斗は、斗底(斗尻)に斜めの枘口を開け、昂身に上が狭く下広い鐙形で口が噛合う必要がある。昂の交互斗を承けるのは即ち斗口の所が斜面になり、昂の姿勢で噛み合う。屋内で“梁桁の下に用いる者は、これを交栿斗と謂い”、寸法は大きくなり、長さ24分、幅18分。この時開口部に従って耳2つの斗に変わり、開口幅は10分から16分まで増え、以って梁桁が斗栱に嵌入する時、桁上部の断面の積載力が大きく削られない様にする。交互斗は替木(斗栱の最上部で桁を承ける舟肘木)で承ける時も場所に合わせて耳2つにする。

 ③斉心斗:鋪作の横肘木の中心に置き、方形斗とし、長さ幅は16分である。《法式》巻三十の図と巻四斉心斗の条から、3種の異なる形式がある:耳4つは、泥道栱や平座(廻縁)の部材先端に用い、耳2つは、一般に屋内の垂木の横肘木の中心に用いる;耳3つは鋪作の外に出跳する令栱の上に用い、橑檐方(丸桁)と衬方頭を承ける。この他に耳無しの平盤斗があり、隅の出跳の先端に用いる。

 ④散斗:鋪作の横肘木の両端に置き、長さ16分幅14分、場所に従い、耳2つである。偸心造の時、華栱の先端に用い、泥道栱上に用いる時、片側の枘口は栱眼の壁板に納めて開ける。
  《法式》規定の交互斗や斉心斗、散斗は皆高さ10分で、耳や斗繰りは皆4分、平(敷面)の高さ2分だが、実際の施工中、斗の耳や平、斗繰りの3部分は、“平と耳”の高さは不安定で、1組の斗栱を組上げた後、再び水平を探して、これと建築中のその他の斗栱が構成する全体と、鋪作層を形成させ、この時耳と平の高さを調整し、水平の要求を満足させる(図10-47)。
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  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服
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# by songofta | 2017-05-31 23:20 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

226 用材の制度3 ”材分”制の淵源

中国古代建築史 (抜粋) 巻三

第十章 建築著作と匠師



(2) “材、分”モジュールの淵源
 “材、分”モジュール制は結局、何時木構造建築に応用され始めたのか、はっきりとした記載は無く、材と斗栱の密接な関係から、材の概念は斗栱の発展過程中で形成されたと考えられている。史料を看ると、最早の斗栱は一種の大斗で、西周初期の銅器“矢令毀”上に見える(図10-32)。矢令毀は建築ではないとは言え、その表面に建築の斗栱等の物を模して雕飾し、《礼記・礼器》一書に記載がある。従ってこの令毀上の斗は当時の建築物上の斗栱の斗に当るとすべきで、この大斗は4本の短柱上に置かれ、斗の間は横方向に連絡して斗口中に嵌入する。この種の柱、斗、横木(方)の組合せ関係は、後世の建築物上に見るものとそっくりである!斗と栱の組合せが一緒に有る例で現存最早の材料は、戦国期の采桑猎鈁(図10-33)と戦国期中山王陵の銅方案(図10-34)である。
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  前者は、浮彫類の雕飾で、斗栱形成の刻画は明瞭さに欠け、後者は精細な加工になっている。銅方案の四隅は等しく竜頭があり、頂上には短柱があり、柱上に斗と横肘木を置き、肘木の両端は、又短注と斗があり、方案四周の框を承け、框の1辺は1本の方形の横木で、斗口内に嵌入する。その斗は、耳、平、欹(注;斗耳、敷面、斗刳のこと)各部分の比は均しく、輪郭は優美である。この例から推測すると、建築上の斗栱は、造型は已にかなり考えられていて、肘木、横木は、枘と枘孔の形を以って斗口の構造方式が已に一種の定型的構造として運用されていた。只、提供された形象と一般建築物上に所用の肘木は異なる。漢代になり、言うまでもなく画像磚や崖墓、明器の中に、更に漢闕中(※注3)に斗栱として見出す事が出来る:簡単なものは大斗があり、上に肘木を置き、肘木の上に3個の散斗(注;巻斗のこと)があり、その上に横木を承け、典型的なものは四川省牧馬山出土の東漢の明器(図10-35)、四川省渠県馮煥闕、沈府君闕と山東省高唐漢墓である。複雑なものは、1組の斗栱の上に2,3層の肘木を置き、肘木は同じ断面を有する、例えば河北省望都漢墓出土の望楼である。明器にはまだ柱或は牆壁から方形木を出跳し、肘木の断面と同じで、これは当時已に統一した“材”の概念があったことを物語る。
     (※注3)漢闕:漢代、宮門の両脇に設けた物見やぐらの台
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  漢代の建築遺物中、四川省雅安の高頤闕は、“材”の運用に対して更に一歩前進している。高頤闕は紀元209年に建てられ、それはその頃の陵寝建築前の門闕で、且つ石構造で建造されたもので、その細部は全て模擬木構造の浮彫形式で、そのため木構造建築の一端を垣間見る事ができる。
高頤闕は母子闕で(図10-36)、母闕の垂木部分は3組の完全に整った斗栱と3個の大斗を備え、子闕部分は只2組の斗栱と3個の大斗で、ここから2個の大きさの異なる闕に使用する大斗の中に、たくさんの棟梁が材を用いた意図が反映されている。
 ①母闕の3組の斗栱中、肘木の形は弓形(弓臂)と曲線形(曲臂)の2種が有るが、それらは共同の材と栔が使用されており、且つ肘木の材高さと上部横木(方)の材高さは完全に同じである。
 ②子闕の2組の斗栱と横木は共同の標高を持つ
 ③子闕と母闕の隅斗栱は、均しく横木の断面が出跳し、即ち“材”の大きさは、子闕と母闕の用材寸法が異なるが、断面の高さ幅の比は大体同じで、子闕の材は高さ幅の比が11.20:10、母闕の高さ幅の比は11.21:10。此れにより、それは異なる等第の材を使用する概念を持っていたことが証明される。量斗栱の材寸法は、表10-4を参照せよ。
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 高頤闕は異なる等第の材を使用したことにより、子闕と母闕の異なる尺度と体量の部分を別け比較的に成功した。 ④母闕または子闕の①組の斗栱毎は言うまでもなく、肘木の造型がどう変化しようとも、斗は肘木或は横木と一緒に組合さる時、全て同様の構造組合せ方式を採用して、1材の大きさの断面が斗口中に嵌入し、木構造の標準化された節点構造の工法を反映している。
 高頤闕は四川にあり、一地方長官の陵墓の門闕であり、建築等級は高く無く、却ってこの様にある種の木構造建築の用材の基本概念を体現しており、当時の材、分制運用の細かい差を想像することが出来、工匠の材、分制運用が已に一定の熟練に達したことを説明している。
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 この他に、山東省両城山出土の漢の画像石中に、斗栱の図形が描き出されている(図10-37)。この図では出跳した肘木が横木より大きく、或は足材を用いた肘木に比べても良いかも知れず、工匠は大きくした部材断面の方式で張り出した荷重を承けた。類似の例は、明器中にも見ることが出来、出跳した肘木の断面は高く、一種の足材の肘木の雛形の使用ともみえる。これは正に、“材”に対して強度を付与した概念の体現である。
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 同時に、文献中に漢代“材”の重視を看る事ができ、《漢書》記載の、漢代建築工程を主管した将作大匠は、所轄の下級官員に、已に専門に“材”を主管する官吏が有った。
 西晋初年、《傅子》がかつて、“大きな建屋を構える者は、先に匠を選び後に材を選ぶ(簡材)”と指摘した。李誡はこの句を根拠に注釈して、ここで言う所謂“材”は一般材料の材では無く、正に“方桁”を指し、つまり四角い木のことであると知ると。“材を選ぶ(簡材)”もまた建築の用材等第を選ぶことで、これは当時已に大きな建屋を建造する人は真っ先に解決しなければならない問題と認識されていたのである。
 南北朝、隋唐、五代の発展を経て、北宋に至り、“材、分”モジュール制はとうとう成熟の段階に到達し、現在《法式》が表す用材制度の推賞だけでなく、“材、分”の高さ幅の比は《法式》が出来る前の宋代遺構中で日を追って統一されていった。下表に列挙する33棟の建築の用材の情況から知れるのは、10世紀以前の例の中に、ある材は高さに偏り、有る材は正方形に偏り、材の高さ幅の比は15:10(±0.5)の範囲内の建築はたった1/3を占めるだけだが、11世紀になると材の高さ幅の比が15:10(±0.5)の範囲内の建築は91%で、12世紀の遺物中の80%を占めて、ここから見られるのは、《法式》の材の高さ幅の比15:10は正に建築実践の基礎の上の結果であることである(図10-38)。
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 それとは別の面で、宋代の社会世論の“材、分”制に対する推賞も未曾有のことであった。“材”は北宋では又“章”と称し、所謂“章”は”章法”のことである。李誡が言った“たてものを後世する法は、その規矩制度は皆、章を以って祖とする(構屋之法、其規矩制度皆以章為祖)”は、人に対する“物腰の慌てふためく者は、これを条理を失い定めを失うと言う(挙止失措者、謂之失章失栔)”を建築に喩えて借用したもので、用材制度はこの様に章法から、全国の建築工程を管理するのに必須であると看做し、以って失章失栔のじょうきょうが出現することを免れ、正に《法式》が法規性の典籍として全国に発布された目的の一つなのである。
 北宋滅亡後、南宋時代は南方の工匠が《法式》を熟習し、当時の官式建築に運用して、再版を重ねた。ただし後には、何度かの戦乱を経て、発達した中原文化は、奴隷主の貴族統治の掃討を受けて落伍していき、“材、分”モジュール制は小さな流れになって消失し、変わって清代の“斗口”モジュール制が起こって来る。

(3) “材、分”モジュール制と“斗口”モジュール制の比較
 “斗口”モジュール制は清朝の工部による《工程做法》に載るもので、この種のモジュール制の特徴は、斗栱の建築中、斗栱の斗口の寸法を以ってモジュールとし、建築の桁行や梁間、及び梁、柱、斗栱等の大きさを判断するものである。《工程做法》巻二十八の斗科工法中、斗口モジュールでの製作に以下のような記載がある;“凡そ斗栱上の升、斗、栱、翹等の部材の長短、高さ幅寸法は、全て平身科を以って迎面安翹とし、尾垂木斗口(昂斗口)の幅寸法を以って詳しく算定する。斗口には、頭等才、2等才から11等才、即ち頭等才は迎面安翹、昂斗口は幅6寸、2等才は斗口幅5寸5分、3等才から11等まで各所5分を減じ、斗口の寸法を得る。” 表面的に見れば、“斗口”モジュール制と“材、分”モジュール制とは、非常に似ていて、斗口は材幅に相当する。人によっては両者が名称が異なるだけで実際は同じと思えるかも知れず、且つ“斗口”モジュール制は“材、分”モジュール制に比べ等級が増えて、寸法の増減が画一的であり、栔の名称を取り消せば、これらは運用にもっと便利で、進歩と言うべきだと思える。けれども“斗口”モジュール制は、“材、分”モジュール制に比べて先進的なのだろうか?実際はそうではなく、斗口モジュールは“材、分”モジュール制が持っていた深い理念は継承していない。建築設計と施工の中で、“斗口”モジュール制の地位は“材、分”制モジュール制に遠く及ばないのである。
  (注)用語:清代の用語として、
   科=科は清代の斗栱の呼称。柱頭科は柱頭斗栱のこと。
   升=肘木の両端、上下2層の間で、上層の肘木を承ける小斗。
   翹=形象は栱(肘木)と同じ。宋代の華栱(出跳する肘木)のこと。
  平身科=所謂、中備えで中唐斗栱の間に増設した斗栱のこと。
  迎面安翹=
 清の《工程做法》中の斗栱の肘木と横木の断面比例は14:10と20:10の2種で、これは《営造法式》の単材と足材の比例に近いが、“斗口”モジュール制は運用時に、肘木と横木の断面の関係が探し出せず、例えば斗口を用いて梁のモジュール単位を作ると、《工程做法》にの規定に拠れば以下の寸法が得られる:(7架梁を例にする)
   梁の幅=金柱径 + 2寸=6斗口+2寸+2寸=6寸口+4寸
   梁の高さ(成)=( 6斗口+4寸) ✕120%
   梁の断面高さ:幅=12:10
 この様な大梁断面の高さ幅の比は、“材、分”モジュール制で量って得られる大梁断面のたk差幅の比と比較して、科学性が低落して、部材は太過ぎる様になる。これは“斗口”モジュール制が、“材、分”モジュール制が持っている特有の双方向の寸法モジュールの特徴を具備しておらず、このため、材分モジュール制の包含する強度概念を失ってしまって居るためである。
 清式の梁架構構造の節点の多くは、二度と斗口モジュールの発生が必要となるような連携はなくなってしまった;宋式建築の大梁でおよそ斗栱に架け渡すものは、1個の材或は幾つかの材と幾つかの栔の断面の大きさを以って、斗口に何個も進入することを要求するが、清式建築ではこの種の構造法式の運用は已に大々的に減少してしまっている。又宋式建築は梁架に縦向きに攀間(梁の蜀柱と蜀柱を繋ぐ横木)を使用し、小型の建屋は単材の攀間を用い、大型の建屋は双材の攀間で、攀間は梁柱と交叉する時も全て材を以って基礎とし、部材の組合せを進めた。清代は三位一体の檩、墊、枋工法を用いるが、その節点構造に“斗口”モジュール制との関係は存在しない。これにより、“と口”モジュール制は、只、斗栱の組合せの中に構造概念が含まれるだけで、梁架構のその他の部位の節点構造の処理には無関係である。
  (注)檩、墊、枋:いずれも梁と梁を横に繋ぐ桁で、檩は垂木を直接承ける桁、枋は一番下の桁、墊はその間の隙間を埋める桁
 《法式》は、材を8等に分け、どの等第も使用範囲を規定し、これによって建築群内の建築尺度を管理する手段の一つと成る。《工程做法》 巻二十八は“斗口”モジュール制を紹介する時に、各等第の斗口の使用範囲を未だ詳細に規定していないとしている。その前の二十七巻は、各種規模と類型の建物の大木作工法を分けて紹介しているが、言及する斗口の使用範囲は、4寸、3寸、2.5寸に限られている。現存の実例中、4寸以下の各種斗口の運用が見られるとは言うものの、終始6寸、5.5寸斗口の建物を見ることは出来ず、これにより今に至るも1等、2等斗口の実際の意義がどこにあるのか不明である。《工程做法》中には、《営造法式》の中にあるような一つの建築群中の建物の用材が整合する関係を作るような明確な規定も無い。凡そこの各種のことは、“斗口”モジュールが建築尺度方面の概念が弱体化している事を反映している。
 “斗口”モジュール制に出現するこのような情況は、主要な原因は清式建築斗栱の構成の功能が弱体化し、寸法も大幅に減少し、実例中最大の斗栱が城楼に使用する4寸斗口で、それは宋式建築の6等材に相当するに過ぎないのである。総じて“斗口”モジュール制は已に基本的に“材、分”モジュール制の特徴を失ってしまい、数字モジュール制に近づいているのである。



