「地球の歩き方」では数行、団体旅行には無い、一人旅のガイド


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目次7 中国の古建築技法”以材為祖”

目次7 中国の古建築技法”以材為祖”

傳熹年 「日本飛鳥奈良時期建築中反映出的中国南北朝隋唐建築特点」
     220 飛鳥建築と”以材為祖” 1
     221 飛鳥建築と”以材為祖” 2
     222 飛鳥建築と”以材為祖” 3
     223 飛鳥建築と”以材為祖” 4
中国古代建築史 第三巻 (抜粋)
  第十章 建築著作と匠師
   第二節 《営造法式》所載の各主要工種制度
     224 用材の制度1 “材、分” 
     225 用材の制度2 “材、分”
     226 用材の制度3 ”材分”制の淵源  
     227 斗栱 1 斗、栱、昂     
     228 斗栱 2 下昂、上昂   
     229 斗栱3 組合せと変化
     230 斗栱4 鋪作の分布と分槽
     231 大木架構 殿堂式と庁堂式
     232 梁、額部材  
     233 屋根、柱の制 
     234 石作 
     235 瓦作と磚作  

中国古代建築史 第二巻 (抜粋)

  第二章 両晋南北朝建築

   第7節 仏教建築

     236 南北朝の仏教建築 1 仏寺形態の発展と変遷1
     237 南北朝の仏教建築 1 仏寺形態の発展と変遷2

     238 南北朝の仏教建築 3 仏塔の形式(1)

     239 南北朝の仏教建築 4 仏塔の形式(2)

     240 南北朝の仏教建築 5 洛陽永寧寺塔と登封嵩岳寺塔

     241 南北朝の建築技術 1 北朝の建築(1)

     242 南北朝の建築技術 2 北朝の建築(2)

     243 南北朝の建築技術 3 南朝の建築

  第三章 隋唐五代建築

   第7節 宗教建築

     244 1.仏教建築

     245 2.仏寺の総体配置(1)

     246 2.仏寺の総体配置(2)

     247 3.仏寺建築実例(1) 南禅寺と仏光寺

     248 3.仏寺建築実例(2) 天台庵、鎮国寺、華林寺     

     249 4.仏塔と墓塔(1) 仏塔1

     250 4.仏塔と墓塔(2) 仏塔2

     251 4.仏塔と墓塔(3) 墓塔

   第12節 建築技術

     252 隋唐の建築技術 木構造

     253 隋唐の建築技術 (1)柱と柱網 

     254 隋唐の建築技術 (2)斗栱と鋪作層、(3)梁架

     255 隋唐の建築技術 唐代の材分モジュール 

     256 隋唐の建築技術 土木混合構成と磚石構成(1)

     257 隋唐の建築技術 磚石構成(2)

   第13節 工程管理機構と工官、工匠
   第14節 隋唐建築の対外影響
     260 隋唐建築の対外影響 
     261 建築実物      
                第2巻 終




     以下、続く





     ⇒ 総目次 
     ⇒ 目次1 日本じゃ無名? の巻
     ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻

     ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
     ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
     ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻

     ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服


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# by songofta | 2017-10-26 20:32 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

261 建築実物

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
第三章 隋唐五代建築
第14節  隋唐建築の対外影響 


四、建築実物

1.飛鳥時代建築
 日本意現存する:飛鳥時代建築は全て奈良にあり、即ち法隆寺の中門、金堂、五重塔、回廊と法起寺三重塔の合わせて5つである。近代に毀去したが、精密な実測図があり、かつ再建されたものに大阪四天王寺と奈良法輪寺三重塔がある。
 四天王寺は聖徳太子が593年(隋開皇十三年)に建て、主体は中門、五重塔、金堂、講堂は全て中軸線上にあり、周りは回廊である。その建築特徴は柱が梭柱、大斗、散斗の下は均しく皿板があり、中備えは叉手を用い、叉手は直線で弯曲せず、その中門、金堂、講堂の入母屋増屋根は上下2段を均しく作り、切妻増の屋根の四周に檐を加えたような状態である。これ等の工法は、斗の下に皿板を加える四川の漢墓石刻に見え、入母屋屋根が2段に分けるのは漢末の高頣墓闕に見え、梭柱は北斉の義慈恵石柱に見え、直脚叉手は漢の朱鮪石祠と北魏石窟に見え、表現する所は、皆中国の漢、南北朝以来の古くからの工法である(図3-14-9)。
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 法隆寺及び法起寺の建築は南朝建築構造部分は已に紹介した。その最大の特徴は平面寸法が材高を以ってモジュールとし、断面高さは1層の柱高のモジュール斗成っていることである(図3-14-10、11)。
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2.奈良時代の建築

 日本に現存する奈良時代の建築遺構中、最重要で唐風をかなり多く反映するのは薬師寺東塔、唐招提寺金堂と法隆寺伝法堂、栄山寺八角堂である。

(薬師寺東塔):
 薬師寺金堂の東南方、西塔と相対して、共に中門、回廊で囲まれた主院落中に有る。塔は天平二年(730年、唐玄宗の開元十八年)に建てられ、方形3層木塔、層を逐って副階、缠腰を加え、6層の屋根で、外観は玲瓏秀美である(図30-14-12、13)。塔身の1、2層は毎面3間4柱、3層は毎面2間3柱を見る。1層の副階の桁行は5間6柱、2,3層の缠腰は毎面3間4柱。各間の間幅は等しく、毎層の柱高(地面より或いは平座より柱頭まで)は間幅の2倍。1,2層は堂内が柱ばかりである。3層の外檐柱頭及び隅角の鋪作は同じで、6鋪作で2抄1昂が出跳し、隅角の鋪作が正側面に出跳するのを除いて、45°の隅栱昂を加える。塔身の中備えは只1層に頭子蜀柱が有るだけで、2,3層には無い。3層副階の柱頭鋪作は只1斗3升斗栱で、乳栿の先と交わり、宋式の“杷頭絞項”の工法である;中備えは均しく頭子蜀柱である。塔身3層の扶壁栱は均しく2重令栱、素方を重ね、上は遮緣板を承け、敦煌の初唐壁画に描くものと同じである。上2層塔身の檐柱の位置は下層に比べ内に収まり、柱底は木坊の上に立ち、木坊は下層屋根の緣及び隅梁の上に置かれ、法隆寺塔の工法と同じである。1層塔身内は4本の内柱が有り、上下を貫通する刹柱(=芯柱)の外を囲む。柱上は出跳1の華栱の柱頭鋪作を施し、外檐平柱と隅柱の上から伸びて来る木坊を承け、内柱の上部に井幹構造の方井を形成する。井幹の上は再び抹隅梁を加え、頭四藻井に類似の構造である。2層の4本の内柱は、方井の4つの隅に立つ。2層柱の上端も又大斗を施し、2層の中柱、隅柱の上を内に伸びた枋を承け、2層の方井を構成する。1、2層は隅柱より内に伸びた枋は方井と交わった後内に向けて先を出し、刹柱のすぐ近くで垂直に切断され、枋井内の抹角井と共同で刹柱を護持し、その側に傾くのを防ぐ。中国南北朝以来、特に南朝は、史籍には刹柱が上下に貫通する木塔が沢山載っているが、実物の図像が均しく存在しない。日本の飛鳥時代の法隆寺塔と奈良時代のこの塔は、已に日本独自の創造の内に含まれるとしても、依然として我々は、南北朝後期と初唐のこの類の木塔形式と構造が提供される重要な参考資料で有ることを了解できる。
 経験から推測して、この塔の設計時已に材と“分”をモジュールとして使用し、1層の柱高を拡大モジュールとした。その栱(即ち、材)の幅は10“分”で、栱の高さは13“分”で、両栱間の隙間(栔)は8“分”、足材(1材1栔の和)は21“分”である。その材幅と足材の高さの和は唐宋建築と一致する。その1層塔身は毎間の幅は125“分”、ちょうど唐宋の1組の鋪作の標準幅数を用いている。1層の柱高は252“分”、間幅の2倍。1層副階の総幅は副階柱の4倍。桁行と柱高(地或いは平座面から柱頭)の比は、1,2層塔身は3:2、3層塔身は1:1。塔身総高さは1層柱高をモジュールとして、1層地坪から3層屋根の博脊は、ちょうど1層柱高の5倍。これに拠り、この塔の設計は頗る精密で、唐代のモジュール制設計方法が確実に日本に伝入していたことが判る。
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(唐招提寺金堂):
 これは唯一保存されている奈良時代の仏殿である。唐招提寺は天平宝字三年(759年)鑑真和上が創建し、金堂はその主殿で、具体的な建立年は不詳だが、近年日本の学術界の傾向は奈良時代末の宝亀年間(770-780年、唐代宗の大歴五年から徳宗の建中元年)に建てられたと見做している。それは桁行7間、梁間4間、単檐寄棟造の大殿で、殿堂型金厢斗底槽架構である。金堂は桁行7間梁間4間。日本の天平尺で計れば、正面の明、次、梢、尽間の幅は16、15、13、11尺に分かれる;奥行きは13.5、11尺に分けられ、面積は94尺✕49尺。その前檐外槽部分は敞廊で、その他は版門(厚板の高級な両開き戸)、直棂窗(連子格子)と牆壁を装着し、南面は5門2窗を開け、殿内は密着した内槽で北端に仏壇を設け、長さ5間で、信徒は仏殿を巡って経を唱え、香料を供える。金堂檐柱の柱高は明間(中央間)の幅と同じで、柱端の間は頭貫を施工する。外檐柱頭及び隅角鋪作は2抄1昂、第1跳は偸心で、第2跳の華栱は乳栿の外端、出跳した先端は瓜子栱を施工し羅漢枋を承け、昂の下端はわずかに上に跳ね、上は令栱、替木、橑風槫を承け、後尾は屋根の斜度に従って内上方に伸び、内槽枋の上に置く;鋪作内は出跳1の華栱が出て、上は乳栿を承ける;隅鋪作は正・側面を除き、45°の栱昂を加える;扶壁栱は2重に令栱素方を重ねる。内槽柱は檐柱より2足材高く出て、外槽乳栿の後尾は只内槽柱頭に挿入できるだけで、頭貫と高さが平になる。内槽柱頭と隅鋪作は外に向けて只1抄のみ出跳し、外槽の平㯦方を承け、内に向けて2抄を出し、先端で横に令栱を施工し4椽明栿と平㯦方を承ける。内外槽の中備えは均しく頭子蜀柱を用い、外槽は2重に重ね、内槽は3重に疊ねる。明栿の四椽栿、乳栿は均しく月梁とし、上に駝峰、大斗、平㯦方を施行する。平㯦方の上は平闇(=格天井)を架設する。内槽は出跳から四椽栿の上に向けて平㯦方は弧形の峻脚椽を架設する。平闇より上の部分は、後代の改造を経て、元あった草栿は無くなり、現在の工法は原貌ではない。(図3-14-14、15)。
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※竹中工務店HPより引用 

       http://www.takenaka.co.jp/solution/purpose/traditional/service07/index.html


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               http://mebaru34.sakura.ne.jp/mein/tousyoudaiji.html

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 唐招提寺金堂の規模と架構は、佛光寺大殿と頗る似ている。その内槽柱が檐柱より高い工法は、中国の現在の唐架構では見られないとはいえ、唐代工法はかなり応県仏宮寺釈迦塔の中に残されているのは公認されており、その1,2,3,5層の各層は却って皆この様であり、唐招提寺のこの種の工法は依然唐制であると信ずることができる。その他、檐柱頭鋪作の下昂の後尾は上に延び、直に内槽に挿入され、法隆寺や薬師寺の2塔と同じである。それは佛光寺大殿と異なるとは言え、却ってその地が中国延辺地区に属し、かなり多く古制を残して居ると認められている、五代末北宋初に建立の福州華林寺大殿と同じで、中国の古制にも属していると知られる。だが、金堂にも幾つか既に唐式と合わず、薬師寺東塔伴異なる所がある。その一は、柱頭鋪作の第2跳華栱は先端の交互斗を除いて、その内に又散斗1つを加え、下面の第1跳先端の斗の上下が相重なる。その二は、下昂の下端が僅かに上に反る。その三は隅鋪作の隅継ぎ手は正側面の瓜子栱令栱を承ける所が、平盤斗を用いず耳平と傾いて45°向きを変えた“鬼斗”を用いる。その四は、内槽の平闇の四周の峻脚椽が弧線で直線でない。この4点は又分別され、金堂と大体同時期の海龍王寺小塔、当麻寺東塔、室生寺五重塔に見えて、以後の和様建築中で大発展をする所である。この部分は日本の先人が唐文化を受入れた後、発展と創新したもので、中国の唐及び唐以後の建築には無いものである。

(法隆寺伝法堂):
 法隆寺東院に有り、桁行7間、奥行き8椽、単檐切妻造、庁堂型架構に属し、八道を用い“八架椽、前後の乳栿は4柱を用いる”架構で、唯妻面の2継ぎ分は四椽栿の下に中柱1本を増やす。その建物は元々、聖武天皇の時、橘夫人(橘古那加智)の住宅で、桁行5間を、法隆寺に舎入した後7間に増やし、時期は約739年頃である。その柱高は間幅と同じで、柱上は頭貫を施工し、柱頭鋪作は只大斗の上に横に替木を施行し、乳栿と檐桁を承ける、即ち宋式の“単斗支替”である。乳栿の後尾は内柱の柱身に挿入する。2内柱は屋根の勾配に従って高くなり、柱頭鋪作は依然として単斗支替で、四椽明栿を承け、四椽栿の上に平梁を置き、上は大棟桁を承ける。梁の間は墊托と乳栿、平梁の中心の桁を承ける所は、皆駝峰、大斗、替木を用いる。梁は皆月梁である。殿身の正面は3枚の版門と2枚の連子格子窗で、背面は1枚の版門と2枚の連子格子窗を装備し、その他の各間と妻面は均しく牆壁で塞ぐ。妻面の出の長さはま幅の半分近くなり、外観は荘重で伸びやかだが、現存の飛檐垂木、懸魚等は後代の補修で、原形式ではない。この殿内部は地栿上に架した地面枋に木地板を敷き詰めている。その比例関係は、大体柱高と間幅が等しく、柱礎表面から大棟桁までの高さは檐柱の2倍である。例えば檐柱の高さは地板面から計って、中平槫の高さはおよそ檐柱高の2倍で、屋根の挙高はほぼ前後の檐桁の距離の1/4より大きい。中国唐代の遺構には既に庁々架構に5間の堂は無く、遺物の最早は大同華厳寺の遼が建てた海会殿で、この堂の架構法式は同じだが、年代は280年前後晩い。この堂は日本貴族の邸宅堂の標準としても見ることができ、唐代居宅の5間堂の参考になる(図3-14-16)(参考図3-12-9)。
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(栄山寺八角堂):
 正八角形単檐の亭である。8本の檐柱を除いて、4本の内柱がある。その架構方法は、内の4柱の間に月梁を架け、梁の上毎に2つの大斗を置き、8つの大斗上に抹角梁を2つずつ架設し、八角井を形成する。更に八角井の上は、堂の南北軸線の位置に大梁を架し、梁上に木柱を立てる。外檐の8柱から各1跳の斗栱を出し、内に跳んで乳栿を承け、栿の後尾は内柱に挿入される;外に跳んで隅梁を承け、隅梁の後尾は内柱の八角井の上に架かり、これより再び続隅梁を架し、梁の後尾は木柱に挿入され、八角亭の骨架構を構成する(参考図3-12-27)。 この亭の平面と隋唐洛陽宮の九洲池で発見された亭跡と全く同じで、源が唐式であることが判り、その架構は我々に唐代八角亭構造として参考に供されるのを了解できる。
 諸建築の実物探索を通して、我々は、中国南北朝の影響を承けた日本の飛鳥建築中に、設計に既にモジュールが採用され、材高を以って平面寸法のモジュールとし、1層柱高(それは材高の整数倍である)を以って、拡大モジュールとしている。初頭の影響を受けた薬師寺東塔に、既に材幅の1/10即ち“分”をモジュールとし、材幅は10“分”、足材(即ち1材1栔)高21“分”、1層の桁行は毎間125“分”、1層柱高250“分”、塔身総高は1層柱高の5倍、即ち1250“分”。奈良時代末期の室生寺五重塔は、層を逐っての面幅は基本的に整“分”数で、刮規律性のある級差がある。これらの現象から看て、日本の古代には確実に中国古代のモジュール制の設計方法を接受し、それは形式の模倣ではなく、その建築体系の基本的特徴を吸収していたことを表している。
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(材“分”制の開始):
 中国中唐以前の木建築が既に存在しないので、我々は日本飛鳥建築に晩くとも中国南北朝後期に、木建築は既に材高を以って平面設計のモジュールとし、1層柱高を以って多層建築の高度設計モジュールとしていたことが推測できる;更に、日本奈良前期建築により晩くとも初唐には、在幅10“分”、足材高21“分”、平面と柱高は“分”を以ってモジュールとする設計方法が既に成熟していたのが判り、我々の中国建築での材“分”制設計方法が生まれた時期の認識が100年以上早まることを提示している。
 我々が中国古代が日本建築に与えた影響を探求する時、以下の幾つかの点を考慮すべきである:最早期に伝入した日本の中国建築体系が形成された飛鳥式で、朝鮮半島を仲介した為、朝鮮三国自体の発展が内在することは避けられ無いこと;法隆寺の飛鳥建築は皆和銅時代(中国の唐玄宗初期)に建てられ、かなり晩い時期の工法が混入しているかも知れない事;唐と直接交流後、伝入して日本で形成された奈良文化の建築中に、飛鳥式の伝統もその中に保存されていることも免れない事;奈良文化後期には、建築中に又日本自体の発展と創新が出現し始める事;平安時代に入って、日本は既に自己の建築が全面発展する成熟期に入り、“和様”に発展し唐風と違う道を歩むのである。

(中国と日本の異なる点):
 例えば、早くも南北朝時期に、中国の木構造建築の頭貫は、北朝の石窟であろうと南朝の墓室であろうと、大体は上下2層に作り、唐は“重楣”と称して、依然として用いたが、日本の飛鳥、奈良、平安時代建築中には全く出現したことがない。又例えば中国建築は頭貫上に普拍方を始めて使用するのは北宋だが、日本の飛鳥式の法起寺三重塔と奈良初期の薬師寺東塔は已に使用している。中国は唐以降、出跳する斗栱に足材を用いるが、日本の古建築中、法隆寺中門と唐招提寺金堂の隅縫の第1跳に足材栱とするのを除いて、等しく単材栱とする。楼閣建築中、上下層の間数は異なり、上下柱は対位せず、平座を設けず、上層の欄干は下層の屋根の上に装着する工法で、雲崗石窟に見るように、これは中国南北朝の工法そのものである。;唐代は一般に平座層が増加し、その形像は懿徳太子墓と敦煌石窟壁画に見るが、日本は飛鳥式より南北朝工法を採用後、ずっと奈良時代まで延用している。外観に平座のある薬師寺東塔は、その塔身は依然として飛鳥式に沿っており、上層柱は下層椽上を圧える地梁の上に立ち、只缠腰(裳階)に唐式を模して平座形式を出すが、実際は形式上の初唐の模倣である。前述の奈良後期の下昂先端の反りと第2跳華栱に心斗を加える工法は、明らかに日本での発展である。
 これに拠り、異なる時期の日本古建築に対して、我々は只その中に反映した幾つかの中国の影響を考慮できるだけで、影響の大きさは中国をそのままのものとはとても看られない。唐代の建築と日本のなら建築を比較すると、風格気質が明らかに異なる。唐代建築は佇まいは快活、風格は豪放、曲線は力強くしなやかであり;日本建築は同様の形式の下、線がかなり柔らかで秀美、細部処理は緻密で精緻、細心さを感じ、自ずから区別できる。
 中国南北朝時期の木構造建築は長らく存在せず、唐代も只4座が残るだけで、全体配置は全く考慮も出来ない。日本に現存する飛鳥奈良建築は26座の多きを数え、絶対年代は大体中国現存の唐構拠り早く、それらは世界の歴史文化の宝だけでなく、我々が南北朝及び唐代建築に重要な参考を提供することが出来、中国にとっても特別な意義があることを了解できる。だが、それは結局、日本の先人が造った日本建築である。古代と現代歴史は全て、日本は学習の導入から自己の創新に転じるのが極めて速いことを示している。従って我々は研究する時細心の比較で、その中の中国の影響部分を切り出し、日本の発展創新を中国南北朝、隋唐文化と誤認すべきではないのである。(第2巻 完)


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# by songofta | 2017-10-26 20:29 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

260 隋唐建築の対外影響 

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
第三章 隋唐五代建築
第14節  隋唐建築の対外影響 

(西方諸国)
 隋唐は中国古代国家を統一し、強大な繁栄の歴史時期の一つで、政治、経済、軍事、文芸、科学技術は、当時の世界の前列に位置し、四周の隣国との交流が頻繁であった。聖域、西アジア、中東諸国に対しては、商業貿易関係が主で、昭武九姓諸国(注;下図の西域諸国)を仲介して、遠くは東ローマに至った。中国は絹製品を輸出すると同時に、大量の西アジア、中東乃至ローマ風格の器物を輸入し、唐代の生活用具の造り、装飾図案、果ては生活習俗や芸術嗜好に対して、頗る影響を与えた。だが、建築上は、中国が自己の木架構を主に庭院式配置の建築体系を実行しており已に定型と成っていて、完全に当時の需要を満足していたため、合わせて礼儀制度と結合しており、外来の建築は、只栄養として消化吸収され、衝撃的或いはかなり大きな影響を産み出すことが出来なかった。唐玄宗が清涼殿を造り、王鉷が自雨亭を建て、史書は東ローマ帝国を真似したが、只猟奇的なだけで、宮室や邸宅には大きな影響は無かった。これと相応して、西アジアや中東諸国も自らの発達した文化伝統があり、今まで建築上、唐の影響の痕跡は発見されていない。
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(朝鮮)
  だが、隋唐2代、特に唐は、当方諸隣国例えば朝鮮半島の三国と日本には巨大な影響があった。
  朝鮮半島の高句麗、新羅、百済三国は、南北朝時期には別々に南朝と北朝とかなり密接な連携があった。北魏太武帝の太延三年(437年)、高句麗は遠く平城に遣使し、南朝の往来は更に早く宋少帝の景平元年(423年)である。経済文化交流と仏教伝来に従って、南北朝は朝鮮半島の建築にも重大な影響があった(図3-14-1)。隋唐2代は短時日、高句麗を侵略したが、もっと長い時期は平和に交流していた。676年以降、新羅が朝鮮半島を統一し、唐とずっと友好関係を保持し、交流は更に密接であった。新羅の都城慶州は、計画を唐長安の影響を受け、方格網の街道配置であった。現存の慶州仏国寺は配置と建築工法も明らかに唐風である。近年韓国慶州の仁旺洞雁鴨池出土の一群の7世紀の鴟尾と圧鳳紋や宝相華紋の方塼は、その華紋の精美、細工の細かさは、現在発見されている唐代の華紋塼を遥かに超えている(図3-14-2)。その建築の精美と唐文化の影響の大きさを知ることができる。だが目下の所、発表された材料は少なく、慶州に関して依然として探査研究の過桯にあり、尚無条件で具体的探査をしている。だが、朝鮮半島は漢唐以来、中国の影響を受けて、建築は木架構を主として重要な建築群は、封閉式院落配置の特徴をもつのは、疑いの無いことである。
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(日本)
  日本と中国の交流は悠久の歴史があり、諸伝説はさて置き、日本で近年発見された“漢委奴国王印”の金印は、晩くとも漢代に已に正式な関係があったことが知られる。南北朝以後、中国は戦乱が多く、日本はかなり多くを朝鮮半島三国を中国との仲介として連携を持った。577年(陳宣帝の太建九年、北周武帝の建徳六年)百済の造仏像、仏寺工匠が日本に渡り、588年(隋文帝開皇八年)日本は法興寺(飛鳥寺)を建てた。仏教の伝来と興盛に従って、中国の建築体系も仏寺建設に従って日本に輸入された。593年(開皇十三年)に建てられた四天王寺と607年(隋煬帝大業三年)に建てられた法隆寺は、日本の学者の研究に拠れば、全て朝鮮半島を経由して転入された中国南朝様式である。この時、隋は已に南北を統一していたが、海外に向けて転々と伝播するのは、建築風格が停滞して遅れたのも理解できる。
  推古天皇の時、607年小野妹子を隋に使し、翌年隋は裴世清を遣って回報したが、時に煬帝大業三~四年は、隋の国勢が極盛時期に当たる。唐の建立後、日本は630年(唐太宗の貞観四年)より、第一次遣唐使を開始し、894年(宇多天皇の寛平六年、唐昭宗の乾寧元年)まで、18次の遣唐使を派遣し、ほぼ唐王朝の始まりと終わりに相当する。この期間に、日本は唐代文化を吸収し、政治や経済、文化、技術の諸方面で巨大な変化を産み、日本の情況と結合し、自己の文化を素早く発展させた。日本は710年(元明天皇の和銅三年、唐睿宗の慶雲元年)から784年(桓武天皇の延暦三年、唐徳宗の興元元年)奈良に都し、史上“奈良時代”と言われ、初唐、盛唐文化を最も多く吸収した時期である。建築方面では、都城、宮室、寺廟と建築芸術や建築構造の諸方面に明らかに反映されている。奈良時代後期、日本は已に自己の文化の発展を開始し、鑑真が伝出のため渡東後居住した唐招提寺の中に、その主建築である金堂に、以後日本和様建築に属する萌芽を看ることができる。794年になると、(桓武天皇延暦十三年、唐徳宗の貞元十年)平安京に遷都し、史上“平安時代”と言われる。この時期、当文化は依然継続して伝入しているとはいえ、日本建築は已に自己の発展路上を走っており、唐代の経験に対して、工法はまだ吸収するところがあるとは言え、建築の配置、外観、工法上は明らかな違いが出現している。
  下面に都城、宮室、寺院、建築遺物諸方面を深く検討してみよう。

一、城市
平城京:奈良盆地北部にあり、東と西側は山か丘陵である。日本元明天皇は和銅三年(710年、唐睿宗の慶雲元年)ここに遷都した。桓武天皇の延暦三年 (784年、唐徳宗の興元元年)に長岡京に遷都して止むまで、日本の首都として75年存在し、この時期を称して“奈良時代”と言い、日本と唐の交流が最密接で、全面敵に唐文化を吸収し、日本の実際情況と結合して国家を建設し絢爛足るなら文化時代を創出した。平城京は首都で、当文化と日本の実際を結合した後創建された偉大な都城であった(図3-14-3)。
 日本の考古学者の数十年の努力を経て、平城京の情況は基本的に明らかに成った。その平面は地形の制限により、南北に長い矩形に作り東西は役4.2km、南北は役4.8km。城の南堺は局部的に城があり、正中央に城門を建て、“羅城門”と名付け、城の南堺より少し張り出す。城門の台基は東西38m、南北20m、これは巨大な建築である。城外は城濠があり、羅城門の前には3条の跨濠の橋があり、東西に並んで“三枚橋”と言う。城内の街道は方格網の配置である。全城の南北中軸線上に主街を作り、朱雀大路と言い、長さ約3.8km、幅72m、南は羅城門に至り、北は宮城の正門朱雀門に至る。朱雀街の両側は又東西に向いた街で、“条” と言い、南北に向いた街を、“坊”と言い、条坊制城市と言う。“条”は合わせて10道あり、北から南に、“一条大路”から“九条大路”まである。“坊”は合わせて8道あり、朱雀大路より、東西に向かって、別々に“東一坊大路”から“東四坊大路”までと“西一坊大路”から“西四坊大路”までである。路幅は、約24m、路の外側は幅2m前後の側溝がある。全城は“条”と“坊”に分けられ、72の方格になり、朱雀大路を堺として、大路の東の36格は“左京”とし、大路の西は“右京”とする。城の東、北、西の3面は、最外側の条か坊を以って限りとし、唐代城市の順城街に相応し、城壁はない。建設完成後、一条から五条王寺の間の部分で、東四坊大路以東に東五坊から七坊大路を増設し、15個の方格を増拓し、“外京”と呼んだ。外京北部の3格は地形の制約を受け、只半格幅で作り、実際は13.5格である。この欠けた1.5格を城の西北隅に移し、各半格を深くし、“北辺坊”と呼んだ。この様に、全城は実際上、左京37坊、右京34坊、外京12坊、合計83坊である。外京を増加した後、東西の幅は5.9kmに拡がった。
 これ等の方格の大きさは等しく、540m見当で、中国の城市の坊に相当する。その中の中軸線の北端の四坊は宮城が占め、後に又、東に向けて3/4坊の面積を拡げ、合わせて4と3/4坊を占め、その他の配置は居住区や寺廟、市等である。一坊毎に中を小街で16の小格に分け、“坪”と呼び、毎坪は120m見当である。坪間の道路は幅4mで、路傍は水溝がある。“坪”内は住宅が建つ。一般の庶民住宅は、約一坪の1/16前後を占め、大きいものはその2~3倍で、約900、1800、2700平方m前後である。貴族の邸宅の占地は甚だ大きく、4坪即ち1/4坊になる者もある。邸宅によっては、園林を建て、池を穿ち橋を架け、池の中には島か州浜があり、卵石を池底と岸辺州浜に敷き詰め、さながら唐洛陽の園地の風貌である。
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 平城京内には、東西両市が設けられ、東市は左京八条三坊、西市は右京八条二坊で、東西に相対している。市は全坊を占めては居らず、只各坊の南半中間の4坪を占めるだけである。
 城内には陸続と若干の大小寺院が建てられた。先ず遷都の初めに、藤原京から薬師寺、元興寺、大安寺等が写り、その中の薬師寺は右京六条二坊の12坪の地を占め、元興寺は外京四条、五条七坊の15坪を占め、大安寺は左京六条、七条四坊の15坪を占め、いずれも巨大な寺院である。創立の時期はいずれも714年カラ:718年の遷都の初めである。同時に、718年興福寺が建てられ、外京の三条七坊に12坪を占めた。745年前後に皇家は東大寺を建て、寺は外京の東、東は若草山に掛かり、当時約700m、南北約900mで、これは平城京第一に寺である。766年、右京一条三坊に皇家は西大寺を建て、占地は12坪、東大寺と東西に相対した。平城京の2座の最巨大な皇家の建てた寺院である。その中の東大寺は南北長が1kmに近く、東西は約0.8kmで、唐長安城の中に置いても、一級の大寺の規模である。
 ※注;最近の発掘で一時期、十条があったらしいことも判った。
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 平安京:今の京都市にあり、桓武天皇が延暦十三年(794年、唐徳宗の貞元十年)長岡京よりここに遷都した。城市の輪郭は平城京の初建時と同じで、南北が長い矩形で、外京及び北辺坊の両突出部は無い(図3-14-4)。平安京の規模は延長五年(927年)編定された《延喜式》の記載では、:東西1508丈、南北1753丈;東西は8坊に配列され、坊間に9条の大路があり、それとは別に朱雀大路の両側に半坊離れて1条が追加された;南北は9坊に配置され、北端は又半坊が増やされ、11条の東西大路があり、別に宮城の東西側に2条追加された。諸路のなかで、中軸線上の朱雀大路は南北の主街で、幅28丈、その次が宮前の東西の横街で、幅17丈、その他の各路はその重要性に依って、幅12、10、8丈の3級あり、その内、南順城街は12丈上、東西順城街は10丈である。全城は朱雀大路を以って左京と右京に分かれる。
 平城京と同じく、平安京は道路により72個の全坊と8個の半坊に分かれる。宮城は最北端にあり、北は北順城街に臨み、占地は2個の半坊を除く4坊である。東西の市は、左京と右京の八条二坊にあり、朱雀大路の東西に遥か離れて相対する。東寺と西寺を建て、各左右京の九条一坊の東、西半坊を占める。
 坊の内は、小街で16格に区分し、平城京の16坪と同じである。坊内は宅を建てる。《延喜式》の規定は、“およそ三位以上は、大路に門を建てても良く、四位の参議はこれに准ずる。その建てても良い人は、その身が亡くなっても、子孫が住む間は亦構わない。これ以外は、門に制限が無くても、その坊丈の垣にひらいてはならない”。即ち、三位と四位以上の交換を除いて、坊の壁に門を開いて大路に臨むことは出来なかった。これと《唐会要》に載る唐長安の各坊が“三品以上と坊内三絶でなければ、街に向かって門を開いてはならない”の規定は同じで、平安京が城市配置から管理制度まで、全て唐長安の経験を参考にしていた証明である。
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 《延喜式》も記載する平安京の両市の情況は、東市は市の建物が51、西市は33有り、規定では市の建物毎に題号を立て、只その経営する商売の表示を出した。又言う“凡そ京中の衛士、仕丁等の坊は商売をしてはならず、但、酒食はこの例にあらず”と。即ち唐長安と同じで、平安京の商業も市の中の活動に限定し、坊の中では酒食以外、商業活動を進めることは許されなかった。

 総じて、平城京と平安京2京の計画を観ると、その中軸線上に主街を置き;宮城は街の北端にあり、北は城の北堺に臨む;全城は方格網の道路で若干の方形坊に区分され、坊内は16の小格に分けられ;主街を挟んで対称に東西市等を設ける情況を看ると、明らかに唐長安の特徴を吸収している;そして、諸坊の平面は方形で矩形に作らず、又洛陽の特徴を球種したことを表している。だが、日本の具体的情況に適応して、2京とも一連の重大な改変をしている。最主要なものは;1.城壁を作らず、順城街を堺限とする;ただ南面だけに羅城門を作り、小さな城壁と濠を附け、他の各面は門を設けない。2.平城京創建時、地形の制限を受け、東西に発展できず、南北に長い矩形を作り、唐長安の輪郭が作る東西に長い矩形とは異なる;だが以後の発展は東に向かって外京を発展させ、依然として唐長安が有効な法式である意を表している。平安京建設時、平城京を専ら法式として、整頓して画一さを加え、ついに縦長の矩形とした。3.2京は全て宮城があり、中央官署は宮内に設け、その南は皇城を設けず、唐長安宮城が皇城の前後に設けるのとことなり、唐宮内と宮外に2組の機構が重複する弊害を避けている。
  平城京の面積は約唐長安の1/4強で、平安京の東西は約4.5km、南北は約5kmで、面積は22.5平方km、唐長安の27%で、周長は43唐里で、周長40里の唐揚州と周長37里の渤海上京よりやや大きく、わずかに唐長安、洛陽両都の巨大年より小さい。

二、宮殿
 日本はこの時期、最重要な宮殿は創建が和銅三年(710年、唐睿宗の慶雲元年)の平城宮と創建が延暦十三年(794年、唐徳宗の貞元十年)の平安宮で、時代は分かれて盛唐と中唐に相当する。その内、平城宮は重点的に発掘が進んでいる。
 平城宮:平城京の中軸線北端、南北、東西が均しく各幅約1kmの正方形である。以後に、東に幅を約260m奥行き約750mの一区画を拡げ、東院と称した(図3-14-5)。
 宮の四周は、高さ約5mの覆瓦の土壁で、城壁ではない。南、西、北の3面は各3門があり、その南、北城の各門は離れて相対する;東院の東面は2門で、南面に1門;合わせて12の宮門がある。諸門は皆下に門墩を持つ城門ではない。正門は朱雀門で桁行7間、幅25m、奥行き10m、2層の入母屋造の楼屋で、その次に重要な門は多くが切妻造である。宮内は朱雀門の中軸線上に、朝堂院と太極殿を建て、前後に重なる2つの院落とする。太極殿の一組は、東西180m,南北290m,周りを回廊とし、南面の正中央に門を開き、門の左右に楼を建て、殿庭の後部の地勢は高く上がり、前面に磚を積んで覆い、高台基を形成し、台上の正中央に桁行9間梁間4間の全宮殿の主殿太極殿が建つ。天平十二年(740年、唐開元二十八年)恭仁京に遷都する時、新宮に移建した。天平十七年(745年、唐天宝四年)平城京に都が戻ると、宮の南面東側の壬生門内に新しく一組の宮院を建て、宮の東側に又、1条の南北の軸線を傾城した。因ってその前部も朝堂院と大極殿があり、史家は“第二次朝堂院”、“第二次大極殿”と称し、中軸上の始建時のものを第一次朝堂院、第一次大極殿と称した。第二次朝堂院の一組は大体前、中、後の3重の宮院に分けられる。最前の1重は朝集殿院で、第2重は朝堂院で、2つは東西幅が同じで、180m前後である。朝集殿院は前に在り、奥行き135mで、南北の壁の正中央に各桁行5間も門があり、両側に東西に向いた朝集殿が建つ。第2院は朝堂院で、南北約285m、庭に左右対称に各6棟の切妻造の建築が建ち、中央に広場を残す。第3重の院は最大で、東西約280m,南北に奥行き約380m、南面に3門、東西に各2門を開き、これが宮殿の主体である。その前部は大極殿区で、大極殿門及び回廊が東西約110m、南北約80mの院落を囲む。主殿の大極殿は庭の中央より北に偏って建ち、前後2殿となる。前殿は桁行9間、梁間4間;後殿は桁行7間、梁間2間である。大極殿門は桁行5間、梁間2間で、門外はすぐ朝堂院である。第3院の中央、大極殿区の後は、又回廊に囲まれた約東西185m、南北190mの大院落があり、即ち寝宮の有る所で、“内里”と称する。内里は即ち帝と皇后の住む所で、中国宮殿の寝区に相当する。内里は中軸線上に前後2殿と、それぞれ配殿、囲まれた庭院があり、内里の主殿である。内里の四周には、巷道があり、南巷道の南はすぐ大極殿で、東、北、西3面の巷道の外は若干の閉ざされた院落が建ち、内里の補助建築となる。第1、第2朝堂院が2筋の中軸線を傾城するのを除けば、宮内の東西部は全て宮内の官署と馬寮、造酒司等宮中の倉貯庫厩等の奉仕性の機構が配置され、それぞれ閉じた院落となる。後に拡張した宮東部は、南半は“東院”と称され、太子の居所である。東院の東南隅に園林遺跡が発見され、卵石で底を敷いた屈曲した池塘で、池に臨んで軒館遺跡がある。それとは別に、宮の西南隅と西北部にもっと大きな湖があり、西北部は“西池宮”と称し、宮中の禽獣の飼育苑部分に属する。
 平城京の配置を看ると、始建時は中軸線上に朝廷区に相当する朝堂と大極殿を建てたが、その後寝区を建てる余地が無く、その寝区の位置は考証を待っている。第2次朝堂院一組は朝集殿院と朝堂院と大極殿で朝廷区を作るが、大極殿は又寝区に相当する第3重院の前部にあり、唐宮の類比で、それは大極宮中の両儀殿と大明宮の紫宸殿と近似される。従って、平城宮の配置も唐宮を参考にし、又実際の需要を見て改変を加えている。
 だが、その実測図を分析すると見て取れるのは、第2次朝堂院の南壁は南堺で、第3重院の北壁は北堺となり、大極殿は正中心点にある。已に発表された第1次、第2次朝堂院の宮中での位置図を看ると、第1次朝堂院の前は朝集殿院が無く、これは第2次の時に増加したもので、第1、2両次の朝堂院の南壁は同じ1本の東西線上にあり、設計時は朝堂院と第3重院を統一した考慮し、大極殿を中心位置にしたことが判る。宮中の主殿を中心位置に置くのは漢以来の伝統で、例えば、前節に述べた、唐洛陽宮、大明宮、渤海上京宮は全てこの様だが、手法はやや変化がある。平城宮第2次朝堂院一組は、大極殿を外朝内廷の総長さの中点上に置き、当に唐代経験を参考にして変通を加えたものなのである。
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三、寺廟
 日本は588年(隋文帝の開皇八年)より、仏教が伝入し、法興寺(飛鳥寺)を始建した後、仏教は日に日に盛んに成った。初期の仏寺は多くが朝鮮半島から間接的に伝入し、史上“飛鳥式”と称し、四天王寺、法隆寺を以って代表とする。中国の隋唐時期、日本は直接唐と交流し、留学生、求法僧は往来が絶えず、唐代仏教文化は大量に日本に伝入した。日本はならを建都した75年中、当文化を最も多く接受し、そのため、奈良時代の寺廟はかなり多くが唐代の影響を反映している。
 飛鳥時代の2寺の平面は頗る異なる(図3-14-6)。
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(四天王寺)
四天王寺は593年に建ち、その主体部分は縦長の方形で、周りは回廊を以って院落を囲み、中軸線上に、南端に中門が建ち、単檐入母屋造建築で、桁行3間、左右に回廊が接ながる。中門内は五重塔で、方形、1層から4層までは毎面3間、第5層は毎面2間。塔の北は金堂、即ち正殿で、桁行5間、梁間4間、重檐に作り腰檐より上は上層柱を立て、桁行3間、梁間2間、上に単檐入母屋造屋根が載る。上層は楼板が無く、登ることはできず、純粋に重檐野外形面を作るよう設計した。金堂の後は講堂で、単檐入母屋造建築である。それとは別に東西面の回廊に東西門を設け、桁行3間の切妻造建築である。
(※注;四天王寺は、旧建築を踏襲しているとは言え、度々の火災で再建を繰り返しており、配置を別にして、
    果たして飛鳥建築としてよいのかはかなりの疑問がある。)
 四天王寺はこの種の中軸線上の前塔後殿のは位置は、日本の学者は朝鮮半島三国時期の百済で流行した様式と見做しているが、それは史料に載る北魏永寧寺が同じものである。近年発掘の西安青龍寺跡は、その西部一院も中軸線上に中門とし、門内の庭中に前塔後殿で、唯講堂が無い。つまり、塔と殿の関係を看れば、四天王寺と同じである。この種の配置は中国の北朝から唐まで存在していた。故に四天王寺の平面の源は中国南北朝でないかと疑われる。
(法隆寺)
 法隆寺西院は680年(唐高宗の永隆元年)に再建され、横長の方形院落で、回廊に囲まれる。何面の正中央に中門が建ち、桁行4間梁間3間の二重檐の門で、構造は四天王寺金堂と同じ。中門の左右は回廊が接がる。院内は東に金堂、西に五重塔の東西配列である。現状はその後に講堂があり、東西の後側に鐘楼と経蔵があり、これは後から増入した者で、原状ではない(図3-14-7)。この種の金堂と塔が東西に並列する配置は、日本にはまだ法起寺と観世音寺があるが、中国ではまだ遺跡が発見されていず、史料にも未だ手がかりがなく、その淵源は尚考察が今一歩進むのを待っている。
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(塔配置)
 日本と隋唐の直接の往来の後、藤原京と平城京に建つ仏寺は唐代の影響を強く受ける。元藤原京(694-710年、則天武后の延載元年から唐睿宗の慶雲元年)に建った薬師寺、大官大寺等は、均しく初唐の影響を受ける。710年平城京遷都後、藤原京から遷った諸大寺を除いて、又前後して東大寺(745年頃、唐玄宗の天宝四年)と西大寺(766年、唐代宗の大歴元年)等の国家級大寺が創建され、盛唐の影響がかなり大きく受ける。
 平城京内の諸大寺の建つ坊内は、多くが占地の単位を坪として、已に前に見たように、その配置はおうおうにして分割した坪の小街の影響を受け、一坪を一院とした。例えば薬師寺、大安寺、元興寺、西大寺等である。諸寺の主体部分は皆、前は南大門で、門内は中門と回廊で囲む主院、院内の中軸線上は正殿、金堂と称する、と飛鳥時代寺院の主院落内の塔堂を前後に疊ねるか、東西並列配置の形式と完全に異なり、唐より伝来の新配置を当てた。寺内の中軸線上の重要な建築はまだ講堂があった。薬師寺と元興寺講堂は金堂の後で、主院落の中に有るのを除けば、その他は全て主院の後で、左、右、後の3面は僧房で囲み、東大寺、興福寺、大安寺、唐招提寺、法華寺等は皆この様である。奈良時代の寺院中、塔は已に対称の双塔に改められ、金堂の前方に置かれた。薬師寺の東西塔が主院内に建つのを除けば、そのたは主院外の前方東西側にあり、塔外は囲壁か回廊があり、塔院を形成(図3-14-8)。塔の仏寺中の位置は、中軸僭上か塔殿並列から、仏殿(金堂)が中央に変化発展し、塔が殿前に分かれて列ぶ(薬師寺型)、再度変化して主院落外に移され、前方に対称に建つ(東大寺型)は、この時期仏寺配置の重要な変化で、これは唐段成式の《酉阳杂俎・寺塔記》と張彦遠の《歴代名画記》が記す両京寺観壁画中に形跡が見られ、日本のこれ等の寺院遺址が我々のこの方面の認識を充実させるものである。西大寺、元興寺等の仏寺主院周囲に各院を配置する配置も、我々が唐代の若干の大院の大寺が提供する資料に無いものを認識させるが、日本の寺内各院は坪を単位としたのは、恐らく日本の実情に結び付けた結果であろう。僧房が講堂の左、右、後3方に並んで建つ配置は、中国では類似の唐代遺址が発見されておらず、わずかに《関中戒壇経》、《舎衛国祇園寺図経》に想像の仏寺として挙げられてきて、この2経の中国伝本は宋代に日本から反転して中国に返ってきたもので、唐代に日本に伝入されたことが判る。日本の仏寺中の僧房のこの種の配置はこの2経に淵源があるかどうかは、尚一歩研究が進むのを待つ。
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  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛

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# by songofta | 2017-10-15 20:02 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

259 工程管理機構と工官、工匠(2)

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
第三章 隋唐五代建築
第13節 工程管理機構と工官、工匠

※ここでは、工匠と、建築の等級制度を扱う。工匠は、いわば棟梁も含めた職人を指すようである。等級は材“分”制度と密接に絡み、身分による制限として、服装や装飾とともに、古代制度を看る上で重要である。我が国でどのような建築等級があったのか、寡聞にして知らない。

三、匠師
 隋唐時期建築工事中の基層の技術人員は匠師である。《唐六典・工部》が説く:“凡そ、興建修築、材木、工匠は少府、将作の下にあり、以ってそれに従事する”。原注に:“少府監の匠は1万9千8百50人、将作監の匠は1万5千人、諸州に散らばり出て、皆膂力が強く、技能が優れている。……工匠に弟子入りすると、別の職種に移ることは許されない”。これは《唐六典》で出来た開元27年(739年)以前の状況である。《新唐書・百官志・将作監》の言う:“天宝十一年(752年)、大匠を改め大監とし、少匠を少監に改めた。府に14人、史28人、計史3人、亭長4人、掌固6人、短蕃匠1万2千7百44人 、明資匠260人”。天宝十一年(752年)以後の情況である。“蕃”は即ち番で、輪番役を指す。唐制は毎1年役20日、これを庸と言い、加えて50日の役で租庸調を全て免除した。短期役の20日から50日の工匠が短番匠である。それとは別に、技術が卓越して全年役に付く者を長上匠と言った。これらの者は50日を超えた分を官家が銭を払ったので、“明資匠”とも言った。将作監のこの260人の明資匠は、各工種の匠師で、亦国家が掌握する建築工事の隊伍の中心で最も基本的な技術力量であった。
(梓人伝)
 これらの工匠の情況は、史籍には極少の記載しかないが、柳宗元の《梓人伝》の1篇に、木工匠の工作情況が記載されている。〈伝〉には、柳氏の姉夫裴封叔が長安光徳坊に住み、楊という梓人が家を借りていて、自ら言うには“私は、善く材料を計り、建物の制を視て、高さや奥行方円長短の宜しきを得、群工を指揮する役であった。建物では多く建てた中で出来なかったものは1棟もなかったので、官府に食を得て、3倍の禄を受けていた;私人の家の場合、その実入りの大半を収めた”。後に、京兆尹が官署の将作であった時、“沢山の材料や、多くの工匠を集め、或は斧を執り、或は刀鋸を執って、皆周りに立ち、彼等に向かって梓人は左手に引を、右手に杖を持って中央に居た。建物を量る責任と、木を視る能力から、その杖を挙げて言うのには:「あれを斧で切れ!」斧を執る者は右に走り;顧みて指して言うに、「あれを鋸引け!」鋸を執る者は左に急ぐ。忽ち、斧は断ち、刀は削り、皆その品質を視て、その言を待ち、敢えて自ら判断する者がない。その任に堪えられない者は、怒ってこれを退け、亦敢えて憤ることは無かった。壁に宮の図を描き、1尺足らずにしてその制の曲直を尽くし、僅かを計って大建屋を構成し、戸惑う事が無かった。すでにして完成し、棟桁に記して、某年某月某日某建てる、即ちその姓字である、凡そこの工事を執行した者の名はない。私は周りを看て大変驚いて、それからその仕事の技術の大なるを知った。……梓人は恐らく古の異なる情況の下、曲直をよく看て、器物を作る者であって、今に言う都料匠であろう。私が偶々あった楊氏は、その名は表に出ないのである。
 この中で描写されるのは、一木工匠師で、”官府に食を得て、3倍の禄を受け”の句から、”明資匠”の筈である。”壁に宮の図を描き”の段は、彼が建物を建てる時、先ず建築物の断面図を描き、設計を進め、建屋書く部分の大きく輪郭寸法を確定し、“材分”を換算して書く建築部材の寸法を推算した後、工匠を指揮して施工したことを示している。文中に、彼が指揮する時に手に”引”と”杖”を持ったと言っている。引は〈伝〉の中で又”尋引”と言い、注に” 尋は8尺、引は10丈”とあり、代表尺のことである。”杖”は”杖桿”を指し、匠師は白木の長い木尺の上に、加工の必要な部材の3次元寸法を引き、工人に渡してこれと照合する制を取った。現在に至っても、伝統的木工匠人は使用しており、この規則は唐代より已に用いられていた。唐代に至り、中国大木作の“材”を以ってモジュールとし、“分”を以って分割モジュールとする“材分制”設計方法は已に成熟し、建築物の桁行や柱高の比例と、部材の3次元寸法が全て相応する“分”吸うで規定され、故に一旦建物の地盤図が確定した後、用材等が即確定した。建物の側面(断面図)を描き出した後、即材等級と“分”値を根拠にして、部材の3次元寸法を推定し、部材は詳細図を必要とせず直に制作して誤りが無かった。清代の大木作は斗口をモジュールとする“口分制”を以って実行し、これは“材分制”から変化発展したもので、それは官が定めた《工部工程做法》を除いて、工匠の間で数え歌で師弟に相伝されたのである。施工時、工匠は、匠師の支給した杖桿を根拠に数え歌を結び付けて制作し、一般に紙の図面が不要であった。〈梓人伝〉の言う杖を持って工匠に制作を命じた情況を看ると、早くも唐代には已にこの様だったのである。
 〈梓人伝〉は更に、彼はかつて梓人室で、その寝台の足が欠けたのを見て、自分で修理できず、他の工匠の助けを要求した。この情況は、この梓人は自分は労働に参加せず、設計を進めて別の工人の施工を指揮し、そう情況は清代の様房師父と現代の設計人員に近い。この種の建物の設計を進め施工を指揮する高級木工匠師は、唐代に都料匠と呼ばれた。彼が建物の設計と施工の全てを主持したので、建物の完成後、大棟桁に彼の名を記し彼の建造であるとみなされるのである。

《冊府元亀》巻14に載る、敬宗の宝暦二年(826年)正月“勅,東都以来の旧行宮は、宜しく度支郎官一人に命じ、都料匠を率いて、関係する道路の簡易見積もり及び洛陽城宮闕を、東都留守と協議して見積りと分析して報告せよ”と。これから“都料匠”は官の匠師中の木工首領の職称であることが判る。 隋唐時代も沢山の巨大な石工工事があり、例えば隋代に天龍山石窟を開き、趙州の安斉橋を作り、唐代には龍門の奉先寺石窟を開き、洛陽の天津橋や中橋等を作った。隋唐は更に、多くの石塔を建築し、ある者は比例が美しく、ある者は紋飾りが精美で、全て高い芸術価値があり、惜しむらくは石工の名が大部分伝わっていない。少数の名前の残っている石工の中で最重要なものは、趙県安斉橋を建てた隋匠李春である。唐の宰相張嘉貞が撰した《趙郡南石橋銘》は、序の中で言う;“趙郡洨河石橋は、隋匠李春の跡である”と。だが、それ以上の記載はない。やや晩くなって張彧の撰した《趙郡南石橋銘》は、“穷琛莫算、盈紀方就”。“琛”は珍宝を指し、一紀は12年で、意味するのは多くの金銭を用いて、12年でやっと建て終わったことを指す。明代の孫大学の〈重修大石橋記〉に、李春は隋大業年間の石匠で、隋大業はたった13年、そして8年以後は各地で蜂起があり、已に建築する条件が無く、隋文帝の末期に始まり、完成は煬帝前記だろうとしている。安斉橋は正味スパンが37.02mで、世界で最早の敞肩型石橋(※注)である。李春はその設計者で、一般の施工の工匠では無かった筈である。e0309314_125415100.jpg 北京房山の雲居寺は唐開元九年(721年)に建った9重石塔に石匠の姓名が彫られ、“ 垒浮図大匠張策、次匠程仁、次匠張恵文、次匠陽敬忠”とある。この塔は唐塔の中で一般的レベルに属し、その工匠も当時著名な工匠には当たらないが、題名から知られるのは、当時主要に主持する人を称して、“大匠”、その助手を“次匠”と呼んだことである。
   (※注)敞肩型石橋:肩部を2重アーチとして、洪水時の水の抵抗を減らし、石材重量を軽減する構造のこと。1重で、石が詰まっているのは満(実)肩型という。

四、建築の等級制度
 晩くとも漢代以来、建築上已に1組の等級制度があり、この制度は先ず皇帝の宮室と王公居宅の差別を画定し、それを越えた者を僭上と呼び、厳格に処罰した。次に各級官員の住宅の差別を画定し、また次に官員と庶民住宅の差別を画定を必要とした。惜しいことに漢魏南北朝と隋代のこの方面の制度史料は散逸し、只断片の材料からこれらの制度が確実にあったことが知られるのみである。唐代には《営繕令》が制定され、27種の“令”の一つに、上は皇帝より、下は庶民の宮室第宅制度や各級官署制度及び若干の関係する工事規定が規定された。《営繕令》の全文は伝わっておらず、バラバラの史料中からその断片的情況を知ることができる。日本の学者仁井田昇選の《唐令拾遺》に、現存の各条が収集されており、参考にできる。
 封建社会では、建築等級制度だけではなく、その他の衣、食、行各方面も全て制限する制度があり、この1組の制度の制定は2種の意義があった:
 その一は、当地階級内部の相互関係の確率であり;
 その二は、当地階級と被当地階級間の関係の確率で、前者は尊卑関係であり、後者は貴賎関係で、その根本目的は、この種の関係を安定させ、以ってその統治を強固にすることであった。
 (漢の)賈誼(※注)は〈陳政事疏〉で言う:“人主の尊譬は堂の如く、群臣は陛の如く、衆庶は地の如し。故に陛(注;陛は、原意は宮殿の階段)は9級の上、堂側が地から遠ければ、堂は高級で;堂側が地に近ければ、堂は等級が低い。高級なものは登り難く、低級なものは登り易く、情勢はこの様である。故に古は聖王の制度は等級を分け、内は公卿大夫士、外は公侯伯子男、それから官師小吏から、庶民に及ぶ等級をはっきり分け、天子が加わり、その尊さは遥かに及ばない”。この中で言っているのは、当地階級内部の尊卑関係を確立し、天子を尊ぶこと即ちほう権秩序を維持する目的に到達する。彼は《新書》の中で又: “新規の服装と花紋標章は等の上下を以って貴賎の差とし、……貴賎には級が、服位は等があり、以って天下はその服を見れば貴賎を知り、その標章を望んでその勢を知り、……尊卑は已に明白で、上下は已に分けられ、人倫の法と言うものである。……下級の者は登らず上位の尊い者を待ち、臣下は級を超えざれば主位の者は安泰である。人倫の規律を謹んで守れば、乱は生じない”と。彼が看る所では、人の行為礼節、衣食住流動には明確な区別があり、その身分地位を表して、一目で知る事は、封建国家が長く安泰を維持する大事なのである。
  (※注)賈誼:前漢の政治家。服色等、等と級を定めて、漢の制度を改めた。

 歴史上の多くの各種制度規定は、服飾や車馬、居宅の奢侈を制限する記載がある。この情況は極めて多くが前朝が奢侈濫用により民力を失った後、新朝建国の初めに発生している。例えば、梁の武帝が斉を滅ぼした後、東昏侯の異常に豪奢な服飾62種を都の街中で焚いた;唐の東都平定後、洛陽宮の端門楼、則天門、闕並びに乾元殿を破却し、その政治目的が前朝とけじめをはっきりつけることを示し、民心を勝ち取り新政権を安定させることにあった。政権に腐敗が発生した場合には、奢侈の風が盛大に吹き、甚だしくは政権の安定に影響する。唐の徳宗、文宗の時2度に渡って奢華と邸宅が限度を越えるのを禁じた。その政治目的は亡国の危機を救うことにあった。これらの措置は、当地階級と民衆の関係を調整し、過度に搾取して民衆の土地を失い流浪して、農民に蜂起させる作用を防止することにあった。
 漢以来、この等級制度はだんだんと厳密になり、取分け重視したのが服飾、車馬、墓葬等の方面である。唐代はこの種の等級の禁制を〈令〉の形式を以って頒布した。唐代の27種の〈令〉の内、専門の令は、〈衣服令〉、〈営繕令〉、〈喪葬令〉である。唐代の服飾は、公服と常服に分かれる。公服は品質と等級により色、素地、図案と佩帯物に明確な差別がある。常服の級差は主要には衣服の材料の良し悪しと色で異なる。庶民は一般に只白色か黒色の木綿の着物で、その為、官員は免職の後引き続き、何かする時“白衣を以って力効かす”と言われた。唐代の墓葬での等級は、已に本章陵墓節で論じた。唐代建築での〈営繕令〉は、まさに工部と将作監が共同で制定して、〈令〉の形式で発布した規定である。将作監が主持する内工、外工と私人が自ら建築する建物全ては、これを参照して執行する。唐代の〈営繕令〉は、尚少量の条文が流伝していて、最重要なものは《唐会要・与服・雑録》中の文宗太和六年六月の勅書で、全文は以下の通り:
 “〈営繕令〉に準ずる:王公以下の舎屋は、重栱藻井を施工してはならない。三品以上の堂舎は5間9架を超えてはならず、依然として廈両頭でよい;門屋は3間5架を越えないこと。五品以上の堂舎は5間7架を越えず、亦廈両頭でよい;門屋は3間2架を超えないこと。六品と七品以下の堂舎は3間5架を越えず、門屋は1間2架を越えないこと。非常参官は、軸心舎を造ってはならず、懸魚、対の鳳凰、獣瓦、通栿、乳梁装飾を施工してはならない。……その士庶公私の住宅は全て楼閣を造って他人の家を監視してはならない。……庶民の造る堂舎は3間4架を越えてはならず、門屋は1間2架を越えず、依然として外に翻出する装飾を施工してはならない。”
 ここで言っている“重栱”はまさに出跳2以上の栱である。已に発掘された唐墓では、墓室の壁画に多くの1斗3升斗栱が描かれ、上に替木を承け、描くのが正投影なので、出跳しない“杷頭絞項”としているのが判り、出跳1で替木を承ける“斗口跳”であることも判る。別に2層斗栱を描くものがあり、例えば虢王李鳳墓がある。これは出跳1の華栱と理解することが出来、上は令栱替木を承け、王公以下が多く出跳1の華栱を出せることを知る。“架”は椽数を指し、7架は即ち奥行き7椽で、宋式の“架”と同義で、清式の7架梁の架ではなく、清式は“架”を以って檩(垂木桁)の数を表す。唐徳宗の時、住宅に増税し、“間架税”と称し,ほぼ社会動乱を引き起こした。その法の規定は“凡そ屋は、2架を1間とする”で、《営繕令》の庶民の堂舎が4架の規定と結び付けたので、この法は庶民の家の税を2倍にしたのが知られる。この条文は〈令〉中の架が1椽の奥行きを指すことを証明している。廈は斜面の屋根を指し、〈令〉中の“門屋は1間2架”の句と、《冊府元亀》中の“架”は“廈”と作る。“両廈”は斜面2つの屋根を指す。“廈両頭”は堂の両頭も斜面屋根を指し、即ち入母屋造の唐宋時の名称である。“常参官”は《唐六典》の解釈に拠れば、“五品以上の職事官、八品以上の供奉官、員外郎、観察御史、太常博士を言う”。職事官は実職にあるものを指し、供奉官は中書・門下2省と御史台官員を指す。五品以上の職事官と八品以上の供奉官は、大体毎朝参加する官員で、常に皇帝の左右に居る。“軸心舎”の一句は他書に見当たらず、(清の)陳阮龍の《格致鏡原》は工字型の殿舎と解している。工字型の殿舎は目下の所、最早の例は渤海コクの官殿で、唐代にこの方式があったのは確実である;だが、住宅門も中軸線上に設け、庁堂と南北に相重なり、官署に近い体制で、大門を左側に設ける一般民家に区別するものかも知れない。装飾中の対の鳳凰は、屡々唐墓中に見られ、石の墓門上方に刻み、実物が無いため、第宅中の何処に用いたかは不明である。通栿は、前後の檐の梁を横に跨るものを指し、乳栿は長さ2架の梁を指すが、ここではそれは概括する各種跨度の梁を言い、梁上に彩画彫刻の類の装飾をしてはならない事を指す。
 この他、《唐六典・工部》中に簡略して記す宮室制度がある。文に言う:“凡そ、宮室の制は、天子より士庶に至る、各等級の差がある”。その下の原注に言う:“天子の宮殿は皆重栱、藻井を施工する。王公諸臣は三品以上9架、五品以上7架、並びに庁は廈両頭;六品以下は5架。その門舎は。三品以上は5架3間、五品以上は3間両廈、六品以下庶民は1間両廈。五品以上は烏頭門にできる”。ここに記した事と前に引用した《営繕令》の内容は同じで、やや簡略である。《六典》は成ったのは開元二十七年(739年)で、引用は開元四年の宋璟が刊行した《令》文である。前に引いた太和六年の勅中に引いた《営繕令》は依然《開元令》中の内容であった。
 《営繕令》に拠れば、:(1)皇宮を除き、五公以下の官員社宅は全て重栱、藻井を用いてはならない。(2)三品以上の官の堂は5間9架の入母屋造建築ができ、門は3間5架の霧妻建築である。(3)五品以上の官の堂は5間7架の入母屋造を建ててよく、門は3間2架の切り妻造。(4)五品以上の官は宅前に別に烏頭門を建てて良い。(5)六品、七品以下の官の堂は、3間5架の切り妻造建築で、門は1間2架の切り妻建築。(6)常参官だけは工字型の殿舎(或いは大門を中軸線上に建て)を建ててもよく、懸魚、対の鳳凰、獣瓦並びに梁上に装飾しても良い。(7)庶民の堂は只3間4架の切り妻建築だけを建てて良く、門は1間2架の切り妻造。(8)士庶公私の第宅は、全て別人の住宅を俯瞰できる楼閣を建ててはならない。
 この8条中、前の6条は官員貴族の第たくのもので、第7条は一般庶民に制限するもの。第8条は住宅のプライバシーを保護する一切の人に対するものである。
 この他、《資治通鑑》に記す徳宗即位の初に、元載、劉忠翼宅を破却した時に言った:“初め、天宝年間に、貴戚の第舎は奢麗を極めるとは言え、塀付きの邸宅の高級下級は、なお制度があった”と。則ち、《営繕令》中の、“塀付きの邸宅の高級下級”も禁止の制限があった。これから推測できるのは、《令》中には、社宅の等級の制限の条項がまだ多くあり、惜しいことに遺失して伝わらず、考察する術が無い。
 《唐律》中にまだ規定があり、:“諸映像の社宅は、例に違反する者は、杖打ち百。赦令があったとしても、全て令は改め正される”。《令》に対しては強制執行で、違令は処罰が必要であった。だが実際上は、対《営繕令》の執行の緊決徹底は不可能で、初唐以来、第宅の奢侈禁令違反は、史上絶えることがなかった。安史の乱以後、中央政権が衰微し、功臣や宿将、宦官は結局第たくを造るのは、贅沢が風潮となり、禁止する術が無かった。上に挙げた太和六年の勅書は、唐文宗が整理することを欲して、宰相等に再度禁令を申渡し法の実施を命じた。《冊府元亀》にはこの事を記した後に“帝(文宗)”は自ら即位し、自身が倹約し、奢侈の弊を改め、ついに官僚に制度を示すよう命じた。勅を下した後、無意味な議論が沸騰し、京兆尹の杜悰は、勅内の条件に施行し易いものを奏請し、その制限を寛やかにし、事が全て行われず、公私はこれを残念に思った”。まだ実行する方法が無いことを知る。だが、これらの法規は皇帝と中央権力の力量が削弱な時は、功臣貴戚や兵を抱える猛将に対して無効とはいえ、中央権力が兄弟有力で、政治が比較的清明な時は、まだ一定の拘束力があった。
 建築中の等級制度の表明は、どんな形式と規模の建物を建てるかと併せて、その人の財力と好みを視るだけでなく、主要にその人が受ける社会的地位の制限が視える。このように、等級制度は、建築の発展二対して2方面の影響を持つ。その一つは、一定程度建築技術と建築技術の発展に障害を起こす。凡そ、法令を突破するか、法令に載らない新事物は、等級制度の約束の下での生産と流行は、全く容易ではなく、その上にこれと相補うように、社会には更に一種無益な精巧さを強く戒める伝統があり、時には良し悪しが難しく、新しい事物も過度に贅沢で浪費的な無益な精巧差と同じにされてしまった。その二には、この種の等級制限は又、城市中の建築二ある種の秩序を保持させることが出来た。居住地区の坊で、庶民の居宅は官員の第宅より下級で、官員の第宅は又その品級を視ると若干の等級に分かれ、差別は判然とし、衛署や寺観は又邸宅より高級で、最も高級なものは皇宮であった。このようにして、里坊内や街道の建築に明白な尊卑の区分をさせ、又共同で皇宮に臣服させ、封建秩序として建築上の体現をした。これは又、ある種の程度、中国古代城市内の建築物の統一した階調と、重点的突出が鮮明になる特徴を形成し、極力この階調が厳格な等級制度の下、重点的な突出こそ皇権と封建国家であった。







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# by songofta | 2017-10-10 14:12 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

258 工程管理機構と工官、工匠(1)

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
第三章 隋唐五代建築
第13節 工程管理機構と工官、工匠

※ここから、建築の官僚機構の長である工官と、実務を行う職人の工匠の話に移る。工官は、北朝出身で鮮卑族の宇文恺と、南朝出身の何稠の項のみを訳出する。工官は、他に数名あるが別の機会に譲る。
工匠については、次回とする。

