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「地球の歩き方」では数行、団体旅行には無い、一人旅のガイド


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261 建築実物

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
第三章 隋唐五代建築
第14節  隋唐建築の対外影響 


四、建築実物

1.飛鳥時代建築
 日本意現存する:飛鳥時代建築は全て奈良にあり、即ち法隆寺の中門、金堂、五重塔、回廊と法起寺三重塔の合わせて5つである。近代に毀去したが、精密な実測図があり、かつ再建されたものに大阪四天王寺と奈良法輪寺三重塔がある。
 四天王寺は聖徳太子が593年(隋開皇十三年)に建て、主体は中門、五重塔、金堂、講堂は全て中軸線上にあり、周りは回廊である。その建築特徴は柱が梭柱、大斗、散斗の下は均しく皿板があり、中備えは叉手を用い、叉手は直線で弯曲せず、その中門、金堂、講堂の入母屋増屋根は上下2段を均しく作り、切妻増の屋根の四周に檐を加えたような状態である。これ等の工法は、斗の下に皿板を加える四川の漢墓石刻に見え、入母屋屋根が2段に分けるのは漢末の高頣墓闕に見え、梭柱は北斉の義慈恵石柱に見え、直脚叉手は漢の朱鮪石祠と北魏石窟に見え、表現する所は、皆中国の漢、南北朝以来の古くからの工法である(図3-14-9)。
261 建築実物_e0309314_20262076.jpg
 法隆寺及び法起寺の建築は南朝建築構造部分は已に紹介した。その最大の特徴は平面寸法が材高を以ってモジュールとし、断面高さは1層の柱高のモジュール斗成っていることである(図3-14-10、11)。
261 建築実物_e0309314_19521052.jpg


2.奈良時代の建築

 日本に現存する奈良時代の建築遺構中、最重要で唐風をかなり多く反映するのは薬師寺東塔、唐招提寺金堂と法隆寺伝法堂、栄山寺八角堂である。

(薬師寺東塔):
 薬師寺金堂の東南方、西塔と相対して、共に中門、回廊で囲まれた主院落中に有る。塔は天平二年(730年、唐玄宗の開元十八年)に建てられ、方形3層木塔、層を逐って副階、缠腰を加え、6層の屋根で、外観は玲瓏秀美である(図30-14-12、13)。塔身の1、2層は毎面3間4柱、3層は毎面2間3柱を見る。1層の副階の桁行は5間6柱、2,3層の缠腰は毎面3間4柱。各間の間幅は等しく、毎層の柱高(地面より或いは平座より柱頭まで)は間幅の2倍。1,2層は堂内が柱ばかりである。3層の外檐柱頭及び隅角の鋪作は同じで、6鋪作で2抄1昂が出跳し、隅角の鋪作が正側面に出跳するのを除いて、45°の隅栱昂を加える。塔身の中備えは只1層に頭子蜀柱が有るだけで、2,3層には無い。3層副階の柱頭鋪作は只1斗3升斗栱で、乳栿の先と交わり、宋式の“杷頭絞項”の工法である;中備えは均しく頭子蜀柱である。塔身3層の扶壁栱は均しく2重令栱、素方を重ね、上は遮緣板を承け、敦煌の初唐壁画に描くものと同じである。上2層塔身の檐柱の位置は下層に比べ内に収まり、柱底は木坊の上に立ち、木坊は下層屋根の緣及び隅梁の上に置かれ、法隆寺塔の工法と同じである。1層塔身内は4本の内柱が有り、上下を貫通する刹柱(=芯柱)の外を囲む。柱上は出跳1の華栱の柱頭鋪作を施し、外檐平柱と隅柱の上から伸びて来る木坊を承け、内柱の上部に井幹構造の方井を形成する。井幹の上は再び抹隅梁を加え、頭四藻井に類似の構造である。2層の4本の内柱は、方井の4つの隅に立つ。2層柱の上端も又大斗を施し、2層の中柱、隅柱の上を内に伸びた枋を承け、2層の方井を構成する。1、2層は隅柱より内に伸びた枋は方井と交わった後内に向けて先を出し、刹柱のすぐ近くで垂直に切断され、枋井内の抹角井と共同で刹柱を護持し、その側に傾くのを防ぐ。中国南北朝以来、特に南朝は、史籍には刹柱が上下に貫通する木塔が沢山載っているが、実物の図像が均しく存在しない。日本の飛鳥時代の法隆寺塔と奈良時代のこの塔は、已に日本独自の創造の内に含まれるとしても、依然として我々は、南北朝後期と初唐のこの類の木塔形式と構造が提供される重要な参考資料で有ることを了解できる。
 経験から推測して、この塔の設計時已に材と“分”をモジュールとして使用し、1層の柱高を拡大モジュールとした。その栱(即ち、材)の幅は10“分”で、栱の高さは13“分”で、両栱間の隙間(栔)は8“分”、足材(1材1栔の和)は21“分”である。その材幅と足材の高さの和は唐宋建築と一致する。その1層塔身は毎間の幅は125“分”、ちょうど唐宋の1組の鋪作の標準幅数を用いている。1層の柱高は252“分”、間幅の2倍。1層副階の総幅は副階柱の4倍。桁行と柱高(地或いは平座面から柱頭)の比は、1,2層塔身は3:2、3層塔身は1:1。塔身総高さは1層柱高をモジュールとして、1層地坪から3層屋根の博脊は、ちょうど1層柱高の5倍。これに拠り、この塔の設計は頗る精密で、唐代のモジュール制設計方法が確実に日本に伝入していたことが判る。
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(唐招提寺金堂):
 これは唯一保存されている奈良時代の仏殿である。唐招提寺は天平宝字三年(759年)鑑真和上が創建し、金堂はその主殿で、具体的な建立年は不詳だが、近年日本の学術界の傾向は奈良時代末の宝亀年間(770-780年、唐代宗の大歴五年から徳宗の建中元年)に建てられたと見做している。それは桁行7間、梁間4間、単檐寄棟造の大殿で、殿堂型金厢斗底槽架構である。金堂は桁行7間梁間4間。日本の天平尺で計れば、正面の明、次、梢、尽間の幅は16、15、13、11尺に分かれる;奥行きは13.5、11尺に分けられ、面積は94尺✕49尺。その前檐外槽部分は敞廊で、その他は版門(厚板の高級な両開き戸)、直棂窗(連子格子)と牆壁を装着し、南面は5門2窗を開け、殿内は密着した内槽で北端に仏壇を設け、長さ5間で、信徒は仏殿を巡って経を唱え、香料を供える。金堂檐柱の柱高は明間(中央間)の幅と同じで、柱端の間は頭貫を施工する。外檐柱頭及び隅角鋪作は2抄1昂、第1跳は偸心で、第2跳の華栱は乳栿の外端、出跳した先端は瓜子栱を施工し羅漢枋を承け、昂の下端はわずかに上に跳ね、上は令栱、替木、橑風槫を承け、後尾は屋根の斜度に従って内上方に伸び、内槽枋の上に置く;鋪作内は出跳1の華栱が出て、上は乳栿を承ける;隅鋪作は正・側面を除き、45°の栱昂を加える;扶壁栱は2重に令栱素方を重ねる。内槽柱は檐柱より2足材高く出て、外槽乳栿の後尾は只内槽柱頭に挿入できるだけで、頭貫と高さが平になる。内槽柱頭と隅鋪作は外に向けて只1抄のみ出跳し、外槽の平㯦方を承け、内に向けて2抄を出し、先端で横に令栱を施工し4椽明栿と平㯦方を承ける。内外槽の中備えは均しく頭子蜀柱を用い、外槽は2重に重ね、内槽は3重に疊ねる。明栿の四椽栿、乳栿は均しく月梁とし、上に駝峰、大斗、平㯦方を施行する。平㯦方の上は平闇(=格天井)を架設する。内槽は出跳から四椽栿の上に向けて平㯦方は弧形の峻脚椽を架設する。平闇より上の部分は、後代の改造を経て、元あった草栿は無くなり、現在の工法は原貌ではない。(図3-14-14、15)。
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※竹中工務店HPより引用 

       http://www.takenaka.co.jp/solution/purpose/traditional/service07/index.html


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               http://mebaru34.sakura.ne.jp/mein/tousyoudaiji.html

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 唐招提寺金堂の規模と架構は、佛光寺大殿と頗る似ている。その内槽柱が檐柱より高い工法は、中国の現在の唐架構では見られないとはいえ、唐代工法はかなり応県仏宮寺釈迦塔の中に残されているのは公認されており、その1,2,3,5層の各層は却って皆この様であり、唐招提寺のこの種の工法は依然唐制であると信ずることができる。その他、檐柱頭鋪作の下昂の後尾は上に延び、直に内槽に挿入され、法隆寺や薬師寺の2塔と同じである。それは佛光寺大殿と異なるとは言え、却ってその地が中国延辺地区に属し、かなり多く古制を残して居ると認められている、五代末北宋初に建立の福州華林寺大殿と同じで、中国の古制にも属していると知られる。だが、金堂にも幾つか既に唐式と合わず、薬師寺東塔伴異なる所がある。その一は、柱頭鋪作の第2跳華栱は先端の交互斗を除いて、その内に又散斗1つを加え、下面の第1跳先端の斗の上下が相重なる。その二は、下昂の下端が僅かに上に反る。その三は隅鋪作の隅継ぎ手は正側面の瓜子栱令栱を承ける所が、平盤斗を用いず耳平と傾いて45°向きを変えた“鬼斗”を用いる。その四は、内槽の平闇の四周の峻脚椽が弧線で直線でない。この4点は又分別され、金堂と大体同時期の海龍王寺小塔、当麻寺東塔、室生寺五重塔に見えて、以後の和様建築中で大発展をする所である。この部分は日本の先人が唐文化を受入れた後、発展と創新したもので、中国の唐及び唐以後の建築には無いものである。

(法隆寺伝法堂):
 法隆寺東院に有り、桁行7間、奥行き8椽、単檐切妻造、庁堂型架構に属し、八道を用い“八架椽、前後の乳栿は4柱を用いる”架構で、唯妻面の2継ぎ分は四椽栿の下に中柱1本を増やす。その建物は元々、聖武天皇の時、橘夫人(橘古那加智)の住宅で、桁行5間を、法隆寺に舎入した後7間に増やし、時期は約739年頃である。その柱高は間幅と同じで、柱上は頭貫を施工し、柱頭鋪作は只大斗の上に横に替木を施行し、乳栿と檐桁を承ける、即ち宋式の“単斗支替”である。乳栿の後尾は内柱の柱身に挿入する。2内柱は屋根の勾配に従って高くなり、柱頭鋪作は依然として単斗支替で、四椽明栿を承け、四椽栿の上に平梁を置き、上は大棟桁を承ける。梁の間は墊托と乳栿、平梁の中心の桁を承ける所は、皆駝峰、大斗、替木を用いる。梁は皆月梁である。殿身の正面は3枚の版門と2枚の連子格子窗で、背面は1枚の版門と2枚の連子格子窗を装備し、その他の各間と妻面は均しく牆壁で塞ぐ。妻面の出の長さはま幅の半分近くなり、外観は荘重で伸びやかだが、現存の飛檐垂木、懸魚等は後代の補修で、原形式ではない。この殿内部は地栿上に架した地面枋に木地板を敷き詰めている。その比例関係は、大体柱高と間幅が等しく、柱礎表面から大棟桁までの高さは檐柱の2倍である。例えば檐柱の高さは地板面から計って、中平槫の高さはおよそ檐柱高の2倍で、屋根の挙高はほぼ前後の檐桁の距離の1/4より大きい。中国唐代の遺構には既に庁々架構に5間の堂は無く、遺物の最早は大同華厳寺の遼が建てた海会殿で、この堂の架構法式は同じだが、年代は280年前後晩い。この堂は日本貴族の邸宅堂の標準としても見ることができ、唐代居宅の5間堂の参考になる(図3-14-16)(参考図3-12-9)。
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(栄山寺八角堂):
 正八角形単檐の亭である。8本の檐柱を除いて、4本の内柱がある。その架構方法は、内の4柱の間に月梁を架け、梁の上毎に2つの大斗を置き、8つの大斗上に抹角梁を2つずつ架設し、八角井を形成する。更に八角井の上は、堂の南北軸線の位置に大梁を架し、梁上に木柱を立てる。外檐の8柱から各1跳の斗栱を出し、内に跳んで乳栿を承け、栿の後尾は内柱に挿入される;外に跳んで隅梁を承け、隅梁の後尾は内柱の八角井の上に架かり、これより再び続隅梁を架し、梁の後尾は木柱に挿入され、八角亭の骨架構を構成する(参考図3-12-27)。 この亭の平面と隋唐洛陽宮の九洲池で発見された亭跡と全く同じで、源が唐式であることが判り、その架構は我々に唐代八角亭構造として参考に供されるのを了解できる。
 諸建築の実物探索を通して、我々は、中国南北朝の影響を承けた日本の飛鳥建築中に、設計に既にモジュールが採用され、材高を以って平面寸法のモジュールとし、1層柱高(それは材高の整数倍である)を以って、拡大モジュールとしている。初頭の影響を受けた薬師寺東塔に、既に材幅の1/10即ち“分”をモジュールとし、材幅は10“分”、足材(即ち1材1栔)高21“分”、1層の桁行は毎間125“分”、1層柱高250“分”、塔身総高は1層柱高の5倍、即ち1250“分”。奈良時代末期の室生寺五重塔は、層を逐っての面幅は基本的に整“分”数で、刮規律性のある級差がある。これらの現象から看て、日本の古代には確実に中国古代のモジュール制の設計方法を接受し、それは形式の模倣ではなく、その建築体系の基本的特徴を吸収していたことを表している。
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(材“分”制の開始):
 中国中唐以前の木建築が既に存在しないので、我々は日本飛鳥建築に晩くとも中国南北朝後期に、木建築は既に材高を以って平面設計のモジュールとし、1層柱高を以って多層建築の高度設計モジュールとしていたことが推測できる;更に、日本奈良前期建築により晩くとも初唐には、在幅10“分”、足材高21“分”、平面と柱高は“分”を以ってモジュールとする設計方法が既に成熟していたのが判り、我々の中国建築での材“分”制設計方法が生まれた時期の認識が100年以上早まることを提示している。
 我々が中国古代が日本建築に与えた影響を探求する時、以下の幾つかの点を考慮すべきである:最早期に伝入した日本の中国建築体系が形成された飛鳥式で、朝鮮半島を仲介した為、朝鮮三国自体の発展が内在することは避けられ無いこと;法隆寺の飛鳥建築は皆和銅時代(中国の唐玄宗初期)に建てられ、かなり晩い時期の工法が混入しているかも知れない事;唐と直接交流後、伝入して日本で形成された奈良文化の建築中に、飛鳥式の伝統もその中に保存されていることも免れない事;奈良文化後期には、建築中に又日本自体の発展と創新が出現し始める事;平安時代に入って、日本は既に自己の建築が全面発展する成熟期に入り、“和様”に発展し唐風と違う道を歩むのである。