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# by songofta | 2017-05-21 16:31 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

225 用材の制度2 “材、分”

中国古代建築史 (抜粋) 巻三

第十章 建築著作と匠師


(前回の続き)
  “材、栔”制の中で8等の材の寸法規定は等差級数的な逓減では無く、明らかにそれ等を3組に分けていて、1,2,3等を1組とし、等毎の材の間の高さは0.75寸、幅は0.5寸である。4,5,6等を第2組とし、等毎の材の間の高さは0.6寸、幅は0.4寸である。7,8等の材は第3組で、両者の材の間の高さも0.75寸、幅は0.5寸である。これは明らかに3組に分け、その目的は異なる等級と規模の建築の需要に適応するためと理解出来、第1組は主要に殿閣類型の大型建物に活用し、第2組は主要に庁堂類型の中型建物に活用し、第3組は主要に小さい亭榭及び殿内の藻井に活用する。これは殿閣類型の建築群内の建築は、主要に第1組の材を使用し、それは図に示す所で、庁堂類型の建築群内の建築は基本的に第2組の中からその用いる材を選択する。この2類の建築群内の附属建築は、亭榭の類のようなもので、第3組の材を採用する。上述の3類の建築中、建築物の用材等第はこの様に手配し、再配分は補助的な条件を以って行い、例えば大木作制度で部材に対して,殿閣か庁堂に用いる別に規定された細部寸法の工法に従って、他でもない、建築群中で一体としての建築に適当な尺度を取ることが出来る。しかるに、第1組の3等材と第2組の4等材の間の寸法差は、その他の格等材の間の差よりもっと小さく、高さで0.3寸、幅で0.2寸に過ぎないのは、どうしてであろうか? この種の現象の出現が看ることが出来るのは、正に殿閣と庁堂の2類の建築中に一体とした建築用材等第が互いに行き渡っているからに他ならない。殿閣類型の建築群中、4等材の建物が出現出来るのは、この種の建物が、建築群中のその他の建物と尺度上差が附けられているからである。同様に、庁堂類型も建築群中に、3等材の建築の出現を許すと、それは明らかにかなり雄偉であるが、又一際抜きん出て鶏の中の鶴とまではならない。

  この種の“材、分”モジュール制の産物は、当時の生産力や生産関係と密接な相関があり、当時の官に属する建築は全て官の手工業を施工する隊列が施工し、施工過程で、工匠逹は専業化して分業し、梁架構の工匠は全体の建築群のこの類の部材の加工や実装を担い、斗栱を製作する工匠は建築群中の大きさの異なる建屋の斗栱加工と実装を担い、工匠逹は施工の任務を引き受ける時は、今日のような詳細な施工図のようなものを見るような条件は無く、担当する工程は全て職人の口頭で手の内を見せて進め、当然ながら十分に気配りが行き届くというわけには行かず、往々にして、建築の桁行と梁間の総体的な管理範囲や間数、斗栱の手先数、組物の数等を大雑把に交流出来るだけである。工匠逹は彼等が代々相伝し、長らく用いてきた1組の規矩を基に、建築の用材等第を確定し、部材加工を進め、最後に1棟の建物を組上げるのである。“材、分”モジュール制は既に彼等が加工する部材が標準化した節点を具備することを保証しており、性格で誤りの無い組立てから、又部材の充分過ぎる強度が保証される。同時に建築群中のどの1棟の建築も適切な尺度にされるのである。“材、分”モジュール制の生命力は施工中、複雑な寸法を簡素化し、同一類の部材は、それらの材、分寸法は同じになり、異なる等第の建築に使う時、只その材、分の寸法を覚えていれば良く、実際の寸法を覚えておく必要はない。今日のレンガ積みで使用する“皮数竿”(※注1)の情況は、古代の施工中で、工匠逹が只8等材で作った材、分の標杆尺を利用して、水縄を張り、加工し、施工の誤差を減少させて、進行していく様を推測させる。この様に看てくると、“材、分”モジュール制は、設計と施工の経験を異常なまでに豊富にして、その他のモジュール制は比肩することが出来なかったのである。
(※注1)皮数竿:レンガとセメントの厚みを目盛って、基準尺とするもの。
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 但し、1棟の建築物の桁行と梁間の等第寸法は、“材、分”モジュール制を用いて量れないならば、棟梁が実際の情況に照らして設計し、学者が《法式》の巻十七の功限の中に見つけた1条“造作の功は6等材を標準とする”の文字から、これを根拠にして、巻四、五の大木作制度中の桁行と梁間に関係の有る方面で例に挙げて書き並べられた別の寸法は、6等材を用いて計算された建築の桁行或は梁間の用材の“分”数であり、またこの変成通則である。この種の工法は科学的厳密性に欠けるもので、例えば、建物の総梁間の垂木桁の距離は、《法式》が指し示す:“どの桁の水平距離は6尺を過ぎず、もし殿閣ならば或は5寸から1尺5寸を加える”は、これに対して殿閣の垂木桁の距離は一般に6尺で、極限の距離は7.5尺、庁堂は6尺以下である。もし一律に6等材で材分モジュールにすれば、垂木の出跳距離は150分から187.5分とする結論になり、通則になる。但し、それはこれを図に描くと、比例を失っている。且つ、作者が6等材を殿閣に用いると、用材制度が規定する所の範囲と相違してしまう。これとは別に、作者が証明に引く所の材料を看ると、一つは尾垂木(下昂)の寸法で、一つは小木作の裹栿板(※注2)の寸法である。
   (※注2) 裹栿板:両側に厢壁板を用い、桁の下に底板を置き強化した桁材
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尾垂木自体は斜めにおく部材で、且つ傾斜度は不定で、尾垂木の真実の長さ寸法を移し変えた尾垂木尻の”分”数と圧槽方(注;斗栱の最上層の肘木)から下平槫(下の垂木桁)までの水平投影寸法の”分”数を較べると、両者は同じで、そして垂木桁の水平距離は6尺を過ぎずを説明する“足以確証・・・・は6等を以って標準とする”は毫も意義を持たず、両者は比べることが出来る性格の物ではない。裹栿板に至っては、寸法に仕上がっていない部分が含まれ、依拠して推算することが出来ない。
 多くの現存する遺構中、垂木桁の距離と材分は秩序立って居らず協調の無い関係で、且つ1棟の建築中に常に異なる垂木桁の距離を使用する情況が出現し、下表に列挙した23棟の建築中の意味のある42個の垂木桁間の距離寸法のデータを看ると、その内で、垂木桁の距離が6尺以下は29%を占め、6.5尺から7.5尺は36.8%で、両者の和は65.8%で、6等材を一つも使っていない例である。垂木桁の距離と用材等第はどんな直接の関係もなく、例えば2等材や3等材、5等材を使用する建築で、共同の垂木桁距離----7尺前後を選択し、もし材分制で計算すれば、それらはかなり大きな差とすべきである。此れにより、《法式》がタリク桁の距離に対しては所定の数値系経験値を以って、使用時は直接参考にし、材分を用いた推算は必要としない。6等材の基礎の上に建立する建築の桁行と梁間寸法のモジュール制通則も成立出来ない。
 《法式》編者の宗旨を看ると、「定法はあるが定式は無い」を原則とし、桁行や梁間に材分モジュールを加えるのは限定的なのである。
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  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服
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# by songofta | 2017-05-16 10:09 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

224 用材の制度1 “材、分”

中国古代建築史 (抜粋) 巻三

第十章 建築著作と匠師

※営造法式について、様々な著作が発表されており、ほぼ南北朝頃には、ある程度形があり、唐代には成熟した技術斗成っていたようで、中国古代建築史(全五巻)を通した伏線に見える。当然、飛鳥、天平の頃には我が国でも伝来していたとかんがえられるが、わがくにではほとんど言及されていないのはどうしてなのであろうか?古代中国の技術を踏まえずに、高麗尺がどうの、唐尺がどうのと言った議論がどんな意味を持つのか全く理解ができない。ここに、傳熹年氏の論文以降を踏まえた中国古代建築史の営造法式について紹介する。拙訳ではあるが、無いよりもましと考え、提供する。飛鳥~平安初期の古建築を看る縁になれば幸いである。


第一節《営造法式》評価 (略)

第二節《営造法式》所載の各主要工種制度
一、大木作
1.用材の制度
 《法式》巻4大木作制度は、巻首にすぐ用材制度がくる。これは、この項目が極めて重要な制度で、正しく《法式》も序に言う所の;建築工程で“材を以って分を定めることを知らざるは”、必ず“弊害を重ねて因循となる”。こう言うことで、李誡は真先に大木作構成の用材制度を制定した;即ち、“凡そ建物の機構の制はみな材を以って祖とし(以材為祖)、材は8等あり、建物の大きさを計るにはこれを用い・・・・・・・・・凡そ屋宇の高さ奥行、物の長短、曲直や反りの勢、規矩墨縄の宜しきは、皆用材の分によって制度となる。” この用材制度と現代建築工程中で使用するモジュール制度はある種似ており、“材、分”モジュール制と呼んでいる。

(1)“材、分”モジュール制の意義
  “材、分”モジュール制の内容は、3つの部分からなる;
第1部分は、“材、分”モジュール制が木構造建築に対する重要性を明らかにする。即ち“凡そ建物の構造の制は、みな材を以って祖とする”、意味は建物を建てる制度はどのような情況下においても全て“材”を以って最も基本的に依拠するからである。
第2部分は、材の形制と等級は及び等材の使用範囲を明らかにする。“材”は“足材”と“単材”の区別が有り、単材は斗栱中の肘木或いは桁材の断面が、高さ15份幅10份で、その中の1份が《営造法式》中で言う1分になる。足材の高21分幅10分。単材と足材の差は栔にあり、栔高さ6分、幅4分。”材”は総じて8等級あり、最大で9寸X6寸、最小で4.5寸X3寸(表10-2を見よ)。
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第3部分は“材、分”モジュール制は大木作中でどのように運用するかを明らかにする。即ち“凡そ屋宇の高さ奥行、物の長短、曲直や反りの勢、規矩墨縄の宜しきは、皆用材の分によって制度となる。” 大木作中に、木構建築の梁、柱、桁材、垂木、貫及び斗栱上の各種部材の長短や曲直に対して、及び加工過程の工程順序の規矩方円は如何に墨を打つのか、どの材やどの栔、どの分を見積もるべきかを見出だせる。こうして所謂”屋宇の高さ奥行”、即ち建物の桁間、梁行及び柱高は、法式制度の中に在り作る前に明確に規定している。これに対して、編者の間違いと看做されるだけではなく、反って編者が工匠の留意するその他の工法に意味が在ると看做すべきならば、工匠は客観的条件に従って”材、分”モジュール制度を運用して設計施工することが出来、この様な”材、分”モジュール制度はこれでやっと生硬で硬直した条文でないことができ、恐らく《法式》序の所謂”用材制度を変造”の”変造”の意味することになる。
 ”材、分”モジュール制度は、なぜ肘木や桁材の断面を以って基本モジュールとする必要があるのか?これは主要に肘木や桁材は大木架構の中の断面最小の部材で、同時に何度も重ねられ規則的に使用される部材で、それと大木架構は不可分の密接な関係が有るからである。それでは、この種の一部材の断面――“材”が作るモジュールは、単純な数字モジュールに比べてどのような深刻な概念なのであろうか?”材、分”モジュール制度の大木作中の運用は、気付くことが出来るように、それは強度、尺度、構造の3方面の概念を含んでおり、その他のモジュール制には具備していない特徴である。