一、建築工程の管理と実施機構
 隋唐の二代、多くの宏大な工程が進行し、古代工程技術史と城市建築史上で創めて記録された大運河と、隋大興城が隋代に建築が始まり唐代に発展完成した。これ等は全て設計施工の任務が巨大で、動員する人力は空前の巨大な工程で、国家が主持して起こした工事である。当時の国家は強大な計画設計と施工組織能力があり、その機構こそ尚書省工部将作監である。
 中国は古代より工程管理の専門機構がなく、戦国以前については詳しく考証が難しく、大体は漢以来尚書省民曹、尚書省工部系統と将作系統が併存し、相補って成してきた。
 将作の設立は秦に始まり、秦代に都城宮室の大建築は、将作少府を設け、“宮室を掌り”、その長官を丞と呼んだ。漢代も依然として、将作を設け、長官を将作大匠と改称した。後漢は将作大監を設け、“宗廟や正庁、宮室、陵園の土木工事を掌り、併せて桐樟を植え、道の側に並べる”。東晋南朝時期は、事が有る時に設け、無くなれば廃止した。北斉は将作寺を設け、長官を将作大匠と呼んだ。北周は周の官を真似て匠師中大夫を設け、宮室城郭の制を掌らせた;又、司木中大夫を設け、木工の政令を掌らせた。隋は北斉の制度に沿って、先に将作寺を設け、後に監と改称した。唐は基本的に隋制を援用し、将作監を設け、長官を将作大匠と呼んだ。
 漢の朝廷は尚書省に5曹があり、その中に民曹があり、後漢の時、“営繕建築の主持、土木工事、採塩地、園苑の工事を兼務し”、行政機構が宮の工事をする始めとなった。両晋南北朝時期、例えば宗廟、宮室の営造の場合は、臨時に部を起こして尚書省が管理し、終われば撤去した。北斉時期も部を起こして工程を主管し、北周は冬官大司空卿と呼んだ。隋代の開皇二年、尚書工部を設け、工部と屯田2曹を管轄した。唐は隋制に沿って、尚書工部を設け、下に工部、屯田、虞部、水部の4曹を設け、建築工程、屯田、山沢、長江黄河の水利を分けて管轄した。
 このように、隋唐時期に、基本的に尚書工部と将作監2つの主管工程部門が形成された。《唐六典》の記載から見ると、2つの部門の性質と任務は異なる:
 《唐六典》巻7尚書工部に、“工部尚書は、侍郎(長官、副長官)の職で、天下の百工、屯田、山沢の政令を掌り、属する者が4つある;一つ目は工部で、二つ目が屯田、三つ目が虞部(山沢のこと)、四つ目が水部である”。四曹中の工部が主管する官は、“郎中、員外郎、起工の庶務経営、城池の修復浚渫、土木の営繕葺替え、工匠の規格、全ての経過管理を掌る”。尚書省は最高の行政部門で、うえに述べた事は、工部は主要には全国の建設工事の計画部門で、“工匠の規格”の句に拠れば、その部門は工程規範と見積り等を制定しなければならない。
 《唐六典》巻23、将作監の条が言う:“将作大匠の職は、邦国(小国)の修理建築、土木、工匠の政令を掌り、全部で4署、3監、百工の官属が、その職事に供する。少匠貳なり。凡そ西京の大内宮や大明宮、興慶宮、東都の大内宮や上陽宮、その内外の郭台、殿、楼、閣並びに杖舎等、苑内宮、亭、中書、門下、左右羽林軍、左右万騎杖、十二閑厩屋宇等これを内作と言う。凡そ山陵と都の太廟、郊社の諸壇廟、都の諸城門、尚中殿中、秘書、内侍省、御史台、九寺、三監、十六衛、諸街使、弩坊、温湯、東宮諸司、王府官舎屋宇、諸街橋道等、並びにこれを外作と言う。凡そ建造営繕葺替え、分功、度用、皆以って委ねられる。
 上の文に拠れば、所謂、“内作”は宮城禁苑範囲内の営造を指し、“外作”は京や都の郭内の官署や廟社、王府、郊外の壇廟、付近の皇陵の営造建築、都の城門と御道の街と橋の維修を指す。これ等は、将作監が建造維修の工程に責任を持っていた事を示す。“分功度用”の句に拠れば、将作監は更に、設計と工料の見積もり、予算の制定等に責任を持つ必要があった。これはつまり、将作監は皇家や、中央の国家機関と首都の城門、街道の営造維修を主管し、計画と設計、予算、施工の諸方面を包括する。
 将作監の下に設けた官署の中に、左校署、右校署、甄官署と百工監等は全て具体的に営造建築中ある一部門を主持する。左校署の長官は令で、“建築する梓匠(注;木器物を造る人と建物を建てる人)の事と、その雑材の調達、その是非を調べ、その器具の制度を作り、その工事の腕の評価を掌る”。即ち木工部門に責任を持つ。大型宮殿建築は、大体が木架構の建物で、木工は最重要の工種で、建物の設計は先ず木架構の設計である。《唐六典》の左校署部分には更に“宮室の制”が記載され、(建築等級の部分に詳述され)建築等級区分にも表され、木架構設計上にも表現が要る。故に、将作監の中で建築設計と施工に責任を持つのが左校署である。
右校署は、“版築、壁塗り、赤色を塗る事を掌る;……凡そ材料は皆、その属する理由があり、その制度を審査しこれを計る”。その主管は土方、塗工と彩画工程を掌る。版築築土は、中国古代建築で極めて重要な地位を占め、基礎や台基、壁や城壁及び河と水路、堤防等は全て土木或は築土版築工程に属し、その労働力を用いる所は最多で、大工程はともすれば数十万の民夫を動員し、主要にこの種の工事に従事する。宋代は土方、築土工程は壕塞と言い、主管は壕塞官と称し、唐代にこの名称は未だ無い。
甄官署は、“石彫、陶土の事を掌る。……凡そ石作の類は石磬、石人、石獣、石柱、石碑、石臼が有り、一山の土から、役に立つ物を用いるのである。凡そ磚瓦の制作、瓶壺の器、大小優劣、各々軽重の基準がある”。この他、明器の制度を作る責任を持つ。その主管は、石工と磚瓦、陶器の制作である。石工は、建築中で用いるのは主要に、台基や欄干、柱礎の類である。だが、陵墓の石碑や石獣、石柱等を用いるのは、巨大で高い芸術水準の石彫技術を持ち、材料の採用や彫刻、運輸、据付には全て巨大な人力を消費し、併せて厳格な要求がある。北魏以来、皇家が開鑿した仏教石窟は、最大の石彫工事であった。《隋書・百官志》に記す北斉の官制は、その太府寺は、“金絹と府庫を掌り、器物を営造する”、内に“甄官署を設け、又別に石窟丞を領す”。これで知られるのは北斉時期、皇家が開く石窟、例えば北響堂や天龍山等は、甄官署の責任であった。同書が言う“後斉の官制は、多くを後魏を踏襲し”、故に北魏の石窟は恐らく甄官署の責であった。隋代の甄官署は依然として太府寺に属し、唐に至って始めて将作監に入った。《通典》に言うそれは“磚、石、瓦の営造を掌り、《唐六典》に載る所と基本的に同じである。唐代最大の石窟工事は」、則天武后の開いた奉先寺の廬舎那大仏一組で、甄官署が責を負ったのかどうかは、史料に明文がない。
この他、将作監中にはまだ、百工、就谷、庫谷、斜谷、太陰、伊陰等の監は無く、《唐六典》は言う:“百工等の監は、材木伐採の事を掌り、その名を論ずるのはこれを主とした為である。凡そ修造には、材料に関わる道具が必要で、全て時にこれを取り、基準によりこれを用いる”。これに拠り、百工等の監は、木材の伐採と分類管理を主管し、工事の木材料と版築に用いる楨幹(注;木柱)等の工事道具を供応する。
将作監は更に、直接工匠を掌握した。《唐六典・工部》に言う:“凡そ、興建修築、材木、工匠は、則ち少府、将作の下にあり、以ってその工事を行う”。その下の原注に言う:“少府監の工匠は1万9千8百50人、将作監の工匠は、1万5千人、諸州に散らばって、皆膂力が強く、技能が優れている”。
 上述を通して知ることができるのは、将作監の職能は、具体的に“内作”と“外作”の計画設計、材料の制作準備と施工であり、皇帝と中央政府が直接掌握する計画、設計、材料調達と施工を一体の営造建築実態に集中する。工部は全国の工事の進行計画、管理並びに統一的規範と定額 (人力、物力、財力、期間全ての標準)等の行政管理を行う:2者の職能は異なり、相補い合って遂行する。隋唐以前は、この2組織は時期が異なって設置されたり、同時に設置されたり、職能も有る時は混淆してはっきりせず、有る時は交錯した。同時に設置され合理的に工事を分割されたのは、隋に始まり唐で完成したものである。
 隋唐2代は重大な工事毎に、多くは工部と将作監が共同で主持した。《隋書》に載る開皇二年(582年)新都の大興を営造する時、宰相の高熲は官僚を率いて、営新都大監に任じられ、実際には営都副監の宇文恺が彼に代わって主持し、参加したのは工部尚書の賀類乾、将作大匠の劉龍、太府少卿高龍義等である。隋の甄官署は太府寺に属し、故に太府寺匠卿が参与した。工部尚書と将作大匠は、高熲の指揮の下に参加し主持した。隋煬帝の大業元年、東京の営造に、宰相の楊素を命じ、楊は営東京大監となり、営東京副監は実際上依然として匠作大匠の宇文恺が主持して事に当たった。大業四年、丁男20余万を発して長城を築き、又河北諸郡の男女100余万に発して永済渠を開鑿したが、全て閣毗が主持し、その功を以って将作少監を率いた。唐代の太宗貞観9、10年昭陵と献陵を営造し、14年汝州襄城宮を営造、20年長安宮城北闕を営造、21年翠微と玉華の2宮を営造したのは、全て将作大匠の閣立徳が主持し、功を以って工部尚書に転じた。この例で判るのは、重大な工事の時、2つの機構は協力し、具体的には将作大匠が主持し、大匠に功績があれば工部尚書に昇格することである。
 《隋書》に載る、隋文帝の決めた新都大興の建設は開皇二年六月丙申で、先に高熲、蘇威等の重臣と事前に討論し、大体この時計画は既に輪郭が形成され、詔が下された後、たった9ケ月に時間で、文帝は新宮に人を遷し、その計画と施工組織の能力は驚くべきものがある。煬帝は東京の建設を仁寿四年11月に決定し、大業元年3月に建設の詔を下し、計画設計時間は4ケ月を越えない。大業二年正月に完成し、建造期間は11か月を超えない。その速度は大興城の営造とそっくりである。史料では東京営造時、月に100万人の労役があり、宮城は70万人が築き、その工事組織と技術指導、検査の任務はさぞ多くてきつかったろう。《隋書・煬帝紀》に載る東京建設時、“監督者に賜うのはそれぞれ差があり”、一群の監督の官員が組織されたことが判る。《隋書・裴矩伝》は言う:“煬帝が即位し、東都を営造し、裴矩は府省を担当し、9旬の間就く”。府省は即ち皇城の官署で、皇城の占める地は、1平方kmに近く、9旬で建設し終わり、その速度は実に驚かすものがある。この方面は監督が裴矩一人で行ったが、大量の工事計画や材料供給、工種等級等の具体的問題は、工部と将作監が領導する管理官僚と匠師から拠って来ることである。隋大興と東京2座の都城宮殿の営造建設は、隋代国家の掌握する計画、設計、材料調達と施工組織と実施能力を充分繁栄するものである。

二、工官
 隋唐2代の工官は即、尚書工部と将作監の長官である工部尚書や将作大匠とそれらの主要属僚である。工部尚書は、尚書省六部首長に一つで、行政官であるが、重大工事の時には、往々にして工事に経験があるか建築に習熟した人であった。将作監の将作大匠は具体的に計画や設計、施工を行い、その下には左校署や右校署、甄官署の令、丞、監作、部下に工匠達があり、即ち熟練した技術の匠師である。彼等は技術官に属する。普段、将作監は重大な工事がなく、大匠は多くが貴族の子弟が任命され、則天武后の時、その堂姉(注;従姉)の子宗晋卿を将作大匠に任命し、中宗の時楊務廉を将作大匠に任じたが、皆悪名で汚し、その評判は大変悪い。一群のものは営造建築を行う官から出た者も、人に尊重されなかった。睿宗の時、竇懐貞は尚書左僕射(副宰相)で、自ら金仙、玉真の2道観を建てる監役となった。その弟が風刺して言うには、“兄は位`宰相補佐を極め、代わりに政策を献じて,良い建議をし、以って明主を補佐する任にある。何を思って瓦や木材を見積もって、厠を工匠の間に置き、国中の賞賛を得ようとするのか”と。唐玄宗は宰相として決める能力がないと見做した人は、彼の将作大匠の康䛒素であった。平時は将作大匠に任じる人は、皇帝が重視しない人で、見る所のない人でもあった。
 だが大きな建設の時は、将作大匠は却って一群の本当に工程を知る人を任命し、これらの人は、時機に応じて、重大な貢献を造り出し、卓越した計画家と建築家と成って、一時代の城市計画と建築の発展を推し進め、偏見を持つ封建史官さえも肯定せざるを得ず、正史に載せたのである。《隋書・宇文恺伝》後の史臣の評価は、隋煬帝の奢侈華麗の心に迎合したと批判するが、彼は“学と術を兼備し、知識が豊富で、規矩の妙は、(専門家の工匠達と)差がなく、当時の制度は、皆規範を取ったのだ”と。彼が一時代を開いた大建築家で計画家であったことを承認している。
隋唐2代に重要な成就をした卓越した工官には、宇文恺、何稠、閻毗、閻立徳、閻立本、韋機等がいた。分けて言えば、以下の如くである:

(宇文)
 宇文恺は鮮卑族の人で、祖籍は昌黎大棘で、後に夏州(今の陜西省靖辺)に移った。彼は西魏恭帝二年(555年)に生まれ、隋大業八年(612年)に亡くなり、享年58歳。
 彼の父宇文貴は北魏の旧臣で、北魏孝武帝に従って西に関中に走り、後に北周の功臣となった。その兄宇文忻は隋開国の功臣である。史書は、彼は幼時より“学を好み、博覧強記、属文を解し、技芸多く、号して名父公子となす”と。父兄が軍功を以って家を起こすのと異なり、青少年時に北魏や北斉、北周以来の北方文化伝統と典章制度や文物事績を熟知していた。北周大象二年(580年)楊堅が丞相の時、宇文恺は匠師大夫に任じられる。《唐六典》に、北周のこの職は、“城郭、宮室の制及び諸器物の度量を掌る”、これは城郭、宮室の計画、規制の官で、この時僅かに26歳。
   隋に入った後、早くも彼は重要な計画設計の任務を担当し、例えば、
   開皇元年(581年)営宗廟副監、年27歳
   開皇二年(582年)営新都副監を領す、年28歳
   開皇四年(584年)開広通渠を督す、年30歳
   開皇十三年(593年)将作大匠、営仁寿宮を検校、年39歳
   仁寿二年(602年)営泰陵、年48歳
   大業元年(605年)営東都副監、年51歳
   大業四年(608年)工部尚書、年54歳
   大業五、六年頃(609-610年)選明堂議及び木様、年55或いは56歳
   大業八年(612年)10月死、年58歳
 総合して彼の一生を看ると、隋代の重大な城市計画と宮室官署建設は、大体全て彼の主持の基に完成した。《隋書・宇文恺伝》の言う大興建設時、“高熲が総大綱であったとは言え、凡そ計画は、皆宇文恺であった”は、宇文恺が実際に大興城建設を計画した人であった。大興城は人類が資本主義社会に侵入する前に建造された最も巨大な都城で、わずか28歳の青年がその計画を完成させたのは、言い様もない奇跡で、宇文恺の天才と卓越したレベルが想像できる。
 隋が陳を平定する以前、宇文恺の文化背景は、北魏、北周、北斉の北方文化圏に属し、彼の計画した大興城は基本的に北魏洛陽、北斉鄴南城と北周が崇尚した周礼の王城制度から成り、それらの総合と手順化であった。589年隋が陳を平定すると、建康の宮室を破却し、この期間に宇文恺は建康に住み、自分の目で焼却された明堂基址等を観察し、南朝建築を理解したのである。これから後、彼の計画設計する城市、宮殿は、即南朝の幾つかの特徴を吸収し始めている。大業元年(605年)、彼は東都洛陽の計画と建設を初め、煬帝の傾慕する江南文化の心理に迎合し、“梁陳の曲折を以って兼ね、規模とする”。これから推測すると、開皇十三年(593年)営仁寿宮の時、宇文恺は已に江南宮室を調査し終わり、仁寿宮を建て史籍に言う“崇台累榭、宛転相属”、“頗傷綺麗”は、江南宮室の特徴を吸収したからかも知れない。これらの情況から看て、宇文恺は、実に隋統一にあって全国初の形成変化に適応でき、計画設計に南北方の長所を兼ねて採用し、それを大成した第一人者であった。これは彼が計画設計上、卓越した成功を取得し同輩を超越した原因であった。宇文恺はかつて、その兄宇文忻が殺され家に閑居されたが、文帝、煬帝父子は最後まで重任を委ね続ける事を望み、彼は当時最重大な工程を主持し、その原因もここにあった。
 当時にあって、皇家と政府の工程の最高責任者を務めるには、技術に精通しているだけでは遥かに不足で、典章制度や経学礼法並びにそれと実際の需要を巧妙に結合することに知悉していることがひつようである。宇文恺はこの方面にも特長があり、同輩より優れていた。かれの支持して計画した大興城は、実際の政治、経済、軍事と城市生活の必要を、北魏以来の都城の伝統と《周礼・孝工記》の原則の記載と結合した傑出した範例である。彼が撰した《明堂議》は歴代の明堂制度の沿革、得失、優劣を逐一比較し、事故の意見を提出し、併せて1/100模型を作り、1枚の古代の設計の説明書と明堂建築に関する考証文献を作り、彼の深い学識と実際能力の連携を表した。
 宇文恺の計画設計した大興、東都の2城は、その平面は已に基本的には明らかにされている;かれの計画設計の太極宮、仁寿宮と東都宮三宮中、只東都宮の平面のみが大体明らかになっている。これらは全て已に本章の都城、宮殿部分で深く検討されている。検討中で八卦された、宇文恺が大興城を計画した際、子城の長さと幅にモジュールがあり、全城を若干の区域に分け、区域の中に里坊を配置し、全城の居住里坊と方格状の街道網を形成している。23年以後、彼は東京洛陽を計画する時、改めて“大内”の長さと幅をモジュールとし、洛水で南居住区を若干の区域に分け、区域に里坊を配置し、整頓された配列の里坊と方格の街道網を形成した;彼は又“大内”面積の4倍を子城とした。両城計画中、全て一標準面積をモジュールとし、当時の城市計画上已に一つの先進的方法で、東京計画時、改めて“大内”をモジュールとし、坊や大内、子城は各4倍面積を順次増やしたと説明し、この方法は依然として発展改善進化中にあると言っている。洛陽の“大内”は、その主殿が“大内”のどの位中心かは発見されていて、“大内”の面積は、更に方50丈の網格が縦横各7格あり、その上に宮殿が配置された。これ等の特徴中、主殿が全宮殿中のどの位中心に配置するかは後漢の未央宮の出現を除いて、その他の多くでは始めて見るものである。その中で50丈の網格を以って管理線として配置する大建築群の手法以後、又唐大明宮と渤海国上京宮殿中に出現し、已に唐の汎用手法と成った。これ等は宇文恺の創造或いは前人の基礎の上に発展したものである。彼が計画、設計した時、一連の原則と処理手法は、その当時計画と建築設計上の最高の成功を代表し、我々が深く発掘し解明する極めて大きな価値がある。

(何稠)
 何稠は、南朝の人で、父は腕の良い玉の彫刻工である。10余歳の時、北周が江陵を攻め落とし、ついにその兄に従って長安に来た。隋文帝の時御府監や太府丞等の職に任じられる。彼は精巧さを心がけ、旧品を多く知り、古図を博覧し、工芸の製法に精通し、ペルシャ錦と瑠璃瓦の倣制はとうじの人の重んじる所であった。仁寿二年、宇文恺と共同で太陵建設工事に参加し、隋文帝の親しくなった。煬帝の即位後、大業元年に太府少卿に任じられ、儀仗車輅を設計制作する。後に又煬帝の為に観風行殿と六合城を造る。隋が滅び唐になると、将作少匠に任じられる。唐初に亡くなる。554年北周が江陵に入った時10余歳であったことから、死んだ時歳は80歳に近かった。
 何稠は隋代の重要な工官中、唯一の南朝人であった。北朝時期、北魏、北周、北斉は全て、江南の文化と典章制度を傾慕し、文物儀衛は中原伝統文化のある所としていた。隋文帝が彼に命じて太陵建設の工事に参加させたのは、彼の文化背景を利用し、南北の長所を集約して一代の制度に定めたい思いであった。太陵の制度はもう考証できないが、31年後の唐高祖の献陵は、きっと太陵と継承関係がある。献陵は地面を均して陵を建て、陵垣の四面に門を開くのは漢陵に源があるが、門外に石獣華表を立て、獣種は南朝と異なるとはいえ、その間には一定の関係がある。故に、隋唐の陵制中に少しばかり南朝の影響が含まれるのは、何稠の行った事に相当する。隋煬帝即位後、彼に命じて“図籍を討閲し、與服羽儀を営造せよ”と。“服章文物”の“闕略”も、彼が南北の長所を総合して一代制度を創立させたとある。何稠も“今古を参照し、多くを改創した”。だが、煬帝は奢侈美麗を追求し、民を過度に働かせ、瓜と成した悪政の一つであった。(この句は意味不明)
 《大業雑記》に拠れば、観風行殿は“3間両厦、丹色の柱と素の壁、彫刻の梁美しい棟、一日の内に端正に屹立する”、建物の活動であろう。当時の工程は皆、帳幕を以って出行し、大きさは数種あり、これを改め宮殿式に活動する建物とし、自然と大げさで奢侈美麗を好む煬帝の喜ぶ所であった。六合城は《隋書・礼儀志》に拠れば、“方120歩、高さ42丈。六合は、木を以って作り、方6尺、外面の一方は板があり、これを離合し、青色を塗り、6板を重ねて城とし、高さ3丈6尺、上は女壁板を加え、高さ6尺。南北に門を開く。又城の4隅に敵楼2を起て、門観、門楼、手摺りは皆美しく丹青で描く。又、六合殿、仙人帳を造る。槍車を載せ、車は六合3板を載せる”。この描写から看ると、これは、木板を合成した城である。六合城は本来煬帝が北巡出塞時に制作したものである。大業八年、煬帝が高麗を侵し、更に大きな六合城を設け、同書はそれを称して、“周回8里、城及び女垣は併せて高さ10仭(8丈)、上は甲冑士を配し、杖建旗を立てる。又4隅は闕と、面して別に一観があり、観のしたは3門を開く。その中に行殿を施し、殿上は侍臣と三衛杖、合わせて600任を容れる。一夜の宿として華美である”。言っているのは、城の周囲8里に高さ8丈で情理に似合わず、誇大かも知れないだ、《隋書・何稠伝》に載るのも、8里で、疑いがあるだけである。戦争は厳酷で、働く民の財産はこの種の幾つかの劇により損なわれ、防御作用の全く無い木城は敵に誇大な耀やかさは敵のあざけりを引き起こすに足るものであった。史書の言う“高麗は遠くから望み、神功のようだと言い”、当に飾る言葉で、煬帝の2次の高麗侵攻は失敗に帰し、隋の滅亡を進めた。何稠は自己の才覚を煬帝のこの種の面子を飾る実用性の無いものに尽力して、歴史上悪い名声を残した。
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(この後、閻毗、閻立徳、閻立本、韋機、竇璡の長城や、永斉渠などの大建築の事績が続くが、我が国の建築とあまり関係がないので、省略する)



  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛

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# by songofta | 2017-10-10 13:38 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

257 隋唐の建築技術 磚石構成(2)

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第三章 隋唐五代建築
第12節 建築技術


2.磚塔
 隋唐の磚塔は、形式論では単層と多層の2類があり、多層は又密檐塔と楼閣型塔の2種がある。だが、構成構造から言えば、今の所、隋唐の塔は単層多層と言っても、只一巡する塔身外壁があるだけで中が空洞の空腔式塔である。五代に至って、やっと内部に塔心や回廊と、磚積みを用いた各層に楼面のある楼閣型磚塔が出現する。
 単層磚塔:多くは、方、円、六角、八角形の小塔で、一般には、塔心室一つがある、実心磚積み体で、門内に小龕一つを開ける。この類の塔表面はプレハブ式の磚かレンガ、磨磚を用いて、須弥座や仰蓮、柱、頭貫、斗栱、門窓を積み、秀麗精緻で、高い磚面の装飾工芸技術を表現し、例えば河南省登封会善寺の唐開元五年(746年)浄蔵禅師塔(図3-12-41)や、河南省安陽の修定寺塔、山西省遠城の唐泛舟禅師塔(図3-12-42)と招福寺塔(図3-12-43)等である。だが、それらは磚構成技術上はっきりした発展は見られない。
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 多層磚塔:隋の磚塔は已に存在しないが、唐代の密檐塔はまだ残った物が多く、西安の荐福寺小雁塔が最も著名である。塔の建立は、唐中宗の景龍年間で(約708年)、方形15層の密檐塔で、高さ43m。それは依然として空腔型塔で、塔の4壁は外に向けて迫り出して塔檐とし、内に向けて迫り出して木の楼板を承け、かなり特異な所は、又内壁より斜めに上に向けて出跳して迫り出し、内壁を螺線形に巻いて上に昇る梯道があり、各層の楼面に登る。中国古代の第榭は題の外壁を巻いて台を登る梯道を建て、外形が螺の殻のようなので、“蠡台”と呼んだが、内部に跳び出したものは、僅かにこの例だけで、その他の唐代の磚塔に、この様なものが有るか無いかは、尚考察を待つ所である。この塔は近年修繕され、基礎の版築土中に腐朽した縦横の木梁で、基礎を全体的に増強して設置されたのを発見した。層の塔檐隅の上毎に、磚を積んだ中に埋設された木の隅梁があり、隅角の出跳する檐の安定を補強することを以って、磚塔が採れる補助的な措置とした。小雁塔の下層塔心は素の壁だが、磚の色は上層と異なり、明らかに上層に比べて突出し、これも明代に包込んで磚積みしたためで、元々の磚の積み方は外観上見ることは出来ない。修繕時に現れたのは、塔は泥漿で積んでいた。 

 唐代の楼閣型磚塔は、西安慈恩寺塔、興教寺玄奘塔、香積寺塔があり、西安慈恩寺塔が最も著名である。塔平面は方形、面毎に門一つを開き、高さ7層、高さ64.1m、条磚を用いて積み、完成は則天武后の周長安年間である(約701-704年)。塔外面の各層は磚積みで柱や頭貫、大斗を出し、二重の花牙磚線を加えた後、迫り出して塔檐を出跳する;塔内部の各層も磚を出跳して迫り出し、木で作った楼板を承け、構造は基本的に嵩岳寺塔に近い。とうの外部は明代後期に包み込んで積まれたもので、内部も石灰を塗って覆い、新たに楼層と楼梯を建て、磚の積み方は今の所調べる方法がない。
 西安香積寺塔下層は特に高く、それより上の9層はみな等しく低く、そとの輪郭は密檐塔に近く、2層以上の塔身は皆磚を積んで柱や頭貫、大斗、門、窓を出し、又楼閣式塔に似る。構造上から見ると、それは依然として空腔型の木楼板の磚塔である。
 小雁塔と香積寺塔は皆、層毎に4面か2面に対向してアーチ門を開き、塔身構成上の弱点となり、明代成化年間の西安地区大地震で、皆、塔門に沿って垂直に1本の亀裂が入り二つに避けた。おおよそ宋、遼時期已に上下に1本の層を逐って門を設ける弊害が発見され、磚塔を建てる者は多くが上下層でずらして門を設け、外観上疑似アーチ門を以ってこれに代えた。
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              (参考)  西安香積寺塔

 五代時期、江南に一種の内に回廊の有り、塔内壁と塔心室は、磚積みの楼層を用いた新しい楼閣式磚塔が出現し、最も著名な例が蘇州虎丘塔と杭州雷峰塔である。
 蘇州虎丘塔は、平面八角形で高さ7層の楼閣式磚塔で、高さ47.5m、始めて五代後周の顕徳六年(959年)建立で、蘇州は当時呉越国に属していた。塔平面は正八角形で、層毎に各アーチ門一つを開く。外観の2層以上は塔身の上下に各平座と塔檐があり、皆磚を用いて出跳して迫り出し、又磚で1跳か2跳出跳したときょうで飾る。塔檐上部は磚積みで逆に迫り入って、上層平座まで下がって止める。唐代の空腔塔が只1巡の外壁であるのとは異なり、塔内は更に磚積みの巨大な塔心があり、それも八角形に作り、外壁との間に回廊を形成する。塔心の4つの正面には各アーチ門が開き、内に巷道を建て、南北と東西の巷道は塔心内で十字に交叉し、交叉する所はやや広げて、塔心室とする。平面上から見ると、この塔は内外2巡りの塔壁と中央回廊からなり、内壁の内側は塔心室とする様に見える。だが巷道と心室は低く且つ小さく、又この塔は巨大な八角形で、塔心に十字の巷道と心室を積んだ様にも見える。塔外壁内側と塔心(内壁)外側上部は、対に成ってそれぞれ出跳して迫り出して、交叉した後、回廊の頂部を構成して、その上は再び平らに磚を積み、楼層を形成する。楼層の厚さは1層の回廊頂部から2層地面の厚さが1.6mで、それより上は逓減し、7層の地面は下楼層との厚み約0.8mになる。この様な暑い楼層は、条磚を用いて継ぎ目をずらして平らに積んでいて、塔の内外壁の間の連係に対して、一定の役割を起こすはずである。塔に登る階段は木製で、回廊の上に設け、回廊頂上で磚積みに空孔を残して上がる。各層の空孔の配置は皆、できるだけ上下層の対置する両面とし、構造上の弱点の集中を防止している。塔の刹柱は塔頂から下に向けて、7、6両層の楼面を穿ち、塔心内の横梁上に立てる(図3-12-44、45、46)。
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 この種の塔内は、巨大な塔心(或は、内壁と塔心室)があり、塔心と外壁は磚を重ねて集り、上は地面を積み、楼層を形成し、各層の塔心と外壁は連接して一体的多層楼閣式磚塔となり、安定性と全体性は皆、唐代の空腔木楼板の磚塔より強度を必要とし、積層式磚塔の技術は已にかなり大きな進歩を遂げた。だが、塔外壁と塔心の間は只楼層の平積みの磚の結合に頼っており、不均等な沈下と歪に抗する能力はかなり少なく、故に宋代はこの種の工法を援用する時、外壁と塔心の間に木梁を架設し、一般には間毎に1梁、内外の結合の助けとして、一定程度この弱点を補っている。

 杭州の雷峰塔は西湖の南屏山の下にあり、北宋開宝八年(975年)呉越王銭俶のとき宦官が建て、当時は南唐や呉越がまだ在り、五代の余波と見ることができる。塔は13層で計画され、財力の限界で、7層で止めた。以後又削って5層とした。崩壊する前の情況は、平面八角形、底層は毎面幅約40尺、残高5層。毎層の8面は皆3間で、中央間は各一門を開く。2層以上は、下を平座とし、上を塔檐として、磚積みで柱、頭貫、腰串と扶壁栱、柱頭枋を出す。柱頭斗栱と詰組の所に、磚壁から内に1から3跳の華栱を出跳し、木架構の平座地面と塔檐の瓦頂を承ける。1層塔身の四周は木構造の回廊を建て塔下の裳階を形成する。その内部も磚積みの塔心で、構造は蘇州の虎丘雲岩寺塔と基本的に同じであろう(図3-12-47)。 この2塔は呉越国末年に建立され、いずれも塔心柱があり、磚積み楼層の多層楼閣式塔で、当時の新しい創造である。異なる所は、虎丘塔の外檐は平座を含み、塔檐は内に在って全磚造で、雷峰塔の外檐は則ち塔壁内に埋設した木部材であって、1から3層の出跳した木華栱が、木平座や木塔檐を承け、これは木檐磚塔である。この両類の塔は宋以後の興南地区が皆かなり大きな発展により出来たものである。
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3.磚積みでの護壁

 唐代の城門、城壁、建築墩台等は、殆どが磚包積(磚で版築を覆う)である。
 唐長安城壁、城門墩は皆版築で出来ていて、たとえ大明宮であっても、城門墩や城門付近の小区画と城隅の隅墩は磚包積で、厚さ約70cm、磚2枚分の長さである。だが、洛陽の宮城と皇城は却って内外が全部包磚で、且つ磚は特製の城壁積用の磚を用い、長辺を斜めに磨いた物と短辺を斜めに磨いた物の2種の規格に分け、分別して順磚と丁磚(注;長辺を横に積む磚と、直角に積む磚)として用い、その斜度と城壁の傾斜が一致する。城壁は僅かに残基が残るが、磚の具体的積み方はまだ調査がされていない。城壁本体の傾斜から、包積の磚も一層一層を内に収めていく必要から、版築壁との間に歯形の噛み合いを作り、壁体と磚表面の結合に有利にしている。
 幾つかの巨大建築の下の墩台、例えば含元殿の墩台や麟徳殿脇の郁儀楼と結鄰楼の2楼下の墩台等は皆、磚の包積みを用いている。継ぎ手を磨く磚(清代には“乾摆”と言う)を外壁に包磚する工法で、今知られている最早は後漢未央宮遺址である。南北朝時期の遺例はまだ見つかっていない。大明宮の中で三清殿下の高さ14mの墩台は、版築で建築され、四周は継ぎ手を磨いた磚の壁で包み、最も下の2層は表面を磨いた条石で基礎とし、今までで最も豪華と考えられる護壁の工法である。壁画には、磚で包んだ台基や墩台を上下が真直に継いだものが多いが、今までの所遺例では却って上下と食違いに継いでいる。唐長安龍首渠の両側壁と底は皆、包磚で、美化のためを除き、明らかに斜面を保護する役割を持っている。
 だが今まで、尚まだ磚積み壁の例は発見されていない、最重要な宮殿、例えば含元殿、麟徳殿は全て版築壁を用い、内外の壁面は石灰を塗り、刷毛で仕上げる。壁の下半分の“隔減”工法(※注)は出現していない。磚を用いて土壁下部に隔減する工法は、宋、遼、金建築では普遍的だが、唐代遺址と現存の唐代建築中には未だ見つかっていない。
  (※注)隔減工法;石灰混合物に顕著な隔震効果が有るとされ、基礎や下部に石灰を加える工法

4.基礎の工程
 目下の所、隋唐建築の基礎の工法で判明しているのは甚だ少なく、発掘された遺址と少量の修繕を経た建築から、おおよそ、その一部を窺い知る事が出来ただけである。 隋唐建築の基礎は一般に版築で造成される。重要部分は、雑多な石灰分のない素土を密に突固め、次に重要な所は、やや緩めで、再建は雑多な磚や瓦の砕片等を用いる。 已に発掘した宮の諸殿は、殆どが一面の版築で基礎とし、且ついっていの厚さを持つ。例えば含元殿は地面のした厚さ3m余の版築基礎で、加えて上の地面上に台基があり、併せて厚さ7m近い。大明宮麟徳殿下は、厚さ3mの版築基礎で、上の地面に台基を加え、併せて厚さ5m余。玄武門門墩下の版築は厚さ2m余。大明宮宮城の版築は厚さ1.1mで、左右の城壁を各1.5m出る。これ等の基礎は全て密に突固めた素土で、工程量は膨大である。 唐洛陽、則天武后の明堂遺址の基礎は、主体は幅54.7mの八角形で、唐尺換算で186尺。長安宮殿と異なる所は、それが地面全部の基礎であるが、各部分の厚さは大きな差異があることである。基礎は内から外へ5つの部分に分かれる。中心部分の直径は約26m、版築は固く、厚さは10mに達する;正中央に上の径9.8m、底の径6.16m、深さ4.06mの柱孔が有り、四壁は磚で包まれ、孔底は4個の方約2.4mの石塊を組合せて一大柱礎を作り、それこそが明堂の上下を貫通する巨大な中柱の礎石なのである。この部分の他、版築は4圏に分けられる;中から外へ向かって、
  第1圏、幅6.5m、厚さ僅か1.6m、版築はやや軟らかい;
  第2圏、幅8m、 厚さ4.8-8m、版築は堅く締まる;
  第3圏、幅4m、 厚さ1.4m、 版築はやや緩い;
  第4圏、幅11.6m、厚さ1.5-4.5m、版築は雑質を含む。
ここから明らかに見えるのは、第2圏は明堂2,3層部分の外檐柱のある所で、荷重が大きく、基礎は厚く築土は密で締まり、第4圏は明堂1層の外檐部分で、基礎も亦やや厚いが、荷重はさほど大きくなく、中心と第2圏ほど密に締まりは無い。1,3の両圏は室内で大重量を承けない所で、築土は薄く軟らかである。建築の荷重の変化に従って基礎の厚さを変え、一面に版築を始めるのに比べ、一歩進歩している。
 唐代の塔基は、一般の殿基に比べ多くが幾つかの措置を採る。707年に建った西安荐福寺小雁塔は磚積み密檐方塔で、高さ43m、筑土の高台上に建ち、台の四周を取巻いて廊と壁があり、大体《遊城南記》に言う裳階の類で、近年その壁の下の石条は発見された。近年の修繕時、その基礎を探査した時に、方形の築土の基礎内に縦横に重ねた2層の大木梁が発見され、基礎中に突固め、基礎の全体的な補強を目的としたものである。塔下の基礎の壁は砂石と条石で底を敷き、それから磚を積んで塔身とした。沈下を防止するため、塔下は大体台基の四面各30mの範囲内は、全て築土層である。西安は湿った黄土築で、地面の基礎は浸水を経ると荷重を承ける能力を失うので、この種の防災措置を採取した。《法苑珠林》の言う、鄭州超化寺塔は隋代の建立である。”塔基はぬかるみの中にあり、西面に5、6泉、南面にも亦あり、どの孔も方3尺、滔々と湧き出て、溢れて河となる。泉の上は皆柏柱を降ろし、泥水に敷き、隅と砂礫石灰を次々に重ね、最も上は大きな四角で、8尺の石で床を編んでこれに敷き、四面は鎹の長さ1尺5寸、深さ5寸を打って、鋳鉄で固定する。これにより、この当時、水中か水辺に屋を建てる時、下はパイルを打って、上に石板を敷き、石板の間を鉄の鎹で連結し、溶けた鋳鉄を鎹の継ぎ目に流し込む。この種の工法が、いつ頃始まったかは知らないが、ずっと宋元まで使用されていた。元の大都崇仁門北の城水閘を穿つ基礎は、まだこの種の工法であった。
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 だが、唐代は建築の基礎処理が、全て厳密であるとは限らない。例えば、最も著名な仏国寺大殿は、その基礎は山の斜面を埋めて高く削って低くして出来た。殿内の地面は前が低く、後ろが高く、高低差が50cm以上あり、その前後の檐柱の高さの差は50cm前後である。最も異なる所は仏壇で、一部分は元の土石を削って作り、その東北隅は岩石から削って出し、内槽の隅柱はその上に立つ。これから南の各内槽の後柱は全て仏壇の上に立つ。この仏壇は元々の土を削って、槽を開き石礎を嵌め込んで、礎の上に柱を立てた。実際、後槽の各柱はどれも地面に届いて居らず、土を削ってできた仏壇の辺縁に立ち、後の檐柱は又60cm前後短い。だが、この構造のように千年の時を経て、度々の地震を経て未だ倒壊損傷しないのは、実に奇跡である。その鋪作層全体が強く、一部分の付加を転移分配出来ている結果かもしれない。
 已に発掘した唐宮の各主要な殿宇は、版築の殿基の上に孔を掘り、石柱櫍(※注)と柱礎を嵌め込み、そのたの措置はない。壁を築くのも亦、直接殿基の上に築き、二度と壁基礎を作ることはなかった。だが、近年発掘した唐青龍寺意思では、その西側大殿早期は桁行13間、梁間5間で、版築の基礎が、残厚約1.3m。唐宮の工法と異なり、その柱礎は基礎の上に方形の柱孔を掘り、深さは築土の基底の下に達し、原地面に少し入り。それから孔に瓦を1層敷いて上に1層築土し、柱礎の底面まで、方形の瓦屑の混じった礫土で版築している。この殿の礫土は方2.6m✕2.2m、深さ1.4mで,寸法が甚だ大きい。この種の工法は、実際、全面の基礎を改め、独立した柱基礎として、台基の築土は埋め土の性質に近く、版築は深く堅くする必要がなく、版築の工程量を減少させる。瓦屑を加えた築土は、積載能力が大きく増すだけでなく、抗湿陷能力も大きく増強し、柱基の沈下を心配することもない。史書の記載に拠れば、唐の含元殿や太廟等の重要建築は皆、曾て大雨に因って柱の沈下事故が発生し、素の築土が完全に湿陷を免れる事ができないことを証明していて、この種の工法が発展した。青龍寺の創建は隋で、唐慶雲二年(711年)に青龍寺に改め、名刹をなった。この種の基礎工法はこの時採用されたもので、大明宮の建立は遡ること50年である。これは、高宗則天武后の大興宮室建築後半世紀近い時期、基礎工程上も発展があり、木架構方面の発展と歩みを一つにしているのである。
   (※注)柱櫍:柱礎と柱の間に置く円形の木座~下図の矢印 
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# by songofta | 2017-09-14 16:45 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

256 隋唐の建築技術 土木混合構成と磚石構成(1)

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第三章 隋唐五代建築
第12節 建築技術


二、土木混合構成
 土木混合構成は中国古代に悠久の歴史があり、漢以前の大型建築の主要な形式で、即ち台榭のことである。近年、又高台建築とも言われる。南北朝以後、已に大型の版築台榭を建てることは少ないが、殿宇の中で、版築壁、或は墩台(土を積み上げた台)で荷重を承けるか、或は木架構の安定を維持する為に用いる情況が見られ、隋唐まで引き続き継続した。城郷の一般建築には土壁で荷重を承け、上に木架を架す“硬山擱檩”式の建物はずっと存続して、近現代に到る。
 隋唐の建築中、伝統の土木混合構成に沿って用いられた最も明らかな例は城門道である。近年等長安や洛陽城と宮城の発掘中、何度も城門跡が出土し、皆、両側に城門墩、或は門間を隔てる壁(多くの門道がある時)を版築を用いて築き、中央に木架の城門道架構を架設し、上に城楼を建てた。門墩門道の上部は存在しないが、敦煌壁画からその構造と形象が判る(図3-12-29)。この他、宋代の絵画と近代の始めに撤去された金代建立の泰安岱廟南門から、我々は宋金代の城門道構造と唐代は基本的に同じで(図3-12-30)、《営造法式》中に又この種の城門の工法(図3-12-31)が載っており、唐代遺址を基に、《営造法式》を参考にして、唐代城門道の工法を推測できる。
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 已に発掘された唐代の諸城門遺址を総合すると、唐代に建てた城門墩及び門道の工程は城門の基礎を築き終わった後、問答の左右にそれぞれ若干の方形柱礎を埋め込み、両側に列を造り、基礎の上に方形の木柱を立てる、宋代に言う“排義柱”で、柱は方50cm、柱間の距離は約1.2m、唐尺換算で4尺;列んだ排義柱の上毎に1本の巨木の枋を載せ、宋代に言う“涎衣木”である;2本の涎衣木の間に梁架を架し、門道の頂部を構成する;梁架の下層の梁を“洪門栿”と言い、横に門道の上を跨ぎ、梁の上に蜀柱を立て、承ける長さは洪門栿の半分の平梁で、平梁の両端は斜めに支え、即ち托脚木で、4者が共同で梯形の城門道梁架を構成し、若干本の梁架の間に架した檁(桁)や椽(垂木)、鋪板(敷板)は、門道頂部を閉め切る。門道の木架構を直立させた後、墩台を版築する時に土で覆って架を支え、城門の墩台の版築を開始する。門墩の3面の外壁は約1:4の収坡(斜度)が或るとはいえ、敵の攻城時に、掘削や砲撃、或は自然崩落を防ぐ為に、版築時1.3m前後の高さの所に墩台表面に垂直に1層の木椽を埋め込み、椽の長さ2から3m、径10~20cm、間隔約1.2m、宋代に言う“絍木“である;門墩及び門道の壁面は皆磚で包む。
 門墩と門道の工法は土木混合構成の残存ということが出来る。問答の両側は排叉柱を持って墩台を固め、上は涎衣木や洪門栿等を加えて屋根を構成する工法で、推測出来るのは、土木混合構成の建物の中で、壁柱を用いて荷重を承ける壁を固め、壁頂は木枋を敷いて梁を承け、屋架伝達される集中荷重を木枋を通して、荷重を承ける壁の上に分散している。
 目下の所、已に発見された大型宮殿で、版築壁が荷重を承けるものは大明宮含元殿である。殿は重層建築で、その殿身の北、東、西の3面は檐柱が無く、只厚さ1.2mと1.5mの版築壁が有るだけである。この殿の殿身内部は2列の内柱があり、もし外檐は柱が有れば、双槽柱網に属するが、遺址は確実にあるのは版築壁だけで、壁内には柱が無い。構造から見ると、殿上の檐の北、東、西3面は、出跳する檐と下平槫以外の部分の屋根の重さは只土壁が承ける事ができる。これは、今まででまだ見たことのないここだけの例である。我々はまだ壁身が荷重を以下に保持安定するか確実に知る術がなく、特に北壁は長さ60m近く、厚さはたった1.2mで、又地震頻発地区に建っているのである。この問題は恐らく、もっと多くの実例が有って比較研究することが必要だろう。現在唯一これと近い例は、日本の奈良平城宮遺址の内裏部分である。盗難隅に幅5間の入母屋建築の跡があり、背面は内裏の南宮の壁で、後ろの檐柱が無く、宮の壁を2重壁とする。只この段の宮壁の内外側は皆、方形の壁柱が加えられ、壁本体を補強して安定性を失ったり崩壊するのを防いで、その情形と城門道の側壁は同じで、含元殿の土壁だけとは違いがある。東壁中段も宮壁内外に壁柱を加え、内廊の重量を承ける後壁に用いる(図3-12-32)。
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 唐代はまだ幾つか版築の高台に建てられた建築がある。例えば大明宮の三清殿は、南北長73m、東西幅47m、高さ14mの版築墩台にある(参考図3-2-25)、麟徳殿の郁儀と結隣の2殿は、高さ7m以上の版築台上に建てられている。この類の建築の高さでもっと大きなものは、唐高宗の乾陵神道入り口にある2つの小山の上の1対の闕であり(参考図3-4-7)、近年の探査で闕本体は3重の親子闕で、下は条石で台基とし、闕表面は磚で覆い、最下層は条石を以って底を埋めているのが発見された。現在の西闕の闕身は残高15mである。唐懿徳太子墓壁画の示す所では、闕身の上は木構造の闕廊が建つ。その工法は先に闕頂の上に木構造の平座を建て、平座の上に単層の闕楼を建てる。平座の柱は宋代に永定柱と言われ、闕の下平座の永定柱は下に向かって闕身の版築の中に挿さり、上部の木構造闕楼と下部の版築闕身を結合して強化する。この角度から見ると、この類の建築も土木混合構成の名残を保存している。
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 唐や五代の埠頭や船着場、防潮堤等は多くが版築の岸壁に磚で覆い、槫の外に木壁柱か木杭を加えたもので、これも土木混合構成に属する。
 この他、現存の隋唐石刻からみて、隋唐時期に一種の方形小塔があり、塔身は1槽だけで、槫か版築で造り、壁が甚だ厚く、正面に門を開く、壁頂より上は縦横に数重の木椽を敷き、椽の上は土塊か土で覆った後石灰泥を塗り屋根とする、4隅は仰陽蕉葉を加え中央に土塊を積層した覆鉢式卒塔婆を用い刹竿を加える。河南省安陽の霊泉寺隋唐石刻に大量にこの種の塔の浮き彫り形象があり、題から枝提(支提)とされる。その下部は厚い壁と密檐の屋根形象が非常にはっきりしていて、その表現する所も一種の土か槫壁の木椽平屋根の混合構成建築である(図3-12-33)。これに拠り、幾つかの土壁平屋根の居室が推測され、その構造も基本的にこのようなもので、僅かに卒塔婆と仰陽蕉葉を設けないだけであろう。
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三、槫石構成
 隋、唐、五代時期に、槫石を用いた建築及び構築物は主要に橋梁や墓室と仏塔であった。この他に幾つか大型の磚石を積上げたものがある。
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        河北省石家庄の安斉橋

 橋は皆石橋で、史籍には隋唐時期に建設された多くの巨大石橋が載るが、遺物は河北省趙県の隋の建てた安斉橋が残るだけであり、その様子は第八節を参照せよ。当時は並列の石アーチ橋のみが建設できた。
磚積の墓室は主要に、四面宝形の穹窿天井で、構造や積み方は南北朝時期と大差はなく、僅かに規制と尺度に少し変化が有るだけである。石積み墓室中、四川省成都の五代前蜀時期の永陵の石積み肋筒壳墓室(円筒状殻の墓室)はかなり特殊である。肋筒壳は東晋南北朝時期に已に出現しているが、それは磚積みの小室と言うだけで、永陵とは遥かに比べようがなく、かなり重要な進展を見ることができる。これ等の磚石墓室の情況は本章第四節で已にみてきた。
 隋、唐、五代の磚石構成の成就した点と特徴は、主要には仏塔に表現される。外形から言えば、この時期の仏塔は主要には、単層、多層の2類に分かれる。多層塔では、密檐塔と楼閣型塔の二大類に分けられる。今は、石塔と先頭の二大類の探求を進める。
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          参考  四川省成都五代前蜀時期の永陵の石積み肋筒壳墓室

1.石塔

 石塊を積んだものと石板を重ねた2種がある。前者は、山東省斉南に神通寺四門塔及び長清霊岩寺慧崇塔が代表で、後者は北京房山雲居寺北塔下の4小塔や斉南神通寺の龍虎塔と唐開元五年小塔が代表である。
 神通寺四門塔は、隋大業七年(611年)建立の単層宝形造の方塔で、矩形の石塊や条石を用いて積上げている。塔身の面幅は7.38m、高さ15.04m、外壁の厚さ0.8m、四面に各アーチ門一つを開く。塔内中心に方2.3mの塔心柱があり、外壁との間に広さ約1.7mの回廊を形成する。塔身外部は壁頂に石板を5層出跳させて迫り出し、最上の1層は檐口に代わり、檐口より上は石板を22層積んで迫り出しとは逆に、段々内側に収縮して、ほぼ下向きの凹曲線と成って四角の宝形造の塔頂を形成する。頂上は石を積んで須弥座とし、四隅に蕉葉を装飾し、中心に5層の相輪の塔刹を彫刻する。塔内は、塔壁と塔心柱の上部から、それぞれ各2層を迫り出し、その上に三角形の石梁を架す。面毎に3陵と45°の隅梁を加え、合計16本の梁を架す。内外壁から斜めに石板を重ね、回廊上部に両斜面の屋根を構成する。重ねたものと石梁の表面は粗く削られ人字紋で飾り、尚漢代の石刻の趣が残る(図3-12-34)。
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 石板を組合せで重ねて出来た塔は頗る多く、単層と密檐の2種がある。2種の塔の下部は皆、数層の石板を用いて雕刻を加え、積層して須弥座とし、座の上は石板を立てて用いた、組合せ塔身となる。塔身の正面と背面の板は寛く通しの面幅とし、側面板は正背面の板の間に挟む。塔身より上は石彫の屋根を置き、簡単な正反の迫り出し状とし、底面は精巧に檐椽を彫り、頂面はやや斜めに瓦畝と隅棟を彫る。単層塔は屋根頂に蕉葉の須弥座を置き、上に石彫の塔刹を置く;多層塔は必要な層数の石彫の屋檐を重ね、層を逐って内に収め、中間に石塊に雕刻した上層塔身を挟み、梭形輪郭の密檐塔を形成する。現存の単層塔中、斉南神通寺龍虎塔はかなり大きく、塔身の雕刻は精美だが、塔檐と塔刹は已に失われ、現状は宋代の補修である(図3-12-35)。北京房山雲居寺山頂の方塔はかなり完整である(図3-12-36)。
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 多層塔中、房山雲居寺北塔下の4座の小唐塔(図3-12-37)及び斉南神通寺の唐開元五年(717年)小塔(図3-12-38)はかなり代表するものである。この類の塔は、石板を縦に立てて囲んで造る小室を塔身とすることにより、尚一定の石構成品の性質を持ち、塔下の須弥座及び塔頂は只石彫都するだけである。
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 この他、まだ一類の石塔があり、多層の石塊を重ねて造り、表面に塔基や塔身、塔檐、塔頂を彫刻して成る形式で、ずっと石彫に近く、例えば南京栖霞寺の南唐舎利塔である(図3-12-39、40)。
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この塔は八角形5層密檐塔形式で、下層の須弥座は石塊を雕刻して組合せて出来ている。巨大な石材が得難く、施工が難しく、塔身の下の仰蓮座及び1層以上の各唐檐と塔身は皆、2個の大石を連接して、上下層の間の石の継ぎ目は十字に交叉して継ぎ目を埋め、以って全体を牢固として補強している。これは、この類の塔のよく用いる工法である。これよりやや晩く建った北宋初の杭州閘口の白塔各層も2個の石を連接して上下層は十字に継ぎ目を埋めている。
 総じて言えば、隋唐の石塔は、まだ北朝時期のような梁や柱、斗栱が全木架構塔を彫り出す工法はなく、構造はかなり簡単で、主要に成就したのは塔の造型比例と装飾雕刻の面で、石構造上ではっきりした発展はない。



  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛
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# by songofta | 2017-09-11 14:34 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

255 隋唐の建築技術 唐代の材“分”モジュール

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第三章 隋唐五代建築
第12節 建築技術


3.唐代木架構建築設計に使用された材分モジュールの情況
 現存の唐代木架構建築に使用されている材分の情況の研究を通して、近年発掘された唐代殿宇遺址と結合し、我々は唐代の木架構建築中に使用された材分のモジュールじょうきょうと材分等級の生まれた過程の探索を進める。
 前章で北斉河清元年(562年)厙狄回洛墓中の木棺の検討中、已にそれは材を用いて(泥道栱を基準として)、高さ幅に比が15:9.5で、栔は材高の5.9/15、千年の間、水に浸かって変形が引き起こされたことを考慮すれば、材の高さ幅の比は15:10で、その1/15が1“分”、栔高さは6“分”で、宋の《営造法式》の規定と一致する。だがこのこの木棺は模型に近く、実際の建築ではないし、高さは柱が腐朽して断たれて考察する手がかりはなく、僅かにこの木棺に拠り、この時の実際建築の設計の中で材を以ってモジュールとする発展がどんな程度だったかを理解することは難しい。
現存の五代県南禅寺大殿と仏光寺大殿、平順県天台庵の3座の唐代木架構建築では、その材を用いる寸法は皆已に測定されていて、南禅寺大殿は25cm✕16.66cm、仏光寺大殿は30cm✕20.5cm、天台庵は18cm✕12cmで、比例は皆15:10に近く、北斉の材を用いる断面と比例は基本的に一致する。
 宋の《営造法式》で我々が知っているのは、宋式の木架構建築の設計は、枋或は栱の断面を基本モジュールとし、“材”と呼ぶことである。材の高さ幅の比は3:2で、材の高さの1/15に分けたモジュールを、“分”(読みは份)と呼び、即ち材の幅は10“分”である。上下の材の間の空隙は時には木条で埋めて、栔と呼び、栔の高さは6“分”である。斗栱の出跳する時は材高さは1材1栔で、即ち21“分”、これを“足材”と呼ぶ。建築物の寸法は、大きくは面幅、柱高、小さいものは斗栱梁桁の断面と長さは皆“分”を以って単位とする。近年の建築史家の研究に拠れば、宋式の殿堂型建築は、1組の詰組斗栱を用いるに当って、毎間の間幅を250“分”を以って基準とし、50“分”を加えるか減ずることが出来、奥行方向の椽の水平距離は100から150“分”とする。庁堂架構のかなり大きな建築では、真幅200から300“分”、小さくて3間以下では200から250“分”。単層建築の柱高は中央間の幅を越えない。その他各部材寸法は、大体明確な規定がある。我々はそれらの用いて、仏光寺と南禅寺を検証し、唐代の材をモジュールとして進めた設計の情況を探求する。
(平面の材“分”)
 仏光寺大殿: 実測に拠れば、材高と幅は30✕20.5cm、2心間の幅443cm;中央の5間の幅504cm。もし材高30cmを15“分”とすると、“分”は2cmとなる。これで計算すると、正面中央間は幅252“分”、正側面の梢間は均しく幅220“分”、側面心間幅222“分”、柱高250“分”。これらのデータは宋《営造法式》の殿堂標準間幅250“分”と柱高が間の幅を越えないという規定に基本的に一致する。
 南禅寺大殿: 実測に拠れば、材高25cm、幅16cm。正面桁行3間、柱頂を計ると、中央間499cm、二次間331cm;側面の梁間3間は、均しく330cm。中央間の柱高382cm。もし材高25cmが15“分”ならば、1“分”は1.666cm、これで計算すると、正面中央間幅299.5“分”、即ち300“分”で、2つの梢間幅は199“分”、即ち200“分”;側面の毎間は198“分”、亦200“分”と見ることが出来(誤差3cm)。柱高は換算230“分”。これらのデータも《営造法式》所載の庁堂ま幅の最大値300“分”に一致する。
 平順天大庵: 実測に拠れば、材高18cm、材幅11.5cmから12cm。桁行梁間は各3間で、柱頭で計り、正側面の中央間3.14m、2梢間1.88m、側面と正面は同じ。その中央間と梢間の間幅の比例は、丁度250:150の比になり、このような整数比は決して偶然合ったものではなく、最初に材高を18.8cmにした筈で、“分”を計算して、中央間の幅を250“分”に、梢間の間幅を150“分”にしたが、度々の修繕を経て、大量に部材を交換し、東塔現状の材高18cmになったのであろう。(設計時は18.8cmを材高としたが、“分”値を確定し、設計モジュールとした。施工時に現有の木の量を用いるため、18cmに変更したのかも知れない)。
 この3例の中から見て取れるのは、唐代の建築の間幅は多くが250“分”か300“分”を用いることである。間幅の“分”値は段々大きくなり、相対的に用いる材がかなり小さくなって、殿は250“分”で、等級が次の一等の庁堂が300“分”か250“分”となった。以上は平面設計での材“分”モジュールの情況である。

(立面、断面の材“分”)
 南禅寺と仏光寺からまだ立面と断面での材“分”をモジュールとする情況が見て取れる。
 前に述べた様に、仏光寺大殿の柱高は250“分”、間幅252“分”に比べてたった2“分”小さいだけで、二者は基本的に同じで、《営造法式》に言う“副階、廊舎、下檐柱は、長くてもまの幅を越えない”の規定も唐制から継続したものである。仏光寺大殿の断面図で分析すると、見えてくるのは、檐柱頂から上に向かって中平槫(槫は即ち檩(垂木桁)で、檐槫から内に第1槫が下平槫、第2槫が中平槫で、即ち2椽跨の距離の槫)に到る高さは丁度檐柱の高さに等しい。南禅寺にもこの現象がある。南禅寺の柱高は384cmで、柱頭から大棟桁(殿の奥行が4椽しか無い場合、大棟桁は即ち大きい奥行の殿の中平槫に相当する)は385.5cmで等しいと見ることができる。これから判るのは、建物の断面設計上、1層柱高さを以って拡大モジュールとし、建物の中平槫の示す高さは丁度椽柱高さの2倍とする。柱高は“分”を以って計り、故に断面高さは実際には“分”のモジュールとなる。
 中平槫の示す高さが檐柱の2倍とするのは上述の2つの唐代建築に限らず、大量の宋、遼、金建築にあり、例えば984年建った薊県独楽寺山門、観音閣頂層、1008年に建った楡次雨花宮、1013年に建った寧波保国寺大殿、11世紀中期に建った大同華厳寺海会殿、大同善化寺大殿、1125年に建った登封初祖庵等も皆この様であり、それは、宋、遼、金時期の建築断面設計の普遍的規律であった。南禅寺の例をみると、晩くとも8世紀中期にはこの規律が形成されている(図3-12-28)。
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 この他に、1層の柱高を以って拡大モジュールとする工法は、又日本の飛鳥、奈良、平安建築に見られ、これに拠り、又北朝末年から初唐に遡ることも推測できる。
 南禅寺と仏光寺の2座の唐代建築の部材も“分”値で換算でき、下表の様になり、《営造法式》に規定する各部材の“分”値と並行して比較している(表3-12-2)。
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 表から見て取れるのは、唐代の斗栱部材の“分”値は宋《営造法式》所載と大差が無く、そのまの形象関係を物語っている。だが、大木部材の断面は宋式の“分”は一般に唐代より大きい。これは、唐代建築は只1組の詰組のみを用いて、標準間幅250“分”で、200-300“分”の間で変動するのに対して、宋式建築は《営造法式》の描く〈殿閣地盤分槽図〉を見ると、2組の詰組を用い、標準の間幅は375“分”で、300-450“分”の間で変動する。同じ間幅の建築は、250“分”或は375“分”で計ると、その“分”値は差が1/2あり、宋式規定の大木部材断面の“分”数が唐代に比べて多くが1/2を出るので、宋式の材を用い方は実際上、唐代に比べて小さいことが大変多い。これは宋代建築が唐代に比べて進歩していることを表している。
 唐代文献中、我々は当時の建築の間幅は多くが整数寸法で計画し、例えば《通典》の説く総章の明堂方案は間幅19尺、則天武后の造った明堂は方300尺、13間を計画し、毎間の幅は23尺である。已に発掘されて出土している唐代の殿宇中で、大明宮含元殿、麟徳殿の間幅は18尺、青龍寺東院殿の間幅は17尺、仏光寺大殿と南禅寺大殿の間幅は17尺、仏光寺の梢間は15尺、平順天台庵は通しの桁行と梁間は24尺である。これにより、当時の建築間幅、特に中央間の間幅は多くが整数尺を習慣としていたことが判る。現在已に判明している唐代建築及び発掘遺址の間幅寸法は下表のごとである(表3-12-3):
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 表3-12-3より、見ることが出来るのは、適切に依拠した間幅の数字は19、18、17、16.5、15.5、15、14、13.5、13、11.5、11、10.5、7、6尺で異なる。復元した各項目中、16尺の大明宮朝堂は階段を下にしているが、確認可能である。これにより、大体、唐代は間幅17尺以上の等級差は1尺で、間幅17尺以下の等級差は半尺、これは当時の建築の実際受容から確定的である。
 もし、我々が宋代の規定の8つの材の等級で、1組の詰組を用いて手配すれば、250“分”を以って標準間幅とすると、表3-12-4が得られる。
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 表中から看てとれるのは、面幅250“分”の時、1、4、5、6の4材の等級の間幅は整数尺になり、3等材は半尺、只第2等材の尾数だけが0.75尺で、上下の等材間の等級差は1.25尺である。間幅300“分”の時、1、3、5、6等材は整数尺で、2、4等材は半尺になる。これは宋式と唐代が実は一つの脈で相承され、その建屋の間幅の等級差も一尺、半尺を以って単位としているのである(7、8等材は小殿と小亭榭等の園林の小建築に用いるので、計算できない)。
 これにより、一種の兆候を見ることが出来る、即ち最初に建築を設計する時、まだ材等が決まっていない場合、先ず建築の等級を決め、規模は間幅で定めて、更に中央間の間幅の1/250(殿堂の場合)か1/300(庁堂の場合)を、1“分”とし、10“分”✕15“分”を材として、21“分”を以って足材とし、設計を進めていく。仏光寺大殿の250“分”と南禅寺大殿の300“分”は、即ちその例である。建築の習慣として尺或は半尺を以って間幅の級差とすることは、材を用いる級差がかなり小さく、且つ種類が頗る多くなり、材料の準備に不利で、必然的に段々と一緒に纏められ、間幅の差が小さいものは共用して同一材等とし、材等は現象し、宋代に至って遂に6等に発展した(宋式の8等材中、7,8の両等は只小型の園林建築に用いるのみである)。この6等材は建物に用いる場合、250“分”を1間として計画し、それぞれその標準間幅は級差を1.25尺と1尺とする。間幅は標準間幅の間の建物を介して、それと差異が最小の間幅が所属する材等を使用する。これが大体の“材分8等”が生まれた過程である。桁行7間の仏光寺大殿の用材は宋代が9から11間の重層大殿の殿身に用いた1等材よりもまだ大きく、唐代建築の用材が宋代に比べて遥かにおおきことが判る。かなり大きな材を用いるので、唐代建築外観は雄健重厚だが、宋代は小材を用いて建て、唐代と同様の大型建築が出来たのは、宋代の木架構建築技術の進歩を表している。

 唐代200余年間に建造した大量の宮殿、官署、寺観、邸宅は、一群の工程管理機構があり、建築等級制度を制定していたので、建築速度が速く、それで「以材為祖」のモジュール制設計を採用すると同時に、必然的に相応の用材等級を規定したからである。史籍に記載が無く、又数座の木建築しか伝来していないので、今の所その材等の具体的上京を知りようがないのである。
 建築で各木部材“分”数の確定に対しては、構造或は美観上の要求から出たものが幾つかあり、例えば頭貫と出跳する栱を除いた横栱の長さ等は、論じないで置く。だが、それらが力を受ける部材、例えば柱、梁、桁等であれば、その規定する“分”値は、荷重を承け担う能力が必要で、併せて一定の安全度も必要である。当時まだ科学テクな実験手段が無く、只経験に頼って設定に加えることが出来ただけであった。最初の規定の寸法が大きく保守的だったかもしれないが、経験を累積するに従い、段々適当とする範囲が減少していった。等太宗が恨みがましく言った曾て歴数十年でも損傷が無かったが、今の建築は材料が小さいけれども、建て終わって間もなく修理が必要に成ると。これには、反対する例証があるとは言え、唐になって以後、建築の用いる材料が段々小さくなって行く趨勢があり、亦経験により絶えず大きすぎる材料を縮小させていたのである。

