人気ブログランキング | 話題のタグを見る


「地球の歩き方」では数行、団体旅行には無い、一人旅のガイド


by 老爺爺

S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

カテゴリ

全体
古塔
旅と地域
古建築
故城
彫刻
その他
日本に無い物
中国に無いもの
未分類

以前の記事

2019年 04月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 11月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 01月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月

フォロー中のブログ

最新のコメント

Salut, ech w..
by RobertAffen at 00:18
Капа для выр..
by elaynery_iwel at 18:33
Элайнеры для..
by elaynery_ifel at 08:50
https://tron..
by wallet at 00:16
[url=https:/..
by KrakenDiods at 15:58
Прывітанне, ..
by RobertAffen at 00:09
Top Online ..
by most_gsor at 18:04
Sawubona, be..
by RobertAffen at 09:16
Hi, მინდოდა ..
by RobertAffen at 03:29
Hello. And B..
by XRumerTest at 15:22
Hi, მინდოდა ..
by RobertAffen at 04:13
https://abou..
by MetaMask wallet at 23:44
Hello. And B..
by XRumerTest at 05:30
Ողջույն, ես ..
by RobertAffen at 08:27
Hæ, ég vildi..
by RobertAffen at 01:09
cool life co..
by nail_uvSa at 19:14
Ola, quería ..
by RobertAffen at 06:44
Aloha, makem..
by RobertAffen at 11:30
Hi, მინდოდა ..
by RobertAffen at 08:18
Hola, volia ..
by RobertAffen at 04:49

メモ帳

最新のトラックバック

ライフログ

検索

タグ

最新の記事

目次8 中国古建築周辺のあれこれ
at 2019-04-30 17:17
269 蘇州古建築の瓦葺きで..
at 2018-08-11 19:24
268 蘇州古建築の瓦葺きで..
at 2018-08-11 19:01
267 中国古建築のほぞと継..
at 2018-07-22 13:20
266 中国古建築のほぞと継..
at 2018-07-22 13:03
265 中国の瓦葺きについて
at 2018-06-29 22:04
264 隔扇門窗2~ 障子の..
at 2018-06-12 22:00
263 隔扇門窗1~ 障子の..
at 2018-06-12 17:59
262 中国の門 碰釘子~行..
at 2018-06-08 10:45
目次7 中国の古建築技法”以..
at 2017-10-26 20:32
261 建築実物
at 2017-10-26 20:29
260 隋唐建築の対外影響 
at 2017-10-15 20:02
259 工程管理機構と工官、..
at 2017-10-10 14:12
258 工程管理機構と工官、..
at 2017-10-10 13:38
257 隋唐の建築技術 ..
at 2017-09-14 16:45
256 隋唐の建築技術 土木..
at 2017-09-11 14:34
255 隋唐の建築技術 ..
at 2017-09-08 17:36
254 隋唐の建築技術 (2..
at 2017-09-02 20:53
253 隋唐の建築技術 (1..
at 2017-08-31 09:54
252 隋唐の建築技術 木構造
at 2017-08-29 22:40

外部リンク

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

旅行・お出かけ
歴史

画像一覧

256 隋唐の建築技術 土木混合構成と磚石構成(1)