(中国と日本の異なる点):
 例えば、早くも南北朝時期に、中国の木構造建築の頭貫は、北朝の石窟であろうと南朝の墓室であろうと、大体は上下2層に作り、唐は“重楣”と称して、依然として用いたが、日本の飛鳥、奈良、平安時代建築中には全く出現したことがない。又例えば中国建築は頭貫上に普拍方を始めて使用するのは北宋だが、日本の飛鳥式の法起寺三重塔と奈良初期の薬師寺東塔は已に使用している。中国は唐以降、出跳する斗栱に足材を用いるが、日本の古建築中、法隆寺中門と唐招提寺金堂の隅縫の第1跳に足材栱とするのを除いて、等しく単材栱とする。楼閣建築中、上下層の間数は異なり、上下柱は対位せず、平座を設けず、上層の欄干は下層の屋根の上に装着する工法で、雲崗石窟に見るように、これは中国南北朝の工法そのものである。;唐代は一般に平座層が増加し、その形像は懿徳太子墓と敦煌石窟壁画に見るが、日本は飛鳥式より南北朝工法を採用後、ずっと奈良時代まで延用している。外観に平座のある薬師寺東塔は、その塔身は依然として飛鳥式に沿っており、上層柱は下層椽上を圧える地梁の上に立ち、只缠腰(裳階)に唐式を模して平座形式を出すが、実際は形式上の初唐の模倣である。前述の奈良後期の下昂先端の反りと第2跳華栱に心斗を加える工法は、明らかに日本での発展である。
 これに拠り、異なる時期の日本古建築に対して、我々は只その中に反映した幾つかの中国の影響を考慮できるだけで、影響の大きさは中国式そのままのものとはとても看られない。唐代の建築と日本の奈良期建築を比較すると、風格気質が明らかに異なる。唐代建築は佇まいは快活、風格は豪放、曲線は力強くしなやかであり、日本建築は同様の形式の下、線がかなり柔らかで秀美、細部処理は緻密で精緻、細心さを感じ、自ずから区別できる。
 中国南北朝時期の木構造建築は長らく存在せず、唐代も只4座が残るだけで、全体配置は全く考慮も出来ない。日本に現存する飛鳥奈良建築は26座の多きを数え、絶対年代は大体中国現存の唐構拠り早く、それらは世界の歴史文化の宝だけでなく、我々が南北朝及び唐代建築に重要な参考を提供することが出来、中国にとっても特別な意義があることを了解できる。だが、それは結局、日本の先人が造った日本建築である。古代と現代歴史は全て、日本は学習の導入から自己の創新に転じるのが極めて速いことを示している。従って我々は研究する時細心の比較で、その中の中国の影響部分を切り出し、日本の発展創新を中国南北朝、隋唐文化と誤認すべきではないのである。(第2巻 完)


# by songofta | 2017-10-26 20:29 | 古建築 | Trackback(2) | Comments(0)

260 隋唐建築の対外影響 

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
第三章 隋唐五代建築
第14節  隋唐建築の対外影響 

(西方諸国)
 隋唐は中国古代国家を統一し、強大な繁栄の歴史時期の一つで、政治、経済、軍事、文芸、科学技術は、当時の世界の前列に位置し、四周の隣国との交流が頻繁であった。聖域、西アジア、中東諸国に対しては、商業貿易関係が主で、昭武九姓諸国(注;下図の西域諸国)を仲介して、遠くは東ローマに至った。中国は絹製品を輸出すると同時に、大量の西アジア、中東乃至ローマ風格の器物を輸入し、唐代の生活用具の造り、装飾図案、果ては生活習俗や芸術嗜好に対して、頗る影響を与えた。だが、建築上は、中国が自己の木架構を主に庭院式配置の建築体系を実行しており已に定型と成っていて、完全に当時の需要を満足していたため、合わせて礼儀制度と結合しており、外来の建築は、只栄養として消化吸収され、衝撃的或いはかなり大きな影響を産み出すことが出来なかった。唐玄宗が清涼殿を造り、王鉷が自雨亭を建て、史書は東ローマ帝国を真似したが、只猟奇的なだけで、宮室や邸宅には大きな影響は無かった。これと相応して、西アジアや中東諸国も自らの発達した文化伝統があり、今まで建築上、唐の影響の痕跡は発見されていない。
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(朝鮮)
  だが、隋唐2代、特に唐は、当方諸隣国例えば朝鮮半島の三国と日本には巨大な影響があった。
  朝鮮半島の高句麗、新羅、百済三国は、南北朝時期には別々に南朝と北朝とかなり密接な連携があった。北魏太武帝の太延三年(437年)、高句麗は遠く平城に遣使し、南朝の往来は更に早く宋少帝の景平元年(423年)である。経済文化交流と仏教伝来に従って、南北朝は朝鮮半島の建築にも重大な影響があった(図3-14-1)。隋唐2代は短時日、高句麗を侵略したが、もっと長い時期は平和に交流していた。676年以降、新羅が朝鮮半島を統一し、唐とずっと友好関係を保持し、交流は更に密接であった。新羅の都城慶州は、計画を唐長安の影響を受け、方格網の街道配置であった。現存の慶州仏国寺は配置と建築工法も明らかに唐風である。近年韓国慶州の仁旺洞雁鴨池出土の一群の7世紀の鴟尾と圧鳳紋や宝相華紋の方塼は、その華紋の精美、細工の細かさは、現在発見されている唐代の華紋塼を遥かに超えている(図3-14-2)。その建築の精美と唐文化の影響の大きさを知ることができる。だが目下の所、発表された材料は少なく、慶州に関して依然として探査研究の過桯にあり、尚無条件で具体的探査をしている。だが、朝鮮半島は漢唐以来、中国の影響を受けて、建築は木架構を主として重要な建築群は、封閉式院落配置の特徴をもつのは、疑いの無いことである。
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(日本)
  日本と中国の交流は悠久の歴史があり、諸伝説はさて置き、日本で近年発見された“漢委奴国王印”の金印は、晩くとも漢代に已に正式な関係があったことが知られる。南北朝以後、中国は戦乱が多く、日本はかなり多くを朝鮮半島三国を中国との仲介として連携を持った。577年(陳宣帝の太建九年、北周武帝の建徳六年)百済の造仏像、仏寺工匠が日本に渡り、588年(隋文帝開皇八年)日本は法興寺(飛鳥寺)を建てた。仏教の伝来と興盛に従って、中国の建築体系も仏寺建設に従って日本に輸入された。593年(開皇十三年)に建てられた四天王寺と607年(隋煬帝大業三年)に建てられた法隆寺は、日本の学者の研究に拠れば、全て朝鮮半島を経由して転入された中国南朝様式である。この時、隋は已に南北を統一していたが、海外に向けて転々と伝播するのは、建築風格が停滞して遅れたのも理解できる。
  推古天皇の時、607年小野妹子を隋に使し、翌年隋は裴世清を遣って回報したが、時に煬帝大業三~四年は、隋の国勢が極盛時期に当たる。唐の建立後、日本は630年(唐太宗の貞観四年)より、第一次遣唐使を開始し、894年(宇多天皇の寛平六年、唐昭宗の乾寧元年)まで、18次の遣唐使を派遣し、ほぼ唐王朝の始まりと終わりに相当する。この期間に、日本は唐代文化を吸収し、政治や経済、文化、技術の諸方面で巨大な変化を産み、日本の情況と結合し、自己の文化を素早く発展させた。日本は710年(元明天皇の和銅三年、唐睿宗の慶雲元年)から784年(桓武天皇の延暦三年、唐徳宗の興元元年)奈良に都し、史上“奈良時代”と言われ、初唐、盛唐文化を最も多く吸収した時期である。建築方面では、都城、宮室、寺廟と建築芸術や建築構造の諸方面に明らかに反映されている。奈良時代後期、日本は已に自己の文化の発展を開始し、鑑真が伝出のため渡東後居住した唐招提寺の中に、その主建築である金堂に、以後日本和様建築に属する萌芽を看ることができる。794年になると、(桓武天皇延暦十三年、唐徳宗の貞元十年)平安京に遷都し、史上“平安時代”と言われる。この時期、当文化は依然継続して伝入しているとはいえ、日本建築は已に自己の発展路上を走っており、唐代の経験に対して、工法はまだ吸収するところがあるとは言え、建築の配置、外観、工法上は明らかな違いが出現している。
  下面に都城、宮室、寺院、建築遺物諸方面を深く検討してみよう。