 南禅寺と仏光寺の分析中、見ることができるのは、中晩等時期、已に梁の高さ跨比を合理的な範囲の内に管理していたのである。
 仏光寺大殿の柱の細長比は1:8.8~1:9(高さ250、径28.5、“分”を単位とする、以下同じ)。明栿の中で、乳栿の高さ跨比は(斗栱の出跳が承ける部分を除く浄跨、以下同じ)、1:8(高21.5、浄跨170)、四椽栿は1:9.4(高27、浄跨254)、草栿中、四椽栿の高さ跨比は1:11.6≒1:12(高30、浄跨350)。槫の径跨比1:15(径17、間幅252)。
 南禅寺大殿の柱の細長比は1:9.6~1:10(径24、高230)、四椽栿の高さ跨比1:20.7≒1:21(高25.2、浄跨522)、もしその上に高さ16“分”の繳背が連結していれば、高さ跨比は1:12.7≒1:13()高41.2、浄跨252)になる、丁栿の高さ跨比は1:8.9≒1:9(高17、浄跨151)。槫の径跨比は1:15(径14.4、浄跨224)。 これから判ることは、晩くとも中唐には、已に根拠のある経験を経て、絶えず改善進歩し、殿堂の梁の高さ跨比は明栿で1:10の内に定め、草栿は1:12の内、庁堂架構の梁は1:13前後とする。槫の径高比は1:16の内、並びにそれが“分”数形式で表すようになり、これに拠って造り出す部材は、一般に常用する屋根の荷重を承けることが出来る。殿堂架構は庁堂架構に比べ複雑で、荷重は稍々大きく、その梁の高さ跨比は庁堂架構より大きい。
 この2座の建築の現状について言えば、仏光寺大殿は完成後まだ大修理をしておらず、架構は動かされていなく、部材は圧を受けての変形が無く、真直に屹立し、1100余年を経て初めの如く完全に残り、その架構が合理的であることを証明して、部材強度が充分で、一定の安全度があるからである。南禅寺大殿は、北宋元祐元年(1086年)に解体修理があった。新中国建国後の新発見時、已に柱列は傾き、殿内の四椽栿は付加に耐えられず、深刻な変形を起こして下に湾曲し、津に1974年再度解体修理をせざるを得なかった。殿の柱列の傾きは、庁堂架構が通栿を用いて、内柱をなくし、架構に欠陥があるかのように見るならまだしも、四椽栿が下に垂れるのは、梁の高さ(成り)が小さ過ぎることから来る。恐らく殿を建てる時大材が無くて、高さ42cmの梁の上に高さ26cmの繳背を加え併せて68cmの梁を補強しようとした。だが、梁と繳背の間に4ケのダボしか用いられず、結合が悪く、共同で力を受けられず、実際の梁の高さ跨比は依然1:21で、結局、圧を受けて下に湾曲してしまった。もし、高さ跨比1:13の完全な梁を使用すれば、仏光寺大殿の草栿の上京を参照すれば、絶対に承けることが可能であった。故にこの殿の大梁が沈下したのであって、繳背を用いて梁を繋ぎ併せて1:13の高さ跨比にすることからみて、当時の工匠はやはり、この高さ跨比の管理数字を知っていたのである。

 もし、《営造法式》の規定で比較すれば、双槽の殿堂で奥行10椽を例にすると、その5椽の明栿の高さ跨比は1:15(栿長さ750、両端の各2跳の華栱の長さ120を除くと、浄跨630、栿高さ42。“分”単位、以下同じ)。5椽区さ栿の高さ跨比は1:16.7≒1:17(浄跨750、梁高45)、槫の径跨比は1:12.5(径30、最大面幅375)。庁堂架構は直梁を用いる時ならば、四椽栿は1:16.7≒1:17(浄跨600、梁高さ36)、月梁を用いる時は、四椽栿の高さ跨比は1:12(浄跨600、梁高50)、六椽栿は高さ跨比1:15(浄跨900、梁高さ60)。槫の径跨比は1:14.5前後にあり、1:15に近い(径21、最大面幅300)。これらの数字から判るのは、宋代の梁の高さ跨比は皆唐代に比べて小さく、だが槫は唐代に比べて大きい。梁の高さ跨比の減少は、かなり小さい材でおなじ建築を受け担う事が出来、宋代の木架構技術は唐代に比べて亦改善進歩した。用材は隋から唐、唐から宋へ段々と小さく変化し、大量の経験の累積を通して、木架構技術は絶えず改変進化し、この中心に材“分”制の改変進化を包括していた。だが、唐代は極めて少ない実物しか無く、我々は今の所、材“分”のこれ以上の情況は判らず、宋代と全面的に比較を進めることができない。
 木架構建築設計と施工で、材が基本のモジュールで、“分”はモジュールを分けたものなのは、中国古代建築の一代特徴で、古代の匠師の一代創造であり、それは建築と構成設計の簡化で、部材をプレハブ化し現場で組み立てるのに極めて有利であった。
 設計の面では、中国古代の木建築の構成、構造を芸術処理と融合して一体化する受容に、材“分”形式を以って規定するようになった。その若干の級差の同じ等級の材規定を、各等材で建てる標準間幅(例えば250“分”/間)で奥行(例えば125“分”/椽)の建物に用いるのは、その真実の寸法もその材の級差を按じて比例して伸張収縮する。これと相応して、同じ単位で積載荷重が作用する下で、異なる材等の建物でも同じ部材は、生まれる応力は等しく、それらは皆等しい応力の部材になる。これにより、只或る材等を用いさえすれば、標準の間幅斗奥行で建造する建物の部材の合理的寸法を正確に確定出来、それを“分”数に換算すると、この“分”数も、その他の各材等が標準間幅と奥行を按じて建てる建物の同一の部材に適用するのである。これはつまり、“分”数規定の部材寸法を按じることは、各材等の建築が同等のものに対して適用される。各種の部材や部材の巻殺、内に凹む工法を除いて、影響は全体造型の方面、例えば柱の側脚や生起、生起と隅梁から共同で決定する檐口の曲線等のような者も、“分”数を以って表され、この為に、異なる材等の建築の側脚や生起、檐口曲線も材等の級差は伸張収縮され、平行線あるいは相似形を形成し、故に外観上も見栄えが一致するのである。

材“分”を以って単位とすることも、設計過程を大きく簡化するものである。地盤寸法がその他建築と繫がる真実の寸法が必要な場合を除き、地面より上の部材は皆“分”数を用いて表すことが出来るのである。材に用いる“分”数に比例した尺を制作するのは、製図あるいは推算に用い、各部材の間の尺度関係を比較し易いようにし、大量の小数寸法を計算する労をなくすためである。誤差の出現も照合し易いのは、規定の“分”数は口伝え形式を以って設計者は熟知するためである。
 材“分”を単位とするは施工にも極めて便利である。古代の工匠の施工は、地盤図以外は、基本的に図紙を用いず、棟梁が工匠に丈杆(間尺)を支給し、その上に用いる材の単位の格子を描き、計画に使う部材の“分”数と真の長さを標示し、工匠はこれに拠って仕事を仕立てる。工匠も材“分”の口伝えを熟知してそらんじていて、照合しやすく、梁や柱、斗、栱等の部材の“分”数、巻殺と枘と枘孔も又皆固定的な工法で、完全に間違わずに仕立てる事が出来、真の寸法数字を使用して些細な間違いをすることなく、且つ照合が難しい弊害も無い。建物を建てる時、最も煩わしい部分は、斗栱と梁架で、鋪作層の槽と梁は多くが材栔の単位で上に向けて積み上がり、材“分”を以って単位として表され、仕立てられる部材で、組み合わせる時にも誤差が発生し難く、これは材“分”制を使用して設計を進めルのが、施工に有利な情況となるのである。
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  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛
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# by songofta | 2017-09-08 17:36 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

254 隋唐の建築技術 (2)斗栱と鋪作層、(3)梁架

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第三章 隋唐五代建築
第12節 建築技術



(2)斗栱と鋪作層
 斗栱は中国誇大建築中重要な役割と悠久の歴史がある。この3000年前の西周銅器には已に大斗の形象が出現している。戦国中山国銅器には栱(肘木)の形象が出現する。当然斗栱が実際の建築に使用されたのは銅器に出現するよりもずっと早い筈である。
遺物と文献資料から見ると、斗栱は漢代には已に建築中で重要不可欠な部分と成っている。出土する陶屋と現存の石闕に多種の異なる形式の斗栱が表現されている。南北朝時期、石窟と壁画に表現された建築も大体斗栱があり、柱列より上(正心縫)と頭貫、檐槫(垂木桁)で構成する平行弦の桁架式である縦架構を除き、出跳する斗栱も開始している。
 漢代及び南北朝早期は、斗栱形式も多種多様で、器用に使用され、大層異なる。これは一面でこの当時斗栱がまだ規範化されていないことの反映からくるものである。総合的に見ると、その役割は2点を越えない;一つには、頭貫より上に正心縫を用いる意義は、井干か縦架を形成することである。屋根の重量を均等に柱列に伝達するか、壁に重量を承けさせ、柱列或は壁の安定性を保持する。二つめは、出跳する意義は垂木桁(挑檐檩)を承けるのが主で、出跳する栱(肘木)は直接柱上に挿し、横栱と交叉しない。出跳する栱と縦架はそれぞれその職を司り、その間には密接な連係は無く、更に梁との連係も起きて来なかった(図3-12-18)。
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 南北朝後期には、木架構の発展に伴って、柱頭の間に頭貫を架設し、柱頂に大斗と斗栱を設け安定性を更に強めた全木架構の框架呼応造が出現する、即ち前章のⅤ型である。この時、斗栱の順身栱と柱頭枋、頭貫が結合し、出跳する栱と梁栿が結合し、十字に交叉、大斗の口内に置かれ、徐々に規格化した斗栱組――鋪作が形成され、その役割は已に出跳する檐に限られず、架構中の縦横の部材の結合点と成った。前章の南北朝木架構の技術部分で、我々は北斉が開鑿した南響堂山石窟台1,2窟窟檐上の斗栱と公認された南北朝と、更に南北朝の影響のあったかも知れない日本の飛鳥式建築について知った。南北朝後期に出現の、下に柱網、中に鋪作層、上に屋根架の3層を積み重ねた木架構体系は、その中の斗栱と頭貫、柱頭枋から成る鋪作層によって、架構の全体性と安定性を保持するのに重要な役割が有った。唐代には、斗栱の発展は段々と複雑になり、出跳が多くなると、梁栿の重なる層数も多くなり、鋪作層を高く増し、一連の串のような矩形と三角形の井干状の框を形成し、架構の安定に更なる大きな役割が出来た。斗栱は早期の単純に出跳する屋根檐の重量を承ける物から発展して、縦架と横梁が挿し合って交錯し、架構の勇気的な部分となり、南北朝後期に始まり、唐に成熟し、宋代に高度に規範化され、元以後又形骸化が始まり、明清時期に至って、梁柱間を埋める部材と装飾に成り変わり、二度と構造上の役割を持たなく成った(図3-12-19)。
 唐代の石刻や壁画に描かれた幾つかの斗栱のある建築図像と、実物を結合すると、唐代斗栱の変化が見えてくる。
 唐代で最も簡単な斗栱形象は、柱上に大斗を用い、大斗口の内に梁を承けるもので、例えば、唐韋迥墓壁画城楼に示される(図3-12-20-②)。実物は河南省登封の会善寺唐浄蔵禅師墓塔に見られ、その梁頭は大斗の外に出て、斜めに切られ、“劈竹昂”の如き様式である。この類の簡単な斗栱は多く庁堂か廊廡に用いられる。
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 出跳が一つの斗栱は敦煌329窟に見られ、出跳端に令栱を施し橑檐枋を承ける。梁は第一出跳の栱の上に置く(図3-12-23-②)。
 出跳が2つの斗栱(所謂、二手先)は、西安大雁塔の門楣石刻仏殿と乾県唐懿徳太子墓壁画の3重闕に表現されたものが最もはっきりしている(図3-12-20-③)。その柱頭と隅鋪作は全て大斗の口内から華栱が2段に出跳し、第2出跳端に横に令栱を施し、橑檐枋を承ける。その縦架は頭貫の上に泥道栱1本が上に柱頭枋1本を承けて1組とし、数組を重ね、上に檐槫(垂木桁)を承ける。第2跳の華栱の上、令栱の内に、又垂直の枋1本を出し端部が、第2重の泥道栱と交叉するが、それは内部の梁か枋の端部である。その中備えは、頭貫上の叉手(人字型の栱)を用いて第1重の柱頭枋を承け、その上に更に斗子蜀柱(短柱で斗を承ける)を用いて、上層の柱頭枋を支える。それらの隅鋪作は、正、側面の出跳する各2重華栱以外、45°の隅縫も2層の隅華栱を出す。
 出跳が3つの斗栱(所謂、三手先)は、懿徳太子墓壁画の城楼に見られ、その柱頭及び隅鋪作は皆、大斗口より3層の華栱を出跳する。第3層の華栱の出跳頭は横に令栱を設ける。華栱の上は垂直の枋頭が1本露出し、柱頭枋と交わる。中備えは、人字形の栱で、上に2層の斗子蜀柱を用い、皆上に柱頭枋を承け、その形式と出跳2津の斗栱はほぼ全て同じで、只華栱が一つ多く出跳するだけである(図3-12-20-④)。
 この他に、日本の奈良時代の建築に、まだ3出跳があり、下2跳は華栱で、上1跳は昂とする、奈良薬師寺東塔(730年)と唐招提寺金堂(8世紀下半)の如きで、国内に唐代の図像或は実令が見当たらないと言っても、盛唐壁画中に已に2跳華栱2跳昂の例を見るので、盛唐時期にこの工法があったことは校訂出来るだろう。
 出跳が4つの斗栱の例は、唐高宗総章三年(670年)《明堂規制詔》中にある明堂がある。詔書が言う、明堂は方9間、周回36柱、“下昂72枚を用い”とあるので、柱頭鋪作には2下昂を用い、2昂を用いる場合その下は必ず2跳華栱があるので、初唐時期、建築では出跳4つの斗栱が使用されていたことが証明される。
出跳4の形象の最早は、敦煌172窟北壁の盛唐に描かれた観無量寿経変の壁画である。描かれた仏殿の前殿の柱頭及び隅鋪作は、全て4跳で、下2跳は華栱、上2跳は下昂で、出跳した外端は皆横栱を用い、その2,3跳の上は二重栱を用いて、宋式が言う所の“瓜子栱”と“慢栱”で、栱の上に素枋を承けるのは、宋式で言う”羅漢枋”である。隅鋪作は45°の斜めに出る隅華栱の上に、隅昂がある。その中備えは、下層に叉手に替えて駝峰を用い、その上は2跳の華栱を出跳し、跳頭に横栱を加え、羅漢枋を承ける。この絵の斗栱は中備えに駝峰を用いるのを除けば、仏光寺大殿と全く同じである(図3-12-21)。仏光寺に用いられた斗栱と梁架は盛唐時期に已に出現していたことが証明でき、総章三年の《明堂規制詔》の記載も又、その出現時期を7世紀中期の初唐に繰り上げる。
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 この画に描かれた2重下昂は、今の所、最早の唐代昂の形象で、昂の先端が斜めに尖って出るので、批竹昂と言われる。昂は漢代には“櫼”と呼ばれ、説文解字では“櫼、楔(くさび)也”と説く。その形象は後漢の明器に見え、隅角の45°の継ぎ手に用いた。現存の南北朝の石刻や壁画にはその形象は見られない。だが、日本の現存の飛鳥建築遺物中で、法隆寺回廊を除いて、他の4座の鋪作は皆下昂を用い、その昂尻は皆内槽の柱縫に伸びて、柱頭枋と交わり、中間は下平槫を承ける。これで判るのは、南北朝末期の昂は斜め梁に近く、外端は檐を担い、後尾の中段は下平槫を承け、長さは1間2椽であった。(技術が)伝入して建立された唐招提寺金堂の昂尾も長さ1間で、内槽縫の上に伸び、盛唐時期に依然として以前の工法が続いていた事を表している。唐代の下昂の実例は、仏光寺大殿に見られ、柱頭鋪作の第2跳の華栱上に2重下昂を用い、外端は檐を担い、後尾の長さは1椽だけで、草乳栿中部、下平槫中心線の下に掛かる。但し、964年に建立された福州華林寺大殿の昂身の長さは1間2椽である。これは、南北朝末から初唐盛唐時期は長さ1間2椽で、中晩唐時期は短くなり半間1椽であったことを表している。華林寺は辺遠の地帯にあり、建築発展が滞ったため、早期の作法が保たれたのであろう(図3-12-22-②)。
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 鋪作の下昂は2種の役割があり、早期の長さ1間2架の時は、実質は斜梁で、内外槽を連結して一体とし、外端は檐を担うことが出来る。《営造法式》大木作図様の殿堂側面図中、8鋪作と7鋪作の2図は、その副階は皆斜梁を描き、即ち下昂が変化して形骸化した痕跡となる(図3-12-22①)。中晩唐時期、昂身が長椽に短く成った後、その役割が再び斜梁として梃子と成ることは無く、両端は別々に橑檐枋と下平槫が伝える重量を承け、平衡を取得する。この時、それはまだもう一つ別の役割があり、即ち屋檐の高さを減少させることで、併せて主要な功能となっている。一般に斗栱を出跳する檐に用いる時、斗栱を1跳する毎に、橑檐枋は1足材を高くする必要がある:だが、下昂は下に向けて斜めに出ることから、2跳出る毎に1足材が高くなり、栱を用いる時に比べ半分に減少し、このようにして、出跳が多くて又屋檐がそんなに高くしたくないことが必要な時、下昂を用いて解決できる、この役割は仏光寺大殿の柱頭鋪作の表現をみればはっきりしている。これに拠り、我々はこの様に言うことができる、早くは唐高宗、則天武后時期、斗栱の発展は已に相当成熟し、そとに向けて4層という多くの出跳が出来ていたと。この時鋪作と架構は融合して一体となっていた:建物の向きの泥道栱や柱頭枋組織は縦架の中に入り、梁枋は往々にしてそとに延び出跳する華栱となり、縦架と横架は、出跳する栱が互いに垂直に挿入し合って交織し、井干状の鋪作層を形成する。出跳する栱層が増加するにつれ、鋪作層の高さも増加し、剛性も強化され、更に好い安定な架構作用をもたらし始める。大型建築に用いる所の斗栱の出跳数は中小の建築より多く、増大する出檐を除き、鋪作層の高さと交互に挿入し合う縦横の部材の層数は増加し、更に大きな安定性の架構作用を起こさせたのも、重要な原因の一つであった。
 上述で仏光寺のこの種の斗栱と架構は初唐に已に存在していたと我々が論証したとしても、現有の唐代斗栱形象は唐代200余年中に見られ、まだ変化成熟の過程にあったのである。
(柱頭鋪作):
大雁塔門楣石刻と懿徳太子墓壁画では、出跳する華栱には最上層にのみ外端の令栱が用いられ、下面の各層には全て出跳端に栱がなく、宋式で言う“偸心”である;だが敦煌172窟の盛唐壁画には、4跳する出跳端毎に栱が有り、即ち宋式で言う“計心”である;それとは別に、第2、第3跳の上にはまだ瓜子栱、慢栱の両重栱があり、宋式の言う“重栱”である。これは斗栱が繁複な方向に発展している事を表している。当然、毎跳端の横栱の上には羅漢枋を承け、鋪作層の安定と各組鋪作間の連係を起こす一定の役割が有る。
(隅鋪作):
 前に挙げた北朝の陶屋は只45°の隅栱が有るだけで、正側面の華栱はない。現存の日本飛鳥時代建築もこうなっている。唐総章三年の《明堂規制詔》に説明する四周36柱、下昂72枚を用い、その隅柱上も只2枚の昂が有るだけで、つまり45°の隅昂で、正側面には下昂が無い。この他、敦煌329窟の初唐壁画にはまだ正側面の華栱だけ有って、45°の隅華栱の形象がない。このことで知られるのは、初唐前期の隅鋪作に於いては、同時に正側面縫と隅縫を用いた斗栱の例が無いことである。この現象は恐らくこの当時まだ3方向に出跳する斗栱の枘仕口問題が解決していなかったのであろう。だが、8世紀初の建立された大雁塔門楣石刻と懿徳太子墓壁画では、却って皆、正側縫と隅縫の3方向に出跳した華栱が描かれている。この時には枘仕口構造は解決していて、隅鋪作を3方向に出跳させることが出来た。これは大体《明堂規制詔》が頒布された670年以後で、大雁塔の701年以前の20年間にはっせいしたようだ。この現象は間接的に、則天武后が大いに土木を興した時、木構造建築技術が発展したことを表している(図3-12-23)。
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(詰組):
 南北朝では初唐に到るまで、詰組を用いず、只人字形栱(叉手)だけ用いるか、叉手の上に更に蜀柱と斗(斗子蜀柱)を立てるかするが、だが未だ出跳下例は見ない。北朝の陶屋や、参考に供する日本の飛鳥遺構から、初唐の大雁塔門楣石刻と懿徳太子墓壁画も全てこの様である。今日までに見る最早の詰組が出跳する例は敦煌127窟壁画で、詰組の出跳は、おおよそ盛唐に発展して出現する。詰組の出跳は、唐代では柱頭鋪作より少なく、その跳端は羅漢枋を承け、羅漢枋を通って柱頭枋と連結し、鋪作層の全体性と出跳する栱の安定性を増強する(図3-12-24)。
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(下昂):
 前に述べた様に、下昂の後尾は初期の長さ1間2椽より短くなって、中晩唐時期には長さ半間1椽になり、これも唐代早晩期の変化に属する。敦煌壁画と仏光寺大殿の下昂は、昂首が皆斜めに下向きに切り落とされ、“批竹昂”と言われるが、今まで日本の飛鳥式建築では垂直に昂首を切り落とした形象しか発見されていない。

(3)梁架
 唐代木架構建築の梁は、形式で分けると直梁と月梁、用途で分けると明栿と草栿の2種になる。
 直梁断面は矩形で、月梁は栱背が凹形の弧を描き、別称を虹梁と言う。殿堂架構では、梁は上下2層あり、下層は鋪作と結合し、鋪作層に位置し、上は天井板を承ける。それは暴露された室内にあるので、明栿と言う;天井板の上は、又架設が垂木桁や椽、屋根面を構成する屋根の梁を承け、それが天井板より上は、人には見えないため、部材架構は稍々ぞんざいで、故に草栿と言う。殿堂架構の冥府は多くが月梁で、草栿は皆直梁である。庁堂架構の梁は外に暴露されているので、皆冥府で、月梁でも良いし、直梁でも良い。
 唐代に明栿の月梁と草栿の直梁を兼用した例は仏光寺大殿である。殿の前後左右四面の各深さ1間2椽は、内外柱の柱頭鋪作の間に跨度2椽の梁、宋式の言う“乳栿”が架かる。梁の両端は第1跳の華栱上に置き、檐柱の外に出跳するのと内柱に出跳して第2跳の華栱となる。殿の内槽の深さ2間4椽は、上に架す梁を“四椽栿”と言い、梁の両端を伸ばした後、外槽の梁架の上から圧える。この乳栿と四椽栿は皆月梁で、浄跨(※注)部分の上部は両端を巻殺し弧線とし、下部は少し凹んで、梁の外観を栱のようにする。明栿は只天井板の重量を承けるだけで、浄跨は又下にある出跳した斗栱により多くを減去し(仏光寺内槽の深さ441“分”で、四跳した斗栱で減じるのは188“分”なので、梁の浄跨は253“分”となり、1/3強が減去する;外槽は深さ220“分”、1跳した斗栱で減じるのは50“分”なので、梁の浄跨は170“分”となるので、1/4若が減去する)、故に月梁形にすることは、明らかに流れるで力が有り、承ける重量が軽く成るとしても、殿内では大層良い装飾効果がある。天井板より上の草栿は屋根の重量を承けるので、直梁とし、四椽栿の断面はその下面に相応した明栿に比べて大きい(図3-12-25)。
    (※注)浄跨:柱の間の正味のクリアランス分
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 唐代の庁堂架構に明栿を用いる例は南禅寺大殿である。
 2つの殿の梁栿寸法と高さと浄跨の比は下表を見よ。
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(叉手と蟇股)
 唐代梁架の上で支持する部材は、明栿では叉手と駝峰で、草栿では木塊で、宋式の言う“敦㮇”で、これも低い柱を用いる。叉手は2つの木が相支え、梁の上に置き、三角形の架構を形成する。漢代は“牾”とか“梧”と言い、その形象は、江蘇省江都鳳凰河後漢墓の外棺の建築の雕刻に始めて見え、南北朝から隋唐に至って皆使用している。唐宋時期は、その形が礼儀中の叉手の立った時の手臂の形象に似ているので、“叉手”と言われた。仏光寺大殿や南禅寺大殿では、その片梁の上に皆叉手を用いて大棟桁を承け、五代宋初に至ってやっと桁の下に侏儒柱を加え始め、段々と叉手に大体するようになった。平梁とその下の各層梁の両端は、明栿ならば駝峰で支える。駝峰の実物の最早は、北斉河清元年(562年)の厙狄回洛墓木棺で、唐南禅寺と仏光寺の二大殿に実物があり、形式は異なるが、装飾のようk注から生まれたことを示し、この時已に多種の形式が出現していた。初唐以前、中備えの下層は多く叉手をもちいていて、美観の要求から、そとに払う曲線を作って、形が人の字の様になり、俗に人字栱と言い、日本の古建築でもこの部材があり、蟇股と言って、“叉手”に読み音が近く、古代にもこれを叉手と言っていて、盛唐に至って逐次駝峰に改まり、敦煌の唐代壁画中で見ると、中備えの駝峰も多種の形式があった。
(屋根の形式)
 唐代に常用された屋根形式は主要に四阿(寄棟造)、覆両頭(入母屋造)、両下(切妻造)と攢尖(宝形造)等で、硬山(注;切妻造で妻壁と屋根が密着したもの)はまだ無い。
 四阿屋根の実例は、即ち仏光寺大殿である。それは殿堂架構で、明栿部分は正面側面が同じで、外槽は一巡する回廊に成る。構成は四面傾斜の屋根で、その妻面部分の垂木桁は正面の対応するものと同高で、45°の隅の線で交わる。このため、天井板以上は、妻面には主要梁架に垂直に草栿を設け、“丁栿”と言う。丁栿の上に架設した妻面の各垂木桁は、正面の桁と交わり、交点の上に隅梁を架して、段毎に接続し、次間の継手の中点の上の所で大棟と交わり、4斜面の屋根架構を形成する。大棟桁と隅梁の交わる所は、上面に鴟尾が安置され、かなり大きな集中荷重が掛かり、次間継ぎ手の草栿と平栿の他に1本のこれと同高の平梁と叉手を加え、大棟の外端を承け支え、これを“太平梁”と言う。太平梁と平梁は相並び、共同で鴟尾の荷重を承ける。この太平梁も丁栿が担う(参考図3-12-4)
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 覆両頭屋根の実例は、南禅寺大殿、五龍廟正殿と天台庵大殿で、南禅寺大殿がその典型である。それは庁堂架構で、明栿のみがある。やめ面の上は、2本の中柱の上に2本の丁栿を架し、外端は柱頭鋪作の上に掛かるが、前後の檐梁に比べ高さ1足材を埋め合わせて、その後尾が正面の中央間の2本の四椽栿の背上に掛かる。2本の丁栿の背の檐柱1椽の所に妻面の承椽坊を架し、前後の檐の下平槫と交わる;その交点の下は木塊で支え、隅乳栿の上を圧える。隅柱より45°の隅線に沿って、この後手に向かって隅梁を架し、覆両頭屋根の架構を構成する。《営造法式》に拠れば、宋式の庁堂の妻面は深さ2椽で、即ち丁栿上は2本の垂木桁を要し、上の1本は前後の檐の中平槫と同高で、小亭榭では1本の槫のみとなり、南禅寺は小亭榭の覆両頭の工法に属する(参考図3-12-6)。
 両下屋根は、最も普通の屋根形式だが、国内に実物は遺存しない。出土した唐代の明器を看ると、屋根の両端が外に跳び(出際)ものが頗る多い。日本に現存の飛鳥、奈良時代建築中、法隆寺回廊、伝法堂と海龍王寺西金堂は皆両下建築で、参考に出来る。
 攢尖屋根建築は、隋唐時期最大のものは則天武后の明堂上部に当たり、円形の攢尖屋根であった。唐塔は多くが方形で、方形木塔の屋根は方形攢尖屋根である。近年出土した唐墓の明器なかには、方形、円形、六角、八角亭等の異なる形式がある。実物が無いのでその具体的な工法は尚建中を待っている(図3-12-26)。
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 近年落葉の唐東都宮の九洲池東南で唐代の八角形亭址が発見された。亭の各面は1間で、合計8本の檐柱がある;中心部分は4柱で、外槽と4つの正面は同じ広さで、約4.3~4.5m前後。この体の上部はなく、構造は不明である。だが、日本の奈良時代に建立された栄山寺八角堂の平面はこれと全く同じで、参考に出来る。この八角堂は4本の内柱に梁を架し、方形の框を形成する;その後、梁毎に2点を選び、大斗を設け、8斗の間に坊を架し、正八角形の井を形成する;外檐の8柱からこの八角系の井に向けて、相応する各隅に隅梁を架す;再び八角井から各隅に隅梁を架し、中心の斗尖に向けて、攢尖を形成する。この種の中止に設けた4柱の配置は正八角形を求める最も簡便な方法である;八角形の一辺の幅は間の距離で、中心の4柱は、4柱の対角線の長さの半分が内柱と檐柱の距離となり、外檐の4正面の位置が定まり、正八角形が得られる。これは初期の八角亭を建てる方法である(図3-12-27)。
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  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛

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# by songofta | 2017-09-02 20:53 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

253 隋唐の建築技術 (1)柱と柱網

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第三章 隋唐五代建築
第12節 建築技術



2.唐代木構建築の各部分の特徴
1)柱及び柱網
 唐代の木柱は大概皆円形の直柱で、柱頭は円形に丸め、“覆鉢”と言い、仏光寺大殿はその例である。敦煌壁画及び西安の唐墓壁画、大雁塔の門横木の石刻も皆同様である(図3-12-10)。南北朝時期の梭柱(注;所謂、胴張りのこと)は、唐代実物及び図像中に見付けられないが、宋《営造法式》に載って梭柱工法を見ることができるので、唐代に中断したとすべきではなく、只伝来した遺物と図像に無いだけである。漢から南北朝まで流行した八角柱は唐代にも依然として使用され、敦煌196窟の晩唐の窟檐はその例であるが、已に南北朝時期に上は小さく下は大きくから、上下一律の直柱に改変された(図3-12-11)。唐代も枋柱を用いて居り、南禅寺大殿はそれである。この殿は、旧柱を利用して建てられ、枋柱の時期は早く建殿の中唐時期である(782年)。
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 第Ⅴ形の架構は南北朝末に流行して以来、頭貫(古くは、楣と言った)は柱上から柱頭両側に降りて来て、柱の側面に枘を開け、頭貫を入れる様になった。唐前期壁画や石刻上に表現される頭貫は上下2層で、中央に何本かの短柱(蜀柱)で繋ぎ、〈明堂規制詔〉の中にあるように、これを“重楣”と称した。但し、現存の4座の唐代建築はいずれも只1重の頭貫を用いており、敦煌第196、427、431、437窟の晩唐及び北宋の木構窟檐中に実物を見ることが出来、確実に存在した証明になっていて、大体は敦煌は西に遠い辺境で、古制を独り多く保存してきた為であろう(図3-12-12、13)。北朝では初唐までの間、建築上、詰組は出跳せず、出跳する屋根の檐は柱頭鋪作に担われて、柱に荷重を伝え、頭貫が承ける荷重は小さく、主要な役割は柱列の間の連係をする部材と成ることであった。中央に蜀柱を加えた重楣も桁に近く、上下層の楣は皆柱身に挿入され、その連係した支持作用は1重の頭貫よりも遥かに大きく、柱列の安定保持に対して、更に大きな功能があった。おおよそ、中晩唐時期、鋪作層の発展が更に完善なものとなり、重楣は段々と単層の頭貫に簡素化されだが、ずっと宋代まで、沢山の単層の頭貫に依然として重楣の形を彩色で描き、即ち“七朱八白”彩画(注;朱=梁が7ヶ所、白=空隙が8ヶ所の意、下図)であるが、それは重楣から変化して来たものを表している。
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          (参考)寧波保国寺(北宋)の頭貫に描かれた “七朱八白”の彩画

 殿堂と庁堂の架構を採用する建物は、その柱網配置は異なる。殿堂柱網は、口、目、回、田の字形で、内外の柱高は同じ、柱上の頭貫も上述の字形で、閉じた矩形の框となる。柱の高さが同じことから来る、ある側に倒れたり捩れたりすることを防止するために、重楣で支持する以外に、外観の芸術処理と結合して2種の措置を採る。その一つは、各柱列を平柱(中央間の2柱)から始め両側の各柱を段々高くし、隅柱で最も高くし、柱列頂が両端が僅かに上に翅上がる曲線になる。これを“生起”と言う。その二つ目は、生側面の外檐各柱の柱脚が僅かに外に向けて払い、柱身が僅かに内に向けて傾く、これを“側脚”と言う。側脚と生起を用いた後、建築の各柱は内に傾き、列の中央が低く端が高く、同高の直柱の生硬さを免れ、外観を生き生きさせる。同時に、2柱毎に2度と平行四辺形を形成すること無く、横に傾かず、捩れない;柱頭が内に集り、柱脚が外に払われて開く柱網は、屋根荷重を載せた後互いに締め合う;これらの措置は柱網全体の安定を増加させる(図3-12-14)。仏光寺大殿はその典型的な例証である。
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 已に発掘された唐代遺址と現存実物の中で、大明宮の含元殿柱網は目の字形で双槽、西安青龍寺3号と4号遺址や大明宮麟徳殿前殿、渤海国上京第一宮殿址と仏光寺大殿は、回の字形柱網で、金厢斗底槽である。大明宮玄武門内重門は田の字形柱網で、分心斗底槽である(図3-12-15)。
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 同様に金斗底槽として、仏光寺大殿の四面の外槽は各深さ1間で、宋《営造法式》の載る殿堂平面と同じである。但し麟徳殿前殿と渤海国上京一号宮殿は、前後の外槽は深さ1間だが、両側の外槽は深さ2間で、即ち両側は2間3縫(継ぎ手)で満堂の柱を用い、仏光寺より1本多く中柱を用いる。平面上の分析から、この増加した1本の中柱は正に遼隅柱から内に向けて45°の隅柱の交点の所で、その上は寄棟の大棟と降り棟が交わり鴟尾を用いる場所の筈であった。これは当時の梁架構がまだまだ成熟しておらず、下面の1本の柱を加えて、鴟尾の所の集中荷重を承ける必要が有った。仏光寺がこの柱を用いなかったのは、その上に加えた1本の太平梁と隣り合う梁架の平梁が横に並び、共同で鴟尾と3方向の棟の荷重を承けるからであった。柱網上のこの変化は、晩唐に建った仏光寺の時には、初唐に建った麟徳殿の時に比べ、架構も又随分と成熟していたのである。

 殿堂架構と異なり、庁堂架構は1筋の柱と梁を組合せた三角形の屋根架を平行に並べて繋ぎ合わせて出来る。その檐柱は同高で、上に頭貫を加え、“側脚”、“生起”等の手法を用い、中列の安定を保持する。但し、その内柱は屋根の傾斜に合わせて高くし、梁の外端は檐柱の上で圧え、後尾は内柱の柱身に挿入し、内外柱の間の桁の上に椽を掛け、柱上部に三角形架構を形成し、その筋の梁架の横安定を保持させる。各筋の梁架の間は、同高の隣り合う内柱があり、柱頂も頭貫で連係し、そうでなければ只梁架の間に枋(襷間)を用いて連係することが出来る。現存の唐代建築中、仏光寺大殿の柱高は250“分”、柱径は28.5“分”、隅柱の生起は12“分”、南禅寺大殿の柱高は230“分”、柱径は25.2“分”、隅柱の生起は4.8“分”で、即ち柱の径高比は皆1:10より大きく、1:8.8~1:9.2の間にある。

 唐代は単柱を用いるのを除くと、まだ双柱と四柱の例がある。双柱の図象は山西省太原金勝村付近の唐墓に見られる。方形の墓室の四壁に描かれた柱及び斗栱は、その東西側壁は均しく4間5柱で、柱の上毎に頭貫を描き、一斗三升の柱頭鋪作か人の字形叉手の中備えを承ける。その中の隣り合う2柱はいずれも双柱並立に描き、中に間隙を残す(図3-12-16)。4柱の例は、洛陽唐宮正門の応天門の東南側の隋唐遺址に見られる。石の正中央に石を積んだ円池があり、池の中心は素(飾りのない)の平な方形基礎である。池の外の四周は2圏の柱網で、圏毎に8組の柱礎で、八角形配置を作り、毎組は4個の素の平な礎石が田の字を作って集まり、毎組の礎石の間は十字形の空隙があり、粗く接続する。この遺址は地下深く、上部は捜せる遺跡が無く、構造は不明だが、4柱を纏めたものであることは極めてはっきりしている(図3-12-17)。4柱を纏めて用いた最早の例は、四川省綿陽の漢平陽府君闕で、その闕身の中柱は2柱並列で、隅柱は面毎に2柱が見え、即ち少なくとも3柱があり、4柱かも知れない。闕身は版築工法で、並列の壁柱とも理解出来る。洛陽の北魏永寧寺塔の中心は4柱を纏めたものを4組用いている。洛陽応天門遺址は明らかに4柱並列の木架構構造である。それは目下の所まだ知られていない工法に当たり、今これに付記すれば、以後もっと多くの種類の類似した資料が発見され探索が進むだろうと言える。
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            (参考)唐洛陽の応天門想像復原図
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# by songofta | 2017-08-31 09:54 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

252 隋唐の建築技術 木構造

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第三章 隋唐五代建築
第12節 建築技術


(総論)
 隋唐320余年間こそ、中国木構造建築が迅速に発展して、巨大な成功を成した時期である。隋、唐は、分裂と激動の300年の長きに渡った中国を統一し、国勢は空前の強盛となり、経済、文化、科学技術は皆大きな進歩が有った。建築の面では、統一後南北の建築技術の交流は、新しい成就も取得し、隋と初唐の都城宮室の建設を通してそれを表現した。地方の伝統に就いて言えば、北方は、漢以来土木金剛構造の影響をかなり多く保持してきたし、南方は、梁陳以来、木架構の方面で成就したものは突出している。但し、これは大規模建設の主流について言っている。実際上、北朝と隋初にもかなり大きな木構建築を建造している。《長安志》に載る、崇仁坊にあった宝刹寺は、北魏の時に建てられ、その仏殿は“四面に柱が立ち、中央は何もない空間の2層楼閣で、梁や桁は屈曲し、京城の奇妙と言う”。描写に拠れば、この殿の構造は日本の法隆寺や薊県の独楽寺観音閣に近く、全木構造建築である。《長安志》に又載る、永陽坊にあった大荘厳寺は、宇文恺が“木浮図を建てる、高さ330尺、周回120歩(即ち方30歩、換算して15丈)、大業七年(661年)完成する“。これ等は皆、北魏と隋の建てた著名な木構造建築である。但、近年の発掘で判ったのは、唐高宗の龍朔二年(662年)に建てた長安大明宮の主殿含元殿は、その殿の北・東・西の3面に厚い土壁を用い、唐初に到るまでずっと、長安地区では、伝統的土木混合構造がまだ大きな影響を持っていたことを表している。隋の大興の宮室は流伝した物がないが、それから約80年晩い唐の大明宮がまだ土木混合構造を使用している事実から、大体その時も土木混合構造の影響が北方ではまだまだ大きかった可能性があるだろう。
(隋代)
 隋の全国統一後、最重要な南北の建築技術の交流は、大業二年(606年)煬帝が東都造営を興したときであろう。《隋書》の説くには彼は“始めて東都を造るのは、全てが大層巨大で麗々しかった。帝は昔、藩国に居て、自ら華東を平らげ、梁や陳の曲りくねった土地を兼ね、以ってその国の規模とした”。大量の江南の計画と建築の経験を吸収したことが判る。洛陽に建てた正殿乾陽殿は、桁行13間、奥行29架、柱径20圍(※注1)で、当時最大の全木構造建築であって、当に江南の木架構建築技術を吸収した成果であった。洛陽も隋時期、北方が南方建築の影響を最大に受けた地区となり、宮室城市は皆首都の大興より華美精巧であった。
   (※注1)圍;親指と人差し指の距離。5寸(又は3寸)と言うが、5寸なら3m近く、3寸なら1.8m位か。
(唐代)
 唐の立国後、煬帝の“逞侈心、穷人欲(奢侈をほしいままにし、人のよくを極める)”と言う罪名を以って、東都の主要宮殿は焚毀された。だが、洛陽宮室の華美は終始、唐帝を引き付け、貞観十一年(637年)太宗は洛陽近くで1年を過ごした。顕慶二年(657年)に至って、高宗は遂に洛陽宮の修復を下令し、隋の建てた洛陽宮時期に発展した南北の長所を融合した木構建築技術は又回復と発展を得たのである。韋機が建てた上陽宮から則天武后が建てた明堂まで、段々とピークに到達した。木構建築の発展は、長安にも影響があった。662年、高宗は長安に大明宮を創建する。宮殿の外朝正殿含元殿の殿身外檐の東、北、西3面は版築の厚い壁で柱が無く、伝統的土木混合構造の影響下に属する。但し、次の年に建てた麟徳殿時には、已に全木構造建築となり、僅かに両端の幅1間分の所に、南から北は全部版築の実壁であった。これは、混合構造の残余の表現で、当時全木架構で大型宮室に用いるのに対して安定性が把握出来ていなかった事を表している。だが、この前後はたった1年の差で建造された2座の大殿が、一つは混合構造で、一つは全木構造で有ったことは、全木架構建築が洛陽から西へ、関中地区の宮殿建設に迅速に推進拡散したことを表している。
 高宗、則天武后時期を経た50年近くの大規模宮殿の建設は、特に洛陽の宮室と明堂建設で、木架構は已に大型宮室建築の通用の構造形式に成り、土木混合構造は逐次淘汰されていった。この段階では、隋代にあった南北建築が洛陽建設で溶け合って以後、始めての更に大きな建築技術の交流となった。高宗、則天武后より唐代木架構建築の基本定型は、殿堂や庁堂2種の異なる木架構が形成されており、斗栱は已に梁と柱頭枋と結合して補作層と成っていて、材分を以ってモジュール的な木架構設計方法も已に基本定型と成っていた。以後の盛唐、中唐は主要に後を継続して、完善で精密さを加え、架構設計と芸術処理の結合を第一の方向に発展していく。
 但、唐代の木架構建築は主要に、宮殿、壇廟、官署、大邸宅の建築に用いられた。近年、長安の西市の発掘で判ったことは、市内の大部分の建築は皆、妻壁で荷重を承け、上は桁と垂木を架し、所謂“硬山櫊檩(※注)”工法である。全木架構の家屋は極少数である。おおよそ唐の終わり頃まで、北方城市の一般建築は皆このようなものであり、宋代以後、木架構の家屋がようやく増加する。但し、土壁或は磚壁が荷重を承ける家屋は、木材より材料が得やすく、ずっと清末まで、北方の都市や農村の中小の住宅は依然としておおくが用いていた。
 唐代の磚石構造もかなり大きな発展があったが、主要な表現は磚石塔と磚積み墓室の面で、居住する建築と宮殿や官署、寺観建築中の使用は無かった。
   (※注)硬山櫊檩:両妻の壁間隔が比較的に小さい屋根面の場合、妻壁の上に直接垂木桁を架けて、
           屋根の三角形を作り、切妻屋根とする工法。

一、木構造
 隋唐時期の木架構建築の特徴と成就したものは、現存の極少数の遺物と遺址考察し、史料文献を並行した分析検討を通して始めてできる。
1.唐代木構建築の実物架構の特徴
 唐代木構建築で今まで残っているのは只の4座で、唐建中二年(782年)の山西省五台山南禅寺正殿、塔会昌年間の山西省芮城の五龍廟、唐大中十一年(857年)の山西省五台山仏光寺大殿と晩唐建立らしい山西省平順天台庵大殿である。それらは皆、前章で述べた5種の架構中の第Ⅴ型で、全木構架構で、頭貫が柱頭の間にあり、柱頂に大斗を置き補作を承ける。その中で、五龍廟は不適当な修繕を経て、已に基本的にその特徴を喪失している;天台庵は金代の大修理を経て、柱高を切り縮め、比例が改変され、又大量に部材が交換されて、僅かに参考価値を残すだけで、唐代建築設計の規律を推測することは出来ない。ただ南禅寺大殿と仏光寺大殿だけが保存が完全だが、南禅寺は北宋時期の修理を経ているが、基本的に架構は変わって居らず、仏光寺大殿は大修理が無く、唐代の原架構を完全に保存して今に至り、我々の唐代木架構建築設計、施工の研究に均しく極めて大きく役立っている。
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            (参考 山西省芮城の五龍廟  百度図片より)

 但、この2座はいずれも中唐晩唐の建築で、了解されている所では、晩唐の情況は、その規模も初唐、盛唐のあの体量巨大な建築とは甚だしく隔たっている。近年、長安や洛陽の唐代遺址の発掘で、幾つかの異なる規模の宮殿や寺廟遺址を発見し、その平面の柱網と建築桁行と奥行寸法が我々の検討に供されている。この他、敦煌の唐代壁画と幾つかの石刻も我々に形象史料を提供している。これ等と僅かながら存在する建築実物を結合し、唐代の木架構建築の発展に対しもう一歩の理解を進める事が出来る。
 但、唐代は技術の専門書が全く伝わって居らず、僅かに上述の材料によって唐代の木架構の系統的知識を帰納することは難しい。宋代建築は唐代を承けて、発展したもので、宋代の建築専門書《営造法式》は宋代前期建築工法を記録した。我々は目下の所、宋式と現存の唐代建築を並行比較する方法を通してのみ、唐代木架構建築発展の脈絡を理解出来るのである。
 《営造法式》中、我々は、宋代木架構建築中、最重要なものは殿堂と庁堂の2種の形式であることを承知している。簡単に言えば、殿堂とは、内柱と外柱が同じ高さの柱と柱頭の間を頭貫で組合せた閉じた矩形柱網と、斗栱や柱頭枋、天井を承ける明栿等の縦横の部材で構成される鋪作層、天井より上の若干層の梁の重なった三角形の屋架構並びにその間に架した桁や椽で構成した屋根架構、この3層が順に積み重なって形成された建物の架構である(図3-12-1)。 庁堂は、両端を跨ぐ数と桁の数は同じで、その下部に用いる柱の数と位置は、皆異なった横向きの梁架構であっても並べられ、柱や梁の間には別々に頭貫や枋(攀間)を用いて連係でき、梁端には桁を架け、桁の上は椽(垂木)を架けて建物を形成できる架構である。
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 殿堂型架構の柱網は固定した規則で配置し、柱列の間は頭貫を架設し、四周の外椽柱を連結して一圏とするだけでなく、内柱も自ら一圏或は外檐柱と連結し、閉じた矩形の框を形成する。宋《営造法式》中では、異なる柱網に専用の名称が有り、例えば日の字型は単槽と呼び、目の字型は双槽と呼び、回字型は斗底槽と呼び、連結した田の字型は分心斗底槽と呼ぶ(図3-12-2).殿堂架構の室内は天井を備え、天井より上の梁架構は閉じ込められたた中にあるので、草栿と呼び、天井を承ける梁を明栿と呼ぶ、上下2重の梁架構を持っている。
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 庁堂架構の建物の柱網配置は、かなり大きな自由度があり、檐を通す2柱を選び、檐柱に中柱を加えたり、檐柱に前金柱或は後金柱を加えたり、檐柱に前後の金柱を加える等の異なる形式の梁架構の組合せが可能で、内柱を必要な位置の上に配置できる。その内柱は屋根の傾斜度に従って高くし、檐柱より高く成る。柱間の頭貫は只、外檐(切妻造の場合は前後の檐)を連結して閉じて矩形の框と成るだけで、内柱との間は切り離されている。室内は天井が無く、只1組の梁が屋根を承け、明栿と言い、その架構を“砌上明造”と言う(図3-12-3)。
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 殿堂架構は、木架構中で最高級の工法で、只宮殿と仏寺、道観の主要殿宇にのみ用いる。
 庁堂架構の等級と架構の複雑さは殿堂架構より低く、官署の庁と邸宅の堂に用いる。仏寺や道観中の二次的な建築等も庁堂建築を用いる。
 現存の4座の唐代建築の架構の特徴と《営造法式》に述べる所を比較すると、唐代仏光寺大殿は殿堂架構に属し、南禅寺や五龍廟、天台庵は皆庁堂架構である。その特徴は以下の通りである:
(仏光寺大殿の特徴)
 仏光寺大殿:桁行7間、長さ34m、梁間4間、奥行17.66mで、その架構は、柱網、鋪作層、屋根の草架よりなり、順次重なって、殿堂型に属す。
 柱網は内外2圏の高さの同じ柱で構成され、内外の柱の間は別々の頭貫が架かり、内外の組で回字形の方框を形成、正側面の各柱は皆柱脚を僅かに前に払うのを、“側脚”と言う。列柱野中で、明間(中央間)柱の両側の各柱は又順次高くなり、隅柱が最も高く成るのを、“生起”と言う。内外の圏柱と頭貫で組合わす柱網で建物の殿身が構成される(図3-12-1-③)。
 鋪作層は、内外両圏の柱網の上に架設した数層の柱頭枋で構成した2圏の井干(校倉、井戸枠)状の框を主体とし、内外圏の框の間は、各柱上架とそれに垂直に交わった後内外に出跳する肘木(華栱)と天井を承ける梁(明栿)があり、内外の框を連係し、その魔を分割して幾つかの小さい矩形の井干からなる;隅角部は内外の隅柱の間に架す45°の隅華栱と梁があり、この部分を2つの三角形に分ける。これは建築の周りを一巡する深さ1間の口字形の井干網架構を形成する、即ち鋪作層である。この作用は現代建築の囲梁に近く、柱網を安定にし、屋根の重量を均等に柱上に伝達する。鋪作中、外に出跳する斗栱は、屋根の檐の出跳する深さを増大させることが出来、内に出跳する斗栱は室内の天井板を承けて、二者は大体平衡が取れる様になる。仏光寺大殿は出跳が4層あり、長さ1.98mに達する斗栱で、出檐は3.36mに達する(図3-12-1-②)。
 屋根の草架は天井の上にあり、間の継ぎ手上に1組の三角形の梁架を用い、両端は鋪作層の柱頭枋の上に架して、梁架の間は檩椽(垂木桁)を架し、屋根架構を構成する。天井板の上にある為、室内からは見えず、梁架は(仕上げが)稍ぞんざいなので、草架を言われる(図3-12-1-①)。
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 《営造法式》では、この種の回字形の柱網配置を“金厢斗底槽“と呼び、回字形の外圏柱網とその上の鋪作層を外槽と言い、内圏柱網とその上の鋪作層を内槽と呼ぶ。宋式では、内外柱が同高なだけでなく、内外槽の天井板も同高である。だが、仏光寺大殿では、内槽の天井は高く、外槽の天井は板が多く、異なる空間感覚を形成し、早期の工法に属している(図3-12-4)。宋式は発展の一段階が終わった後整理され規格化された工法である。だが、3層を積み重ねる構造の原則は、唐宋で一致するのである(図3-12-5)。
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(南禅寺大殿の特徴)
 南禅寺大殿:桁行梁間とも各3間、奥行は4架椽。明間(中央間)左右の檐柱上は各2筋の4椽の通梁が前後の檐柱を跨ぎ、梁上に平梁、叉手を架し、2筋の三角形の架構を構成する。両妻面の2本の中柱上に各1本の通梁と丁字形に交わる2椽を跨ぐ梁があり、丁栿と呼ぶ。丁栿の上に更に小梁を架け、入母屋造の架構を構成する。この殿は、内柱が無いが、梁架は明栿草栿に分けず、天井は用いず、屋根の架構は全部露出して明らかで、庁堂架構に属する。その桁行は3間で、只2筋の梁架を列べるだけなので、庁堂架構の特徴は表面化せず、明らかではない。もし、5間か7間であれば、即ち次間や梢間の梁架があれば中間にある柱のその他の形式が判り、実際に必要な柱の設置により、多数の筋の垂直梁架が並列して構成される庁堂架構の特徴が更にはっきりと表れたであろう(図3-12-6)。
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 唐代庁堂架構は南禅寺を除くと、前述の平順天台庵正殿も、桁行梁間3間で、中央間に2筋の檐に通梁を通し、架構は南禅寺と基本的に同じである。芮城の五龍廟は桁行5間だが、2つの梢間の幅は半間しか無く、実際は4間で、奥行4椽、妻面に4柱を用い、2梢間幅は各半間1椽で、心間1間2椽。それは、中央間と次間の4柱上に4筋の内柱無しの檐を跨ぐ通梁の梁架を用いた(図3-12-7)。
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山西省芮城の五龍廟の内部架構

 国内に現存する4座の建築を除き、日本の飛鳥奈良時代建築遺物も参考に供される。 日本の飛鳥遺構中、法隆寺金堂は桁行5間、梁間4間で、平面は内外の2圏柱があり、内外槽の柱間に斗栱と梁が連絡している。上は天井を加え、殿堂架構と同じで、只内槽部分が高く2層としているのみである(図3-12-8)。日本唐招提寺講堂は、平城宮朝集殿を移築し(763年)、法隆寺伝法堂は橘夫人堂を移築(739年建立)したもので、いずれも典型的な庁堂架構である(図3-12-9)。日本建築は唐時期の中国を模倣し、風格は唐に比べ全て少し滞留した後のものである。これにより、隋及び初唐時期に遅れて、殿堂と庁堂2種の架構の区別が形成されていた。
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(次回、柱と柱網)



  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服
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# by songofta | 2017-08-29 22:40 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

251 4.仏塔と墓塔(3) 墓塔

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第三章 隋唐五代建築
第7節 宗教建築

(2)墓塔

隋唐時期、墓塔の建造は已に寺院制度の一つに属していて、凡そ寺内の住持、大徳や長老が亡くなると、皆彼の為に塔を立て、敬仰を表して後の人の礼拝に供した。
(山林の仏寺)
 山林の仏寺は、一般に寺内外に適当な場所を選んで建塔した。史料記載に拠れば、中晩唐時、多くが寺外1里の内に墓塔区を設けるやり方を取った。現存するのは河南省登封の少林寺塔林、山東省斉南の霊岩寺塔林は皆、唐代より始まって規則制度を形成している。河南省安陽の宝山霊泉寺は、崖壁に集中して塔形龕を開鑿するやり方を採っている。
(城市の仏寺)
城市の仏寺は、一般に寺内に塔を立てず、墓塔区を城外の離れた静かな場所か寺の荘園(常住の荘園)内に設ける。例えば、唐代洛陽の高僧善無畏や金剛智、義浄等の墓塔は、龍門山一帯に建てられた;長安大安国寺僧端甫は、開成元年(836年)亡くなり、“長楽の南原に移す”、塔を建て、即ち碑文の書法を以って著名な玄秘塔である;但し例外もあり、例えば代宗に尊ばれ、“私の宗師、人の舟楫”と言われた密宗大師不空は、死後その旧居の長安大興善寺本院の中に舎利塔を建てたが、これは明らかに一種特別の栄誉である。
 立塔の場所も、仏寺の拡張或は配置の改変に依って更に違った情況となる。五台山仏光寺には、現存する3座の墓塔があり、皆大殿の側後方に位置し、その中で年代の最も晩く建ったのは貞元十一年(795年)である。僧伝の記載は、曾て寺内に閣を建てた僧人法興(太和二年没、828年)と仏殿を建てた僧人愿誠(光啓三年没、887年)は、その墓塔を寺の西北1里の場所に建てた。これから推測すると、元々仏光寺は東部の高台の上に墓塔区を作り、法興が3層の大閣を建立した後、全寺の配置の重心が後ろに移り、そのため墓塔区が寺外に移った。
(2種の方式)
 隋唐僧人の墓塔建立は、2種の方式がある。一つは、焚身(又荼毘、闍維と言う)で、舎利或は骨灰を取って塔を建てる;もう一つは、僧人の死体を完全なまま塔内に保存し供養する人が礼拝するもので、真身塔(或は龕塔)と言う。火葬して塔を建てる方式は、西晋末年に中国本土に伝入してから、隋唐時期には已に相当普及した;真身塔を建てるやり方は、目下の所知れるのは、隋末唐初に出現し始めることである。当時、長老の高僧の多くは坐禅のまま死に、死後、結跏趺坐で生ける如くし、故に“坐葬”の法を採用し、それを塔内に安置した。江都安楽寺の僧釈慧海は、隋大業五年(609年)没し、“常に西に面し、喪が終わるまで結跏趺坐し、・・・・(弟子は)全身の有る所は、塔を組み基台を築き、その華麗さを増した”。泗州普光王寺の僧伽大師の死後、景龍四年(710年)“その身で作って塔を建てる”。これも先に石窟に安置し、後に塔内に移すやり方である。密宗の高僧善無畏は開元二十二年(735年)に亡くなり、龍門の西山広化寺の庭に葬られ、“定恵は重んじられた人で、全身は腐敗せず。・・・・・龕から出る毎に、低い竹の床に安置し、香油で浴した”、灌仏の礼のようなものであろう。真身塔の建造は、一種の真身を仏身と同一視して崇拝する意識に基いている。このやり方は中唐に始まって段々と普遍的に成って、今に至ってもチベット仏教の礼儀の中に残っている。真身塔は已に安置している僧人の真身坐像の功能だけでなく、塔内は必ず空間が有り適当な龕室となり、塔身には亦適当な寸法の門洞を開くことが必要であった。現存の唐代墓塔の実例中、河南省登封の会善寺浄蔵禅師塔は即ち真身塔で、山西省遠城の報国寺泛舟禅師塔及び山西省五台山仏光寺大殿傍らの祖師塔も、皆真身墓塔かも知れない。
 隋唐の僧人墓塔の構造方式は、主要に磚石構成で、史料記載には木構造を採用した例もあり、その中の多くの墓塔の外観は模擬木構造形式をとる。

①単層墓塔
 唐代の単層模擬木構造の磚石墓塔中、河南省登封会善寺の浄蔵禅師塔や山西省遠城の報国寺泛舟禅師塔及び山西省平準海会院の明恵禅師塔は、3座の代表性を具有する実例である。
(浄蔵禅師塔)
 浄蔵禅師塔は、天宝五年(746年)建立、磚積み、八角形平面、残高9m余(塔の銘は“高さ4丈、1層を積む“、今に換算して11.67m)。基座と塔頂はいずれも残っているが損壊し、大体の基座、塔身、塔頂の3部分の高さの比例関係は約1:1:2と判る。塔身外壁は、木構造の柱、枋、斗栱の形式を表現し、正面のアーチ門を除き、その他の各面は皆実壁に木構造の板門か連子格子窓を隠出する。塔心室も同様に八角平面に作り、内径約2.3mである。塔頂は迫り出しで檐を出し、上部は円形平面の仰蓮2周とし、その上に亦仰蓮の火珠を置く。この塔の模擬木構造工法は精細で、塔身部分は基本的に完全で損傷が無く、且つ現存の年代が最早の八角形塔の実例である(図3-7-45)。
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(泛舟禅師塔)
 泛舟禅師塔は、貞元九年(793年)建立、磚積み、円形平面、塔高10m前後。基座、塔身、塔頂の比例は浄蔵禅師塔と大体同じである。飾りのない平基座で、塔身下部は壺門と覆蓮が各1道が周りを囲み、上部は模擬木構造工法のかなり低い規格のもので、斗栱は無く、僅かに各間に柱を立て2重に横木を置く。迫り出しの出檐と檐口の瓦当を表現する。塔刹部分は2層の請花が仰蓮及び火焔宝珠を承ける(図3-7-46)。類似の円形平面墓塔は、遠城招福寺禅和尚塔(咸通七年、866年)に見られ、当地流行の墓塔平面形式かも知れない。
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(明恵禅師塔)
 明恵禅師塔は、乾符四年(877年)建立、石積み、下は方形台基、台上は完全で損傷の無い小塔形象で、基座と塔身、塔檐、塔刹各部からなる。その内塔刹の高さは、そのた3部分の総高さと等しい。塔身の正面に門を開き、両側の実壁上に連子格子を隠出する。塔の檐下には、雀眼網形式(※注1)を表現する。この塔の塔身部分の処理は簡潔で、塔頂は模擬木構造の工法、例えば檐椽形式や配置方式、檐口曲線及び瓦の様式等は却って精細に雕刻する。塔刹部分の造型は極めて優美である(図3-7-47)。
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 単層の磚石墓塔中、多くは実心の小塔である。塔身外観は門と窓を隠出し、通常は塔心室が無いか浅い。塔の大量はかなり小さく、高さは4~5m前後である。この類の小塔の形式は、固定的でなく多様で、僧伝記載に拠れば、長沙の僧人慶緒は、光啓四年(888年)に亡くなり、“一門の弟子等は墓塔を螺髪形に作る”、これなどは奇特な一例ではある。
    (※注1)雀眼網形式;小円の並んだ紋様らしいが、詳細不明。下図参照。
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②多層墓塔
(玄奘法師墓塔)
 史料に記載される多層の僧人墓塔は、殆どが初盛唐時期に建造された。現存の実例中、最も著名なものは、長安興教寺玄奘法師墓塔及びその両側の(弟子の)窺基塔と圓測塔である。玄奘は麟徳元年(664年)、“勅を以って場所を移して法師を樊川北原に葬り、塔宇を建立した”、即ち、今の玄奘墓塔である。肅宗時(756-762年)興教寺の寺額を賜る。塔身はせん積みで、方形平面、高さ約21m、5層。外観は模擬木構造楼閣式。塔身の各層四面は倚柱、頭貫を隠出し、面を3間状に作る。柱頭上に泥道栱を積み、大斗の所には梁頭を伸ばす。底層の頭貫以下が後世の修理で積み直されて原貌が改変されているのを除き、塔身各部分の造型比例及び細部工法は皆制度に則り精細にできている。劉敦楨の言うように:“この塔は中国現存の楼閣式磚塔の中で、年代が最早で形制が簡素で熟練した代表作品”である(図3-7-48)。窺基と圓測は、玄奘の弟子中の校訂者で、故に墓塔は玄奘塔の両側に侍立する。その内、窺基塔の初建は、永淳元年(682年)で、太和二年(828年)に至って旧塔が倒壊し、弟子は“故塔を啓き、全躯を得て、西国の法に依り火葬し埋めて、その上に塔を起てた”。現状の窺基塔、円測塔は、3層方形の小塔で、大量は玄奘塔と大差があり、僧人も世俗の帝王公侯と同じで、死後も地位の高下に基いて異なる礼遇を受けたことを表している。
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(仏光寺祖師塔)
 五台山仏光寺祖師塔は、2層の磚塔で、形式はかなり独特である。建造年代は文献で考察できない。塔の平面は六角形で、底層は内径2.5m、外形4.5m、西に向いて門を開く;上層は実心、外径約2.2m。塔高約11m。底層の塔身外壁は飾りもなく平で、門の上は火焔形のアーチで飾るが、檐部の造型は複雑である;面毎に9枚の磚頭の上に、仰蓮を迫り出し、上面は又6層の磚が迫り出し、屋根面は繰り返し迫り上がる。上層の塔身底部は平坐を作り、坐の上は3層の仰蓮が迫り出す。塔身の角の所は皆、倚柱を出し、柱身の上、中、下部に仰蓮を飾る。塔身の西面には板門を隠出し、西南・西北の2面は連子格子窓を隠出し、窓の上は2重の横木と人字の栱を描く。上層の檐部は亦3層の仰蓮を用いて迫り出す。塔刹下部は、又2層形体かなり大きな仰蓮を用いる(図3-7-49)。北朝時期流行の蓮辨装飾は、覆蓮と束蓮が主であるが、この塔は独り仰蓮を用い、十分に特殊なやり方である。それとは別に、この塔の上下層の塔身比例は、かなりかけ離れたもので処理手法も異なり、隋代壁画中の仏塔の特徴と符合するので、その年代は隋から初唐の間華も知れないと推測される。
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(霊岩寺慧崇塔)
 山東省長清の霊岩寺慧崇塔は、年代不詳だが頗る特色を持った唐代僧人の墓塔である。塔身は石造、方形平面、高さ5m余。塔下は須弥座基台で、各面には皆階段がなく、正面の門に対する所が外に凸形に出る。底層塔身は正面中央にもんを開き、側面は疑似の門を彫刻する。檐の出は石板で迫り出し、凹曲面を呈して上向き外向きに伸ばし、頂面は逆に平直に迫り上げて屋根面を作り、瓦畝を彫らず、檐口線はぴんとして力が有り、中央部は両端の翼角に向かって僅かながら反る。底層の塔頂にはもう一つ1層の低い塔身があり、四面は実壁で、上部の檐の出の工法は底層と同じで、只出檐の長さが短く縮められる。その上に更に1層の細くて低い塔身があり、これも迫り出しで檐を出し、檐部の四周上に山花蕉葉を置き、中央に仰蓮、宝珠を立てる(図3-7-50)。この塔の外観は簡潔で、比例は優美、制作は精良である。塔門雕刻の風格は盛唐時期の石塔実例に近く、その年代を推測すると710年前後であろう。
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5.石幢と石灯
 初唐時から、社会では石幢、石灯の造立し、その上に仏教の経咒を刻するやり方が流行し始めた。仏寺の中に灯や幢を建立するのは、重要な仏教の法物ではないにしても、寺内の庭院空間の重要な組成部分である。
 已に知られた遺跡と実物は、石幢と石灯の上に経咒を刻み、年代の最早は北斉天保九年(558年)訳出した《施灯功徳経》と《大悲経》で、最もよく見るのは、唐高宗年間(679-683年)に訳出された《仏頂尊勝陀羅尼経》である。経文の述べる所では、若しそれを高い幢の上に安置すれば、幢影がその身に映り、或は幢上の塵芥がその身に落ちて、均しく悪道の罪垢を避ける事ができると。この種の迷信から、初唐以後陀羅尼経幢は普く両京諸道に及んだ。これも石材で幢(灯)を造る目的が刻んだ経が長く保存される為であることを物語っている。
 木竿と織物で構成される幢幡は、それまで仏教儀式で用いられる儀仗物であり、金銅で制作する灯明も仏殿中の供物の一つである。石幢(灯)の造立は、幢幡と灯明の代替物のために作られたのではなく(事実上、代替物にはならないが)、造塔と同じで信徒達の福業を呼び込み、災いを消し去る祈福の為の方式として作られた。知られている最早の陀羅尼経を刻んだものは、龍門磨崖の如意元年(692年)史延福が刻した《尊勝陀羅尼経》で、且つ、そのまま晩唐に到るまで、この経を碑石に刻するやり方がある。幢刻経は実質上、秦漢以来の石碑を立てる伝統から発生した形式の一種なのである。
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(1) 石幢
 年代の記載された最早の石幢は、武周時期に建てられた陀羅尼幢(690-704年)で、現存の最早の経幢遺跡は、景龍三年(709年)の《中州寧陵県令賈思玄造尊勝陀羅尼幢》拓本で、確実な紀年のある経幢の実例中、最早は宝暦二年(826年)の広州光孝寺大悲経幢である。
 石幢は通常、幢座、経咒を刻む幢身と幢頂の3つの部分で構成される。現存の経文拓本及び経幢の実例は、石幢中部に経咒を刻した幢身部分を始めから終わりまで八稜の柱状に作り、これは石幢造型の基本的特徴の一つである。そして、石幢造型の変化発展は、主要に下部の幢座と幢頂の形式変化であった。
 初唐時期の石幢は、未だ実物で残った物がなく、形式がはっきりしない。陜西省の唐開元年間の石幢実例に拠れば、盛唐時期の石幢は造形上、陵墓の神道の脇の望柱と大変似ている。低い覆蓮幢座、上に8稜の柱形幢身を立て、柱頂は八面に仏像を刻み、始まる段階の石幢形式と言うべきだろう。中唐以後、石幢造型は織物の幢幡形式の特徴を吸収し始め、8稜柱形の幢身上部に、多層の傘蓋や屋蓋状の石盤が出現し、上下の石盤の間に極めて短い柱を立て、上面は各種の題材で雕刻し、石幢頂部に仰蓮や宝珠等を置く(図3-7-51、52)。これと同時に、幢座の造型も複雑化していき、往々にして蓮座や須弥座及び平座勾欄等の層を重ねる構成を採用し、高さも相応して高くなる。この他に密檐磚塔状の幢身造型まで出現する。
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 全体造型の変化発展に従い、石幢の高さと体量も逐次高さと大きさを増していく。上述の開元年の幢の高さは只の2m前後で、晩唐大中年間(847-859年)の江蘇浙江一帯の石幢の高さは、みな5m前後あり、その中で(上海)松江の幢は高さ9.3m、五台末期に建立の杭州梵天寺の幢は、甚だしくて高さ15mにまでなる。
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 石幢は仏寺内に置く方式が2種ある。:一つは殿庭(或は門庭)の両側で、例えば敦煌莫高窟の初盛唐壁画に表現する幢幡の一と同じである(図3-7-53)。
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河南省登封永泰寺内の東・西幢、及び五台杭州霊隠寺と梵天寺の双石幢は皆、この種の方式である。;もう一つは、単幢で、通常殿庭の正中央に立ち、例えば五台山仏光寺大殿前の大中十一年の幢である。仏寺を除くと、唐代に墓所に石幢を造立し、亡くなった者の祈福のためのやり方も流行した。この他に、宋代史料中には、市中の刑場に幢を立てた記載があり、唐代にもこの種のやり方があったかどうかは、考察を待つ所である。但し、松江の唐幢は官衙の南に位置し、当時已に城内の公共場所に幢を立てるやり方があったことを物語っている。