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第三章 隋唐五代建築
第12節 建築技術


二、土木混合構成
 土木混合構成は中国古代に悠久の歴史があり、漢以前の大型建築の主要な形式で、即ち台榭のことである。近年、又高台建築とも言われる。南北朝以後、已に大型の版築台榭を建てることは少ないが、殿宇の中で、版築壁、或は墩台(土を積み上げた台)で荷重を承けるか、或は木架構の安定を維持する為に用いる情況が見られ、隋唐まで引き続き継続した。城郷の一般建築には土壁で荷重を承け、上に木架を架す“硬山擱檩”式の建物はずっと存続して、近現代に到る。
 隋唐の建築中、伝統の土木混合構成に沿って用いられた最も明らかな例は城門道である。近年等長安や洛陽城と宮城の発掘中、何度も城門跡が出土し、皆、両側に城門墩、或は門間を隔てる壁(多くの門道がある時)を版築を用いて築き、中央に木架の城門道架構を架設し、上に城楼を建てた。門墩門道の上部は存在しないが、敦煌壁画からその構造と形象が判る(図3-12-29)。この他、宋代の絵画と近代の始めに撤去された金代建立の泰安岱廟南門から、我々は宋金代の城門道構造と唐代は基本的に同じで(図3-12-30)、《営造法式》中に又この種の城門の工法(図3-12-31)が載っており、唐代遺址を基に、《営造法式》を参考にして、唐代城門道の工法を推測できる。
256 隋唐の建築技術 土木混合構成と磚石構成(1)_e0309314_13104045.jpg
256 隋唐の建築技術 土木混合構成と磚石構成(1)_e0309314_13104960.jpg
 已に発掘された唐代の諸城門遺址を総合すると、唐代に建てた城門墩及び門道の工程は城門の基礎を築き終わった後、問答の左右にそれぞれ若干の方形柱礎を埋め込み、両側に列を造り、基礎の上に方形の木柱を立てる、宋代に言う“排義柱”で、柱は方50cm、柱間の距離は約1.2m、唐尺換算で4尺;列んだ排義柱の上毎に1本の巨木の枋を載せ、宋代に言う“涎衣木”である;2本の涎衣木の間に梁架を架し、門道の頂部を構成する;梁架の下層の梁を“洪門栿”と言い、横に門道の上を跨ぎ、梁の上に蜀柱を立て、承ける長さは洪門栿の半分の平梁で、平梁の両端は斜めに支え、即ち托脚木で、4者が共同で梯形の城門道梁架を構成し、若干本の梁架の間に架した檁(桁)や椽(垂木)、鋪板(敷板)は、門道頂部を閉め切る。門道の木架構を直立させた後、墩台を版築する時に土で覆って架を支え、城門の墩台の版築を開始する。門墩の3面の外壁は約1:4の収坡(斜度)が或るとはいえ、敵の攻城時に、掘削や砲撃、或は自然崩落を防ぐ為に、版築時1.3m前後の高さの所に墩台表面に垂直に1層の木椽を埋め込み、椽の長さ2から3m、径10~20cm、間隔約1.2m、宋代に言う“絍木“である;門墩及び門道の壁面は皆磚で包む。
 門墩と門道の工法は土木混合構成の残存ということが出来る。問答の両側は排叉柱を持って墩台を固め、上は涎衣木や洪門栿等を加えて屋根を構成する工法で、推測出来るのは、土木混合構成の建物の中で、壁柱を用いて荷重を承ける壁を固め、壁頂は木枋を敷いて梁を承け、屋架伝達される集中荷重を木枋を通して、荷重を承ける壁の上に分散している。
 目下の所、已に発見された大型宮殿で、版築壁が荷重を承けるものは大明宮含元殿である。殿は重層建築で、その殿身の北、東、西の3面は檐柱が無く、只厚さ1.2mと1.5mの版築壁が有るだけである。この殿の殿身内部は2列の内柱があり、もし外檐は柱が有れば、双槽柱網に属するが、遺址は確実にあるのは版築壁だけで、壁内には柱が無い。構造から見ると、殿上の檐の北、東、西3面は、出跳する檐と下平槫以外の部分の屋根の重さは只土壁が承ける事ができる。これは、今まででまだ見たことのないここだけの例である。我々はまだ壁身が荷重を以下に保持安定するか確実に知る術がなく、特に北壁は長さ60m近く、厚さはたった1.2mで、又地震頻発地区に建っているのである。この問題は恐らく、もっと多くの実例が有って比較研究することが必要だろう。現在唯一これと近い例は、日本の奈良平城宮遺址の内裏部分である。盗難隅に幅5間の入母屋建築の跡があり、背面は内裏の南宮の壁で、後ろの檐柱が無く、宮の壁を2重壁とする。只この段の宮壁の内外側は皆、方形の壁柱が加えられ、壁本体を補強して安定性を失ったり崩壊するのを防いで、その情形と城門道の側壁は同じで、含元殿の土壁だけとは違いがある。東壁中段も宮壁内外に壁柱を加え、内廊の重量を承ける後壁に用いる(図3-12-32)。
256 隋唐の建築技術 土木混合構成と磚石構成(1)_e0309314_13120243.jpg
 唐代はまだ幾つか版築の高台に建てられた建築がある。例えば大明宮の三清殿は、南北長73m、東西幅47m、高さ14mの版築墩台にある(参考図3-2-25)、麟徳殿の郁儀と結隣の2殿は、高さ7m以上の版築台上に建てられている。この類の建築の高さでもっと大きなものは、唐高宗の乾陵神道入り口にある2つの小山の上の1対の闕であり(参考図3-4-7)、近年の探査で闕本体は3重の親子闕で、下は条石で台基とし、闕表面は磚で覆い、最下層は条石を以って底を埋めているのが発見された。現在の西闕の闕身は残高15mである。唐懿徳太子墓壁画の示す所では、闕身の上は木構造の闕廊が建つ。その工法は先に闕頂の上に木構造の平座を建て、平座の上に単層の闕楼を建てる。平座の柱は宋代に永定柱と言われ、闕の下平座の永定柱は下に向かって闕身の版築の中に挿さり、上部の木構造闕楼と下部の版築闕身を結合して強化する。この角度から見ると、この類の建築も土木混合構成の名残を保存している。
256 隋唐の建築技術 土木混合構成と磚石構成(1)_e0309314_13185129.jpg
 唐や五代の埠頭や船着場、防潮堤等は多くが版築の岸壁に磚で覆い、槫の外に木壁柱か木杭を加えたもので、これも土木混合構成に属する。
 この他、現存の隋唐石刻からみて、隋唐時期に一種の方形小塔があり、塔身は1槽だけで、槫か版築で造り、壁が甚だ厚く、正面に門を開く、壁頂より上は縦横に数重の木椽を敷き、椽の上は土塊か土で覆った後石灰泥を塗り屋根とする、4隅は仰陽蕉葉を加え中央に土塊を積層した覆鉢式卒塔婆を用い刹竿を加える。河南省安陽の霊泉寺隋唐石刻に大量にこの種の塔の浮き彫り形象があり、題から枝提(支提)とされる。その下部は厚い壁と密檐の屋根形象が非常にはっきりしていて、その表現する所も一種の土か槫壁の木椽平屋根の混合構成建築である(図3-12-33)。これに拠り、幾つかの土壁平屋根の居室が推測され、その構造も基本的にこのようなもので、僅かに卒塔婆と仰陽蕉葉を設けないだけであろう。
256 隋唐の建築技術 土木混合構成と磚石構成(1)_e0309314_13521225.jpg
三、槫石構成
 隋、唐、五代時期に、槫石を用いた建築及び構築物は主要に橋梁や墓室と仏塔であった。この他に幾つか大型の磚石を積上げたものがある。
256 隋唐の建築技術 土木混合構成と磚石構成(1)_e0309314_12390483.jpg
        河北省石家庄の安斉橋