1)強度の概念に関して
 大木作制度のなかで、”材、分”モジュール制度を用いて来たのは、主要な構成部材、例えば大梁、頭貫等で、均しく科学的断面形式を持ち、建築史学者が公認するものである。梁の断面形式の問題に関しては、あとの節で詳細に議論する。同時に、まだ見出だせるのは《法式》が推奨する所の木構成体系の中で、“足材”が出現し、大木作制度中足材を使用してモジュール単位とする主要部材は、出跳する肘木(華栱)と枘挿しの肘木(丁頭栱)である(図10-27)。当時は建築中、組物(即ち1組の斗栱)が出跳する垂木の重量を承けるのは、架構の受力部材の重要な部分で、出跳する肘木は組物の中の主要な支え上げる部材であり、1本の出跳する肘木は1本のごく短い臂梁と看做され、組物の中でその他の横向きの肘木に比べ役割が大きく、其のため断面は大きくする必要があるが、工匠逹がその断面の高さと幅を大雑把に大きくしないため、断面高さだけを増やし、その高さの比を21:10にして、臂梁の抗折力を高めた。この様な処理は多くのはっきりした体験による構造力学の基本原理ではないか!足材の使用は工匠達に”材、分”モジュール制体系中の意図に強度の概念を託す更に明確な証明となった。
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2)構造の概念に関して
  斗栱体系を使用する中国の木構造建築は、どの建屋も正しく整然と画一的に“材”を使用して肘木や桁の断面を作るので、それで始めて肘木や桁の殺ぎ接ぎ時に標準化した構造節点を保証でき、数十の其々の異なる形状を持つ斗や肘木、尾垂木、耍頭を1組1組の組物に組み上げることが出来る。だから”材、分”モジュール制が含まれる構造概念は推して知るべしである。それが表現する構造規律は材と栔の間の組合せで、高さ6分の栔は、只足材と単材の差と言うだけではなく、大斗以外の数種の小斗の水平と傾斜のある高さに相当する。例えば;1組の五鋪作(注、2手先)斗栱中、正心位置には泥道栱、慢栱、柱頭桁等の部材があるが、同時に2層の小斗を挟んでいて、合計の高さは3材2栔である(図10-28)。
 この種の材、栔間の組合せの構造方式は、組物各所の節点構造の基本の造りを成している。法式制度中、幾つの材幾つの栔にするかに当って、もし特に梁の高さと柱径を指定されて無ければ、部材の具体的寸法を表示して、大雑把に幾つの材幾つの栔と言うのは、幾つの層の肘木或いは桁と斗が互い違いに重なり一緒の構造にする工法なのかを意味する。大木作制度の中で、木構成の或る構造の節点を明らかにすることは、往々にして直接幾つの材幾つの栔を使用するという文字で表明し、例えば単栱計心造の構造節点の時は、“凡そ組物は順に計心で・・・・・一つ出跳する毎に2材1栔を置く”と書く。同時に小字で注釈し“令栱素方が2材、令栱の上は1栔とする”。此処にあるのは、制度の正文中に書く事に対して“一つ出跳する毎に2材1栔を置く”は、当時の工匠逹が広く流伝してきた口ずさみや専門用語の類と理解出来、いまの瓦工が施工中にレンガを積む構造を簡単に“一順一丁”、“五順一丁”と言って具体的な積み方を説明するようなものである(注、レンガを横向きに何個並べたら縦向きを挟むと言う簡称のこと)。そして小字は即ち法式制度の編者李誡が、“束縛している工匠が逐一話した”中で、工匠逹が話終わった所で加えた注釈だと了解出来る(図10-29①)。
 又重栱計心造を説明する時は、法式制度正文は大字で“出跳する毎に3材2栔を置く”と明示し、同時に小字で注釈して“瓜子栱、慢栱(注、二重秤肘木の上河の長い肘木)、素方は3材、瓜子栱の上の斗と慢栱の上の斗は2栔”とする(図10-29②)。
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 類似の情況はまだ、尾垂木或いは挑幹(注、梃子作用をさせる部材)の尻と下の垂木桁の間の節点構造にもあり(図10-29③)、法式制度正文に大字で言うのは“もし屋内が明造(注、天井が無い所謂化粧屋根裏)で、即ち挑幹を用いるのは、1斗であったり1材2栔であったり”。その後で小字で注釈して“所謂1栱の上下は皆斗があるものである”。上述の種々の証拠から、所謂幾つの材幾つの栔とは、ある構造法式の代名詞である。この推測により、施工の手の内を見せる時、工匠逹は只或る一節点に幾つの材幾つの栔と言えば、それは今日具体的節点構造の概要を出したのに等しく、工匠に言わせれば、構成のある位置の幾つの材幾つの栔は、その種の構造法式になるのは必定で、この種の構造方式は已に同業の衆が周知の節点構造工法なのである。

3)尺度の概念に関して
 建屋構成の強度の大きさと構造節点の標準化は、“材、栔”制と密接に関係し、法式制度の字間行間の中に、比較的はっきりと反映されている。では、“材、栔”制と建築芸術の関係はどうであろうか?詳細な研究を経て発見されたことは、“材、栔”制を制定した人は、材は8等に分け、異なる等第の建築に用いるように分け、且つ用材制度中に同一の建物でもある場合には、異なる等第の材を使用する必要があると規定する。例えば、庇(副階)を持つ大殿はその庇の用材は、《法式》規定の“庇は材分を殿身から1等減ずる”で、もし殿身が2等材なら、庇は3等材である。庇の用材等第を1級降ろすのは、採用する部材を全て殿身に採用する部材より、減少させることを意味する。当時の官式建築には普遍的に斗栱を使用する情況の下で、斗栱の大きさは敏感に建築の尺度を反映しているので、もし殿身と庇の斗栱が同じ等第であれば、庇は殿身より低いので、人に近い場所になり、庇の斗栱の勢いは必然的に太く嵩張って見える。この様な処理は建築尺度を考慮したことかた来ている。当時の工匠逹は已に人が建築物の大きさから受ける内容を認識しており、絶対寸法を用いて重量の標準としただけではなく、そうごの対比と忖度を利用して、一種の相対的な印象に到達したのである(図10-30)。
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  8等材の中の、”材、栔”制度の明文規定の7,8等材は殿内の藻井に用いるとあり、これは材、分の大きさの調整を通じて建築尺度を体現するもう一つの例証である。8等材は1等材断面のたった1/4で、8等材を使用する藻井は大殿室内装飾構図の中心であり、明らかに規格外の精細な細工であり、大殿殿身の持つ太く重量感のある部材形成と強烈な対比をなすもので、この様に藻井を利用して殿身に更に雄大さを加える事を狙ったもので、大殿本体の太く重々しい梁や柱、斗栱を通して、反って藻井の精美さを引き立てている。
 用材制度の中にはまだ、“殿の挟屋は殿身より1等減じ、廊屋は挟屋より1等減じ、その他はこれに準ずる”の規定がある。これに対して建築群を管理する為、主要建築と附属建築の間の尺度関係の規定であると理解すべきである。挟屋は即ち大殿両脇と殿身が繋がる建物で、廊屋は建築群の回廊である。中国古代建築は材料の制限により、全体の建築建造の規模を大きくすることは不可能で、一定の功能を満足するために、群全体の組合せを使用して完成させる事が必要である。建築芸術の処理としては建築建造群の中の主建築とそれに次ぐ建築をはっきり分ける事が要求され、主要建築の体量は材料の制限により余り大きくすることは不可能で、主要建築と附属建築の関係を正確に処理する必要があり、それで主と次を明確に分けた芸術効果を獲得出来る。“材、栔”制度規定が、回廊と挟屋の用材等第を下げるのは、正しくこの様な目的の為である。用材制度が提供する原則に則った、若干の建築群の実例を参考に、建築群の用材等第に対してどのように設計出来たかを見てみよう(図10-31)。
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 図中描くのは、3進の院落建築群で、主要建築は第2進の院落に配置され、第1等材を使用し、その余の建築用材は等第を1級か2級下げる。同時に、附属建築の桁行と梁間も主要建築より小さく、次に重要な建築と主要とに、建築総体量と細部部材の大きさに差を附けることを通して、主要建築を際立たせている。この種の建築芸術の処理方式を採用した建築群の実例が、山西省大同の善化寺で、その中の大殿と三聖殿の用材等第は、2、3等材の関係で、山門は4等材、普賢閣は5等材である。
  “材、栔”制は、建築尺度の問題を考慮し、更に一定範囲の中で、それは主要に大木架構の尺度を管理するが、ある種の部材、例えば建築の窓枠の台や欄干の高さ、戸の框の細部寸法など、建築尺度の影響も大分大きい。そしてこれ等の部材は大木作に属さないので、材を用いないで、分で管理する。《法式》にはその他の章にそれらに反映する尺度問題も非常に重視されている。(続く)



  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服
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# by songofta | 2017-05-12 21:02 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

223 飛鳥建築と”以材為祖” 4

日本飛鳥奈良時期建築中反映出的中国南北朝隋唐建築特点

               傳熹年 著(文物1992年10月所載)


奈良後期(約751~794年)
 8世紀中葉以降、日本は奈良後期に入り、絶え間なく盛唐と中唐文化を大量に受け容れると同時に、段々と日本独自の特色を醸し出して発展する。この時期に建てられたのは、奈良東大寺、西大寺等の巨大寺院で、伝世する遺構は唐招提寺金堂、新薬師寺本堂、元興寺極楽坊五重小塔、室生寺五重塔等である。その内、唐招提寺金堂は草架(注、天井を張って上部が見えない架構)を架構し、その比例とモジュールの関係を研究する方法が無く、只元興寺小塔と室生寺塔は基本的に原状を保持しており、詳細資料があるので、探索が出来る。

一、元興寺極楽坊五重小塔
奈良元興寺極楽坊内に陳列され、方形の五重小塔で、高さ5.5m、約18.58尺(1天平尺=29.6cm)、毎層面幅3間。浅野清《奈良時代建築の研究》所載に拠れば、第1層3間の面幅は1.1天平尺、2層は1.0天平尺、3層は0.9天平尺、4層は0.8天平尺、5層は0.7天平尺。毎層間の面幅は下1層の面幅より1寸減少し、通面幅で3寸減少する。毎層の柱頭斗栱は皆六鋪作双抄単下昂、単栱偸心造(⇒三手先、肘木を二手持ち出し、尾垂木1本、秤肘木偸心造)である。
 1層から3層は中備えに斗付き蜀柱があり、4,5層は中備えが無い。海龍王寺小塔と外観が異なるだけではなく、この塔は内部架構も造り出しており、日本の学者はこれは本物の黙祷の10分の1模型と考えている。
 この塔の詳細測量データは得る事が出来ず、暫時依然として、唐代材分制の特徴を保持しているかどうかを推求出来ない。但、講談社新版《日本美術全集・Ⅳ》の図版152,153の解説中に発表された、立面及び断面図実測図が在り、塔身高さと塔総高さの寸法の注が有る(図十四)。
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 前述の飛鳥及び奈良前期の塔の規律に基づくと、この五重塔の塔身の高さはⅠ層柱高の7倍だが、実測図上の作図では、塔身高さは柱高の8.5倍強で、明らかにそれは上述の設計規律に基づいていない。 図の上で各種探索すると、塔身の高さは、第3層面幅の4倍で、亦即値第3層塔身の周長でもある。図を用いて数字を検算すると、塔身の高さは328.1cm。1天平尺=29.6cmで換算すると、328.1cm=11.08尺。その4分の1は2.77尺。3層の総面幅2.7尺と差がわずか0.07尺は、基本的に同じと見れる。 これによって、この塔の高さは第3層の面幅を拡大モジュールにしている事が知られる。但しこれはこの塔の特殊な情況か確かに一定の規律性によりものかは、もっと多くの例証が必要である。

二、室生寺塔
 奈良室生寺川畔に在り、奈良時代末期に建てられ、平面方形、五重、全部木構造、木製の中心塔柱が上下を貫通する(図十五、十六)。
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 この塔は明治三十四年(1901年)解体修理され、1978年又大修理を経て、実測図の《国宝室生寺五重塔修理工事報告書》が発表された。《報告書》中の記載に拠れば、塔の総高さ(1層地面から刹尖まで)は17.1m、およそ一般の五重塔の3分の1である。塔身は、毎層の面幅が皆3間で、各層の肘木と桁の高さは等しく、皆高さは0.34尺(幅は図に標示が無い)。図上に標示された2材2栔の高さは1.12尺で、ここから1材1栔は0.56尺と判り、栔高さは0.22尺である。もし、0.56尺が足材ならば21“分”相当で、この塔は毎“分”が0.02666尺となる。この“分”値で実測図に標出された各層の面幅を換算すると、即ち;
   1層は 2.565+2.95+2.565=8.08尺
      即 96+110+96=302“分” ⇒300“分”
   2層は 2.335+2.54+2.335=7.21尺
       即 87.5+95+87.5=270“分”
   3層は 2.005+2.23+2.005=6.24尺
       即 75+84+75=234“分” ⇒235“分”
   4層は 1.76+1.91+1.76=5.43尺
      即 66+72+66=204“分” ⇒200“分”
   5層は 1.565+1.67+1.565=4.8尺
      即 59+62+59=180“分”
 上述から見られるのは、各層の通面幅は皆端数とはいえ、“分”値に換算すると、300,270,235,200,180と基本的に整数となり、その各層の縮小する数の30,35,35,20“分”も規律的となる。これはこの塔が“分”をモジュールとすることの証明するものである。《修理工事報告書》の図上に立面の各寸法が標示出されていないので、我々はまだその立面の“分”数は推算する術が無い。
 これまでの各塔の情況からみて、塔は全て塔高を管理する各ダウモジュールを持っていることが判る。《修理工事報告書》の附図の標示により、塔の総高さは56.54尺。その内台基高さは3.2尺、刹高さは15.08尺で、
これにより塔身の高さ(1層地面より5層博脊まで)は、56.54-3.2-15.08=38.26尺。材高0.34尺を以って塔の総高さ56.54尺と塔身高さ38.26尺を割ると、166.3と112.5となり、整数にはならず、それは在鷹がモジュールに成っていないと判る。塔の1層柱高は《修理工事報告書》に載っておらず、実測図上で作図によって検証すると、塔身高さは1層柱高の8.3倍で整数ではなく、1層柱高が拡大モジュールではないと判る。
 最後に、元興寺極楽坊五重小塔の例により、その3層の面幅で塔身の高さを換算すると、3層塔身は幅6.24尺で、その6倍が37.44尺、この塔身高さ38.26尺と差が0.82尺、工程の誤差と多くの修理等の要素を考慮して、それは確かに3層の塔身通面幅をモジュールとしていて、手法は元興寺極楽坊小塔とおなじである。全く同じで無い所は、元興寺小塔の下3層は中備えを用い、面幅を大きくしているので塔身は相対的に寛く、塔身の高さは3層塔身面幅の4倍で、室生寺塔は各層に中備えを用いず、面幅が小さく塔身がかなり細いので、塔高さは3層面幅の5倍となり、両塔の高さと寛さの比は異なる。
 上に挙げた2例で知れるのは、奈良後期は、建築は依然“分”を以ってモジュール設計方法を取るが、その管理する高さの面では拡大モジュールで、飛鳥と奈良前期は1層柱高を拡大モジュールとするのを3層(中央の1層)の面幅を拡大モジュールとするよう改作している。

 以上の文を総括すると、我々は日本が初めて中国古代建築の影響を受けた一連の遺構を研究することを通して、翻ってその頃の中国建築の発展レベルが推測でき、以って中国建築資料の不足を補うことが出来るということである。

一、
日本の飛鳥時代、建築は材を用いるのが已に標準化されて、肘木と柱頭桁の寸法が即ち建築の標準の材で、断面が5:4であった。但し、この肘木と桁の間の隙間の寸法はまだ固定されておらず、まだ後の“栔”と“足材”の概念は無かった。建築の平面や断面、立面の寸法設計中、已に肘木と桁の標準高さ(即ち、材高、法隆寺金堂、五重塔中では、0.75高麗尺)をモジュールとし、断面と高さ設計上は、又1層の柱高さを拡大モジュールとし、1層柱高さそのものも材高をモジュールとした(法隆寺金堂と五重塔は14及び12材高に分けた)。この時、3層塔の塔身の高さは1層柱高の5倍で、五重塔の塔身の高さは1層柱高の7倍である。殿宇は法隆寺金堂1例しか無いが、それは依然として1層柱高をモジュールとしており、堂高は1層柱高の4倍である。この種の材高や柱高を以ってモジュールと拡大モジュールとする工法は中国の唐と遼の木構造建築の情況と基本的に同じで、明らかに同一の源から出ている。日本の飛鳥時代建築の源は中国南北朝末期の建築である。この様なことが、飛鳥時代建築を傍証として、中国唐、遼、宋建築の特徴を結合し、”以材為祖“のモジュール制設計方法の成熟期を唐代から早ければ南北朝後期であろうと、我々が推断した理由である。