(2) 石灯
 石灯は、灯台とも言い、灯柱に経咒を刻み、故に炬幢とも言う。
 我が国に現存する石灯実例は4座:1座は現在西安碑林にあり、他の3座は山西省太原の童子寺、山西省長子法興寺と黒竜江省寧安の隆興寺内にある。その内、法興寺石灯だけは確実は紀年(大暦八年、773年)があり、隆興寺石灯の年代は渤海国時期(698-926年)で、童子寺石灯は風化がひどく、年代は辨じ難い(図3-7-54)。
 上述の実例及びその他の石灯遺跡から、石灯は通常底座、柱身、燃灯室の3つの基本部分から成り、その造型変化の趨勢は石幢の様に明らかではない。底座は一般に蓮座、須弥座或は両者の結合形式を採用し、柱身断面は八角形あるいは円形である。長安青龍寺遺址出土の太和五年(831年)石灯残柱及び《金石萃編》中に収録された乾元二年(759年)(石灯台経咒幢)拓本は、その柱身形式は石幢と同じで、八稜柱状で、且つ前に《施灯功徳経》、後ろに《仏頂尊勝陀羅尼経》を刻し、灯と幢の功能を兼ねている。但し、現存実例中、碑林蔵の石灯と童子寺石灯は須弥山形座と盤龍柱を作り、隆興寺石灯は梭柱形柱身を用い、上面は経咒を刻さない。燃灯室平面は、方形、六角形或は八角形で、外観は単層中空の小室か小塔に類似する。上述の実例中、燃灯室は皆異なる程度の模擬木構造形式の処理で作り、立柱、頭貫、斗栱及び瓦屋根各部を彫り出す。この4座の石灯の高さの差異は相当大きい:法興寺石灯は現状高2.4m、童子寺石灯は約4.2m、隆興寺石灯は残高6mである。実例は甚だ少なく、その間の規律が不詳で、所在した院庭中の建築物規模に適応していたのであろう。
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 石塔は一般に寺内の仏殿か経堂の前に設置される。法興寺石塔は寺内の主殿円覚殿前であった。又長安西明寺別院遺址の殿基南側の正中央に、版築の台基から3m離れた所に、堆積と石灯残欠があり、一は丁度殿基の左右の階段の間であった。

 石幢、石灯及び前述の小型石塔の他、仏寺の殿庭中に、時として幾つかの特殊な建築小品が建造される。例えば高宗の顕慶元年(656年)、御書が大慈恩寺碑に送られ寺内に至り、“司は仏殿の前東南隅の別に造った碑屋にこれを安置した。その舎屋は複栱と2つの大斗、雲の横木の素晴らしい建物で、金の華が下を照らし、宝鐸が上に輝き、仙掌の露盤、霊塔と全く同じであった”。これは、碑を置く模擬木構造の塔状建築である。

※原図が不鮮明のものは、百度百科或は百度図片より引用している(カラーのものは全て引用)
 原図は、旧い写真が多く、現状と異なる場合も多いようで、修理が進んでいることが伺える。


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# by songofta | 2017-08-24 23:20 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

250 4.仏塔と墓塔(2) 仏塔2

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第三章 隋唐五代建築
第7節 宗教建築



 b.楼閣式塔

 唐代の楼閣式塔は密檐式塔と外観形式上幾つかの共通点があり、例えば方形平面や各層に重ね板の迫り出しによる出檐等である。但し、両者は以下の幾つかの点で主要に区別される:
 一つは、楼閣式塔の層数はだいたい7層を超えず、密檐塔の層数は往々にして7層以上である;
 二つは、楼閣式塔の各層の層高は一般に、下から上に順次低減し、密檐塔は底層が特に高く、上部の各層の層高は突然低くなる;
 三つは、楼閣式塔の塔身表面は通常柱、枋、斗栱らの木構部材の形象をを隠出するが、密檐塔は多くがこの類の表現が無い;
 四つは、楼閣式塔の塔身は下から上に向かって斜めに真っ直ぐ逓減し、各層の出檐の外縁を連ねた磚は1本の直線になり、木構造仏塔と同じで、密檐塔の塔身は栱苦戦的な巻殺を採用する。
 現存の唐代楼閣式塔は、基本的に方形平面で、五代や遼宋の楼閣式塔は、却って殆どが八角形平面である。この種の変化は主要に木塔構成の工法の改変と関係する筈だろう。平面は方形より八角形に転変すれば、明らかに構造中の薄弱な角部分が無くなり、面から平均に応力分布をするようになる。この変化を推測すると、唐代中後期に始まり、五代時期に至り、八角形は已に十分流行の仏塔平面形式に成っていたかも知れない。

(大雁塔)
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 現存の著名な唐代の楼閣式仏塔は、長安慈恩寺大雁塔であるが(図3-7-39)、唐代の塔身は明代の修理時に磚を積んで内に包まれたが、現状は依然ほぼ原来の外形の輪郭を保っている。この塔は最初、唐高宗永徽三年(652年)建立され、玄奘法師自ら参与して建造された。“塔基面は各140尺、西域の制度に倣い、旧来の方式によらなかった。塔は5級あり、相輪、露盤があり、高さは凡そ180尺”。建塔の目的は本来、西域から持ち帰った経典や仏像を貯蔵するためで、表は磚で心は土を材料にした工法を採用し、長く塔内の便を図れず“草や木が穴を開け段々請われていった。長安中(702年前後)、旧塔を取り除き、新塔を造り、“東夏刹表旧式、特崇于前”。この言の東夏旧式(注;東の華夏=中国の旧い様式)、即ち模擬木構造楼閣式塔の様式を指している。現状の塔高は64m(換算して、218唐尺)7層である。底層と2層の面幅9間、3・4層は7間、5層以上は5間で、各層四面の中央間にアーチ門を開き、塔身の外壁は倚柱と頭貫を隠出する。各層の塔檐は正反の重ねた迫り出しを採用する。塔頂に相輪露盤はない。塔内は中空で、各層架構は木楼板を以ってする。建造年代の近い長安香積寺塔と対照的に、塔身外観は原有工法の特徴を保っている。

(香積寺塔)
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 香積寺は永隆二年(681年)に建てられ、高僧懐惲が四年に大塔を建て、“塔の周囲200歩(原注、200尺の誤りに当たる)、真っ直ぐ上に13級”。現状の磚塔平面は方形、底層飲まん幅9.5m(唐尺換算28尺)。塔した基台寸法不明、塔身の面幅から推算して基台50尺は可能である。塔身の残存は10層で、高さ33m余、各層に柱、枋、斗栱を積出し、迫り出した出檐の下部は2筋の斜角に置いた磚牙の装飾線がある(図3-7-40)。香積寺塔の外観形式は密檐式塔の特徴を融合したようである;底層はかなり高く、2層以上は突然現象し、底層高さの1/3にも足らない。但、塔身は直線の収分を作り、各層は模擬木部材を隠出し、典型的な密檐式塔とは異なる。塔身の層数は多く、その上部各層の高さが旧に低く成る事が主要な原因である。前述の隋文帝チキ、曇崇が建てた11級磚塔も、この種の情況かも知れない。
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 隋唐時期の楼閣式石塔は未だ遺存していない。実例中唯一つ見えるのは、五代呉越の建てた3座の小型石塔で、杭州に在る。石塔の模擬木構造表現は磚塔の必要とする高度さに遠く及ばず、特に出跳部分、例えば平座、斗栱、出檐等、皆木構造の寸法に基づいて、雕刻の工法で出来ている。大型石塔の建造公費を減らす時、木塔或が磚塔はそれを成就し易いが、史料記載の中の北魏が平城に建てた3級の模擬木構造石浮図(高さ10丈、換算で約27m)、及び福建地区に現存する宋代の模擬木構造石塔の実例、例えば長楽三峰塔(1117年)、莆田広化寺塔(1165年)、泉州開元寺双塔(1228-1238年)の体量とその芸術的技術的水準から見ると、唐代楼閣式石塔は、曾て無い程間断無く発展してきたのである。
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(杭州閘口白塔)
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 杭州閘口白塔は銭塘江北岸の閘口にあるのでその名を得た。それと霊隠寺双石塔とは、形式が近い三座の模擬木構造の石塔である。梁思成が校訂したこの塔の年代は、約960年頃で、五代呉越王末期で、公認されている。三塔の内、閘口白塔の制作は最も精緻である。塔の底部は須弥台座で、形式は経幢底座と類似である。塔身八角形平面で、面は各1間。塔身は9層で、底層には平座が無いのを除くと、各層には皆平座、勾欄、塔身、補作、出檐、瓦屋根の各部分で構成される。各層の塔身の四正面の中央には2枚の連子格子のある扇戸が雕刻され、斜めの四面は実壁である。塔頂は刹を出す(図3-7-41)。塔の上下全体で、塔基部分を除けば、木塔の外観形式の特徴を体現しない所はない。これに因り、この石塔は実際の木塔の寸法を縮小して出来たか、或は、木塔の設計方法を採用した可能性がある。
 石塔の間幅によって、柱高寸法を推測すると、大体、実際の木塔の体量の5分の1である。表3-7-4に、石塔の寸法とその5倍に拡大した後の寸法を示す。中から見えてくるのは、石塔各部分の寸法の間に存在する比例関係で、拡大後の架構と部材寸法は、皆唐宋台の木構造実例と比較すると近づいてくる:
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 単材の幅の1/10を分値とすると、石塔底層各面の間幅は272分。この1分数及び拡大した間幅の寸法(4.47m/272分)は、遼代の応県仏宮寺釈迦塔底層の中央間幅(4.47m/263分)は、相当近い。
 石塔の底層柱高(0.61m)と層高(1.233m)の比は約1:2で、これは唐宋の木構造の実例に反映される架構比例の特徴の一つである。その最も典型的な例は、遼代薊県の独楽寺観音閣で、この建築は、学術界公認で唐代の特徴を大量に含んでいる。
 拡大後の間幅、柱高、柱径、檐の出等の寸法は唐宋実例の常用寸法の範囲内になる。只柱高は柱径と間幅に対して言えば低い方に片寄っている(柱径/柱高=1:6、柱高/間幅=1:1426)。しかし、これは或は多層木塔の架構比例の特徴かも知れない。応県木塔の2層平柱の細長比は1:689で(一般殿閣の注は1:8以上)、蘇州雲岩寺の模擬木構造磚塔(五代末)の柱高と間幅の比は1:2前後である。
 石塔本体は建築の小品で、構造問題は存在しない、このため実際の木塔より甚だしく誇大な比例関係に近づけることが出来る。例えば、現状の塔身高(刹の高さを含まない)は、底層柱高の15倍、第5層塔身直径の6倍、各面幅は僅か1間等、これ等は皆実際の木塔とは言っての差異がある所である。同時に、石塔中に表現する幾つかの細部のやり方は、例えば塔門に歓門(注;五彩装飾で門を飾ること)、門の扉に連子格子が在り、平座下の斗栱の眼壁が木(竹)を編んだ菱格子形式等は、地方性に属する工法の反映で、北方の同時期の木構造仏塔とは異なる所である。
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c.単層塔

 隋唐の単層磚石仏塔の最も著名な実例は、山東省陣痛時四門塔で、もう一つは河南省安陽修定寺塔である。
(神通寺四面塔)
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神通寺四面塔は隋大業七年(611年)、全体が石造である。方形平面で、面幅7.38m。四面の中央にアーチ門を開き、この名がある。塔内は中心に方柱があり、方2.3m。仏像が柱身四面に寄りかかって設置され、内部天井は中心柱を一周する人字片の斜め屋根状にある。塔高は約13m、塔身の立面は又基本的に方形で、出檐は4層の迫り出しで、塔頂は四つの斜面で屋根を作り、中央に刹を立てる(図3-7-42)。塔身の全体輪郭は方形、直線的で力があり、比例は成熟し、風格は簡潔である。
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(安陽修定寺塔)
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 修定寺塔の創建は、北斉天保年間(551-559年)、隋唐時期に修理され、全体の摸圧花紋の磚で装飾された磚塔である。方形平面で、面幅8.3m。南面の中央にアーチ門を開き、大きさの揃った青石に門框、横木、敷居各部を雕刻する。塔高は20m近く、下は須弥座の塔基である。塔身部分は9.3m、塔頂も残るが、現状は復原された寄棟造(※注1)で、恐らく原状ではない。北斉の石窟中の石刻単層仏塔形象及び窟檐外観は、塔頂に覆鉢頂を作り、四周は、芭蕉葉或は巻雲装飾があり、中央に刹が立つ。塔心室は方形平面で、寸法は塔身面幅の1/2。室内は元、仏像を置いたが今は無い。この塔の突出した特徴は、塔身外壁に満面を摸圧花紋磚で飾ることである。原状の紋様は、唐代の風格があり、修理時になったものである(図3-7-43)。塔基の下を曾て発掘した時、大量に北斉風格の花磚と型取りの磚の残欠が出土し、その中に双抄斗栱の型取り磚及び陶范があった。そこから、この塔の初建時は模擬木構造の外観特徴を持っていたことが判り、同時に塔身に貼り付けた磚の紋様の風格は、素晴らしく美しく、異国の濃厚な色彩を帯びている。これらの特徴は、北斉の石窟、特に響堂山石窟と一致するものである。
    (※注1)四坡頂;普通、寄棟造だが、写真は宝形造に見える。宝形造にも使うのかも知れない。
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 神通寺四門塔は寺院の総体配置での位置は考察できない。修定寺塔は仏殿の前の中軸線の位置にあり、寺内の主要建築物の一つである。
 この2座の仏塔は外観が相似で、方形平面が同じ、塔身の立面も方形に近いとは言え、塔内平面と空間形式は異なる。北斉の響堂山石窟中、窟檐立面は皆登場に作るが、窟室平面は中心方柱と中空の2種の分かれ、神通寺四面塔と修定寺塔の平面形式と相対照的で、その間にある種の連係が存在する。
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(暦城九頂塔)
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 唐代後期、仏塔平面は、それまでよりかなり方形以外の形式を採用することが多くなった。塔身の局部、例えば檐口や頂部は、かなり多くが曲線と曲面を採用し、幾つかの珍しい頂部造型を出現させる。山東省暦城九頂塔はその中の一例である。この塔の建造年代は不詳、八角形単層磚塔で、高さ13m余。塔身は上下部分に分かれる:下部は内凹みの実壁で、条磚を粗く積む;上部は各面が平直で、磨磚対縫工法(※注2)を採用している。正面はアーチ門を開き、塔内に像を置く。出檐は迫り出し方式で上下に凹曲面を作る。檐口線は水平だが、明らかに生出があり、下部塔身平面と相対する。塔頂中部は平らで、中央に3層の小塔1座が立ち、高さ5m余、周りを囲んで外形が同じで、大量がやや小さい3層塔8座が、八方に向いて立ち、下部塔檐の折れ曲がる所に正対する(図3-7-44)。
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この塔の塔身は上下層に分かれ、処理の工法が区別されるのは北魏嵩岳寺塔底層とほぼ同じである。原状の塔門の位置から推測して、塔身下部の粗く積んだ部分の四周は階段等があるべきだが、調べる手がかりが無い。
  (※注2)磨磚対縫工法;磚を正直方体の磨き、積み上げる時に磚と磚の間のモルタルを搾って、
      壁面がピッタリ隙間なく、表面はつややかに仕上げる工法(下図参照)。
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※原図番以外の図は、百度百科より引用。

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# by songofta | 2017-08-20 09:41 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

249 4.仏塔と墓塔(1) 仏塔1

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第三章 隋唐五代建築
第7節 宗教建築

4.仏塔と墓塔
隋唐時期、建塔は社会の主要な仏教建築活動の一つであった。塔の構造も依然として南北朝時期の木構造と磚石の2種の主要方式を踏襲し、西北地区は依然日干しレンガで建塔する伝統工法を用いていた。文献記載及び遼宋の木塔発展の情形に拠れば、木構造の仏塔は、隋唐時期依然かなり大きな比例を占めたが、木塔は容易に破毀と腐朽するので、隋唐の実例は未だ残らず、別に考古発掘された基礎が在るだけである。現存の隋唐の仏塔実例はみな磚、石塔で、外観上楼閣式と密檐式の両種に分けられ、平面形式は方形が主である。盛唐時期に流行した小型密檐石塔の建造は、性質が北朝の造像塔と近い。五代の呉越地区の模擬木構造の磚石塔の平面は八角形で、唐代後期仏塔の平面変化の趨勢を反映している。僧人の墓塔建造は隋唐時期、かなり普遍的で、多くが磚石構造を採用し、平面と外観形式は豊富な多様性を持ち、功能上焼身塔と真身塔の区別がある。

(1)仏塔
①木塔
 記載された隋代の多層木塔を見ると、長安の東・西禅定寺の7層木浮図(大業七年、611年成る)、長安静法寺の木浮図(開口十年、590年)、揚州白塔寺7層木浮図(仁寿中、601-604年)、及び隋初建立の相州大慈寺塔等がある。その中の長安禅定寺7層木浮図は、都大興の著名な匠師宇文恺が主持して建立下ものである。“高さ330尺、周囲120歩”。方形平面として計算すると。毎面幅は30歩、15丈、今に換算して40m余で、北魏洛陽の永寧寺塔の規模に相当(基礎幅14丈、38m余)し、但高さが後者に及ばない(9層、490尺)。文化大革命期間、塔基が破壊され、出土した石礎は全て掘り出されて別の場所に運び出された。石礎は1.4m前後で、1台のトラックにたった2個の石礎しか載せられなかった。仏塔の平面形式はこれに因り考察出来なくなり、唯規模の大きかったことが想像されるだけである。
(隋代)
 隋文帝の仁寿年間、領域各州に統一様式に基いた舎利塔を普く建て、“所司造様、送往本州(どのような造りにするかを司どる者を、我が州に送った)”。関係する記載から知れるのは、建塔の進め方は先ず地面を掘って基礎を開け、基槽に内に石函を置き、中心に刹柱を立てる。それから統一された時日に、舎利を石函に入れる儀式を行い、次々と塔基と塔身の建造を完成させていく。言っているのは中心に刹柱の有る木塔である。昂の規模と形式に関しては、史料中に記載が無く、恐らく各地の工匠の熟知した様式の筈で、即ち南北朝の旧工法で在ったはずである。後先を幾つかのグループに分けると、先ず大きな州の大寺に立塔し、後に小さい州と辺遠の地域に行った。則ち建造の舎利塔は規模の上で差があった。
 記載を見ると、隋代の木塔は5・7層が多いが、層数が多いものは11層に達する。名僧彦琮が建てた岷城法定寺塔は、“心柱上に出るのは、金輪が相寄り、・・・・11級で、千の丸柱、万の肘木”。一般的に言えば、楼閣式木塔の層数は9層を超える者は少ない。だが、南北朝後期から出現した磚石構造の密檐塔の後、木塔中にも密檐塔形式の特徴を吸収したようなものが出現し始め、層数が多い者は10数層の工法までになる。史料に載る梁武帝が元建てようとした建康の同泰寺では12層木塔で在ったが、侯景の乱で未成となった。長安安香積寺の11層楼閣式磚塔は、或はこの種の木塔形式の反映であろうか。
(唐代)
 唐代の木塔は明確に史料に記載されたものは甚だ少ない。例えば長安の仏寺中、慧日寺の“9層の浮図、150尺、貞観三年(629年)沙門道説の立てる所”(《両京新記》巻3)、保寿寺双塔の“二塔の火珠、10余斛を受け”(《寺塔記》巻下)、趙景公寺の“塔下に舎利3斗4升”( 《寺塔記》巻上)、どれも木塔か磚石塔か説明がない。趙景公寺に関しては、次に“塔を移す時、僧守行が道場を建て、舎利を出す”の記載がある。塔が移せるので、木塔の筈である。この他に、日本の同時期に建てた奈良薬師寺双塔(680-730年)、興福寺塔(730年)等は皆多層の木塔で、木構造は依然として唐代仏塔の主要構造方式の一つであった事を表している。その実例は保存されて来ていないとしても、法門寺塔基の発掘を通して、唐代木塔の平面形式と規則制度を理解出来る;杭州閘口白塔と霊隠寺双石塔も、晩唐五代の具体的形象資料を提供している。

 a.法門寺塔塔基
 法門寺は陜西省扶風県の北10kmの法門鎮にあり、原名は阿育王寺で、北周の廃仏で、寺宇は破壊された。唐初の貞観五年(631年)、元の塔基の上に重ねて再建された。唐天復年間(901-904年)塔頂と塔下の裳階を修理葺き替えた。明代の隆慶年間(1567-1572年)木塔は倒壊した。万暦七年(1579年)原基遺址上に磚塔を建てた。1981年明代の磚塔が又崩れ落ちた。
 1987年、陜西省考古隊は法門寺唐代塔基に発掘を進めた。明代にはその上に磚塔が再建されたので、塔基中心部分は破壊されていたが、四周の石の台明(注;基台の地上露出部分)と、外圏の柱礎及び内圏の四隅部分が在った。発掘の簡報では、塔基平面は正方形で、四面の台明の辺長26m、即ち唐代の塔基の面幅である。台明の内は一圏の版築の柱礎で、毎面に6個(南面は1個欠ける)、四面で計20個。柱礎は方形、幅は1.5~1.8m前後。外圏の柱礎の内、四隅に版築があり、簡報は、内圏の隅柱柱礎は版築の外縁が唐磚を含んでいるので、全面が版築だったかも知れないと考えている。塔基中部は、版築の方座があり、辺長10.5mである。方座の下には、仏骨と各種皇室の供物を納める地宮が造られ、方座の中部と南部は、縦長に地宮基槽が壊され、地宮の建造が塔基より晩かったことを表している(図3-7-30)。史料記載に拠れば、高宗の龍朔二年(662年)始めて舎利を法門寺塔に納められた時、塔内は已に地宮が築かれており、地宮内の出土物の年代が表しているのは、地宮が最後に閉じられたのは咸通十五年(874年)となる。高宗の後は建塔の記録が見当たらず、原状の塔基は、初唐に立った木塔の基座である。
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 簡報の提供する:データと発掘平面を考えると、法門寺塔の平面寸法は大体下記の様に確定できる:
 塔基の大きさは、26m(88唐尺)、塔身の桁行5間、中心間幅5.6m(19唐尺)、次間と梢間幅3.8m(13唐尺)、通し幅20.8m(71唐尺)、檐柱と台基辺縁の距離2.5m()8.5唐尺。
 塔基の中央部分が破壊されているので、この部分の平面形式を確定するのは難しい。遺址の四隅に残る磚で包まれた工法から推測して、塔身中央は版築の実壁或は磚壁で囲った方形の塔心室であった筈である。《法苑珠林》記載に拠れば、高宗の顕慶四年(659年)、槽人が塔内で咒術を行い、“塔内の三像の足下が、各赤白緑色の光明を放ち、旋回して上昇、衝角に至って、帳蓋を造った”。これは塔内が一つの完整した礼拝空間であった事を表し、正面は門を開いていた、3壁3龕の設置だったかも知れない。遺址に残った四隅の位置から推測して、塔心室の外を包む寸法は幅16.58m(56唐尺)で、奥行17.16m(58唐尺)、柱心と台基辺の距離と大体等しい。塔心室までは磚(版築)構造を採用し、更に木架構に保護のために壁で囲いを加え、中心の刹柱があったかどうか等の問題はもう一歩の工匠を待たねばならない。
 上述の法門寺塔の平面寸法中、中央間幅の19唐尺は、唐代面幅9間以上の殿堂の間幅に相当し、前述の長安禅定寺7層木塔の情況と連係し、隋唐の木塔に、一種の塔心高さを減じて底層の間幅を大きくする変化が出現した事を見ることが出来る。敦煌莫高窟の隋代第301窟の人字形屋根の上に2座の小塔が描かれ、一つは4層で、一つは2層、各層は皆木構造の檐を出す。塔心の外観上に突出した特徴があり、底層の体量(間幅、層高、檐の出)が上層に比べて高くて大きい(図3-7-31)。この種の変化は実質的に、仏塔の実際の功用から出て、完善な塔身の底層は、礼拝場所の功能があることを強調したもので、上部塔身の層高を圧縮し、塔身全体造型中に密檐塔の特徴を帯びているのである。
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 b.法門寺塔地宮出土の銅塔
 唐代の単層木構造の仏塔の形象は壁画中に多く見られるが、実例は存在せず、唯法門寺塔の地宮前室から漢白玉の阿育王塔中に仏骨を納める銅浮図が出土し、これが十分生地な単層木塔の模型であった。漢白玉の阿育王塔の形式風格を按ずれば地宮中室出土の唐中宗景龍二年(708年)制作の漢白玉霊帳とは近く、それと銅浮図の制作年代は前後する頃と推測される。
 銅浮図は方形平面に作り、下から上に塔基,塔身、塔頂の3部分に分けられ、通高53.5cm(図3-7-32)。塔により推計すると、塔身高さ(檐口と塔基上面の距離)は、大体三重の塔基の総高さと等しく、塔頂部分の高さは全体高さの1/2強を占める。
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 塔基は三重で勾欄を設け、上層は須弥座形式に作り、束腰部分の壺門の所は透かしている。塔基上下の各層には正中央に太鼓橋(一種のアーチ形の階段)を設け、橋頭に望柱を立て、柱頭に獣が蹲る。勾欄は(隅の)曲がる所で切り離され、或は制作の都合に因るのかも知れない。
 塔身は桁行3間、間の比例は狭くて高い。各面の中央間に2枚の扇板戸を設け、梢間は連子格子を設ける。柱頭の間は二重に横木を設けその上に又小斗を以って頭貫1本を載せる。柱頭の上に置く大斗は泥道栱を承け、頭貫の上は人字形の中備えを用いる。塔頂は単檐宝形造で、筒瓦屋根と棟端頭が三畳翅頭筒瓦形式(※注)を表している。
  (※注) 三畳翅頭筒瓦形式;棟丸瓦を3枚が、稚児棟の先の棟端でそれぞれ反り上がる意味か
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塔頂の中心は覆蓮、宝匣、覆鉢、相輪及び刹頂宝珠等を置く。これを証明するのは敦煌莫高窟の盛唐壁画中の単層木構造仏塔けいしょうで、この種の桁行3間の方形単層木塔は盛唐時期流行の仏塔形式の一つである。莫高窟の晩唐壁画中、3間方形木塔は中心的主体建築群形象として出現する(図3-7-33)。但し、当時の仏寺中この種の配置形式が有ったかどうかは、尚確証を待っている段階である。
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②槫石塔
 磚石塔は終始一貫して漢地の仏塔中、木塔と並行して発展してきた構築類型の一つである。隋唐五代の磚石仏塔は、それまでの基礎の上に発展した。その中で多層仏塔は、密檐式と楼閣式の造型特徴が全て各自で突出しているのを除いて、両種の様式を融合した工法が出現する。塔身平面は、中唐以後、段々と方形が主の工法が、かなり多くが八角形を採用するようになり、円形、六角形も出現する。

 a.密檐塔
 北魏で出現した密檐式塔に続いて、この種の形式はずっと相当な流行をみせた。前章で述べた隋代営州の梵鐘寺内の、“元17級の浮図が有り”、益州浄恵寺中にも、“17キュの浮図、高さ数十丈”、これらは皆、密檐式塔である。但し、記載の中で幾つかの層数11前後の磚塔は、その形式をにわかには定めにくい。例えば、隋の開皇初、僧人曇崇が隋文帝のために造った長安の清禅寺塔は、“高さ11層を挙げ、虚空に痛いほど耀き、都邑で最高と称され”、費用は“3000余貫計り、磚80万”。これは密檐式磚塔かも知れないし、密檐の特徴を持った楼閣式塔かも知れない、―――長安の安香積寺塔のような。
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 現存の唐代密檐式磚塔の実例には、長安荐福寺塔(小雁塔)、大理崇聖寺塔(千尋塔)、登封永泰寺塔と法王寺塔等がある(図3-7-34)。これ等数座の仏塔は場所が各地にあるが、外形の比例は大体同じである。その内、唐代の密檐磚塔に反映する特徴は:
方形平面で、底層の高さが塔身の面幅より大きく、塔檐は積み重ねて迫り出す工法を採用し、層数は11から16層と異なる。塔身の比例は繊細で、輪郭の巻殺曲線は柔和であり、中部がやや外に凸となり、第5層の檐前後が塔身で最も太い。北魏の登封嵩岳寺塔と比べると、唐代の密檐塔の外観は簡素で、装飾が甚だ少なく、各層の塔身には倚柱や磚の貼付け等の工法は見えない。塔身の巻殺曲線はうえに向かっての逓減から上下に逓減し、これ等の変化は異なる時期に受けた外来仏教芸術形式の影響に因る差異を反映している。但、唐代の密檐塔の造型と塔身の巻殺方式は、とどの詰まり、源がどこから来たかは、目下の所公認の結論は無い。
(荐福寺塔――小雁塔)
 荐福寺塔は、これ等の実例中、最早の一例で、睿宗の景雲二年(711年)に建立された。塔身は方形平面で、底層の面幅は10m余。塔身の残高は43m、原15層で、今は13層が残る。底層前後の正中央にアーチ門が開き、塔身内部は中空、木の楼板で層を分け、内壁に附けた槫積みの登道で上下できる。塔外の四周は元数層の台基があり、台辺には青石の台帮石があり、外縁は摩耗しているが、面上は新しく、元は辺に沿って積んだ壁があった。宋代の碑文記載に拠れば、塔下が元々“周回する副屋”があった。宋人帳礼の《遊城南記》の荐福寺の条に金元時期の注があり; “貞祐乙亥(1215年)、塔の纏腰尚存す。辛卯(1231年)移動(注;金軍の敗退)、廃蕩し尽し、磚塔だけが在った”。1960年この塔の修理時、塔の底層外壁に梁頭の枘孔が遺存しており、塔底層に原来確実に木構造の副階があったことが証明され、即ち史料中に言う副屋、纏腰(注;裳階)である。河南の登封法王寺塔の形式と荐福寺塔はたいへん近く、塔底層外壁の四面も同様に木構造の枘孔の痕跡があり、元々は周りを囲む裳階があったに違いない。これは唐代の密檐磚塔底層が普遍的に採用する工法と推測され、これが底層が狭くて高い比例を呈する原因であろう。この様になると、磚塔底層の塔内空間での作用は実際上南北朝の仏塔や石窟内の中心方柱に相当することになる。

 磚塔を除くと、現存の実例中にはまだ多くの唐代の小型密檐石塔がある。この種の石塔の多くは祈福の為に建てられ、供養する人の活動する内部空間を具えておらず、その位置は仏殿前の両側に有り、対面して設置され;有るものは大塔の周囲に立ち;独立して建立されるものもある情況である。
(安陽霊泉寺双石塔)
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 河南地区は現存するこの類の石塔実例がかなり多い。塔身の銘文に拠れば、建造年代は盛唐の開元、天宝年間(713-755年)である。その造型の特徴は、方形平面で、塔身は繊細で、底層に塔心室があり、正面にアーチ門を開き、天王や力士、飛天等の像を彫刻する。檐の出は7層から9層で、多くは石板を用いて正反の重ねで迫り出しを作り、椽頭や瓦畝を雕刻せず、檐間の塔身は各面正中央に小仏龕を彫る。石塔本体の基座を除き、塔下は往々にして須弥座の台基がある。安陽の霊泉寺双石塔は、その体量はかなり大きく且つ保存が完好の一例である。双塔の通し高さは5mを超え、方形平面である。塔下の須弥座台基の高さは約全高の1/5で、幅は塔身の3倍、束腰部分に伎楽を雕刻する。台基の上は又低い底座がある。底層の塔身の高さは面幅の1.4倍前後、正面にアーチ門を開き(但し、底座の四面の正中央は皆、階段を彫る)、門外の両側に力士を彫り、上部は獣面と飛天等を彫る。塔心室内は仏像1躯を彫る。上部の塔身は9層の重なった檐を出し、石板を彫って作る。毎層の檐の底部に重なった迫り出しを作り、上部は下凹みの屋根面曲線を彫るが、瓦の畝は彫らない。塔身の巻殺曲線はそとに徳の現象は無く、北魏嵩岳寺塔に近く、荐福寺塔とは異なる(図3-7-35)。
(北京雲居寺小塔)
 北京房山区の雲居寺北塔の下の方形来基台の四隅には、それぞれ1座の密檐石塔が立つ。この四座の小塔の形式は基本的に同じ、皆方形平面で、7層、高さ3m余、外観造型は簡潔で、比例は精緻である。その中の年代最早は景雲二年(711年)に建立され、最晩は開元十五年(727年)。この種の中心が大塔で四隅に小塔の組合せで、仏塔群形式となるのは、出現がかなり早く、密檐式造塔型を採用し、盛唐から始まる。
(南京栖霞山寺舎利塔)
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 南京栖霞山寺舎利塔は南唐時期(937-975年)で、已に知られている密檐石塔中で体量最大の1座である。塔高18m、5層、八角平面。下は須弥座の基台で、言えは仰蓮座を置いて塔身を承ける。底層の各面は比例が狭く長い、隅角に倚柱と頭貫、地栿等の木構造部材形象を彫り出す。その上の4層は塔身が低い。各層の塔檐は全て斜めの瓦屋根の形象を作り、瓦の畝、瓦当、隅棟並びに棟獣を彫り出す。檐の下は椽、飛椽を彫る。塔身の造型は模擬木構造と特徴を帯びる(図3-7-36~38).前述の盛唐時期流行の密椽石塔と比べ、栖霞寺舎利塔の形式は已にかなりの大変化がある:平面は八角形に作って方形では無く、底層は板門を彫り塔心室が無く、層の檐は木構造瓦屋根を模擬し迫り出し屋根ではない。但し、この3天は呉越閘口白塔と同じである。この他に、写実的な塔基形式を用いず仰蓮座を用い、上部の各層塔身の下に覆蓮座を置き、かなり多くが石幢、石灯を採用する細部処理手法は、五代時期石塔の特徴の一つである。
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  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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# by songofta | 2017-08-17 12:38 | 旅と地域 | Trackback | Comments(0)

248 3.仏寺建築実例(2) 天台庵、鎮国寺、華林寺

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第三章 隋唐五代建築
第7節 宗教建築



(3)山西省長治市平順県の天台庵大殿
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天台庵は山西省平順県の町の東25kmにある。寺内は僅かに大殿と唐碑1座が在るだけで、碑文は埋もれて欠損し、寺及び大殿の創建年代は考察出来ず、大体唐代に在ったと判るのみである。考察時屋根の筒瓦の題記が発見され、大殿は金大定二年(1162年)修理され、清康煕九年(1670年)瓦工匠が再度修理したが、屋根瓦を捲って修理したのみだろう。このため、現状の殿身の架構は基本的に金代の補修後の情況である。
 大殿は南向きで、桁行3間、中央間は3.14m、梢間は1.88m、通しで、6.9mである;奥行は4椽3間で、寸法は桁行と同じで、大殿平面は整った正方形である。殿身は檐柱12本、内柱は無く、架構形式は“四架椽屋通檐用二柱”で南禅寺と同じである。檐柱は側脚、生起が在り、全部が積上げた壁に埋め込まれる。柱頭鋪作は単出跳の華栱が替木と撩風槫を承け(俗に言う“斗口跳”)、柱頭枋上に慢栱を隠出する;実質上、詰組は無く、唯各面の中央間の柱頭枋に詰組の令栱を隠出する。殿内は砌上明造。屋根形式は単檐入母屋造で、南禅寺大殿と同じである(図3-7-22~25)。
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 現存の唐、五台木構造建築実例中、天台庵大殿の用材は最小(標準材は18✕12cm)、寸法最小(中央間3.14m)で、柱頭鋪作形式は最も簡単(斗口跳)である。建築規格も相応に最も低い。その声質は或は村仏堂に相当するのだろう。大殿の架構形式と細部工法は、南禅寺大殿と比較的近く、特に栱端に4辨内凹の巻殺を用いるのは、地域性のある工法の特徴である。
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                 参考 架構の情況
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            ※参考 この図は、愛塔伝奇ー新浪博客blogより


 大殿架構の材分の比例の面で、注意に値するのが一点ある;例えば、大殿中央間の間幅を250分として計算すると、分値は314/250=1.256cmで、殿身の用材推測の分値と符合し(材幅12cm、分値1.2cm)、これを以って梢間の間幅の分数を推算すると、188/1.256=149.7≒150分。これで判るのは、大殿の平面設計は材分をモジュール数を用い、同時に中央間と梢間の間幅の間には。5:3の比例関係がある。その中、中央間の間幅250分は、仏光寺大殿と一致するが、南禅寺大殿とはかなり大きく異なる。前文で述べた南禅寺大殿の所用の用材と間幅の比例は、中央間幅499/1.65=302分、梢間幅330/1.65=200分で、比例は3:2である。間幅の分数の減少は、相対的に用材を大きくすることをいみする。その間の異同は結局建築物の時代の早い晩いを反映し、更に規格の高低、それとも設計手法の変化だけなのか、実物資料が僅かしか無いので、もう一歩の検証は目下の所、確定が出来ない。
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            参考  現在の修復後の大殿情況(窓は開けられている)

 これを除き、殿身架構中、未だ見つかっていない、もっと多くの比例関係がある。金代の修理時、部材の腐朽により、短く切られて、部材の寸法が改変されたのがかなり多く、例えば柱高、挙高、檐の出等、天台庵の唐代実例研究の価値に直接影響している。

(4)山西省晋中市平遙県の鎮国寺大殿
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 鎮国寺は山西省平遙県の町の北15kmにあり、五台北漢の天会七年(963年)の始建である。五台時期の立寺は禅宗寺院が主で、鎮国寺は当時禅宗人だった可能性が高い。今寺内には唯大殿のみが創建時の原構造物で、清の嘉慶二十一年(1816年)修理されたとしても、架構と部材形式は大体原状を保っている。大棟桁に天会七年の墨書題記が見え、主要部材は換えられていないことを示している。
 大殿は、桁行3間、中央間幅4.55m、梢間幅3.51m、桁行は通しで11.57m;奥行6椽3間、中央間幅3.73m、梢間幅3.52m、奥行は通しで10.77m。平面は方形に近い。殿身は正・背面中央間に入り口を設け、正面梢間は窓を開ける以外は、皆壁で囲い、上を端檐入母屋造の屋根とする。殿内は、砌上明造。殿身の架構形式は6架椽屋通檐用二柱。檐柱は生起、側脚、梁栿上に叉手、托脚が有り、南禅寺や天台庵大殿と基本同じで、只梁栿の開きがかなり大きく、層数もかなり多い(図3-7-26、27)。
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知られている実例に拠れば、桁行3間の殿堂中通檐二柱(即ち、通栿)を採用するのは、北方地区の唐宋建築中で浴見る工法で、通栿の開き(跨度)は10m以上まである。大殿の外檐歩は七歩双抄双昂で、詰組は各間に1組である。うちに出跳する多くが1抄である事を除けば、仏光寺大殿の外歩形式と同じである。唐代制度を按ずれば、桁行3間の殿堂は規格が最も低い建築物に属し、一般に使用する形式では複雑な外鋪作が許されない。鎮国寺大殿と1年晩く建造された華林寺大殿(964年)は、均しく3間殿で、外檐鋪作が七鋪作であり、この1点は五台の禅宗寺院の仏殿建築のある種の特徴を反映している。
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(5)福建省福州市の華林寺大殿
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 華林寺は福州市の南北中軸線の北端、越王山南麓にあり、五代時期呉越王銭弘俶十八年(964年、北宋乾徳二年)、銭氏の守臣鮑修の建立である。当時呉越は未だ土地を献納して居らず、故にまだ五代時期の建築と見る事が出来る。寺は原名を越山吉祥禅院と言う。寺内は山門、大殿、講堂、回廊、経蔵等の建築があり、20世紀の70年代になり、寺内の建築の大部分が破壊されて、僅かに残ったのは大殿1座だけで、80年代に、大殿が解体され、原址の前方に移築再建され、五代の越山吉祥禅院の原址はこれに因り存在しなく成った。
 移設再建の前の華林寺大殿は、明清時期の修理と拡張を経ているとは言っても、殿身架構は五代の原構造で、僅か1圏の檐を付加している。我が国南方地区にとって、現在年代を知る最早の木架構建築の実例で、高い歴史価値を具有し、唯近年破壊的な再建に遭い、その歴史的価値と風貌を大きく損壊した。
 大殿原構部分は、桁行3間、中央間幅6.48m、梢間幅4.58m、桁行は通しで15.64m;奥行は4間8椽、中央間幅3.44m、梢間幅3.85m、奥行は通しで14.58m。平面は方形に近い。架構形式は八架椽で屋前後は乳栿、四椽栿は四柱を用いる。外檐の柱頭鋪作は七鋪作双抄双昂で、又耍頭も下昂状に作り、三下昂のように見える。大殿は唯正面に詰組を用い、中心間に2組と、梢間に各1組あり、残りの3面には用いない。架構の局部工法及び部材上に残る痕跡から推測すると、大殿の空間は前廊と殿内の両部分に分けられ、前廊頂部には天井(格天井)を作り、殿内は砌上明造とする(図3-7-28、29)。
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 現存の唐、五代仏殿の実例中、共に四座の方形三間殿である。華林寺大殿以外は、皆山西省の領域にある。この四座の仏殿は皆桁行3間とは言え、建築規格は異なる。南禅寺大殿と天台庵大殿の架構及び鋪作の工法は比較的簡単で、規格は相対的に低い;鎮国寺大殿と華林寺大殿の規格は相対的にかなり高く、取分け華林寺大殿は、表3-7-3から見出せる様に、その建築寸法と用材は、皆、仏光寺大殿と等しい。この様な情形が出現したのは、主要には唐代後期の禅院の発展と規則制度の流行が関係する。前述の禅宗寺院の規則制度(百丈禅規)の中の規定では、寺内に不立仏殿で、唯法堂を設ける。だが実際上、仏殿はこれより不立ではないが、規模は相対的に縮小下のみであった。又唐代仏寺は等級区分があり、このため、仏殿は規模の大小によらず、須らく相応の建築規格を体現する。華林寺の建造者は当地の最高行政官で、移す前の位置は、町の中央正北の越王山南麓で、或は呉越王祈福の意図かも知れず、寺院の規格はかなり高い。故に仏殿は桁行三間と言えども、材分、寸法は七間殿堂の規格に基いた。
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 この様に見てくると、仏殿が3間の方形平面で、同時に寺院等級は異なる規格の建築工法を採用したのは、晩唐五代時期の禅宗寺院に出現した一種の特殊な情況なのである。

 華林寺大殿の架構工法と部材形式は明らかな地方の特徴を具えている:
 a.架構柱叉手、托脚等の斜めに荷重を受ける部材を使用せず、同時に檐柱に側脚が無く、現存の北方の唐宋実例と明らかに異なる。
 b.檐柱の泥道栱の継ぎ手上に単栱素枋を作り、即ち泥道単栱と柱頭枋が一層一層に間を開ける。この種の工法は多く初唐の壁画と石刻に見られ、日本にも初唐風化区を反映した奈良薬師寺東塔に見られるが、現存の北方唐宋実例中にはこの工法は見られず、多くは柱頭枋を実際に設け、枋上に泥道栱を隠出する工法を採用する。それに反して南方の浙江福建地域の現存の実例中、華林寺大殿を除き、まだ宋代の莆田元妙観三清殿、寧波保国寺大殿等、依然としてこの種のかなり古い工法を保持している。これの他に、華林寺大殿の外檐補作の昂は長く両架に伸び桁を承け、斜め梁の作用をし、特に妻面の中柱補作の昂は長く3架に伸び、これは仏光寺大殿より更に古い工法である。(注;垂木桁間を1架と呼ぶので、垂木桁2~3間に跨る意)
 c.部材形式は依然南北朝時期のある種の特徴を保存している。皿斗と梭柱の形式は北斉の義慈恵石柱上方の亭に相似である。皿斗の形象は普遍的に北朝石窟及び南朝墓門の石刻に見られ、現有の北方地区実例と形象史料中では、唐代に入った後は出現せず、南方の福建広東一帯に存在して、ずっと南宋まであり、この地区建築発展中に出現した特有の現象であり、或は地理位置が遠く辺鄙で、文化発展が滞留したか相対的に独立した環境に関係がある。
 d.栱枋断面の比例は2:1に近く狭い長方形で、月梁は円形断面を作り、昂端は梟混曲線の輪郭造型を採用し、架構中多くの柱身への挿肘木を用いる。これらの特徴は福建(広東)地区の早期実例中によく見かける。12世紀前後、日本に出現する天竺様(又、大仏様と称す)建築は、部材中に大量の皿斗、円梁及び曲線梁頭の造型を使用し、亦、架構中に大量の挿肘木を使用する。華林寺大殿との比較を通じて、福建地区から日本の建築様式に伝入したことを確認出来る。
 それとは別に、大殿の前廊部分の重点処理(詰組、天井、月梁造頭貫)や、殿内架構に使用する雲形駝峰、梁枋上の団窠紋雕刻等の工法は、五台の呉越、福建一帯の建築風格と装飾の特徴を反映している。
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 ※特に断らない図片は、百度百科及び百度図片より引用している。
原図が不鮮明のものは、元図らしいものと換えている。



  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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# by songofta | 2017-08-14 16:42 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

247 3.仏寺建築実例(1) 南禅寺と仏光寺

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第三章 隋唐五代建築
第7節 宗教建築



3.仏寺建築の実例
 我が国の9世紀以前の地面建築は、殆どが歴史上の種々の災禍を免れず、極少数が今まで残るのみで、全ては宗教建築である。唐、五代の実例中、仏殿4座があり、全て木構造である。人が遺憾に思うのが、この4座の仏殿は全て、中晩唐時期の地方の仏寺の単体建築で、文献が描述したり考古発見の初唐盛唐時期の都城の仏寺(取分け勅建の仏寺)の建築規模から甚だ遠いもので、その中から唐代木構造建築の発展過程:及び等級制度に対し、系統の整った理解をすることは困難である。先ず、中国古代の木構造建築の発展は、隋唐では已に成熟して、中国とういつの局面の下、南北南北朝時期に南方北方地区の建築工法と特徴が融合して一体化し、一組の礼制の特徴を持った営造制度を形勢し始めた。この制度は建築構成に応用され、構造工法と部材寸法を規定するのを除き、厳格な等級観念を貫徹し、建築物の規格を限定することを通して、封建社会の礼制に符合させるものである。これに因り、特定の社会地位にあった建築実例は、規模の大小を問わず、皆具体的にこの制度を理解し研究する重要な実物資料である。同時にこれ等の実例は古代建築構造形式の変遷発展と技術進歩等の方面の研究にとっても同様の意義を持つ。
 これとは別の方面で、日本の現存する数多くの古代建築の実例と比べて、中国早期木構造の実例は数が少ないが、それらは上述の営造制度の下の三仏であり、適切に表現された我が国木構造建築の外観形式と構造工法であり、内在の構造程式と等級制度を反映している。日本の仏教建築文化は中国から舶来されたと言っても、未だ中国の営造制度全体を受け入れられていない。正にこの種の内在する差別は、日本の平安時期以前の建築は、総体の外観から細部処理まで、実際上中国唐代建築と一定の違いがあり、唐代の木構造建築形式と発展規律を、完全に反映することは出来ない。もし中国の自己の唐代実例が無かったら、絵画や雕刻等の形象資料に基いて、この問題を明確に説明することはかなり難しい。

(1)山西省五台山の南禅寺大殿
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 南禅寺は山西省五台山李家荘にある。寺内の大殿の梁架上に重要な題記が2ヶ所ある:
 “旧名時、大唐建中三年壬戌の歳、月は戊申に居、丙寅の朔、庚午日、癸未時、殿を修理する(重修殿)。法顕等謹んで記す”(中央間の西平梁底)
 “これは年まわりが丙寅の年、元祐元年三月十一日竪柱、台桁・・・・・”(中央間の東大梁底)
 これで知られるのは、南禅寺大殿は少なくとも、唐建中三年(782年)と北宋元祐元年(1086年)の2度の修理を経ていて、300年間隔たり、元祐の修理時は、更に柱等の部材を動かした。史料中にはこの寺に関する記載が発見されて居らず、その創建年代は確実に知る方法がない。題記中の“重修殿”も、現在の殿堂が基礎の上に新しく仏殿を再建したと言うことかも知れない。もしこの様な話ならば、現存の大殿の始めて建立されたのは建中三年ということになる。
 1974年前後、文物部門はこの殿に全面修復して補強したことがある。架構部分の基本は現状を保持した事を除き、軒や垂木と屋根は均しく歴代の修葺中でかなり改造され、大面積を新たに復原設計して作った。
 大殿は南向きで、桁行3間(11.75m);奥行4椽(10m)、均しく3間に分ける;全高約9m。単檐入母屋造、殿内は砌上明造(※注1)。南面の中央間に2枚の板戸を設け、両側間は縦格子、東、西、北3面は版築の壁とする。殿身に用いる柱は唯外檐一周の12柱のみで、側脚(※注1)は7cm、角柱の生起(※注1)は6cm。前檐4柱と後檐の2柱を除きその他の檐柱は皆積んだ壁の内に在り、その中の幾つかは断面が方形に作り、かなり古い風格を表している(図3-7-9)。
    (※注1)砌上明造;天井を張らずに、架構がむき出しで、月梁が屋根荷重を受ける
            側脚;柱が内転びと成るように柱脚をずらすこと
            生起;隅柱を高くして軒の線に反りが出るようにすること
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中央間の前後の檐柱に間に通梁を用い、梁上に駝峰を立て、斗栱は托脚を併用、平梁と平槫を支える。平梁の上は叉手と令栱を以って大棟桁を支える。宋代の《営造法式》中の架構形式分類に照らせば、庁堂架構中の“四架椽屋通檐用二柱”に属する。外檐周囲は只柱頭(隅を含め)鋪作のみで、詰組は無い。中央間の柱頭鋪作中、大斗の内外は各1手出跳する華栱と成って梁を承け、梁頭は外に向けて伸びた部分が鋪作中の第二手の外に出跳する華栱を作り、斗栱上に横に令栱を置き、替木は、上の撩風槫を載せる。梁の背の上に複梁を長く通し、繳背と呼び、令栱の外まで伸びて切り落として耍頭状にする。妻面の柱頭鋪作は内外に華栱が各二手出跳し、内に出跳する華栱上は丁栿を承け、通梁上の複梁と同一水平面で交叉する。丁栿は外に向けて令栱の外に伸び、同様に耍頭状に作る。隅鋪作は正側面に出跳する華栱の他、隅で継いで内外に二手45°華栱を出跳する:内に出跳する者は45°隅乳栿を載せ、乳栿尻は通梁の繳背の上に掛かり、妻面に出る平梁を載せるのに用いる;外に出跳するものは、その他の柱頭鋪作形式は同じで、上に大角梁を承ける。檐柱の柱頭の間は単層の頭貫を連絡し、柱頭鋪作の間は2層の柱頭枋が周囲を連結し、上層の枋は複梁と同一水平面で、枋の上は柱頭に駝峰を設け、斗は厚槽枋を承ける;下層の枋の下は、大斗より横に出る泥道栱があり、枋身は慢栱を隠出する(図3-7-10、11、12)。これとは別に、注意に値するのは、部材細部の工法の2点ある:一つは、方形断面の檐柱(30cm✕36cm)で、現在西檐柱3本だけが残り、最初の部材が変えられていない;二つ目は、肘木端の巻殺が5辨の内凹である。類似の工法は北斉の石窟窟檐と墓室の木椁に見られ、或は山西省や河北省一帯に長く流行した部材の細部処理方式に属している。
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        ※ 四椽栿の上に繳背、その上両端に駝峰、又上に平梁、叉手を介して大棟桁

 南禅寺大殿の建築規模は、小さいとは言っても、架構工法は非常に簡潔で、熟達下技術が顕示し、一種雄渾な気勢を持つ。通梁の内法スパンは8mに達し、梁間10mは只4椽だけを用い、椽架の水平長さは2.5m近く、これは現存の古代木構造建築の実例では、めったに見られない。
 1974年の修理時、大殿の原座は、一辺約19m、幅約15mの長方形の磚積み基台上にあり、台高1.1mである。殿身の四周を取り囲む台明石(注;台基の露出部分)の外縁は檐柱芯から約2m離れ、74年当時の大殿の檐の出はわずか1.66mで、明らかに後代の修補時腐朽した檐椽頭部を裁短している(現在は復原されている)。殿前に奥行5mの月台がある。台基は寸法33✕16.5✕5.5cmの磚を用いる。
 今は南禅寺内に只大殿と台基だけが原構造として遺存しているだけで、その他の建築物は明清時期に建てたものである。寺院配置形式は、もう判らない。殿身の規模に拠れば、架構形式と梁架の墨書題記から推測して、南禅寺は僧人の蘭若が発展して小型地方寺院になったのかも知れない。
 南禅寺大殿の架構寸法比例の分析を進めた時、この殿の営造に用いた尺度は27.5cm/尺かも知れないことを発見した。表3-7-2は、大殿の主要な実測データと推測尺及び公認の唐尺に換算した比較である。架構の変形と実際操作での可能性を考慮して、表中の換算値はなるべく整数を取っている。
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 表から見て取れるのは、換算データと実測データが完全に符合する情況であり、推測尺欄中は5例あり、唐尺欄は僅かに1例である。そして、推測尺を採用すると、架構寸法は均しく完整な尺数となり、唐尺を採用すると多くが端数がでる。更に重要なことは、推測尺の標示する架構寸法の間には、合理的な比例関係がある。例えば中央間の間幅12尺は、次間の丁度一倍半;平柱高14尺は、丁度鋪作高6尺と挙高8尺の和になる;椽長9尺は、中央間々幅の二分の一である。この他に、条磚の寸法は、推測尺換算で十分規整でき、唐尺を用いては出来ない。
 現存の伝世した唐尺の長さは、多くが29.5~29.9cmの間で、唯石尺一つに28cmがある。隋尺は27.3cmである。これに因り、殿内の旧柱が方形である情況と結び付けてみると、南禅寺大殿は、創建が北朝末期或は隋代かも知れず、そのため用いた営造尺が隋尺に近いのではないか。現存の架構は唐代の再建で北宋の修理を経て、当時元々用いていた尺度に沿ったかも知れず、幾つかの隋時期の細部特徴を、例えば肘木端の内凹巻殺等のようなものを残したのかもしれない。
 殿内中心に曲尺形の仏壇を設け、上に像1組を置く。これは比較的典型的な唐代の仏殿の像設置方式で、敦煌莫高窟の晩唐窟にも見られる。
 南禅寺大殿の題記年代(782年)は、現存実例中で最早の一例で、殿身規模(3間)、架構形式(通梁2柱)及び用材規格(宋《営造法式》の3等材に相当)は相互に符合し、架構尺度を加え、比例と細部工法上の特徴は、それが建築史上の重要な位置にあることを確立している。

(2)山西省五台山の仏光寺
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①現状、沿革と配置
 仏光寺は山西省五台豆村に在り、五台山の西麓に建ち、故に寺の中軸線は東西に向かっているが、環境により造成されたものである。寺内の地勢は東高西低で、その差は10余mある。現状は上中下の3層の台地に分かれ、台の前は土壁を積んで覆い、中軸線の位置に戒壇上下を設ける。
寺内の現有建築物中、大殿は唐大中十一年(857年)の建立で、中軸線の東端に位置し、上層台地の正中央、西に向いて東に坐し、殿後はすぐ急な坂で、殿前は10mの広い平台で、台面と中層の高低差は10m近い。中下層台地上に、中軸線に沿って両側に副次的な建築物が分かれて並び、その中で金代の天会十五年(1137年)建立の文殊殿を除き、皆後世の建築である。文殊殿は北にあり、その対面は元、普賢殿が対称の位置にあり、今は毀れて無い。中軸線の西端の元、山門があり、清末に毀たれ、現状は金大に増設された小殿が建つ。大殿から山門まで、全寺の東西水平長は約120m、謄写区に換算して40丈前後である。
 木構造建築を除き、寺内には未だ1座の墓塔と2座の経幢がある。墓塔の現名は祖師塔で、大殿の東南脇にある。塔の位置から判断して、その建造は仏殿以前で、これに因り寺内で現存する最早の建築物である。大殿の正中央に、1座の仏殿と同時に建立された大中十一年の幢があり、下層の台地の正中央に又、1座の乾符四年(877年)の幢がある(図3-7-13,14)。
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                   ※ 祖師塔と幢
          
 北魏から始まり、五台山は仏教聖地と成った。唐高宗龍朔二年(662年)、沙門を遣わして故寺を修理させ、絵師に命じて山寺諸図を描かせたのは、初唐時には已に五台の仏寺は大きな規模を持っていたことを表している。敦煌莫高窟第61窟の(五台)壁画《五台山図》は、晩唐の粉本で描いたもので、その中の大仏光寺は五台の諸寺のなかでかなり大きな物の一つである。
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                ※敦煌莫高窟に描かれた仏光寺

 仏光寺の創建年代は考察が出来ない。史料記載では、晩くとも隋末唐初には、この寺は五台の名刹であった。《続高僧伝・釈解脱伝》に記す、“五台山の南、仏光寺に隠棲すること40余年、今だ以前の堂が10余ある。・・・・山に在って学ぶ者は七、八百人、四方の辺縁の地を教化し、天性は聡明で広く人を愛護し、・・・・永徽中(650-655)亡くなる。今その聖躯はなお存在し、山窟中に屹立して坐禅を組んで居られる“、これに依れば7世紀初は已に相当興盛していた。
 寺院建築配置に関しては、史料中に詳細な記載がなく、僅かに寺宇の興廃に関する記述中に、寺内建築物の建造に関わるものがある。《宋高僧伝・法興伝》に記す曾て仏光寺の冊上に名を掲げ、“功徳を修め、3層7間の弥勒大閣を建てる、高さ95尺”。法興が亡くなったのは太和二年(828年)なので、建閣の年代は元和と長慶の間(806-824年)である。同書の〈愿誠伝〉に記す会昌滅法の後、“大中になり再び崇仏となり、誠は遂に仏光寺を尋ねたが、已に荒廃していた。発心して順に新しく建てた。美声は盛大で、評判は帝の聞くところとなり、聖旨は嵐のよう、雲のように紫衣を降した”。言っていることは、会昌滅法の前、曾て寺内に3層閣が建ち、滅法後、寺宇は荒廃し、再建又は新建し、朝廷の表彰を得た。《敦煌遺書》にある〈五台山行記残巻〉に、五台時期の人が考察したものがある。文中に記載する仏光寺は“大仏殿7間があり、中央に3尊、両面に文殊、普賢菩薩。弥勒閣3層があり、72の賢人、万の菩薩、十六羅漢。解脱和尚の真身塔、瑣子骨和尚塔、・・・・・”、当時、寺内には殿閣が併存し、即ち大中年間の“順に新しく建てた”ものの筈である。
 大閣は3層7間、必然的に寺内中軸線上の主体建築物で、寺内の地形から判断して、その位置は中層台地の中央かも知れず、閣の背後は即ち上層台地の土壁が覆った所である。
 上述の記載に拠り、法興の建てた閣の後、寺内は前閣後殿の平面配置を形成する。会昌滅法後、大中年間の再建を経た(図3-7-15)。金代に閣の両側に文殊、普賢の2殿を建て、遂に原有の配置を改変した。金代以後、漸次毀壊し、再び大きな整備を承ける事はなかった。

②大殿
 前述の復法時、僧人愿誠は仏光寺で再建を計り、“美声は盛大で、評判は帝の聞くところ”で、皇帝の褒彰を受けるに至った。殿内の梁架の底部の墨書題記は、また、建殿に出資した施主の一人は寧公遇と呼ぶ長安貴族の夫人で、その目的は曾て高位の“故右軍中尉王(守澄)”の祈福の為で、同時に“河東節度使”、“代州都督供軍使”等地方官吏の支援を得た。これ等の建設に出資した施主の身分から推測して、この大殿の設計と建造は、当時の官方建寺の建築規則制度に基いているとすべきだろう。
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 大殿の桁行7間、中央の5間の幅は5.04m、梢間(注;尽間の誤りか?)の間幅は4.4m、通しの面幅は34m、奥行は4間8椽、通しの奥行は17.66m。正面の5間に板戸を設け、両妻側と後壁は厚い壁とする。正面の両端の間(尽間)と妻面後部の1間に板連子窓を設ける。殿内には格天井を用い、屋根は単檐寄棟造である。殿内の中心から後ろに偏った所は、通し長さ5間の仏壇で、その上には、間に合わせて三尊主像と文殊、普賢、脇侍等を置き、壇の側面後面は衝立があり、これは晩唐の仏像設置の特徴である(図3-7-16~21)。殿身の架構は下から上まで柱網、鋪作、梁架の3部分で構成される。この種の水平の分層は、上下に重なる架構形式で、唐代建築の主要な特徴である。
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 大殿の架構各部分の間には、明らかな比例関係がある。例えば、桁行は奥行の2倍、中央間の間幅等は平柱高さで、平柱高は中平槫(注;大棟桁と檐桁の中間高さの垂木桁)の地面方の高さの2分の1。架構設計の中で已に一組の既定の程式と修法が形成されており、建築物管理の総体比例に依っていることを表している。設計で柱網平面と鋪作層形式の変化は空間構成の主要な手段として、構造と芸術の完美な統一を体現している。
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 唐代の官寺には、官と庶の区別があり、官寺には又都城と地方、勅建と賜額を請うたものの別があり、仏寺建築も相応の等級規格の差がある。この制度に関しては、《営繕令》に、:“王公以下は舎屋に重栱、藻井を施してはならない;三品以上は、堂舎が5間9架を超えてはならず、庁は入母屋造、門屋は5間5架を超えてはならず;五品以上は、堂舎が5間7架を超えてはならず、庁は入母屋造、門屋は3間2架を超えてはならず;・・・・”、この他に唐令中に、“宮殿は皆寄棟造で鴟尾を施し”の規定がある。当時は主要に建築規模(桁行、梁間)と鋪作、天井形式及び屋根形式と装飾の制限があり、建築物の等級から来ていた。史料中で、未だ見つかっていない仏寺の営造制度に関する規定は、居住制度を参照して、現存の仏寺建築実例及び遺址に対して、一連の分析比較が出来る。
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 仏光寺大殿と南禅寺大殿を比較すると、明らかに両者には、上述の角面での差がある。仏光寺大殿は寄棟造で、鴟尾を用い、唐令の官殿に関係する規定に符合し、桁行7間も唐令が規定する王公以下の堂5間の標準を超えており、明らかに宮殿体制に属している。;南禅寺は入母屋造で、即ち唐代に言われた“覆両頭”、桁行3間は、唐令の言う五品は、堂5間、庁で覆両頭という標準よりも低く、明らかに庁堂等級に属する。これは同じ仏寺といっても、仏光寺の等級は南禅寺より遥かに高いことを表している。それとは別に、仏光寺大殿の外檐の鋪作形式は七鋪作双抄双昂で、室内は格天井と月梁を使用している;南禅寺大殿は五鋪作双抄で、室内は砌上明造である。唐代建築は全体架構から局部工法まで、その間には確実に一種の内在的連係があり、特定の規格に符合することを示している。
 仏光寺大殿と唐長安の西明寺別院及び青龍寺遺址の仏殿基礎を比較すると、それらの規格は大きく異なる。仏光寺大殿の架構平面寸法は34✕17m、桁行7間、奥行8架椽である;西明寺別院殿址と青龍寺殿址の版築土台規模は、均しく50✕30m前後で、両座は同一規格の建築物とすべきで、恐らく桁行9間、奥行12架椽の大殿と想定でき、規格は又、仏光寺大殿より遥かに高く、都城中の勅建仏寺の主殿規格に属すと言うべきである。
 史料記載に拠れば、唐代の地方仏寺の中の、規格が極めて高い殿閣建築にも、多くは特殊な背景がある。五台山金閣寺の不空の造った9間3層の大閣は、不空の当時の地位と関係がある。そして法興が造った仏光寺7間3層閣は、一般仏寺の規格制度のやり方に符合している。

※原図不鮮明のもの以外は、百度百科、百度図片より引用している




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# by songofta | 2017-08-12 20:28 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

246 隋唐五代建築3 2.仏寺の総体配置(2)