 橋は皆石橋で、史籍には隋唐時期に建設された多くの巨大石橋が載るが、遺物は河北省趙県の隋の建てた安斉橋が残るだけであり、その様子は第八節を参照せよ。当時は並列の石アーチ橋のみが建設できた。
磚積の墓室は主要に、四面宝形の穹窿天井で、構造や積み方は南北朝時期と大差はなく、僅かに規制と尺度に少し変化が有るだけである。石積み墓室中、四川省成都の五代前蜀時期の永陵の石積み肋筒壳墓室(円筒状殻の墓室)はかなり特殊である。肋筒壳は東晋南北朝時期に已に出現しているが、それは磚積みの小室と言うだけで、永陵とは遥かに比べようがなく、かなり重要な進展を見ることができる。これ等の磚石墓室の情況は本章第四節で已にみてきた。
 隋、唐、五代の磚石構成の成就した点と特徴は、主要には仏塔に表現される。外形から言えば、この時期の仏塔は主要には、単層、多層の2類に分かれる。多層塔では、密檐塔と楼閣型塔の二大類に分けられる。今は、石塔と先頭の二大類の探求を進める。
256 隋唐の建築技術 土木混合構成と磚石構成(1)_e0309314_14293185.jpg
          参考  四川省成都五代前蜀時期の永陵の石積み肋筒壳墓室