二、
 奈良時代前期の遺構中に、我々は“以材為祖”のモジュール制設計方法とその発展を看ることが出来る。我々が中国の中唐、晩唐建築中に反映した“分”を以ってモジュールとした設計方法で検証した薬師寺東塔の時、東塔は已に“分”をモジュールとしているのを発見し、その“分”は材幅の1/10で、その平面や立面、断面を“分”で換算した時、中国の唐宋建築で常用する“分”と合致した。薬師寺東塔は代表的白鳳時期の建築として、日本の学術界は中国初唐建築の影響を反映している事を公認している。この様にして、我々は薬師寺東塔を傍証にして、中国初唐時已に材高をモジュールに用いることから、 “分”をモジュールとして用いるまでに発展し、モジュール制設計方法は更に精密になり、以前は中唐や晩唐時(ここに南禅寺と仏光寺がある)にやっと在るとされた設計方法が100余年早められた。この他、薬師寺東塔と海龍王寺五重小塔も1層の柱高が多層建築の高さの拡大モジュール設計方法であり、初唐でも依然使用されていたことが表された。

三、
 奈良時代後期遺構中、室生寺塔が依然として“分”をモジュールとする設計方法を使用していることが表された。但し、室生寺五重塔と元興寺極楽坊五重小塔は又高さを管理する拡大モジュールは、已に1層柱高から塔の中間層の面幅に改定されていることも表わしていていた。面幅を高さ管理の拡大モジュールとして、塔高さと塔幅を関係付けると、塔の細長比を管理でき、明らかに1層の柱高に比べて合理的で、この当時モジュール制設計方法上の進歩である。この状況は、ちゅうごくで1056年の遼代応県仏宮寺釈迦塔でも存在し、この塔の下4層は厳密に第3層塔身の面幅をモジュールとしている。清末民国初の人、姚承祖選の《営造法源》の中に、塔周辺の長さ(面幅の若干倍)が即ち塔高さの記述があり、工匠に口伝されてきた古法に当る。奈良後期に陸続として伝入した盛唐、中唐の影響を受けたため、我々は上に述べた2塔の傍証により、中国応県釈迦塔が表現する面幅と高さ関係の拡大モジュール制設計方法の出現時期は中唐乃至盛唐の末で、200年以上早いことが判る。中唐に“安史の乱”が在り、大規模な回復の建設が進んで、この時モジュール制設計方法に新しい発展が出現したということが頗る可能なことである。奈良後期遺構はこの方面でも我々に重要な手懸りを提供している。
 但し、この種の新しい拡大モジュールの出現後、完全に旧法に取って変わったわけでは無く、異なる建築流派が造るものが併存していた。中国の応県仏宮寺釈迦塔でも同時に1層の柱高と3層の面幅を拡大モジュールとする兆候が見える。同様になら後期から数百年後の鎌倉時代に建った奈良興福寺三重塔は、その塔身の高さは依然1層柱高の5倍で、厳格に飛鳥奈良前期の古法に沿っている(図十七)。
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 以上が、日本古建築中に含まれる、中国南北朝から唐代建築の特徴の探索である。できるだけ誤差を減らすため、文中に附けた日本と中国の建築図は全て書き直さず、直接已に発表された図に比例関係の分析線を書き加えて、原図紙上にある物を明示するだけにしている。筆者の日本古代建築に対する理解は少なく、掌握した材料も少ないので、一面的だったり正確でない事を恐れる。以後、もっと多くの材料が入手でき完全で正確にできることを希望している。但、この初歩的な探索から、我々は依然、日本古建築は確実に我々のある種の中国に無い実物、或いは実物が稀少な時代の建築を理解する鏡のようなものを見出す事が出来る。中国中唐以前の古建築は、解放後40余年文物従事者が何度も調査を行ったと言っても、未だ茫漠として得る所が無く、已に遺物が残っていないで現在に至っている。日本には現在26座の飛鳥、奈良時代の遺構を、我々はこの時期の建築の重要な傍証とすべきで、我々が深く研究する極めて高い価値がある。この他に、中国古代建築史研究に対して出来る、まだ重要な補充作用があるのは、鎌倉時代の遺構である。日本の鎌倉時代の2種の主要な建築風格、“大佛様”と“禅宗様”が、南宋と元代の福建と江蘇浙江地区というべつの源から入っている。南宋と元時期、中国南方の経済と文化は北方を遥かに超えており、建築も巨大な変化をし、段々と地方の風格を形成し、中国建築の重要な発展時期であった。その内、江蘇浙江地区建築は、明朝成立後、明の官式建築の主要な源流となり、一代の新風の先駆けで特別重要なものである。だが、現在の長江以南に在る宋元の木構造建築は10座前後で、且つ時代が離れ、地域が分散し、その系統と完全な整理探索は困難である。それに比べて日本にある鎌倉時代の建築は頗る多く、国宝の寺院建築だけでも53ヶ所の多数の建築が列なって、有力な傍証となり、我々が江南の宋元時代の建築の発展と地方風格の形成及び変遷を研究するに当たって重要な手懸りを提供できるので、極めて価値が在ると重視するのである。
 我が国の現存する元代以前の古建築はまだ多いが、時代は最早でも中唐までであり、地区からみると北方が多くて南方が少なく、この種の時代や地域分布の上で不均衡となっており、”先天缺陥”(先天性欠陥)に近く、我々が我が国古代建築発展史を全面的に系統立てて研究するのにかなりの困難を造り出している。中日両国の有給の文化関係により、日本の現存する大量の古代建築は、ある種のレベルで我々に傍証を提供し欠けた所を補い、他山の助けとして加え、我々は積極的に研究に加え利用すべきである。

引用文献;(概略)
①《国宝大事典五・建造物》、講談社、9頁、鈴木嘉吉《日本建築の発展と特質》中の統計表。
  33頁、岡田英男《法隆寺五重塔》解説
  76頁、細見啓三選《海龍王寺五重小塔》解説
  77頁、宮本長二郎選《元興寺極楽坊五重小塔》解説
  84頁、上野邦一選《室生寺五重塔》解説
  475頁、巻後年表。
②《国宝法隆寺金堂修理工事報告書》
③《国宝法隆寺五重塔修理工事報告書》
④浅野清《奈良時代建築の研究》、1969年、中央公論美術版
⑤《日本美術全集4、東大寺と平城京》、講談社、岡田英男選《奈良時代の建築とその構造技法》
⑥陳明達《応県木塔》三、《立面構図》、文物出版社、1980年、37頁
⑦姚承祖《営造法源》16頁、《枠組》一、塔の制度、建築工芸出版社、1986年、85頁


※高麗尺については、日本側の説明をそのまま用いているが、尺については、別個の議論が必要であろう。私は、無かった方に賛成の立場である。



  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服
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# by songofta | 2017-05-04 22:01 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

222 飛鳥建築と”以材為祖” 3

日本飛鳥奈良時期建築中反映出的中国南北朝隋唐建築特点

               傳熹年 著(文物1992年10月所載)


奈良時代前期(約710~750年)
 この時期は、日本と唐の文化交流は更に密接で、その宮室や寺院等の建築は、唐の影響を大きく受け、飛鳥時代とは異なる新風が出現する。この期の日本は奈良に都を建て、日本史では奈良時代と呼ぶ。奈良時代は前後二期に分けられる。前期は又白鳳文化と呼び、日本の学者は主要に初唐文化の影響を受けたと考えている。後期は又天平文化と呼び、盛唐以後の影響を反映している。
 現存する奈良前期の最重要な建築遺物は、奈良薬師寺東塔となら海龍王寺西金堂内に陳列する五重小塔である。

一、薬師寺東塔
 薬師寺は元藤原京に在り、天武十一年(682年)に創建され、文武元年(697年)完成し、和銅三年(710年)平城京に遷った。現在の日本の学界は東塔を天平二年(730年、我が国の唐玄宗開元十八年)に新しく建てられたと見做している。平城京の薬師寺は、その主体は回廊に囲まれた方形の庭院で、中軸線上の前に中門、後を講堂として、庭院の中心を金堂とする。金堂の前方に左右対称に東塔と西塔を建てる。現在の寺中は、東塔が奈良前期の実物で、金堂と西塔は今世紀70年代の新建築で、目下回廊を再建している所で、以って天平二年の旧観を回復しようとしている。
 東塔の平面は方形、高さ3層で、槽毎に裳階が在り、重層を形成し、上下合わせて6層の屋根を持つ。1,2層の塔身は各3間、3層は面幅2間;1層の裳階は毎面5間、2,3層の裳階は毎面各3間。塔身は全て木構造で、内部は上下を貫通する木刹柱がある。唐の架構の特徴は飛鳥時代と異なり、梭柱(⇒胴張り)や雲形肘木、雲斗、皿板等を用いず、斗栱は六鋪作二抄一昂単栱偸心造(⇒三手先、肘木を二手持ち出し、尾垂木1本、秤肘木偸心造)で、中備えは斗付き蜀柱を用い、通肘木(扶壁栱)に変えて秤肘木を重ね、敦煌壁画中に描かれた初唐建築に頗る似ている。それは日本と唐が直接往来後、最初に伝入した建築様式で、日本の学者は、それは中国初唐の風格を反映した、白鳳時期の最も典型的な遺構であると考えている(図十二)。
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 1981年に日本で出版された《薬師寺東塔調査報告書》に、詳細な測量データと実測図が発表され、日本の曲尺を単位としている。《報告書》で判るのは、塔身1層万幅は23.20曲尺、1層柱高は15.86曲尺、塔身の高さは78.52曲尺、塔の総高さ(1層地面から刹頂まで)は、112.65曲尺。第1層塔身の1手目の肘木と通肘木(泥道栱)の高さは0.85曲尺、柱頭の桁の高さは0.8曲尺、幅は全て0.62曲尺、二者の内一つはこの塔の材の寸法に違い無い。
 前節で検討した飛鳥時代建築の時は、已にそれらは材高をもってモジュールとして設計を勧めたことが判っている。但、ここで試しに肘木高0.85曲尺と桁高0.8曲尺を材高として、塔身の高さ78.52曲尺や1層柱高15.66曲尺、1層面幅23.40曲尺を割った時、皆端数となり、薬師寺東塔は材高をもジュースとして設計したものでは無いと言える。

 中国の現存の唐代建築、五台山南禅寺大殿(唐徳宗の建中三年、782年)と仏光寺大殿(唐宣宗の大中十一年、857年)に就いては、我々は唐代建築上、モジュールとしての材で作り、その断面の高さと幅の比は3:2である(南禅寺大殿の材は25cmX16.6cm、仏光寺大殿の材は30cmX20.5cm)。宋代の《営造法式》は又我々に告げて、宋式建築の材の断面も高さ3幅2で、且つ材高を15分割し、材幅は10分割し、毎分割を“分”と称して、建物の設計にあたって、面幅や奥行、高さ及び大小の部材を包括して設計のモジュールとした。例えば、殿閣型の架構であれば、斗栱の間の距離は一般に125“分”で、詰組の斗栱が1組あれば、毎面幅は250“分”で、且つ一定の増減幅を認めた。柱高は一般に面幅を超えず、最高で250“分”とする。この“分”を以ってモジュールとし、南禅寺と仏光寺を分析すると、得られたのは以下の結果である;
 仏光寺大殿は、毎“分”長が2cm、その中央の5間は各1組の詰組を用いており、面幅は504cm、252“分”相当で、毎斗栱平均が占めるのは126“分”。その柱高は499cm、250“分”相当で、面幅と同じである。
 南禅寺大殿は、毎“分”長が16.6cm、その面幅寸法は柱頭で計り(柱脚は側脚がある)、3間に分け331+499+331cm、総面幅1161cm。“分”に換算した時、199“分”+300“分”+199“分”、総面幅699“分”。調整して200“分”+300“分”+200“分”=700“分”。その奥行は柱頭を以って計り、3間は全て199“分”、総面幅597“分”。調整して、200“分”+200“分”+200“分”=600“分”となる筈である。
 上述の数字中、仏光寺大殿の面幅や柱高と《営造法式》所載の殿閣型架構の“分”数は同じである。南禅寺大殿は庁堂型架構で、その面幅奥行は極めて整った“分”数となる。《営造法式》中に所載の“分”を以ってもモジュールとする設計方法は遅くとも中唐には成熟していた。
 以下に我々が再度今一歩踏み込んで、薬師寺東塔中に、“分”をモジュールとした情況が出現したかどうかを看てみよう。

1.材を用いる:
 実測図上に書かれた寸法は、東塔塔身の肘木と桁の高さが頗る一律ではなく、2,3層は1層に比べ稍々小さく、柱頭桁の高さも又肘木高さより小さい。1層塔身の出跳した肘木と通肘木の高さはみな0.85曲尺で、柱頭桁の高さは0.80曲尺である。但し、その幅は同じで、皆0.62曲尺である。肘木と桁の間は斗の間に埋め込んで隙間距離を支える――宋式で言う“栔”で全て0.5曲尺である。
 肘木と桁の高さが異なるので、我々はどれが材なのか一時判断に困った。しかし、中国唐宋建築の材”分”の規則を知れば、材高と栔高は早期には固定されず、但、材幅は一般に10”分”である。東塔の肘木と桁は全て幅0.62曲尺であり、即ち肘木と桁を論ずべきではなく、もしそれを10”分”を以ってすれば、即ち毎”分”長は0.062曲尺となる。我々はこの”分”値を用いて試しに計算してみよう。
  1層の面幅は、柱頭以上の肘木と桁が形成する槽の寸法を計ると(理由は2段に平面部分が見えるため)、3間は
    7.73+7.74+7.73曲尺、   ”分”に換算して:
    124.7+124.8+124.7”分”=374.2”分”  誤差を調整して
    125+125+125=375”分”
 東塔各間は、只柱頭斗栱のみを用いて、詰組斗栱が無いので、その面幅は只1組の斗栱の寛さに相当する。従って、その面幅125”分”は、丁度仏光寺大殿及び《営造法式》中の殿閣の架構斗栱の寛さ125”分”と同じになる。
 東塔1層の柱高は15.66曲尺で、”分”に換算すると253”分”で、復興時大殿及び《営造法式》既定の250”分”と同じである。
これにより、我々は、薬師寺東塔が確実に”分”を以ってモジュール設計を進め、そのモジュールは飛鳥時代に材高をモジュールとしたのに比べ、もう一歩精密になった事を確認できるのである。
 東塔の”分”値は0.062曲尺である。もし肘木を材とすれば、肘木の高さ0.85曲尺は13.7”分”相当で、契高0.5曲尺は8.1”分”、肘木高さに栔高を加え――宋式で言う”足材”は21.8”分”となる。但し、もし桁が材であれば、即ち桁高さ0.8曲尺は12.9”分”、栔高8.1”分”を加え、その”足材”は21”分”となる。この”足材”高さ21”分”は整数であり、又《営造法式》中所載の足材の高さ21”分”と全く同じなので、薬師寺東塔の1層塔身の柱頭桁は材の可能性が最も大きい。これは、その材高0.8曲尺、幅0.62曲尺、栔高0.5曲尺、足材高13曲尺であるということを言っている。”分”に換算して、材高13”分”、幅10”分”、栔高8”分”、足材高21”分”である。