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第三章 隋唐五代建築
第7節 宗教建築



(3)別院の設立と配置
初唐の文献中の記載に拠れば、南北長の仏寺は、已に中院の外に別院を設けるやり方が有った。注意する価値が有るのは、一つは別院と言う呼称は現存の南北朝の史籍には見当たらず、初見は唐高宗年間に成った仏教史伝で、《続高僧殿》、《法苑珠林》、《大慈恩寺三蔵法師伝》等である。これらの史伝の多くは初唐の僧人が、北斉・隋、梁陳が書き留めた史籍を編纂して出来たもので、故に北斉・隋の境になって、やっと人々が仏寺の別院に対して注意を払い始め、寺院の重要な構成部分と考えて記述を加えた:二つには、これらの記載の中の別院の位置はともすれば分散していて、主要には城外と山林の仏寺に見えるのであって、実際中院の外に独立して構築された大型の僧院であり、後世の所謂“下院”で、その本体も幾組かの院落を含み、仏殿や講堂等の建築物を有して、その概念と初唐以後の城市の仏寺中の別院は異なるものである。
 《続高僧伝・釈曇栄伝》に記す、隋末に上党(注;山西省東南部の高原地帯)一帯の山中に、“毎年春夏に「方等」、「般舟」を行い、秋冬は各々「坐禅」、「念誦」を盛んに行い、僧尼の別院は、故に4ヶ所あるのだ。出家五衆が煙のように従うことになり、沢山の供物が集まる”。隋代後期、依然南北朝期に設立された僧尼別院のやり方が踏襲されているのが判る。但、この種の別院の設立はどこかの仏寺に隷属する必要が無いようで、只一種の季節に関連した臨時の設けられ、その功能は主要に僧尼集団の坐夏(雨安居)、坐禅修行野多目に場所を提供するもので、仏院配置の固定部分では無い。
 別院の概念は、初唐に至りもう一歩明確に成る。《寺経》や《戒壇経》の仏寺配置の構想中、別院は已に仏寺全体の基本規則計画の区画を構成し、城市中の里坊のようなものであった。現実には、別院の数量と配列は、図経の述べる所と相当な違いがあるとは言っても、関係史料の分析を通して、大方のそれらの使用する性質と、その寺院総体を形成する外観に作用するものは理解出来る。

 唐代の史籍中、沢山の城市の仏寺、特に長安の仏寺に設立された別院の記載がある。これらの別院の使用性質は以下の数種に分けられる:
 a.仏殿(堂、閣)院。諸仏や菩薩、天王等の供養の為のもの。例えば、毘盧遮那院、文殊院、観音院、薬師院、弥勒院等。この他、塔院と仏歯を供養する閣院もこの類に属する。又、浄土を観念することは、唐代に大層流行した信仰方式で、特に唐代の士太夫のなかで、多くが専ら冥報浄土を言い、仏教の深い哲理は論じない。故に、長安の仏寺には浄土院(極楽院)が多く置かれ、浄土信仰を宣伝した。
 b.帝王の聖像と高僧の影像を供養するために設置された聖容院や影堂院、六祖院等。
 c.僧房院。その中は又二類に分かれる;一つは高僧大徳の独居院落で、多くは僧人の名号、例えば不空三蔵院、英律師院、僧道省院等とこれを呼んだ。禅宗は西域の高僧の菩提のために呼び、菩提院も高僧の居所かも知れない。もう一類は、一般の僧人の居所で、多くは西院、難院、西南院等と名付けた。
 d.宗派院。仏寺の中は、往々にして数派が共に住む形なので、別院の幾つかは、各派僧人の活動と居所として設けられ、例えば三階院(三階教)、灌頂院(密宗)及び禅宗僧人が単独でも受けた院落等がある。
 e.その他。例えば専ら訳経をする翻経院、仏典を保護するために建てられた経蔵院、各種職能院には庫院や行香院、後方勤務を提供する浴堂院、僧厨院のようなもの、及び遊覧鑑賞の為の山庭院や観劇場等がある。
 以上の諸種の寺内の別院は、已に前述の南北朝と隋代のあのような主要に僧人が集団で修行するための別院とは明らかに異なる。仏寺の発展は唐代に至り、内部の功能が絶えず豊富になり、組織管理は絶えず完善になって、寺院に沢山の新しい成分を出現させ、仏寺形態はかなり大きな変化が有った。

 城市の仏寺用地は、往々にして里坊内外の道路を境にするので、寺院の輪郭と内部計画は、対応して方形で、密集して整備され、山林寺院の自由な配置とは異なる。長安の仏寺史料を拠れば、寺内別院の分布は、大体2種の情況があり;
 a.独立設置の院落。寺内の道路や小巷に臨み、その一は中院以外の任意の所に置く事ができ、東・西塔院や、西・南僧院、西南角浄土院等のようなものである。慈恩寺翻経院は、寺院西北部に設置されている。前述の荐福寺浮図院は、則ち寺外の坊を隔てて置かれ、院門と南門が相対している。
 b.廊院。張彦遠《歴代名画記》と段成式《寺塔記》の2部の唐人の著作は、長安の仏寺別院中に、相当の部分が、中院の東西廊のすぐ外側にくっついて、南北に順序浴配置され、廊上から門を通らず通行出来、故に廊院と呼ばれた。《歴代名画記》に記されたのは;
 “東廊の南から第三院は小殿”(興善寺の条)
 “大殿東廊の北から第一院”(慈恩寺の条)
 “西廊は菩薩院”(荐福寺の条)
 “東廊は大法師院”(安国寺の条)
 “西廊は北院”(雲花寺の条)
 “東廊は南院”(空観寺の条)
《寺塔記》に記されたのは;
 “東廊の南は素和尚院” (興善寺の条)
 “西廊は万寿菩薩院”(浄域寺の条)
 “東廊の南は観音院”(玄法寺の条)
 “東廊の南から第二院”(崇済寺の条)
 以上の記載に拠れば、各寺の廊院の数は中院の規模の大きさと関係するはずである。興善寺東廊の別院数は3ヶ所以上になる;空観寺、雲花寺の東西廊別院の数はかなり少なく、南北2院だけである。若し中院本体が東西廊を以って前後院に分割されたら、廊院も亦分けられて呼ばれるだろう。慈恩寺は“大殿東軒廊北壁”、即ち中院の大殿両側は東西に向けた横廊が有り、且つ廊の北は実際に壁が殿後の大院と隔てられ、その故に“大殿東廊の北から第一院”で、大殿東軒廊と東廊の交叉する所から南に向け数えて第一座の廊院なのである。
 中院東西廊外側は廊院を設置するのは、唐代仏寺配置の突出した特徴で、この種の配置方式は、未だ塔以前の仏寺史料の記載には見当たらない。但し、前に述べたように、長安の仏寺は、多くが隋開皇、仁寿年間に建立され、且つ当時正に全国各地の高僧大徳が長安に雲集した時期である。上述の廊院は多くが僧人の居住する所で、《寺経》に関連する中院の東西北の三面に設置した仏屋を取り囲む構想は、推測するにこの種の配置方式は、霊裕の《寺誥》から出たものかも知れない。これは実際上、伝統的邸宅の配置に源があり、舎宅を寺とするやり方に関係がある。
 唐代の仏寺中にも、中院の建築が成った後、又陸続としてその傍らに廊院を起建する情況があった。《益州名画録》に記載の、唐肅宗の至徳二年(757年)に成都大聖慈寺が建て始めた。乾元初(758年)、盧楞伽は“殿の東西廊に、道に沿って壁に高僧像数枚を描き、顔真卿が題をつけ、二絶を称された。乾寧元年(894年)に至り、王蜀先主は東廊に三学院を起工し、その名画を損傷させることなく、1枚は院門の南に、1枚は門の北に、1枚は観音堂の後に移した。廊院を建立するために、廊壁を3間開き、門を設けて通行し、壁画3枚を移した。これから推測するに玄宗時の勅建の大聖慈寺は、規則制度上96院の計画を立て、逐次実施したかも知れないのである。

(4)西明寺別院遺址
 1985年、中国科学院考古研究所は唐長安の延康坊西南隅の西明寺石の部分発掘を始め、寺院東端の院落基礎を露わにした。発掘面積は全寺の1/15に過ぎないが、初唐仏寺の別院配置及び寺院建築規則制度を理解する大変大きな助けとなった。
 発掘部分の遺址平面は、主要院落の大部分と、その中の中心殿址と東・西・南3面の回廊址(北部は未掘)、院落南面の中央道を挟み、両側に壁址と東西両処の房址(局部)があり、院の東区域には寺院を囲む壁址と院の西はもう一つの別院部分の東廊址がある(図3-7-6)。
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 主要院落の東西幅は72m前後。中心殿址の版築土基礎は東西50.34m、南北32.15m。台基以南26.5mは南廊の基礎で、その幅6m、両者を加えると32.5mで、殿基礎の幅とだいたい等しい。東西回廊の基礎の幅も同様に6mで、その内、西廊と西側院落の東廊の基礎は繫がって一体となり、正中央に隔壁があり、この隣り合う2組の院落は統一した計画で同時に起工されている。西回廊の北側は、即ち中心殿遺址より北の部分で、院内に向けて幅4.65mを加えていて、その他に、殿遺址北側の正中央には殿基と垂直に南北に向いた廊基が1本有る。この組の院落が中心殿を境界にして、前後に2つの異なる配置の院落に分かれることを物語っている。

 主院の南廊外側は、正中央に9.4mの挟道があり、両側は版築の壁基礎で厚さ1.3m、発掘されたのは20.07m(西壁)、これは主院への通道とすべきである。挟道の両側の版築壁以外は、分かれて建つ2座の小院で、院無いは曲尺形の房跡で、向きは西向き、即ち中院の方向である。東小院の房跡は井戸があり、“西明寺”“石茶碾“の銘を刻んだ石うすローラーが出土し、この良書の小院は北面の主院の付属部分で、後方勤務と一般僧人用の居所である。
 主院東回廊の東4.4mの所は、寺院の東を囲む壁である。根部の幅2.4m、西側(即ち、寺内側)は長い槫で包む。壁の東は延康坊十字街の南街である。
 その外に、主院の両側院落の東廊は、主院西廊の連結した基礎部分を除くと、又引き続いて南に向かって延び、西小院の西側に到る。これは、寺内の別院が南北に縦に分割する規則制度を採用していることを表し、院落の平面は皆南北に細長く、東西は比較的繋がり、南側が入り口だが、各院の建築配置はことごとく同じだとは限らない。
 前述の《大慈恩寺三蔵法師伝》に記す西明寺は、“凡そ10院あり、建屋は4000余間”、他に《唐長安西明寺塔碑》に記す寺内 “倚観閣から、殿堂が層を成して立ち、・・・・・凡そ12所”。別院10ヶ所、院内各一殿を置き、中院の前後の仏殿2ヶ所の合計数に当たる。

 西明寺の占める場所は、延康坊の1/4。図に拠れば、東西長480m(換算して163丈)、南北255m(換算して82丈)。記載中の“寺の面積350歩(換算して175丈)、周囲は数里“は基本的に合っている。已に発掘した院落の東西幅は72m、中院の規模は更に大きいはずで、東西480mの内、最多はせいぜい中院と6箇所の別院に置くのが関の山である。これに拠り、発掘した淫楽は別院中で、面積がかなり大きく且つ地位の重要な一所である。その北面は、まだ一列の横長平面の大型院落が設置出来るが、南面は1本の東西に向いた巷道の分を取りのを除き、寺院の南壁に沿って、最多でもいくつかの小院と普通の建築物を置くので精一杯である。
 西明寺は、元隋の越国公楊素の邸宅で、後に唐の万春公主と濮王李泰が相続した邸宅である。発掘中、殿堂の版築台基の南側5.6mの下部地層に、2列の早期殿堂の犬走り槫があり、その北は版築であった。地層の関係から判断して、建寺の前の建築遺構であった。上層の殿堂台基の辺縁はこれと平行で、北に向かって数m移動しているだけであった。史料記載に建寺の時、地面高さを統一出来るよう調整しており、この一点も証明された。同時に西明寺は邸宅に寺を立てたことを示して、総体配置が元の建築配置の影響を受けた可能性がある。
 西明寺のこの別院の建築規模は、唐初の勅建仏寺の規則制度を反映し、宮廷建築と似たり依ったりで、院内殿堂の基址は50.34✕32.15m、基址前の東西2つの階段の位置から判断して、殿堂の桁行は9間、中央5間の間幅は1丈9尺(5.5m)、大明宮含元殿の中央間の間幅1丈8尺(5.29m)を超えている。これは只別院の殿堂の大きさだけではなく、中院主殿の規模は更に大きいと創造される。
 別院中は殿堂を建築主体とし、前後に2重の院落を分け、前院の廊屋は廻りを囲み、難問の外は挟道と両側の小院で、この種の平面配置はこの別院が普通の僧人の居所ではないことを表している。僧伝の記載に拠れば、西明寺が建立後、おおくの高僧が請われて住持した。例えば、玄奘(勅で上房一口と弟子10人)、道宣(勅で、上座)。また禅師人が居し、禅府を建て、寺内は曾て三階院が設けられた。仏教及び日常活動の必要を満足するため、これらの別院は仏殿や講堂、上房及び弟子の居所等の部分が有ったかも知れない。別院の遺址が反映している所は、正にこの類の性質の高僧或は宗派院であったようだ。

(5)禅、密二宗寺院の配置
 唐玄宗の開元年間(720年前後)から始まり、中国仏教は、段々と両極端の宗派が形成されていく。一つは禅宗で、二つ目は密宗である。両者は対立する角度から、魏晋以来の仏学を改造していった。禅宗は、明心見性、掃相棄法、一念成仏を提唱し、黄土の思辨性(禅機)と判り易さ(空無)で社会の大衆に特に士大夫文人の好みに迎合した;密宗は種々の咒語や図像、儀式を以って人々の崇教心理の別な一面に迎合した。ここにおいて、仏寺配置と建築形式も、これに伴い両種の異なる影響を受け、両種の相反する変化の趨勢が出現する。この種の影響は、ひたすら唐代以後の仏寺形態の中に残っていく。

①禅宗寺院の規式
 唐代初期、禅宗勢力は尚弱く、禅僧の多くは律寺別院に寄居していた。則天武后と中宗時期、神秀が禅宗北宗の筆頭でようやく一派として皇室の重視を受けるようになり、長安大安国寺に石楞迦経院が有り、禅宗北宗派の住地であった。玄宗の天宝年間(約74年前後)慧能が南宗頓門派を創始し、弟子の神会の力を極めた宣揚により、一挙に興盛し、禅宗の正統の地位を占め、仏教各派中で影響最大の派と成った。肅宗、代宗の時、南宗勢力は絶えず拡大し、地域に依り5つの分枝を派生し、明らかに、どの種の他寺の別院に寄居する方式をとっても、この時には禅宗の発展の形成に相応しいものでは無くなっていた。
 別の一面では、禅宗は“空無”を最上の境界としていた。一切の相(形有るものも無いものも心に浮かぶ全て)は皆虚妄と看做していた。成仏を願うならば、離相、掃相(注;滅相のことか)、言葉や文字、思想を含めたもの全てに、着相(注;特定のものごとに執着すること)することができない。これに因り、仏像や戒律、経文等は均しく放棄すべきものになるのは必須であった。この1点は慧能の後の南宗僧人中で、特に突出していて、超仏越祖に到るまでの表現になる。実質上から言えば、禅宗の発展は唐代中後期に至り、仏教のその他各派との対立だけでなく、仏教の伝統的信仰方式と違背していた。このため、仏寺中に普遍的に信奉されて供養されてきた仏像や禅観の浄土及び訳経・経典学習のやり方は、禅宗のこの種の無仏無法の学説とは、水と油であった。

 正にこの種の形勢の下、慧能の第三代の弟子である洪州宗懐海禅師は、禅宗独行の寺院規式を創立し、当時大層大きな影響を産み出し、その居所の新呉百丈山に因んで、“百丈禅門規式”と称した。この規式は3つの主要な特徴がある:
 その一は、“不立仏殿、唯樹法堂”。掃相棄法と浄心自悟の宗旨に照らして、これまで仏寺中で仏殿を主体建築としてきたやり方と反対に、法堂を設けて長老が主事し、弟子衆が法を聞いて教えを受ける場所になった。これに因り、寺内の建築配置は法堂が中心となった。
 その二は、長老の居住する方丈を除き、その他の僧人は、“身分の高い低いを論ぜず、尽く僧堂に入った”。慧能の学説の要点は頓悟に有る。一旦覚悟をした、衆生は仏である。故に寺内の僧人の居所は、年齢の大小を分けず、年功(夏安居の回数)の深い浅いに依り、同室に置いた。室内は長い連なった床を設ける。この種の僧堂建築は、縦長に並んだ房を採用し小型の院落配置方式では無い。
 その三は、機構が緻密で、規則が厳しい。
 この新しい規式の創立は、既に禅宗寺院を一般の仏寺とは別に過ごさせ、独行して世間に当たる為で、同時に禅宗発展で出現した弊害に焦点を絞り、消し去る目的を加えたいと願ったものである。この制度が一度出ると、“天下の禅宗は、風に吹き靡く草のようであった。禅門の独行は、ここから大海が始まるようなものだ“。 だが、この種の仏像を立てない、等級を分けない規式は、結局の所現実の環境及び社会の仏像を礼拝する要求と合わなかった。禅宗は生存発展を求める為、伝統的信仰方式に歩み寄らざるを得ず、寺院配置は結局の所まだ、仏殿(閣)と講堂を同時に設置する造りから脱却出来ず、只仏殿の規模が相対的に縮小しただけであった。現存の五代の禅宗寺院建築は、福州華林寺(964年建立、原名越山吉祥禅院)のように、主殿桁行3間、平面は方形に近く、殿後に面して法堂の規模は桁行5間であった。洛陽の福勝禅院は、後唐の清泰中(934-936年)建立で、“殿東に経蔵が有り、板廊は周りを取り巻く”。寺内は既に仏殿、経蔵があった。又天福地禅院は、“後唐天成二年(927年)建立で、慈氏閣がある”。五代時期を見ると、禅宗寺院の建造は、已に厳格に百丈規式を遵守していないのである。
この他に、唐末五代の禅宗寺院には、羅漢殿の設立が開始される。懐海の弟子普岸は、太和七年(833年)天台山平田禅院を創立し、寺内に五百羅漢殿を置いた。洛陽福勝禅院は、“(殿)西に羅漢殿があり”、上の文に拠れば、殿東の経蔵と対称に配置された。北宗以後、仏寺中に羅漢殿を設置するのはかなり普遍的なやり方と成る。

②密宗寺院建築
 開元の始め(716-719年)、密宗は正式に中国に伝入し、大歴年間(766-778年)、不空に因り代宗の厚い礼遇を受け大きく世に広まった。
 密宗の金剛界、胎蔵界両部の法門は、均しく大曼荼羅(又は壇と称す)を礼拝の対称とし、修法時は必ずこれをその場に設け行う。曼荼羅は通常、平面図像形式で出現する:大日如来(又、毘盧遮那と称す)を中心に、四周を数多くの菩薩、神王が取り囲む。胎蔵界曼荼羅は又、中央に台と八葉院及び周囲内外の十二大院の区分が有り、まるで仏神統治と居住する世界図象のようである。
 密宗寺院中真っ先に建立が必要とされたのは、他でもない曼荼羅道場(即ち灌頂道場、灌頂壇)である。唐代長安の著名な密宗寺院は、先に不空が居住した大興善寺、後に青龍寺と玄法寺がある。この数座の仏寺は密宗が伝来する前に已に建立されていた。寺内の曼荼羅道場の設立は、原有の建築物中、或は別院を設け、ある時は永久的でない臨時の施設であり、原有建築配置を破壊せず手直しした。
 目下の所、国内密宗寺院の実例と史料の欠乏を鑑みて、日本の平安時代の密宗寺院遺存及び関係する文献記載は、まさしく唐代密宗寺院建築の研究になかなか手に入れがたい珍しい資料となる。

 唐貞元二十年(804年)、日本の僧最長と空海が入唐求法し、貞元二十一年及び元和元年(806年)相継いで帰国した。その中、空海は長安青龍寺で不空の弟子恵果に金剛界、胎蔵界両部大法を親授し、帰国後弘仁三年(812年)高雄山寺(後に神護寺と称す)に曼荼羅道場を建立、両界曼荼羅を行った。日本の平安前期の《神護寺実録帳写》に記す“6間桧皮葺の真言堂一宇、二面庇があり、戸二具、額があり、胎蔵界曼荼羅一幅、・・・・・金剛界曼荼羅一幅”、日本の学者が推測したその平面及び内部の設置は図3-7-7の如くである。弘仁十四年(823年)空海は京都東寺(今の教王護国寺)で継続して弘法と灌頂道場の建立を開始した。東寺の総体配置の現状は、仏殿前の東に仏塔があり、西に灌頂堂がある(現存の建築は1634年に原式で再建)。灌頂堂の桁行、梁間は均しく7間、前後両部分に分けられる。奥行の前2間は礼堂とし、室内は素通しで、柱がない;後4間は曼荼羅灌頂道場で、その設置は高雄山寺根本真言堂と同じで、内槽(内陣)の両端の相対して両界曼荼羅図象を掛け、その下に両座の方壇を分けて設け、法器を置くのに用いる。礼堂と灌頂壇の間は、奥行1間の東西の走廊で、両端に門を開き、灌頂堂の出入り口とする(図3-7-8)。前後が両部空間に分けたのは、密宗灌頂堂平面の主要な特徴である。密宗の修行法則に照らすと、灌頂儀式を挙行する前、須らく先に三昧耶戒を授けるので、ここにまさしく前部の礼堂の効用がある。
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 師から承継する関係により、空海が建てた灌頂堂形式は、正に長安青龍寺の恵果が置いた灌頂道場と直接関係するはずである。《大唐青龍寺三朝供奉大徳(恵果)行状》によると、恵果は大歴八年(773年)住寺し、十年、“別に勅で東塔院一所を賜り、毘盧遮那灌頂道場を置く。・・・・・大歴年中、恩賜した銭物は、1000余貫、尽く修塔の功徳とする”。この文で知られるのは、灌頂道場は、寺内の塔院の仏塔底層に設けられたことである。会昌廃仏の前、この中はひたすら密宗の壇所であった。日本の僧円仁の入唐求法で、会昌元年“青龍寺に行く、東塔院に入り、詳しく諸曼荼羅を見る”がその証である。南朝時期已に塔下に戒壇を設置するやり方があり、例えば《戒壇記》に記す“今荊州の四層、長沙の2寺の刹基の下、大明寺前湖中、いずれも戒壇である。・・・・即ち仏塔である。“。密宗灌頂と顕教受戒の性質は同じで、故に東塔院を勅賜し壇とする所とした。已に唐代仏塔は多くが方形平面に作られ、殿堂平面中に方形はかなり少ない。これに因り、空海は京都東寺に灌頂堂を建立し、方形平面で、桁行7間、長安青龍寺の東塔院仏塔底層の平面形を真似たのかも知れない。

 曼荼羅道場を建立することを除き、密宗寺院の中は、往々にして各種の堂閣を建てるが、これも密宗が仏寺建築にたいして影響した最大の所である。曼荼羅の中は、顕教の菩薩、例えば文殊や普賢、弥勒、観音等皆新しい地位と職能を賦与され新しい形象さえ賦与された。これに因り、唐代中期に始まり、密宗の地位は段々高く成り、密宗寺院だけでなく、一般の寺院の中にも、多くの堂や閣、院を建て、仏や菩薩、天王の諸像を供養した。長安の光宅寺の如きは、“建中年間(780-783年)に曼殊(即ち文殊)堂を建て、五台山の聖相を模倣し”、寺内は又“普賢堂、本天後梳洗堂”が有る。成都の大聖慈寺の文殊閣、薬師院、大悲(即ち観音)院、普賢閣等は、大歴から開成年間(766-840年)に建立された。会昌廃仏の後、密宗の発展は大打撃を受け、寺院の多くが破壊されたが、密宗信仰は社会で依然として流行した。同時に仏寺中は絶えず上述の各類の堂閣が建立され、特に観音閣は、遼宋代に至り依然盛行し、現存の河北省薊県の遼代独楽寺観音閣はこの一例である。これとは別に、山西省応県の遼代仏宮寺釈迦塔の各層に仏像を設置するのは、明らかに密宗曼荼羅(壇城)の特徴で、これに因り密宗の仏寺建築への影響の深さをシリことが出来る。

(6)日本の早期仏寺配置と隋唐仏寺の関係
 日本仏教及び寺院の発展は中国と密接な関係が有る。にほんの領域内では、今に到るまで完全に保存された多くの早期仏教建築実例があり、大量の仏寺と建築遺址が発掘され、これに対する真剣な考察研究が進められてきて、豊富な資料が蓄積されている。これに因り、東方を望み、日本の早期仏寺の実例と関連の研究成果は、今イチの隋唐仏寺を研究するのに疎かにできない重要な方面なのである。
 538年(中国は南北朝後期、梁大同四年、西魏大統四年、東魏元象元年)、仏教が日本に伝入した。594年(隋開皇十四年)、聖徳太子が摂政となり、仏教興隆の詔を下す。この段の時期は、日本は百済、新羅を通して間接的に、南北朝後期から隋初に到る仏教文化を吸収し、百済の工匠が日本で相継いで飛鳥寺(588年)、四天王寺(593年)、若草伽藍(7世紀初)、中宮寺(7世紀初)等の寺院を建立した。これ等の寺院の中院配置の特徴は、中軸線に順に大門、仏塔、金堂(仏殿)、と講堂が配置され、四周は回廊で囲い合わせて矩形の院落を形づくる。目下の所、これは北朝仏寺配置の基本モデルで、百済と南朝の密接な関係に照らして、この種の配置形式も同様に南朝仏寺配置の特徴を反映している。この後、建造された法隆寺、法起寺、法輪寺、野中寺等、これ等の寺院の中院配置の特徴は、金堂と仏塔が中軸線の両側に分かれて並び、この種の配置形式は中国では今まで手がかりが発見されていない、故に中国から伝わったか、或は百済で流行の様式かは、目下の所、確定する方法がない。

 7世紀から始まり、日本は絶えず中国に遣唐使を派出し、入唐求法の仏教僧仁も段々増加し、百済、新羅と同様、直接中国から彼らが必要な各種の文化を吸収した。この後の300年間、日本の仏寺の外観は、唐代の異なる時期の仏寺配置の特徴を反映する。
 7世紀後半、日本は薬師寺(680-698年)、当麻寺(681-685年)、上野廃寺(7世紀末)及び、朝鮮半島を統一した新羅時代に建立された感恩寺(682年)、千軍里廃寺、望徳寺等は、金堂が中央にあり、双塔が分かれて金堂の前方両側にある中院配置形式である。年代は初唐後期に相当する。
 8世紀中、日本の聖武天皇は天平十三年(741年、唐玄宗開元二十九年)、詔を下し国分寺と国分尼寺を建立し、十五年、奈良東大寺に盧遮那大仏を造る詔を出す。この種のやり方は、則天武后と唐玄宗が大雲寺や開元寺を詔立し、大像の鋳造に入れ込んだ事と直接の連繋がある。この時期の前後、日本で建造された興福寺(730年前後)、元興寺及び国分寺の中に、仏殿の東側に単立の仏塔を配置するものが出現し、唐代の揚州開元寺、泗州普光王寺、汴州大相国寺及び長安の幾つかの寺院中に設立された東塔院の配置方式と一致する。
 この他に、なら東大寺は中門の外の両側に建塔し、大安寺は南大門外の両側に建塔する。史料記載も唐代仏寺を底本としたとある。日本僧道慈は入唐求法し、長安で西明寺諸堂の規則制度を写し取って、帰国後、聖武天皇天平九年(727年)西明寺図を献上し、図に依り寺を建立し、十四年を経て完成し、大安寺の額を賜る。前述の史料中、西明寺に塔が有ったことが知れるが詳細の記載が見えないが、大安寺配置から推測して、唐長安の西明寺塔の位置は、南門の外両側であろう。この他、唐太宗時期に建立された幽州憫忠寺もこの種の配置である。






  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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# by songofta | 2017-08-09 23:32 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

245 隋唐五代建築2  2.仏寺の総体配置(1)

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第三章 隋唐五代建築
第7節 宗教建築



2.仏寺の総体配置
 東晋から始まり、仏寺の配置は単一の立塔を寺とする所から始まり、仏塔と講堂、仏殿との組合せに方向を転じ、同時に主体群の四周に寺門、僧坊等の付属建築を増設し、一つの完整した院落を形成する。北朝の仏寺は依然多くがこの種の配置方式を参照して建造した、例えば洛陽永寧寺である。但、南北朝後期から始まって、仏寺の配置に一種新しい変化の勢いが出現する、即ち一組の建築群から多数組の組合せの形式に発展し、中心院落の周囲は、数多くの別院が設けられ、各自に主体建築があるという物である。この種の情形は南朝仏寺で遥かに多く見られ、特に山林の仏寺には、別院の分布がともすれば寺院の地形的条件に依り、或は集中し、或は分散した。別の一面では、仏寺の功能が日に日に複雑になり、寺内の職能機関が増加し、僧衆の等級や宗派の形成も仏寺の総体配置と計画の考え方を新しく高い飛躍に向けさせた。隋唐の仏寺配置は、この種の変化の趨勢の中に有り、絶えず合理化を加え、計画化して発展した結果である。

(1)新しい計画思想と規則制度
 北斉・隋から初唐にかけて、中国の仏教僧逹は、佛教経典を解釈するだけでなく、同時に生活と起居及び仏寺経営等の方面も一種の完美を追求し、正統性を追求する傾向を表している。仏寺の配置は、印度の早期の仏寺に対して更に多くの注意を払い、伝説中で釈迦牟尼が曾て25年暮らした祗洹寺(祇園精舎)の名義に仮託し、自己の関与する仏寺計画の構想を提出した。北斉の高僧霊裕(517-605年、後期は隋になる)が撰した《聖跡記》、《仏法東行記》及び《寺誥》、《僧制》等は、この方面のかなり早期の著述である。その内、《寺誥》は、我が国最早の仏寺配置に関係した著作で、構成に相当大きな影響を与え、惜しむらくは失なわれたが、初唐の僧人の関係する著述で、その権威と影響力がその中に見出される。

 唐高宗の乾封二年(667年)、終南山律宗大師道宣と僧人感霊は、手分けして《関中創立戒壇図経》(以下《戒壇経》と称す)及び《中天竺舎衛国祗洹寺図経》(以下《寺経》と称す)を撰した。この両部は仏寺配置の著作が皆採用する“図経”の形式を取り、附図と文字が相対応するが、現存の版本中、《戒壇経》は南宋紹興二十二年(1152年)刻の附図(図3-7-2、3)は、文字と叙述の出入りが大変大きく、図中の建築形象から推測して、紹興年間の版刻時に補刻して再版し、当時は既に原図が失われていたかも知れない;《寺経》は国内で数度失われ、2度海外から得て再版し、附図は速くに失われた。幸いなことに書中の仏寺配置に対する叙述は大分詳しく、寺内各所の建築物の間の関係や方位、院門の向き及び僧人活動の方向等は、均しく図に描いたように叙述され、整然としている。《寺経》の叙述に照らして仏寺配置と各院の名称は、仏寺の平面示意図を描くことが出来る(図3-7-4)。《戒壇経》は戒壇の設置部分が主要なスペースを占め、仏寺配置の描写は《寺経》に比べ大雑把で、その叙述に拠っても、大体の仏寺平面示意図を描くことが出来る(図3-7-5)。
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 両図を比較すると、《寺経》と《戒壇経》から見出だせる仏寺配置に関する構想は、以下の共通点がある;
a.配置には明確な南北に向いた中軸線があり、寺内の主要建築物はこの軸線に依って配置する。
b.中院が核心で、周囲に大量の別院を設立する。全体配置は主と従がはっきり別れ、院落の配列は整然とした順序がある。
c.中院の南は、全寺を貫通する東西の大道があり、大道以南の寺区は、3条の南北に向いた道路が均しく4つに分割する。この3条の道路は別々に仏寺の南端にある3座の南門に通じ、東西の大道は共通に構成する全寺の主要交通連絡である。
d.配置には、明確な功能で分けた区分がある。東西大道は内外の功能区域の境を画すものである;道の南は対外接待或は外部の供養を受ける区域である;道の北は寺院の内部活動区域で、その中は又中心仏院と外周僧院の2つの部分に分けられる。

上述の共通点を除くと、両者の間には又一連の異なる個所がある;
 a.《寺経》は、仏寺の総体を東西両座の大院に分ける。西院は僧と仏の居る寺院の主体で、東院は即ち寺院の後方勤務区である。両院の間は南北に向けた大路で隔てられる。これは《戒壇経》中には述べられていないが、南宋刻本の附図中にその表現があり、その描くのを参照すべきである。
 b.《寺経》の佛院の東、西、北の3面は明確な僧院がなく、又繞仏房と称し、《戒壇経》には無い。
 c.注院建築物の配置は異なる。《寺経》中、仏塔は中門の中に在り、前殿の前で、《戒壇経》は、仏塔は前殿の後、説法大殿の前である。
 総体から見ると、両部の図経が表述する仏寺配置の構想は大同小異である。その原因を突き詰めると、同じ源から出たもので、皆北斉の霊裕《寺誥》の基礎の上に一歩進めて完善さを加えたものである。それらの間の不一致の所は、或は各自の創造力発揮による結果であろう。それとは別に、道宣と感霊は同じ終南山の僧で、執筆した時期は乾封二年で、著述時に意識したのはそれぞれの述べる側面を重視し、重複を避け、寺院配置の描述に対して詳細と簡素の別が出来たのだろう。
 《寺経》と《戒壇経》の中に、作者が一致して書中で強調して述べているのは、印度祇園精舎の原始形象である。但し、それと目前の魏晋南北朝から隋唐時期に至る城市平面を知ると、例えば曹魏の邺城、北魏の洛陽、隋唐の長安等と比較すれば違いを見つけることは難しく、それらは実際は中国の伝統的城市の配置計画を換骨奪胎したものである。東西に貫通する御道(通衢大巷)、道北は宮城(中院)、道南は里坊(別院)及び南城壁に3門を開く配置方式は、ある歴史時期の城市計画の最も基本的な特徴で、魏晋から隋唐には、既に一種の伝統的モデルに成っていた。同時に、図経の建築物に関係する描述も、文献中の城門や宮殿の描述と充分なほど近い。この説明の中で標榜するのは一種の表看板に過ぎなくて、霊裕から道宣、感霊まで、彼らが提唱しているのは、純粋に中国式仏寺配置で、充分に伝統的計画思想を体現し、漢地建築の特徴を持つ寺院形象である。

 《寺経》と《戒壇経》の延べる所は、一種の幻想に過ぎないにしても、初唐の仏寺の実際の情形とは一定の距離がある。但、南山律宗、特に道宣本人は当時の仏教界と社会的地位の高さにあっては、彼が書いたこの書は、正に“開帳視聴(耳目を開き)“、“到諸教中、樹立祇洹(諸々の宗派の中で、祇園精舎式を樹立する)”とする目的が、当時の仏寺建造に、必然的に一定程度以上、その影響を与え唐代仏寺の規則制度の形成に対しても、相当大きな作用を引き起こした。我が国の現有の唐代仏寺では全体が遺存するものが無く、考古発掘でも未だ完全な遺址は見つかって居らず、史料中も又この方面の具体的な記載が欠乏している中で、この問題に対しては、もう一歩の発見と研究が待たれる。
 隋唐の仏寺の規則制度は、史料中未だ明確な記載が無いとは言え、初唐から始まり、新しく建設された仏寺の記述は、用いた地面範囲を説明するものを除き、往々にして同時に院落と房屋の数量を説明して、寺院の規模を表している。長安の大慈恩寺は“凡そ10余院、総じて1897間“、西明寺は“凡そ10院、屋4000余間”。初唐以後、寺内の別院の数量は寺院規模を設定する方法になったようである。玄宗の天宝十五年(756年)、勅して大聖慈寺を建て、“并びに規則制度を立て、凡そ96院8500区とした”、代宗の大歴二年(767年)、内侍魚朝は長安の城東に荘園を賜り章敬寺を立て、“凡そ4130余間、48院であった”、これ等も予定の規則制度に依って建てている。《元河南志》に記載の、洛陽唐代の仏寺中、衛国寺は神龍二年(706年)、会昌中に廃寺となり、“光化年中(898-900年)再建し、小院11”;景福寺は初唐に建てられ、則天武后のとき天女尼寺に改称し、会昌中に廃寺となり、“後唐の同光二年(924年)再建、今小院29がある”。若し、中院を入れて数えれば、2寺の院の数は“12”と“30”になる。前述と関連して言えば、成都の大聖慈寺と長安の章敬寺の院数は、“6院”が唐代の寺院の規則制度の常用の基本的なモジュール数の一つと推測出来る。《戒壇経》中に述べる別院の設置は、おおよそ4組の“6院”と3組の“7院”で、《寺経》中も大体同じに見える。仏寺の計画発展は唐代に至り、既に規則制度化される趨勢を現出したように見える。

(2)中院の配置
 中院は又“仏地”とも称される。院内は集中して仏塔、仏殿、講堂、仏閣等の建築物が設置され、寺院の最も主要な部分である。
 歴史の悠久な仏寺中、中院は通常真っ先に建てられた部分で、寺院拡張の核心で最初の“仏寺”でもある。故に隋唐の仏寺の中院配置と東晋南北朝の仏寺を比較すると、その間の踏襲と発展を見出す事が出来る。
 隋唐仏寺の中院配置は、一般に中軸線上に順に従い主体建築物を配置する伝統方式を採る。異なる所は、建築物の類型や数量、相対位置及び組合せの関係で、かなり明確な変化がある。例えば仏塔の位置の改変、付属建築物(鐘楼や経蔵のような)の増加、台閣と仏殿の体量の増大と数量の増加などである。院内の中軸線に沿って門、塔、殿、閣等主体建築を列置し、同時に両側に対称に殿閣亭台を配置し、回廊と小房が取り囲み、圜橋跨空的豊富空間(沢山の環橋が高空に聳える空間の意か?)とし、中院が前後数段の院落に分かれる等等である。

①仏塔位置の変化
 隋代の仏寺中、仏塔は依然至尊の地位を保持していて、特に皇家の建てた一連の大型仏寺はそうであった。仁寿三年(603年)、隋文帝が皇后の為に建てた禅定寺は、工部尚書宇文恺が監督して建てた。“宇文恺は京城の西に昆明池があるので、地勢が下がり、このため木塔を建てることを奏上し、高さ330尺、周120歩であった。寺内は複数の殿と二重の廊で、天下の伽藍の盛んなことは、これに比べるものが無かった“。大業元年(605年)、煬帝は、禅定寺の西側に文帝の為に寺を立て、これも禅定寺と名付け、制度は同じくし、塔の高さも同じとした。この種の造り方は、北魏洛陽の秦太上公二寺と似て、皆二寺を東西に並べ、寺内は同じ形式の高く大きい仏塔を中心主体とする。開皇年間、文帝と皇后は京師法界時に並んだ双塔を造り、高さは130尺、これも寺内の主体建築物であった。僧人曇崇華10年の功は、長安清禅寺内に槫塔1基を建てることで、“高さ11級、虚空に輝き、京邑で一番と言われ”、晋王楊広捐造塔には露盤と諸種の装飾が上がった。この後又寺内の仏堂僧院を造るが、仏塔を主体とする寺院であった事が知られる。
 但し、幾つかの隋代仏寺中、仏塔の体量が相対的に減小或は位置が中央に無い現象が出現する。
 1997年から、中国社会科学院考古研究所の唐長安青龍寺遺址の多次に渡る調査と発掘が始まった。寺遺址は新昌坊西部に在り、一組の早期院落の遺址で、平面配置は南から北向きの中軸線上に順次中門、仏塔及び仏殿を設け、回廊は中門の両側から北に向け塔や殿を取り囲み、南北長135m、東西幅98mの長方形の院落を構成する。史料記載に拠れば、青龍寺は元隋の霊感寺で、開皇二年(582年)に建った。考察により、この院落遺址の基礎は版築と槫壁積みで、隋仁寿宮遺址と同じで、これによりこの院落は隋霊感寺遺址と推測された。院内の殿遺址は桁行13間、梁間5間、長さと幅は57.2✕26.2m、寸法は唐代宮中の主殿に相当する。そして、塔基礎平面はわずか方15m、殿の基礎平面の幅の1/3前後である。この寺の平面は南北朝仏寺の前塔後殿の伝統配置とは言っても、仏塔の体量は明らかに仏殿より小さい(図3-7-5)。
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 塔長安の光明寺は、隋開口四年(584年)に立ち、唐代に大雲経寺に改名した。“寺内に二塔が在り、東西に位置し、隋文帝が立てる”。東塔の北にはまだ隋文帝の造った一塔があり、三絶塔と名付けられ、塔内の壁画の跡と塑像は皆精彩であった。そして寺内の正中央に宝閣が立ち、高さ100尺で、時の人は七宝台と言った。即ちこの寺の総体配置は、仏塔が両側に位置し、未だ中心主体の地位にあった。
 隋仁寿年間、天下の各州の大寺に勅して舎利塔を置かせ、舎利を護送する僧人は地を選んで塔を立てた。史料記載に拠れば、建塔の位置は一定でなく、ある時は寺外、ある時は寺内の辺鄙の地で、まるで寺内に元々あった建築計画を破壊するようであった。これ等のやり方も、仏塔の仏寺中での地位が影響する所であった。

 初唐時期、仏教僧の著述に、前述の《寺経》と《戒壇経》の関する仏寺の総体構想で、まだ仏塔を中院の主要構造物の一つとしていて、主殿の前に置いた。但、当時の官の大寺には、例えば慈恩寺、西明寺、荐福寺等は、初めに建てた時、皆仏塔は横に列ぶ計画であった。隋代の建寺と比べて、明らかに改変がある。
 慈恩寺は太宗の貞観二十二年(648年)に竣工し、高宗永徽三年(652年)、やっと玄奘法師が建塔の事を提出した;”寺の端門の南に石塔を造り、西域の経典仏像を安置したい、その意図は人の世は常ならず、経本の流出を恐れ、防火の難も避けたい。塔の大きさは高さ30丈、大国の崇拝の基、釈迦の故跡としたい”。端門の位置は、中院(あるいは寺院)の外だが、依然中軸線の上である。最後に高宗の干渉により、実現はしなかったが、”改めて西院”とし、中院の外で中軸線から離れた場所となった。
 荐福寺は高宗の没後100日(文明元年、684年)に立てられ、元の名は大献福寺。中宗即位後大きく飾り立てたが、まだ寺内の建塔の記録は無い。《長安志》記載の;“荐福寺浮図院は、院門は北に開き、正に寺門と街を隔てて相対する。景龍中(707-709年)、宮人が銭を集めて立てた“。この塔の位置は既に寺外に出ている。
 西明寺は高宗の顕慶三年(658年)、《大慈恩寺三蔵法師伝》に記す;“都邑の仁祠(注;仏寺)の最たるものである。回廊殿閣楼台は、飞惊接汉,金铺藻栋,昡日晖霞(天の川に届く程高く、道は金を敷き詰めたようで建物は藻のように多く、光輝き太陽の霞む程であるの意か)。凡そ10院、建物は4000余間“とあるが、仏塔までは言っていない。蘇頲(669-727年)の《唐長安西明寺唐碑》に、寺内に塔があるが、碑文中も仏塔位置や規模及び形式に関する記述は見えず、僅かに殿堂、観閣の描写に重きを置いている。この当時は仏塔の寺内的地位は、既に仏殿と比肩出来なく成っていたようだ。それとも、この種の情況は、李氏が隋滅亡後隋代の崇仏の種々のやり方を捨て去り、故に舎利崇拝や建塔祈福等は、初唐時期にはもう流行していなかったのだろうか。

 上述の3個所の皇家建立の大寺の外、史料によれば、長安の仏寺で唐代に建立された一定規模を持つ者は、多くが寺内の別院に立塔している。
 大安国寺は、慶雲元年(710年)建立、寺内の“東禅院は、木塔院とも言う”。
  興福寺は、貞観八年(634年)建立、元の名は弘福寺。圭峰禅師に拠り密宗に属し、会昌元年(841年)、“興福寺塔院にて坐して成仏”、寺内に塔院があったのを知るが、方位は不詳。
 千福寺は、咸亨余年(673年)建立、“東塔院の額は、高力士の書である。・・・・・西塔院は皇帝題の額”。寺内に東西両塔があり、玄宗の開天年間に建立され、西塔は沙門楚金が天宝元年(742年)に多宝塔を造った。
 資経寺は、龍朔三年(663年)建立、寺内に“団塔院”があり、又、“北円塔”と称する。寺院北部に立つ。
 興唐寺は、神龍元年(705年)建立、寺内に“東塔院”がある。
 これとは別に、《宋高僧伝・無極高伝》に記す永徽三年“慧日寺浮図院に陀羅尼普集会壇を建てる”は、慧日寺の仏塔が別院に建立したのを知られる。
 地方の仏寺にも同様の情形が有り、例えば揚州の開元寺と隆興寺には東塔院があり、汴州の瀧谷寺寺内には肅宗の至徳二年(757年)東塔を建立した。泗州普光王寺は、仏殿の東に9重塔が建立された。

 寺内に仏塔を建立しない情況は、晩唐の仏寺に多く見られる。五台山の諸寺は、別院が数多いが、塔院はめったに無い。敦煌莫高窟の五代時期の第61窟壁画《五台山図》中、諸寺は皆高い閣が主体で、塔形の建築は多くが寺外に位置し、その中の傍らに塔名を題するのは、多くが単層、2層の槫石小塔である。晩唐以降、仏寺中では殿、閣が主要なものに成っていたのであろう。依然多くの仏寺、特に前代の旧寺は、中院に立塔する配置を継続して保持していて、且つこの種の工法は唐代以後もまだ採用されたが、総じてみると、中央に立塔したり中院での立塔は、唐代仏寺にあっては既に主流では無くなっていた。
 長安西明寺沙門釈道世が高宗年間(658-668年)に著した《法苑珠林》一書に、その中の〈敬塔篇・興造部〉に記す;“又〈僧祇律〉に言う、始めて僧伽蘭(仏寺)を起こす時、先に良い地形を決め、塔を造る所は、南であってはならず、西であってはならず、東にするか、北にすべきで、仏地を侵してはならない”は、仏塔を中院の地の外に排除している。上述の唐代仏寺の中院は塔を立てず多くが東塔院を設けるやり方を取るのは、これと符合する。東晋の法顕と仏駄跋陀が義煕十二年(416年)に訳出した《摩訶僧祇律》(40巻)を参照すると、仏塔の位置は唐代に至ってようやくかなり大きな改変を発生したことになり、中国の仏寺形態は自己の規律の変遷発展によるもので、外来の経典は但一種の参考としただけであることを説明している。

②重閣の出現とその地位
 仏寺内に建立した重閣のやり方は、南北朝後期に始まる。ある面では、仏寺形式は帝王の宮殿と同じで、王公の府邸が大量に仏寺となり、そのため、寺内は“楼閣台殿は、帝王の住居のようだ”;別の面では、仏像の設置と関係がある。唐長安の宝刹寺“仏殿は、後魏(西魏)の時造られた。四面に柱を立て、中央は何もない構造で、2層閣で”、即ち上下層が貫通して仏像を設置する仏閣であった。後周(北周)大象二年(580年)、釈慧海は江都に安楽寺を創立し、“荘厳な仏事、重閣を建造”、目的も仏像を安置することであった。
 隋代仏寺中、建閣はおおいに流行した。隋開皇年間、江都(唐の揚州)長楽寺僧釈住力は寺内に高閣を建て、二挟楼とした。“大業十年(614年)、自らの財を尽くして、栴檀の香木で瑞像と二菩薩を写し、まもなく出来上がり、閣内に安置した”。天台瀑布寺の僧釈慧達は廬山に西林寺重閣を建造し、桁行7間、モクゲンジやハゼが生い茂り、宏冠前構(注;この箇所、意味が取れず)、年代も仁寿と大業の間にある。隋代には、もう弥勒大像専用に設立して建造した高閣が出現した。長安の曲池坊建福寺は、元隋の天宝寺で、寺内の隋の弥勒閣は、高さ150尺であった。この種のやり方は唐代も盛行した。長安の曲江南北の仏寺中、多くが弥勒閣を建てた。五台山仏光寺には、元“3層7間の弥勒大閣、高さ95尺”が建っていて、日本僧円仁の入唐求法に、太原開元寺に至り、“閣に上がって観望する。閣内は弥勒仏像があり、鉄を以って鋳造し、上は金色である。仏身は3丈余、宝座に坐す”、この種の寸法は唐代では普通のものと言うべきである。唐代の仏寺中、体量最大の仏閣は、恐らく洛陽聖善寺の報慈閣である。始め則天武后が洛陽に天堂を造り大像を安置し、後に天堂が焼亡、像も損傷した。中宗神龍元年(705年)洛陽に聖善寺を建立し、天堂の大像を鋸で切り短くし、閣中に移した。
 隋唐の仏寺中、この種の大型仏閣は、往々にして寺(中院)内の中軸線上の主体建築物である。《寺経》と《戒壇経》の言う仏閣の位置は、中院の後部で、閣の前に仏塔、仏殿及び講堂があり、初唐時期の配置の観念を反映している。盛唐時期、殿、閣が前後配列の中院配置が出現する。汴州相国寺は、三門の内が前殿とし、殿の後は仏閣である。閣は天宝余年(745年)に建てられ、排雲閣と号した。泗州普光王寺も、仏殿の後に四重の大閣があった。

 中軸線上に位置する仏閣を除き、唐代の仏寺は次に重要な建築物も、多くは重閣形式を採用した。例えば、経蔵、鐘楼、文殊閣、普賢閣、天王閣、観音(大悲)閣、弥勒(慈氏)閣及び仏歯閣等である。敦煌莫高窟の唐代壁画中、大量に経変を題材として表現される仏寺形象は、その中の仏殿以外の建築物は、大体重閣或は台観の形式で出現する。重閣は唐代仏寺中で最も常用される建築形式の一つで、特に中・晩唐時期、重閣は仏寺中その据わる位置で、その地位が仏塔の上であることを表している。
 仏閣と仏塔は、同じ多層建築で、構造から分析すると、それらの興衰の間には一定の関連がある。早期の木塔は多くが中心刹柱あるいは方柱を採用し、底層は只柱を巡って像を設置するので、仏像の体量、数量は全て制限がある。南北朝時期から隋唐まで、段々と大仏像の工法が出来てきて、多層中空で、内に大仏像を安置する高閣が、仏寺中で体量最大の建築物に成って行った。仏閣が発展していくに連れて、木塔の構造方式も改変を始め、段々と重閣の構造特徴を吸収し、外観上も重閣と近くなっていった。北宋煕寧五年(1072年)、日本僧成尋が五台山に参拝する途中見た“寺塔15重は、閣のようである”、この塔の外観とこれを伝承した日本の者は異なることを言っている。構造の問題を解決するのは、五代から遼宋時期、もう一度高層の木塔の建造にピークが出現する。応県仏宮寺釈迦塔のような、殿閣構造方式の高層木塔を採用し、当時にあっては一種の偶然の現象ではなく、唐代仏閣の発展と直接関係がある。塔内各層に像を置く方式は、早期の仏塔と完全に異なることが知られ、五台山金閣寺3層金閣内が層を分けて密宗祖像を設置する工法と類似している。

③鐘楼と経蔵の設立
 仏寺中の鐘楼と経蔵の設立が何時始まったかは判らない。北魏洛陽の龍華寺内に鐘が有ったが、鐘楼が有ったか無かったかは、記載が無い。関係する文献と石窟壁画に拠れば、唐代の仏寺中、鐘楼と経蔵は已に一組の対照に設置される建築物として中院の両側に作られていた。前述の《戒壇経》で、中院配置を述べる時、“塔の東に鐘台、塔の西に経台”と記す。盛唐の仏寺中、寺院東側に鐘楼を設置する規則制度があった。経蔵と鐘楼は往々にして対称に仏殿の両側に設置される。長安年間(701-704年)、長安の資聖寺が焼け、“仏殿、鐘楼、経蔵3ヶ所が悉く灰になった”、3者の位置が近かったが故である。泗州普光王寺は、仏殿前の東に鐘楼と4つの経蔵を設け、皆四重閣であった。只敦煌の唐代壁画中に見える仏寺内の鐘楼と経蔵の位置は、決まっていない。左右に互いに置くことも出来るばかりか、あるものは殿側に、あるものは前後の回廊の上に跨り、或は角楼の形式で表される。現実にこの様な工法が有るかないかは、確定する方法が無い。
 唐代の城内仏寺中には、一般に太鼓を設けず、只山林の仏寺には確かに太鼓を置くやり方がある。大体、山寺付近は城内と異なり、街路の太鼓が無く、朝は鐘で暮は太鼓で、時を知らせる。只、寺内に鼓楼が有るか無いかは、記述が無い。
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            参考;河北省石家荘市正定の開元寺にある唐代の鐘楼



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# by songofta | 2017-08-04 20:57 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

244 隋唐五代建築1 1.仏教建築

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第三章 隋唐五代建築
第7節 宗教建築


※飛鳥、天平から平安初期の建築は、中国から来た事に違いは無いが、飛鳥、白鳳、天平の短期間に大きく印象が変わるのは、なぜなのか。時代は隋~唐初にかかるが、中国も北朝と南朝の様式から唐へと大きく変わる。我々の祖先が、どの経路で技術を習得したのか、例えば、四天王寺式や法隆寺式、川原寺式等の統一性の無さはどこからきたのかは、もっと中国の変遷を監察する必要があるのではないか。
 南北朝に引き続いて、隋唐五代の建築を翻訳していくので、御一考あればありがたい。

一、仏教建築
1.仏寺の発展概況
(1)隋代の仏寺
 北朝末期、域内の仏寺は、周武帝の廃仏運動で重大な破壊に遭遇した。経典仏像、仏塔は大量に焚毀され、仏寺或は邸宅として賜り、或は僅かに残ったが、少数の地方の仏寺だけで、例えば泰山の朗公寺等が、幸いにも難を免れたのみであった。その後、周静帝の大象年間に復法と成ったとは言え、国力は衰微し、僅かに1,2が回復しただけであった。南朝の仏寺は、晋王楊広による陳朝の平定とその後の謀反平定の過程で破壊に遭い、同時に政治の中心が中原に移り、南方の上層の僧人は次々と北に上り中原に入ったので、多くの地方の名刹はこのため段々と衰微していった。
(文帝)
 隋文帝が中国統一後、全国的な仏教復興運動を開始した。仏寺の修理建立は行政命令として行われ、国家の各級機関に公務の一つとして督励した。
 開皇元年(583年)、普く天下に詔して、自由に出家させ、人数を計算して銭をだし、経典仏像を造った。三月、詔して、五岳の下に各一寺を建て、七月、詔して襄陽、隋郡、江陵、晋陽、相州に各一寺を建てた。
 開皇三年(583年)、詔して、廃寺を再興した。
 開皇十一年(591年)、天下の寺に公私を問わず、同じく施入させた。又、天下の州県に各僧尼の2寺を建てさせた。併せてその“隠れた賢人が四十五州にある。皆悉く同時に大興国寺とする”、多くは当地の仏寺がこれを改名した。
 仁寿元年(601年)、領土の内に勅して、普く舎利塔を建てる。前後して諸州で合計110個所、3度に分けて建て始め、部署を統一し、併せて統一した図様で造立した。
 隋代の東西両京(大興[注;=唐代の長安]と洛陽)は、全て漢魏の旧城付近で別の所に新しく営造した。このため。旧都の仏寺は、皆遺跡と成って、只少数が新都に移住された。全国各州県に広く仏寺が立つ情勢の下、都の大興は益々建寺の重点的な所となった。唐書に述べる《両京新記》は、隋文帝が都を立てる時、寺の扁額100枚を出し、任意で取って建てた。大業年間の始め、大興は已に仏寺120個所があった。唐長安の仏寺中、およそ半分は隋文帝時期に創建されたものであった。その中で靖善坊大興寺は、文帝が最初に建てた寺で、一坊全部を占め、名僧で溢れていた。仁寿三年(603年)に建てた東禅定寺は、和平と永陽の2坊東半分を占めた。また興寧坊清禅寺、豊楽坊勝光寺は、皆文帝の建てたものである。煬帝即位前、仁寿元年に建てた青龍坊日厳寺は、当時の著名な大寺である。大興の仏寺中、又多くは王公貴富の舎宅を寺にした。例えば蘭陵公主舎宅は安業坊資善尼寺に;斉国公高熲夫婦は相継いで舎宅を義寧坊化度寺(隋名真寂寺)と積善尼寺に;懐徳坊慧日寺は、即ち富商張通の舎宅を立てたものである。それ以外にも幾つかの仏寺は、元々村や私人の仏堂を利用し拡張して出来、例えば崇仁坊宝刹寺や布政坊済法寺、崇賢坊大覚寺等がある。隋文帝の在位20余年の間に都の大興は已に中国仏教の中心に発展していた。
(煬帝)
 煬帝は即位の前、揚州総管の任にあり、江都(注;今、揚州)に鎮した。仁寿初年、又詔を奉じて東南を順撫し、江南の仏教が盛り返すのに、重大な作用を起こした。その江都の旧邸は“宝台経蔵を立て、五時に経典を唱え、大体このようであった”。又江都に慧日道場を立てた(その頃は郡県の仏寺は道場と改称し、道観は玄壇と改称していた)。煬帝が揚州に在った時、天台の高僧智顗の所で菩薩戒を受け、開皇十八年その遺旨により天台山国清寺を建てた。煬帝在位の10余年、城市建設の重点は洛陽と江東にあり、この時も洛陽の建寺はピークであった。長安の仏寺で大業年間に建てた者は幾つもないのは、恐らくこれが原因である。隋末の戦乱で、李世民が洛陽に入ると、隋の宮殿門闕を燃やし、“諸道場を廃す。城中の僧尼は、名徳者各30人を残し、それ以外は元に戻した”。城内に仏寺衆が多かったのが判る。但煙滅と記載するので、隋代の洛陽仏寺の情況は考察が出来ない。
 《法苑珠林》に記す隋代47年中“寺3985個所、僧尼23万6200人を数える”は、南北朝期と比べて、寺数と僧尼数は明らかに大きな差があり、当時の仏寺の規模が整然として、僧人が集中していた情形を反映しているのだろう。

(2)唐、五代の仏寺
 李唐が隋に代わり、老子を祖先として事えたので、仏と道の争いは段々激化した。高祖は武徳の始め、尚立寺の挙に出て、沙門県献の為に慈悲寺を立て、沙門景暉の為に勝業寺を立てる等。武徳八年(625年)詔を下して三教の先後を決め、老先、儒次、釈末とし、仏教の社会的地位はあきらかに低落した。九年、又詔を下して僧尼を沙汰し、“京師に、寺は3個所を残し、道観は2個所、諸州は各1個所を残し、他は皆これを破却する”。太宗の貞観年間、依然として,治世を以って義務となし、俗世を超越する法を軽く見た。故に高祖と太宗の両朝では、仏寺の発展はかなり停滞した。太宗の晩年、高僧玄奘との交際が密接になり、仏教への態度は変化した。貞観二十二年(648年)、詔を下し京城と諸州の寺が各5人を限度とするのを許可した。“海内の寺を計るに3716処、僧尼を計るに1万8500人。これより以前、天下の廟は隋のころの勢いが衰えて、墨染の僧は間もなく絶えてしまい、ここに一度騙して、門弟とした(注1) “。初唐の仏寺は隋の寺の延長であったことが判る。西域より取経帰来した高僧玄奘は、唐代仏教と仏寺の発展を促進する上で、相当重要な役割を引き起こした。
     (注1);この文は良く判らない。原文は「蒙兹一度,并成徒众」
(高宗と則天武后)
 唐代仏寺の興盛は、高宗李治の時から始まる。李治は太子の時、早くも仏教を崇信した。貞観二十二年、その母文徳皇后の為に大慈恩寺を造り、玄奘を弘福寺より請うてこの寺に居住させた。即位後、又顕慶元年(656年)孝敬太子の病平癒の為に西明寺を立て、“荘厳の盛んなことは、梁の同泰寺や北魏の永寧寺と言えども、及ばないのである”。寺が出来た後、玄奘に勅して西明寺に住まわせた。慈恩、西明2座の著名な大寺を除いて、高宗時、まだ京城に公主や諸王の建てた寺は20余個所ある。この時長安の仏寺の盛況は、空前で(図3-7-1、表3-7-1)、同時に域内仏寺の興立も好ましい風潮になった。顕慶末年、高宗と則天武后は一緒に并州に御幸し、童子寺と開化寺2寺の大仏を参拝し、沢山の資財を喜捨した。龍朔年間(661-662年)、長安会昌寺の僧人に五台山に保養し塔寺を修理させ、山寺の諸々の図を描かせた。地方の仏寺の中には、又僧伽と和尚が龍朔初年に泗州の北斉香積寺旧址の上に普照王寺(後に武后を憚って普光王寺と改名)を立てたものがあり、寺院規模は宏大で、唐代名刹の一つであった。
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 高宗の死後、則天武后は自ら神皇を号した。載初元年(690年)、“沙門10人が偽って《大雲経》を撰し、これを上表し、言葉を尽くして神皇の受命を述べ、天下に公布し、諸州に大雲寺を置き、総じて僧は千人を数えた”。この時仏教は武周(注;武后の建てた王朝)が政権を転移する道具と成るだけでなく、自身も変革に遭遇する:一面では沙門が諸侯への封建や賜紫(注;三位以上の位)、賜腊(注;干し肉、安居。意不明)の先を開き、僧徒の人格は段々卑しくなり、戒律が緩んだ;別の面では、仏寺は政治の看板となり、寺の扁額は朝代が変わるに従って書き換えられた。例えば則天武后時に大雲寺が置かれ、玄宗の開元二十六年、開元寺に改名し、併せて寺内は皇帝の容像を供奉した。
(中宗)
 中宗は佛教を信じて、立寺は限度が無かった。顕慶二年太子の時、高宗と武后の為洛陽敬愛寺を立て、制度は長安西明寺と同じであった。文明元年(684年)即位し、高宗の為に勅して献福寺(後に改称して荐福寺)を立て、真龍元年(705年)武后が失くなると、又東都に聖善寺を造って追福した。太平公主も同時に長安に罔級寺(後に興唐寺に改称)を立てた。景龍元年(707年)諸州に各々寺と道観を造らせ、龍興と名付けさせた。二年、沙門法蔵の請により、両都、呉、越、清涼山の5個所に寺を起こし、華厳寺の号を掲げた。四年、洛陽聖善寺外に50余歩を拓き、民家を取り壊して、広い僧房を造った。この時、仏寺の営造で已に庶民は疲弊し、国庫は尽きて無くなっていた。朝廷中に反仏の議は絶えず、左拾遗の辛替否は上訴して曰く;“今天下の寺廟は無数にあり、一寺は陛下の一宮に当たり、壮麗の極みにある。やり過ぎではないか!天下の財の10分の7,8は仏にあり、陛下はこれの何をお持ちであろうか。庶民はなにを食べるのか!”。
(睿宗、代宗)
 睿宗がまだ諸侯の頃、武后の追福のため、洛陽に慈沢寺(後に荷沢寺に改称)を立て、長安に荷恩寺を立てた。旧邸を崇恩寺に造り、慶雲元年(710年)の即位後、安国寺と改称し、盛んに営造装飾を加えた。
 玄宗は始め道術を好み、抑仏の挙に出た。中宗の時造寺の限度が無かったので、開元二年(714年)の沙汰を、僧尼1万2千余人とし、仏寺の創建を禁止し、士女が仏寺に銭を喜捨するのを禁じた。間もないころ、天竺の密教僧善無畏と金剛智が相継いで入唐し、道々大曼荼羅灌頂道場を建立し、僧衆を導き出家させ、経典を翻訳して伝経した。長安到着後、又雨乞い祈祷と厄除けを通し、道士と法を争う等の手段で、玄宗に頼りにされるまでになった。長安の大寺、例えば大荐福寺、大興善寺、慧日寺、青龍寺等は皆、灌頂道場を起こし、天宝二年(746年)、金剛智の弟子不空は獅子国から取経して帰り、内宮に曼荼羅道場を建立し、玄宗の為に灌頂し、壇を立てて雨乞いをした。但、この時玄宗は道教にもっと力を入れており、密教の発展は依然として滞留し、法術が広く皇帝の信任を得る段階であった。これにより、不空は一度都を離れ、隴西武威と海南一帯に活動し、肅宗の頃やっと長安に戻り、密教を振興した。
 代宗朝は密教発展の最盛期であった。大歴二年(768年)、大興善寺に道場を立て、勅を以って近侍の大臣を一緒に灌頂した。六年、不空が奏請して、天下の諸寺の食堂の中央に文殊菩薩を上座として置き、勅により天下の仏寺に文殊院を置き、行政手段を借りて密教の地位を確立した。九年、国家の資財援助で興善寺翻経院文殊閣を造り、同時に不空を開府儀同三司とし、肅国公に封じ、僧人の名誉と位を極めた。密教の盛行は、仏寺建築の発展に相当な影響が有り、文殊、普賢、天王諸閣の建立は、ここからいつも見る様に成った。
 代宗より後、徳宗、憲宗、穆宗等は共に仏寺を事とし、その中で仏骨、仏歯等の奉迎と供奉は最も盛大で厳粛であった。当時長安の城中は4個所の寺院内に仏歯楼が有り(荐福寺、興福寺、崇聖寺と荘厳寺)、しばしば大行法会を行い、財物を掠め取り、佛教の迷信が氾濫していた。この時仏寺の興造は限りなく、誰もが結局出家し、寺院経済は無限に増大し、国家経済発展に甚大な損害を与えた。
(武宗の会昌の廃仏)
 文宗在位期間(827-840年)、已に毀法の議が有った。太和九年(835年)、詔で寺を置くことと勝手に僧に成ることを禁じた。武宗の会昌三年(843年)、勅を以って宮内の仏経典を燃し、仏菩薩天王像を埋め、歩を逐って佛教を廃滅する行動を取った。四年三月、仏歯仏骨の供奉を禁じ、五台山、終南山、泗州普光王寺、鳳翔法門寺の4処で一時期盛況だった仏指供養の地は、結局往来するものが無くなった。又、仏寺中の毀去された仏像は、老子像に代わった。七月、天下の山房や精舎、一般の仏堂、公共井戸を使う村邑の斎堂の取り壊しを命じ、尊勝陀羅尼石幢と僧人の墓塔にまで及んだ;十月、天下の小寺を毀たせた。長安の城中で破棄された仏堂300余個所、小寺33個所。五年三月、仏寺が荘園を置く事を許さず、寺中の奴婢及び財物を監察検査させた。四、五月の間、僧尼を還俗させ、中国に旅している外国の沙門ですら例外ではなかった。七月に廃寺を命じ、長安、洛陽両都でわずか各4個所(長安左街に慈恩寺、荐福寺を残し、右街に西明寺、荘厳寺を残す。洛陽は不詳)を留めた。その余の各州の仏寺は、上州に“舎宇精華なもの”1個所だけを許した。八月に制定して言うには;“それ天下に破却した寺は4600余個所、・・・・破却した招提蘭若(精舎)は4万余個所”。この度の廃仏運動は、会昌3年から5年まで、2年余を経て、河北4鎮の管轄区域(今の山西、河北一帯)を除いて、全国各地で均しく毀寺が行われ、中国歴史上最長期間で、範囲は最も広く、処置は最も厳格な廃仏運動であった。但し廃仏は往往にして道教を崇拝し、武宗は廃仏大挙が完成後、道士の処方した薬を服用して亡くなった。これにより、会昌六年より、全ての禁令は解除され、これに従い佛教も再度復興と上級から始めて下級の仏寺が再建された。
(復法以後)
 宣宗は早くに武宗の害を避けるため、剃髪して僧となり、武宗が亡くなって、宮中に戻った。大中元年(847年)に即位、修復の勅を出し、廃寺を利用した、又勅を出して長安や洛陽、益、荊、揚、潤、汴、蒲、襄の八道、諸道節度刺史州、管内州及び五台山等の処は、別々に各仏寺1から10を添置させた。五年、詔して、京畿と郡県は任意に建寺、度僧(僧の登録)を許した。七年、荘厳寺に御幸して、仏歯を礼拝し、大塔に登った。廃棄された大総持寺の基礎遺址が尚残っているのを見ると、再建を許す勅を下した。又、廬山東林寺の再建を詔したが、役工は凡そ65万であった。大中寺の復法後、仏寺の修復は火の燃え盛る様に激しかったが、仏寺建築自体は、新しい進展は無かった。
 僖宗在位時、戦乱が四方に起こり、広明元年(880年)、黄巣が長安に入り、僖宗は成都に出奔した。これより長安は寧日無く、唐滅亡まで20余年間、5次の兵乱に焼かれる。宮室や府寺、民家は、毀壊し尽され、仏寺も免れることは無かった。隋文帝が都を立ててから、300年の興衰で、長安は最終的に政治と佛教の中心地の地位を失った。
(五代)
 五代十国時期、諸国の統治者は亦多くが佛教を信じた。中原と江蘇、浙江、福建一帯は、仏寺の発展は速く、高僧が雲集した。《元河南志》の記載に拠れば、洛陽城内は、五代時期に起建された禅宗寺院は30以上で、大体は、後唐、後梁、後晋の3代に建てられた。
 後周の統一の初(顕徳二年、955)まで、世宗の下した詔は、天下の寺院中賜額の無い者を廃棄し、仏像、僧尼逹は合わせて寺中に留め、再び寺院を造って安置させ無かった。王公戚や諸道節制以下は造寺と戒壇を開く奏請が出来なく成った。天下は唯一両京(開封、洛陽)、大名府、京兆府、青州は各々戒壇を置いた。当時の統計に拠れば、後周域内に在った寺院は2694個所、廃寺33,036個所、会昌廃仏時の全国の総括寺数(寺4600個所、蘭若40,000個所)と比べ、少ないとは言えない。
 呉越王銭鏐、銭俶及び閩王(注;福建の王)王審知、王延鈞は皆仏を奉じ、寺を立て僧を出家させ、年を万人を超えた。域内の仏寺は、規制は雄大で、壮麗、塔幢は高顕であった。銭俶は伝説中の阿育王造塔を模倣し、8万4千の金塗りの小塔を造り、護法明主を気取った。并びに高麗や日本に遣使し、経典を求め、会昌廃仏後天台教籍の不足を補充した。南唐主の李璟、李爆も同様に極めて佛教を好み、域内毎に蘭若を建て、ひどく佛教を好み、その田地を均しくし、これを常住産と言い、寺院経済勢力が増大し、地方の富豪を越えさえした。これにより、東南築の仏寺数は、後周の域内の寺数を加えると、恐らく唐代の仏寺を上回る。その時期、荊蜀の仏寺の造立も東南築に大体倣っている。