1.石塔

 石塊を積んだものと石板を重ねた2種がある。前者は、山東省斉南に神通寺四門塔及び長清霊岩寺慧崇塔が代表で、後者は北京房山雲居寺北塔下の4小塔や斉南神通寺の龍虎塔と唐開元五年小塔が代表である。
 神通寺四門塔は、隋大業七年(611年)建立の単層宝形造の方塔で、矩形の石塊や条石を用いて積上げている。塔身の面幅は7.38m、高さ15.04m、外壁の厚さ0.8m、四面に各アーチ門一つを開く。塔内中心に方2.3mの塔心柱があり、外壁との間に広さ約1.7mの回廊を形成する。塔身外部は壁頂に石板を5層出跳させて迫り出し、最上の1層は檐口に代わり、檐口より上は石板を22層積んで迫り出しとは逆に、段々内側に収縮して、ほぼ下向きの凹曲線と成って四角の宝形造の塔頂を形成する。頂上は石を積んで須弥座とし、四隅に蕉葉を装飾し、中心に5層の相輪の塔刹を彫刻する。塔内は、塔壁と塔心柱の上部から、それぞれ各2層を迫り出し、その上に三角形の石梁を架す。面毎に3陵と45°の隅梁を加え、合計16本の梁を架す。内外壁から斜めに石板を重ね、回廊上部に両斜面の屋根を構成する。重ねたものと石梁の表面は粗く削られ人字紋で飾り、尚漢代の石刻の趣が残る(図3-12-34)。
256 隋唐の建築技術 土木混合構成と磚石構成(1)_e0309314_13575477.jpg
256 隋唐の建築技術 土木混合構成と磚石構成(1)_e0309314_14291877.jpg
 石板を組合せで重ねて出来た塔は頗る多く、単層と密檐の2種がある。2種の塔の下部は皆、数層の石板を用いて雕刻を加え、積層して須弥座とし、座の上は石板を立てて用いた、組合せ塔身となる。塔身の正面と背面の板は寛く通しの面幅とし、側面板は正背面の板の間に挟む。塔身より上は石彫の屋根を置き、簡単な正反の迫り出し状とし、底面は精巧に檐椽を彫り、頂面はやや斜めに瓦畝と隅棟を彫る。単層塔は屋根頂に蕉葉の須弥座を置き、上に石彫の塔刹を置く;多層塔は必要な層数の石彫の屋檐を重ね、層を逐って内に収め、中間に石塊に雕刻した上層塔身を挟み、梭形輪郭の密檐塔を形成する。現存の単層塔中、斉南神通寺龍虎塔はかなり大きく、塔身の雕刻は精美だが、塔檐と塔刹は已に失われ、現状は宋代の補修である(図3-12-35)。北京房山雲居寺山頂の方塔はかなり完整である(図3-12-36)。
256 隋唐の建築技術 土木混合構成と磚石構成(1)_e0309314_13582381.jpg
 多層塔中、房山雲居寺北塔下の4座の小唐塔(図3-12-37)及び斉南神通寺の唐開元五年(717年)小塔(図3-12-38)はかなり代表するものである。この類の塔は、石板を縦に立てて囲んで造る小室を塔身とすることにより、尚一定の石構成品の性質を持ち、塔下の須弥座及び塔頂は只石彫都するだけである。
256 隋唐の建築技術 土木混合構成と磚石構成(1)_e0309314_14171407.jpg
 この他、まだ一類の石塔があり、多層の石塊を重ねて造り、表面に塔基や塔身、塔檐、塔頂を彫刻して成る形式で、ずっと石彫に近く、例えば南京栖霞寺の南唐舎利塔である(図3-12-39、40)。
256 隋唐の建築技術 土木混合構成と磚石構成(1)_e0309314_14173901.jpg
256 隋唐の建築技術 土木混合構成と磚石構成(1)_e0309314_14175301.jpg
この塔は八角形5層密檐塔形式で、下層の須弥座は石塊を雕刻して組合せて出来ている。巨大な石材が得難く、施工が難しく、塔身の下の仰蓮座及び1層以上の各唐檐と塔身は皆、2個の大石を連接して、上下層の間の石の継ぎ目は十字に交叉して継ぎ目を埋め、以って全体を牢固として補強している。これは、この類の塔のよく用いる工法である。これよりやや晩く建った北宋初の杭州閘口の白塔各層も2個の石を連接して上下層は十字に継ぎ目を埋めている。
 総じて言えば、隋唐の石塔は、まだ北朝時期のような梁や柱、斗栱が全木架構塔を彫り出す工法はなく、構造はかなり簡単で、主要に成就したのは塔の造型比例と装飾雕刻の面で、石構造上ではっきりした発展はない。



  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛
# by songofta | 2017-09-11 14:34 | 古建築 | Trackback(84) | Comments(0)