2.各層平面:
 東塔断面図上に、一つの現象を看る事が出来る。即ち1,2層は柱頭桁が形成する槽の中心線がその下の檐柱の中心線より内側に少し偏移していて、1層の内偏移は0.09曲尺、2層の内偏移は0.08曲尺。この種の内偏移は恐らく建築の側脚に源があるのだろう。或いは設計時に、檐柱に側脚があったが施工時造り忘れたか、或いは元々側脚が有ったが修理工事で直立に改造したか、このため槽と偏移が発生した。これにより、各層の原設計の面幅を計算し槽の寛さは柱脚を基にすべきではない。この様に計算すると、即:
    第1層通面幅 7.74+7.74+7.74=23.22曲尺
     換算して   125+125+125=375”分”=25材高
    第2層通面幅 5.48+5.40+5.48=16.36曲尺
     換算して   88+87+88=263”分”=17.5材高
    第3層通面幅 4.85+4.85=9.70曲尺
     換算して   78+78=156”分”=10.41材高
 得られる大部分は整数ではなく、平面は”分”を単位として設計し、材高を単位としたのではない事が知られる。

3.各層の高さの設計:
    1層檐柱高さ 15.66曲尺=252.6”分” ⇒253”分”
    1層通面幅:柱高=375:253 ⇒ 3:2
    2層柱高(柱座上面から台輪下面まで) =10.51曲尺(図から測って)=170”分”
  即ち、2層通面幅:柱高=263:170 ⇒3:2
    3層柱高=9.88曲尺 =159”分”
  即ち、3層通面幅:柱高=156:159 ⇒1:1
  即ち、1,2層塔身の幅と高さの比は3:2で、3層は1:1である。

4.塔身の高さ:
 実測図により、東塔の塔身は、地平から3層の塔頂博脊までの高さは78.52曲尺、1層の柱高は15.66曲尺。
  即ち、塔身高さ:1層柱高=78.52:15.66=5.01:1
略、施工の誤差と千余年来の変形を除けば、この比例は5:1で、即ち塔身は1層柱高の5倍である。これと飛鳥時代の法起寺塔の比例は全く同じで、三重塔の設計規律であろう。

二、海龍王寺五重小塔
  この塔は、奈良海龍王寺西金堂内に陳列され、全木製で、忠実に五重木塔の外観を模倣したもので(内部構造は表現していない)、高さは約4.1m。日本の学者が推測するには、それは10分の1比例の模型で、風格と薬師寺東塔や西金堂付近から発見された古瓦とからみて、奈良時代の作品であるとされる。
 この塔の平面は、方形で、第1層の面幅77.2cm、第5層の面幅34.5cm、層を追って逓減している。但し、前の飛鳥の2塔及び薬師寺東塔と異なるのは、どの層も面幅3間で、頂層が2間に減らない。各層塔身は皆柱頭に斗栱があり、柱頭斗栱は2手出跳し1尾垂木で、尾垂木は直線的で、薬師寺東塔と基本的に同じ、少し異なる所は出跳した2重目の肘木上に、肘木内に又1斗を加え、下の出跳肘木の先の斗と対位し、これは唐代の工法には無く、日本が新しく創り出したものである
 目下の所、この塔の詳細な測量データが得られないので、その材や分を推算する事が出来ない。但、天沼俊一《日本建築史要・付図》中に発表された立面図と断面図で分析すると、依然として、塔身と総高さ(1重地平面から5重塔頂博脊まで)は丁度1層柱高の7倍で、法隆寺五重塔が表現する比例と同じである。
 その投の総高さ(1層地平面から刹頂まで)は只1層柱高の略10倍より少し多く、法隆寺五重塔と同じである(この塔の塔刹は、明治38年(1905年)薬師寺東塔と当麻寺西塔の塔刹を参考に復原して補充したもので、その差はそれで少し有るのかも知れない(図十三)。
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 この両塔の情況が表すのは、飛鳥時期は1層の柱高を高さ方面の拡大モジュールとして設計した特徴が、奈良時代前期に至っても依然使用されていることである。但し、具体的には架構設計上、已に材高をモジュールとすることから発展して、材幅の1/10―――”分”をモジュールとするようになった。


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# by songofta | 2017-04-30 22:01 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

221 飛鳥建築と”以材為祖” 2

日本飛鳥奈良時期建築中反映出的中国南北朝隋唐建築特点

               傳熹年 著(文物1992年10月所載)

(金堂に続く、法隆寺五重塔、法起寺三重塔)

 中国に現存する唐代、遼代のかなり早期の木構造建築中、材をモジュールとしたものを除き、まだ柱高を以って拡大モジュールとするのが、多層建築ではとりわけ明白である。唐、遼の建築中、奥行が四檐の建築は、その大棟の高さは柱高の2倍で、その実例は唐代の五台山南禅寺大殿と遼代の蓟县独楽寺山門である(図三、四)。奥行が四檐より大きな建築は、その中の平槫(檐桁より上に数えて第3番目の桁、四檐時の大棟桁の位置)の高さも檐柱の2倍で、実例が唐代五台山の仏光寺大殿と遼代の薊県独楽寺観音閣上層である(図五、六)。楼閣等の多層建築中にも、1層柱高が拡大モジュールがある。遼代の薊県独楽寺観音閣の上層柱頂の高さが、丁度下層内柱高の3倍で;遼代応県仏宮寺釈迦塔の塔身(1層の地面から5層の博脊(露盤下の面戸瓦部)は、丁度1層の下檐柱高の12倍で(図七)で、下檐柱高は一般に又上檐柱高の1倍半である。これ等は皆、柱高を以って拡大モジュールとした典型的な例である。この特徴に従って、法隆寺金堂断面図で推測すると、その上層大棟桁の高さが、丁度下層柱高の4倍となるのが発現している。実測図上で、大棟の地面からの高さは49.88曲尺、1層柱高は12.35曲尺で、49.88/12.35=4.04となり、千余年の変形と解体修理を経てきた情況を考慮すれば、大棟高さは1層の柱高の4倍であることが確認出来る。もし、材高をNとして換算を進めると、則ち;
     大棟高さ49.88曲尺=12.06高麗尺=56.08N≅56N
 上述の分析は、我々が法隆寺金堂はその材高をモジュールとしていて、高さについてはその1層の柱高を拡大モジュールとしていると言えるのである。
  但、この現象は、金堂に限られれば偶然性によっても起こったのか、かなり普遍的な意義を持っているのだろうか?我々は須らく更に多くの例を検証した。以下に我々は法隆寺五重塔で開始した。

2.五重塔
 塔は金堂の西側に在り、平面は方形、高さ5層、これも全木構造建築である。塔内は1本の上下5層を貫通した木刹柱があり、塔頂から出て塔刹上に諸々の銅部材が覆っている。その柱や斗栱、架構方法と金堂は同じで、下層の通肘木(泥道栱、材に等しい)の断面の最大は0.89X0.71曲尺で、換算して0.75X0.599高麗尺、実際は0.75X0.6高麗尺で、金堂の材の用い方と同じである。(図八、九)。(注、図九は外観写真なので略す)
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 塔身第1から第4層の面幅は3間、第5層は面幅2間。実測図から知れるのは;
    1層面幅 6.168+8.839+6.168=21.175曲尺、約18高麗尺相当
     2層面幅 5.362+7.970+5.362=18.693曲尺、約15.75高麗尺相当
     3層面幅 4.429+7.104+4.429=15.963曲尺、約13.5高麗尺相当
     4層面幅 3.540+6.219+3.540=13.298曲尺、約11.25高麗尺相当
     5層面幅 5.327+5.327=10.654曲尺、約9高麗尺相当
 金堂の例に依り、材高を0.75高麗尺=Nとすると、則ち;
    1層面幅 7+10+7=24N
     2層面幅 6+9+6=21N
     3層面幅 5+8+5=18N
     4層面幅 4+7+4=15N
     5層面幅 6+6=12N
 5層中、層毎に下層より面幅が3Nずつ減り、則ち面毎に1Nの減少で、層の面幅を逓減変化を形成し、上下層の柱は対位しない。
 高さについては、塔の総高さは107.44曲尺、換算して90.59高麗尺で、120.78Nに相当する。塔身の高さ(1層地面から5層塔頂の博脊まで)は75.475曲尺、換算して63.6高麗尺で、84.9Nに相当する。
 塔1層の柱高は10.612曲尺で、8.948高麗尺相当、9高麗尺に近く、12Nに相当。1層の柱高をH1とすると則ち;
     塔身の高さ 84.9N/12N/H1=7.08H1
     塔の総高さ 120.78N/12N/H1=10.07H1
 千余年来の変形を考慮すれば、塔の総高さは1層柱高の10倍で塔身高さは1層柱高の7倍とすることができる。(※注)
 この様に、我々は法隆寺五重塔の木構造設計上の共通点を見出すことが出来、それは全て材高を設計の基本モジュールとし、高さについては又1層柱高を拡大モジュールとして、この1層柱高も材高をモジュールとしているとすることが出来る。
   (※注、5層の屋根は、後世の改造で野屋根が追加され、その分高くなっていると言われており、その情報が伝わっていないようだ。それが、8寸曲尺前後かもしれない)

二、法起寺
 寺中で、只三重塔だけが飛鳥時代遺構で、天武十三年(685年)建て始め、慶雲二年(706年、中国唐中宗の神龍二年)完成。塔は平面が方形、3重、これも全木構造建築で、1,2層は面毎に3間、3層は面毎に2間、上下に貫通する木刹柱があり、二品に現存する最古の三重塔である(図十、十一)。(図十は外観写真なので略す)。
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 この塔は、1972~1975年に解体修理され、その実測図とデータが《国宝法起寺三重塔修理工事報告書》中にある。その測量データはcmで測られ、1曲尺=0.30303m及び1高麗尺=1.186曲尺の率で、1高麗尺=0.359mに換算できる。
 各層の塔平面寸法の換算は以下の通り;
     1層 1.88+2.655+1.88=6.415m、
       即5.23+7.39+5.23=17.85高麗尺≅18高麗尺
     2層 1.334+2.121+1.334=4.789m、
       即3.71+5.9+3.71=13.32高麗尺≅13.5高麗尺
     3層 1.612+1.612=3.224m、
       即4.49+4.49=8.98高麗尺≅9高麗尺
 換算が上述の3個の近似の高麗尺を数えた後、それらは法隆寺五重塔の第1、3,5層の面幅寸法と同じであるのが表れる。日本の学者の認識は、それも0.75高麗尺をモジュールとしたものという。0.75高麗尺をNとすると、即;
     1層 7+10+7=24N
     2層 5+8+5=18N
     3層 6+6=12N。 上層は下層面幅より6N減少する。
 実測図の分析を進めると、一連の特徴が表れる。

各層の塔高は、上下層の柱脚間の距離の合計となる、即
     1層層高 3.416+2.195+1.720=6.331m、
     1層面幅6.415mとの差はたった0.084mで、等しいと看て良く、合わせて24Nである。
同様に、
     2層層高 1.835+2.190+0.710=4.735m、
     2層面幅 4.789mとの差は、たった0.054mで、等しいと看て良く、合わせて18Nである。
これは即ち、1,2層の塔身面幅及び高さは同じで、断面図上、方形を呈し、一個の内接円を描くことが出来る。

実測図上のデータに拠れば、1層塔身の内槽の四柱(=四天柱)の高さは平均値で3.408m、そして塔身の総高さ(1層地面から3層塔頂博脊)は16.934m。法隆寺塔1層柱高が、塔身高さのモジュールになる例で推算すると、この塔の塔身高さは、1層柱高の4.969倍、千余年の変化と歴代の修理を考慮すると、柱高の5倍であると出来る。

塔の用いる所の材は、
 1層の内柱上の通肘木(泥道栱)の平均値を計ると、
    その高さ25.8cm {(26.1+25.5+25.9+25.7)/4=25.8cm}。
    高麗尺に換算後、0.719尺X0.596尺⇒0.72尺X0.60尺。
 真正な材高0.72高麗尺で、平面と断面の諸寸法を割ると整数倍にならないが、0.75高麗尺で割ると皆整数になる。これはこの塔が実際は塔自身の材高を以ってではなく、0.75高麗尺を以ってモジュールとして木構造の設計をしたことを表している。この現象は、法起寺三重塔の設計時、已に材高を以ってモジュールとする設計方法に尽く從うとは限らず、法隆寺金堂や塔のデータをそのまま当て嵌めて造り、モジュールと材が無関係になる現象が出現した事を示している。これは飛鳥式設計方法が已に衰退、変異し始めていることの標示しているのかも知れない。



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# by songofta | 2017-04-28 15:55 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

220 飛鳥建築と”以材為祖” 1

日本飛鳥奈良時期建築中反映出的中国南北朝隋唐建築特点

               傳熹年 著(文物1992年10月所載)

 最近でも、まだ飛鳥建築は高麗尺の説を見かけるが、法隆寺の九州からの移設説など、本筋から外れたような論が目につくなど、こじつけ論も流行るのか、まるで邪馬台国論争のようだ。しかしながら、古建築についてなら、中国の研究成果を抜きにしたのでは、みのりはないのではないか。中国の研究成果は、中国古建築史(全5巻)が、中国の最新のものと思われるが、第2巻に>傳熹年氏の研究を基にしたような分析が載っている。日本の古建築を語るのに、これら中国の研究成果を踏まえるのは必須と思うが、どこにも翻訳が見当たらない。甚だしきは、北宋の「営造方式」の”以材為祖”は法隆寺より500年後のもので、法隆寺に適用できる筈が無いと言われたと言う。批判者は、営造法式を読まれているのだろうか? 
 傳熹年氏の「日本飛鳥奈良時期建築中反映出的中国南北朝隋唐建築特点」は、1992年10月版の「文物」に発表されたもので、25年前のこの遠慮満載の、だが鋭い指摘はその後日本で余り真面目に取り上げられていないように見えるので、先ずはここから拙訳を始めたい。