(3)仏寺の等級

 唐代以前の仏寺は、厳格な等級、性質の区別は形成していたかどうかは、資料中に明確な記載は見られない。但唐代の仏寺は已に社会の階層に相対した等級差別があり、同時に寺院の性質上も、官、庶の分けがあった。前述の会昌廃仏滅寺は、即ち下層から上層で、先に最基層の村野の山房、招提蘭若から始め、次第に上の両京各州の仏寺へ溯った。大中の復法は、又上から下の、先に京域、八道及び各州の立寺を勅し、それから京畿、郡県、寺宇蘭若を建てるのを聞き届けた。その中で両京各州の仏寺は、官から寺額を賜り、政府主管部門(祠部)に人を登録した名簿のある正式寺院である;山房、蘭若等は、寺額を獲得しておらず、正式の名簿のない非正式の寺院である。
(寺院と蘭若)
 正式寺院中、又皇帝勅建と賜額を奏請した者の2種がある。唐代の勅建仏寺は、州郡以上に限られ、例えば武后が制定し両京諸州に置いた大雲寺や、中宗が諸州に命じて立てた隆興寺等である。都の城内の勅建仏寺は、多くが先の皇帝後、諸王公主及び名僧大徳が建てた者である。経済上は均しく保証されていた。その中で国家の大寺は、例えば西明寺や慈恩寺等で、口分地を除いて、別に勅賜の山荘が有り、所有は国家から出されたものである。天宝年間、玄宗が蜀に入り、成都に勅建の大慈寺を建て、田一千畝(約67ha)を賜った;賜額を奏請した仏寺は多くが王公貴戚や、各級の官僚、富裕或は高僧名士が主侍建造したので、後から報告して賜額を奏請し認められ、同時にやはり田産、財物を賜獲した。
 非正式寺院は、多くが郡県内の地方の私営仏寺であった。その中の僧人が建てたのは多くが“蘭若”、その意味は“遠く離れた”、“清浄で静かな所”で、佛教僧人が城市を遠く離れ、草庵を結び法を説き或は山に入って修行をする行為を指しており、僧伝の中で某僧が“良き修行の蘭若”或は“蘭若を以って業をなす”の記載を良く見かけるのである;同時に亦、これに依る佛教組織の形式を指すのである。隋唐時期、蘭若は既に僧人が教義を伝播する方式と成って、福業の一種でもあった。それとは別に蘭若にも賜額を奏請して正式寺院と成るものもあった。
(招提、仏堂)
 山房と招提は、概ね地方で富裕な長者が供養した私立の仏寺を指す。穆宗の長慶年間(832年前後)、浙西観察史李徳裕は4郡の内の私邑、山房1660個所を破却したのは当にこの類である。その実質は、仏寺の名義を借り、以って租税徭役を逃れるので、真っ先に滅徐の列に入ったのである。
 仏堂は、一般に里房を設け、村落の中にあり、底層社会が供養する佛教基層組織形式で、民間佛教活動の主要な場所でもあり、故に“邑の仏堂院”と“村仏堂”の言い方がある。唐長安の仏寺中、崇仁房宝刹寺は元々北魏の邑の仏堂院で、隋開皇中、始めて寺と成った;布政房済法寺と興化坊空観寺も、北周期の村仏堂の基礎に拡建して成った。郡県一級の仏堂院でも寺額を賜った者がある。唐元和元年(818年)の経幢の題銘によれば、戸坊仏堂院の院主は沙門及び比丘尼が共同で人に当たるので、院内には僧がいた。一仏堂院に対応する住民組織は500戸に達し、その建築は亦一定の規模を持っていた。

(4)仏寺と宗派
 南北朝後期より始まって、印度、西域から転入する人により、佛教経典は前後し、出所と解釈や翻訳は異なり、中国に出現した異なる学派間の論争は、隋唐に至って段々と発展し互いに争う系統の教派亦は宗派となった。但宗派は佛教僧人間の事で、帝王や庶民が建寺造像するのは、目的が祈福にあり、某宗某派に専門に注目している訳ではなく、各派に対しても全く無視はしなかった。これにより、往々にして一寺の中に各派が都に居て諸仏を同じく奉る現象が出現する。寺院中は各派の僧人を安置し、各種の仏像を供養するために数多くの別院が設立され、唐代仏寺の一つの顕著な特徴に成った。
 地方の仏寺は宗派の流伝地域と相関があり、ある種の比較的明確な帰属性が有った。例えば江蘇浙江一帯は多くが天台宗寺院で、五台山は華厳宗の領地であった。京城の仏寺は、特に一群の大寺は、通常この種の帰属性を持たないが、前後或は童子に異なる派別の高僧が住寺し、寺院建築もこれに従い段階性或は局部的変化が出現する。
(律宗と密宗)
 長安の大荐福寺は、中宗、睿宗年間は律宗の大寺で、神竜二年(706年)、中宗は律宗大師義浄の為に寺内に翻経院を立て、寺内には又思恒等律師の住する別院が有った。玄宗の開元年間、密宗僧人金剛智が入京し、“勅をもって慈恩寺に迎え、荐福寺に移る”、大曼荼羅灌頂道場を立て、四衆(注;僧、尼、男在家と女在家)に得度した。この時に荐福寺は密宗で著名であったが寺内の別院には、依然として律院、浄土院等が有り、栖白、道光等の禅師の住む院であった。
 長安大興善寺は元律宗の大寺で、代宗の時、不空が住寺し、著名な密宗寺院と成った。内に勅により灌頂道場及び(密教の)翻経院を置いた。大歴七年(722年)、不空は寺内に文殊閣を造ることを請い、勅許を得た。貴戚も同じく助け、舎庫内の銭は、約三千万銭計りで会った。寺内の天王閣は、亦不空の時建てられた。宪宗の元和五年(810年)、禅宗大師惟寛が住寺し、寺の後の不空三蔵池の所に伝法堂(即ち僧坊)を建てた。十二年(817年)法堂に説法した後、坐下した(座禅で即身成仏すること)。寺内の別院は、律師院、禅師院等があった。又素和尚院が一つ有り、僧人は無所属を守り、無宗無派、長くこの寺に住し20余年であった。
 長安青龍寺(元隋の霊感寺)は、高宗の乾封二年(667年)、南山律宗大師道宣は曾てこの寺に戒壇を立て、それは《戒壇図経》によると法創立の律宗戒壇の一つである。開元中、律宗の道氤法師が住寺し、以って金剛経疏、并びに法華、唯識の諸義疏を選出し玄宗に重視された。代宗の大歴八年(773年)に成っても、密宗大師恵果は住寺し、青龍寺はまだ密宗人になったままであった。勅賜の東塔院一処に、毘盧遮那(即ち大日如来)の灌頂道場を置いた。大中の復法時、又玄法寺を寺内に入れ、西南隅の浄土院の地に密宗の伝法院を起こした。
(三階教)
 三階教は隋代に創られた。開皇中、長安は三階寺5ヶ所(化度、光明、慈門、慧日、弘善寺)が有り、洛陽は亦福先寺が有った。後に三階教は異端とされ、勅令で禁止された(開皇二十年、600)。但し、初唐の長安仏寺中、依然として多くが三階院を設けていた。例えば、西明寺、浄域寺、大雲経寺、趙景公寺等である。玄宗の開元年間、再び三階経を廃除する命令が下り、化度寺“無尽蔵”院は破却され、又勅により諸寺の三階院を除去して障害を遮断し、大院と意思を通じさせたが、衆僧はまるで雑居の状態で、分かれて住ませることは出来なかった。
 唐代の禅宗僧は、早期には常に登録後、どこかの寺の配下に属した。故に仏寺中、多くの別院を設けこれを対処した。肅宗の時、神会大師の為に禅宇を東都の荷沢寺中に造った。宪宗の元和年間(806-819年)、やっと百丈山に懐海禅師は禅居の様式を創立した。前述の元和五年(810年)、惟寛禅師は長安の大興善寺に伝法堂を立て、この様式に依って建立した。これより後は禅門は独自に行動し、禅宗は寺院を大量に建設し始めた。五代に成ると、全国各地に立てられた仏寺中、禅院は既に十の内八,九を占めた。《元河南志》の記載に、洛陽の仏寺は、十数ヶ所の隋唐の旧寺を除き、その他は五代にできた禅院であった。

(5)行香院、聖容院及び影堂
 南北朝から初唐まで、皇帝と皇后は皆、忌日には寺に行香(※注1)に詣で、先人の祈福の為のものである。“国の忌日は仏寺で斎行香を設ける”を全国で実行する制度にしたのは、恐らく盛唐より始まった。玄宗は開元七年(739年)、勅を天下に下して僧と道士は国の忌日になったら隆興寺と道観で散斎(※注2)を実行させた。代宗の大歴五年(770年)、不空は高祖に、太宗等の七回忌に斎行香を設けることを奏請した。不空は長安大興善寺にある行香院に住し、国忌日の行香を設ける事に即応し、これは仏寺では未だ無いことであった。
    (※注1)行香;南北朝に始まり、唐代以後、斎主が香炉を持って道場を巡行する。
    (※注2)散斎;古礼で父母祭祀に、前七日を潔斎すること。家ですれば内斎。
 仏寺で帝王像を供養するやり方は唐代に頗る流行した。長安中(703年)、則天武后の玉像を太原崇福寺に送って供養した。睿宗は乾封二年(667年)舎宅を招福寺とし、即位後、景龍二年(708年)寺中に聖容院を別に建て、真容像の坐像図1幅を賜り、仏寺中に聖容院を設立した先例である。玄宗は即位(713年)後、“勅して内庫の銭2000万を出し、巧匠1000人でこれを再建し”、 聖容院の制度が一般の別院と比べられない事が知られる。玄宗の開元二十九年(741年)、各州の開元寺と開元道観に真容像を置き、等身の仏像と天尊像各1躯を鋳造した。五代の前蜀永平年間(911-915年)“成都の廃興聖観を軍営とし、その観には金属で鋳造した天尊形の玄宗の御容1躯があった。大慈寺の御容院に移し供養した”。これにより、当時仏形に鋳造した御容が、亦各州の仏寺の御容院中に置かれていた。会昌五年の廃仏で、中書門が下奏し、上州以上は“各寺1ヶ所を残し、国忌日の行香に充てる。代々の聖真容像は、寺中に留めて人を移した”。寺内の聖容像を、国忌日の行香の為に置くのは、仏寺の重要な言い訳の一つと成っているのを知る。宣宗の復法後、専ら先皇の後容像を供奉するために、京城の興寧坊に大中報聖寺を建て、宪宗の御容像は介福殿に設置し、その北に又、虔思殿を建て休憩所とし、復道を設け、供奉に往来した。

 その他に、仏寺中に亡くなった名僧の設立した影堂があり、その真容影像を供養するのも、隋唐以来出現したやり方である。およそ天台宗僧の住む寺は、皆智者大師の影像を供養する。泗州普光王寺の僧伽大師は坐して亡くなった後、天下の諸寺の供奉を受けた。別に洛陽荷沢寺の慧能影堂、長安西明寺の道宣影堂、光宅寺恵中禅師影堂、大安国寺法空禅師影堂等は、皆宗師の寂滅後弟子が立てた。安国寺の西域僧利生渉塑堂は、肅宗時設けられた(760年前後)。元和中(806-819年)、その所を取って聖容院とし、像を脇の小建物に移した。影堂は大体聖容院と似ている事が判る
。 仏寺に設立した行香院、聖容院及び僧の影堂等は一系列のやり方で、唐代仏寺の功能が日増しに社会の伝統習俗と結合して世俗化する傾向を反映しており、同時に一連の仏寺が具有する帝王家の寺的性質を表している。






  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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# by songofta | 2017-08-01 12:43 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

243 南北朝の建築技術 3 南朝の建築

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第二章 両晋南北朝建築
第11節 建築技術


(2)南朝建築の構成と構造情況の推測
 南朝建築は今まで、我々は最も簡単な図像さえいまだ見ることが出来ず、ただ南京地区の南朝諸大墓の羨道内の石門横木に平梁や叉手の形象が看られ、廊の構成を表しており、北朝の石室や石窟中に見るものと基本的に同じである(図2-11-26)。
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 南朝建築の最も重要な参考材料は、日本に現存する飛鳥時代建築である。日本の史書に記載する、538年(梁武帝大同4年、西魏孝静帝元象元年)仏教が百済より日本に伝来した。592年(隋文帝開皇十二年)日本で百済の木工匠が飛鳥寺を建て、後世この時期の建築を飛鳥式建築と呼んでいる。法隆寺の創建は607年(隋煬帝大業三年)で、670年に毀れ、現在の法隆寺は680年(唐高宗永隆元年)以後の再建である。但日本の学者の公認する所では、それは飛鳥時代の建築風格で建造されているとされる。飛鳥式建築は日本で最も早く出現した中国風格の建築で、以前の古墳時代の建築と甚だしく異なり、明らかに異なる体系に属していて、その発展はかなり成熟し、外来の文化で有ることは疑いがない。朝鮮半島の諸国中、百済は南朝との関係がかなり密であった。史書に記す梁武帝の大同七年(541)百済王は梁に仏経典や医工、絵師を求めた。梁武帝太清三年(549)百済の使者は建康に至り、侯景の乱で著しく破壊された宮室や町を看て、梁宮の端門で激しく泣いたといい、両国の往来の深さが知れる。現在法隆寺が所蔵する著名な仏像“百済観音”も伝説では南朝様式と言う。これにより、百済から日本に移った後、形成した飛鳥式建築は間接的に中国南北朝が源で有ることに疑いはなく、且つ南朝が源である可能性が大きい。この様に、南朝建築は図像や模型が全く存在しない今日、日本の飛鳥式建築は、間接的に南朝梁や陳時期建築の最重要の史料である。

 日本に現存する飛鳥時代建築は、法隆寺金堂、五重塔、中門、回廊と法起寺三重塔だけであり、合わせて5座、全て石積みの基台上の全木架構建築である。それらの架構は全て前に上げた第Ⅴ型で、即ち頭貫が全て柱頭の間にあり柱間を連結する部材で、柱頂で斗栱を直接承け、柱頭斗栱とし、2柱の間は頭貫上に又蜀柱を用いて中備えとし、上に柱頭の通り肘木を受け、縦架を形成し、上の屋根の荷重を支える。架構の特徴から看て、この種の木架構は実際には、上、中、下3層に重なって出来ている。下層は柱網で、柱頂の間に頭貫を架し、頭貫が矩形の框枠になって柱網を全体で1つの連結体としている。金堂と五重塔の柱網は内外2重で、後世に内槽外槽に分かれる先鞭となるものである。中層は柱網の上の縦架で、肘木と桁が重なり校倉式架構に近い。内外の柱上で皆手先を出し、縦架上の肘木や桁と交叉し、柱頭斗栱を形成する。手先を出した肘木は梁を承け、梁の両端は内外の縦架上の肘木や桁に掛かり、内外の縦架を一緒に引いて結合し、内外柱網の上に校倉構造の水平層を形成して、我々はこれを斗栱層と呼び、その建屋の全体の安定性に大きな作用を保持しているものである。水平斗栱層上は梁架構で、横向きの柱の繋ぎ毎に1本あり、梁架構と檐桁から異なる形式の屋根架構が構成される。大きく跳び出た檐として、金堂と五重塔の柱頭斗栱が2層、下層は肘木として、上層は下昂として出る。

 この5座の飛鳥建築の研究が進むと、それらが已にモジュール制の設計方法を使用していたことが発見された。それらは全て肘木の高さをモジュールとしていて、宋式建築が肘木の高さと柱頭通り肘木の高さをもって“材高”のモジュール数としたことと同じであり、宋式の“以材為祖(材を以って基本とする)”モジュール制設計方法を言い、それがまだ宋代ほど精密でないにしろ、遅くとも已にこの時出現していた。これらの建築の面幅や奥行き、柱高、大棟の高さ等は皆、肘木高(即ち材高)をモジュールとしている。
 法隆寺金堂は2層で、下層は面幅5間、奥行き4間、周囲は裳階とする。上層は面幅4間、奥行き3間、一軒の入母屋屋根とする。設計は材の高さ(即ち、肘木と通肘木)の0.75高麗尺をモジュール数とする。1層の面幅5間は、8+12+12+12+8となり、合計の材高52;奥行き4間は、8+12+12+8、合計の材高40。2層の面幅4間は7+11.5+11.5+7材高で、合計の材高37;奥行き3まは、7+11+7、合計材高25(図2-11-27)。断面では、1層の柱高は材高14、1層の柱礎上面から上層大棟頂部までの高さは1層柱高の4倍、即ち材高56。
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 五重塔は方形平面で、高さ5層、中を上下に木刹柱が貫通する。塔身は1層から4層が面幅3間、5層は2間で、これも0.75高麗尺を材高モジュールとし、1層の面幅は7+10+7で、合計材高24。それより上層は幅を材高1を減らして、2層は6+9+6、合計材高21;3層は5+8+5で、材高18;4層は4+7+4で、材高15;5層は6+6で、材高12(図2-11-28)。塔高も1層の柱高を拡大モジュール数として、1層の柱礎面から5層屋根の露盤下面(注;原文は博脊だが、入母屋ではないので意味不明)迄の、総高さは1層柱高の7倍。その柱、頭貫、斗栱は金堂と基本的に同じ。五重塔の下4層の面幅は3間で、第5層の面幅は2間は、山西省大同雲崗の北魏開鑿の第6窟後室前壁東上方の浮彫五重塔と全く同じで(参考図2-11-14)、この工法の源は中国にある。

 法起寺三重塔の平面は方形、3層、層毎に3間。1層は面幅毎に材高8、2層は面幅毎に材高6、3層は面幅毎に材高4で、3層の総面幅は材高24,18,12となる。その塔身の純高は1層の柱礎から3層の露盤下面までで、1層の柱高の5倍(参考、第3章第14節)。

 飛鳥式建築の法隆寺金堂、五重塔、法起寺三重塔の設計中、皆材高が面幅のモジュール数に使われ、高さについても1層の柱高が拡大モジュール数に使われている。この5座の飛鳥時代の日本建築中に、我々は比較的成熟した“以材為祖”のモジュール数設計工法を見ることができる。飛鳥時代建築は、間接的に南朝より来てそのモジュール数制設計方法のレベルは南朝の一般水準であろう。南朝の重要建築は、その規模と水準は更にそれらより高いと推測される。
 史籍中に載る南朝に関係する大建築の構成は工場は少ないが、かなり重要なのは:東晋太元二年(377)新建設の建康太極殿は、面幅12間長さ27丈、奥行き10丈、高さ8丈;太元十二年(387)改建の太廟は、東西16間、桁高8丈4尺、いずれも当時最大の建築である。但それらは魏晋の旧制を継承し、壁柱を用いて壁を強化した厚い壁で、依然土木混合構成に属す。只太元四年(379)建立の荊州河東寺大殿は面幅13間、通し梁55尺、只2列の柱を用い、柱上に梁を承ける部材(栾栌)が重なり、全木架構建築であるが、その構成は推測がかなりこんなんである。だが、南朝の史料中には多くの木塔の記載があり、日本の飛鳥時代遺構と結びつけて、南朝の木塔を分析すると、南朝木架構建築の発展に一歩進んだ認識ができるだろう。

 南朝盛時、建康だけで500余寺があり、仏塔が林立し、実物が無いとは言え、文献中でおおよその情況は判る。
 構造から看て、木塔の下には龍窟があり舎利を収めた。龍窟の上に刹下石を設置し、石の上に刹柱を立て、刹柱の廻りに木架構の塔身を建て、刹柱は塔頂を出て、宝瓶と承露金盤を被せ、塔の特定の標示とした。
 層数から看て、劉宋以前は只5層以下の木塔を建てられただけであった。《建康実録》に載る、東晋許詢舎は永興にあった住宅を崇化寺に変え4層塔を造った。《資治通鑑》に載る、劉宋明帝が471年湘宮寺を建て、本来10層塔を建てとうとして出来ず、2座の5層塔に改築した。この時は技術の限界があり、皇室の力を以ってしても10層の塔は建てられなかった。斉梁以後、建築技術は発展した。史籍に、梁武帝は527年同泰寺内に9層の木塔を建てた。546年塔が焼け落ちると、又12層塔を建てた。当に完成する時に、549年の侯景の乱に遭遇し中止したが、これはこの時にはすでに10余層の木塔を建てる能力が確立していたことを説明するものである。
 《南史・扶南国伝》に記す梁武帝大同三年(537)長干寺3層塔の下の舎利を発掘し、538年に新しい塔を再建した経緯があり、初めに土を4尺掘り下げた時、塔の龍窟があり前人が納めた金銀雑宝を得た。9尺まで掘ると先に建てた塔の石礫を見つけ、石礫の下に石函が有って、石函内に舎利があった。次の年(大同四年、538年)梁武帝は2座の新塔を建て、先に寺内に刹柱2柱を立て、舎利を七宝小塔中に納め、又石函は七宝小塔に収め、2刹柱の下の龍窟に分けて納めた。それから刹柱を立て、塔を建てた。この記載から判るのは、塔を建てる時、先に予定した塔心位置の地下に小室を造り、龍窟と呼び、舎利と諸宝物を収める。龍窟の上に石礫を立て、礫上に基の刹柱を立て、それから塔身を建て刹柱を内に包み込み、更に刹柱頂部に金銅の承露盤等の刹上の飾り物で装う。
 刹柱下の石礫は“刹下石”と呼び、(梁)沈約選に《湘州積園寺刹下石記》と《光宅寺刹下銘》があり、梁簡文帝選に《大愛敬寺刹下銘》、(陳)徐陵選に《四無畏寺刹下銘》があり、皆塔の定礎を記す性質に近いものである。《積園寺刹下石記》中の“抗崇表蒼雲、植重迥于玄壌”(青雲を崇めるようにそそり立ち、黒い土に深く植え付けといった意か)の句から、刹柱が地面の刹下石の上に立つべき事が判る。塔を建立で刹柱を立てるのは一大式典であり、梁簡文帝は《謝御幸普覚寺刹啓》に、梁武帝が自ら善覚寺塔の立刹に臨席したことを記した。立刹は皇帝が臨席するほど重要であることが判る。

 木塔を建てる工程中、刹柱は最重要の木材で、それは垂直に長く上下を貫通する巨材である。巨材は得難く、往々にして皇帝から特に賜ることになる。梁簡文帝が王である時天中天寺を建て、梁武帝が木刹柱を特に賜り、又銅万斤を賜って刹柱上の銅露盤を造った。梁簡文帝選の《謝、勅して柏刹柱並びに銅万斤を賜る啓》に。“九牧貢金、千尋挺樹、永曜梵輪、方興宝塔”(九州の長官が金を貢ぎ、長大な樹を用い、相輪は光輝き、正に今宝塔が建った)の句は、刹柱の高さと刹頂の承露盤の輝きを形容している。
 塔身は多層建築で、各層は一軒。(梁)沈約の《光宅寺刹下銘》に言う、その塔は“重檐(檐を重ね)、刹は甚だ高く聳える”、(陳の)江総の《懐安寺刹下銘》に形容するこの塔は”天空の甍は高く聳え、累栋(軒を重ねる)”。梁の簡文寺の《大愛敬寺刹下銘》の言うこの寺の7層塔は、“悬梁浮柱(梁は吊り上げられ柱は空に浮き)、沓起飞楹(前に見える柱は宙に重なり)、日轮下盖(太陽を隠し)、承露上擎(承露盤は上に支え上げられる)”。これら文中の“重檐”、“累栋”、“悬梁”、“浮柱”、“飞楹”等の語は皆、その塔が多層木構塔であること表しており、“悬梁”、“浮柱”は更にその架構は一層一層を重ねて上に行く事を表している。

 現存の日本の飛鳥時代に建てられた法隆寺金堂と五重塔は正にこの様であり、それらの具体的工法は、下層屋根の架構の上、隅木と垂木の上に柱盤 (柱脚方)を置き、四面の柱盤は隅木のうえで交叉し、方形の框となり、柱盤の上に柱を立て、上層の架構を建てる。どの層も柱盤から始まる一個の纏まりと成って、その立つ柱は下層より内側に下げ、上下層の柱の間は対向する必要がなく、間数も改変することさえ出来、自由に柱を立てることが出来る。南朝塔の形象が存在しないと言っても、北朝石窟中に見る物を参考にすることが出来る。大同雲崗石窟第5窟後室南壁西側に彫られた浮彫の方塔は、塔高5層、一層毎に内側に下がり、下4層は各面3間で、第5層が各面2間で、法隆寺五重塔と同じである。日本の飛鳥建築と北魏が開鑿した雲崗五重塔を参照することで、南朝木塔もこのような工法が出来たと推測できるだろう。南朝で最も有名な塔は建康の同泰寺九重塔で、梁簡文帝簫綱が曾て詩に読んで、諸人が文章に塔の細部を描写した所である。王訓の詩に言う;“重栌出漢表、層栱冒雲心。崑山雕潤玉、麗水莹明金。懸盤同露掌、垂風似飛禽”。王台卿の詩に言う;“朝光正晃朗、踊塔際千丈。儀凰異霊鳥、金盤代千掌。積栱承雕桷、高檐掛珠網”。廋信の詩に言う;” 長影臨双闕、高層出九城。栱積行雲碍、幡揺度鳥惊”。これら諸人の詩の中に言う“重栌”(大斗を重ね)、“層栱”(層をなす肘木)、“積栱”(積上がる肘木)、“雕桷”(雕刻された垂木)、“栱積”(肘木を積み)等の語により、同泰寺塔は外に向かって数層のかなり複雑な斗栱があることが知れる。近年発見された邯鄲市南響堂山の北斉開鑿の12窟の窟檐は2層の肘木を出し、日本の5座の飛鳥遺構中にも4座が1層の肘木と1層の尾垂木の例があり、梁代に建てた同泰寺塔には少なくとも2層の肘木と尾垂木が有って、更に多いことすらあり、この当時斗栱は已に成熟していた筈である。

  梁簡文帝の《大法頌》に描写する同泰寺の九重塔は、”彤彤宝塔,既等法華之座、峨峨長表、更為楽意之国(赤々とした宝塔は、既に法華の御わす所、高々とした仏の墓標は、楽意の国となる)“。彼は《大愛敬寺刹した銘》中にもこの寺の7層塔を”金刹長表、迈于意楽世界(金の刹柱の墓標は、意楽の世界に踏み出す)。(陳の)江総選の《懐安寺刹下銘》の言う“灼灼金茎、崔嵬銀表(耀く金の茎、聳え立つ銀の標)。これによって判るのは、刹柱が塔頂を突き出てまだかなりの高さが有って、やっと”長表(僧等の墓地に立つ長い柱)“と称されることである。刹柱上には承露金盤を若干重ね、刹柱外も銅を被せ、新制の銅飾りは金色に光り輝き、“灼灼金茎”と形容された。銅製の承露盤の層数は異なり、雲崗石窟で彫られた塔の刹上には、5層、7層、9層の例があり、《洛陽伽藍記》記載の北魏永寧寺塔の刹上は金盤11重で大体奇数を取る。銅盤は、雲崗に彫られたものは、全て覆せて置かれ、(飛鳥、奈良時代の塔上の金盤も覆せて置かれる)およそ水に浸かるのを避ける故である。

  木塔の最初の効能は刹柱を盛り立て壮観な美しさを見せることで、東晋南朝の木塔は上に登るようにして居らず、南朝人が散策する詩文中に、楼に登るや、台に登るは有っても、塔に登る記載は曾て看たことがない。《魏書・崔光伝》に載る北魏霊太后胡氏が516年に建てた永寧寺塔の後、519年に孝明帝が等に登ると、崔光が諌めて言うには、塔に登る危険の他に、《内経》を引いて;“宝塔が高く華やかで,(龕や)室は千万あり、唯言葉を尽くして芳しい花として礼拝すれば、どうして上に登る意義があろうか?独り称賛を受け三宝等級は上でも下でも、人と天の交接は、どちらでも相見えられ、超世奇絶、誰も真似できない、恭敬して跪拝するのは、悉く下層に在る”。このことから知れるのは、南北朝時期、尚塔に登る習俗は無く、只下層の塔内を礼拝し、胡太后の登塔の挙に出たのは当時始めてのことで、大体ここから始まり、唐代に至って、塔はようやく段々と登る事が出来るようになった。

 (唐の)粹恵琳の《一切経音義》巻2解釈“卒塔婆”と言う詞を説く時、“・・・・・唐雲高顕の所[須弥山のように高い塔の意か]は、亦四方が墓所で、即ち如来が身の舎利を安置する所である”。同書巻72解釈“支提”に言う;“又名付けて脂帝浮図、これは聚相を言い、石等を高く積み上げて墓とする相を言い、或は方形の墓と言い或は廟と言うのは、皆その義の解釈による“。両処は皆方形の墓を挙げ、おおよそ始めは方形で有った。唐以前は一般に仏塔は皆方形に作るのは、この意味から来ている筈である。

上述の種々の文献を総合すると、我々は大体この様に解釈出来る。南朝の木塔の塔心は正方形で、中は上下に貫通する木製の刹柱があり、刹柱の外は木構造の塔身で囲まれ、刹頂は宝瓶、露盤を装置する。この種の形象と構造の特徴と日本に現存する飛鳥時代の遺構である法隆寺五重塔と法起寺三重塔は基本的に同じで、これにより飛鳥の2塔の構造は又、翻って我々の南北朝仏塔の参考材料になる。日本飛鳥時代の2塔の例を参照し、南朝の諸々の木塔の塔身部材を推測すると、これも中央部は正方形の框を層を逐って構成し、刹柱を囲むだけで、その揺れ動きを制限し、刹柱と連動することはない。5層以上の塔刹は、巨材を得る事が難しく、只多くの芯柱を連結して用いる事が出来るだけである。
 日本飛鳥2塔は、設計の中で已に材高をモジュールとする設計方法を採用している。それらは只3層、5層の小塔だが、梁の同泰寺9層塔や12層塔と北魏永寧寺塔のような巨大な塔を想像させ、若し更に精密で完善なモジュール設計方法がなければ、構造設計と外観設計上、対応はかなり困難であろう。

 この時の木塔は主要にその下層に龕像を設けず、信徒に只上を拝み廻りを巡って参拝することを提供しただけである。前に引いた崔光の引く《内経》にある“(龕や)室は千万あり”の一語、梁簡文帝の《大愛敬寺刹下銘》も説く、この寺の7層塔は“百尋既に聳え、千龕を設けた”。 (唐の)恵琳《一切経音義》の巻27釈“龕室”に言う;“・・・・・龕室を案ずる者は、今の壇龕の類の如くである。大塔内面にその小龕を安置し、室の如くする、故に龕室と言う”。塔内は刹柱で制限を受けるのを知るので、龕壁は浅い龕を設けて仏像を設けるだけで、信徒は塔を巡る礼拝を供される。
 史籍中に所載の南朝建築と日本飛鳥遺構の探索を進める事を通して、我々は、南朝の、全木構造建築が北朝に比べて普遍的で、梁建康の同泰寺の9重塔(527年)と北魏永寧寺9重塔を比べると、一つは全木構造で、一つは土木混合構造で、南北地域上の建築発展上の差異を見ることが出来る。
 但し、前述の龍門路洞に開鑿の建築に反映した北朝Ⅴ型架構を見ると、それは南朝木構造と基本的に同じである。この外、近年河南で採集された桁行、梁間共3間の入母屋造陶屋は、時代が北朝康煕に属する(図2-11-29)。陶屋の表現は、全木架構の建屋で、外檐が合わせて柱10本で、柱の下は蓮花柱礎で、柱脚の間は地覆があり、柱頭は頭貫がある。各柱頭は大斗が有り、上は柱頭方を承ける。又、大斗より外に向けて3層の華栱(或は昂)が出跳する。この陶屋の架構の特徴は、外観の風格と飛鳥時代遺構、特に法隆寺玉虫厨子の屋根が頗る似ている。この他、近年発見された河北省邯鄲の南響堂山北斉天統年間(565-569年)に開鑿された第1、2窟窟龕に彫られたものには、柱が大斗を承け、ダイトの上に華栱2つが出跳し、華栱上は枋(梁頭或は枋頭)の柱頭補作形象があり(図2-11-30)、前文で推測した北斉邺南城宮城の太極殿や顕陽殿の柱網が已に3周或は4周配置される情況というのが、北朝後期に、柱網や補作層、梁を重ねる全木構造が、少なくとも北斉の重要建築例えば宮殿や仏寺に使用され、南朝と相当接近していた。これは従って、北魏末年の第建築の仏殿と、北斉立国後の建設は、南北の建築交流が日に日に緊密で、建築上共通点が益々多くなり、隋の中国統一後南方建築技術と芸術が大量に北伝し、隋唐時期の建築発展のピークへの道を切り開いた。
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 南北朝時期の木構造で地面に建てた建築は消滅して久しく、我々は只石窟中に表現された形象と文献記載の探求を結合して得られるだけである。但、この様な概貌と大体の架構類別を知ることが出来るだけで、具体的工程や工法じょうの一連の特徴は知ることが出来ない。日本に現存する飛鳥時代風格の遺構は未だ数座があり、大体中国南北朝末期の特徴を反映し、但それらは何と言っても日本の祖先逹の手によるもので、また、再建を経て、絶対年代は皆唐代にあり、世界で最古の木構造建築で世界文化遺産に属するとは言え、中国古代建築を研究するに当っては、只参考にすることが出来るだけである。近年、山西省寿陽市で発見された北斉河清元年(562)年埋葬の厙狄回洛墓は、墓室中に木構の外棺があり、家形に作り、已に朽ち果ててはいるが、木製の柱や頭貫、斗栱部材が保存されている。それは真正な建物ではないと言っても、却ってはっきりと架構の特徴を表しており、我々に珍しい部材の実物を提供し、研究を深めるのに資することができる。

 墓は方形に単室墓を磚積みし、墓室中央で略西に寄って家形木外棺があり、内に棺がある。大体の原状を知る事ができる。
 外棺の地覆は方形の框に連結され、東西3.82m、南北3.04m、その頂面は木柱底の枘に枘挿しされ、これが外棺の桁行と梁間各3間を構成し、間毎に四柱の家屋形と見ることができる。柱は八角形断面を作り、隅柱は中の柱より太く、柱頭に大斗を設け、隅柱の大斗も中の柱の大斗より大きい。大斗口の内には両端を巻いた葉瓣を雕刻した替木で、上は桁行、梁間を通した頭貫を承ける。頭貫の上は柱頭縫で1組が1斗3升の斗栱で、上に替木を設ける;2組の斗栱の間は人字形の叉手を用いる;隅柱上の斗栱は十字に交わり、外側は垂直に切って出跳しない;45度の肘木は無い;頭貫や斗栱、叉手、承ける橑檐方は共同で正側面の柱列上の縦架を構成し、屋根の梁架と屋根を承ける。その架構体系は前述のⅢ型に属し、天龍山石窟第16窟の北斉窟檐の示す所と同じである(図2-11-31)。
 以上は、木外棺の示す建築形式である。外棺として造ることから、その実際の構造は南北両面は、即ちいえの前後の軒は厚い木板で牆壁とし、この両面の柱や頭貫、斗栱、叉手の厚みは正常の厚さの半分で、板壁に釘付けされ、建屋の外貌を作り、実際は“貼絡”となっている。只、東西の妻面の柱や頭貫、斗栱、叉手、駝峰は完整な部材である。外棺の頂部形状は已に痕跡が無く、出土からは、隅梁の残部、梁上の墨書“西南”の2字が見え、入母屋造(覆両頭)では無い筈である(図2-11-32)。
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 貼絡の部材は我々はその外形を教えてくれる。真実の部材はその断面を知って、それらを貼り合わせると、大体のその反映する北斉の真実の建築情況を知ることが出来る。これ等の部材の寸法は基本的に一致し、斗繰り部分と肘木の巻瓣は皆内に凹み、手法は統一され、この時期に唐宋期の“以材為祖”のモジュール設計方法が出現していたのか否かを探求する拠り所に出来る(図2-11-33)。
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      (※注)実測図補足;山西省博物院に展示されているようである(来自、百度貼吧)
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            【山西博物院】-北齐-厙狄回洛墓屋宇式木椁構件

 現存の外棺の肘木の真断面の高さは82.5mm、幅は52mm、長さは252mm。若し唐宋期の材高15分で検算すると、則ち1分=82.5/15=5.5mm。換算すると肘木(栱)の幅=52/5.5=9.5分。肘木長=252/5.5=46分。肘木上の散斗の総高さ=51.5mm、平、欹(斗繰り)部分は共に32.5mm、合わせて5.9分で、亦即ち栔高さは5.9分。この様に、その材高は15分の時、材幅は9.5分、足枋高=材高+栔高=20.9分。唐宋の材高15分は材幅10分、栔高6分と比べて、僅かに材幅が0.5分少なく、栔高が0.1分少ない、千年余の木材の水浸後の厳しい変形を考慮すれば、基本的に同じと認識出来る。
 外棺の各建築部材寸法、分数換算と宋式の各該当部材の分値を列べて比較した表を下に示す:
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 上表から見出だせるのは、この時期の材の高さ幅の比は、全て唐宋期と貴賓的に同じである。その散斗の分値も大体宋式と同じで、但肘木(栱)と替木の長さが皆宋式より短いものが多く、宋式の泥道栱の高さ長さ比は1:4であるのに比べて1:3で、明らかに短く太く拙いが力強い;大斗の寸法も宋式より遥かに小さく、隅大斗の分数でも尚宋式の平柱ダイトより小さい。但、部材及び遺址の堆積情況に拠り復原した図を見ると、立面及び部材の比例は、皆太原天龍山石窟の北斉諸窟檐に充分相似で、故に北斉時期の特徴なのである。
 その肘木端の巻殺も頗る特徴がある:その工法は、おおよそ先ず矩形の栱材両端の下角を各1分量り、上角からこの点に直線を引き、栱端の大面をやや前傾させる;再び栱端上方に9から9.5分を栱頭とする;再び下部分を均しく4分で分ける;更に栱底を外端から内に栱端下部に長さ2倍を1段として量り出し、これも均しく4段に分ける;栱の4,3,1の3点より別々に栱底に向かって3,2,1を線で連絡し、得られる所が栱の巻殺の折れる所で、3瓣の巻殺となる;再び瓣の上毎に2/3~1/2分を凹ませて得られる(最も上の1瓣の凹みが頗る深く2/3分とし、最も下の1瓣は浅く、1/2分とする)この方法で栱頭の巻殺を描き、基本的に外棺上の栱を合わせるのが、おおよそこの時期の巻殺の工法である。(※注)

 これ等の部材を見ると、この時期の枘と枘孔は比較的簡単である。柱の上下には已に枘が出、下枘は地覆が入り、上枘は大斗が入り、大斗底も枘孔が開く。斗栱が出跳しない時は、大斗は但順身だけに口を開く。隅大斗は十字に口を開き、正側面の泥道栱を容れ、開口を隔てる耳が無い。隅に載る泥道栱の正側両面は枘結合で噛合い、外端は真直に切り出跳せず、また隅肘木は無い。隅大斗の内は正側両向きの巻葉を彫った替木が枘結合で噛合い、外端は進捗に切る。駝峰頂部に丸い枘孔を掘り、内に円柱状の木栓を挿し、その上の斗と結合する。叉手は両脚を合わせ、上端の合う所は枘栓で結合せず、桁の背とも結語する枘が無い。これ等の工法は唐宋で建てる時よりも簡単な所が多い。但、叉手が枘で結合せず桁の背の枘に跨がらないのは、実際架構としての作用を持てず、建築上の叉手はこの様なやり方は絶対にしないので、その外棺での用法は単に形式で、それ故枘を簡素化したに違いない。泥道栱上で、本当の栱の栱底は平直で、斗に枘孔が無く、ある貼絡の栱の栱底に明らかな枘孔が開いているのは、明らかに実際の工法を偶然行ったもので、本物の栱に枘孔が無いのは、その用途が外棺に用いる為に簡素化した結果である。これにより、これ等の部材が表現する工法は、模型の為に簡素化したもので、当時の建築実物はもっと複雑でもっと完善であったろう。
 厙狄回洛墓の外棺が表す架構形式は、前文に述べたⅢ型に属し、発展順序を見ると、Ⅳ型Ⅴ型より少し早いが、その部材中に表現される断面と材高は皆唐宋期に比べて基本的に同じであり、15分を以って材高とする、この様に、少なくとも我々が言えるのは、“以材為祖”のモジュール制設計方法はこの時已に基本的に形成され、材高1/15を分モジュールとする萌芽が出現しているからである。
 前文で、日本に現存する飛鳥時代の建築を分析し、その平面、高さはその材高をモジュールとする情況を知り、それを厙狄回洛墓の外棺に反映された材高を15分とするモジュールの情況と結び付けて見てくると、我々は、唐宋建築中の“以材為祖”のモジュール制設計方法は南北朝時期に已に形成されて、当然、それは未だ唐宋期のような完整、厳密なものでは無かったのである。

(※注)巻殺の作図方法は、下記のようなことであろう。肘木高さは15分、長さは46分(肘木の片側で示すので23分)、斗幅(=肘木端)を9分とする。まず、肘木端から4分ずつの線を下ろし、番号を1~3とする。肘木端下部に4分の2倍=8分の段を求める。それを4分割(=2分ずつとなる)し、番号を①~④とする。1-④、2-③、3-①の交点をつなぐと巻殺の線となる。それに凹曲線を作る。②を飛ばすのが特殊と言うことか。
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# by songofta | 2017-07-24 17:16 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

242 南北朝の建築技術 2 北朝の建築(2)

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第二章 両晋南北朝建築
第11
節 建築技術


241項より続く
 古陽洞内には3つの家型龕が鑿される。北壁に一龕があり、面幅3間、四柱を用い、斗栱、頭貫、叉手、檐桁の組合せの縦架で、斗栱の中央に梁頭が露出し、その構造は宋式の” 杷头绞项”(※注)に近い。その表現は一座の全木架構建屋で、斗栱が柱と対になると言っても、中央に頭貫と隔てたままで、依然として柱列は縦架を支え、なだ柱頭の斗栱を形成しておらず、雲崗12窟の表現と基本的に同じである。洛陽遷都の初めは、尚平城の旧式であった(図2-11-17)。古陽洞南壁は2座の家型龕があり、その一つは只屋根を彫るだけで、完全ではなく論ずるべきではない。別の一つは3間四柱の小殿で、構造上前と異なる所は、柱が檐桁の真下で支えることで;頭貫は元々通しの1本であったものが柱で分割され間毎に1本に変わり、左右の端は別々に柱身に挿さる;頭貫と檐桁の間は、間毎の面幅に1個の叉手を用い、詰組とする。これは以前には見たことのない新しい架構形式である(図2-11-18)。
      (※注)杷头绞项:梁先端を檐柱より出して、大斗に載せ華栱として使う方式
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 路洞の洞壁上に木彫りには若干の小建築があり、寄棟、入母屋、切妻の屋根に分かれ、下は台基があり、正面と側面は階段があり、台基と階段の辺りには勾欄を設け、表現は仏殿の形象である。但、その架構方式は前の2種と異なり、その頭貫は柱上を下に柱頭の間に移り、柱頭の上は直接一斗三升斗栱で、柱間は頭貫の上に叉手を設け、柱頭斗栱と詰組を分けて形成し、二者共同の組合せの斗栱層は、屋根檐を支え、屋根の荷重を支える。それは已に以後唐代から清代に至る、一般に斗栱を用いる木架構建屋と基本的に同じである(図2-11-19)。
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 北魏の洛陽遷都後、平常の雲崗石窟はまだ幾つかの中小洞窟が開鑿され、即ち雲崗三期石窟で、その中で建築表現が最も真実に近いのが第39窟の塔洞である。それは方形の石窟で中心に方形の五重塔を彫り、塔身の層毎に面幅5間、柱頭に大斗を彫り、上に横桁(頭貫)を承け、桁上と柱頭に対に一斗三升を彫り、2つの斗栱の間は、間の正中央に叉手を彫り、斗栱と共同で檐桁を支え、縦架を組合せ、上に塔檐を承け、上層の柱は下層の塔檐に直に接し、平座は無く、この塔の表現する架構方法と雲崗第12窟及び龍門古陽洞北壁と基本同じである。この情況が言っているのは、北魏北方の平城一帯では旧の架構方法を延長継続し、雲崗石窟では前中後3期柱迄未だ出現しなかった、頭貫を柱頭の間に設ける工法を龍門路洞が初めて見せたことである。この塔の形象を重視する価値があるのは、それが現存の北魏石彫塔中で体量最大、表現する構造がはっきりした一例的,これの前の雲崗石窟中に掘られた塔は、上層に行くと間数が下層より少なく、この塔は上下層の間数は同じで、史料記載の北魏が洛陽に建てた永寧寺塔の高さ9層は、どの面も9間で、上下層の間数は同じで、この39窟塔柱は我々が永寧寺塔の形式構造を考える時、重要な糸口を提供し、それが北魏塔の一個の真実の模型とみなせることにある。
 この様にして、我々は雲崗石窟と龍門石窟に掘られた建築形象から、実際5種の架構形式を見出すことが出来る(図2-11-20)。
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 第一種の建築は四壁が全て厚い壁で、前の檐壁内に門窓の框が立ち、門窓を設け、壁の頂部は斗栱と叉手の組合せの縦架とし、上に屋根を承け、その表現する所は屋根と身舎の全てを承重の二重壁で承け、無柱、壁上に縦架を用い、横梁構成の屋根は、土木混合構成で、その形象は雲崗第6窟の太子四門から出遊の故事中に見出すことが出来、洛陽北魏一号遺跡は全てを壁上で承ける建屋で、我々は暫時この類の建屋をⅠ型と称することとする(図2-11-21)。
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 第二種の建築は妻壁及び後壁を厚い壁とし、前檐は両妻壁の間に斗栱と叉手の組合せで架設し、面幅長に縦架を通し、縦架の両端は妻壁で支え、中間部分は1本か2本の柱で支え、例えば雲崗第9、10窟は、前室側壁上層に3間2柱の建屋があり、その表現する所は妻壁、後壁が承重壁で、前檐及び屋根は木架構の土木混合構成の建屋とする。我々は暫時この類の建屋をⅡ型と称することとする(図2-11-22)。
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 第三種の建築は、外檐は全て柱列を用いて縦架を支え、例えば雲崗第12窟前室側壁上層と龍門古陽洞北壁の3間4柱の建屋形象である。その表現する建屋は2種かも知れず、1種は四面が皆このような木架構建築で;1種は中心部分が依然厚い壁で承重とする混合構成の建屋で、例えばⅠ型の四周にもう1廻りの全木架構の外廊を加えたものである。我々は暫時この類の建屋をⅢ型と称することとする(図2-11-23)。
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 第四種の建築は、柱が上に伸び、直接檐桁(檩)を承け、本来一体の縦架を数段に分割して、頭貫は柱の上の大斗から中間の柱頭より下の所に下げ、柱列間の支柱となり、例えば龍門古陽洞南壁にしめすもので、その表現は全木架構建屋であり、我々は暫時この類の建屋をⅣ型と称することとする(図2-11-24)。
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 第五種の建築は、頭貫が柱頭の間にあり、柱列の間の連結部材と成り、柱上は柱頭斗栱で、柱間の頭貫城に詰組(叉手、蜀柱)があり、柱頭の通り肘木や檐桁共同で縦架を構成して屋根架構を承け、龍門路洞が示すように表現は全木構造建築で、我々は暫時この類の建屋をⅤ型と称することとする(図2-11-25)。
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 時代の順序と架構の特徴からみて、Ⅰ・Ⅱ型が最早で、土木混合構造である。Ⅲ型は混合構造であるが、木架構かも知れない。Ⅳ・Ⅴ型は全木架構建築である。その内、Ⅲ型は雲崗二期の末、即ち北魏の洛陽遷都の直前、Ⅳ型は洛陽遷都の初期で、全て5世紀の末。Ⅴ型は北魏末東魏初期に初めて見られ、即ち534年頃。これらは正しく北魏中期後期の木架構が逐次進歩し、版築土壁の助けから脱して、独立架構に発展する過程である。
 もし、我々が考察範囲をもう一歩進めるならば、北朝の各主要な石窟を通して見て判ることは、Ⅱ型は北斉が開鑿した太原の天龍山石窟第1窟、第16窟中に至っても依然存在し;Ⅲ型は北斉の邯鄲南響堂山石窟第7窟に在り、北周開鑿の天水麦積山石窟第4窟、第28窟、第30窟中に全て存在する;Ⅳ型は北魏洛陽出土の寧懋石室、沁陽(河南省)東魏造像碑、瑞開皇四年開鑿の太原天龍山第8窟と天水麦積山石窟第4窟北周壁画中に出現している;Ⅴ型は天水麦積山石窟隋代の第5窟中に出現し、河南で発見された陶屋もこの型に属す。これらの情況が表すのは、北朝中後期、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ型の架構方式はかなり長い間共存し、北斉や北周末に至りⅤ型にやっと統一されたことである。
 架構の特徴からみて、Ⅱ型の両妻側と後檐の厚い土壁は、縦架両端と後檐の荷重を除き、まだ建屋の架構の安定を維持するために重要であった。Ⅲ型外檐の縦架は、全て檐柱の柱列によって支えられ、厚い土壁は無い。柱は縦架の下から支え、簡単な結合で、柱列の各柱は平行で、同時に一方の側に傾けるか同一方向に沿って向きを変えるかにより、安定性に差があるので、それは主体が混合構成の建屋の外廊で、主体に附属する者かも知れない。Ⅳ型は頭貫を柱の間に降ろし、檐柱や檐桁、斗栱列の上部連結と一体とし、湾曲フレームに近く、頭貫が柱に入る所のホゾ・ホゾ孔と、頭貫と檐桁間の叉手とは架構の縦向きの安定を保持している。但、柱や頭貫、斗栱上下が挿し込まれる施工はかなり複雑である。Ⅴ型の頭貫は柱頂の間に架され、方形の框のように巡らされた頭貫を全体が安定した柱網としている。柱と頭貫より上は、柱頭斗栱や詰組、柱頭の通り肘木、檐桁を組合せた縦架で、上の屋根架構を承ける。この種の作り方は、柱網、縦架、屋根架構を層を重ねて加えていき、施工に便里で、Ⅴ種の類型中最も先進的で、北斉に始まり隋唐に至って、段々と主導的地位を占めるようになった。唐以後、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ型は偶々みることが有るが、宮廷や官署、貴族の屋敷の建築は、基本的にⅤ型に統一される。
 以上は、只石窟中に見られる建築形象により、その架構体系の変遷を分析しているのみである。但し、石窟中に彫れたり描かれたものは皆簡単なもので、当時の建築の巨大な規模や複雑さ、豪華な面影には遠く及ばない表現である。史料に記載される北魏平城の太極殿は洛陽の魏晋太極殿跡を測量して建設し、洛陽太極殿は、魏晋大極殿跡の上に建て、いずれも面幅12間で、当時最大の建築に属し、殿身は厚い土壁を版築し、当にⅢ型かⅤ型で、体量は巨大で、その構造は石窟の示す複雑さと遠く隔たっている。《彰徳府史》記載の北斉邺南城宮中、外朝正殿の太極殿は、周回の柱120本で、図にして見ると、面幅13間奥行き8間の大建築であったことが知れる。また記載には、内廷正殿の昭陽殿は周回の柱72本、面幅10間奥行き6間(或は面幅9間奥行き7間)の大殿であった。2つの殿は、殿身に沿って、四周が4重と3重の柱網に分かれ、これは内槽と外槽に分けられ、外槽は附属の回廊が全木構造建築で、柱網の配置は唐代と異ならない。これは北魏末に北方に出現したⅤ型架構後、已に制式に北斉宮殿に用いられていることを表している。
 史料には、北朝にも多量の多層建築が記載される。《洛陽伽藍記》に載る、洛陽永寧寺の“南門楼は3重、・・・・・・地面より20丈、形制は今の端門に似る”。北魏宮の宮門は多くが楼閣と知れる。この他、北魏は大仏塔を建て、その内多層木塔の小僧は複雑で、史籍に載る木塔の分析を通して、北朝木構造発展に一歩進んだ認識が出来る。
 北朝の木塔は記載されたものが頗る多い。北魏が平城に都した初め、天興元年(398)5層の塔を建てた。献文帝期(467年頃)、平城に永寧寺を造り、”架構が7層の塔、高さは300余尺、基台架構は大きく広い、天下第一である”。この塔の建造は丁度南朝の劉宋明帝期に湘宮寺を造るのと同時で、劉宋はこの時5層塔で、北魏は已に7層塔であり、北魏の高塔建造技術は南朝に一足勝っていた。洛陽遷都後、前後して永寧寺9層塔、景明寺7層塔、瑶光寺5層塔、霊太后胡氏は又各州に5層塔を造らせ、建塔を挙げる史書は絶えない。諸塔柱永寧寺塔は最も著名で、史籍記載中最も高く壮麗な塔である。近年この塔は発掘され、文献記載と結びついて大体の情況が知られるようになった。
 永寧寺木塔は北魏孝明帝の煕平元年(516)霊太后胡氏が建設を命じた。魏は平常に都を建てた時、皇帝が永寧寺を建てた。洛陽遷都後、城内には規則で只永寧寺一寺のみを建て、皇帝の特別な功徳で建てたものなので、洛陽最大の寺廟であった。《水経注》記載によると、寺中には“9層の浮図を作る。浮図に基台は方14丈、金露盤より地面まで49丈、工法を代の都の7層塔に取り、更に高く更に広大である。2京の盛んなこと、5都の富裕、鋭い塔刹霊塔、未だこのような構造は見ず”。《洛陽伽藍記》の言うこの塔は“木架構でこれを成し、高さ90丈、上に金の塔刹がまた10丈、合わせて地上1000尺。・・・・・塔刹上に金の宝瓶、容積は25斛、宝瓶の下に承露金盤が11重。亦鉄の鎖が4筋、塔刹から塔の4隅まで引かれる。・・・・塔は4面在り、面には3つの戸と6つの窓があり、戸には朱漆が塗られる”。
 この塔の遺跡は、1979年発掘が行われ、簡報が発行されていて、塔の基座は方形で、上下2層ある。下層は東西101m、南北98m、厚さ2.5m以上、頂面と地面は平らで、塔基の地下部分となる。上層台は下層台の中心にあり、正方形、辺の長さは38.2m、高さ2.2m、四周は青石を積み、台基の辺縁に石刻の螭首(注;蛟龍の首)の残辺があり、元石の欄干があった筈である。この2層の台は塔下の基座である。基座の上に124個の方形の柱礎石が発見され、各面9間10本の列柱で、一面に配置されている。9間一面の柱は元々100本の礎石があれば良いが、この塔の最外周の4隅と最内周の4柱は皆4柱が纏って造られ、24個の礎石が多くなっていて、総数が124個となる。最外周の檐柱の所に壁の残骸があり、厚さ1.1m、外壁面は紅色、内壁面は壁画があり、塔の外壁である。塔身のそとからうちに第2周の柱礎の内側は方形の日干しレンガ積で、各面20m、第3周以内の諸柱は青の中にある。版築土積内には横木の痕跡があり、当に日干しレンガ積全体を強靭化して用いたものである。日干しレンガ積の東、南、西の3面の外壁は各5座の弧形の壁龕があり、仏像を設けるためのもので、北面の外壁には龕がなく、木柱があり、塔に登る階段を設けた筈である。塔内は塔心の廻りを廻り礼拝出来た。
 《簡報》に載る所に依れば、塔の下の基座は報38.2m。もし北魏尺が27.9cmとすれば、合わせて136.9尺で、已に崩れた石積み部分を加えると、140尺前後とすべきで、当に《水経注》の記載が信ずべきで、即ち塔の高さは49丈前後とすべきである。《洛陽伽藍記》の言う1000尺は誇張したものである。
 《簡報》中から我々が知ることができるのは、この塔は一面に柱網が広がるが、中心部分には巨大な実心の日干しレンガ積があり、故に依然土木混合構成に属すのである。この中心の日干しレンガ積は塔身架構を安定させるもので揺れや捩れに対抗する作用を起こす。日干しレンガ積内の水平の横木の情況を見ると、それは数層の高さに達することが出来、最上の数層だけが全木構造となる。この塔の下部は実際上柱と横木を用いて固めた日干しレンガ積の塔心で、四周に木構成の外廊を加えている。この外周は奥行き2間の木構成外廊の梁桁と地覆は皆土積体内に挿入されたようで、横木と柱は相連結し、土積体は木架構外廊と互いを援助し合っていた。
 この種の全木架構建築中、ある一部分を日干しレンガ積(或は版築)で実心で埋める工法は、土木混合構成が全木構造に発展変化する最後の段階である。これはこの様に造ることがこの時の木架構全体のバランスや安定性に尚限界があり、或は人々が新しく発展した木架構体系に安心出来ないが為であった。この種の現象は今判っている情況から看て、只北方に存在するだけではない。このままで唐初に至り、高宗が大明宮を建てた時、含元殿の殿身は承重壁を版築し、麟徳殿の両妻は依然として梢間にあり、間の端は版築を用いて1間分の広さの妻壁を出したのは、この種の土木混合構成の名残が宮殿等の大建築中に唐初までずっと継続していたことを物語る。永寧寺塔の構造のぶん説を通して、我々は更に具体的に見れるのは、北朝の大型木架構建築の特徴は、多くが版築の基台や日干しレンガ積体と結合して使用し、これは、南朝と明らかに異なる所である。この種の違いは木架構発展上も異なる反映があり、地方の伝統的特徴にも反映した。北方建築は防寒が必要で、厚い壁は防寒に良く、北方建築が版築壁を長い間保って来たのも、これが重要な要素であろう。
 北朝の楼閣建築は、北朝兵器がや石窟中に全てその形象を見ることができ、上下層が重なり、更に中間に唐以後常用する平座層が在り、上層の欄干は直接下層の屋根に持たせ、南北朝末期の影響を受けた日本の飛鳥時代の法隆寺金堂や五重塔の上下層の関係と似ており、その構造もかなり接近しているように思える。《長安志》記載の、崇仁坊北門の東にある宝刹寺は、原注に;“この村の仏堂院は、隋開皇時に寺になった。仏殿は後魏のときに造られ、四面に柱を立て、当中構虚な2層の閣で、檐や大棟桁は屈曲し、都の奇妙である”。この段の記載は、2層の楼閣である。“四面に柱を立て、当中構虚”の句を分析すると、その中央部分はおよそ上下貫通で、984年遼代建立の薊県独楽寺観音閣の内部空間形式に近似しているのかも知れず、時期は450年前後早く、この類の構造の初型であろう。この種の工法は北魏から唐に居当る間普通ではなく、当時の人は新奇さに驚き、“都の奇妙”と褒めたのである。






  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服
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# by songofta | 2017-07-21 22:51 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

241 南北朝の建築技術 1 北朝の建築(1)

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第二章 両晋南北朝建築
第11
節 建築技術

南北朝の建築は、現物で残存するのは、嵩岳寺塔だけである。しかし、多くの石窟に残る建築物を模した遺物と文献記載を対照して、木構造の発展過程が解明が進められた。北朝地域は、磚積み主体から段々と全木構造に進化し、生起や側脚、収分などが加わって行く過程は、興味の尽きない所があるのではないだろうか。惜しむらくは、掲載された写真がモノクロで且つ古く不鮮明なことである。同じ角度からの写真が見つかった時は、入れ替えているので承知されたい。


一、建築構造
 両晋南北朝300年間(281-581年)は中国建築にかなり大きな変化が発生した時期である。これより以前、建築の基本は古拙端厳な漢代風格で、建築は多くが直・方・正の直線に特徴があり、構造上は土木混合構造が主である:この後、豪放流麗な唐代風格になり、建築は多くが力強くそそり立つ曲線が長じて、構造上は全木構造が主となる。この両種のはっきりと異なる建築風格と構造方法の変化は、過渡期がこの300年間に発生した。もし、中国古代建築が漢代以降、漢、唐、明の3つの高潮期が有ったとすれば、その一段階は漢風の衰微と唐風の蓄積が起こる過程である。ここが、変化が段々と進む過程を、我々が主要に探求すべきこととなる。それは、一系列で漸進蓄積され、次第に甚だしく異なる新風として形成された。新しい建築風格が次第に形成されるには、時代の気風や審美趣味の変化を除き、構造・方法の逐次改良についても重要な要素の一つとなる。