一、城市
平城京:奈良盆地北部にあり、東と西側は山か丘陵である。日本元明天皇は和銅三年(710年、唐睿宗の慶雲元年)ここに遷都した。桓武天皇の延暦三年 (784年、唐徳宗の興元元年)に長岡京に遷都して止むまで、日本の首都として75年存在し、この時期を称して“奈良時代”と言い、日本と唐の交流が最密接で、全面敵に唐文化を吸収し、日本の実際情況と結合して国家を建設し絢爛足るなら文化時代を創出した。平城京は首都で、当文化と日本の実際を結合した後創建された偉大な都城であった(図3-14-3)。
 日本の考古学者の数十年の努力を経て、平城京の情況は基本的に明らかに成った。その平面は地形の制限により、南北に長い矩形に作り東西は役4.2km、南北は役4.8km。城の南堺は局部的に城があり、正中央に城門を建て、“羅城門”と名付け、城の南堺より少し張り出す。城門の台基は東西38m、南北20m、これは巨大な建築である。城外は城濠があり、羅城門の前には3条の跨濠の橋があり、東西に並んで“三枚橋”と言う。城内の街道は方格網の配置である。全城の南北中軸線上に主街を作り、朱雀大路と言い、長さ約3.8km、幅72m、南は羅城門に至り、北は宮城の正門朱雀門に至る。朱雀街の両側は又東西に向いた街で、“条” と言い、南北に向いた街を、“坊”と言い、条坊制城市と言う。“条”は合わせて10道あり、北から南に、“一条大路”から“九条大路”まである。“坊”は合わせて8道あり、朱雀大路より、東西に向かって、別々に“東一坊大路”から“東四坊大路”までと“西一坊大路”から“西四坊大路”までである。路幅は、約24m、路の外側は幅2m前後の側溝がある。全城は“条”と“坊”に分けられ、72の方格になり、朱雀大路を堺として、大路の東の36格は“左京”とし、大路の西は“右京”とする。城の東、北、西の3面は、最外側の条か坊を以って限りとし、唐代城市の順城街に相応し、城壁はない。建設完成後、一条から五条王寺の間の部分で、東四坊大路以東に東五坊から七坊大路を増設し、15個の方格を増拓し、“外京”と呼んだ。外京北部の3格は地形の制約を受け、只半格幅で作り、実際は13.5格である。この欠けた1.5格を城の西北隅に移し、各半格を深くし、“北辺坊”と呼んだ。この様に、全城は実際上、左京37坊、右京34坊、外京12坊、合計83坊である。外京を増加した後、東西の幅は5.9kmに拡がった。
 これ等の方格の大きさは等しく、540m見当で、中国の城市の坊に相当する。その中の中軸線の北端の四坊は宮城が占め、後に又、東に向けて3/4坊の面積を拡げ、合わせて4と3/4坊を占め、その他の配置は居住区や寺廟、市等である。一坊毎に中を小街で16の小格に分け、“坪”と呼び、毎坪は120m見当である。坪間の道路は幅4mで、路傍は水溝がある。“坪”内は住宅が建つ。一般の庶民住宅は、約一坪の1/16前後を占め、大きいものはその2~3倍で、約900、1800、2700平方m前後である。貴族の邸宅の占地は甚だ大きく、4坪即ち1/4坊になる者もある。邸宅によっては、園林を建て、池を穿ち橋を架け、池の中には島か州浜があり、卵石を池底と岸辺州浜に敷き詰め、さながら唐洛陽の園地の風貌である。
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 平城京内には、東西両市が設けられ、東市は左京八条三坊、西市は右京八条二坊で、東西に相対している。市は全坊を占めては居らず、只各坊の南半中間の4坪を占めるだけである。
 城内には陸続と若干の大小寺院が建てられた。先ず遷都の初めに、藤原京から薬師寺、元興寺、大安寺等が写り、その中の薬師寺は右京六条二坊の12坪の地を占め、元興寺は外京四条、五条七坊の15坪を占め、大安寺は左京六条、七条四坊の15坪を占め、いずれも巨大な寺院である。創立の時期はいずれも714年カラ:718年の遷都の初めである。同時に、718年興福寺が建てられ、外京の三条七坊に12坪を占めた。745年前後に皇家は東大寺を建て、寺は外京の東、東は若草山に掛かり、当時約700m、南北約900mで、これは平城京第一に寺である。766年、右京一条三坊に皇家は西大寺を建て、占地は12坪、東大寺と東西に相対した。平城京の2座の最巨大な皇家の建てた寺院である。その中の東大寺は南北長が1kmに近く、東西は約0.8kmで、唐長安城の中に置いても、一級の大寺の規模である。
 ※注;最近の発掘で一時期、十条があったらしいことも判った。
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 平安京:今の京都市にあり、桓武天皇が延暦十三年(794年、唐徳宗の貞元十年)長岡京よりここに遷都した。城市の輪郭は平城京の初建時と同じで、南北が長い矩形で、外京及び北辺坊の両突出部は無い(図3-14-4)。平安京の規模は延長五年(927年)編定された《延喜式》の記載では、:東西1508丈、南北1753丈;東西は8坊に配列され、坊間に9条の大路があり、それとは別に朱雀大路の両側に半坊離れて1条が追加された;南北は9坊に配置され、北端は又半坊が増やされ、11条の東西大路があり、別に宮城の東西側に2条追加された。諸路のなかで、中軸線上の朱雀大路は南北の主街で、幅28丈、その次が宮前の東西の横街で、幅17丈、その他の各路はその重要性に依って、幅12、10、8丈の3級あり、その内、南順城街は12丈上、東西順城街は10丈である。全城は朱雀大路を以って左京と右京に分かれる。
 平城京と同じく、平安京は道路により72個の全坊と8個の半坊に分かれる。宮城は最北端にあり、北は北順城街に臨み、占地は2個の半坊を除く4坊である。東西の市は、左京と右京の八条二坊にあり、朱雀大路の東西に遥か離れて相対する。東寺と西寺を建て、各左右京の九条一坊の東、西半坊を占める。
 坊の内は、小街で16格に区分し、平城京の16坪と同じである。坊内は宅を建てる。《延喜式》の規定は、“およそ三位以上は、大路に門を建てても良く、四位の参議はこれに准ずる。その建てても良い人は、その身が亡くなっても、子孫が住む間は亦構わない。これ以外は、門に制限が無くても、その坊丈の垣にひらいてはならない”。即ち、三位と四位以上の交換を除いて、坊の壁に門を開いて大路に臨むことは出来なかった。これと《唐会要》に載る唐長安の各坊が“三品以上と坊内三絶でなければ、街に向かって門を開いてはならない”の規定は同じで、平安京が城市配置から管理制度まで、全て唐長安の経験を参考にしていた証明である。
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 《延喜式》も記載する平安京の両市の情況は、東市は市の建物が51、西市は33有り、規定では市の建物毎に題号を立て、只その経営する商売の表示を出した。又言う“凡そ京中の衛士、仕丁等の坊は商売をしてはならず、但、酒食はこの例にあらず”と。即ち唐長安と同じで、平安京の商業も市の中の活動に限定し、坊の中では酒食以外、商業活動を進めることは許されなかった。

 総じて、平城京と平安京2京の計画を観ると、その中軸線上に主街を置き;宮城は街の北端にあり、北は城の北堺に臨む;全城は方格網の道路で若干の方形坊に区分され、坊内は16の小格に分けられ;主街を挟んで対称に東西市等を設ける情況を看ると、明らかに唐長安の特徴を吸収している;そして、諸坊の平面は方形で矩形に作らず、又洛陽の特徴を球種したことを表している。だが、日本の具体的情況に適応して、2京とも一連の重大な改変をしている。最主要なものは;1.城壁を作らず、順城街を堺限とする;ただ南面だけに羅城門を作り、小さな城壁と濠を附け、他の各面は門を設けない。2.平城京創建時、地形の制限を受け、東西に発展できず、南北に長い矩形を作り、唐長安の輪郭が作る東西に長い矩形とは異なる;だが以後の発展は東に向かって外京を発展させ、依然として唐長安が有効な法式である意を表している。平安京建設時、平城京を専ら法式として、整頓して画一さを加え、ついに縦長の矩形とした。3.2京は全て宮城があり、中央官署は宮内に設け、その南は皇城を設けず、唐長安宮城が皇城の前後に設けるのとことなり、唐宮内と宮外に2組の機構が重複する弊害を避けている。
  平城京の面積は約唐長安の1/4強で、平安京の東西は約4.5km、南北は約5kmで、面積は22.5平方km、唐長安の27%で、周長は43唐里で、周長40里の唐揚州と周長37里の渤海上京よりやや大きく、わずかに唐長安、洛陽両都の巨大年より小さい。

二、宮殿
 日本はこの時期、最重要な宮殿は創建が和銅三年(710年、唐睿宗の慶雲元年)の平城宮と創建が延暦十三年(794年、唐徳宗の貞元十年)の平安宮で、時代は分かれて盛唐と中唐に相当する。その内、平城宮は重点的に発掘が進んでいる。
 平城宮:平城京の中軸線北端、南北、東西が均しく各幅約1kmの正方形である。以後に、東に幅を約260m奥行き約750mの一区画を拡げ、東院と称した(図3-14-5)。
 宮の四周は、高さ約5mの覆瓦の土壁で、城壁ではない。南、西、北の3面は各3門があり、その南、北城の各門は離れて相対する;東院の東面は2門で、南面に1門;合わせて12の宮門がある。諸門は皆下に門墩を持つ城門ではない。正門は朱雀門で桁行7間、幅25m、奥行き10m、2層の入母屋造の楼屋で、その次に重要な門は多くが切妻造である。宮内は朱雀門の中軸線上に、朝堂院と太極殿を建て、前後に重なる2つの院落とする。太極殿の一組は、東西180m,南北290m,周りを回廊とし、南面の正中央に門を開き、門の左右に楼を建て、殿庭の後部の地勢は高く上がり、前面に磚を積んで覆い、高台基を形成し、台上の正中央に桁行9間梁間4間の全宮殿の主殿太極殿が建つ。天平十二年(740年、唐開元二十八年)恭仁京に遷都する時、新宮に移建した。天平十七年(745年、唐天宝四年)平城京に都が戻ると、宮の南面東側の壬生門内に新しく一組の宮院を建て、宮の東側に又、1条の南北の軸線を傾城した。因ってその前部も朝堂院と大極殿があり、史家は“第二次朝堂院”、“第二次大極殿”と称し、中軸上の始建時のものを第一次朝堂院、第一次大極殿と称した。第二次朝堂院の一組は大体前、中、後の3重の宮院に分けられる。最前の1重は朝集殿院で、第2重は朝堂院で、2つは東西幅が同じで、180m前後である。朝集殿院は前に在り、奥行き135mで、南北の壁の正中央に各桁行5間も門があり、両側に東西に向いた朝集殿が建つ。第2院は朝堂院で、南北約285m、庭に左右対称に各6棟の切妻造の建築が建ち、中央に広場を残す。第3重の院は最大で、東西約280m,南北に奥行き約380m、南面に3門、東西に各2門を開き、これが宮殿の主体である。その前部は大極殿区で、大極殿門及び回廊が東西約110m、南北約80mの院落を囲む。主殿の大極殿は庭の中央より北に偏って建ち、前後2殿となる。前殿は桁行9間、梁間4間;後殿は桁行7間、梁間2間である。大極殿門は桁行5間、梁間2間で、門外はすぐ朝堂院である。第3院の中央、大極殿区の後は、又回廊に囲まれた約東西185m、南北190mの大院落があり、即ち寝宮の有る所で、“内里”と称する。内里は即ち帝と皇后の住む所で、中国宮殿の寝区に相当する。内里は中軸線上に前後2殿と、それぞれ配殿、囲まれた庭院があり、内里の主殿である。内里の四周には、巷道があり、南巷道の南はすぐ大極殿で、東、北、西3面の巷道の外は若干の閉ざされた院落が建ち、内里の補助建築となる。第1、第2朝堂院が2筋の中軸線を傾城するのを除けば、宮内の東西部は全て宮内の官署と馬寮、造酒司等宮中の倉貯庫厩等の奉仕性の機構が配置され、それぞれ閉じた院落となる。後に拡張した宮東部は、南半は“東院”と称され、太子の居所である。東院の東南隅に園林遺跡が発見され、卵石で底を敷いた屈曲した池塘で、池に臨んで軒館遺跡がある。それとは別に、宮の西南隅と西北部にもっと大きな湖があり、西北部は“西池宮”と称し、宮中の禽獣の飼育苑部分に属する。
 平城京の配置を看ると、始建時は中軸線上に朝廷区に相当する朝堂と大極殿を建てたが、その後寝区を建てる余地が無く、その寝区の位置は考証を待っている。第2次朝堂院一組は朝集殿院と朝堂院と大極殿で朝廷区を作るが、大極殿は又寝区に相当する第3重院の前部にあり、唐宮の類比で、それは大極宮中の両儀殿と大明宮の紫宸殿と近似される。従って、平城宮の配置も唐宮を参考にし、又実際の需要を見て改変を加えている。
 だが、その実測図を分析すると見て取れるのは、第2次朝堂院の南壁は南堺で、第3重院の北壁は北堺となり、大極殿は正中心点にある。已に発表された第1次、第2次朝堂院の宮中での位置図を看ると、第1次朝堂院の前は朝集殿院が無く、これは第2次の時に増加したもので、第1、2両次の朝堂院の南壁は同じ1本の東西線上にあり、設計時は朝堂院と第3重院を統一した考慮し、大極殿を中心位置にしたことが判る。宮中の主殿を中心位置に置くのは漢以来の伝統で、例えば、前節に述べた、唐洛陽宮、大明宮、渤海上京宮は全てこの様だが、手法はやや変化がある。平城宮第2次朝堂院一組は、大極殿を外朝内廷の総長さの中点上に置き、当に唐代経験を参考にして変通を加えたものなのである。
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三、寺廟
 日本は588年(隋文帝の開皇八年)より、仏教が伝入し、法興寺(飛鳥寺)を始建した後、仏教は日に日に盛んに成った。初期の仏寺は多くが朝鮮半島から間接的に伝入し、史上“飛鳥式”と称し、四天王寺、法隆寺を以って代表とする。中国の隋唐時期、日本は直接唐と交流し、留学生、求法僧は往来が絶えず、唐代仏教文化は大量に日本に伝入した。日本はならを建都した75年中、当文化を最も多く接受し、そのため、奈良時代の寺廟はかなり多くが唐代の影響を反映している。
 飛鳥時代の2寺の平面は頗る異なる(図3-14-6)。
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(四天王寺)
四天王寺は593年に建ち、その主体部分は縦長の方形で、周りは回廊を以って院落を囲み、中軸線上に、南端に中門が建ち、単檐入母屋造建築で、桁行3間、左右に回廊が接ながる。中門内は五重塔で、方形、1層から4層までは毎面3間、第5層は毎面2間。塔の北は金堂、即ち正殿で、桁行5間、梁間4間、重檐に作り腰檐より上は上層柱を立て、桁行3間、梁間2間、上に単檐入母屋造屋根が載る。上層は楼板が無く、登ることはできず、純粋に重檐野外形面を作るよう設計した。金堂の後は講堂で、単檐入母屋造建築である。それとは別に東西面の回廊に東西門を設け、桁行3間の切妻造建築である。
(※注;四天王寺は、旧建築を踏襲しているとは言え、度々の火災で再建を繰り返しており、配置を別にして、
    果たして飛鳥建築としてよいのかはかなりの疑問がある。)
 四天王寺はこの種の中軸線上の前塔後殿のは位置は、日本の学者は朝鮮半島三国時期の百済で流行した様式と見做しているが、それは史料に載る北魏永寧寺が同じものである。近年発掘の西安青龍寺跡は、その西部一院も中軸線上に中門とし、門内の庭中に前塔後殿で、唯講堂が無い。つまり、塔と殿の関係を看れば、四天王寺と同じである。この種の配置は中国の北朝から唐まで存在していた。故に四天王寺の平面の源は中国南北朝でないかと疑われる。
(法隆寺)
 法隆寺西院は680年(唐高宗の永隆元年)に再建され、横長の方形院落で、回廊に囲まれる。何面の正中央に中門が建ち、桁行4間梁間3間の二重檐の門で、構造は四天王寺金堂と同じ。中門の左右は回廊が接がる。院内は東に金堂、西に五重塔の東西配列である。現状はその後に講堂があり、東西の後側に鐘楼と経蔵があり、これは後から増入した者で、原状ではない(図3-14-7)。この種の金堂と塔が東西に並列する配置は、日本にはまだ法起寺と観世音寺があるが、中国ではまだ遺跡が発見されていず、史料にも未だ手がかりがなく、その淵源は尚考察が今一歩進むのを待っている。
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(塔配置)
 日本と隋唐の直接の往来の後、藤原京と平城京に建つ仏寺は唐代の影響を強く受ける。元藤原京(694-710年、則天武后の延載元年から唐睿宗の慶雲元年)に建った薬師寺、大官大寺等は、均しく初唐の影響を受ける。710年平城京遷都後、藤原京から遷った諸大寺を除いて、又前後して東大寺(745年頃、唐玄宗の天宝四年)と西大寺(766年、唐代宗の大歴元年)等の国家級大寺が創建され、盛唐の影響がかなり大きく受ける。
 平城京内の諸大寺の建つ坊内は、多くが占地の単位を坪として、已に前に見たように、その配置はおうおうにして分割した坪の小街の影響を受け、一坪を一院とした。例えば薬師寺、大安寺、元興寺、西大寺等である。諸寺の主体部分は皆、前は南大門で、門内は中門と回廊で囲む主院、院内の中軸線上は正殿、金堂と称する、と飛鳥時代寺院の主院落内の塔堂を前後に疊ねるか、東西並列配置の形式と完全に異なり、唐より伝来の新配置を当てた。寺内の中軸線上の重要な建築はまだ講堂があった。薬師寺と元興寺講堂は金堂の後で、主院落の中に有るのを除けば、その他は全て主院の後で、左、右、後の3面は僧房で囲み、東大寺、興福寺、大安寺、唐招提寺、法華寺等は皆この様である。奈良時代の寺院中、塔は已に対称の双塔に改められ、金堂の前方に置かれた。薬師寺の東西塔が主院内に建つのを除けば、そのたは主院外の前方東西側にあり、塔外は囲壁か回廊があり、塔院を形成(図3-14-8)。塔の仏寺中の位置は、中軸僭上か塔殿並列から、仏殿(金堂)が中央に変化発展し、塔が殿前に分かれて列ぶ(薬師寺型)、再度変化して主院落外に移され、前方に対称に建つ(東大寺型)は、この時期仏寺配置の重要な変化で、これは唐段成式の《酉阳杂俎・寺塔記》と張彦遠の《歴代名画記》が記す両京寺観壁画中に形跡が見られ、日本のこれ等の寺院遺址が我々のこの方面の認識を充実させるものである。西大寺、元興寺等の仏寺主院周囲に各院を配置する配置も、我々が唐代の若干の大院の大寺が提供する資料に無いものを認識させるが、日本の寺内各院は坪を単位としたのは、恐らく日本の実情に結び付けた結果であろう。僧房が講堂の左、右、後3方に並んで建つ配置は、中国では類似の唐代遺址が発見されておらず、わずかに《関中戒壇経》、《舎衛国祇園寺図経》に想像の仏寺として挙げられてきて、この2経の中国伝本は宋代に日本から反転して中国に返ってきたもので、唐代に日本に伝入されたことが判る。日本の仏寺中の僧房のこの種の配置はこの2経に淵源があるかどうかは、尚一歩研究が進むのを待つ。
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  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛

# by songofta | 2017-10-15 20:02 | 古建築 | Trackback(12) | Comments(0)

259 工程管理機構と工官、工匠(2)

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
第三章 隋唐五代建築
第13節 工程管理機構と工官、工匠

※ここでは、工匠と、建築の等級制度を扱う。工匠は、いわば棟梁も含めた職人を指すようである。等級は材“分”制度と密接に絡み、身分による制限として、服装や装飾とともに、古代制度を看る上で重要である。我が国でどのような建築等級があったのか、寡聞にして知らない。

三、匠師
 隋唐時期建築工事中の基層の技術人員は匠師である。《唐六典・工部》が説く:“凡そ、興建修築、材木、工匠は少府、将作の下にあり、以ってそれに従事する”。原注に:“少府監の匠は1万9千8百50人、将作監の匠は1万5千人、諸州に散らばり出て、皆膂力が強く、技能が優れている。……工匠に弟子入りすると、別の職種に移ることは許されない”。これは《唐六典》で出来た開元27年(739年)以前の状況である。《新唐書・百官志・将作監》の言う:“天宝十一年(752年)、大匠を改め大監とし、少匠を少監に改めた。府に14人、史28人、計史3人、亭長4人、掌固6人、短蕃匠1万2千7百44人 、明資匠260人”。天宝十一年(752年)以後の情況である。“蕃”は即ち番で、輪番役を指す。唐制は毎1年役20日、これを庸と言い、加えて50日の役で租庸調を全て免除した。短期役の20日から50日の工匠が短番匠である。それとは別に、技術が卓越して全年役に付く者を長上匠と言った。これらの者は50日を超えた分を官家が銭を払ったので、“明資匠”とも言った。将作監のこの260人の明資匠は、各工種の匠師で、亦国家が掌握する建築工事の隊伍の中心で最も基本的な技術力量であった。
(梓人伝)
 これらの工匠の情況は、史籍には極少の記載しかないが、柳宗元の《梓人伝》の1篇に、木工匠の工作情況が記載されている。〈伝〉には、柳氏の姉夫裴封叔が長安光徳坊に住み、楊という梓人が家を借りていて、自ら言うには“私は、善く材料を計り、建物の制を視て、高さや奥行方円長短の宜しきを得、群工を指揮する役であった。建物では多く建てた中で出来なかったものは1棟もなかったので、官府に食を得て、3倍の禄を受けていた;私人の家の場合、その実入りの大半を収めた”。後に、京兆尹が官署の将作であった時、“沢山の材料や、多くの工匠を集め、或は斧を執り、或は刀鋸を執って、皆周りに立ち、彼等に向かって梓人は左手に引を、右手に杖を持って中央に居た。建物を量る責任と、木を視る能力から、その杖を挙げて言うのには:「あれを斧で切れ!」斧を執る者は右に走り;顧みて指して言うに、「あれを鋸引け!」鋸を執る者は左に急ぐ。忽ち、斧は断ち、刀は削り、皆その品質を視て、その言を待ち、敢えて自ら判断する者がない。その任に堪えられない者は、怒ってこれを退け、亦敢えて憤ることは無かった。壁に宮の図を描き、1尺足らずにしてその制の曲直を尽くし、僅かを計って大建屋を構成し、戸惑う事が無かった。すでにして完成し、棟桁に記して、某年某月某日某建てる、即ちその姓字である、凡そこの工事を執行した者の名はない。私は周りを看て大変驚いて、それからその仕事の技術の大なるを知った。……梓人は恐らく古の異なる情況の下、曲直をよく看て、器物を作る者であって、今に言う都料匠であろう。私が偶々あった楊氏は、その名は表に出ないのである。
 この中で描写されるのは、一木工匠師で、”官府に食を得て、3倍の禄を受け”の句から、”明資匠”の筈である。”壁に宮の図を描き”の段は、彼が建物を建てる時、先ず建築物の断面図を描き、設計を進め、建屋書く部分の大きく輪郭寸法を確定し、“材分”を換算して書く建築部材の寸法を推算した後、工匠を指揮して施工したことを示している。文中に、彼が指揮する時に手に”引”と”杖”を持ったと言っている。引は〈伝〉の中で又”尋引”と言い、注に” 尋は8尺、引は10丈”とあり、代表尺のことである。”杖”は”杖桿”を指し、匠師は白木の長い木尺の上に、加工の必要な部材の3次元寸法を引き、工人に渡してこれと照合する制を取った。現在に至っても、伝統的木工匠人は使用しており、この規則は唐代より已に用いられていた。唐代に至り、中国大木作の“材”を以ってモジュールとし、“分”を以って分割モジュールとする“材分制”設計方法は已に成熟し、建築物の桁行や柱高の比例と、部材の3次元寸法が全て相応する“分”吸うで規定され、故に一旦建物の地盤図が確定した後、用材等が即確定した。建物の側面(断面図)を描き出した後、即材等級と“分”値を根拠にして、部材の3次元寸法を推定し、部材は詳細図を必要とせず直に制作して誤りが無かった。清代の大木作は斗口をモジュールとする“口分制”を以って実行し、これは“材分制”から変化発展したもので、それは官が定めた《工部工程做法》を除いて、工匠の間で数え歌で師弟に相伝されたのである。施工時、工匠は、匠師の支給した杖桿を根拠に数え歌を結び付けて制作し、一般に紙の図面が不要であった。〈梓人伝〉の言う杖を持って工匠に制作を命じた情況を看ると、早くも唐代には已にこの様だったのである。
 〈梓人伝〉は更に、彼はかつて梓人室で、その寝台の足が欠けたのを見て、自分で修理できず、他の工匠の助けを要求した。この情況は、この梓人は自分は労働に参加せず、設計を進めて別の工人の施工を指揮し、そう情況は清代の様房師父と現代の設計人員に近い。この種の建物の設計を進め施工を指揮する高級木工匠師は、唐代に都料匠と呼ばれた。彼が建物の設計と施工の全てを主持したので、建物の完成後、大棟桁に彼の名を記し彼の建造であるとみなされるのである。

《冊府元亀》巻14に載る、敬宗の宝暦二年(826年)正月“勅,東都以来の旧行宮は、宜しく度支郎官一人に命じ、都料匠を率いて、関係する道路の簡易見積もり及び洛陽城宮闕を、東都留守と協議して見積りと分析して報告せよ”と。これから“都料匠”は官の匠師中の木工首領の職称であることが判る。 隋唐時代も沢山の巨大な石工工事があり、例えば隋代に天龍山石窟を開き、趙州の安斉橋を作り、唐代には龍門の奉先寺石窟を開き、洛陽の天津橋や中橋等を作った。隋唐は更に、多くの石塔を建築し、ある者は比例が美しく、ある者は紋飾りが精美で、全て高い芸術価値があり、惜しむらくは石工の名が大部分伝わっていない。少数の名前の残っている石工の中で最重要なものは、趙県安斉橋を建てた隋匠李春である。唐の宰相張嘉貞が撰した《趙郡南石橋銘》は、序の中で言う;“趙郡洨河石橋は、隋匠李春の跡である”と。だが、それ以上の記載はない。やや晩くなって張彧の撰した《趙郡南石橋銘》は、“穷琛莫算、盈紀方就”。“琛”は珍宝を指し、一紀は12年で、意味するのは多くの金銭を用いて、12年でやっと建て終わったことを指す。明代の孫大学の〈重修大石橋記〉に、李春は隋大業年間の石匠で、隋大業はたった13年、そして8年以後は各地で蜂起があり、已に建築する条件が無く、隋文帝の末期に始まり、完成は煬帝前記だろうとしている。安斉橋は正味スパンが37.02mで、世界で最早の敞肩型石橋(※注)である。李春はその設計者で、一般の施工の工匠では無かった筈である。259 工程管理機構と工官、工匠(2)_e0309314_125415100.jpg 北京房山の雲居寺は唐開元九年(721年)に建った9重石塔に石匠の姓名が彫られ、“ 垒浮図大匠張策、次匠程仁、次匠張恵文、次匠陽敬忠”とある。この塔は唐塔の中で一般的レベルに属し、その工匠も当時著名な工匠には当たらないが、題名から知られるのは、当時主要に主持する人を称して、“大匠”、その助手を“次匠”と呼んだことである。
   (※注)敞肩型石橋:肩部を2重アーチとして、洪水時の水の抵抗を減らし、石材重量を軽減する構造のこと。1重で、石が詰まっているのは満(実)肩型という。

四、建築の等級制度
 晩くとも漢代以来、建築上已に1組の等級制度があり、この制度は先ず皇帝の宮室と王公居宅の差別を画定し、それを越えた者を僭上と呼び、厳格に処罰した。次に各級官員の住宅の差別を画定し、また次に官員と庶民住宅の差別を画定を必要とした。惜しいことに漢魏南北朝と隋代のこの方面の制度史料は散逸し、只断片の材料からこれらの制度が確実にあったことが知られるのみである。唐代には《営繕令》が制定され、27種の“令”の一つに、上は皇帝より、下は庶民の宮室第宅制度や各級官署制度及び若干の関係する工事規定が規定された。《営繕令》の全文は伝わっておらず、バラバラの史料中からその断片的情況を知ることができる。日本の学者仁井田昇選の《唐令拾遺》に、現存の各条が収集されており、参考にできる。
 封建社会では、建築等級制度だけではなく、その他の衣、食、行各方面も全て制限する制度があり、この1組の制度の制定は2種の意義があった:
 その一は、当地階級内部の相互関係の確率であり;
 その二は、当地階級と被当地階級間の関係の確率で、前者は尊卑関係であり、後者は貴賎関係で、その根本目的は、この種の関係を安定させ、以ってその統治を強固にすることであった。
 (漢の)賈誼(※注)は〈陳政事疏〉で言う:“人主の尊譬は堂の如く、群臣は陛の如く、衆庶は地の如し。故に陛(注;陛は、原意は宮殿の階段)は9級の上、堂側が地から遠ければ、堂は高級で;堂側が地に近ければ、堂は等級が低い。高級なものは登り難く、低級なものは登り易く、情勢はこの様である。故に古は聖王の制度は等級を分け、内は公卿大夫士、外は公侯伯子男、それから官師小吏から、庶民に及ぶ等級をはっきり分け、天子が加わり、その尊さは遥かに及ばない”。この中で言っているのは、当地階級内部の尊卑関係を確立し、天子を尊ぶこと即ちほう権秩序を維持する目的に到達する。彼は《新書》の中で又: “新規の服装と花紋標章は等の上下を以って貴賎の差とし、……貴賎には級が、服位は等があり、以って天下はその服を見れば貴賎を知り、その標章を望んでその勢を知り、……尊卑は已に明白で、上下は已に分けられ、人倫の法と言うものである。……下級の者は登らず上位の尊い者を待ち、臣下は級を超えざれば主位の者は安泰である。人倫の規律を謹んで守れば、乱は生じない”と。彼が看る所では、人の行為礼節、衣食住流動には明確な区別があり、その身分地位を表して、一目で知る事は、封建国家が長く安泰を維持する大事なのである。
  (※注)賈誼:前漢の政治家。服色等、等と級を定めて、漢の制度を改めた。