255 隋唐の建築技術 唐代の材“分”モジュール

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第三章 隋唐五代建築
第12節 建築技術


3.唐代木架構建築設計に使用された材分モジュールの情況
 現存の唐代木架構建築に使用されている材分の情況の研究を通して、近年発掘された唐代殿宇遺址と結合し、我々は唐代の木架構建築中に使用された材分のモジュールじょうきょうと材分等級の生まれた過程の探索を進める。
 前章で北斉河清元年(562年)厙狄回洛墓中の木棺の検討中、已にそれは材を用いて(泥道栱を基準として)、高さ幅に比が15:9.5で、栔は材高の5.9/15、千年の間、水に浸かって変形が引き起こされたことを考慮すれば、材の高さ幅の比は15:10で、その1/15が1“分”、栔高さは6“分”で、宋の《営造法式》の規定と一致する。だがこのこの木棺は模型に近く、実際の建築ではないし、高さは柱が腐朽して断たれて考察する手がかりはなく、僅かにこの木棺に拠り、この時の実際建築の設計の中で材を以ってモジュールとする発展がどんな程度だったかを理解することは難しい。
現存の五代県南禅寺大殿と仏光寺大殿、平順県天台庵の3座の唐代木架構建築では、その材を用いる寸法は皆已に測定されていて、南禅寺大殿は25cm✕16.66cm、仏光寺大殿は30cm✕20.5cm、天台庵は18cm✕12cmで、比例は皆15:10に近く、北斉の材を用いる断面と比例は基本的に一致する。
 宋の《営造法式》で我々が知っているのは、宋式の木架構建築の設計は、枋或は栱の断面を基本モジュールとし、“材”と呼ぶことである。材の高さ幅の比は3:2で、材の高さの1/15に分けたモジュールを、“分”(読みは份)と呼び、即ち材の幅は10“分”である。上下の材の間の空隙は時には木条で埋めて、栔と呼び、栔の高さは6“分”である。斗栱の出跳する時は材高さは1材1栔で、即ち21“分”、これを“足材”と呼ぶ。建築物の寸法は、大きくは面幅、柱高、小さいものは斗栱梁桁の断面と長さは皆“分”を以って単位とする。近年の建築史家の研究に拠れば、宋式の殿堂型建築は、1組の詰組斗栱を用いるに当って、毎間の間幅を250“分”を以って基準とし、50“分”を加えるか減ずることが出来、奥行方向の椽の水平距離は100から150“分”とする。庁堂架構のかなり大きな建築では、真幅200から300“分”、小さくて3間以下では200から250“分”。単層建築の柱高は中央間の幅を越えない。その他各部材寸法は、大体明確な規定がある。我々はそれらの用いて、仏光寺と南禅寺を検証し、唐代の材をモジュールとして進めた設計の情況を探求する。
(平面の材“分”)
 仏光寺大殿: 実測に拠れば、材高と幅は30✕20.5cm、2心間の幅443cm;中央の5間の幅504cm。もし材高30cmを15“分”とすると、“分”は2cmとなる。これで計算すると、正面中央間は幅252“分”、正側面の梢間は均しく幅220“分”、側面心間幅222“分”、柱高250“分”。これらのデータは宋《営造法式》の殿堂標準間幅250“分”と柱高が間の幅を越えないという規定に基本的に一致する。
 南禅寺大殿: 実測に拠れば、材高25cm、幅16cm。正面桁行3間、柱頂を計ると、中央間499cm、二次間331cm;側面の梁間3間は、均しく330cm。中央間の柱高382cm。もし材高25cmが15“分”ならば、1“分”は1.666cm、これで計算すると、正面中央間幅299.5“分”、即ち300“分”で、2つの梢間幅は199“分”、即ち200“分”;側面の毎間は198“分”、亦200“分”と見ることが出来(誤差3cm)。柱高は換算230“分”。これらのデータも《営造法式》所載の庁堂ま幅の最大値300“分”に一致する。
 平順天大庵: 実測に拠れば、材高18cm、材幅11.5cmから12cm。桁行梁間は各3間で、柱頭で計り、正側面の中央間3.14m、2梢間1.88m、側面と正面は同じ。その中央間と梢間の間幅の比例は、丁度250:150の比になり、このような整数比は決して偶然合ったものではなく、最初に材高を18.8cmにした筈で、“分”を計算して、中央間の幅を250“分”に、梢間の間幅を150“分”にしたが、度々の修繕を経て、大量に部材を交換し、東塔現状の材高18cmになったのであろう。(設計時は18.8cmを材高としたが、“分”値を確定し、設計モジュールとした。施工時に現有の木の量を用いるため、18cmに変更したのかも知れない)。
 この3例の中から見て取れるのは、唐代の建築の間幅は多くが250“分”か300“分”を用いることである。間幅の“分”値は段々大きくなり、相対的に用いる材がかなり小さくなって、殿は250“分”で、等級が次の一等の庁堂が300“分”か250“分”となった。以上は平面設計での材“分”モジュールの情況である。