1.土木混合構造の衰落
 近代の中国伝統建築構造の一般の言い方は、即ち、建築は木構造が中核で、壁は只自重を承け廻りを保護するだけのもので、“墙倒屋不塌”(※注)ということが出来ると言われてきた。実際、この言い方はもうひとつの条件を加えるひつようがあり、明清期の広大な漢族地区の建築について言えば、基本的にその通りが、幾つかの少数民族地区のことを含めて言うことは出来ない:古代にあっては、漢族地区も全くこのようなものではない。唐代以前、いくつかの大型宮殿でさえ土木混合構造であり全木構造では無かった。初唐になり。622年大明宮の含元殿は、その殿身に柱無しの版築壁を使用している。およそ盛唐以降宋代までに、宮室や官署、大邸宅はやっと基本的に全木構架構の家屋となる。宮室や官署、大邸宅、寺院等が、木構架構を土木混合構造に替えて用いられるのは、長いゆっくりとした過程を通じてである。
     (※注) 墙倒屋不塌: 壁が倒れても建物は潰れない。斗栱やホゾ等木構造が主要である意。
 春秋戦国期、台榭建築が宮室に盛行するのは、その特徴が版築で高く大きな多層土台で、層毎に版築土台中に部屋を作り出し、中央に隔壁を置き、壁の上に桁を架け、前の檐が広がる所に柱と縦向きの構架を立て(簡称して、縦架と呼び、梁を使用するの“横架”と区別する)、桁と縦架の上に檐を架し、単層屋根を構成し、実際上は横壁が荷重を承ける土木混合の構造である。台榭の頂上は全て主体建築1棟を建てるが、目下の所発見されているのは、2つの主体建築の基礎だけである。その一つは秦の咸陽宮1号遺跡で、平面は方形、中央に1.4mの柱礎が有り、その上に元は“都柱”があり、四周は版築か日干しレンガの壁で、壁本体の内外に壁柱を用いて更に固め、外壁の承重(注;荷重を承ける部材、以下同じ)とする(図2-11-1)。
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その二つ目は西安の王莽九廟柱最大の台榭で、台頂の主体建築も方形で、中央に都柱があり、四周は壁柱を用いて版築壁を固め、内外の壁柱は相対しておらず、それも外壁の承重とする。この2つの台榭頂上の主殿は依然として土木混合構造である。漢代宮殿は主要に台榭建築で、皇帝の居所の殿は全て台上にあり、陛が台頂に通っている。陛は衛士が防備しており、皇帝の左右を称して皇帝陛下と称するのはこの故である。台榭四周の片斜面屋根の附属部屋と台頂の殿は直通しておらず、陛を経由して台に登る必要が有り、警衛に利している。それとは別に空中を架す閣道があり、各台榭の頂を直通していて、皇帝の往来に供した。その為史料記載の両漢宮室は皆大量の閣道があった。(漢の)張衡《東京賦》に説く漢の宮中は“飛閣神行、莫我能形。” 薛綜注に言う:“閣道が相通ずるを言う、地面にいることが無いので、飛ぶと言う”は、この証拠である。閣道は又“飛陛”と称し、木構造である(図2-11-2)。
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 三国西晋期、限定された記載から推測すると、依然として台榭で宮殿が作られる。《元河南志》が引く《洛陽宮殿簿》曰く;“太極殿12間、南行する閣328間、南上に総章観”。太極殿も高台上にあり、台頂に閣道が通じている。《資治通鑑》に記す趙王倫の廃賈后の事に、“夜宮に入り、兵を並べ道を南し、・・・・・・・閣に並んで入り、帝を迎えて太極殿に御幸する”。文中“道を南し”の“道”は即ち太極殿に通じる閣道、又“馬道”を指し、これも太極殿が高台上に建つ事を証明する。史籍が魏晋の太極殿を具体的に描写しないと言っても、《景福殿賦》等の文によって、それより数年早く建てられた許昌景福殿は、壁柱が壁に強度を加えた版築壁を用いて承重とし、土木混合構造の台榭で、太極殿もこれと同じ筈である。北魏洛陽宮の太極殿は、魏晋故城跡に再建したもので、殿前にも馬道があり、高台上に建つことを説明している。そして史載の505年、北魏太極殿西序壁上に菌が生え、大臣の崔光が上表して、“太極殿は広大華麗、壁の築造は密、糞朽を加えず、湿気は及ばず”。“壁の築造は密”の句から、その四周は依然として厚い版築土が承重となる。
 中国南方は湿潤で多雨、木材資源が豊富で、暖かく厚い土壁で防寒をする必要がなく、漢代より全木構造の架構家屋が流行していた。広州出土の大量の前漢から後漢にいたる数十件の陶屋は、全て全架構構造のミニチュアで、その確証となる(図2-11-3)。
  但し永嘉の南渡(※注)に従い、中原文化が大量に江南に伝播した。魏晋の宮室制度は、王朝正統の標識であり、自然東晋ちょうていの遵守すべき所となった。それにより、東晋の宮殿は配置から外形、構造方法まで全て西晋洛陽を法とした。その主殿太極殿も高台上に建てた。それは南朝初期まで踏襲された。《宋書》に載る太子劉劭の宋文帝殺害事に、丹陽の尹尹弘が当直につき、宮中に異変が有ると聞き、城内の兵を率いて“閣道”の下にいたる。この閣道は即ち太極殿に登る高台の木構造の通道であり、洛陽太極殿前の“馬道”と同じである。《晋書・安帝記》と《宋書・五行志》記載の義熙五年(409)と元嘉五年(428)、雷が太廟の鴟尾に落ち、壁柱を突き通った事は、壁柱があり、即ち壁柱が版築土を固め承重壁であった。この2例で東晋南朝初期の主要殿宇は、魏晋の旧制を依然踏襲していて、版築の高台上に建ち、版築壁と木梁柱が共同で承重とする混合構造の建屋でもあったことを知ることが出来る。但し、史料が表しているのは、漢以来已に南方で形成された全木構架構の家屋は、江南地区では相変わらず流行していて、技術上発展しているのである。《法苑珠林》に載る、苻堅が東晋を伐った時(太元四年、379)、桓沖が荊州牧につき、邀翼法師が寺を建て、それは“大殿13間、唯両側に柱を立て、通した梁の長さは55尺、梁を承ける材は重なり、国中でも都でも一番である”。この記載によれば、それは面幅13間、奥行き55尺の巨大な木構造の殿宇である。《晋書》周の所に転載された、“(周)筵は姑孰に5間の建物を建て、6本の梁が跳び出して地に堕ち、衡(桁、つまり檩)は独立した柱頭零節(大斗)の上で、甚だ危険で、いくら巧みな人でもこのようにはいかない”。この建屋は面幅5間で、梁が6本有り、妻面でも梁柱を用い、それは全木構造架構の建屋で有ることに疑いは無い。《晋書。五行志》にもこのことが記され、東晋太寧元年(322)に関係し、東晋初期に属する。この他、南朝が建立した大量の塔は、これらの塔は皆刹柱があり、明らかに高層木構造建築である。梁の建康同泰寺塔は高さ9層で、南朝後期に至り、木構造建築が已に高い水準に発展したことが知られる。
 これらの情況を総合的に見ると、東晋の太廟等の重要建築は土壁と壁柱を用いわざと中原の宮室の形制を踏襲し、その正統性を表明し、当時の南方の大量の建築は依然として木構造建築であった。中原と北方は、多くが土木混合構造を使用し、南方は木構架構を使用したのはその頃の地方の特徴である。 近年雲南省昭通で発見の東晋太元□年に葬られた霍承嗣墓は、墓内に建築形象の壁画があり、土木混合構造建築の断面図を表していて、室内には暗層が有り、栾(曲肘木)で承け、漢代の建築と区別がつかない。雲南の地は辺境で、建築上中原と江南地区の古風を更に多く保存してきた(図2-7-4)。
    (※注)永嘉の南渡;西晋の滅亡頃、中原は戦乱と北方民族の流入等で、漢族の江南大移動が起こった。

2.木構造の発展
 5世紀初より始まった、南方が南朝の時期に、北方の北魏も中国北半部の統一を開始し、南北の経済文化は皆巨大な発展をした。南朝は宋孝武帝期(5世紀中葉)宮室の大改修を開始し、豪華華麗に進み、魏晋以来の旧風を替え始めた。北魏も平常の最後期、中原魏晋の遺規と南朝の新風を説教的に取り入れ始め、建築上も顕著な変化を生み出した。6世紀初梁朝の建立後、域内は長期安定となり、経済が繁栄、陸続と都や宮殿、廟社の改建を開始し、南朝建築発展のピークと成った。北魏も洛陽遷都後、漢化を全力で推し進め、宮室建設に中原と南朝の長所を吸収し、またピークを形成した。この期間、南北の統治者は、皆仏教に追従し、帝王や貴族、顕臣らは狂気のように仏寺を建立し、豪華富麗を競い会い、多くの仏寺の壮麗さは宮殿に比べられるほどであった。北魏洛陽の永寧寺の大殿は魏宮の太極殿の如くに作られ、梁武帝は建康の同泰寺を建て、浮図は9層、大殿は6ヶ所、中の栢殿は、正に梁武帝の出家時の居所であった。梁と北魏の衰亡は、仏寺を大々的に興したことと関係があるが、新しい意匠や奇抜さを好み、仏寺を大々的の興したことは、客観的には南北朝後期の建築発展を促進した。
 遺憾なのは、東晋や十六国、南北朝期の建築は、それ以外の磚石塔を除いて、全部毀亡し、僅かに北朝建築は、今に残る同時期の石窟中に幾つかの壁画と雕刻に表現された形象に見ることができ、南朝建築はこのような形象すら無い。僥倖なのは、日本に現存する飛鳥時代の遺構は、中日学者の研究に依れば、朝鮮半島から間接的に伝わった南朝末期の建築様式と思われることである。それを傍証に、我々は其の中から少しばかり南朝末期建築の形象と特徴を推測出来る。
 材料の来現は異なるが、北朝と南朝の情況を検討し、その発展を総論する。

(1)北朝の建築構成と構造

 北朝の建築遺物は、正光四年(523)の登封嵩岳寺塔と安陽の北斉石塔等の磚石建築都除けば、木構造と土石混合構成の建築形象は、只雲崗や、敦煌、龍門、響堂山、天龍山、麦積山の諸石窟に見ることが出来る。
 敦煌石窟早期壁画中の建築形象はかなり少ないが、多くは土木混合構成建屋を表した形象である。第275窟は北涼の造った可能性があるが、その南壁の遊四門故事中に描く門闕の壁には上下3層の壁帯があり、明らかに外壁が上に架した木屋根の承重とする混合構成である(図2-11-5)。北魏の諸窟中、257窟西壁の鹿王本生故事と248窟の店休伎楽中の建物も厚い妻壁が描かれ、壁上には水平方向の壁帯があり、表現されるのも妻壁を用いて承重とする土木混合構成である(図2-11-6)。やや晩い時期の285窟西魏壁画の500強盗の故事などや、296窟北周壁画の須菩提本生故事、304窟西壁隋代壁画の天宮伎楽等、描かれる建物は皆厚い妻壁で承重とするものである(図2-11-7)。北涼より隋代まで、壁画中には極少数の全木構造架構の家屋が有るが、大量にある建築は皆外壁と妻壁で承重とし、上に架した木構造屋根の混合構成建屋である。この現象は少なくともこの時期の西北地区の建築の特徴を反映しているはずである。
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 雲崗石窟は、彫られた建築が主要に北魏の都した平城の当時の建築の面影を反映している。石窟の時期区分により、我々は異なる時期の石窟中の建築形式や構造がどのくらい変化下かで、北魏が平城に都した時期の建築上の発展を理解することが出来る。
 雲崗早期の曇曜五窟等は建築形象を表現したものが完全に無く、建築形象の主は第二期孝文帝時代である。
 孝文帝時代、専門家の分析に依れば、およそ5グループに分けられ、時代により7,8窟、9,10窟、11から13窟、1,2窟、5,6窟である。(その内、11から13のこの3窟中、12窟の完成は洛陽遷都以前で、11,13窟の2窟の完成は遷都後である)
 第7,8の2窟の建築表現は簡単で、構造ははっきりせず、論じない。第9,10の双窟は、皆前・後室を持ち、基本的に同じである。各窟の前は窟廊になり、面幅は3間、中央に2本の八角柱を用い、上には大斗を用いる、両端は日干しレンガを積んだように見せて、柱はなく、共通する1本の長い3間の横桁(頭貫)を承ける。横桁より上は甚だしく風化しており、構造は不明である(図2-11-8,2-11-9)。
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9窟の全室東壁と10窟全室の西壁の上部は浮彫で面幅3間の寄棟屋根の小殿を造り、中央の2本の八角柱もそうなっていて、両端は日干しレンガを積んだように見せ、共通の横桁で承け、桁の上は斗栱と叉手を置き、檐の桁を承け、組合わせて縦向きの架構を構成する(簡称して”縦架”と称し、奥行き方向の梁架構組合わせと区別する)。注意すべきは、2本の柱上に全て大斗があり、大斗の上に替木を用い、横桁の下で支えるが、桁上の斗栱は柱の中心線から離れていて、柱に対置していないことである(図2-11-10)。
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2窟の窟廊と前室の3間の小殿は、形式と比例が異なるとしても、皆3間2柱で、両端に日干しレンガ積み或は妻壁を用いて承重とする架構方式は全く同じである。その表現する所は、左右を妻壁で承重とし、前の檐は縦架として、下に2柱で支え、上に屋根を架す土木混合構成の建屋である。第9,10窟前室の後壁は後室の門で、木の門框を彫り出し、門額両端の方立の外まで伸ばし、古代の衡門の形式の如くである。但、門框の表面は凹みが入り、前壁の四周に沿って斜めの面に取り去って、その表現する所は厚い壁の中に木の門をあつらえた形象である(図2-11-11)。
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これに依れば、この2窟の表現は、主室は厚い壁で承重とし、木構造の前廊は土木混合構成の建屋である(図2-11-12)。この窟は一般に太和八年から十三年(484-489)王遇(即ち鉗耳慶時)が主導して開鑿したものとされる。王遇は平城に在った時、方山に文明馮太后の陵園と霊泉宮を建設し、洛陽遷都後、文昭太后の墓園、太極殿東西堂と洛陽宮内外の諸門を建設した。かれの監修した石窟表現に表れる建築の特徴は、当時の平城宮室の形式に一致する筈である。
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 第12窟形式は9,10窟と似ていて、これも前・後室に分かれ、前室は3間の窟廊で、左右壁の上部にも3間の殿を浮彫し、異なる所は、これらは4柱を用い、両端が本来日干しレンガ積みか妻壁の所を柱を用いていて、縦架上の斗栱と柱が対になる。従って第12窟の表現する建屋は、少なくともその外廊部分は全木構造のものである。斗栱と柱を対にすることは、木架構が縦架主体から横架主体への過渡期で有ることを表し、この時期建築上の発展の趨勢に有ることを反映している(図2-11-13)。
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 第5,6窟中注意に値するのは、塔の形象である。第5窟後室南壁上部の東西側に各1つの5層塔を彫り、その内、西面の塔は、1層から4層の面幅3間で、5層の面幅が2間となり、日本の法隆寺五重塔と間数と層数が同じで、二者は相互に証明しあい、その架構の特徴を推測出来る(図2-11-14)。第6窟中心柱上部の4隅に4つの9層方塔が彫られ、その底層四隅に各一小塔が附属し(図2-11-15)、朔県崇福寺原蔵の北魏天安元年(466)石塔下層の情況と同じで、この時の塔の特殊な構造方法である。第6窟四壁の仏伝故事の浮彫は、底層に一巡の回廊、柱上に大斗を用いて頭貫を支え、一斗三升(注;一大斗と三小斗の平三斗)の斗栱を柱頭の斗栱として、柱の間には叉手(注;割束)を用い、檐桁及び屋根を承ける。これは一般の宮殿や仏殿中の回廊を克明に写した筈のものである。回廊より上の浮彫の仏伝中に、かなり多くの建築形象があり、全て四壁に厚い壁を用い、正面は凹ませた門框とし、壁の上に斗栱と叉手を組合せた縦架を用い、上に屋根を承け、表現は依然下には承重とする厚い壁、うえには木構造の土木混合構成の建屋である(図2-11-16)。
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 総じて雲崗第二期石窟中に表現される建築形式と構造は、見る限り、平城地区早期の建築は、主要に土木混合構成で、その後、逐次屋根身舎混合構成や外檐木架構と全木架構方向に向かって変遷していく。これは、敦煌及びその他北朝石窟中に表わされた趨勢と一致する。
 この時の建屋の木架構部分は、屋根身舎方向に向かって平行で、横桁(頭貫)と檐桁の間に斗栱と叉手を配置し、組合せは平行弦桁架構の縦向きのコア功と類似し、前後の檐壁上に置き、前檐は門窓がある時は、下に柱で支え、柱頭に大斗を用いる。但し柱及び大斗は縦架上の斗栱に対してはいない。奥行き方向は梁と叉手の組合せを用い、横向きに梁に架す。柱は只簡単に縦架の下を支え、全体の建屋の縱橫の双方向の安定は、只厚い壁で維持しているだけである。即ち、全木架構を、その妻柱や後檐柱までも土壁中に包み込み、柱列の安定を保持させているのである。
 龍門石窟に彫る建築形象は、主に洛陽遷都時に開鑿された古陽洞と北魏末東魏初開鑿の路洞柱に、北魏遷都後40年間の建築上の格好の発展と変化を見ることが出来る。
次回に続く



  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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# by songofta | 2017-07-21 21:34 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

240 南北朝の仏教建築 5 洛陽永寧寺塔と登封嵩岳寺塔

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第二章 両晋南北朝建築
第7節 仏教建築


 ※北魏の建築で現存するのは、レンガの塔(磚塔)の嵩岳寺塔だけである。この密檐式塔は突如表れる。また木造(塔心部は土木混交で純木造では無い)では、永寧寺塔遺跡が出て来る。恐らくは史上最も高い木造塔であったろうが、巨大な基礎と基台が発掘されたが、現在の所、唯一の発掘木塔資料のようだ。日本の塔とは異質なものであるだけに、鮮卑族の漢文化受容の違いも感じる。木造の古塔は、山西省の応県木塔(現存する世界で最も高い木塔)と河北省正定の天寧寺塔(下層は磚積みで上層が木塔)だけである。
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         (参考) 永寧寺塔の推定復原図 (百度百科より)
     
     
(5)北魏洛陽永寧寺塔
 北魏孝明帝の煕平元年(516)、洛陽永寧寺の九層の浮図を起ち上げた。神亀二年(519)に至って“装飾は華を悉くし”、当時の中国領域内で第一の大塔で、時の人はこれを言うのに西域の雀離浮図(※1)と“倶に荘重で素晴らしい”。但この塔はたった18年しか存在せず、永煕三年(534、北魏最後の1年)二月火事により全焼した。
   (※1) 《魏书・西域传》:“(乾陀国)所都东城南七里有佛塔,高七十丈,周三百步,
      即所谓‘雀离佛图’也。” (乾陀国の都から南7里に仏塔がある。高さ70丈、
      周300歩、即ち言う所の雀離塔である)
 永寧寺遺跡は今の洛陽市の東15kmの漢魏故城内にあり、東は城中央南北の銅駝街から250m、東北は宮城の南門から約1km。1963年、中国社会科学院考古研究所洛陽工作隊が遺跡の平面配置の探査を行い、1979年発掘を開始し、先ず遺跡の中心、仏塔の基礎跡を発掘した。簡報中の記述では、遺跡の情況は以下の通り:
 塔基は上下2層の版築の台がある。底層の台基は、東西101m,南北98m、高さは2.5mを越え、これは仏塔の地下基礎部分である;上層の台基は底層台基の正中央に位置し、四周を切青石で包み、長さと幅は均しく38.2m、高さ2.2mで、これは地面以上の基座部分である。基座の四面正中央は、各一本の斜面の馬道がある。
 上層の台基上に124本の方形の柱礎跡があり、その中に残留した木柱の炭化痕跡及び部分的礎石が有った。柱礎は内外に5周、碁盤目に配置;最内周は16個、4個1組で、四隅に分布;第二周は12個、毎面4柱;第三周は20個、毎面6柱;第四周は28個、面毎に各7間8柱;第五周は檐柱で、計48柱分、面毎に各9間10柱(※2)
    (※2)第五周は、四隅部が隅の3柱と少し離れた内側にもう1柱の4柱で
      1組構成のため、9間10柱 で48柱になる。
第四周の内側に、日干し煉瓦を積んだ方形の実体があり、長さ幅が均しく約20mで、残高で3.6m、東西南の3側壁面は中の5間に、其々仏龕の遺跡があり、北側壁面は仏龕が見当たらず、却って1列の20cm平方の壁貫があり、梯を掛けるのに用いたと推測される。外周の檐柱の間は、壁の基礎が残っており、高さは20-30cm、内側には彩色絵があり、外側は紅色に塗られ、併せて戸や窓の痕跡も保存されている。同簡報が発表した遺跡の俯瞰写真によって、仏塔の底層の間の広さは基本的に一致し、外檐の隅部に作る2本柱及び隅肉内の外の添え柱位置、並びに間の広さは階段幅及び馬道の斜度等と比例関係にある(図2-7-21)。
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 北朝の文献中の洛陽永寧寺に関する記載は、主要に以下の3ヶ所で:
 魏収《魏書》巻114〈釈老志〉;“粛宗の煕平中、城内太社の西に、永寧寺を起こす。霊太后は自ら百僚を率いて、標柱を作り塔刹を建てる。塔は九層、高さ40余丈。諸費用は計算も出来ない”。
 郦道元《水経注》巻13〈谷水〉;“水の西に永寧寺があり、煕平中に創建され、九層塔に作り、塔の基台は方14丈、金露盤の下地面まで49丈。代都の7層に方法を取り更に高く広くした。二京の盛んなことや、五都の富は、寺廟霊塔に有利とは言っても、未だこのような構造は無かった。
 楊衒之《洛陽伽藍記》巻1;“永寧寺は、煕平元年霊太后胡氏の建てたものである。宮城の前阊阖門の南一里の御道の西にある。・・・・・・・中に九層塔があり、木材でこれを架す。高さ九十丈。上に金の塔刹があり、また高さが十丈で、併せて地面から一千尺である。・・・・刹の上に金の宝瓶があり、容量は二十五斛(=10斗)。宝瓶の下に金の承露盤を十一個重ね、周囲は皆、金の風鐸を吊り下げ、また鉄の鎖が四筋あり、塔刹から塔の四隅に向かって引かれる。・・・・塔は九重、隅は皆金之風鐸を下げ、上下併せて120個の風鐸がある。塔は四面あり、面毎に3つの戸と6つの窓を持つ。戸は皆朱色の漆で、扉には各5行の金釘が打たれ、併せて5400枚、また金の門環(※3)がある・・・・・・”。
   (※3)門環;原文は「金環鋪首」、多くは直径10数㌢の円形のシンバルのようで、
      門にかけられており 中央には輪がついている。客は来訪の際に門に吊り下
      げられている輪を扉に打ち付けてコンコン(澄んだ)音を立てる。主人は
      客の来訪を知ると扉を開けて迎える。
考古発掘と文献記載を対照すると、互いに実証出来るのは以下の数点である。
一、塔基の位置は、宮城の南門の西南、銅駝街 (御道)の西側250mで、《洛陽伽藍記》所載と基本的に符合する
二、塔基上層の長さと幅は約38.2m、《水経注》の記す“方十四丈”と基本的に符合する。北魏の尺度は今の制度で25.5~29.5cm/尺の間で、即ち十四丈は今の35.7~41.3mの間。もし38.2m=十四丈で割ると、建塔時の用いた尺度は27.29cm/営造尺となる。
三、塔基は方形平面で、面は各九間、土木構造は、檐柱間に門と窓の痕跡があり、《洛陽伽藍記》中の“木材でこれを架す”及び“塔は四面、面は3つの戸と6つの窓がある”の記載と一致する。

 これとは別に、幾つかの問題は考古発掘中に解決が難しかった。例えば塔の層数や高さ及び外観の造型等で、但文献記載と既知の形象資料と対照して分析した基礎の上で推定を加えた。
 塔身の九層は、未だ異議を見ず、定説に属すべきであろう。但し塔の高さは、統一した節が無い。その内、郦道元の記す “金露盤の下地面まで49丈”は、相対的に信頼出来るデータである。これに從うと又有る、“代都の7層の方法を取り”、即ち平城永寧寺7層仏塔の制度で建造の言い方は、現存の北魏平城時期の仏塔形象を参照して検証に追加することが出来る:
 雲崗石窟仏塔中、3、5層塔の塔身の高さは、一般に底層の面幅の3倍位で、第7窟の浮彫7層塔と第6窟中心柱上層四隅の9層塔は、塔身高さが底層面幅の5倍位である。これとは別に推測に拠るが、曹天度の造った9層千仏小塔の塔身の高さはおよそ底層の面幅の4倍余である。ここから推定すると、平城仏塔の高さと底層面幅の比は仏塔の層数により異なって変化するが、但最も多くても5:1であろう。
 簡報に拠れば、塔基第4周の木柱土台は方20m、柱礎の寸法と間の距離を考慮し、即ち塔身中心の7間面幅は22m(魏尺で8.06丈)前後で、これにより計算すると、間の広さは8.06丈/7=1.15丈。外周の檐柱の万幅は9間、即ち1.15X9=10.35丈、加えて隅の添え柱の柱距離を加えると、約11.25丈、これは49丈の1/4.35で、上述の平城仏塔と、とりわけ曹天度造像塔の比例関係と符合する。《水経注》中の塔高及びその“代都の7層の方法をとり”を証明する記載は信じられる。
 既知の平城の多層木構造仏塔形象中、塔身の下層から上層の層幅の逓減、層高の逓減、各層の檐口外縁は基本的に1本の直線で構成され、且つ底層の檐口の地面からの高さ距離は、上層の檐口の間の距離より大きい。これらの規律を参照して、永寧寺9層木塔の各層の面幅と層高を推算することが出来る(表2-7-2)。その内、底層の層高は7丈、露盤の地面からの高さは49丈/7;底層の柱高3.75丈、これは底層の面幅11.25丈の1/3、又塔身総高(頂層屋根棟上皮から階段面)45丈の1/12;第6層の間の広さ0.9丈、面幅9丈、層高4.5丈、これは寸法が最も整った層である(表2-7-2)。この塔の間の比例は狭く高い、これは高層建築は上部の巨大荷重を承ける為、柱網を密にする工法を採ったものである。この種の情況は漢代の石廟雕刻及び北朝から隋唐の石刻楼閣形象中に見つけることが出来る。北朝石窟中の仏殿窟の間の広さは最大で4.6mに達する(麦積山代4窟)、このようにして、上面を推定し、北朝第一の大塔である永寧寺塔は、底層の間の広さは僅かに1.15丈(換算して3m)。当時の仏塔と仏殿の設計と異なる規制であると知られる。
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 石刻仏塔形象は、永寧寺塔の外観形式を推測する参考になるとは言え、両者は実際の効能は異なり、外観にかなり大きな違いがでる。その内、特に石雕塔身の表面は大きく龕像を彫り、永寧寺塔の塔身四面には”3つの戸口と6つの窓があり”、仏龕は即ち中心土台の側壁に設け、表面に龕を設けた一座の仏塔の外に一周の木構造の外廊を作って巡回礼拝の通り道を作る。それとは別に、石雕仏塔の塔身の上下層の間には僅かに斜め屋根面の瓦軒があって、平座(※4)は見当たらず、永寧寺塔は各層の四面には戸口があり、内から外に出られる説明するので、即ち各層には平座があり、勾欄を設けて周囲を保護した。
    (※4)平座;塔身と勾欄の間の通路部分。回廊。
 塔基遺跡の中心は方形の土台で、当時の塔建築は、依然として秦漢以来の台榭建築(※5)から抜け出せず、高い台の上に木構造を架構し、木構建築の外観を持つ構造方式であった。但、土台の上の柱礎遺構が表明するのは、この時已に基本的に完全に成熟した木構造で重力を承ける体型が形成され、只中心高台は構造の安定作用を助ける為だけのものとなっている。それとは別に注意すべきことは、底層の檐柱の隅角の部分で、依然として漢代建築中の双柱で荷重を承ける工法を保持しているが隅肉の外に一柱を増やしていて、これは木構造技術が尚発達不十分な時期で、隅角の堅固さを確保するために採った必要処置である。
   (※5)台榭;古代中国で、宮殿等の建築には、高い版築の土台を築き、その上に
      木構造の高殿を造った。 木構造部を榭と言い、土台と併せて台榭と言う。
      初期には、無壁で規模の小さなものだったが、次 第に高大な房屋に成って
      いった。
 塔基の中心には、一辺が1.7mの竪穴があり、穴の内壁四面は皆版築で締められ、簡報に依れば、木塔の地宮である。《洛陽伽藍記》巻1永寧寺の条に記す、胡太后立塔の始め、“百僚を率いて、基を表し刹を立てる”、又記す“永煕三年(534)二月、塔は火により燃え・・・・・、火は三月にも消えず、火は地中の刹柱にも入り、1年を経ても煙の匂いがした。”、これにより、中心竪穴は刹柱を立てた所で、塔身の真ん中には上下に刹柱が貫いていた筈である。南朝文献中に多い“刹下の石に記す”或は“刹下の銘”、日本の飛鳥時代の仏塔基礎中に均しくある刹下石(心礎、最早の例は6世紀末の飛鳥寺塔)で、その上に円形或は方形の凹槽を掘って刹柱の柱脚を据え、凹槽の底部或は側面に舎利を置く小孔を設ける。永寧寺塔基の中心竪穴は破壊に遭い、具体的な情況は深く明らかにできない。
 洛陽永寧寺塔は煕平元年(516)に建てられ、先の平城永寧寺塔の建造(467年)から已に半世紀が経っている。且つ南遷の後、北魏の建築芸術と装飾は均しく更に多くの南朝の影響を受入れた。故に洛陽永寧寺塔は、外観形式と細部処理上、全て平城早期仏塔と一定の違いがある。実際、この種の差は大同雲崗石窟の早期、晩期の石雕仏塔形式及び雲崗、龍門両地の家型龕形式の変化の中にも見ることが出来る。
 以上見てきた建築尺度、比例、構造、外観諸方面の初歩的な探求に関して、洛陽永寧寺9層木塔の復原図を描いた(図2-7-22,23,24)。その中で尚多くの具体的問題がいま一歩深く検討が必要で、皇崗発掘の証明を待つ所である。
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         (参考) 永寧寺塔の推定復原図の一つ (百度百科より)

(5)河南省登封嵩岳寺塔
 嵩岳寺は即ち、北魏嵩高閑居寺で、隋代に改名した。寺内の仏塔は、現存する唯一の南北朝時期建築の実例である。
閑居寺は北魏宣武帝の永平年間(508-511年)に建てられ、皇室の建てた寺である。孝明帝の正光元年(520年)正式に寺名を掲げ、多く拡建した。仏塔の創建もこの時の筈である。同年7月、朝廷に変乱があり、工程が止まった。大体正光四年(523年)にやっと工事が再開した。近年、塔下の地宮から(大魏正光四年)銘記の仏像が発見されたのも、この点の実証となる。 閑居寺の沿革及び寺塔の記載は、最早が唐の李邕の選になる《嵩岳寺碑》の碑文に、“嵩岳寺と言うのは、後魏孝明帝の離宮である。正光元年閑居寺と掲げ、宏大な仏刹は、国財を尽くす。僧衆はたくさん集り、700の衆であふれる:堂宇はおおらかに広がり、千間を超える。・・・・・(隋の)仁寿二年、嵩岳寺と名を変え、・・・・・15層の塔は、後魏の建てたものである。地を発するに4つにして高く聳え、天に届く程で八相に変化し円になり、方丈は12(※)、門と窓は数百”。
    (※)方丈12;円形だが、面で言えば12面体の意か?禅宗の方丈ではない。
 嵩岳寺塔の現状は、15層の密檐磚塔で、塔身の平面は12辺形までで、各層各面は皆、1戸2窓の形象で、碑文が述べる所と符合する。塔下の地宮と塔身は磚(焼成レンガ)を用い、熱ルネッセンス年代測定を行った。年代は今から1560(1580)±160年前で、これもこの塔が北魏の原物の証明である。嵩岳寺塔の塔身と基座は均しく磚積みで、塔刹だけが石彫であり、その中の仰蓮より上の部分は唐末宋初の修繕で追加された。
 磚塔の底層の東西南北に門が開き、塔内は塔頂まで真直ぐ塔心室となり、心柱は無く、塔心室の底層は正十二辺形の平面を作り、上段以上は正八辺形に変える。塔身底層は直径約10.6m、塔心室の内径は約5m、塔壁の厚さは約2.5m(図2-7-25)。
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 磚塔の高さは約39.5m。高さ約1mの台基の上に在り、15層の密檐塔身である。底層の塔身高は約9m、上下2段に分かれる。下段は四正面に門が開設されるのを除けば、その他の8面の壁には何も無く、やや収分があり(上が細くなる意)、上周は持送りで迫り出し、上段の塔身を承ける。上段の塔身は直径が略下段より大きく、壁体は収分が無く、平面の隅の折れる所には八角形の倚柱を積出し、柱下は覆盆礎として、柱頭は火珠垂蓮で装飾する。四正面の門道は下段で連絡する。門の上は半円のアーチで、外飾は尖アーチ面である。その他の8面は均しく倚柱の間に積出した1座の塔形の小室を作る。小室の下基は直線の方形で、中に2つの壺門があり、内に獅獣を彫る;室壁の中央にアーチ門を開き、上は亦尖アーチに飾る;アーチ門の中は心室があり、元は像を置いたが、今は無い。室頂は覆鉢で山花蕉葉、側面は隅角の処理を設け、表現は一種方形の建築形式を意図している。嵩岳寺塔の底層上段の塔身高さは、底層下段の持送りの上面から塔刹の覆蓮底部までの高さの1/5で、これは全体設計の方法と関係があるかも知れない。外観の造型から見ると、この一部分も塔身全体の中の充填的な装飾部分である。
 底層塔身の上は、14層の密檐式塔身で、層を逐って内に退き且つ高さを逓減する。第2層から始まり、塔身高さはわずかに0.5m前後で、隅部は倚柱が無く、各面の正中央は尖アーチ門で、両側に各1個の方形の連子格子の小窓が有る。頂層は面幅がかなり狭く、僅かに四正面に門を設けるのみで、その他の8面に窓は無い。各層の塔身は低いとは言っても、持送りの檐の迫り出し長さは皆、底層上段と同じである。これにより、塔身の1層1層毎の収分は、各層の檐の出の外端を結ぶ線は、1本の優美なアーチ形曲線を形成する。塔刹の高さは約4m。下から上まで石彫の覆蓮や束腰、仰蓮及び磚を積んだ7層の相輪と宝珠である。前に述べたように、磚積みの部分は後世に加えたもので、元の塔刹形式及び高さは考察できない(図2-7-26)。
 嵩岳寺塔の造型と構造方式は、全く北魏時期に流行した多層方塔と異なる。その十二辺形平面や底層が高く大きく、上部各層が低い密檐仏塔の立面構図及び塔心が中空の筒状構造方式は、均しく已に知られた北魏仏塔形象中には見ることが出来ない。但し、この塔の規模は宏壮、造型は優美、設計手法は爛熟、濫觴時期とは思えない作品である。東魏天平二年(535年)の《中岳嵩岳寺碑》に記す北魏太和八年(484年)、高僧生禅師が嵩山に始めて仏寺を建てる時、“そこで千善霊塔15層を建てようと、始め7層までで、缘が届かず中止。7層の状態で、・・・・仏法光興よりいまだこの様な壮観を見ず”。その15層の高僧は、嵩岳寺塔と同じで、当時平城の仏塔形象中、9級を超えるものはなく、それもまた密椽塔と疑う者でもない。即ちこの類の塔は、早くは平城時期に已に出現したが流行せず、遷都後、嵩山は中岳の尊さを以って、皇室が重視し、嵩岳寺様式の塔は或は人々の注意を引き始めたのかも知れない。史料記載に拠れば、北朝晩期已に層数が17層に達した仏塔があり、嵩岳寺塔と同一類型の密椽磚塔の筈である。
 《魏書・釈老志》が記す、“煕平元年(516年)沙門恵生を西域に遣わし、諸々の経律を採集した。正光三年冬、都に戻る”。《洛陽伽藍記》に記す、恵生と宋雲一行は西域乾陀羅城に至り、雀離浮図を礼拝した後、“恵生は遂に旅費を削って、良い工匠を選び、銅に雀離浮図の様一躯を模した”。その西域の道行きを記録するに留まらず、経典と仏像を携えて帰国し、皇室二献上したが、正に嵩岳寺塔を建て始めた時で、故に嵩岳寺塔の造型にこの事の影響が関係したかも知れない。
 嵩岳寺塔塔身の細部装飾中に採用された一連の造型は、北朝康煕石窟中に大量に出現する。例えば火珠垂蓮の柱頭形式及び門窓の尖アーチ面は、北斉響堂山や天龍山、北周麦積山石窟は中に全て良く見られる。これ等の明らかに外来の特徴を持つ装飾造型は、この一時期、外来仏教芸術が、漢地仏教建築の形式及び風格に変化発展を起こし、従来とは異なる影響を与えた事を語っているが、具体的に来源はまだ証明を待っている。




  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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# by songofta | 2017-07-19 23:25 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

239 南北朝の仏教建築 4 仏塔の形式(2) 

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第二章 両晋南北朝建築
第7節 仏教建築



(4)造像塔と墓塔
①造像塔
 東晋十六国以降、内置する仏像や供養する者が都に入って像を見て礼拝する仏塔以外は、建造規模がかなり小さく、内部空間を備えない造像塔も、信徒達が功徳福利のため喜んで建てた。この類の造像塔は或いは仏塔の周囲に立て、或は仏堂や精舎及び窟室の中に置いた。現存の重要な実例は、北涼石塔と北魏の2座の造像石塔である。
 甘粛省出土の北涼石塔は12件、外観は大体円柱形で、高さ30~60cmで異なり、直径は高さの1/3~1/4。底部にホゾを出し、元は基座の上に置かれた筈である。東晋は数層に分かれる:下層は八稜柱体に作り、面毎に1幅の人物像を彫り、像の上側に方位に対応する八卦の符号を刻む:中層は経文或は願文を刻む:上層は仏龕が一周し、通常七仏と弥勒を配置し、上下2層仏龕の工法もある。塔頂部分は円錐体に相輪と宝瓶を雕りだし、宝瓶には星象図を刻む。北涼石塔の年代は皆5世紀前半で、塔身と仏像は西域の風格を具有し、同時に又、漢地の道教の八卦や星象符号が入り混じり、未だ早期仏教は方士の神仙迷信相互の附会する特徴から徹底して脱し切れていない(図2-7-16)。
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 北魏時期の造像塔は、多層方塔の形象を示す。その内で、著名なのが天安元年(466)に造られた平城曹天度造像塔である。塔全体は、底座、塔身、塔刹の3部分に分かれ、総高さ約2.5m。基座の四面は、供養人像と発願文が刻まれる。塔身は9層で、底層各面の正中央に龕を造る以外、各層四面いっぱいに千仏を彫る。各層の塔檐は皆、傾斜屋根を作り、檐の軒と瓦を刻む。底層は4つの角を持つ。各1座の3層小塔を作り、塔頂は亦傾斜屋根を彫り、上に鴟尾を置く。塔刹の残高は49.2cm、完整な単層方塔形象を呈し、これは特別な例である。刹頂部分の造型は、下に山花蕉葉、中は伏鉢、上は九重の相輪(図2-7-17)。
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曹天度塔の体量と造型は、北魏文成帝の仏法復興の後、平城仏塔の形式がかなり大きな発展をしたことを反映している。史料に依れば、当時平城で最大の永寧寺塔は7層だけで、造像塔には已に9層の塔身が出現している。だが、雲崗第6窟中心柱上層の四隅の9層小塔に比べ、曹天度塔の形式は、已にかなり多くの早期の特徴を帯びており、例えば塔身一杯に千仏を彫り、且つ梁と柱の構造を表現しておらず、唯塔檐に漢地の屋根形式を採用するだけである。この種の情形は孝文帝の太和年間に更に改変され、北魏造像塔の別の典型的な実例は甘粛省酒泉出土の曹天護塔で、年代は太和二十年(496)、現存の全残高さは38cm、僅かに有るのは底座、塔身及び塔刹の下部の方座のみで、上部の覆鉢や相輪は無い。塔身は3層、面は方形16cm、各層は面幅3間四柱の木構造仏殿の形象を表現し、柱頭に斗栱と頭貫を彫り出し、塔檐上に瓦屋根を彫り、下に檐軒を刻み、外観形式は雲崗中の仏塔、特に第3窟窟外の平台上両側の3層仏塔に充分近い。前述の北涼石塔と曹天度塔を較べると、明らかに北朝仏塔形式が漢化する過程が見出だせる(図2-7-18)。曹天護塔の出土地点は、北魏中期以後、域内各地の仏教芸術が、大きな程度で平城模式の影響を受けている。即ち、西域に近い河西回廊一帯でも、例外ではない。

②墓塔
 西晋末から、漢地に僧の墓塔或は焼身(火葬者)塔の工法で建造する塚が出現する。前者は本来、印度の高級な葬式で;後者は、西域地区の葬俗であり、仏教の東伝に従って、先ず涼州、秦隴、蜀地に流行し、後に内地に伝播した。東晋太元五年(380)、僧竺法義が建康で亡くなり、孝武帝は“銭10万で新亭崗を墓として買い、塔3層を建てた”。北魏沙門恵始の死後10年(445年)、平城南郊に改葬し、“塚上に石の精舎を立て、その形象を訊ねるに、(武帝の)廃時、尚全てが立っていた”というのは、北朝の僧の墓塔上に僧の法像が彫られるかなり早い例証である。焼身塔の工法は、相対的に晩く出現し、北魏早期では、尚火葬が許されず(闍维の法)、北朝後期にこの法が相当流行した。
 早期の僧の墓塔形式は、記載に依れば、多くが3層か単層磚石塔である。焼身塔の実例は、北朝後期の安陽宝山(霊泉)寺の道凭法師の焼身塔である。塔高2m余、単層石造。方形基座2重、高さの1/3強を占める。方形塔身は、立面は正方形に近い。南に向いて拱門(アーチ)を開き、上側は尖った拱券とする。塔身に重ねた軒を出し、塔頂は覆鉢で、四周に巻葉紋を彫り、中央に相輪宝珠を立てる。塔身の南壁下に” 宝山寺大論師道凭法師焼身塔”、併せて”大斉河清二年(563)二月十七日”の銘文を刻む。塔心室は中空だが、未だ造像は見られないが、寺内の隋唐時期の浮彫焼身塔の多くが僧の法像の情形が有ることから推測して、道凭法師塔には本来道凭法像が有った筈である(図2-7-19)。安陽の僧の焼身塔と北斉石窟柱の浮彫仏塔を較べるとその外観形式が一致するのを見ることが出来る(図2-7-20)。歴代僧の墓塔(焼身塔)の形式を推測すると、全て当時当地で流行の仏塔と類似しており、只規模や体量がかなり小さく装飾が簡単に省かれているだけであろう。
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# by songofta | 2017-07-19 22:14 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

238 南北朝の仏教建築 3 仏塔の形式(1)

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第二章 両晋南北朝建築
第7節 仏教建築



3.仏塔形式 
 仏塔(造像塔、僧人の墓塔を含む)は、外観上通常は基座、塔身、塔頂の3つの基本部分で構成される。塔の形式変化は、各部分の比例、様式及び構成形式の改変で表現される。この種の変化は、更に多くの異なる時期の外来仏教芸術の影響とその土地の建築形式の制約によるものであり、塔の効能及び構造方式とは直接の関連は無い。例えば塔の効能が、仏像の安置や舎利の供奉或は墓所の為に作るとしても、外観造型上は相応する厳格な区別は無い;同一の時期と地域に在って、異なる構造方式で建造した同一風格様式の仏塔が存在し、そして又異なる時期の仏塔中に、却って同一材料と工法を採用していても、仏塔形式が尽く異なる情況がある。漢地仏塔形式の来源と発展は、内外両方面の要素の作用と密接に相関がある。現存の南北朝期仏塔の形象資料と実物の例証に関して、石窟雕刻と壁画中の仏塔及び小型造像塔と墓塔を除いて、まだ2つの充分重要で貴重な例証がある;これは、考古発掘により提供された北魏洛陽の永寧寺九層仏塔の遺跡情況であり;それとは別に現存唯一の北朝地面建築の実例――北魏嵩山閑居寺(後に嵩岳寺)十五層密檐磚塔である。この2つの例証は漢地仏塔の発展の特徴を研究検討するに際して、充分重要な意義を備えている。この他にも、新疆地区の古城遺跡中に今まで幾つかの早期仏塔の残跡が保存され、漢地仏塔と西域仏塔に形式の変遷上の相互の影響に、有益な証拠を提供する。

(1)漢地仏塔形式の本源
 後漢時、漢地には已に仏塔があった(前文を見よ)。魏晋文献中、呼び慣れた“浮図(浮屠、仏図)“は、南北朝期に、”塔“と”浮図“は併用された。仏教経典が転訳されるにつれて、漢地にも又、仏塔が”卒塔婆(Stupaの訳から来る)、“支提(Caityaの訳から来る)”等の呼称及び仏図の各種釈義が知られた。実際、どの釈義も全て仏塔の特定の発展段階の形式と効用を反映していた。仏塔名称の多くは、正しくそれが不断に新形式と内在的要素が発展していることの表明している。同時に、仏教の伝播と仏教中心の転移につれて、各時期や各地区の典型的な仏塔様式も、形式上の変異を出現している。
 文献記載により、漢地仏塔の出現と期限前後の西域地区仏教の東伝は密接な関係がある。
 《魏書・釈老志》中の仏塔の解釈と形式の記述は、作者魏収(東魏人、505-572年)が外来仏典中の仏塔に関する釈義の理解と漢地での建塔活動を理解していたことを反映している;先ず、仏塔は仏舎利を安置するために建造する宮宇で、漢地の宗廟の如きものであり、人々が入って礼拝する場所とした;次に、洛陽白馬寺浮図が完成した後、漢地の仏塔のモデルと成った;魏晋以来の仏塔は、天竺の特徴を保持しているとは言え、層を幾重にも重ね、層数は一から九まで、只奇数を取り(上下の文を連係すると、洛陽白馬寺浮図は天竺様式である)。後漢の使者が前に西域に取経に言った史実と已に実物資料により、その強調する“天竺式”は即ち北印度クシャン朝時期の仏塔形式で、印度南方の早期仏塔形式ではない。
 今知られる印度南方の早期仏塔は、一種類は仏骨(或いは高僧の遺骨)を埋蔵する墓塔で、塔期が円形平面で、上が覆鉢状の塔身、頂部中央に神祠及び傘蓋を立て、基座の辺縁と傘蓋四周及び塔の外縁に欄柵を廻し、入口の所に標識性の塔門が有り、全体の比例が扁平で広い。紀元前1~3世紀建立のサンチー大塔は、この種の仏塔の典型的な実例である;もう一種は、礼拝窟(Caitya)中に立つ小塔で、その外観構成は大塔と似せてあり、只各部分の比例が改変され、特に基座が高くされ、全体の比例は痩せて長く、段々と2層基座の工法が出現する(図2-7-6)。
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 紀元1世紀以後、仏像芸術が西北印度のクシャン朝域内で流行し始める。同時にギリシャやペルシャ及び中央アジア地方の建築形式の影響により、この時の仏塔形式は南方の早期小仏塔の変化に沿って更に一歩発展させ、大量の新しい建築造型の語彙を融合した。最も顕著な変化は、方形平面の基座の出現で、四面には倚柱で間を分け、柱頭はギリシャ、ペルシャ風格の様式で、柱間には仏龕は無い。塔身部分も同様に方形や多層、表面に列柱と龕を設ける工法が出現する。多層基座の変遷に直面して、人はこれを“重層基壇”と称した。本来、塔身主体であった覆鉢は、その比例が相対的に縮小して、段々退化し、四周的に傘蓋部と合併して、塔頂部分となった。中央アジア地区に現存するクシャン朝期の仏塔は、大体方形基壇の上に建てられる。タキシラ(今のパキスタン、ラワルピンディの西北)出土の方形多層陶塔は、ガンダーラ仏塔の典型的風格を体現する。文献記載の西域乾陀羅城(今のパキスタン、ペシャワールの西北)東南に塔廟があり、雀離浮図と言う。塔基は方形、周300余歩、層基は五層、高さ150尺、その上に十三層の木構造の塔身が建ち、上に又金盤13重、併せて地面より700尺。建造年代は、およそ紀元2世紀中頃、世に言う西域第一大塔。これにより知ることが出来るのは、方形重層の仏塔は当時西域一帯で流行の仏塔形式の一つである。
 同時に、西域地区では、まだ方形基座の上に円形平面の塔身が立つ工法が流行していた。基座の正面は、門洞を設け、四面に倚柱を配列し、方形の殿堂形式を表現する。今のアフガン東北部一帯と中国西域の新疆地区の古代遺跡中に、今に至るもこの種形式の仏塔を見ることが出来る。塔身表面も上下数層に作り、倚柱を切出すか仏龕を設置する(図2-7-7,8)。明らかにこの両種の方形基座や多重塔身は、主要な特徴とする西域仏塔形式と魏収が言う所の“天竺様式”の間には明らかな連係がある。
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 文献記載と考古発掘及び石窟中に出現する仏塔形象中から見出すことの出来るのは、漢地仏塔は構造工法と外観形式上種々異なると言っても、全体の発展の趨勢は重(単)層方塔を基本形式を採用している。この方面では西域仏教芸術の影響であり、それとは別に、漢地固有の建築構造体系及び伝統習俗と大きな関係がある。戦国期より、土木混淆の台榭式建築構造体系は已に中国北方で成熟に向かっていて、同時に構造に多層楼閣を建造する工法を採用している。この種の情況の下、西域仏塔中の方形重層様式を受容するのは、充分自然であり、似合っている。漢代の盛行した巫祝神仙の迷信は、”千人は楼居を好む”の言い方に照らして、都から地方まで多くの神仙を求めて建造した重楼式建築がある。当時は正しく”浮屠と黄老は同じく祀る”時代で、これにより、この種の習俗も漢地出現の方形木構造重楼式仏塔の一つの重要な原因と成った。

(2)漢地仏塔形式の変遷
①層数と体量の変化
 漢より南北朝に至り、漢地の仏塔の層数は増加し、体量を大きく加える趨勢は明らかである。
 前述の《牟子理惑論》に記す漢明帝の時、洛陽西門外に仏寺(即ち白馬寺)を建て、”人はその壁画に向けて車馬が盛んに行き交い、塔をめぐること3周“。当時(紀元1世紀前後)の西域仏塔の基本的な特徴を推測すると、下は3層の基壇の仏塔で有る筈で、各層の基壇外壁には全て壁画が描かれる。前述の《魏書・釈老志》記載の、白馬寺浮図建成後、漢地仏塔の規範となり、且つ仏教が初めて中国に入り、各方面の制約を受け、仏塔建造は大きな発展が出来ず、三国西晋時期の仏塔形式は、白馬寺浮図に近いものであった。《洛陽伽藍記》の城西宝光寺の条に記す、寺は西陽門の外御道の北(白馬寺は西陽門外3里、御道の南)、寺内に”3層浮図一つ、石で基台を作り、形制は甚だ古く、画を描き雕刻をする“、隠士趙逸が指す西晋石塔寺は、その言うことに“晋朝三(四)十二寺尽く皆焼亡し、唯一この寺のみ存す”。この3層石塔の形式は、勢い白馬寺浮図の影響を受けている。文献記載に依れば、漢魏西晋時期、漢地は尚3層以上の仏塔は出現せず、塔身の体量は構成の仏塔よりかなり小さい。
 東晋十六国時、仏教は迅速に流布し、社会は仏教建築活動の熱情と財力の投入も大きく増大し、仏塔の層数と体量は更に発展を開始した。釈道安が南下して襄陽に壇渓寺を造ったのは“5層の建塔”で、後趙期5層の仏塔(345年前後)の出現は可能であった。この後、前秦の長安と北魏の平城に相次いで5層の大塔が出現する。この時層数が増加しただけではなく、仏塔の体量もかなり前期より宏大となった。これとは別に、史料に記載する、東晋期4層の仏塔が出現し、例えば荊州の四層寺や永興崇化寺(347年建)は、皆塔は4層で立ち、また南朝初期、長安は六重寺が有り、この期に出現した一種の過渡期の現象で、その後みることはかなり少ない。
 南北朝期、7層塔が出現し始める。北魏平城の永寧寺塔(467年)及び劉宋建康の荘厳寺塔(454-465年)は、みな7層である。平城永寧寺塔は“高さ300尺、基台架構は広々とし、天下第一”、当時の仏塔の体量の極限であったことが知れる。宋明帝が湘宮寺を造り、荘厳寺塔を超える10宋を欲して、結果は出来ず、2座の5層塔に替えたことは、当時尚更に多くの層数と更に大きな体量の仏塔を建造する条件が備わっていなかった事を説明している。同時に仏塔の体量と層数の間には既定の比例関係があり、層数が多くなるほど体量も大きくなる事を表しており、設計に一定の制限が有ることを推測させる。
 南北朝後期(6世紀前半)、高い塔の建造は皇室や貴族、富豪の間で互いに豪華さを競う方法の一つで、仏塔の層数と体量を発展させたことは人を驚かすものがある。北魏洛陽の永寧寺の建てた9層仏塔(516年)は、基台が方14丈、塔高49丈で、平城永寧寺7層塔の規模(30余丈)を遥かに超える。南朝梁武帝の大通元年(527)、建康にも同泰寺の9層浮図を建造した。漢地仏塔の規模は、ここに至って頂点に達し、その後史料の中に、11、15乃至17層仏塔の記載はあるが、規模が縮小し、密檐仏塔を指して言うのみである。

②構造方式と建築形式の特徴
 各時期や各地区の社会歴史文化の背景の違いにより、仏塔の構造方式と建築形式も異なる特徴を表す。
 現在知られる最早の中国仏塔の形象史料は、四川省後漢の画像磚の3層木構造仏塔である。直線的方形の基座の上に、3層の塔身が立ち、各層は皆3間4柱の木構造外観を持ち、各層は塔檐と塔頂に傾斜屋根を作り、やや緩やかな漢地の凹曲面の屋根の特徴を持つ。頂上の中心には刹竿を立て、3重の露盤と塔刹端に宝珠が有る(図2-7-9)。漢末の笮融浮図祠も、重楼式木構造の仏塔である。前に述べた様に、漢地の木構造仏塔の出現は、漢代の仙人を迎える楼観と関係があるかも知れず、これにより、漢代に方士の巫祝が盛行した地区は、民間が塔を立て多くが木構造を採用したが、洛陽等外来の僧が集まる中心地区は、官側が寺を立て、往々にして僧が関与し、故に形式上西域仏塔と比較的近く、磚石構造が主となった。
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 東晋の立塔は、文献中常々見るのは、先ず刹柱を立て、後に一層を架し又加えて3層に至る記載で、説明は木構造を採用し、財力に応じて層を加え塔を架していった。北方十六国の後趙領域にも、外来僧建造の木塔が出現し、例えば仏図澄の建てた邺城白馬寺塔で、この時漢地の塔の形式が已に段々とその土地化の報告に変遷し、木構造塔形式も外来僧が受け入れはじめたことを表している。
 南北朝期になると、木構造仏塔の建造は、技術上已に成熟し、多層宏大に向かって発展していった。北魏の磚石仏塔中にも、模擬木構造の工法が出現する。例えば平城3層石塔は、“垂木や棟木、梁や柱は、上下に重ねて造り、大小とも皆石で、高さは10丈“で、この時の仏塔の一種最新の形式であった。雲崗石窟二期の諸窟中、普遍的に屋根面に瓦や檐、柱や梁の交叉する木構造仏塔の形象を彫り出す。仏塔の構造方式と外観形式の変遷を説明するのは、孝文帝時期に推進した漢化政策と関係がある。この期の仏塔形式は、雲崗各窟の中心柱及び浮彫仏塔(図2-7-10)に見ることが出来る。その中に見られるのは、仏塔の平面が多く方形に作られ塔の層数は1から9層で、その中でも3層と5層が多くを占める。多層の仏塔の塔身は一般に木構造外観を表現する。各層は皆、柱や頭貫・斗栱、垂木や飛燕垂木を架し、上は瓦を葺いた屋根で、大棟には鴟尾の形象が見える。仏塔の頂部は、伏鉢や露盤、宝珠等の外来の造型が有って、仏塔を特定する標識を作る。但し、この部分は、全体の中で占める割合はかなり小さく、このため仏塔の外観形式は、かなり多くを漢代の建築風格を表している。文献記載の中の北魏洛陽の永寧寺塔はこの種の仏塔の傑出した例証である。遺跡発掘に基づくと、塔身の構造は、方格の柱網と中心土台の結合された構造方式で、外観は”繍柱金鋪“の木構造様式である。
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 南朝木塔の実例は存在せず、又証拠となるような形象資料が無い。文献記載に基づき、並びに日本の飛鳥時代の仏塔実例から推測すると、南朝木塔は、北朝の土木結合方式と異なる、純木構造方式を採用していて、塔身外観は、北朝木塔よりかなり軽快で繊細秀麗であった。
 木構造仏塔を除いて、磚石仏塔の建造は、北魏期に大きく発展し、密檐磚塔が出現する。河南省登封市の嵩岳寺塔は僅かに残る一例である。北朝後期の石窟中、かなり多く単層伏鉢式小塔の形象が出現し、平面は多くが方形で、塔身は磚石構造、上部は持送りで軒を迫り出し(或は、横木を並べ、交錯させて重ねる方式で軒部を迫り出す)、軒口の四周上に山花蕉葉を立て、中央は伏鉢で、中央に刹竿を立てる(図2-7-11)。この種の小塔と上述の密檐塔は皆、外来建築の風格を濃厚に持ち、北朝社会の外来建築及び装飾芸術を偏愛する気風を反映している。これとは別に北斉響堂山石窟の窟檐造型中に、一種の単層方形塔殿の形式を表し、殿身は面幅3(5)間、外周は木構造瓦屋根の檐廊、頂部外観形式と単層仏塔が相似で、伏鉢は大きく緩やかである。この種の塔と殿の特徴を融合した建築形式は、北斉期に伝統形式の継承と外来様式の吸収両面の新しい発展を表している。
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 漢魏南北朝期の仏塔は、層数の多少や体量の大きさに関わらず、一般に塔に登る条件を具備していない。只仏塔底層の仏像を礼拝するだけで、上層の塔身は実際には効用を持たない。日本に現存する飛鳥時代以降の木構造仏塔も皆この種の情況である。只北魏神亀二年(519)、洛陽永寧寺9層木塔が成って、仏像が未だ入らず、“霊太后が永寧寺に御幸し、自ら九層浮図に登る”は、この塔が登ることが出来る事を説明している。侍中の崔光曾はこの事に上表して、仏塔の底層に像を安置するもので、その上に登ることは仏に対して、恭しくないと諫言した。この種の禁忌は、北朝以後、段々と破られ、隋唐期は、登塔は已に常と成った。

(3)新疆地区の早期仏塔形式
 古く西域と言った新疆地区は、中央アジア西部地区と漢地の交通が必ず経由する地である。この一地区の早期仏塔形式は、漢地に直接の影響を与えた。
 新疆仏塔の構造方式は、日干しレンガを積むか版築が主であったが、仏塔の外観は多くの形式があった。
 一つは、伏鉢塔。その中は大小2種に分けられる。大塔平面は下方上円形である。下部が方形の高台で、台は内実か中空で殿堂とし、台上は円形平面の塔身が立ち、塔頂は伏鉢状に収め、塔頂の中央に刹竿相輪等が立つ。この類の仏塔は通常仏寺の中心的主体建築で、例えばクチャ(亀茲国)スバシ古城の仏寺遺跡が示す所である(図2-7-7)。塔身の溝孔跡が表すのは、当初上下に層が分かれるか表面に飾りを貼り付ける等の工法である。史料に記載の所謂“覆鉢浮図”は、即ちこの種の類型の仏塔を指している筈である。単層方(円)形覆鉢頂小塔の形象は、拝城県克孜尔石窟壁画に多く見られる。塔身は通常1間で下に基座が有り、上には檐の軒口が方(円)形の小室が有り、室内は仏像或は舎利容器を安置する。塔頂は覆鉢形で、中央に刹竿相輪を立て(図2-7-12)、クチャ地区流行の供養塔形式と推測され、年代は約4世紀。《法苑珠林・敬塔編・感応縁》に記す西晋期の会稽貿県(今の浙江省寧波市)出土の小塔は、“高さ1尺4寸、方7寸、5層の露盤で、西域于阗で造る”。当時この種の単層方形小塔が、西域于阗の仏塔の典型的形式と認識されていたことが知れる。単層小塔は北朝後期に頗る流行し、西域のクチャや于阗等の仏塔形式と関係が有り、尚もう一歩の考証を待っている。
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 二つめは、集合式塔である。後世の所謂”金剛宝座塔”は、或はこの発展したものである。新疆トルファン交河故城遺跡の北部に膨大な塔群があり、中心は1座の日干し煉瓦と版築の集合式仏塔である。方形基座の上に、大4小5座の仏塔が真っ直ぐに立ち、大塔は中央に小塔は四隅に、塔身表面は並んだ溝孔が残る(図2-7-13)。年代はおよそ4,5世紀が変わる頃で、東晋十六国晩期である。敦煌莫高窟第428窟も、集合式仏塔群を描き、東晋は方形平面を作り、3層、表面に木構造の柱と横木や斗栱及び連続する壁の形象を描き、交河故城の仏塔と対比され、已にかなり多くの漢地建築形式の成分を具有する(図2-7-14)。
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 三つめは、方形重層塔である。スタインの《西域考古記》中に新疆トルファン東部のSIRKIP大塔を記す。塔身の残存は6層で、元は7層から9層であろう。方形平面で、どの層も面幅は7間、どの間にも仏龕一つがあり、底層は間柱と柱頭斗栱の痕跡が残る。塔身の各層はかなり下層より下がっていて、全体に収分を形成する。上下層の間は水平な残孔があり、木構造の檐を出すため設けられたと思われる。この塔の年代は不明、外形と雲崗第39窟中心柱は頗る似ていて、仏龕上部の龕の横木の様式と北朝晩期に流行の尖券(持送りアーチ)と良く似ている(図2-7-15)。新疆地区の仏塔形式は西方の影響を受けると同時に、漢地の仏塔形式の影響を受けた可能性もある。
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   (続く)

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# by songofta | 2017-07-18 19:47 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

237 南北朝の仏教建築 2 仏寺形態の発展と変遷2

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第二章 両晋南北朝建築
第7節 仏教建築



(4)「舎宅為寺」(舎宅を寺とする)
 宗教の伝播と発展は、ある時にはそれと当地の伝統的思想文化との相互交流の程度により決まる。東晋時期、仏教は広範に流布し、仏教建築活動が興盛で、戦乱が頻繁で、人民の苦難と解脱を渇求する社会条件を除き、かなり大きな程度、仏教の提唱する信仰方式と中国伝統的観念や習俗との迅速で緊密な結合によるのである。天子や祖先、家族の追福の目的から、宅第や舎宅を仏寺とするのは、東晋の士大夫階層の特定条件下で採用された一種の仏教信仰の方法である。
 前述の釈道安が秦に入って、僧尼の規範を制定し、“天下の寺舎は、規則を逐ってこれに従う”。当時仏教の僧人の生活方式を知ることが出来、漸う漸う早期の“不貴専守(貴族化せず、寺を専守する)”、“住無再宿(住まいを定めず遊行する)”から転じて、集団で定住し、統一的な戒律を実行することが必要にもなった。同時に安定して経済的に保証された生活環境は僧人が目標を追求する様に成り始めた。多くの仏寺は、実際上、僧人が住まいを乞うことと信者の舎宅を結合した産物なのである。

 舎宅を寺とすることは、宅内の元々ある建築物を前提とする。通常、正庁は仏殿或は講堂とし、その他の坊舎や厨房倉庫の類は皆そのように用い、対が宇野は仏塔だけである。宅内に仏塔を建てるのは、位置と体量に必ず限定があり、このため、いつでも立塔が可能な訳ではない。東晋の穆帝の時、許詢は永興、山影の2宅を寺とし、その中の1個所だけに4層の仏塔を建てた。この種の基本的に邸宅の総体配置を保持した仏寺に、中国仏寺形態の発展により産み出された影響を見つけることは、明確であり容易である。東晋から南北朝まで、大部分の城市の仏寺は皆、この理由で居住建築の形態を見せている:主体建築物は中軸線に沿って前後に配列し、数重の院落を形成する。両側に分かれて次に重要な附属建築物が列ぶ。北魏末年(529-531年)、尚書令爾朱隆が兄の爾朱栄の追福のために、宦官の劉騰宅を建中寺とした。“寺内は、廊や両側建物が充溢している。堂は宣光殿と競い、門は乾明門に匹敵し、・・・・・以前の正庁は仏殿に、後殿は講室とした”は、典型的な例証である。
 邸宅を除いて、又官庁衙署を改造して仏寺の情形とするものもあった。北魏太和四年(480年)孝文帝は“詔して鷹師曹を報徳寺とする”、梁武帝の大通元年(527年)宮後を自己の造る同泰寺とし、即ち大理寺署を改築して出来た“。

(5)仏殿の造立と形式

 仏殿は大型仏像を安置する場所なので、仏殿の出現は先ず先に仏像の鋳造と関係がある。
 仏教がインド南方に流伝した時、仏の形象は未だ出現せず、信徒は一般に、塔や法輪、菩提樹、仏足等を礼拝の対称とした。これは一面では仏の尊重から来て、同時に偶像崇拝を提唱しない意思である。1世紀に西北印度のクシャン王朝期、ギリシャ芸術の影響で世にいう“ガンダーラ芸術”が出現し、今に至る多くの石質の仏菩薩像が流伝し、仏伝故事の場景の各種石部材が彫刻された。
 仏教が始めて中国に入る頃は、正に仏像が流行し始めると言う時である。西域の僧人が中国に来た時、小型の仏像或は画像を身に付けていたのかも知れない。史料記載に拠れば、漢末期の人は浴仏を已に知っていて、銅鋳金鍍金の仏像が出現している。東晋十六国期、漢地では造像が広範に流行していた。現存の紀年が明確な銅造像で最早期は、後趙建武四年(338年)坐像で、像高40cm(現蔵サンフランシスコ・Asian Art Museum)。《法苑珠林》に記す劉宋時期の人が見つけた後趙の仏像は、高さ2尺2寸(換算して50cm)で、銘に曰く:“建武六年(340年)、歳は庚子、官寺の道人法新僧行の造る所”。この類の小型仏像は、通常台案の上に供奉し、大きな空間は必要としない。但し、仏像の寸法が大きく、且つ数量が多ければ、これの配置に適した空間条件を具備すべきである。東晋の釈道安が壇渓寺を建てた時(365-375年)、涼州刺史は銅万斤を送り、以って丈六の仏像(高さ約4m)を鋳造し、この後、前秦の苻堅は又使いを遣って各式の仏像を送り、“講義毎に集う法衆は、いつも並んだ尊像に、・・・・階を登って門を入る者は、厳粛でないものはなく尽く敬わないものは無い”。又、東晋興寧年間(363-365年)、沙門竺道邻は無量寿像を造り、高僧竺法曠はこれの為に大殿を建てた。これで知れることは、当時漢地は依然として大型仏像の鋳造を開始せず、大量の仏像は西域や涼州から来たものであった。正にこの種の情勢の下で、仏寺中に専門に仏像を安置するために建造した仏殿が出現する。

 南北朝期、国家の財力で大規模な鋳造と広い仏殿を建てる活動が頻りに続き、社会各層も皆、持つものをその中に投入した。仏教経典の宣伝は重要な原因の一つである。後秦弘始八年(406年)の後、亀慈国の高僧鳩摩羅什が長安で《法華経》の重訳を始めて社会に広範に流伝し、経典中で仏身は常住不滅、变化無尽を宣揚した。人々は只仏の為に、建寺造塔、造像し、画を描き、各種供養をして、成仏を望んだ。これにより、多くの仏菩薩像の供養は、社会で最流行の仏教信仰方式となり、仏殿の数量や規模もそれに従って迅速に増加した。文献記載に拠れば、南北朝初期には、已に専門に七仏を供奉するために建てられる仏殿の工法が存在した。北魏雲崗石窟の彫刻中にある並列七仏は、上を寄棟造の形象で覆われ(図2-7-4)、北周麦積山石窟第4窟は、更に全体として表現した1棟の桁行7間、間毎に1仏を設けた寄棟大殿である。それとは別に、諸仏から千万億仏並びに観音、普賢等多くの菩薩を供養することを提唱したので、寺院中の殿堂の数量は絶えず増加した。一寺の内、往々にして正殿を除いて、前後に数重の殿堂と両側の配殿があった。皇家の大寺中は殿が`特に多かった。梁武帝の大通元年(527年)同泰寺を建て、内に大殿6個所、小殿10余個所、中大通四年(532年)に至り、又瑞像殿を造り、“帝は同泰寺の御幸し、講会を開き、諸殿を礼拝して廻り、黄昏になって始めて瑞像殿に至った”。
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                  参考   図2-7-4のカラー写真