 歴史上の多くの各種制度規定は、服飾や車馬、居宅の奢侈を制限する記載がある。この情況は極めて多くが前朝が奢侈濫用により民力を失った後、新朝建国の初めに発生している。例えば、梁の武帝が斉を滅ぼした後、東昏侯の異常に豪奢な服飾62種を都の街中で焚いた;唐の東都平定後、洛陽宮の端門楼、則天門、闕並びに乾元殿を破却し、その政治目的が前朝とけじめをはっきりつけることを示し、民心を勝ち取り新政権を安定させることにあった。政権に腐敗が発生した場合には、奢侈の風が盛大に吹き、甚だしくは政権の安定に影響する。唐の徳宗、文宗の時2度に渡って奢華と邸宅が限度を越えるのを禁じた。その政治目的は亡国の危機を救うことにあった。これらの措置は、当地階級と民衆の関係を調整し、過度に搾取して民衆の土地を失い流浪して、農民に蜂起させる作用を防止することにあった。
 漢以来、この等級制度はだんだんと厳密になり、取分け重視したのが服飾、車馬、墓葬等の方面である。唐代はこの種の等級の禁制を〈令〉の形式を以って頒布した。唐代の27種の〈令〉の内、専門の令は、〈衣服令〉、〈営繕令〉、〈喪葬令〉である。唐代の服飾は、公服と常服に分かれる。公服は品質と等級により色、素地、図案と佩帯物に明確な差別がある。常服の級差は主要には衣服の材料の良し悪しと色で異なる。庶民は一般に只白色か黒色の木綿の着物で、その為、官員は免職の後引き続き、何かする時“白衣を以って力効かす”と言われた。唐代の墓葬での等級は、已に本章陵墓節で論じた。唐代建築での〈営繕令〉は、まさに工部と将作監が共同で制定して、〈令〉の形式で発布した規定である。将作監が主持する内工、外工と私人が自ら建築する建物全ては、これを参照して執行する。唐代の〈営繕令〉は、尚少量の条文が流伝していて、最重要なものは《唐会要・与服・雑録》中の文宗太和六年六月の勅書で、全文は以下の通り:
 “〈営繕令〉に準ずる:王公以下の舎屋は、重栱藻井を施工してはならない。三品以上の堂舎は5間9架を超えてはならず、依然として廈両頭でよい;門屋は3間5架を越えないこと。五品以上の堂舎は5間7架を越えず、亦廈両頭でよい;門屋は3間2架を超えないこと。六品と七品以下の堂舎は3間5架を越えず、門屋は1間2架を越えないこと。非常参官は、軸心舎を造ってはならず、懸魚、対の鳳凰、獣瓦、通栿、乳梁装飾を施工してはならない。……その士庶公私の住宅は全て楼閣を造って他人の家を監視してはならない。……庶民の造る堂舎は3間4架を越えてはならず、門屋は1間2架を越えず、依然として外に翻出する装飾を施工してはならない。”
 ここで言っている“重栱”はまさに出跳2以上の栱である。已に発掘された唐墓では、墓室の壁画に多くの1斗3升斗栱が描かれ、上に替木を承け、描くのが正投影なので、出跳しない“杷頭絞項”としているのが判り、出跳1で替木を承ける“斗口跳”であることも判る。別に2層斗栱を描くものがあり、例えば虢王李鳳墓がある。これは出跳1の華栱と理解することが出来、上は令栱替木を承け、王公以下が多く出跳1の華栱を出せることを知る。“架”は椽数を指し、7架は即ち奥行き7椽で、宋式の“架”と同義で、清式の7架梁の架ではなく、清式は“架”を以って檩(垂木桁)の数を表す。唐徳宗の時、住宅に増税し、“間架税”と称し,ほぼ社会動乱を引き起こした。その法の規定は“凡そ屋は、2架を1間とする”で、《営繕令》の庶民の堂舎が4架の規定と結び付けたので、この法は庶民の家の税を2倍にしたのが知られる。この条文は〈令〉中の架が1椽の奥行きを指すことを証明している。廈は斜面の屋根を指し、〈令〉中の“門屋は1間2架”の句と、《冊府元亀》中の“架”は“廈”と作る。“両廈”は斜面2つの屋根を指す。“廈両頭”は堂の両頭も斜面屋根を指し、即ち入母屋造の唐宋時の名称である。“常参官”は《唐六典》の解釈に拠れば、“五品以上の職事官、八品以上の供奉官、員外郎、観察御史、太常博士を言う”。職事官は実職にあるものを指し、供奉官は中書・門下2省と御史台官員を指す。五品以上の職事官と八品以上の供奉官は、大体毎朝参加する官員で、常に皇帝の左右に居る。“軸心舎”の一句は他書に見当たらず、(清の)陳阮龍の《格致鏡原》は工字型の殿舎と解している。工字型の殿舎は目下の所、最早の例は渤海コクの官殿で、唐代にこの方式があったのは確実である;だが、住宅門も中軸線上に設け、庁堂と南北に相重なり、官署に近い体制で、大門を左側に設ける一般民家に区別するものかも知れない。装飾中の対の鳳凰は、屡々唐墓中に見られ、石の墓門上方に刻み、実物が無いため、第宅中の何処に用いたかは不明である。通栿は、前後の檐の梁を横に跨るものを指し、乳栿は長さ2架の梁を指すが、ここではそれは概括する各種跨度の梁を言い、梁上に彩画彫刻の類の装飾をしてはならない事を指す。
 この他、《唐六典・工部》中に簡略して記す宮室制度がある。文に言う:“凡そ、宮室の制は、天子より士庶に至る、各等級の差がある”。その下の原注に言う:“天子の宮殿は皆重栱、藻井を施工する。王公諸臣は三品以上9架、五品以上7架、並びに庁は廈両頭;六品以下は5架。その門舎は。三品以上は5架3間、五品以上は3間両廈、六品以下庶民は1間両廈。五品以上は烏頭門にできる”。ここに記した事と前に引用した《営繕令》の内容は同じで、やや簡略である。《六典》は成ったのは開元二十七年(739年)で、引用は開元四年の宋璟が刊行した《令》文である。前に引いた太和六年の勅中に引いた《営繕令》は依然《開元令》中の内容であった。
 《営繕令》に拠れば、:(1)皇宮を除き、五公以下の官員社宅は全て重栱、藻井を用いてはならない。(2)三品以上の官の堂は5間9架の入母屋造建築ができ、門は3間5架の霧妻建築である。(3)五品以上の官の堂は5間7架の入母屋造を建ててよく、門は3間2架の切り妻造。(4)五品以上の官は宅前に別に烏頭門を建てて良い。(5)六品、七品以下の官の堂は、3間5架の切り妻造建築で、門は1間2架の切り妻建築。(6)常参官だけは工字型の殿舎(或いは大門を中軸線上に建て)を建ててもよく、懸魚、対の鳳凰、獣瓦並びに梁上に装飾しても良い。(7)庶民の堂は只3間4架の切り妻建築だけを建てて良く、門は1間2架の切り妻造。(8)士庶公私の第宅は、全て別人の住宅を俯瞰できる楼閣を建ててはならない。
 この8条中、前の6条は官員貴族の第たくのもので、第7条は一般庶民に制限するもの。第8条は住宅のプライバシーを保護する一切の人に対するものである。
 この他、《資治通鑑》に記す徳宗即位の初に、元載、劉忠翼宅を破却した時に言った:“初め、天宝年間に、貴戚の第舎は奢麗を極めるとは言え、塀付きの邸宅の高級下級は、なお制度があった”と。則ち、《営繕令》中の、“塀付きの邸宅の高級下級”も禁止の制限があった。これから推測できるのは、《令》中には、社宅の等級の制限の条項がまだ多くあり、惜しいことに遺失して伝わらず、考察する術が無い。
 《唐律》中にまだ規定があり、:“諸映像の社宅は、例に違反する者は、杖打ち百。赦令があったとしても、全て令は改め正される”。《令》に対しては強制執行で、違令は処罰が必要であった。だが実際上は、対《営繕令》の執行の緊決徹底は不可能で、初唐以来、第宅の奢侈禁令違反は、史上絶えることがなかった。安史の乱以後、中央政権が衰微し、功臣や宿将、宦官は結局第たくを造るのは、贅沢が風潮となり、禁止する術が無かった。上に挙げた太和六年の勅書は、唐文宗が整理することを欲して、宰相等に再度禁令を申渡し法の実施を命じた。《冊府元亀》にはこの事を記した後に“帝(文宗)”は自ら即位し、自身が倹約し、奢侈の弊を改め、ついに官僚に制度を示すよう命じた。勅を下した後、無意味な議論が沸騰し、京兆尹の杜悰は、勅内の条件に施行し易いものを奏請し、その制限を寛やかにし、事が全て行われず、公私はこれを残念に思った”。まだ実行する方法が無いことを知る。だが、これらの法規は皇帝と中央権力の力量が削弱な時は、功臣貴戚や兵を抱える猛将に対して無効とはいえ、中央権力が兄弟有力で、政治が比較的清明な時は、まだ一定の拘束力があった。
 建築中の等級制度の表明は、どんな形式と規模の建物を建てるかと併せて、その人の財力と好みを視るだけでなく、主要にその人が受ける社会的地位の制限が視える。このように、等級制度は、建築の発展二対して2方面の影響を持つ。その一つは、一定程度建築技術と建築技術の発展に障害を起こす。凡そ、法令を突破するか、法令に載らない新事物は、等級制度の約束の下での生産と流行は、全く容易ではなく、その上にこれと相補うように、社会には更に一種無益な精巧さを強く戒める伝統があり、時には良し悪しが難しく、新しい事物も過度に贅沢で浪費的な無益な精巧差と同じにされてしまった。その二には、この種の等級制限は又、城市中の建築二ある種の秩序を保持させることが出来た。居住地区の坊で、庶民の居宅は官員の第宅より下級で、官員の第宅は又その品級を視ると若干の等級に分かれ、差別は判然とし、衛署や寺観は又邸宅より高級で、最も高級なものは皇宮であった。このようにして、里坊内や街道の建築に明白な尊卑の区分をさせ、又共同で皇宮に臣服させ、封建秩序として建築上の体現をした。これは又、ある種の程度、中国古代城市内の建築物の統一した階調と、重点的突出が鮮明になる特徴を形成し、極力この階調が厳格な等級制度の下、重点的な突出こそ皇権と封建国家であった。







# by songofta | 2017-10-10 14:12 | 古建築 | Trackback(10) | Comments(0)

258 工程管理機構と工官、工匠(1)

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
第三章 隋唐五代建築
第13節 工程管理機構と工官、工匠

※ここから、建築の官僚機構の長である工官と、実務を行う職人の工匠の話に移る。工官は、北朝出身で鮮卑族の宇文恺と、南朝出身の何稠の項のみを訳出する。工官は、他に数名あるが別の機会に譲る。
工匠については、次回とする。