(立面、断面の材“分”)
 南禅寺と仏光寺からまだ立面と断面での材“分”をモジュールとする情況が見て取れる。
 前に述べた様に、仏光寺大殿の柱高は250“分”、間幅252“分”に比べてたった2“分”小さいだけで、二者は基本的に同じで、《営造法式》に言う“副階、廊舎、下檐柱は、長くてもまの幅を越えない”の規定も唐制から継続したものである。仏光寺大殿の断面図で分析すると、見えてくるのは、檐柱頂から上に向かって中平槫(槫は即ち檩(垂木桁)で、檐槫から内に第1槫が下平槫、第2槫が中平槫で、即ち2椽跨の距離の槫)に到る高さは丁度檐柱の高さに等しい。南禅寺にもこの現象がある。南禅寺の柱高は384cmで、柱頭から大棟桁(殿の奥行が4椽しか無い場合、大棟桁は即ち大きい奥行の殿の中平槫に相当する)は385.5cmで等しいと見ることができる。これから判るのは、建物の断面設計上、1層柱高さを以って拡大モジュールとし、建物の中平槫の示す高さは丁度椽柱高さの2倍とする。柱高は“分”を以って計り、故に断面高さは実際には“分”のモジュールとなる。
 中平槫の示す高さが檐柱の2倍とするのは上述の2つの唐代建築に限らず、大量の宋、遼、金建築にあり、例えば984年建った薊県独楽寺山門、観音閣頂層、1008年に建った楡次雨花宮、1013年に建った寧波保国寺大殿、11世紀中期に建った大同華厳寺海会殿、大同善化寺大殿、1125年に建った登封初祖庵等も皆この様であり、それは、宋、遼、金時期の建築断面設計の普遍的規律であった。南禅寺の例をみると、晩くとも8世紀中期にはこの規律が形成されている(図3-12-28)。
255 隋唐の建築技術   唐代の材“分”モジュール_e0309314_17273576.jpg
 この他に、1層の柱高を以って拡大モジュールとする工法は、又日本の飛鳥、奈良、平安建築に見られ、これに拠り、又北朝末年から初唐に遡ることも推測できる。
 南禅寺と仏光寺の2座の唐代建築の部材も“分”値で換算でき、下表の様になり、《営造法式》に規定する各部材の“分”値と並行して比較している(表3-12-2)。
255 隋唐の建築技術   唐代の材“分”モジュール_e0309314_17283381.jpg
 表から見て取れるのは、唐代の斗栱部材の“分”値は宋《営造法式》所載と大差が無く、そのまの形象関係を物語っている。だが、大木部材の断面は宋式の“分”は一般に唐代より大きい。これは、唐代建築は只1組の詰組のみを用いて、標準間幅250“分”で、200-300“分”の間で変動するのに対して、宋式建築は《営造法式》の描く〈殿閣地盤分槽図〉を見ると、2組の詰組を用い、標準の間幅は375“分”で、300-450“分”の間で変動する。同じ間幅の建築は、250“分”或は375“分”で計ると、その“分”値は差が1/2あり、宋式規定の大木部材断面の“分”数が唐代に比べて多くが1/2を出るので、宋式の材を用い方は実際上、唐代に比べて小さいことが大変多い。これは宋代建築が唐代に比べて進歩していることを表している。
 唐代文献中、我々は当時の建築の間幅は多くが整数寸法で計画し、例えば《通典》の説く総章の明堂方案は間幅19尺、則天武后の造った明堂は方300尺、13間を計画し、毎間の幅は23尺である。已に発掘されて出土している唐代の殿宇中で、大明宮含元殿、麟徳殿の間幅は18尺、青龍寺東院殿の間幅は17尺、仏光寺大殿と南禅寺大殿の間幅は17尺、仏光寺の梢間は15尺、平順天台庵は通しの桁行と梁間は24尺である。これにより、当時の建築間幅、特に中央間の間幅は多くが整数尺を習慣としていたことが判る。現在已に判明している唐代建築及び発掘遺址の間幅寸法は下表のごとである(表3-12-3):
255 隋唐の建築技術   唐代の材“分”モジュール_e0309314_17285974.jpg
 表3-12-3より、見ることが出来るのは、適切に依拠した間幅の数字は19、18、17、16.5、15.5、15、14、13.5、13、11.5、11、10.5、7、6尺で異なる。復元した各項目中、16尺の大明宮朝堂は階段を下にしているが、確認可能である。これにより、大体、唐代は間幅17尺以上の等級差は1尺で、間幅17尺以下の等級差は半尺、これは当時の建築の実際受容から確定的である。
 もし、我々が宋代の規定の8つの材の等級で、1組の詰組を用いて手配すれば、250“分”を以って標準間幅とすると、表3-12-4が得られる。
255 隋唐の建築技術   唐代の材“分”モジュール_e0309314_17292993.jpg