 仏殿の建造と形式は、仏像の帝王化と関係がある。北魏の僧法果は天子を尊んで今の如来を造り、文成帝の仏法復興の後、祈福のために造った仏像と帝王の形象は一致してくる。興安元年(452年)、“担当の官に詔があり、石像を帝身の如くにさせる”、興光元年(454年)、“担当の官に勅して、5級の大寺内に、太祖から5帝の為に、釈迦立像5を鋳造させ、各高さ1丈6尺”。雲崗の曇曜5窟中の5座の大像も、5帝の祈福の為に造り、外貌は皆、鮮卑族の特徴を持つ。孝文帝の改制後、仏像の着る装束も帝王服飾の漢化に従って改変するのは、正にこの種の工法の証明の一つである。仏像は已に帝王の如くで、帝王の宮殿形式に倣って、仏殿を建造するのは自然の流れである。仏殿の概観だけでなく、殿内の陳列・設備までも帝王宮殿と同じとなる。北魏煕平元年(516年)に建てられた洛陽永寧寺大殿内は、早くも“形は太極殿(洛陽宮の正殿)の如くである”。皇家の大寺だけでなく、地方の仏寺の主要な仏殿も宮殿形式を許された。帝王の形象に依って仏像は鋳造され、宮殿の規則の下に仏殿が建築されて仏寺が整備されるのは、南北朝時期で、特に北魏中後期の造像立寺が突出点の一つとなる。

 宮殿規模と殿内の仏像設置方式は直接の関係が有る。南北朝時期の仏殿の実例は存在しない。故に只文献記載と石窟内部の空間形式を根拠に少し探索しよう。
南北朝期に流行した仏像設置方式は3種である:一つは七仏で、通常は7座の仏像が並列される;2つ目は、三仏で、早期形式は雲崗の曇曜5窟に見ることが出来、主仏は中央に居り、別の2仏は脇に相対する;3つ目は、主仏の両側に菩薩や弟子諸像が揃った造像が立つ。早期の仏像は、多くが単像で、後に成る程脇侍が多く成る。此れにより、七仏や三仏の設置は、後になると7組や3組揃いに列べて置くようになる。北魏雲崗第5窟に見る七仏は7身が並列した立像で、北周麦積山石窟第4窟に見るものは、已に7帳並列で、帳は各1揃えの形式である。史料記載に拠れば、殿内の像の置き方は、又、中央に主像があり、四周に天王諸像が取り囲み、或は菩薩主像の両側に並列して位置する形式もある。仏殿を建造する時、まず先にぞうの設置を考えて平面方式を確定する。若し、七仏殿ならば、長方形平面に作る。三仏或は単仏に1揃い付く形式は、平面が正方形に近くなり、前述の梁武帝の同泰寺の瑞像殿は、殿内に“七宝の帳座を設け、以って瑞像を安置し、又金銅の菩薩2躯を造り”、一仏二菩薩を設置し、これにより“3間両覆”を選択し、即ち方形平面で、入母屋造の屋根形式とした。北朝各地の石窟中の3壁3龕式の方形窟及び雲崗第9、10、12窟と麦積山大28、30、43、49の諸窟が示すのは、大体がこの類である。并びに多くの外観上の表現が桁行3間の仏殿は、屋根を寄棟造か入母屋造に作り、又中には覆鉢で、四周が木構造の軒を出す様式がある(例えば、南響堂山大7窟)。窟内の正面側面3壁は3座の仏張龕を彫り、3揃の仏像を置く;或は正壁の前に主像を置き、窟頂は彫った天蓋形状とし、地面も装飾文様を彫って、殿内像に相応の方式で表現したものと像頂に掛かる天蓋、地面に敷設したフェルト或は花模様の磚の工法を採った。已に知られる様に雲崗の仏殿中、内部の頂上は多く天井が表現され、北魏平城の仏殿の頂棚形式の反映とすべきものである。史料記載とは別に、南朝仏殿中、彻上明造の工法がある。北魏が洛陽遷都後、開削した龍門石窟中、頂部に天井を彫らず、改めて天蓋を彫ったのは、或は当時の仏殿形式のかなり多くが、南朝の影響を受け入れた現象を反映したのかもしれない。

(6)仏寺の配置
 南北朝期、各地に盛行した建塔造像は、それを以って追福とするやり方である。仏寺中の塔や殿の数量と規模は、東晋十六国時期に比べて大きく発展し、南北の仏寺の配置も皆、これに従って変化した。文献中の一連の大型仏寺の描写から見ると、南北の仏寺の配置風格は略異なる。だいたい北朝の建寺は伝統に則り、正統性の観念がかなり強く、平面はかなり整然とし、塔や殿の占める者が多い;南朝の仏寺は東晋の山林仏寺の特徴に則り、土地の状態に合わせて配置は自由である。この種の差異は、両地の自然環境が異なる事に関係がある。南朝の都建康の地勢は、元々山水の間にあり、たとえ都下の仏寺であっても、往々にして山に依り水に臨んで建てた;北魏の都洛陽の情形は異なり、城郭の内は、御道が縱橫に走り、坊里は整然と決められ、仏寺は多く街に臨み或は坊の形に依り範囲が設けられた。それとは別に、南朝の大寺中には、東晋期の旧寺の基礎の上に拡張建設してできたものが多くあり、総体の配置が又歴史条件に制限された。以下に文献記載と発掘史料の基づき、南北を分けて仏寺配置の特徴を、少し述べる。

①北魏の仏寺配置の特徴
 北魏が平城に都した期間、文成帝の仏法復興(注;太武帝の廃仏からの復帰)から孝文帝が洛陽遷都までの30余年(約460-495年)は、平城の建寺が真っ盛りであった。諸記載の平城仏寺を見ると、多くは国家或は皇家の成員が建てたものである。その中の5級大寺、永寧寺、方山思遠仏図、北苑鹿野仏図、皇舅寺及び3級寺の石仏図等は皆、仏塔が中心主体の仏寺で、仏寺の命名も魏晋時期の立塔を寺とする観念の残余を帯びている。
 孝文帝の洛陽遷都の後30年(約495-525年)中は、洛陽の建寺はピークに達する。仏寺配置はおおよそ、仏塔が中央を保持し、併せて体量が寺院の主体の造りと成る。特に皇室の建てた永寧寺、瑶光寺、秦太上公二寺及び嵩山閑居寺(後の嵩岳寺)等は、均しくこの種の配置方式を採用した。
 永寧寺は《洛陽伽藍記》一書中にあって諸寺の首とされ、北魏洛陽で最顕要な仏寺であった。洛陽伽藍記の描写から、永寧寺の配置には2つの突出した特徴がある。一つは仏塔が中央に位置し、且つ体量が巨大であり、寺内の主体建築物と言うだけでなく、同時に洛陽仏寺の顕著な標識でもあり、“都を去る100里、まだ遥かにこれを見る”と言われた;2つには、仏寺の配置と宮殿が類似し、建築形式もまた近い。仏寺の南門の形は皇宮正門と同じで、仏殿の形は前朝の正殿と同じ、壁で囲む工法及び、四門の方位と等級が分けて設置されるのは、宮中と全く同じである。1963年、中国社会科学院考古研究所が永寧寺遺跡を初期調査した時、寺院平面は長方形で、南北約305m、等材約215m、周長1060mであった。東、西、北の3面の塀基礎と門跡はほぼあった。塔基礎は寺院中部に位置し、南門に正対、下層は約100m見当の方形の版築基座であった。塔基の北面に1座のかなり大きな版築の残基があり、仏殿の遺址と思われた(図2-7-5)。遺址の平面と《洛陽伽藍記》中の記載は基本的に符合した。
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 永寧寺のこの種の寺門の内は、即ち仏塔配置方式で、一般の仏寺にも見られる。例えば洛陽城西の王典御寺は、“門内は、3層の浮図一所があり”、北魏時期の比較的良く見られる仏寺配置の形式であった。 洛陽景明寺は、宣武帝の景明年間(500-503年)、建寺の初め未だ建塔されず、正光年中に、“胡太后始めて7層の浮図1所を造る、地を去ること100仭”で、体量は永寧寺塔に僅かに及ばなかった。この寺は総体配置での仏塔の位置ははっきり言えないが、永寧寺から推測して、寺門と仏殿の間華も知れない。

 北魏後期、舎宅を寺にするやり方が段々盛行すると、洛陽城内の仏寺の大半は舎宅から成り、その中の多くは、立寺の初めに建塔されず、後に追福の名目で増建される、例えば平等寺、沖覚寺等である。建義元年(528年)の河陰の変(注※)後、北魏皇室成員の死傷の大半は、城西の寿丘里内の王侯の邸宅は、多くが寺となり、“刹を列べて望み、祇園精舎のごとく繁茂し、宝塔は高く聳える”。これ等の仏寺中の仏塔は、間違いなく後で建てたものである。一般的に言って、手宅を建寺年経中に体量の大きな仏塔を設置するのはかなり困難で、このため跡から建てる仏塔は、体量が減少し、或は位置が中央にならない。同時に、これ等の仏寺は、例えば前述の爾朱世隆が劉騰宅に建てた建中寺は、寺内の建塔の記載を見ない。これは北魏の仏寺配置が、後期になって、新しい変化が出現させ、かつての仏塔を中心主体とする配置観念を突破したことを示している。
 北魏洛陽の仏寺の用地は、往々にして坊を単位とするので、総体平面はかなり方形に整っている。洛陽の坊里は方300歩、換算すると今の410m見当である。前述の永寧寺遺跡の平面は、幅215、長さ305mで、広さは、半坊を占める。延年里の景明寺は、“その等材南北方500歩”、換算すると今の680m見当である。北魏洛陽城平面に拠れば、宣陽門と平唱門の間の全部を占める。

  (注※)河陰の変;専横を振るい、孝明帝も毒殺した胡太后に対し、太原の爾朱栄が孝明帝の報仇を      名分として反乱し、胡太后を河陰で黄河に沈め、漢化した鮮卑王侯貴族2000余を殺した。北魏南方の王族は南朝に亡命相次ぎ、爾朱栄も殺され、国力が衰退に向かう一歩と成った。

②南朝仏寺の配置の特徴

 仏寺内は中院を除き、又数多くの“別院”を設け、これが南朝大型仏寺の一つの突出した特徴である。主体建築(塔、殿)を備える院落は、“中院”と称し、往々にして最初に建立した部分である。その他の院落は即ち“別院”と称し、職能院、僧房院及び陸続と拡建した仏殿院や仏塔院等を包括する。梁武帝が建てた建康の大愛敬寺は、内に別院36個所が有り、“皆池台を設け、周囲をぐるりと取り囲む”、《法苑珠林》が記す荊州河東寺は、“別院の大きさは、今10個所有り、般舟と方等の2院は、荘厳最勝で、夏にはいつも別に千人がいる”、記すのは初唐期の僧の夏安居の盛況とは言え、別院の規模は、南朝期にも具備していた。

 寺内の建築物配置は自由で、南朝仏寺のもう一つの特徴である。東晋の偉業を承け、南朝の立寺は亦多くが山川景勝を選んだ。仏寺の配置は、地形条件の制限され、中軸線に塔と殿を中央配列とする方式は適用されず、当然その中も社会の気風と審美価値観念の影響を排除しなかった。浙江西部一帯は山寺が集中する地で、往々にして“高く続く山なみに刹を建て”、“曲がった谷を跨いで、室とした”。梁武帝の大愛敬寺の“創塔はイエアを抱く奇”は、中院が大門を去ること、延々7里であった“。山寺に建塔するのを知れば、崖に依る構造の例はかなりの数があり、その他の建物も皆、地面の条件で建て、仏寺の形態はすこぶる多くが変化に富んで様々である。斉の明帝時(495-498年)、鄂州の頭陀寺を続建し、“層の軒は延々連なり、上は雲虹より高く、・・・・飛閣はくねくねと伸び、下に天地を望む”は、南朝山寺の典型的風貌である。
 注意に値するのは、南朝の仏寺中、多くが前代の旧寺を拡張建築して出来たのである。例えば、東呉の建初寺や、東晋建康の彭城、瓦官、道場、中興の諸寺及び荊州の上明、河東寺は、歴代の建築を経て、堂殿と僧坊別院を増造し、南朝後期には、均しく著名な大寺と成った。その総体配置は変化発展し、実に南朝から漢地仏寺形態の変遷発展の趨勢を代表している。今後の考古努力と結合して研究を加えれば、たいそう有意義なことであろう。

(7)仏塔の仏寺配置での地位
 南北朝中期に始まり、仏塔は仏寺配置の中心主体の地位が漸く改変してくる。その原因は前述の仏殿の造立と舎宅を寺として仏塔建にいっていの限界性を産んだことを除いて、人間の観念上のある種の変化も、仏寺配置中の塔と殿の相互関係及び地位の変化の一つの重要な原因をもたらした。
 早期仏寺の主体である仏塔は実際上、一種の外来の仏殿形式である。前述したように、紀元前後に形成して流行した西北印度のガンダーラ芸術中、仏像は已に人間の礼拝対称に成っていて、その時から東に伝播した仏教信仰方式も、二度と単純な舎利等の物象崇拝ではなくなっていった。それで、仏塔は外観形式及び内部空間上、仏像との関係を発生させ始める。東晋時期に訳出された《観仏三昧経》の中に、多くの所で“人塔観像”を提唱し、仏像を塔内に安置し礼拝することを説く。東晋の葛洪(284-364年)の《字苑》釈塔に言う;“塔は、仏堂である”(玄応《一切経音義》巻六)は、即ち、功能という角度から仏塔を説明するのは、この意義から講じたもので、早期の仏寺が仏塔を主体であったが、実際は仏殿が主体であり、伝統形式の仏殿の出現は、最初は只仏塔の功能に対する一種の拡充に過ぎず(塔内の空間が像を置く需要を満足出来ない)、或は代替として(寺内に未だ塔が立っていない)であった。仏塔は総体配置中の位置は、このため改変するが、その地位は往々にして依然として仏殿の上であり、塔内に置く像の功能も、これによっては取って代わることは無かった。北魏洛陽の永寧寺のように南朝宋明帝の湘宮寺は、たとえ配置が門、塔、殿3者が前後重ねて置かれたと言っても、まだ建築技術の制約を受けて2塔に分立し、事実上未だ仏塔が総体配置の首要な地位に影響が無かった。但、寺院規模が拡大し、寺内建築物が増加し、早期のようには、“浮図”を以って仏寺の代称にはならかった。

 そして、東晋期に始まり、建造する仏塔も舎宅からの立寺と同じように、三宝を敬う信徒が副業で建設する方式で成った。南北朝期、造塔祈福の気風は益々盛んになる。北魏孝文帝は即位後、文明太后と“二聖”と並び称され、社会はこれにより“二聖”祈福として造立する双塔の工法が出現する。宕昌公王遇は、陜西省本郷の旧宅に暉福寺を建て、“上は二聖の為に3級の塔を各1区建てた”。造塔の意義は、まるで造像をするように本身を“1区”に限り、二度と立寺とは看做させなかった。南方は即、舎利を求めての立塔が盛行し、これにより一寺の中でも数座の仏塔を建造し、例えば長乾寺のように、前後して舎利塔5座を起こし、その内、梁武帝が2座を建造した。この様に思いのままに建塔したので、反って仏塔は中心主体の地位を失っていった。これと同時に、殿内に像を置く工法と伝統的帝王や聖賢の礼拝の方式を結合し、已に人々の為に常用され、伝統的宮殿の規画配置方式は、段々と自然に仏寺建築群に用いられる様になり、仏塔の位置は逐次中心から脇の方へ移っていった。だが、目下知る所では、尚未だに確実な例証ではないが、北朝の仏寺中に仏殿の宏大な中に、仏塔が殿の前の両側の情形に分けて置かれるものが、すでに出現している。事実上、仏塔は仏寺中のその中心主体の地位の変化の過程は、ゆっくりとしたものであった。隋唐以後、仏殿が中心主体となり、仏塔は両側に分けて置かれ、別院の配置形式はやっと定型となった。この一変化の原因を造ったのは、早くも南北長時期に已に出現していたと言うべきである。


  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

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236 南北朝の仏教建築 1 仏寺形態の発展と変遷1

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第二章 両晋南北朝建築

※飛鳥から貞観頃までの古建築を語る場合、中国古建築を抜きにしては語れないし、《営造法式》を踏まえずには、北魏・六朝から隋唐の古建築を理解することは出来ない。それが上梓されたのは北宋時代とは言え、内容は現場の工匠逹の数世紀に渡る伝統的な経験則を基に記述されたものだからである。
 日本で言えば、現代建築学の権威ある大学教授より、千年の経験を受け継いだ西岡棟梁の言のほうが、桧の木構造大建築については、遥かに信頼出来るのと同じことである。中国の論調やブログも皆、営造法式をベースに議論が進む。特に90年台以降、文革の破壊からの修復と、相次ぐ考古学的発見から、古代建築の研究が大きく進展している様に見える。残念ながら、我が国では、こうした東アジア全体の大きな流れとは無頓着に、未だに高麗尺がどうとか、枝割で解析すると云々と言った論調を見かけると悲しくなる。
 営造法式の部分は先に紹介したので、そちらを先に見られたい。
 ここから、北魏、南梁(簫梁)から隋唐の仏教建築と進んでいく。

第7節 仏教建築

漢地仏教建築の始まりは後漢にあり、三国から南北朝が、その発展開始と昌盛の時期である。これは歴史的条件の転変と仏教の次第の拡大につれて、中国社会が受け入れていった過程と一致する。
 後漢時期、思想領域は儒家の経学と讖緯の説(注;一種の未来予言の説)の天下で、初め人々が知る仏教は一種の外来宗教で、頗る発展が難しく、漢代末年から始まる、中国社会の長期の分裂と戦乱の激動する局面の中にあった。漢族政権は内部の権力争奪の軋轢で、北方少数民族が漢地に政権を建て、漢王朝が400年の統治で形成した相対的に安定した統治機構と思想体系及び異民族と漢族を分けた壁は、重大な打撃と破壊を受けた。社会の劇烈な激動は統治階級の中に、栄枯無常、精神困惑により、心身の離脱と解脱を求めさせた;新興の地方政権の統治者逹は先を争って強固な政権の手段を求め;広大な民衆は深重な苦難に陥り、脱出を渇望する境地にあった。この局面は、仏教が中国の広範な伝播をする新たな条件であった。仏教僧は讖言異術と思想同化の方法で、中国の上層社会に進入し、段々と各国統治者の信仰と漢族士太夫層の一体感を得て、確固とした社会的地位を獲得し、仏教は広汎な流布を開始する。

 後漢時期、少量の外来僧の建造した寺舎があっただけだが、この時最も多いのは黄帝や老子と同祀するか、墓室の石刻と器物装飾の中に、仏像と神話伝説の人物及び吉祥物を一緒に混雑させる現象が出現する。三国や西晋時期、官立の寺の数が段々と多くなるが、仏教発展に対して依然制限があった。東晋十六国時期からは、国家政権が仏教を支援する下で、仏教経典が大量に翻訳され、僧尼の人数が増大し、官の政策が経済援助を許す条件の下、仏寺は官立、民立、僧人立等多種方式で建立され始め、規模が段々と拡大し、機能が完全に成っていった。南北朝時期になると、呪願目的の仏教建築活動が主要な社会活動の一つとなる。大量の財富と人力が、世俗宗教の熱情に連れ持って、建塔や立寺、開窟、造像に投入される。この時、仏寺の建立は、単純な仏教発展の必要の為だけでなく、帝王や貴族の仏に呪願し豪華さを競う特殊な方法に成っていく。都の中に大型の仏寺を建造するのは、往々にして皇室構成員が関係し、地方の仏寺でも官府の間で類似の関係があった。

仏寺の建立と、外来の僧の活動地域や行動は、方式と当地統治者の仏教に対する態度に直接関係し;仏寺携帯の変化は、主要に仏寺建立の方式及び仏寺の功能の発展で決められ、後者と仏教発展の各段階に対応し、訳経と経講義活動の発展の如きは、僧人の生活規範の確立と礼拝方式の改変等、全て仏寺配置と建築形式の変遷発展に決定的作用をもたらした。外来の仏教僧人による伝道時、常に帝王や士太夫、庶民に対して心理上の迎合する方式を採る;その他、東晋期に始まり、いよいよ漢族の高僧が増えて伝道の主力に成ってきて、これにより仏寺の配置及び単体建築の形式は、外来の仏教芸術の影響以外に、同時に中国建築の式様や、工法及び伝統価値概念の制約の影響を受ける。事実上、たとえ仏教伝播がどの地方でも、仏寺建築形式の中国化は、皆仏経の転訳と同じで避けることが出来ない。
 従って建築総体について言えば、仏教建築は主要に仏寺を指し、その中には石窟寺を含む(石窟寺の実例はかなり多く、文中仏寺と石窟寺を分け、両部分を論述し、この狭義の仏寺は地面に建てられた仏寺を指す)。それとは別に宮室や邸宅或は独立の林野の仏教精舎、及び早期の建立された里坊中の僧坊等は、仏教発展過程中に出現した特定現象で、個人の仏教建築の範疇に帰すべきである。それらの専用の名詞は、浮図(仏図、浮屠)、精舎等で、文中ではそれと仏教建築に関連する意義を持つ。
 この時期の仏教建築の遺物は極めて少なく、只北朝の1座の磚塔と数座の小石塔が保存されているのみで、大量の建築形象と寺院配置の資料は石窟中に保存され、本章の実例はかなり多くを石窟寺から採取されざるを得ないのである。

一、仏寺
1.仏寺の出現と流布

(南北朝の仏寺の概観が述べられているが、別の項目などと重なるので、省略する)

2.両晋南北朝期の仏寺形態の発展と変遷
 仏寺の形態は此処に指摘する2つの面がある;一つは寺院組成の建築成分である。その発展は、寺内の建築類型の増加で表される。:もう一つは寺院の総体配置である。その変化は主要に仏塔と仏殿等の主要建築物の相互関係の改変に体現される。この時期の仏寺の実物は無く、遺跡は只発掘を経る以外なく、このため、主要には文献資料に依拠して研究するしかない。
 中国の仏寺形態の変遷発展は、南北朝中期を境に、前後2つの段階に分かれる。前の段階は、仏教が中国に伝入後、段々と社会が受け容れる発展過程で、仏寺形態は主要に寺院の功能の絶えざる拡充と完善を反映している;後の段階は南北朝後期から隋唐までで、仏教が中国社会にもう一歩深く入り込み、中国仏教体系を形成する過程で、仏寺形態は伝統建築の配置の手法で表現され、これに付加して外来の仏寺建築の種々の言い方と関係があり、段々と城市や宮殿、邸宅等が持つものと同じ規画原則で中国寺院の総体的配置形式を形成していく。
 たとえ、仏寺形態がまだ単体建築形式の変遷発展だとしても、総て固有文化の基礎に、外来仏教文化を絶えず吸収して改造する過程なのである。固有文化の差異により、この種の吸収と改造の程度や方式の異なる地区や民族中にも異なるものがある。中国の領土は広大で、全趨勢からみて、仏寺形態は漢化の方向で発展したと言っても、各地区の情形は尽く異なる。理想的で統一的な仏寺形態などは存在しない。そして、どのような仏寺配置或は建築形式の流行と衰亡であっても、全て相当長期間を経て、同時に往々にしてその他の形式と交錯して併存したのである。

(1)「立塔為寺」(塔を立て寺とする)
 仏経典に記す、釈迦牟尼の滅後火葬し、弟子が舎利を取って、これに塔を建て、世の人は敬仰したとある。又八国の王が兵を起こし舎利を争って取り、各自が塔を建てて供養したとの記載がある。従って仏塔は仏教信徒の最初に礼拝した対称の一つである。仏塔の建立は、仏教が有る地区に進入した顕著な標示となり、その為至る所に皆仏塔を建て、伝道する僧の奮闘する目標となった。
 漢魏西晋の頃、たとえ官が外来僧の為に寺を立てたとしても、更に民間も仏の為に祠廟を立て、全て仏塔が主体であって、この当時は、“浮屠”や“浮図”、“仏図”と称していた。それ故、かなりの長期間、漢地では“浮図”と“寺”が存在し、呼称を混同する現象があった。この時の仏塔の客観的な作用は、主要には新奇の外来建築形象が社会の各階層の注意を引き、伝道を拡大する目的を達した。仏塔の外囲は、或は一群の附属建築があり、例えば閣道、寺舎等である(図2-7-2)。この当時、漢人の出家は禁止され、立寺は主要には外来僧の礼拝観仏や、儀式や研習の挙行、経典の翻訳の需要を満足する為で、多数の外来僧は“常に無官の貴族化し、(寺を)専守したがらない”で、居食定めず、故に仏寺は只少数の僧だけが居住し、仏寺の占める地は極めて限られ、以下の諸文献に記載される幾つかの漢魏西晋の仏寺で見てみよう。

①後漢洛陽の白馬寺
 漢末の牟子《理惑論》は漢明帝が遣使し(58-75年)“大月氏で経典四十二章を写し、蘭台石室第14間に蔵す。この時洛陽城の雍門西外に仏寺を起こし、その壁画は千騎万乗の人が押し寄せ、塔を3度廻った。東魏の魏収《魏書・釈老志》に記す使者を天竺に使わし“沙門摂摩騰と竺法蘭を東の洛陽に迎える。・・・・・白馬に経を背負って至り、漢は白馬寺を洛陽城雍門の西に立てた。・・・・・仏図を盛んに飾り、描く跡は甚だ妙である”。梁慧皎《高僧伝・摂摩騰伝》に記す中国に来た後、“明帝は甚だ褒美を与え、城西門外に精舎を立てこれに処した。摂摩騰の住む所は、今の洛陽城西の雍門外の白馬寺がそれである”。上述の記載を総合すると、漢明帝が立寺に時、仏塔は寺内の主体建築で、併せて外来僧を安置するため、寺内に僧人の居所があるが、仏塔に相対した位置は、考えようがない。

②漢末の徐州笮融浮屠祠
 晋陳寿の《三国志・呉書・劉繇伝》に記す漢献帝初平年間(190-193年)、丹陽の人笮融は“大きく浮図祠を起こし・・・・・銅盤九重を垂らし、下は重楼、閣道は三千余人を収容出来た”。南朝劉宋の范曄の《後漢書・陶謙伝》の記す:“(笮融は)大いに浮屠寺を起こす。上は金盤を重ね、下は重楼、又堂閣を回廊が周り、三千余人を収容できる”。上野記載に依れば、笮融の建てた浮図祠は、仏塔(上に金盤を重ねた重楼)が中心で、四周を隔道が囲む。隔道はまた復道と言い、上下2層(下層は宙に架け、上層は屋根がある)の走廊で、秦漢時に宮室の間の通行に多用された。

③曹魏洛陽の宮西仏図
 《魏書・釈老志》記載の:“魏明帝は、かつて宮西の仏図を壊そうとした。外国沙門は金盤に水を盛って、仏殿の前面に置き、仏舎利を水中に投げ入れると、水面に五色の光が現れたので、明帝は驚いて曰く、「もし神霊でなければ、この様な怪異は起こらないだろう」、直ちに仏塔を大道の東面に移し、周囲に閣道百間を建立し、仏塔のあった旧地には、汜濛池を掘り、芙蓉を中に植えた。魏明帝は227-240年に在位し、青龍3年(235年)以後は洛陽で治世した。故に仏図を建て、笮融の浮図祠に遅れること約40年である。記述から知れるのは、両者の配置形式は近く、皆仏塔が中央で、周囲を隔道が囲む。仏教が始めて中国に入った時、洛陽が中心で、このため洛陽の仏寺は気風の先を行き、聖域から伝入した様式に近い。仏図の四面が“周囲に閣百間を作る”を推測すると、或は外国沙門の描く仏寺平面に基いたか、或は洛陽城中の漢代仏寺の遺構を参照したのであろう。同時に、この種の主体の四周を附属建築で囲む配置の方式は、漢代の礼制建築の配置中にいつも見るもので、漢地の官庁から受け継ぐのも容易である。宮西仏図の規模は、若し隔道が間幅毎1丈で、各面が25間ならば、合計60m見当となる(1魏尺=0.241m)。
④東呉建業の建初寺
 《高僧伝・康僧会伝》に“祖先は康居国の人で、天竺に生まれ、・・・・呉赤烏十年(247年)始めて建業に至り、茅屋を建て仏像を設け仏教を説いた。・・・・・(後に壇を建て舎利を求めて、呉帝孫権は)塔を建てた。これが仏寺の始まりで、故に建初寺と号した。その名に因んでその地を仏陀里となった”とある。呉国の領域では、康僧会が舎利を求め得たので、呉帝はこれの塔を建て仏寺を始めたのは、仏寺建立が外来僧人が最初に目標に奮闘すると言う典型的な説明であり、仏教がある地区に進入する標識ということでもある。同時に、立塔即建寺であり、外来僧人が帝王の信任を得るには、尚法術霊験を借りる必要があった時期で、仏寺の功能と規模が超越的な発展をすることが不可能でもあった。寺内は仏塔の他、その他の主要建築は在り得なかった。

⑤西晋の阿育王寺
 《魏書。釈老志》に記載する、当時の洛陽や彭城、姑城、臨淄等の地は、皆阿育王寺である。阿育王は、クシャン王朝第3代国王で、在位期間は(B.C.273-232年、中国戦国末年に当たる)、仏教の扶持に大きな力を注いだ。近年インド学者が調査考証して、確実に阿育王が埋葬した舎利容器と建立した仏塔の形跡を発見した。安息国の僧安法欽は、西晋太康二年から光煕元年(281-306年)に訳出した《阿育王経》5巻は、この時から阿育王建塔伝説に関する漢地での流行が始まり、阿育王塔の建造が開始した。
《高僧伝・釈慧達伝》に記す遇異僧をして“出家して、丹陽、会稽、呉郡に行き阿育王塔像を探して、礼拝し過ちを悔いて、前非を懺悔した。・・・・晋寧康(373-375年)中に都に至った”。《法苑珠林》にもこの事が記載されている。これで判るのは、晩くとも東晋時期、中国の領域内には已に多くの阿育王寺が出現し、僧と信者が遊行礼拝していた。阿育王塔の実物は存在せず、《高僧伝・佛図澄伝》記載の“(石)虎が臨漳で旧塔を修理し、承露盤が少なかった。澄が言うには、臨淄城内に古い阿育王塔が有って、地中に承露盤と仏像が有り、その上に林木が繁茂しているので、掘ってこれを取るべし”と。これに基づけば、阿育王塔の尺度と形式は一般の仏塔と大体一致している筈である。
 「立塔が寺」は、漢地の仏寺の初期の発展段階の特徴である。仏教の影響が深化するにつれ、仏寺の功能はもう一歩発展し、この種の単一の仏塔が主体の仏寺形態は改変していく。
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(2)「堂塔並立」
 西晋末年、仏経典が絶えず訳出され、外来僧及び漢地の出家人数が増加し、社会が動揺し苦難が深刻化する情勢の下、仏教信者は大幅に増加した。仏教は中国に始めて入った時の困難な曲面を脱し、大発展の時期に入り、仏寺の功能と形態も相応の新しい変化が出現した。東晋十六国時期、仏塔と講堂を以って主体とし、その他の附属建築を兼ねた仏寺形態が出現した(図2-7-3)。
 説法、議論と経典の習読活動は広範に発展し、仏寺は単純な礼拝儀式を行う場所ではなくなった。新しい功能の需要に適応して、寺内には仏塔以外の別の主体建築が出現した、即ち専門に法師が経を講義し、僧徒がこれを聞く講堂(後期には法堂とも言う)である。講堂は僧人の活動する場所なので、一般には仏像を供奉せず、その出現は仏塔の中心主体としての地位に影響しなかった。講堂は通常仏塔の後側に設立し、中国伝統の配置手法に基づけば、両者は1本の縦線を形成する。《法苑珠林》記載の、北斉沙門僧苑が邺城の顕義寺講堂で経を講じた時、“華厳経の六地に至ると、忽然として1羽の雁が飛来し、塔から東に巡って堂に入り、高座に対して、地に伏せて法を聞き、講義が終わると出て、塔の西を巡って飛び去った”。これで知れるのは、この寺は北朝後期まで、典型的塔堂配置形式を保持していたことである。
 東晋興寧中(364年)、晋哀帝は瓦官寺の建立を勅し、寺内は“堂塔を止めるのみ”であった。数年後(371年)道安の弟子竺法沙が寺に住み、主体建築物の周囲に、大門とその他の附属建築物を増設し、仏寺形態を更に厳整にした。それ以外に、来て講義する人数が増え、仏寺は僧衆が集散する所となり、このため、大幅に僧坊を建て住ま得る様にする必要ができた。前述の釈道安は南に下り襄陽に檀渓寺を建て、“5層塔を建て、僧坊400を建てる”、その中で僧坊が主であった。後に道安は秦に入り、長安の五重寺に住み、僧衆数千、大いに弘法し、院寺の規模はまた宏大であった。但記載に拠れば、寺内の僧坊は依然として住むには足らず、講堂はある時は僧人が住む効用を兼ねていた。
 仏寺中に付属する建築物が比例して増大する別の重要な原因は、大乗仏教の興隆であり、早期の小乗仏教が提唱した苦行実践に派出する方式に改変を発生させた。僧人は日々の食を乞い、山野に居住する必要がなくなり、私産を持っても良く、甚だしくは居所で蓄えを持っても良くなった。とりわけ亀慈国の高僧鳩摩羅什の後、仏寺中の上層の僧人の地位は段々と安定し、寺院経済は発展を開始した。僧坊やそのたの日常に使う建物だけでなく、穀物倉や厨房倉庫の類も段々と増えていった。寺内の僧坊の建設は、又僧衆の管理にも有利な一面があった。東晋の釈道安の時、已に僧尼の規範が制定され、その中には毎日の6時の行道飲食唱経時の作法が有る。この時より、出家僧尼は段々と寺院を定住の場所とするように成っていき、仏寺も仏教の象徴体から一種の社会組織と経済実態に変わり始めた。

(3)「精舎の建立」
 西晋末年に始まり、仏寺中に出現した堂塔並立配置の変化を除くと、又一種の講学修行が主要な功能である学院式の仏教建築が出現し、それと儒家の講学修行の活動方式が近く、そのため当時それも精舎と呼んだ。正に立塔を持って寺として体現した中国寺院の発展初期段階の特徴は、この種の精舎で仏寺は一歩発展した所産の一種特殊な形式を持つ事になった。
 両晋の変わる頃、講経典は大きく盛んになり、禅法が漸漸と行われる様になる。仏教の高僧と一群の上層の人士は、しきりに坊舎を建て、仏典の講授を受け、禅法の修行に用いた。東晋十六国時期、精舎の建立は更に普遍的となり、都城や山林の中に沢山建築された。かつて敦煌に建てた精舎に講学する羯宾国の僧人県摩密多は、“この頃また涼州に行く、元は公府であったとは言え、堂宇を修築し、学徒は多士済々、禅業甚だ盛んである“は、衙署を利用して改築し精舎にしたものである。この種の禅を修める講学に供された精舎は、その形態が或は当時の太学や府学に近かったのである。

 学院式の精舎を除き、この時期又、仏教僧人は釈迦牟尼の修行の方法を模倣した小型の精舎を建造した。その形式と配置は充分に自由で、草庵や竹の掛小屋から、石室、茅葺き庵まであり、通常は山に依り谷のそばで、僧人の墓所或は宮室や邸宅の中に建てる者もあった。この類の精舎は往々にして段々と発展して仏寺と成る。例えば慧遠は廬山に行きはじめに龍泉精舎に住み、後に龍泉寺と称した;その弟慧持は蜀に至り、龍淵精舎に逗まり、亦龍淵寺と称された。大抵、この時期の仏寺は尚未だ厳格な規制が無かったが、およそ僧人が主持し、社会が供養し、官が認可して、立寺ができた。故に精舎と仏寺の間は、明確な境が無く、南朝初期に至っても、これと東晋時期の仏教発展の特徴に関係はない。精舎は修行の為に立て、形式は通常粗末で、仏塔を建てる必要は無い。東晋の王劭は積園精舎を造り、“建屋は厳整にできたとは言え、美しい寺はまだ出来ていない”といった。僧徒が禅観礼拝するための仏像を供し、建屋の中に安置された。民間のこの種の気風の影響を受け、精舎を建て供仏のやり方もあった。精舎は、規格や性質上、官が建立する仏寺とは差別があり、その中の一部分は高僧主持者或は逐次発展する著名な寺院であるが、多数について言えば、精舎は終始仏教の基層組織の形式で、ほぼ後世の“蘭若”である。





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235 瓦作と磚作

中国古代建築史 (抜粋) 巻三

第十章 建築著作と匠師



五、瓦作と磚作制度
1.結瓦と用瓦制度
 《法式》巻十三の瓦作制度に載る宋代木構造建築の瓦屋根に用いる瓦は2種の類型があり、一つは㼧瓦で、殿閣、庁堂、亭榭等の建築のもの;一つは瓪瓦で、僅かに庁堂及び常用の建屋に用いる。瓦屋根の下は、先に“鋪衬“1層が必要で、椽上に置く;その上に再び鋪泥をし、瓦で終わる。《法式》に載る鋪衬は3種ある。:
  柴桟:粗い樹枝を用いて作る。
  板桟:木板を用いて作る。
  竹笆葦箔:
     殿閣の7間以上は;竹笆1重+葦箔5重。
     殿閣の5間以下は;竹笆1重+葦箔4重。
     庁堂の5間以上は;竹笆1重+葦箔3重。
     庁堂の3間以下廊屋までは;竹笆1重+葦箔2重。
     散屋は;葦箔2~3重。
     葦箔だけを用いることも出来、2重を竹笆1重に代替する。或は全部を荻箔に変えて用いる場合、
     2重荻箔は3重葦箔の代わりが出来る。 
  鋪衬の上は、胶泥或は石灰を用いて先に找平層を作り(即ち、清式の苫背)、それから瓦を葺く。
  瓦寸法の大きさは、建築の尺度に一定の影響があり、これにより建築の等第の高さに従い、瓦部材を若干の等第に分ける。《法式》の瓦作は窯作制度に当時の瓦部材の寸法を列べている(表10-17、10-18)。
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瓦を葺く前に焼き上がりの良い瓦を外形を正敷く矯正して、平でないもの或は歪曲した所を取り除き、瓦の内側の稜を修正し、“四隅を平穏”にする、これを“解挢(翅)”と言う。并びに筒瓦の半円を半円の模型に咬み合わせて検査しなければならず、(模型から)出る者は修正が必要で、これを“撺窠”と言う。“解挢”と“撺窠”をした後に瓦を葺いて始めて、瓦の畝が均しく生前となり、雨水の染み込みを防止出来る。
 瓦を葺く過程で、檐頭の筒瓦を小連檐上に釘打ちし、仰瓪瓦の下は、小連檐上に燕頷版を設け(即ち清式建築の瓦口に相当)、滑落を防止する。大型殿堂に対しては、6椽以上は瓦釘を施工し、大棟の下第4枚目及び第8枚目の瓦の一で再度釘を打ち、前もって鋪衬の上で横板2枚を置き、釘脚を承ける。

2.屋脊と脊獣
 宋代建築の瓦屋根面は条瓦を以って脊を積み重ね、脊の高さは瓦の層数で調整し、建築等第に依り《法式》規定は表10-19の様になる:
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 屋根と鴟尾と脊獣の尺度
 鴟尾と脊獣は、屋根のなかでは不可欠の装飾部材で、同時に一定の実用的功能を持つ部材で、蓋釘や脊桩の類を覆うことが出来る。吻獣と建築尺度の関係は同様に密接で、建築等第に從ってその高さを決める。《法式》巻十三に基づき整理すると表10-20の様になる。:
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3.用磚制度と規格
 磚は木構造建築中で用いることは少なく、主要に磚を用いる部位は塁階基や、地面の舗装、壁の下或は土レンガ壁下部の1段(“牆下隔減”と言う=壁の下の湿気を防ぐ意)、踏道を積む等である。磚を用いて須弥座を積むこともある。以上の角部分の形制は以下の通り:
   (注)磚;磚は焼成レンガのことで、我が国寺院では、床の敷面か腰壁にしか見られないが、中国
        の寺院や建築では、一般的に良く見かける。レンガに関する用語は訳語を知らないので、
        そのまま、用いることにする。
(1) 塁階基
 木構造建築の磚階基并びに全部の殿宇が磚で敷き詰められていないもの、そして台基四周の条磚を厚く積んだ磚壁は、中の部分は土をぎっしり詰める。階基の縁のこの道壁は、土壁から雨風を遮る役割を充当している。《法式》巻十五磚作制度の中で、磚壁の厚さと階基の高さの関係を規定している(図10-167)。
   殿堂亭榭の階基高さが、4尺以下の者;階基外壁は2磚を列べ塁積;
   殿堂亭榭の階基高さが、5尺から1丈の者;階基外壁は3磚を列べ塁積;
   楼台の階基高さが、1丈~2丈の者;4磚を列べ塁積
                2丈~3丈の者;5磚を列べ塁積
                4丈以上の者;6磚を列べ塁積
 殿階基は外檐柱より伸ばした広さが3~3.5尺の範囲で、階基面層の積み方は2つあり、一つは平砌(平積み)で、即ち面層は一直線で僅かに1.5%内に下げる。別の一つは露龈砌(鋸歯積み)で、層毎に上が1分を内に下げ、この1分は線圧の1/10に相当し、楼台亭榭は2分に出来る。一般に表層の磚は磨き加工をかけ、光沢滑かな美観で、並べる磚がまだ加工していない者は、《法式》の言う細磚と粗磚で、細磚が10層積む時、粗磚は只8層だけ積む。
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(2)鋪地
 室の内外は方磚を敷き詰め、室内地面は0.2%の斜度を持ち、室外の階基部分は打ちから外に下って、斜度は2%~3%である。階頭は圧闌石に変えて圧闌磚をもちいても良い。階基の外は磚散水を施工する。地面磚も表面と4側面を磨く必要があり、側面毎に内に1%下げ、以って継ぎ目の細密さと石灰漿が充分満ちるのを保証する。

(3)牆下隔減
 これを施工するのは建築下半部の磚壁で、それは土壁に比べもっと防潮性があり、其のため“隔減(碱)”と言われ、隔減壁上は土壁を承けるため、厚さは大きく、殿閣で副階の有るものは、内壁の下の隔減壁の厚さは6~4.5尺、高さは5~3尺である。副階のないものや庁堂の者は、4~3.5尺、高さ3~2.4尺に減り、廊屋の塁は厚さ3~2.5尺、高さ2~1.6尺で、隔減壁の上部の収(上面の減の意)は、階基の収制度に従う。現存の遼・金の殿堂にこの工法を見ることが出来るが、但し、高さ、厚さは均しく減るものが多く、一般に高さは2~3尺の間、厚さは3尺前後である(図10-168)。

(4)踏道(注;台基の階段)
 磚踏道の形制と石踏道は大同小異で、只踏道の斜度が緩やかで、1:2.5である。踏板毎の高さは4寸で、広さは1尺、両側は1磚幅の両頬が有り、踏板は斜めに積まれる。両頬の側面は象眼を作り、1層1層が後ろに退き、2寸を決まりとする。大門の類の建築では時に前部を磚積みの傾斜道にする、即ち後世の礓䃰である。斜度は更に緩やかで、1:3.87であり、その幅は間口に従い、両側も斜度と同じ傾斜道にし、これを三瓣蝉翅と言う。

(5)須弥座
 条磚を加工して、混肚、罨牙、合蓮等の異なる形状にし、13層の磚を積んで須弥座に迫真の表現が出現する(図10-169)。これを除いて、磚積みを用いた構築物に城壁や城壁水道、巻輂河口、馬台、馬槽、井壁等があり、其の中で城壁には多くの異型磚を用い、例えば走趄磚、趄条磚、牛頭磚等がある。宋代の城壁は未だ普遍的に包磚(注;レンガ積みの城壁)は無く、僅かに城門或は城壁の転角等の所に磚積みされるだけである。
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(6)用磚規格
《法式》に記す宋代建築の用磚規格は以下の如くである(単位尺)(表10-21)。
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方磚:
2✕2✕0.3 殿閣11間以上に用いる;
1.7✕1.7✕0.28 殿閣7間以上に用いる;
1.5✕1.5✕0.27 殿閣5間以上に用いる;
1.3✕1.3✕0.25 殿閣、庁堂、亭榭に用いる;
1.2✕1.2✕0.2 行廊、小亭榭、散屋に用いる。
条磚:
1.3✕0.65✕0.25;
1.2✕0.6✕0.6
圧闌磚;2.1✕1.1✕0.25
磚碇;1.15✕1.15✕0.43
牛頭磚;1.3✕0.65✕0.25(0.2)
走趄磚;1.2✕0.6(0.55)✕2
趄条磚;1.2(1.15)✕0.6✕0.2
鎮子磚;0.6✕0.6✕0.2




  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


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総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服
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# by songofta | 2017-07-03 17:57 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

234 石作

中国古代建築史 (抜粋) 巻三

第十章 建築著作と匠師



二、壕寨と石作制度
壕寨制度:
   (この項目は、城塞や堀に関するものなので、略す)

石作制度:中国古代建築は、大体が石構造の建築ではないのは、中国人が陰陽五行思想の影響があったからかもしれないが、陵墓建築に石の建造を用い、等級の高い木構建築は、又石塊を補助材料にする必要があり、其の理由は石塊は防潮が出来るためで、石の台基や石壇、石柱礎の類があり、木構成に堅実な基礎を持たせる事が出来る。更に石碑、石橋の類は長い期間伝えられる。《法式》の石作制度は木構造との密接な組合せを、特に皇家建築中に常用する石構造部材の形制や加工順序、彫刻制度を整理し規章を定めている。
1.常用する石構造部材類型及び形制
(1)台基
 木構建築の台基の高さは、大木作用材制度に従って定め、“台基の高さは材の5倍”。この規定は1等材の大殿は高さ4尺5寸が可能で、6等材の庁堂の台基は高さ3尺を越えず、8等材の小亭榭は、台基の高さはわずか2尺2寸5分である。当然この数値は、調整をしても良く、“ものが広い場合、5分から10分を加え・・・・・・・・もし殿堂に庭を作る者は、その位置を量り宜しく高さを加え、加えるのは高いとしても材の6倍を越えない”。更に高い台基を必要とする建築は、基壇を構築して解決する。石台基の広さは、外檐柱の中心線より四辺に向けて伸ばした寸法で、石作制度には規定が無く、《法式》巻十五磚作中の規定の磚階基に“柱心より3尺から3尺5寸出る”がある。これは石台基の広さを確定出来る参照である。石台基は中まで全部を石塊を積んで無く、基壁の表層だけを石で積み、内部は土を充填する必要がある。平面について言えば、台基の外椽周辺は圧闌石で一周し、石の段は長さ3尺、幅2尺、厚さ6寸。立面で見れば、隅部は隅柱を設ける。台基の下は土衬石を施工する。台基の壁は2種の工法があり、1種は石塊の平積みで、1種は疊澀坐で、石条を1層1層持ち送りにする、中間は束腰で、束腰の中に隔身版柱を設け、版柱の間は突壺門を立てる(図10-80)。《法式》巻二十九は僅かに殿基の疊澀坐の隅柱の図があり、現存の宋代実物と対照し、この類の台基の全貌を知ることが出来る。
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(2)壇
 石壇と《法式》が称するのは、3層の作り、大型建築の基壇を指す。その寸法は建築の性質に依って定め、宮殿について、更に礼制建築について見る。《法式》は壇の高さについて載せていない。その1層の立面毎に下に土衬石を施工し、上に数層の石重ねて持送りし、中を束腰とし、隔身版柱造を用い、或は柱間に壺門を造る。実物中には1層の室内佛壇だけがあり、例えば正定の隆興寺大悲閣に宋代の佛壇である(図10-81)。

(3) 鈎阑(勾欄)
 単鈎阑と重台鈎阑の2種類があり、《法式》は両者に対して長さと高さの限定を作っている。重台鈎阑は段毎の高さ4尺、長さ7尺。単鈎阑は段毎の高さ3尺5寸、長さ6尺。その他の部材は皆、勾欄の高さの百分比で詳細寸法を出し、即ち“尺毎の高さの積み上げを法とする”。《法式》は勾欄の寸法の限定に対して最大値を以って理解出来、実際の応用中で調整させて、さらに増大させるべきではなく、勾欄の高さがもし再び増大すれば使用功能に影響するので、《法式》は高さを3.5~4尺に、それは1,14m~1.3mに相当するが、正に人体の寸法に符合し、勾欄の長さは勾欄全体の造型に則り、石の段は採掘の可能性、及び重量の大きさ、施工操作に都合が良いかどうか等の諸要素と関係し、《法式》が管理する寸法6~9尺、1.97~2.3m相当は、正に以上の諸用紙を総合的にして得た理想的な寸法である(図10-82、10-83)。
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 2種類の勾欄の寸法の違い以外、重台鈎阑は盆唇と地栿の間に上下の2重華版を、単鈎阑はただ万字版式或は1重華版だけとなる。紹興の八字橋に使用の単鈎阑は、《法式》規定に倣い、只万字版或は華版陽の素版をこれに変える(図10-84)。
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(4)柱礎
 重要建築の柱礎は正方形の礎石上に円形の覆盆を採用し、常用する者は素覆盆があり、動植物文様の帯を持つものもある。礎石は“方は柱径に倍する”、厚さは方の5/10~8/10、覆盆の高さは礎石辺長の1/10。覆盆径は文様花飾に依り調整出来、一般に覆盆上部は均しく覆盆高さの1/10の“盆唇”相当の厚さが有り、雕飾を行い、上部の木柱櫍と接する(参考図10-91-略)。

(5)踏道
 建物毎の前に有る階段を踏道と称し、踏道は、踏石、副子、象眼の組合せである。踏道の幅は、建築の間口に従い、高さは台基に従い、長さは高さの1倍。踏道の両側は象眼を作り、踏道の高さに従い3ないし6層の石条を積み上げ、層を逐って内に退く。実例は登封の少林寺初祖庵大殿の踏道である(図10-85)。
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(6)門砧、門限
 門砧は門の竺を固定するための長方形の石塊で、大門門竺の下部に置き、半分は外に半分は内にある。内の半分には、円孔1個を開け、門軸を納め、極めて大きな門扇の下の場合は、円孔を半円球の突起に変え、鵝台石砧と称す(小木作制度で詳しく見よ)(図10-86)。門限は即ち門檻で、大門の下部に置き、2つの門砧の間にある。大型建築群の大門の下に使用する時、往々にして門限を取り除いて、門砧の所に臥立柣を設け、すぐに装置を取り外せる門限として、車馬の通行に便にする、この種の工法を断砌造と言う(図10-87)。 これを除いて他に、《法式》に載る石部材はまだ、殿階螭首、殿内斗八、流杯渠、巻輂水窗、水槽、馬台、井口石、山棚鋜脚石、幡竿類、贔屓鰲座碑、笏頭碣等がある。
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2.石部材の造作次序
《法式》は石部材の加工編制に対して、一通りの整然とした工作順序を制定し、即ち“造作次序”で、施工管理が依拠するのに作られた。各種が持つ異なる芸術処理の石部材は、採用する加工工程も異なり、石部材の加工特徴を基礎にして、彫鎸制度を編制した。
 “造作次序”にある石部材の加工を帰納すると6通の工程になる:
 (1)打剥:鏨(小歯)で石面の突起部分を削り取る。
 (2)粗摶:粗加工のことで、石部材の表面に必要な輪郭を彫り出すこと。
 (3)細漉:密に鏨を入れ、表面の凹凸を浅くすること。
 (4)褊棱:小さい鏨で稜隅を削り、四辺の周を正しい形にする。
 (5)斫砟:彫飾類型に依り、斧で1遍から3遍の一律ではなく、彫刻がうまく出来るよう下準備をする。
 (6)磨陇:砂に水を加えて表面の削り模様を磨き、光沢を出させる。
前の3通りの工程はどのような彫刻制度も必要不可欠な通則で、後者の往く工程かは、彫刻の具体的状況に依り、前後の順序を調整し、柱礎の覆盆に突起を削り出す彫刻などは、その褊棱と磨陇は花紋の彫刻が皆完成した後に行うなどである。

2.石部材の造作次序 《法式》は石部材の加工編制に対して、一通りの整然とした工作順序を制定し、即ち“造作次序”で、施工管理が依拠するのに作られた。各種が持つ異なる芸術処理の石部材は、採用する加工工程も異なり、石部材の加工特徴を基礎にして、彫鎸制度を編制した。 “造作次序”にある石部材の加工を帰納すると6通の工程になる:
 (1)打剥:鏨(小歯)で石面の突起部分を削り取る。
 (2)粗摶:粗加工のことで、石部材の表面に必要な輪郭を彫り出すこと。
 (3)細漉:密に鏨を入れ、表面の凹凸を浅くすること。
 (4)褊棱:小さい鏨で稜隅を削り、四辺の周を正しい形にする。
 (5)斫砟:彫飾類型に依り、斧で1遍から3遍の一律ではなく、彫刻がうまく出来るよう下準備をする。
 (6)磨陇:砂に水を加えて表面の削り模様を磨き、光沢を出させる。
前の3通りの工程はどのような彫刻制度も必要不可欠な通則で、後者の往く工程かは、彫刻の具体的状況に依り、前後の順序を調整し、柱礎の覆盆に突起を削り出す彫刻などは、その褊棱と磨陇は花紋の彫刻が皆完成した後に行うなどである。

3.石部材の彫鎸制度
 《法式》は石作制度の中で、先ず最初に建築石彫の彫刻類型を分類し、“その彫刻制度には4等あり、1つは剔地起突で、2つ目は圧地隠起、3つ目は減地平鈒、4つ目は素平である”。その持つ異なる芸術効果に從って、る異なる等第の建築の異なる部位に使用される。(以下、細目が続くが、略す)



  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


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# by songofta | 2017-07-03 17:37 | 古建築 | Trackback | Comments(0)

233 屋根、柱の制

中国古代建築史 (抜粋) 巻三

第十章 建築著作と匠師



(4)屋根:
1)屋根形式
《法式》は3種の屋根を記載する。
①四阿頂(柱;寄棟屋根):これは①種の4斜面の屋根で、清式では廡殿頂と称し、主要に殿閣類建築に用いる。《法式》の規定に照らすと、四阿頂の4条の戧脊(※注1)の平面投影の多くは隅部の45°線上に無く、この様に作るのは大棟が太く短く成るのを避けるためで、その場合は大棟の両端を増出する。《法式》巻五“陽馬”の1節に載る、“もし8椽5間から10椽7間の建物は、両頭は大棟を各3尺増加する”、この様に隅梁上部の尽きる所は45°投影線より外に3尺出すのである。実例は山西省大同の善化寺三聖殿で、8椽5間類に属するが、その大棟の増出は1.35尺で、3尺には不足する。河北省新城の開善寺大殿は6椽5間と言っても、大棟も増出1.3尺で、善化寺大殿は10椽7間に属するが、増出は見られず、その他の実例も大棟の増出は少ない。多分当時、尚普遍的に行われる精度では無かったのであろう(図10-72)。
   (※注1)戧脊;大棟両端から四隅に下る棟
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②厦両頭造(九脊頂)(注;入母屋屋根);清式では歇山頂と称し、庁堂類の建築に用いる事ができ、殿閣類建築にも用いる事ができる。
 《法式》巻五“陽馬”の1節に載る:“およそ庁堂がもし厦両頭造ならば、両梢間は隅梁を用いて2椽を転過し、(亭榭に類は1椽、今亦この制を用いるのは殿閣を作る者で、俗に言う曹殿、又は漢殿、又は九脊殿)。このため丁堂建築に使用する時は“厦両頭造”と称し、殿閣に用いる時はそれを“九脊頂”と称する“様になった。“厦両頭”を解釈すると、1棟の両屋根斜面の建物の両頭に垂木を架け両厦(注;庇の意)を加え、一般に両厦の寛さは2椽で、小亭榭は1椽である。もう一つ別の解釈は“厦”字の音は“殺”と同じで、即ち叩き切る、切り落とすの意味で、両斜面屋根の建築に対して、両頭は1間上部の屋根を切り落とし再び隅梁を用いて両椽を転過し、厦両頭造を後世する。その構造の特徴は屋根の両斜面部分にあり、両端は出際(※注2)に作る。巻五“棟”の1節に出際の制があり、“もし殿閣の隅角を作るならば、出際の長さは架構に従う”とある(図10-73)。
  九脊頂は出際が長くなるので、“丁栿の背に夾際柱子を立て、或は更に柱槫梢或は更に丁栿の背に系(門構えに系が入る字)頭栿を添える“。これは出際の槫(垂木桁)に対して支点を増加させるものを指し、この工法は河南省登封の少林寺初祖庵大殿の妻面に見られ、この殿はわずか3間だが、転角部の隅梁は只1椽だが、桁は中央間の2縫(継ぎ手)の梁架が伸びて、中間は支点が無く、これにより夾際柱子を立て以って槫梢を助け、合わせて系頭栿が妻面の垂木尻を承ける(図10-74)。
   (※注2)出際;入母屋の切妻部分で、妻側に飛び出した垂木。
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③不厦両頭造(注;切妻造):即ち両斜面屋根で、清式では懸山頂に相当する。庁堂建築に用いるとその特徴が2つあり、その一は屋根斜面が平直ではないことで、屋根斜面は双曲面となる。横断面方向では挙折制度が凹曲線を作り、立て方向では柱の生起及び槫梢が生頭木を加え、屋根面も凹曲面を作る。その2は、屋根は梢間から出際が必要で、《法式》の規定に照らせば、“両梢間の両の際は各柱頭を出し・・・・・2椽の建屋は2尺から2尺5寸、4椽の建屋は3尺から3尺5寸、6円の建屋は3尺5寸から4尺、8椽から10椽の建屋は4尺5寸から5尺を出す。”

2)挙折制度:
 挙折制度は2つの部分出構成され、一つは挙屋の法で、即ち総挙高、屋根自体の高さを定める法で、つまり屋根の橑檐方の背面から大棟桁背面までの総高さで、その寸法は前後の槫檐枋中心の距離(A)を基数として、建築の等第によって異なり、総挙高の計算方法も異なる。
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二つめは、折屋の法で、屋根の垂木桁の位置毎に発生する折れを指し、第1折は上平槫に1縫にあり、大棟桁から橑檐方との間を結ぶ線の交点から下にH/10降ろし、第2折は中平槫の所で、第1折点から橑檐方の間の不スブ線からH/20降ろし、このように次々にH/40、H/80・・・・・折点を求めた後、それらを繋いで屋根曲線を作る(図10-75)。
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(5)椽架、出檐、椽径、布椽
 椽架は、椽が両槫の間の水平面投影の長さを指し、《法式》の規定は“どの架も水平距離は6尺を超えず、もし殿閣ならば或は5寸から1尺5寸を加える”、即ち一般の建築は椽架長は6尺以下で、大型の殿閣は7.5尺まで可能で、このような規定と現存の同時期の実物は一致するが、幾つか超えるものが有り、例えば上華厳寺大雄宝殿で、椽架長は9尺に達し、奉国寺大殿の椽架長は8.5尺に達する。椽架が長く成る程、断面は必然的に大きくなり、消耗する材料もそれに従って増加する。《法式》が採取した適中する態度は、最もなもので、明清建築の椽架は短く変化し、明らかに材料を節約する目的から来ている。
 
 挙折制度に従い橑檐方より内の屋根曲線を求め、橑檐方より外の檐頭(軒先)までは、《法式》はその帰属を“造檐の制”に置き、その内容は主要に、一つは軒の寛さで、一つは隅の生出の寸法であり、軒の寛さは建築物の大きさで決め、殿堂か庁堂か余屋に属すかと、同時に又は張り出す垂木の粗密に密接に相関する。《法式》は先に建築類型に依り椽の材分を制定し、一般に殿閣は9~10分、庁堂は7~8分、余屋は6~7分。軒の出の寛さはほんとうの寸法に転換下後の檐径で、2級に分け、檐径5寸は檐の出(檐椽の張出し)4~4.5尺、それとは別に飛檐の寸法を加え、それは檐出の60%に相当し、2.4~2.7尺に等しく、総軒の出は6.4~7.2尺で、換算して2.04~2.30mで、これは殿閣類建築の寸法と成る。もう一つの級は檐径3寸の者で、総軒の出は5.6尺、換算して1.79m。もしこの2類に適合しないかもっと小さい建築に出会った場合、この類に比べて調整する。建築遺物中、檐の出の寸法は普遍的に《法式》規定より小さく、僅かに上華厳寺大雄宝殿だけが2.76mに達し、《法式》規定範囲を超えるのみである。

 隅軒の生出(※注3)は建築規模により定まり、即ち“1間は生4寸、3間は生5寸、5間は生7寸(5間以上は大体の大きさを測って加減する)”。どうして隅軒の生出は材の分数で定めないのか、又軒の寛さの某かの比例として定めないのか、突き詰めると其の原因は隅軒の翅上がりの存在との対応関係かも知れず、《法式》は専門的に跳ね上がりの寸法を決めていないとしても、順に柱の生起の値が有り、(詳しくは柱の制の1節を見よ)、更に正心方から隅部までの加える生頭木があり、共に軒の翅上がりに影響する。生出は生起の値より大きいとしても、軒の生出は翅上がりと依然として相近いのである。
  (※注3)生出:軒が反る事によって必要と成る垂木の伸び。隅に行く程大きくなる。
       生起:隅に近づく程、柱を伸ばすこと

 《法式》は椽の布局(布椽、=配置)に対して特に明らかにして、“1間の中心にする、もし詰組があれば、1間の耍頭を中心にする”も、即ち椽(垂木)間を以って建屋の中心線或は間毎の中心線に対して中心を当てるが、未だ柱の中心線位置に椽の中心を当てるのかは言われていない。清式建築では、柱の中心線位置に、垂木桁が繋がる隙間を当て、椽を釘打ち出来ず、故に柱中心線の所は必ず椽当となる。宋式建築ではそうではなく、垂木桁の相接する所は蟷螂頭口の枘を採用し、椽の釘打ちに影響せず、柱中心線の所も椽当を作らずとも良い。椽が屋根の向きが換わる角はどのようにするか?《法式》は“もし四方に垂れる隅梁で方向を変えるならば、隅梁の分布に従い、垂木先端の密度のままに、隅を超して軒に帰る(次の詰組の中心に至る)“。しかし、垂木尻はどのように交叉させるか?未だ規定には無い。この時期の遺構には2種の工法があり、一つは垂木尻を1点で交わらせ、この点を詰組の中心線と隅梁の交点に起き、垂木を扇形に展開する、大多数の遺構はこの様にしている。別の一つは短かい垂木とし、垂木を皆平行に置くが、但し翼角の垂木は損傷しやすく、木構造の遺物は已に無くなり、福州鼓山の涌泉寺門前の宋代の陶塔に見られる。しかし、この種の工法は日本の古代木構造建築に保存されて来ている。
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  《 福州鼓山涌泉寺門前千仏陶塔 》

(6)用材の制
 《法式》は柱の太さに対して、柱の造型ないし柱が架構中で以下に置かれるかを詳細に規定している。
 1)柱径:殿閣は、2材2栔から3材。庁堂は2材1栔。余屋は1材1栔。

 2)柱身:巻殺(丸く殺ぐこと)が必要だが、どのようにするか? 《法式》に載るのは:“凡そ梭柱に殺ぐ法は、柱の長さを3分割し、上1分割を又3分割し、上に行くにつれて巻殺し、大斗底の四周が各4”分“出て、又柱頭の4“分”を量り、最後は覆盆のように殺ぎ、柱頭と大斗底が一繋がりのようにし、その柱身に下1分割分は殺いで径周囲は中の1分割と同じにする“。この段の文章で人を悩ますのは最後の1句の解釈で、即ち柱身の下部3分の1は巻殺をするだろうか、しないのだろうか?文章の中の“その柱身に下1分割分は殺いで径周囲は中の1分割と同じにする“の、「中の1分割」は、柱身の中の1分割なのか、それとも上の1分割を又3分した後の中の1分割なのか?もし前者ならば、“殺ぐ”必要はなく、一般にいつも見る建築での柱の状況で、下の段は殺がないが、江南にある木構造或いは石構造建築では下1分割を巻殺する例をよく見るが、宋初の遺物で、杭州の霊隠寺大殿の前の石塔の柱は、柱身の下部に巻殺を持つ(図10-76、10-77)。木構造建築の例では、元代の浙江省武義の延福寺大殿がある。字面から理解すると“梭柱”と称するから、上下に皆巻殺が有るべきとなる。
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 3)生起と側脚:柱は架構中に置く時は生起と側脚のやり方を採用し、全体的に架構に強固さを加える。所謂、生起は中央間の柱は平柱で、中央間から隅に段々と高くし、間毎に生2寸、“もし13間殿堂ならば、隅柱は平柱より生1尺2寸高くする”。側脚は外檐柱の柱脚を外側にずらし、正面柱は“長さ1尺毎に側脚1分”即ち1%、側面柱は“長さ1尺毎側脚8厘”即ち0.8%、この様に柱に内向きの傾きを出現させる。生起と側脚は共に工作し、一種の内に集まる力を産み出し、上部の屋根の下向きの圧力と外向きの拡張する力の平衡を産み出す。

 4)柱高:柱高に関して、《法式》は僅かに“もし副階や廊舎の下檐柱が長い場合、間幅の広さを越えさせない”。そして一般に副階のない殿堂或は庁堂は、結局、柱高をどう確定するのかを《法式》は規定して居らず、実例から見る檐柱高も皆中央間幅の広さを越えない。但、両者は未だ固定的な比例関係が見いだせない。当時の建築は、檐柱の柱径もかなり後期まで太く、径と高さの比は最大で1/7ばかりで、少量のものが1/10に達する。《法式》は柱高は未だ規定を作らず、この部分は設計者の感覚が決めていると言える。

 5)拼合柱:柱の用材がかなり大きく、大きな材料が供給されない時は、拼合柱の採用をしても良い。《法式》巻三十の図に2段或は3段に拼合した1本の柱の工法を描き、梁類の部材も“上に繳背を加え、下に両挟を貼る”工法が有り、これは宋代の工匠が已に天然材料の組合せを探し始めた事を述べていて、小材を大材に用いることができる問題である。但《法式》がこの様なだけではなく、残っている木架構で拼合柱を使用した珍しい遺例が―――浙江省寧波の保国寺大殿である。これは木構建築技術が前向きに発展した重要な一方面である。
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         《 寧波市保国寺大殿の拼合柱 》





  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服
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# by songofta | 2017-06-19 21:16 | 旅と地域 | Trackback | Comments(0)