「日本の飛鳥奈良時代の建築に反映された中国南北朝と隋唐の建築の特徴」

  1990年10月、奈良中国文化村の工程設計のため、筆者は奈良を訪問した。奈良日日新聞社と華芸顧問工程公司の好意を承り、集りの後、奈良、京都、滋賀、兵庫等日本古建築30余ヶ所を参観することができた。
  日本は昔から古代文化や文物に加えて保護の伝統を重視し、大量の古代の珍しい建築遺物を完全な整った保存をして今日に至っていて、日本及び全世界の珍しい文化を遺産としていて、現存の大量の日本の古代、近代建築物中、既に国宝と成ったもの207件、計249棟;重要文化財が1982件、計3196棟となる。国宝207件中、我が国隋唐時期(日本の飛鳥、奈良時代)に相当するものは、計25件26棟となる。この旅行で栄山寺八角堂を除いて、幸いにも全てを見ることができた。
  これら珍しい古建築を参観しての、第一印象は保存が極めて良好なことである。これ等国宝級の建築は、全て数度の修理を経て、多くの解体修理までも経ているが、全て厳格に”整旧如旧(昔のやり方で昔通りに)”の原則を遵守し、外観上基本的に行った補修の痕跡が見付けられず、その歴てきた千年の古貌を保持することに意を用いている。日本は現代的国家であるが、これ等の国宝級建築の周囲も、出来る限りある種の局部的に世に隔絶した環境を創り出していて、観る者に千年前の時代の雰囲気を暫し味わう機会を提供している。古建築保護と保護区の範囲を管理する方面については、日本は我々が学ぶ価値のある多くのものがある。
  これ等の古建築が人に与える第2の印象は、遺物が多くあり、時代が継っていることである。現存の飛鳥時代の遺物中、前後40年間(約672-706年)に6座の遺構がある。我が国の唐前半に相当する奈良時代の約70年間(710-788年)に、19座の遺構が保存されている。これ等の遺構を通して、この段階での日本建築の発展変遷の脈絡がはっきりと見て取れる。これ等の豊富な建築遺産は、日本の建築史家が入念に補修保護や大量の研究と広範な宣伝を進めてきた。およそ修繕を行うと、必ず修理工事報告書を作成し、その中に測量データや実測図、竣工図、修繕の詳細過程が入っている。精密測量の基礎の上に、日本の学者は、大量の研究論文と専門書を発表し、分野別に系統を掘り下げた研究を進めてきた。日本古代建築を成就させる為に、国内外の人士を共に賞し、さらには普及本から豪華本に至るまで異なるレベルの図録を出版している。これに対して、我々は日本の同業者にがこのような多くの古代遺物が研究に供されるのは羨ましくもあり、彼等の厳粛で真面目な研究姿勢と豊富な成果に対して敬服もする。
 但、中国の建築史研究者として、賞賛するに余り有るが、私は別の一面を考慮している。日本は古来中国と密接な交流があった。日本で曾て出土した漢委奴国金印は、遠く漢代に両国に連係があったことを証明している。南北朝時、日本は多くを朝鮮半島を仲介して、中国文化を輸入した。日本の学者の研究に依れば、日本の飛鳥式建築は百済を経由して伝入した中国南朝文化と仏教の影響の下に誕生した。隋煬帝の大業三年(607年)、日本は小野妹子を隋に派遣し、翌年隋は裴世清が答礼のため訪問した。唐朝建立後、関係は更に密接になる。太宗の貞観四年(630年)日本は第一次遣唐使を派遣し始めて、894年までに前後18次の遣唐使が派出され、大体唐王朝の始めから終わりまで往来した。中国の唐代文化と仏教は、この期間絶え間なく日本に伝頼した。日本の正倉院に所蔵する奈良時期の書跡と日本で作った器物はおよそ唐人の書法及び唐代の工芸品と異ならず、唐文化が日本に重要な影響を及ぼしたことを物語っている。仏教が唐より伝来し朝野の尊信を売るに従って、日本は大量の仏寺を建造し、唐風の建築は仏寺に従って大量に出現し、日本建築は飛鳥時代に比べ大きな変化をする。
 日本は唐代風格の建築を伝入した後ではあるが、自己の伝統文化と審美趣味を融合させ、絶え間なく創新し、段々と自己の発展の道を歩むが、ゆっくりした200年中、唐代建築も発展変化し、一度又一度と仏教が日本の唐代建築に新風を伝入するに従って、必然的にこの時期の日本建築中にも異なる段階層や異なるレベルの堆積と表現を形成した。
 我が国唐代建築は、今までに只4座の発見が有るだけで、数量は日本の25座とは比べられない。4座中、最早は山西省五台山の南禅寺大殿で、唐徳宗の建中三年(732年)、大体日本の奈良時代後期に相当し、25座中最晩期の数座がほぼ同時期となる。実物、特にかなり早いじきの実物が無く、我々の南北朝と唐前期建築の研究に大きな困難を造り出している。但、もし我々が日本の現存する飛鳥、奈良時代の遺構を分析探求するならば、その中に含まれている中国南北朝から唐代建築の特徴と規則を発掘して、中国国内の遺存実物が少ない欠落を補い、我々に対し、その時代の建築発展レベルの認識を充実させ、実際に莫大な助けをもたらすのである。
 以下は、日本飛鳥時代遺構(約672-706年の間)と奈良時代(約710-788年の間)を検討し、何が中国南北朝から唐代の建築の特徴に属すると出来るかを分析し試したものである。

飛鳥時代(約592-710年)
 6世紀後半、仏教が日本に伝入するに従って、中国形式の仏寺と造寺工匠も相次いで伝入した。592年、日本で初めて最早の仏寺法興寺、又の名を飛鳥寺が建てられた。中国南北朝風格の建築伝入は、日本建築に巨大な転変が起こした。日本史では、この時期を飛鳥時代と呼ぶ。
  現存の日本が持つ飛鳥時代風格の建築遺物は、奈良法隆寺西院と法起寺塔である。更に近代に毀去したが実測図が残る、大阪四天王寺と奈良法輪寺塔が研究の参考に利用出来る。
  これ等の建築は、統一した風格と共通の手法を持ち、例えば柱身が杼形で、柱頭の大斗の下に皿板があり、出跳の肘木が雲形肘木で、第1層の壁の通肘木上の斗を雲形に作り、通肘木上に積み重ねた柱頭の桁が井干(校倉)の様であったり、平座の中備えに叉手を用いる等等。これ等の特徴は、中国唐代の建築や唐代建築の影響を最も受けた奈良時代の建築に比べても更に古く、故に日本の学会は、飛鳥式建築は中国南北朝時代後期の建築特徴であると公認している。
  飛鳥時期の建築遺物は、日本の建築史家が精密な測量を行い、繰り返しして研究してきて、その特徴と以後の日本建築発展への影響をたくさん論述してきた。但、私は更にその内容に関して、中国南北朝後期の建築の特徴を反映させてみる。以下は、日本の既に公開された実測資料を利用して、試しに考えたものである。

一、法隆寺
  法隆寺は、607年聖徳太子の創建で、670年に毀れ、680年以後原位置の西北に再建され、710年頃完成、これが現在の法隆寺西院建築群で、金堂、五重塔、中門と回廊の4部分を包括する。再建と言っても、日本の学術界が胡人するようにその風格は飛鳥時代に属する。

1.金堂
 即ち仏殿である。西院の庭院中、東寄りにあり、西面が五重塔と並列になる。金堂は全木構造で、2層。下層は面幅5間、奥行き4間、内外槽に分かれ、外槽は回廊となり、内槽は仏像に供される。上層は面幅4間、奥行き3間で、下層とは別に1間を減じて、地下の柱は対応していない。上層は楼板が無く、登ることは出来ない(図一、二)。(注;図一は金堂外観写真なので略)
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  金堂の底層の寸法は、日本の曲尺で計り(1曲尺=0.30303m);
    1層面幅 7.12+10.68+10.68+10.68+7.12=46.26曲尺
    1層奥行 7.12+10.68+10.68+7.12=35.60曲尺
  上述の実測数値がすべて端数であり、金堂設計時この曲尺を単位としてはいない。日本の学者の繰り返しした研究で、現在公認しているのは、法隆寺金堂は当時日本で通用していた高麗尺を単位としてもちいて設計したとされる。1高麗尺=1.186曲尺=0.359m。これで計算すると;
    1層面幅 6+9+9+9+6=39高麗尺
    1層奥行 6+9+9+6=30高麗尺
  この寸法は整数で、金堂は確かに高麗尺を単位に設計したと証明出来る。但し、高麗尺換算は2層寸法時。又問題が発生し、全て端数寸法が表れる。
    面幅 5.25+8.60+8.60+5.25=27.7高麗尺
    奥行 5.25+8.26+5.25=18.76高麗尺
 上下層の寸法を結合して、日本の学者が繰り返し推算し、金堂の1,2層平面寸法はすべて0.75高麗尺の倍数である事を発見した。N=0.75高麗尺と置くと、則ち;
    1層面幅 8+12+12+12+8=52N
    1層奥行 8+12+12+8=10N
    2層面幅 7+11.5+11.5+11.5+7=37N
    2層奥行 7+11.5+11.5+7=25N
 N値を用いて金堂のその他の寸法を換算すると、更に発現出来、
    1層柱高=12.35曲尺 =10.41高麗尺 =13.88N ≅14N
    1層斗栱跳出=6.155曲尺 =5.19高麗尺 =6.92N ≅7N
    2層柱高=6.30曲尺 =5.31高麗尺 =7.08N ≅7N
この様に、金堂設計時駒尺を単位としてその0.75尺を以ってモジュールとした証拠とできる。
 以上が日本の学者が金堂の設計尺度とモジュールの分析結果である。
 但し、この0.75高麗尺のモジュールはどのようにして確定したのだろうか?我々も一歩探求する必要がある。
 法隆寺の属する飛鳥式は最も早く日本に伝入した中国建築様式で、中国南北朝の特性に属し、これより前の日本古墳時代の建築とは全く異なり、完全に別の体系である。常識的に推測すれば、日本に伝入した当初、日本で自ら発展させ創造した部分は恐らく少なくて、主要に中国の特性を反映しており、モジュール制のような類の、この体系の基本的な設計方法に関係のある方面では、特にそうで有ったはずである。中国の現存する唐代建築の遺物の研究に拠れば、我々が了解するのは、唐代に既にかなり詳細な“以材為祖”のモジュール制設計方法が出現していたことである。そして甘粛省天水の麦積山石窟や山西省太原の天龍山石窟、河北邯鄲の響堂山石窟中に彫られた北朝建築の形象を看ると、それらの斗栱や桁は非常に規格化され、唐代までの成熟は無いけれども、既に“以材為祖”の特徴は明確に表現されており、これにより、我々は先ず材を用いた方法で探索を試してみよう。
 日本で発表された《国宝法隆寺金堂修理工事報告書》中、大量の測量データが公布されている。その中に金堂下層の通肘木の断面(泥道栱を指す、雲形肘木ではない)は、最大で0.71X0.89曲尺、換算して0.599X0.750高麗尺は、木材の千余年来の変形を考慮すると、0.6X0.75高麗尺のことで、その断面の成と幅の比は5:4になる。この0.75高麗尺が則ち中国建築中の“材高”で、これこそ法隆寺金堂が実際上材高をもって、モジュールとして設計を進めたからなのである。

参考;
《ものさし》 小泉 袈裟勝著 法政大学出版局 1977
《まぼろしの古代尺》 新井 宏著 吉川弘文館 1993
《法隆寺の物差しは中国南朝尺の「材と分」》川端俊一郎 計量史研究27-1 2005

  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”

  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服


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# by songofta | 2017-04-28 15:54 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

目次6 5-8世紀漢地佛像着衣法式

目次6 5-8世紀佛像の衣服


【5-8世紀漢地佛像着衣法式】 陳悦新著

著者は、1964年寧夏自治区銀山市生まれ。北京大学考古学系、歴史学博士。寧夏博物館、寧夏文物局、北京履行大学を経て、現在北京総合大学応用文理学院在職。

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 5-8世紀も北魏・南梁から唐にかけての時代、佛衣は中国化して日本に伝来した。飛鳥から奈良時代の佛像がどのルートで日本に伝来したのかを知る手懸りとして、中国の様式を具体的に知る事のできる資料と思うが、翻訳されそうにも無いので、拙訳を試みた。参考になれば幸いである。

第一章 佛と僧の着衣法式
 第一節 文献記載の佛衣と僧衣
   184 印度の佛衣と僧衣(1)
   185 印度の佛衣と僧衣(2)
   186 中国の佛衣と僧衣(3)
 第二節 遺跡に反映した佛衣と僧衣
   187 遺跡に反映した佛衣と僧衣(1)
   188 遺跡に反映した佛衣と僧衣(2)
第二章 南方地区の佛像着衣
   189 栖霞山石窟の南朝佛衣類型
   190 栖霞山石窟南朝佛衣の源流
   191 成都地区南朝佛衣類型
   192 成都地区南朝佛衣の時代区分
   193 普陀山背光式造像の着衣
第三章 山東地区の仏像着衣 
   194 青州地区北朝佛衣類型
   195 青州地区北朝佛衣の源流
   196 山東地区の隋唐佛衣
第四章 中原地区の佛衣と僧衣
   197 雲崗石窟の北魏佛衣
   198 雲崗石窟の匂聯紋(1)
   199 雲崗石窟の匂聯紋(2)
   200 龍門石窟の北魏佛衣
   201 巩県石窟の北魏佛衣
   202 天龍山石窟の東魏佛衣
   203 響堂山石窟の北朝佛衣
   204 雲崗3窟の着衣
第五章 西部地区の佛衣と僧衣
   205 麦積山北朝窟龕(1)
   206 麦積山北朝窟龕(2)
   207 麦積山北朝窟龕(3)
   208 麦積山北朝窟龕(4)
   209 金塔寺石窟佛像着衣
   210 莫高窟北朝佛像の着衣(1)
   211 莫高窟北朝佛像の着衣(2)
   212 須弥山石窟の北朝~唐代の佛衣
   213 隴東地区の北魏晩期着衣
   214 炳霊寺石窟の北魏晩期着衣
   215 西安地区立佛の佛衣
第六章 漢地佛衣の源流考
   216 南北朝早期佛衣の源流
   217 北朝から唐代の佛衣変遷(1)
   218 北朝から唐代の佛衣変遷(2)
   219 漢地佛衣の時空序列
                 【完】