 表中から看てとれるのは、面幅250“分”の時、1、4、5、6の4材の等級の間幅は整数尺になり、3等材は半尺、只第2等材の尾数だけが0.75尺で、上下の等材間の等級差は1.25尺である。間幅300“分”の時、1、3、5、6等材は整数尺で、2、4等材は半尺になる。これは宋式と唐代が実は一つの脈で相承され、その建屋の間幅の等級差も一尺、半尺を以って単位としているのである(7、8等材は小殿と小亭榭等の園林の小建築に用いるので、計算できない)。
 これにより、一種の兆候を見ることが出来る、即ち最初に建築を設計する時、まだ材等が決まっていない場合、先ず建築の等級を決め、規模は間幅で定めて、更に中央間の間幅の1/250(殿堂の場合)か1/300(庁堂の場合)を、1“分”とし、10“分”✕15“分”を材として、21“分”を以って足材とし、設計を進めていく。仏光寺大殿の250“分”と南禅寺大殿の300“分”は、即ちその例である。建築の習慣として尺或は半尺を以って間幅の級差とすることは、材を用いる級差がかなり小さく、且つ種類が頗る多くなり、材料の準備に不利で、必然的に段々と一緒に纏められ、間幅の差が小さいものは共用して同一材等とし、材等は現象し、宋代に至って遂に6等に発展した(宋式の8等材中、7,8の両等は只小型の園林建築に用いるのみである)。この6等材は建物に用いる場合、250“分”を1間として計画し、それぞれその標準間幅は級差を1.25尺と1尺とする。間幅は標準間幅の間の建物を介して、それと差異が最小の間幅が所属する材等を使用する。これが大体の“材分8等”が生まれた過程である。桁行7間の仏光寺大殿の用材は宋代が9から11間の重層大殿の殿身に用いた1等材よりもまだ大きく、唐代建築の用材が宋代に比べて遥かにおおきことが判る。かなり大きな材を用いるので、唐代建築外観は雄健重厚だが、宋代は小材を用いて建て、唐代と同様の大型建築が出来たのは、宋代の木架構建築技術の進歩を表している。

 唐代200余年間に建造した大量の宮殿、官署、寺観、邸宅は、一群の工程管理機構があり、建築等級制度を制定していたので、建築速度が速く、それで「以材為祖」のモジュール制設計を採用すると同時に、必然的に相応の用材等級を規定したからである。史籍に記載が無く、又数座の木建築しか伝来していないので、今の所その材等の具体的上京を知りようがないのである。
 建築で各木部材“分”数の確定に対しては、構造或は美観上の要求から出たものが幾つかあり、例えば頭貫と出跳する栱を除いた横栱の長さ等は、論じないで置く。だが、それらが力を受ける部材、例えば柱、梁、桁等であれば、その規定する“分”値は、荷重を承け担う能力が必要で、併せて一定の安全度も必要である。当時まだ科学テクな実験手段が無く、只経験に頼って設定に加えることが出来ただけであった。最初の規定の寸法が大きく保守的だったかもしれないが、経験を累積するに従い、段々適当とする範囲が減少していった。等太宗が恨みがましく言った曾て歴数十年でも損傷が無かったが、今の建築は材料が小さいけれども、建て終わって間もなく修理が必要に成ると。これには、反対する例証があるとは言え、唐になって以後、建築の用いる材料が段々小さくなって行く趨勢があり、亦経験により絶えず大きすぎる材料を縮小させていたのである。

 南禅寺と仏光寺の分析中、見ることができるのは、中晩等時期、已に梁の高さ跨比を合理的な範囲の内に管理していたのである。
 仏光寺大殿の柱の細長比は1:8.8~1:9(高さ250、径28.5、“分”を単位とする、以下同じ)。明栿の中で、乳栿の高さ跨比は(斗栱の出跳が承ける部分を除く浄跨、以下同じ)、1:8(高21.5、浄跨170)、四椽栿は1:9.4(高27、浄跨254)、草栿中、四椽栿の高さ跨比は1:11.6≒1:12(高30、浄跨350)。槫の径跨比1:15(径17、間幅252)。
 南禅寺大殿の柱の細長比は1:9.6~1:10(径24、高230)、四椽栿の高さ跨比1:20.7≒1:21(高25.2、浄跨522)、もしその上に高さ16“分”の繳背が連結していれば、高さ跨比は1:12.7≒1:13()高41.2、浄跨252)になる、丁栿の高さ跨比は1:8.9≒1:9(高17、浄跨151)。槫の径跨比は1:15(径14.4、浄跨224)。 これから判ることは、晩くとも中唐には、已に根拠のある経験を経て、絶えず改善進歩し、殿堂の梁の高さ跨比は明栿で1:10の内に定め、草栿は1:12の内、庁堂架構の梁は1:13前後とする。槫の径高比は1:16の内、並びにそれが“分”数形式で表すようになり、これに拠って造り出す部材は、一般に常用する屋根の荷重を承けることが出来る。殿堂架構は庁堂架構に比べ複雑で、荷重は稍々大きく、その梁の高さ跨比は庁堂架構より大きい。
 この2座の建築の現状について言えば、仏光寺大殿は完成後まだ大修理をしておらず、架構は動かされていなく、部材は圧を受けての変形が無く、真直に屹立し、1100余年を経て初めの如く完全に残り、その架構が合理的であることを証明して、部材強度が充分で、一定の安全度があるからである。南禅寺大殿は、北宋元祐元年(1086年)に解体修理があった。新中国建国後の新発見時、已に柱列は傾き、殿内の四椽栿は付加に耐えられず、深刻な変形を起こして下に湾曲し、津に1974年再度解体修理をせざるを得なかった。殿の柱列の傾きは、庁堂架構が通栿を用いて、内柱をなくし、架構に欠陥があるかのように見るならまだしも、四椽栿が下に垂れるのは、梁の高さ(成り)が小さ過ぎることから来る。恐らく殿を建てる時大材が無くて、高さ42cmの梁の上に高さ26cmの繳背を加え併せて68cmの梁を補強しようとした。だが、梁と繳背の間に4ケのダボしか用いられず、結合が悪く、共同で力を受けられず、実際の梁の高さ跨比は依然1:21で、結局、圧を受けて下に湾曲してしまった。もし、高さ跨比1:13の完全な梁を使用すれば、仏光寺大殿の草栿の上京を参照すれば、絶対に承けることが可能であった。故にこの殿の大梁が沈下したのであって、繳背を用いて梁を繋ぎ併せて1:13の高さ跨比にすることからみて、当時の工匠はやはり、この高さ跨比の管理数字を知っていたのである。