一、建築工程の管理と実施機構
 隋唐の二代、多くの宏大な工程が進行し、古代工程技術史と城市建築史上で創めて記録された大運河と、隋大興城が隋代に建築が始まり唐代に発展完成した。これ等は全て設計施工の任務が巨大で、動員する人力は空前の巨大な工程で、国家が主持して起こした工事である。当時の国家は強大な計画設計と施工組織能力があり、その機構こそ尚書省工部将作監である。
 中国は古代より工程管理の専門機構がなく、戦国以前については詳しく考証が難しく、大体は漢以来尚書省民曹、尚書省工部系統と将作系統が併存し、相補って成してきた。
 将作の設立は秦に始まり、秦代に都城宮室の大建築は、将作少府を設け、“宮室を掌り”、その長官を丞と呼んだ。漢代も依然として、将作を設け、長官を将作大匠と改称した。後漢は将作大監を設け、“宗廟や正庁、宮室、陵園の土木工事を掌り、併せて桐樟を植え、道の側に並べる”。東晋南朝時期は、事が有る時に設け、無くなれば廃止した。北斉は将作寺を設け、長官を将作大匠と呼んだ。北周は周の官を真似て匠師中大夫を設け、宮室城郭の制を掌らせた;又、司木中大夫を設け、木工の政令を掌らせた。隋は北斉の制度に沿って、先に将作寺を設け、後に監と改称した。唐は基本的に隋制を援用し、将作監を設け、長官を将作大匠と呼んだ。
 漢の朝廷は尚書省に5曹があり、その中に民曹があり、後漢の時、“営繕建築の主持、土木工事、採塩地、園苑の工事を兼務し”、行政機構が宮の工事をする始めとなった。両晋南北朝時期、例えば宗廟、宮室の営造の場合は、臨時に部を起こして尚書省が管理し、終われば撤去した。北斉時期も部を起こして工程を主管し、北周は冬官大司空卿と呼んだ。隋代の開皇二年、尚書工部を設け、工部と屯田2曹を管轄した。唐は隋制に沿って、尚書工部を設け、下に工部、屯田、虞部、水部の4曹を設け、建築工程、屯田、山沢、長江黄河の水利を分けて管轄した。
 このように、隋唐時期に、基本的に尚書工部と将作監2つの主管工程部門が形成された。《唐六典》の記載から見ると、2つの部門の性質と任務は異なる:
 《唐六典》巻7尚書工部に、“工部尚書は、侍郎(長官、副長官)の職で、天下の百工、屯田、山沢の政令を掌り、属する者が4つある;一つ目は工部で、二つ目が屯田、三つ目が虞部(山沢のこと)、四つ目が水部である”。四曹中の工部が主管する官は、“郎中、員外郎、起工の庶務経営、城池の修復浚渫、土木の営繕葺替え、工匠の規格、全ての経過管理を掌る”。尚書省は最高の行政部門で、うえに述べた事は、工部は主要には全国の建設工事の計画部門で、“工匠の規格”の句に拠れば、その部門は工程規範と見積り等を制定しなければならない。
 《唐六典》巻23、将作監の条が言う:“将作大匠の職は、邦国(小国)の修理建築、土木、工匠の政令を掌り、全部で4署、3監、百工の官属が、その職事に供する。少匠貳なり。凡そ西京の大内宮や大明宮、興慶宮、東都の大内宮や上陽宮、その内外の郭台、殿、楼、閣並びに杖舎等、苑内宮、亭、中書、門下、左右羽林軍、左右万騎杖、十二閑厩屋宇等これを内作と言う。凡そ山陵と都の太廟、郊社の諸壇廟、都の諸城門、尚中殿中、秘書、内侍省、御史台、九寺、三監、十六衛、諸街使、弩坊、温湯、東宮諸司、王府官舎屋宇、諸街橋道等、並びにこれを外作と言う。凡そ建造営繕葺替え、分功、度用、皆以って委ねられる。
 上の文に拠れば、所謂、“内作”は宮城禁苑範囲内の営造を指し、“外作”は京や都の郭内の官署や廟社、王府、郊外の壇廟、付近の皇陵の営造建築、都の城門と御道の街と橋の維修を指す。これ等は、将作監が建造維修の工程に責任を持っていた事を示す。“分功度用”の句に拠れば、将作監は更に、設計と工料の見積もり、予算の制定等に責任を持つ必要があった。これはつまり、将作監は皇家や、中央の国家機関と首都の城門、街道の営造維修を主管し、計画と設計、予算、施工の諸方面を包括する。
 将作監の下に設けた官署の中に、左校署、右校署、甄官署と百工監等は全て具体的に営造建築中ある一部門を主持する。左校署の長官は令で、“建築する梓匠(注;木器物を造る人と建物を建てる人)の事と、その雑材の調達、その是非を調べ、その器具の制度を作り、その工事の腕の評価を掌る”。即ち木工部門に責任を持つ。大型宮殿建築は、大体が木架構の建物で、木工は最重要の工種で、建物の設計は先ず木架構の設計である。《唐六典》の左校署部分には更に“宮室の制”が記載され、(建築等級の部分に詳述され)建築等級区分にも表され、木架構設計上にも表現が要る。故に、将作監の中で建築設計と施工に責任を持つのが左校署である。
右校署は、“版築、壁塗り、赤色を塗る事を掌る;……凡そ材料は皆、その属する理由があり、その制度を審査しこれを計る”。その主管は土方、塗工と彩画工程を掌る。版築築土は、中国古代建築で極めて重要な地位を占め、基礎や台基、壁や城壁及び河と水路、堤防等は全て土木或は築土版築工程に属し、その労働力を用いる所は最多で、大工程はともすれば数十万の民夫を動員し、主要にこの種の工事に従事する。宋代は土方、築土工程は壕塞と言い、主管は壕塞官と称し、唐代にこの名称は未だ無い。
甄官署は、“石彫、陶土の事を掌る。……凡そ石作の類は石磬、石人、石獣、石柱、石碑、石臼が有り、一山の土から、役に立つ物を用いるのである。凡そ磚瓦の制作、瓶壺の器、大小優劣、各々軽重の基準がある”。この他、明器の制度を作る責任を持つ。その主管は、石工と磚瓦、陶器の制作である。石工は、建築中で用いるのは主要に、台基や欄干、柱礎の類である。だが、陵墓の石碑や石獣、石柱等を用いるのは、巨大で高い芸術水準の石彫技術を持ち、材料の採用や彫刻、運輸、据付には全て巨大な人力を消費し、併せて厳格な要求がある。北魏以来、皇家が開鑿した仏教石窟は、最大の石彫工事であった。《隋書・百官志》に記す北斉の官制は、その太府寺は、“金絹と府庫を掌り、器物を営造する”、内に“甄官署を設け、又別に石窟丞を領す”。これで知られるのは北斉時期、皇家が開く石窟、例えば北響堂や天龍山等は、甄官署の責任であった。同書が言う“後斉の官制は、多くを後魏を踏襲し”、故に北魏の石窟は恐らく甄官署の責であった。隋代の甄官署は依然として太府寺に属し、唐に至って始めて将作監に入った。《通典》に言うそれは“磚、石、瓦の営造を掌り、《唐六典》に載る所と基本的に同じである。唐代最大の石窟工事は」、則天武后の開いた奉先寺の廬舎那大仏一組で、甄官署が責を負ったのかどうかは、史料に明文がない。
この他、将作監中にはまだ、百工、就谷、庫谷、斜谷、太陰、伊陰等の監は無く、《唐六典》は言う:“百工等の監は、材木伐採の事を掌り、その名を論ずるのはこれを主とした為である。凡そ修造には、材料に関わる道具が必要で、全て時にこれを取り、基準によりこれを用いる”。これに拠り、百工等の監は、木材の伐採と分類管理を主管し、工事の木材料と版築に用いる楨幹(注;木柱)等の工事道具を供応する。
将作監は更に、直接工匠を掌握した。《唐六典・工部》に言う:“凡そ、興建修築、材木、工匠は、則ち少府、将作の下にあり、以ってその工事を行う”。その下の原注に言う:“少府監の工匠は1万9千8百50人、将作監の工匠は、1万5千人、諸州に散らばって、皆膂力が強く、技能が優れている”。
 上述を通して知ることができるのは、将作監の職能は、具体的に“内作”と“外作”の計画設計、材料の制作準備と施工であり、皇帝と中央政府が直接掌握する計画、設計、材料調達と施工を一体の営造建築実態に集中する。工部は全国の工事の進行計画、管理並びに統一的規範と定額 (人力、物力、財力、期間全ての標準)等の行政管理を行う:2者の職能は異なり、相補い合って遂行する。隋唐以前は、この2組織は時期が異なって設置されたり、同時に設置されたり、職能も有る時は混淆してはっきりせず、有る時は交錯した。同時に設置され合理的に工事を分割されたのは、隋に始まり唐で完成したものである。
 隋唐2代は重大な工事毎に、多くは工部と将作監が共同で主持した。《隋書》に載る開皇二年(582年)新都の大興を営造する時、宰相の高熲は官僚を率いて、営新都大監に任じられ、実際には営都副監の宇文恺が彼に代わって主持し、参加したのは工部尚書の賀類乾、将作大匠の劉龍、太府少卿高龍義等である。隋の甄官署は太府寺に属し、故に太府寺匠卿が参与した。工部尚書と将作大匠は、高熲の指揮の下に参加し主持した。隋煬帝の大業元年、東京の営造に、宰相の楊素を命じ、楊は営東京大監となり、営東京副監は実際上依然として匠作大匠の宇文恺が主持して事に当たった。大業四年、丁男20余万を発して長城を築き、又河北諸郡の男女100余万に発して永済渠を開鑿したが、全て閣毗が主持し、その功を以って将作少監を率いた。唐代の太宗貞観9、10年昭陵と献陵を営造し、14年汝州襄城宮を営造、20年長安宮城北闕を営造、21年翠微と玉華の2宮を営造したのは、全て将作大匠の閣立徳が主持し、功を以って工部尚書に転じた。この例で判るのは、重大な工事の時、2つの機構は協力し、具体的には将作大匠が主持し、大匠に功績があれば工部尚書に昇格することである。
 《隋書》に載る、隋文帝の決めた新都大興の建設は開皇二年六月丙申で、先に高熲、蘇威等の重臣と事前に討論し、大体この時計画は既に輪郭が形成され、詔が下された後、たった9ケ月に時間で、文帝は新宮に人を遷し、その計画と施工組織の能力は驚くべきものがある。煬帝は東京の建設を仁寿四年11月に決定し、大業元年3月に建設の詔を下し、計画設計時間は4ケ月を越えない。大業二年正月に完成し、建造期間は11か月を超えない。その速度は大興城の営造とそっくりである。史料では東京営造時、月に100万人の労役があり、宮城は70万人が築き、その工事組織と技術指導、検査の任務はさぞ多くてきつかったろう。《隋書・煬帝紀》に載る東京建設時、“監督者に賜うのはそれぞれ差があり”、一群の監督の官員が組織されたことが判る。《隋書・裴矩伝》は言う:“煬帝が即位し、東都を営造し、裴矩は府省を担当し、9旬の間就く”。府省は即ち皇城の官署で、皇城の占める地は、1平方kmに近く、9旬で建設し終わり、その速度は実に驚かすものがある。この方面は監督が裴矩一人で行ったが、大量の工事計画や材料供給、工種等級等の具体的問題は、工部と将作監が領導する管理官僚と匠師から拠って来ることである。隋大興と東京2座の都城宮殿の営造建設は、隋代国家の掌握する計画、設計、材料調達と施工組織と実施能力を充分繁栄するものである。

二、工官
 隋唐2代の工官は即、尚書工部と将作監の長官である工部尚書や将作大匠とそれらの主要属僚である。工部尚書は、尚書省六部首長に一つで、行政官であるが、重大工事の時には、往々にして工事に経験があるか建築に習熟した人であった。将作監の将作大匠は具体的に計画や設計、施工を行い、その下には左校署や右校署、甄官署の令、丞、監作、部下に工匠達があり、即ち熟練した技術の匠師である。彼等は技術官に属する。普段、将作監は重大な工事がなく、大匠は多くが貴族の子弟が任命され、則天武后の時、その堂姉(注;従姉)の子宗晋卿を将作大匠に任命し、中宗の時楊務廉を将作大匠に任じたが、皆悪名で汚し、その評判は大変悪い。一群のものは営造建築を行う官から出た者も、人に尊重されなかった。睿宗の時、竇懐貞は尚書左僕射(副宰相)で、自ら金仙、玉真の2道観を建てる監役となった。その弟が風刺して言うには、“兄は位`宰相補佐を極め、代わりに政策を献じて,良い建議をし、以って明主を補佐する任にある。何を思って瓦や木材を見積もって、厠を工匠の間に置き、国中の賞賛を得ようとするのか”と。唐玄宗は宰相として決める能力がないと見做した人は、彼の将作大匠の康䛒素であった。平時は将作大匠に任じる人は、皇帝が重視しない人で、見る所のない人でもあった。
 だが大きな建設の時は、将作大匠は却って一群の本当に工程を知る人を任命し、これらの人は、時機に応じて、重大な貢献を造り出し、卓越した計画家と建築家と成って、一時代の城市計画と建築の発展を推し進め、偏見を持つ封建史官さえも肯定せざるを得ず、正史に載せたのである。《隋書・宇文恺伝》後の史臣の評価は、隋煬帝の奢侈華麗の心に迎合したと批判するが、彼は“学と術を兼備し、知識が豊富で、規矩の妙は、(専門家の工匠達と)差がなく、当時の制度は、皆規範を取ったのだ”と。彼が一時代を開いた大建築家で計画家であったことを承認している。
隋唐2代に重要な成就をした卓越した工官には、宇文恺、何稠、閻毗、閻立徳、閻立本、韋機等がいた。分けて言えば、以下の如くである:

(宇文)
 宇文恺は鮮卑族の人で、祖籍は昌黎大棘で、後に夏州(今の陜西省靖辺)に移った。彼は西魏恭帝二年(555年)に生まれ、隋大業八年(612年)に亡くなり、享年58歳。
 彼の父宇文貴は北魏の旧臣で、北魏孝武帝に従って西に関中に走り、後に北周の功臣となった。その兄宇文忻は隋開国の功臣である。史書は、彼は幼時より“学を好み、博覧強記、属文を解し、技芸多く、号して名父公子となす”と。父兄が軍功を以って家を起こすのと異なり、青少年時に北魏や北斉、北周以来の北方文化伝統と典章制度や文物事績を熟知していた。北周大象二年(580年)楊堅が丞相の時、宇文恺は匠師大夫に任じられる。《唐六典》に、北周のこの職は、“城郭、宮室の制及び諸器物の度量を掌る”、これは城郭、宮室の計画、規制の官で、この時僅かに26歳。
   隋に入った後、早くも彼は重要な計画設計の任務を担当し、例えば、
   開皇元年(581年)営宗廟副監、年27歳
   開皇二年(582年)営新都副監を領す、年28歳
   開皇四年(584年)開広通渠を督す、年30歳
   開皇十三年(593年)将作大匠、営仁寿宮を検校、年39歳
   仁寿二年(602年)営泰陵、年48歳
   大業元年(605年)営東都副監、年51歳
   大業四年(608年)工部尚書、年54歳
   大業五、六年頃(609-610年)選明堂議及び木様、年55或いは56歳
   大業八年(612年)10月死、年58歳
 総合して彼の一生を看ると、隋代の重大な城市計画と宮室官署建設は、大体全て彼の主持の基に完成した。《隋書・宇文恺伝》の言う大興建設時、“高熲が総大綱であったとは言え、凡そ計画は、皆宇文恺であった”は、宇文恺が実際に大興城建設を計画した人であった。大興城は人類が資本主義社会に侵入する前に建造された最も巨大な都城で、わずか28歳の青年がその計画を完成させたのは、言い様もない奇跡で、宇文恺の天才と卓越したレベルが想像できる。
 隋が陳を平定する以前、宇文恺の文化背景は、北魏、北周、北斉の北方文化圏に属し、彼の計画した大興城は基本的に北魏洛陽、北斉鄴南城と北周が崇尚した周礼の王城制度から成り、それらの総合と手順化であった。589年隋が陳を平定すると、建康の宮室を破却し、この期間に宇文恺は建康に住み、自分の目で焼却された明堂基址等を観察し、南朝建築を理解したのである。これから後、彼の計画設計する城市、宮殿は、即南朝の幾つかの特徴を吸収し始めている。大業元年(605年)、彼は東都洛陽の計画と建設を初め、煬帝の傾慕する江南文化の心理に迎合し、“梁陳の曲折を以って兼ね、規模とする”。これから推測すると、開皇十三年(593年)営仁寿宮の時、宇文恺は已に江南宮室を調査し終わり、仁寿宮を建て史籍に言う“崇台累榭、宛転相属”、“頗傷綺麗”は、江南宮室の特徴を吸収したからかも知れない。これらの情況から看て、宇文恺は、実に隋統一にあって全国初の形成変化に適応でき、計画設計に南北方の長所を兼ねて採用し、それを大成した第一人者であった。これは彼が計画設計上、卓越した成功を取得し同輩を超越した原因であった。宇文恺はかつて、その兄宇文忻が殺され家に閑居されたが、文帝、煬帝父子は最後まで重任を委ね続ける事を望み、彼は当時最重大な工程を主持し、その原因もここにあった。
 当時にあって、皇家と政府の工程の最高責任者を務めるには、技術に精通しているだけでは遥かに不足で、典章制度や経学礼法並びにそれと実際の需要を巧妙に結合することに知悉していることがひつようである。宇文恺はこの方面にも特長があり、同輩より優れていた。かれの支持して計画した大興城は、実際の政治、経済、軍事と城市生活の必要を、北魏以来の都城の伝統と《周礼・孝工記》の原則の記載と結合した傑出した範例である。彼が撰した《明堂議》は歴代の明堂制度の沿革、得失、優劣を逐一比較し、事故の意見を提出し、併せて1/100模型を作り、1枚の古代の設計の説明書と明堂建築に関する考証文献を作り、彼の深い学識と実際能力の連携を表した。
 宇文恺の計画設計した大興、東都の2城は、その平面は已に基本的には明らかにされている;かれの計画設計の太極宮、仁寿宮と東都宮三宮中、只東都宮の平面のみが大体明らかになっている。これらは全て已に本章の都城、宮殿部分で深く検討されている。検討中で八卦された、宇文恺が大興城を計画した際、子城の長さと幅にモジュールがあり、全城を若干の区域に分け、区域の中に里坊を配置し、全城の居住里坊と方格状の街道網を形成している。23年以後、彼は東京洛陽を計画する時、改めて“大内”の長さと幅をモジュールとし、洛水で南居住区を若干の区域に分け、区域に里坊を配置し、整頓された配列の里坊と方格の街道網を形成した;彼は又“大内”面積の4倍を子城とした。両城計画中、全て一標準面積をモジュールとし、当時の城市計画上已に一つの先進的方法で、東京計画時、改めて“大内”をモジュールとし、坊や大内、子城は各4倍面積を順次増やしたと説明し、この方法は依然として発展改善進化中にあると言っている。洛陽の“大内”は、その主殿が“大内”のどの位中心かは発見されていて、“大内”の面積は、更に方50丈の網格が縦横各7格あり、その上に宮殿が配置された。これ等の特徴中、主殿が全宮殿中のどの位中心に配置するかは後漢の未央宮の出現を除いて、その他の多くでは始めて見るものである。その中で50丈の網格を以って管理線として配置する大建築群の手法以後、又唐大明宮と渤海国上京宮殿中に出現し、已に唐の汎用手法と成った。これ等は宇文恺の創造或いは前人の基礎の上に発展したものである。彼が計画、設計した時、一連の原則と処理手法は、その当時計画と建築設計上の最高の成功を代表し、我々が深く発掘し解明する極めて大きな価値がある。

(何稠)
 何稠は、南朝の人で、父は腕の良い玉の彫刻工である。10余歳の時、北周が江陵を攻め落とし、ついにその兄に従って長安に来た。隋文帝の時御府監や太府丞等の職に任じられる。彼は精巧さを心がけ、旧品を多く知り、古図を博覧し、工芸の製法に精通し、ペルシャ錦と瑠璃瓦の倣制はとうじの人の重んじる所であった。仁寿二年、宇文恺と共同で太陵建設工事に参加し、隋文帝の親しくなった。煬帝の即位後、大業元年に太府少卿に任じられ、儀仗車輅を設計制作する。後に又煬帝の為に観風行殿と六合城を造る。隋が滅び唐になると、将作少匠に任じられる。唐初に亡くなる。554年北周が江陵に入った時10余歳であったことから、死んだ時歳は80歳に近かった。
 何稠は隋代の重要な工官中、唯一の南朝人であった。北朝時期、北魏、北周、北斉は全て、江南の文化と典章制度を傾慕し、文物儀衛は中原伝統文化のある所としていた。隋文帝が彼に命じて太陵建設の工事に参加させたのは、彼の文化背景を利用し、南北の長所を集約して一代の制度に定めたい思いであった。太陵の制度はもう考証できないが、31年後の唐高祖の献陵は、きっと太陵と継承関係がある。献陵は地面を均して陵を建て、陵垣の四面に門を開くのは漢陵に源があるが、門外に石獣華表を立て、獣種は南朝と異なるとはいえ、その間には一定の関係がある。故に、隋唐の陵制中に少しばかり南朝の影響が含まれるのは、何稠の行った事に相当する。隋煬帝即位後、彼に命じて“図籍を討閲し、與服羽儀を営造せよ”と。“服章文物”の“闕略”も、彼が南北の長所を総合して一代制度を創立させたとある。何稠も“今古を参照し、多くを改創した”。だが、煬帝は奢侈美麗を追求し、民を過度に働かせ、瓜と成した悪政の一つであった。(この句は意味不明)
 《大業雑記》に拠れば、観風行殿は“3間両厦、丹色の柱と素の壁、彫刻の梁美しい棟、一日の内に端正に屹立する”、建物の活動であろう。当時の工程は皆、帳幕を以って出行し、大きさは数種あり、これを改め宮殿式に活動する建物とし、自然と大げさで奢侈美麗を好む煬帝の喜ぶ所であった。六合城は《隋書・礼儀志》に拠れば、“方120歩、高さ42丈。六合は、木を以って作り、方6尺、外面の一方は板があり、これを離合し、青色を塗り、6板を重ねて城とし、高さ3丈6尺、上は女壁板を加え、高さ6尺。南北に門を開く。又城の4隅に敵楼2を起て、門観、門楼、手摺りは皆美しく丹青で描く。又、六合殿、仙人帳を造る。槍車を載せ、車は六合3板を載せる”。この描写から看ると、これは、木板を合成した城である。六合城は本来煬帝が北巡出塞時に制作したものである。大業八年、煬帝が高麗を侵し、更に大きな六合城を設け、同書はそれを称して、“周回8里、城及び女垣は併せて高さ10仭(8丈)、上は甲冑士を配し、杖建旗を立てる。又4隅は闕と、面して別に一観があり、観のしたは3門を開く。その中に行殿を施し、殿上は侍臣と三衛杖、合わせて600任を容れる。一夜の宿として華美である”。言っているのは、城の周囲8里に高さ8丈で情理に似合わず、誇大かも知れないだ、《隋書・何稠伝》に載るのも、8里で、疑いがあるだけである。戦争は厳酷で、働く民の財産はこの種の幾つかの劇により損なわれ、防御作用の全く無い木城は敵に誇大な耀やかさは敵のあざけりを引き起こすに足るものであった。史書の言う“高麗は遠くから望み、神功のようだと言い”、当に飾る言葉で、煬帝の2次の高麗侵攻は失敗に帰し、隋の滅亡を進めた。何稠は自己の才覚を煬帝のこの種の面子を飾る実用性の無いものに尽力して、歴史上悪い名声を残した。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(この後、閻毗、閻立徳、閻立本、韋機、竇璡の長城や、永斉渠などの大建築の事績が続くが、我が国の建築とあまり関係がないので、省略する)



  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛

# by songofta | 2017-10-10 13:38 | 古建築 | Trackback(7) | Comments(0)

257 隋唐の建築技術 磚石構成(2)

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第三章 隋唐五代建築
第12節 建築技術


2.磚塔
 隋唐の磚塔は、形式論では単層と多層の2類があり、多層は又密檐塔と楼閣型塔の2種がある。だが、構成構造から言えば、今の所、隋唐の塔は単層多層と言っても、只一巡する塔身外壁があるだけで中が空洞の空腔式塔である。五代に至って、やっと内部に塔心や回廊と、磚積みを用いた各層に楼面のある楼閣型磚塔が出現する。
 単層磚塔:多くは、方、円、六角、八角形の小塔で、一般には、塔心室一つがある、実心磚積み体で、門内に小龕一つを開ける。この類の塔表面はプレハブ式の磚かレンガ、磨磚を用いて、須弥座や仰蓮、柱、頭貫、斗栱、門窓を積み、秀麗精緻で、高い磚面の装飾工芸技術を表現し、例えば河南省登封会善寺の唐開元五年(746年)浄蔵禅師塔(図3-12-41)や、河南省安陽の修定寺塔、山西省遠城の唐泛舟禅師塔(図3-12-42)と招福寺塔(図3-12-43)等である。だが、それらは磚構成技術上はっきりした発展は見られない。
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 多層磚塔:隋の磚塔は已に存在しないが、唐代の密檐塔はまだ残った物が多く、西安の荐福寺小雁塔が最も著名である。塔の建立は、唐中宗の景龍年間で(約708年)、方形15層の密檐塔で、高さ43m。それは依然として空腔型塔で、塔の4壁は外に向けて迫り出して塔檐とし、内に向けて迫り出して木の楼板を承け、かなり特異な所は、又内壁より斜めに上に向けて出跳して迫り出し、内壁を螺線形に巻いて上に昇る梯道があり、各層の楼面に登る。中国古代の第榭は題の外壁を巻いて台を登る梯道を建て、外形が螺の殻のようなので、“蠡台”と呼んだが、内部に跳び出したものは、僅かにこの例だけで、その他の唐代の磚塔に、この様なものが有るか無いかは、尚考察を待つ所である。この塔は近年修繕され、基礎の版築土中に腐朽した縦横の木梁で、基礎を全体的に増強して設置されたのを発見した。層の塔檐隅の上毎に、磚を積んだ中に埋設された木の隅梁があり、隅角の出跳する檐の安定を補強することを以って、磚塔が採れる補助的な措置とした。小雁塔の下層塔心は素の壁だが、磚の色は上層と異なり、明らかに上層に比べて突出し、これも明代に包込んで磚積みしたためで、元々の磚の積み方は外観上見ることは出来ない。修繕時に現れたのは、塔は泥漿で積んでいた。 

 唐代の楼閣型磚塔は、西安慈恩寺塔、興教寺玄奘塔、香積寺塔があり、西安慈恩寺塔が最も著名である。塔平面は方形、面毎に門一つを開き、高さ7層、高さ64.1m、条磚を用いて積み、完成は則天武后の周長安年間である(約701-704年)。塔外面の各層は磚積みで柱や頭貫、大斗を出し、二重の花牙磚線を加えた後、迫り出して塔檐を出跳する;塔内部の各層も磚を出跳して迫り出し、木で作った楼板を承け、構造は基本的に嵩岳寺塔に近い。とうの外部は明代後期に包み込んで積まれたもので、内部も石灰を塗って覆い、新たに楼層と楼梯を建て、磚の積み方は今の所調べる方法がない。
 西安香積寺塔下層は特に高く、それより上の9層はみな等しく低く、そとの輪郭は密檐塔に近く、2層以上の塔身は皆磚を積んで柱や頭貫、大斗、門、窓を出し、又楼閣式塔に似る。構造上から見ると、それは依然として空腔型の木楼板の磚塔である。
 小雁塔と香積寺塔は皆、層毎に4面か2面に対向してアーチ門を開き、塔身構成上の弱点となり、明代成化年間の西安地区大地震で、皆、塔門に沿って垂直に1本の亀裂が入り二つに避けた。おおよそ宋、遼時期已に上下に1本の層を逐って門を設ける弊害が発見され、磚塔を建てる者は多くが上下層でずらして門を設け、外観上疑似アーチ門を以ってこれに代えた。
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              (参考)  西安香積寺塔