     ⇒ 総目次 
     ⇒ 目次1 日本じゃ無名? の巻
     ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻

     ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
     ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
     ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
     ⇒ 目次7  中国の古建築技法”以材為祖”


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# by songofta | 2017-04-25 19:53 | 旅と地域 | Trackback | Comments(0)

総目次

総目次

中国を歩いてみると、日本には随分沢山のものが中国からやってきたのだと実感します。更に注意して歩くと、中国ではありふれているのに、レンガ造のように、日本には無いものもある。書などはストレートに受け入れ、建築はかなり独自の発達をしている。同じようなことが、北方騎馬民族の漢族文化の受容にも、垣間見えるのです。   
 北方騎馬民族とは、鮮卑族(北魏・隋・唐)、突厥族(五代)、契丹族(遼)、女真族(金・清)、蒙古族(元)など、日本の歴史教科書では、単語が出てくるのみで実態がありませんが、中華文明との関わりを振り払ってみれば、日本と随分近い集団に見えてきます。
 かつての日本人が、何を受容し、何を受容しなかったのか、中国をみると「日本とは」が、もっと良く見えてきます。共産党政府は鬱陶しいですが、国民は基本的には善人です。マスコミ報道にめげずに、一度出かけてみては、、、 

第一部 日本じゃ無名?の巻 ⇒ 目次1
 日本では、余り聞かないとか、教科書では言葉だけ登場と行った所は沢山あります。中国で検索すると面白そうなので、行ってみた所の紹介です。
 中国の古塔探しから、古建築探し、仏像探しと広がっていったので、かなりの偏りと独断がありますが、どれも一級の文物と思います。


第二部 中国に有って、日本に無いもの          ~ 知っていたら教えての巻 ⇒ 目次2
第三部 日本に有って、中国に無いもの          ~ 渡来品ってホントの巻  ⇒ 目次2


あれこれ見てきた結果、中国では有りふれているのに、日本では見かけないものがある。素材や技術、嗜好から、日本人が採用しなかった物のまとめ。
 中国や古代朝鮮から伝わったと教科書で教わったけれども、本当にそうなの???という疑問が消せない品々。もともと日本に有ったのでなければ、何故、中国で見当たらないのだろうか?三角縁神獣鏡ではないけれども、中国になければ、日本で創ったというのが合理的でしょのいくつか。

番外編  その他 行ってみればの巻 ⇒ 目次3

 全国的には有名でなくても、上海近辺で結構楽しめる所、少しマニアックな所の紹介、、のつもりが、余談も含めて、あちこちの博物館もついでに紹介してしまうことに。
 多分ツアーでは行けないのではないかとか、仏教遺跡でこれは是非というところも含めて、洗いざらい。

義縣奉国寺(抜粋)1 中国の修理工事報告書 ⇒ 目次4
 「義縣奉国寺(上)(下)」は、遼寧省文物保護中心が発行した報告書で、詳細な図面と写真と経過が記述され、日本で言えば、県教育委員会などが発行する修理工事報告書に当たる。
 大雄殿そのものや脇侍菩薩についても詳しく解説してあり、日本で詳しく紹介されることも無いので、僭越ではあるが、翻訳して紹介したい。 
 読んで行くと、中国の文献では、唐宋遼金元代の建築については、《営造法式》を基準に論を進める事がお約束のようになっており、我が国建築への中国の影響についても、もっと研究の必要があるのではないだろうか。

日本と中国 あれこれ思うこと   ⇒ 目次5
 中国からたくさんの文化が輸入されたが、全部を吸収出来なかったのか、はたまた、旧来の方法で済むと考えたのか。細部をみると、異なる所も沢山あるのは、なぜなのか。戦前の学者の論は、現地現物からくる実証的でなるほどと思う所が多い。それやこれやを、徒然なるままに......。

5-8世紀漢地佛像着衣法式(翻訳)  ⇒ 目次6
 5-8世紀も北魏・南梁から唐にかけての時代、佛衣は中国化して日本に伝来した。飛鳥から奈良時代の佛像がどのルートで日本に伝来したのかを知る手懸りとして、中国の様式を具体的に知る事のできる資料と思うが、翻訳されそうにも無いので、拙訳を試みた。参考になれば幸いだが...

中国の古建築技法”以材為祖”(翻訳)  ⇒ 目次7
 飛鳥奈良の古建築の設計をたどるには、ものさしも大事だが、設計技法も踏まえる必要があるのではないか。中国南北朝の設計技法を、「中国古建築史」から抜粋して、紹介したいが、先ず、傳熹年 《日本飛鳥奈良時期建築中反映出的中国南北朝隋唐建築特点》を先に、翻訳紹介する。”材”とは、モジュールの単位であるが、日本の古建築を理解するのにも重要と思う。 






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# by songofta | 2017-04-25 19:46 | 旅と地域 | Trackback | Comments(0)

219 漢地佛衣の時空序列

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第三節 漢地佛衣類型の時空序列
 印度と漢地の佛衣は、三衣の層の分け方で上衣外覆類と中衣外露類の2系統に分かれる。上衣外覆類は、上衣の覆う形式で、通肩式、袒右式、覆肩袒右式、搭肘式と露胸通肩式の5種に分かれる。」;中衣外露類は又、上衣tp中衣の覆う形式で上衣搭肘式上衣重層式と中衣搭肘式の3種に別れる。

1.通肩式佛衣
 上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角が頚の下を巻いて左肩に掛かる。源は印度で、2世紀にガンダーラの影響を受けたマトーラの佛衣である。漢地の最早は、四川が中心である後漢~蜀漢の墓葬中の佛衣である;やや遅れて東呉~西晋期の長江下流地区の堆塑缶(※注1)の佛衣;後趙建武二年(336)金銅像の佛衣;北涼石塔上の佛衣;斉梁期の建康栖霞山石窟26窟佛衣;唐代の両京地区の流行、耀県薬王山12龕及び龍門二蓮花洞南洞の佛衣(図6-3-1)。
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   (※注1)堆塑缶;西晋期に流行した墓葬品で、頂部に人や鳥獣、楼閣などを造る。
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             ( 堆塑缶 百度百科より )

2.袒右式佛衣
 上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角が右脇下を巻いて左肩に掛かる。印度を源にし、2世紀初のマトーラ辺に起源を持つ佛衣。漢地で見るのは酒泉の北涼承陽二年(426)馬徳恵塔佛衣;唐代の両京地区の西安宝慶寺石彫像や龍門高平郡王窟の佛衣(図6-3-2)。
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3.覆肩袒右式佛衣
 上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角が右脇下を巻いて左肩に掛かる。右衣の角は右脇下方を巻いて左肩に掛かり、右胸と右臂を露出する。例えば、北涼の縁禾四年(435)索阿后塔佛衣;北魏雲崗曇曜五窟中の20窟佛衣(図6-2-3)。
4.搭肘式佛衣
 上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角が右臂下方を巻いて左肘に掛かる。例えば、紀年が最早の炳霊寺169窟西晋建康元年(420)第6号塑像の佛衣及び酒泉北涼縁禾三年(434)白双且塔の佛衣(図6-3-4)。
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5.露胸通肩式佛衣
 上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角が左肩に掛かる;頚下の衣の縁が”U”字に垂れて胸部に至る。栖霞山石窟第22窟佛衣等(図6-3-5)。
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6.上衣搭肘式佛衣
 上衣が背中より両肩を覆い、右衣の角が右脇下を巻くか胸腹の前より横に通り左肘に掛かる;中衣露胸通肩或は上衣が覆う形式と相似である。例えば、栖霞山石窟24窟佛衣;四川茂汶永明元年造像碑;成都西安路出土の永明八年(490)石造像;北魏の洛陽遷都(494)前後に流行の雲崗6窟佛衣(図6-3-6)。
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7.上衣重層式佛衣
 上衣搭肘式の外面に更に1重の上衣を増やしたもの。例えば、北魏の洛陽龍門石窟の賓陽中洞と巩県1窟の佛衣(図6-3-7)。
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8.中衣搭肘式佛衣
 中衣が背中より両肩を覆い、右衣の角は垂れて右肘に掛かる;上衣は背中より両肩或は左肩を僅かに覆い、右衣の角は左肘或は左肩に掛かる。栖霞山18窟正壁右側佛衣に初めて見える;北魏520年前後制作の永寧寺彩色塑像にこの種の佛衣がある;その盛行は東魏北斉の邺城で、例えば、北響堂北洞佛衣、南響堂1窟佛衣;唐代流行は両京地区で、彬県大佛寺大佛洞の佛衣、龍門賓陽南洞の佛衣(図6-3-8)。
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 ここで、上述の漢地の2類の佛衣類型をまとめたものが、表6-3-1で、唐開元以前の漢地佛衣変遷の時間序列と空間序列を簡便に見られる様にした。
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 表6-3-1は、唐開元以前の漢地佛衣の変遷を反映して、3つの段階がある。
第一段階: およそ3世紀、漢地に佛衣が出現する。四川が中心で、後漢~蜀漢の墓葬中の通肩式佛衣で、主要には印度ガンジス河流域のマトーラ佛衣の影響を受けている。
第二段階: およそ3~5世紀末葉、漢地の佛衣は南北に分かれる。南方は、だいたい東呉~西晋時期に始まり、長江下流地区の堆塑缶上の通肩式佛衣で、晋と宋の間、戴逵と戴顒父子が仏像を善く造り、その時、漢地風格の仏像が已に有ったこと傍証がある。北方は、だいたい十六国時期に始まり、通肩式佛衣を除き、袒右式や覆肩袒右式と搭肘式佛衣が涼州地区で初めて見られる。この段階の漢地南北の佛衣変化は、文化要素を除き、佛衣の裾端が座を覆う情況で、漢地の:機構が寒冷であることと関係があるかも知れない。
第三段階: 約5世紀末葉から8世紀初葉、2つの時期に分けられる。5世紀末から6世紀まで、漢地佛衣の発展は、亦南北に分かれる。南朝小生の通肩式と露胸通肩式佛衣は、北朝後期の北響堂や麦積山、須弥山等の石窟で流行する。北朝の北魏洛陽遷都(494)から北斉(550-577)流行の上衣搭肘式、上衣重層式と中衣搭肘式佛衣は、南朝の影響を受けたかも知れない。その内、中衣搭肘式佛衣は、その上衣の覆う形式の最終の様式が右衣の角は左肩に掛かるものとなり、印度の肩に掛かる伝統を保持し、この種の様式が確定され、これは東魏北斉の昭玄大統法の僧服改制と関係があるかも知れない。
 7世紀に至りまで、頻繁に変化下佛衣類型は、だいたい中衣搭肘式佛衣と通肩式、袒右式を両京地区が選択踏襲することで、全国に影響していった。
                                   ( 完 )


  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
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# by songofta | 2017-03-20 22:41 | 旅と地域 | Trackback | Comments(0)

218 北朝から唐代の佛衣変遷(2)

5-8世紀漢地佛像着衣法式


二 雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の北朝佛衣の源流探求
(一) 雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の北朝佛衣の来源
1.通肩式佛衣
通肩式佛衣は印度を源とする。雲崗一期の通肩式佛衣の上には衣に襞状の突起と、相互に噛み合う匂聯紋がある(図6-2-1:1)、これは印度や中央アジアの佛像にはめったに見られない。この種の匂聯紋は、現在最早の紀年が持つのは太平真君四年(443)高陽(今の河南省博野県)の菀申造像である(図6-2-9:1)。これは雲崗一期の通肩式佛衣が直接のシルクロード東伝を除き、或は今の河北地区の影響も有ることを表明しているのかも知れない。
 響堂山石窟の東魏北斉に出現する通肩式佛衣(図6-2-1:2,3)は、南朝建康に源、例えば栖霞山石窟千佛岩区26窟の佛衣(図6-2-9:2)にあるかも知れない。栖霞山梁中大通二年(530)の28窟佛衣の裾端は座を覆わず、平らに座に敷く特徴があり、亦東魏北斉の通肩式佛衣の裾端として採用される形式となる。
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2.覆肩袒右式佛衣
 雲崗一期の覆肩袒右式佛衣の上には、匂聯紋様を装飾し(図6-2-2:1)、佛衣のこの種の覆う形式と衣紋様式は一体に集まり、凡そこれこそが涼州と河北地区の佛衣の特徴の結合した産物である。覆肩袒右式佛衣の最早は、西晋と北涼地区に見られ、例えば炳霊寺の西晋約420年の169窟9号塑像及び北涼縁禾四年(435)索阿后塔塑像(図6-2-10:1,2)の佛衣がある。匂聯紋の最早は上述の菀申造像である。北魏が、平城に都を建て始めた年から、民衆を移住させて平城とその周辺に集中し、移住させられた地点は、太行山脈東の六州や関中の長安、河西の涼州、東北と隴州及び東方の青州等で、又それは当時北中国の経済文化野発達した地区でもあった。雲崗一期石窟の開鑿は、東西各方面の技術を融合したものであり、新しい石窟のモデルを創出したと言って良い。第一期石窟を主導した高僧曇曜は、同時にまた涼州と河北地区での活動経歴がある。これにより、覆肩袒右式佛衣上の匂聯紋装飾の雲崗での出現は、一定の合理性がある。
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3.上衣搭肘式佛衣
 雲崗二期太和改制以後流行の上衣搭肘式佛衣(図6-2-3:1,2)は、現在ある材料ではまだその来源を確実にしることは出来ない。四川茂県汶南の斉永明元年(483)造像碑の正面と裏面には一坐一律物があり、皆上衣搭肘式佛衣を覆っている(図6-2-11:1,2)、それと雲崗のこの類の佛衣は同一の一来源の影響を受けたものである。浙江省普陀山法雨寺に原存した一佛に菩薩背光式三尊玉像は、佛衣が上衣搭肘式 (図6-2-11:3)で、背光の形制や題材、造像の特徴、紋飾等から総合的に考慮して、その次代は大体斉梁の境と判断される。普陀山は建康のあった揚州の範囲内で、以上の情況を基にすると、或は雲崗と茂汶の上衣搭肘式佛衣は建康と関係があるかも知れない。
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 南朝の佛衣類型は、更に前・後秦時期の長安地区まで遡ることが出来、その時の長安は佛教の中心で、佛法は南北に遍く影響を及ぼした。前・後秦時期の高僧道安は長安に7年(379-385)安住し、鳩摩羅什は長安に13年(401-413)在住し、彼等は極力訳経を奨励したことで、長安は佛理を学ぶ沙門が群れをなして集まり、佛法が興盛した。北魏文成帝の文明皇后馮氏の本籍は長楽郡信都で、父の馮朗は北燕の滅亡前に北魏に入り、秦雍二州の刺史で、馮氏と其の兄馮煕を長安で生んだ。馮氏は佛教を尊奉し、“文宣王廟を長安に建て、又思燕佛図を龍城に建てる”。“太和三年(479)、道人・・・・謀反、事が発覚・・・・偽咸陽王が道人を尽く殺そうとしたが、太后馮氏は許さず”。馮煕は又“佛法を信じ、家財を寄進し、諸州に佛図精舎を建てる”。
 弘治十五年(413)、鳩摩羅什が長安で亡くなり、その四年後、劉裕が入関(注、中原に進出)し(417)、翌年(418)赫連勃勃が長安を陥落させた。この前後に、西秦と後魏の争いがあり、関内は兵禍が頻繁で、名僧は四散し、江南淮南に南遊し、学術は転出して、段々と建康の佛学発展の基礎となっていった。このような歴史野背景を根拠とすると、長安は建康の源頭となるかも知れない。