 五代時期、江南に一種の内に回廊の有り、塔内壁と塔心室は、磚積みの楼層を用いた新しい楼閣式磚塔が出現し、最も著名な例が蘇州虎丘塔と杭州雷峰塔である。
 蘇州虎丘塔は、平面八角形で高さ7層の楼閣式磚塔で、高さ47.5m、始めて五代後周の顕徳六年(959年)建立で、蘇州は当時呉越国に属していた。塔平面は正八角形で、層毎に各アーチ門一つを開く。外観の2層以上は塔身の上下に各平座と塔檐があり、皆磚を用いて出跳して迫り出し、又磚で1跳か2跳出跳したときょうで飾る。塔檐上部は磚積みで逆に迫り入って、上層平座まで下がって止める。唐代の空腔塔が只1巡の外壁であるのとは異なり、塔内は更に磚積みの巨大な塔心があり、それも八角形に作り、外壁との間に回廊を形成する。塔心の4つの正面には各アーチ門が開き、内に巷道を建て、南北と東西の巷道は塔心内で十字に交叉し、交叉する所はやや広げて、塔心室とする。平面上から見ると、この塔は内外2巡りの塔壁と中央回廊からなり、内壁の内側は塔心室とする様に見える。だが巷道と心室は低く且つ小さく、又この塔は巨大な八角形で、塔心に十字の巷道と心室を積んだ様にも見える。塔外壁内側と塔心(内壁)外側上部は、対に成ってそれぞれ出跳して迫り出して、交叉した後、回廊の頂部を構成して、その上は再び平らに磚を積み、楼層を形成する。楼層の厚さは1層の回廊頂部から2層地面の厚さが1.6mで、それより上は逓減し、7層の地面は下楼層との厚み約0.8mになる。この様な暑い楼層は、条磚を用いて継ぎ目をずらして平らに積んでいて、塔の内外壁の間の連係に対して、一定の役割を起こすはずである。塔に登る階段は木製で、回廊の上に設け、回廊頂上で磚積みに空孔を残して上がる。各層の空孔の配置は皆、できるだけ上下層の対置する両面とし、構造上の弱点の集中を防止している。塔の刹柱は塔頂から下に向けて、7、6両層の楼面を穿ち、塔心内の横梁上に立てる(図3-12-44、45、46)。
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 この種の塔内は、巨大な塔心(或は、内壁と塔心室)があり、塔心と外壁は磚を重ねて集り、上は地面を積み、楼層を形成し、各層の塔心と外壁は連接して一体的多層楼閣式磚塔となり、安定性と全体性は皆、唐代の空腔木楼板の磚塔より強度を必要とし、積層式磚塔の技術は已にかなり大きな進歩を遂げた。だが、塔外壁と塔心の間は只楼層の平積みの磚の結合に頼っており、不均等な沈下と歪に抗する能力はかなり少なく、故に宋代はこの種の工法を援用する時、外壁と塔心の間に木梁を架設し、一般には間毎に1梁、内外の結合の助けとして、一定程度この弱点を補っている。

 杭州の雷峰塔は西湖の南屏山の下にあり、北宋開宝八年(975年)呉越王銭俶のとき宦官が建て、当時は南唐や呉越がまだ在り、五代の余波と見ることができる。塔は13層で計画され、財力の限界で、7層で止めた。以後又削って5層とした。崩壊する前の情況は、平面八角形、底層は毎面幅約40尺、残高5層。毎層の8面は皆3間で、中央間は各一門を開く。2層以上は、下を平座とし、上を塔檐として、磚積みで柱、頭貫、腰串と扶壁栱、柱頭枋を出す。柱頭斗栱と詰組の所に、磚壁から内に1から3跳の華栱を出跳し、木架構の平座地面と塔檐の瓦頂を承ける。1層塔身の四周は木構造の回廊を建て塔下の裳階を形成する。その内部も磚積みの塔心で、構造は蘇州の虎丘雲岩寺塔と基本的に同じであろう(図3-12-47)。 この2塔は呉越国末年に建立され、いずれも塔心柱があり、磚積み楼層の多層楼閣式塔で、当時の新しい創造である。異なる所は、虎丘塔の外檐は平座を含み、塔檐は内に在って全磚造で、雷峰塔の外檐は則ち塔壁内に埋設した木部材であって、1から3層の出跳した木華栱が、木平座や木塔檐を承け、これは木檐磚塔である。この両類の塔は宋以後の興南地区が皆かなり大きな発展により出来たものである。
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3.磚積みでの護壁

 唐代の城門、城壁、建築墩台等は、殆どが磚包積(磚で版築を覆う)である。
 唐長安城壁、城門墩は皆版築で出来ていて、たとえ大明宮であっても、城門墩や城門付近の小区画と城隅の隅墩は磚包積で、厚さ約70cm、磚2枚分の長さである。だが、洛陽の宮城と皇城は却って内外が全部包磚で、且つ磚は特製の城壁積用の磚を用い、長辺を斜めに磨いた物と短辺を斜めに磨いた物の2種の規格に分け、分別して順磚と丁磚(注;長辺を横に積む磚と、直角に積む磚)として用い、その斜度と城壁の傾斜が一致する。城壁は僅かに残基が残るが、磚の具体的積み方はまだ調査がされていない。城壁本体の傾斜から、包積の磚も一層一層を内に収めていく必要から、版築壁との間に歯形の噛み合いを作り、壁体と磚表面の結合に有利にしている。
 幾つかの巨大建築の下の墩台、例えば含元殿の墩台や麟徳殿脇の郁儀楼と結鄰楼の2楼下の墩台等は皆、磚の包積みを用いている。継ぎ手を磨く磚(清代には“乾摆”と言う)を外壁に包磚する工法で、今知られている最早は後漢未央宮遺址である。南北朝時期の遺例はまだ見つかっていない。大明宮の中で三清殿下の高さ14mの墩台は、版築で建築され、四周は継ぎ手を磨いた磚の壁で包み、最も下の2層は表面を磨いた条石で基礎とし、今までで最も豪華と考えられる護壁の工法である。壁画には、磚で包んだ台基や墩台を上下が真直に継いだものが多いが、今までの所遺例では却って上下と食違いに継いでいる。唐長安龍首渠の両側壁と底は皆、包磚で、美化のためを除き、明らかに斜面を保護する役割を持っている。
 だが今まで、尚まだ磚積み壁の例は発見されていない、最重要な宮殿、例えば含元殿、麟徳殿は全て版築壁を用い、内外の壁面は石灰を塗り、刷毛で仕上げる。壁の下半分の“隔減”工法(※注)は出現していない。磚を用いて土壁下部に隔減する工法は、宋、遼、金建築では普遍的だが、唐代遺址と現存の唐代建築中には未だ見つかっていない。
  (※注)隔減工法;石灰混合物に顕著な隔震効果が有るとされ、基礎や下部に石灰を加える工法

4.基礎の工程
 目下の所、隋唐建築の基礎の工法で判明しているのは甚だ少なく、発掘された遺址と少量の修繕を経た建築から、おおよそ、その一部を窺い知る事が出来ただけである。 隋唐建築の基礎は一般に版築で造成される。重要部分は、雑多な石灰分のない素土を密に突固め、次に重要な所は、やや緩めで、再建は雑多な磚や瓦の砕片等を用いる。 已に発掘した宮の諸殿は、殆どが一面の版築で基礎とし、且ついっていの厚さを持つ。例えば含元殿は地面のした厚さ3m余の版築基礎で、加えて上の地面上に台基があり、併せて厚さ7m近い。大明宮麟徳殿下は、厚さ3mの版築基礎で、上の地面に台基を加え、併せて厚さ5m余。玄武門門墩下の版築は厚さ2m余。大明宮宮城の版築は厚さ1.1mで、左右の城壁を各1.5m出る。これ等の基礎は全て密に突固めた素土で、工程量は膨大である。 唐洛陽、則天武后の明堂遺址の基礎は、主体は幅54.7mの八角形で、唐尺換算で186尺。長安宮殿と異なる所は、それが地面全部の基礎であるが、各部分の厚さは大きな差異があることである。基礎は内から外へ5つの部分に分かれる。中心部分の直径は約26m、版築は固く、厚さは10mに達する;正中央に上の径9.8m、底の径6.16m、深さ4.06mの柱孔が有り、四壁は磚で包まれ、孔底は4個の方約2.4mの石塊を組合せて一大柱礎を作り、それこそが明堂の上下を貫通する巨大な中柱の礎石なのである。この部分の他、版築は4圏に分けられる;中から外へ向かって、
  第1圏、幅6.5m、厚さ僅か1.6m、版築はやや軟らかい;
  第2圏、幅8m、 厚さ4.8-8m、版築は堅く締まる;
  第3圏、幅4m、 厚さ1.4m、 版築はやや緩い;
  第4圏、幅11.6m、厚さ1.5-4.5m、版築は雑質を含む。
ここから明らかに見えるのは、第2圏は明堂2,3層部分の外檐柱のある所で、荷重が大きく、基礎は厚く築土は密で締まり、第4圏は明堂1層の外檐部分で、基礎も亦やや厚いが、荷重はさほど大きくなく、中心と第2圏ほど密に締まりは無い。1,3の両圏は室内で大重量を承けない所で、築土は薄く軟らかである。建築の荷重の変化に従って基礎の厚さを変え、一面に版築を始めるのに比べ、一歩進歩している。
 唐代の塔基は、一般の殿基に比べ多くが幾つかの措置を採る。707年に建った西安荐福寺小雁塔は磚積み密檐方塔で、高さ43m、筑土の高台上に建ち、台の四周を取巻いて廊と壁があり、大体《遊城南記》に言う裳階の類で、近年その壁の下の石条は発見された。近年の修繕時、その基礎を探査した時に、方形の築土の基礎内に縦横に重ねた2層の大木梁が発見され、基礎中に突固め、基礎の全体的な補強を目的としたものである。塔下の基礎の壁は砂石と条石で底を敷き、それから磚を積んで塔身とした。沈下を防止するため、塔下は大体台基の四面各30mの範囲内は、全て築土層である。西安は湿った黄土築で、地面の基礎は浸水を経ると荷重を承ける能力を失うので、この種の防災措置を採取した。《法苑珠林》の言う、鄭州超化寺塔は隋代の建立である。”塔基はぬかるみの中にあり、西面に5、6泉、南面にも亦あり、どの孔も方3尺、滔々と湧き出て、溢れて河となる。泉の上は皆柏柱を降ろし、泥水に敷き、隅と砂礫石灰を次々に重ね、最も上は大きな四角で、8尺の石で床を編んでこれに敷き、四面は鎹の長さ1尺5寸、深さ5寸を打って、鋳鉄で固定する。これにより、この当時、水中か水辺に屋を建てる時、下はパイルを打って、上に石板を敷き、石板の間を鉄の鎹で連結し、溶けた鋳鉄を鎹の継ぎ目に流し込む。この種の工法が、いつ頃始まったかは知らないが、ずっと宋元まで使用されていた。元の大都崇仁門北の城水閘を穿つ基礎は、まだこの種の工法であった。
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 だが、唐代は建築の基礎処理が、全て厳密であるとは限らない。例えば、最も著名な仏国寺大殿は、その基礎は山の斜面を埋めて高く削って低くして出来た。殿内の地面は前が低く、後ろが高く、高低差が50cm以上あり、その前後の檐柱の高さの差は50cm前後である。最も異なる所は仏壇で、一部分は元の土石を削って作り、その東北隅は岩石から削って出し、内槽の隅柱はその上に立つ。これから南の各内槽の後柱は全て仏壇の上に立つ。この仏壇は元々の土を削って、槽を開き石礎を嵌め込んで、礎の上に柱を立てた。実際、後槽の各柱はどれも地面に届いて居らず、土を削ってできた仏壇の辺縁に立ち、後の檐柱は又60cm前後短い。だが、この構造のように千年の時を経て、度々の地震を経て未だ倒壊損傷しないのは、実に奇跡である。その鋪作層全体が強く、一部分の付加を転移分配出来ている結果かもしれない。
 已に発掘した唐宮の各主要な殿宇は、版築の殿基の上に孔を掘り、石柱櫍(※注)と柱礎を嵌め込み、そのたの措置はない。壁を築くのも亦、直接殿基の上に築き、二度と壁基礎を作ることはなかった。だが、近年発掘した唐青龍寺意思では、その西側大殿早期は桁行13間、梁間5間で、版築の基礎が、残厚約1.3m。唐宮の工法と異なり、その柱礎は基礎の上に方形の柱孔を掘り、深さは築土の基底の下に達し、原地面に少し入り。それから孔に瓦を1層敷いて上に1層築土し、柱礎の底面まで、方形の瓦屑の混じった礫土で版築している。この殿の礫土は方2.6m✕2.2m、深さ1.4mで,寸法が甚だ大きい。この種の工法は、実際、全面の基礎を改め、独立した柱基礎として、台基の築土は埋め土の性質に近く、版築は深く堅くする必要がなく、版築の工程量を減少させる。瓦屑を加えた築土は、積載能力が大きく増すだけでなく、抗湿陷能力も大きく増強し、柱基の沈下を心配することもない。史書の記載に拠れば、唐の含元殿や太廟等の重要建築は皆、曾て大雨に因って柱の沈下事故が発生し、素の築土が完全に湿陷を免れる事ができないことを証明していて、この種の工法が発展した。青龍寺の創建は隋で、唐慶雲二年(711年)に青龍寺に改め、名刹をなった。この種の基礎工法はこの時採用されたもので、大明宮の建立は遡ること50年である。これは、高宗則天武后の大興宮室建築後半世紀近い時期、基礎工程上も発展があり、木架構方面の発展と歩みを一つにしているのである。
   (※注)柱櫍:柱礎と柱の間に置く円形の木座~下図の矢印 
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# by songofta | 2017-09-14 16:45 | 古建築 | Trackback(3) | Comments(0)