4.上衣重層式佛衣
 龍門、巩県石窟の胡太后期に流行した上衣重層式佛衣(図6-2-4:1,2)は、成都万佛寺の梁代造像の上衣重層式佛衣(図6-2-12)と相似で、成都佛像様式は長江下流の建康を真似たのかも知れず、この推論からは、龍門、巩県の上衣重層式佛衣形式は南朝と関係があるかも知れない。
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5.中衣搭肘式佛衣
 雲崗三期出現の中衣搭肘式佛衣は、栖霞山南朝佛衣の特徴で、例えば栖霞山18窟佛衣の中衣の右衣の角は右肘に掛かり上衣の上部は残ると言っても、右衣の角は右脇下を巻いて左肘に掛かる(図6-2-13:1)。
 響堂山石窟の東魏・北斉期に流行の中衣搭肘式佛衣(図6-2-5:1,2)は、その上衣の右衣の角は左肩に掛かる形式である。この種の、中衣が右肘に掛かり上衣が左肩に掛かる新式の佛衣出現の時期は、東魏・北斉より早いかも知れない。
 参考に、洛陽永寧寺出土の2つの彩色塑像左右側半身像(図6-2-13:2,3)は、北魏で已に新式の佛衣様式が出現したことを推測させる。彩色塑像(T1:2,3)右半身と言っても、上衣は右肩臂に沿って脇の下に至り、左側の右衣の角は左肘に掛かることも可能だし左肩に掛かることも可能である;彩色塑像(T1:2385)は左側半身と言っても、上衣の右衣の角は左肩に掛かり、佛衣類型の分析から、中衣は右肘に掛かって、上衣は左肩に掛かるかも知れず、栖霞山18窟の佛衣とは異なる。神亀二年(519)八月”霊太后永寧寺に御幸し、自ら9層の佛図(注、九重塔の意)に登る。(崔)光は諫言して述べるに・・・・・未だ像が完成していないとは言っても、已に神明の居る所になって居ります”、これで塑像の完成時期は519年の後と知ることが出来、正光元年(520)秋7月、胡太后は殺害された。故に永寧寺塔の塑像の時期は大体519年8月から520年7月の間となる。
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(二)  雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の北朝佛衣の西方からの影響
 平城、洛陽、邺城の相対的な地理上の位置は、甘寧地区(注;甘寧は甘粛省と寧夏自治区、西安の西北方)の西部に属する。北朝の甘寧地区に流行の佛衣類型は、主要に覆肩袒右式、上衣搭肘式と中衣搭肘式等の3種である。
 匂聯紋装飾の覆肩袒右式佛衣は、北魏麦積山78窟と莫高窟272窟等(図6-2-14)に見られる。上衣搭肘式佛衣は、麦積山の北魏・西魏時期の92,44窟等、須弥山北魏24窟等、莫高窟北周時期428窟等(図6-2-15)に見られる。中衣搭肘式佛衣は麦積山北周時期の62窟及び莫高窟隋代427窟等(図6-2-16)である。甘寧地区の上述の3種の佛衣類型は、雲崗や龍門、響堂山石窟にも直接か間接の影響を受けたかも知れない。
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三 龍門石窟の唐代佛衣の源流探求
 隋文帝期と唐初の諸帝期は、多くが長安に住み、重要な佛教構築物は主要に長安地区に集中する。長安地区野佛衣類型は主要に中衣搭肘式と通肩式の2種で、例えば隋仁寿二年(602)六月五日の前頃に完工した麟遊慈善寺1窟は、正壁の主尊が中衣搭肘式佛衣(図6-2-17:1);完工年代が高宗永徽四年(653)より晩くない麟遊慈善寺2窟右壁大龕で、龕内の大像は通肩式佛衣である(図6-2-17:2)。
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 龍門石窟の唐代中衣搭肘式と通肩式佛衣は、やや長安より晩く、例えば、貞観十年(636)より晩く顕慶五年(660)より早い頃の賓陽南洞正壁の5身大像は、主尊は中衣搭肘式佛衣(図6-2-8:1);天授元年(690)頃開鑿の高平郡王洞の佛像は通肩式佛衣(図6-2-6:1)で、それは長安地区の影響を受けていると見るべきである。
 龍門石窟に新出現の袒右式佛衣のうち、一種は、優填王造像(図6-2-7:1)で、佛衣は薄く体に貼り付き、素のままで紋様が無く、グプタ芸術の造像風格が相似で、青州で北斉時期流行の薄い質料の佛衣の延長かも知れないし、玄奘や王玄策等が印度から携えて帰った梵天に関係があるかも知れない。もう一種は瓔珞と臂釧の佛像(図6-2-7:2)で、亦都の長安と密接な関係があり、武則天長安三年(703)に完成した長安光宅寺七宝台の、残存石彫佛像に多くこの種の佛衣が見られる。

 唐代の両京地区に集まった中衣搭肘式、通肩式と袒右式の3種の佛衣はモデルと成って、広範に西部の甘寧地区と南方地区に影響した。
 甘寧地区の中衣搭肘式佛衣は、例えば須弥山石窟105窟と莫高窟283窟等(図6-2-18:1,2);南方地区の中衣搭肘式佛衣は、例えば四川広元石窟千佛崖806窟の釈迦多宝佛窟、千佛崖211号蘇頲窟と南京栖霞山千佛岩区1窟等(図6-2-18:3~5)。
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 甘寧地区の通肩式佛衣は、例えば須弥山石窟54窟と莫高窟44窟等(図6-2-19:1,2)。南方地区の通肩式佛衣は、四川広元石窟千佛崖806号釈迦多宝佛と栖霞山石窟千佛岩区3窟等(図6-2-19:3,4)。
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 袒右式佛衣は主要には南方地区に見られ、四川広元石窟535号蓮花洞窟の佛衣等(図6-2-20)。
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 雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の北朝と唐代の佛衣類型の変遷は、異なる地域から出来した佛衣が5-8世紀の本土化の劇烈な変革を反映し、唐代に至って基本的に融合発展の家庭を完成し、大体3種の様式が確定する。その内、中衣搭肘式佛衣は印度には無く、通肩式と袒右式佛衣は印度の伝統と相似と言えども、佛衣の裾端の形式及び衣紋等の内容は却っていんどの佛衣とは雲泥の差がある。


次回は、漢地佛衣の時空序列(最終回)




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# by songofta | 2017-03-20 12:12 | 旅と地域 | Trackback | Comments(0)

217 北朝から唐代の佛衣変遷(1)

5-8世紀漢地佛像着衣法式


第二節 北朝から唐代の佛衣変遷の脈絡
雲崗、龍門、巩県、響堂山等の4ヶ所の石窟は、北魏から唐代までの政治文化の中心区域内で、前後が結びついて発展の脈絡がはっきりし、当時の社会政治文化の変遷の背景と一致する。系統がこの4ヶ所の石窟の佛衣類型を明らかにし、分裂時期の南北と東西間の影響と影響を被った関係、及び唐代統一国家中央が地方の形勢に与えた影響の認識を一歩すすめる助けとなる。
 雲崗石窟は、山西省大同旧城の西15kmの十里河(武州川)北岸の山崖面に位置し、東西に連続して1km。洞窟の大部分の雕鑿は北魏中後期である。一般に三期に分ける。第一期(460-470)は、曇曜が取り仕切った5座窟で、石窟群の中部西側の第16~20窟である。第二期(471-494)窟室は、主として石窟群の中部東側に開鑿され、第7、8双窟、第9,10双窟、第1,2双窟、第11~13組窟と第5、6双窟と更に第3窟等がある。第三期(494-524)は多くが中小型の窟室で、主に第20窟以西の崖面に集中する;この外、沢山の第一・二期開鑿の窟室内や窟口両側と窟外崖面にもおおくの第三期補鑿の小窟龕がある。

 龍門石窟は、河南省洛陽師の南12kmの龍門山麓に位置し、前は伊水の河原で、その地の東北に後漢より北魏までの洛陽故城が20kmの距離に在る。洞窟の開鑿は北魏後期と唐の開元(713)以前が主である。北魏の洞窟は西山に集中し、主要な洞窟は23座で、3段階に分かれ、孝文・宣武帝期が第一段階(494-515)で、古陽洞、蓮花洞、賓陽中洞等がある。胡太后期が第二段階(516-528)で、魏字洞、普泰洞、皇甫公窟等がある。孝明帝以降北魏末期が第三段階(528-534)で、有路洞、汴州洞等である。唐窟は主要に35座で、8世紀以前の洞窟は多くが西山に分布し、賓陽南洞、潜渓寺、奉先寺、万佛洞等;8世紀以後の洞窟は多くが東山に分布し、擂鼓台三洞、高平郡王洞、二蓮花洞等である。

 巩県石窟は、河南省巩県の東北7.5kmの洛水北岸の大力山南麓に位置し、西に漢魏故城が44kmの距離にある。現存する北魏後期開鑿の洞窟は5座で、胡太后期に集中する。

 響堂山石窟は、東魏北斉の邺城(今の河南省臨漳県)の西訳30kmに在る鼓山に位置し、3ヶ所の石窟寺を包括する。南響堂は鼓山南麓、北響堂は西麓にある。水浴寺は鼓山の東斜面にあり、北響堂と山を隔てて相対し、俗称”小響堂”と言う。北響堂は主要に北洞、中洞、南洞の3ヶ大窟で、南響堂は主要な洞窟編号で7ヶ所、水浴寺は主要に西窟がある。3ヶ所の石窟は皆東魏・北斉期(534-576)に開鑿された。

一 雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の佛衣類型
1.北朝佛衣類型
 雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の北朝佛衣類型は、主要に通肩式、覆肩袒右式、上衣搭肘式、上衣重層式と中衣搭肘式の5種類型がある。
 通肩式: 上衣は背中より両肩を覆い、右衣の角は頚を巻いて左肩に掛かる。雲崗20窟、北響堂北洞、中洞の佛衣等(図6-2-1)。
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 覆肩袒右式: 上衣は背中より両肩を覆い、右衣の角が右脇下方を巻いて左肩に掛かり、右胸と右臂を露出する。雲崗20窟、龍門古陽洞太和二十二年(498)慧成龕佛衣等(図6-2-2)。
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 上衣搭肘式: 上衣は背中より両肩を覆い、右衣の角は胸腹前を巻いて左肘に向かう;中衣と上衣の覆う形式は相似で、胸前は長く垂れ中衣の帯で繋いで締める。雲崗太和十二年(489)11:14龕、6窟、龍門孝文宣武帝期の古陽洞正壁、胡太后期の龍門賓陽中洞佛衣等(図6-2-3)。
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 上衣重層式: 上衣搭肘式佛衣の外層に、更にもう1層の上衣を重ね、右腿部の外は花弁状の紋飾を呈する。重層上衣は或いは右肩を覆い、右衣の角が右脇下を巻いて左肘に掛かる;或いは両肩を覆い、右衣の角が右脇下を巻いて左肘に掛かる。龍門賓陽中洞、巩県1窟佛衣等(図6-2-4)。
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 中衣搭肘式: 中衣は背中より肩を覆い、右衣の角は直接垂れて右肘に掛かる;上衣は両肩を覆うか左型を覆い、右衣の角は右脇下を巻いて左肘か左肩に掛かる様式。雲崗第5窟外右側の補鑿編号5:11窟の佛衣、北響堂北洞、南響堂1窟佛衣等(図6-2-5)。
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2.唐代佛衣類型
 唐代佛衣類型は龍門石窟が主で、主要には通肩式、袒右式と中衣搭肘式の3種の類型である。
 通肩式: 北朝の覆う形式と相似だが、衣紋がかなり疎らである。龍門高平郡王洞、二蓮花洞佛衣等(図6-2-6:1,2)。
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 袒右式: 上衣は背中より左肩を覆い、右衣の角は右脇下を巻いて左肩に掛かる。龍門永徽六年(655)二尤填王洞、高平郡王洞佛衣等(図6-2-7:1,2)。
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 中衣搭肘式: 覆う形式は北朝と相似し、一般に上衣の右衣の角は右脇下より巻いて左肩に掛かる。龍門賓陽南洞、潜渓寺佛衣等(図6-2-8:1,2)。
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 これまでの洞窟の時期区分の成果を参照すると、雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の北朝と唐代の佛衣類型と時期の関係は、表6-2-1の様になる。
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 表6-2-1から見出だせるのは、雲崗、龍門、巩県、響堂山石窟の北朝と唐代の佛衣類型は5つの発展段階に分けられることである。
第一段階は、北魏和平初年(460)から太和改制(486-494)前。雲崗は通肩式と覆肩袒右式佛衣が主である。
第二段階は、北魏太和改制(486-494)後から宣武帝末(515)。雲崗、龍門は上衣搭肘式佛衣が流行し、覆肩袒右式佛衣は少量が延続する。
第三段階は、北魏胡太后時期(516-528)。龍門、巩県石窟は上衣重層式佛衣が流行、上衣搭肘式佛衣は依然として延続。
第四段階は、東魏北斉時期(534-576)。響堂山石窟に中衣搭肘式佛衣が流行中で、通肩式佛衣が再度出現。
第五段階は、唐代開元以前(618-713)。龍門石窟に中衣搭肘式と通肩式佛衣が流行中で、袒右式佛衣が出現する。


次回は、北朝から唐代の佛衣変遷(2)



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