 もし、《営造法式》の規定で比較すれば、双槽の殿堂で奥行10椽を例にすると、その5椽の明栿の高さ跨比は1:15(栿長さ750、両端の各2跳の華栱の長さ120を除くと、浄跨630、栿高さ42。“分”単位、以下同じ)。5椽区さ栿の高さ跨比は1:16.7≒1:17(浄跨750、梁高45)、槫の径跨比は1:12.5(径30、最大面幅375)。庁堂架構は直梁を用いる時ならば、四椽栿は1:16.7≒1:17(浄跨600、梁高さ36)、月梁を用いる時は、四椽栿の高さ跨比は1:12(浄跨600、梁高50)、六椽栿は高さ跨比1:15(浄跨900、梁高さ60)。槫の径跨比は1:14.5前後にあり、1:15に近い(径21、最大面幅300)。これらの数字から判るのは、宋代の梁の高さ跨比は皆唐代に比べて小さく、だが槫は唐代に比べて大きい。梁の高さ跨比の減少は、かなり小さい材でおなじ建築を受け担う事が出来、宋代の木架構技術は唐代に比べて亦改善進歩した。用材は隋から唐、唐から宋へ段々と小さく変化し、大量の経験の累積を通して、木架構技術は絶えず改変進化し、この中心に材“分”制の改変進化を包括していた。だが、唐代は極めて少ない実物しか無く、我々は今の所、材“分”のこれ以上の情況は判らず、宋代と全面的に比較を進めることができない。
 木架構建築設計と施工で、材が基本のモジュールで、“分”はモジュールを分けたものなのは、中国古代建築の一代特徴で、古代の匠師の一代創造であり、それは建築と構成設計の簡化で、部材をプレハブ化し現場で組み立てるのに極めて有利であった。
 設計の面では、中国古代の木建築の構成、構造を芸術処理と融合して一体化する受容に、材“分”形式を以って規定するようになった。その若干の級差の同じ等級の材規定を、各等材で建てる標準間幅(例えば250“分”/間)で奥行(例えば125“分”/椽)の建物に用いるのは、その真実の寸法もその材の級差を按じて比例して伸張収縮する。これと相応して、同じ単位で積載荷重が作用する下で、異なる材等の建物でも同じ部材は、生まれる応力は等しく、それらは皆等しい応力の部材になる。これにより、只或る材等を用いさえすれば、標準の間幅斗奥行で建造する建物の部材の合理的寸法を正確に確定出来、それを“分”数に換算すると、この“分”数も、その他の各材等が標準間幅と奥行を按じて建てる建物の同一の部材に適用するのである。これはつまり、“分”数規定の部材寸法を按じることは、各材等の建築が同等のものに対して適用される。各種の部材や部材の巻殺、内に凹む工法を除いて、影響は全体造型の方面、例えば柱の側脚や生起、生起と隅梁から共同で決定する檐口の曲線等のような者も、“分”数を以って表され、この為に、異なる材等の建築の側脚や生起、檐口曲線も材等の級差は伸張収縮され、平行線あるいは相似形を形成し、故に外観上も見栄えが一致するのである。

材“分”を以って単位とすることも、設計過程を大きく簡化するものである。地盤寸法がその他建築と繫がる真実の寸法が必要な場合を除き、地面より上の部材は皆“分”数を用いて表すことが出来るのである。材に用いる“分”数に比例した尺を制作するのは、製図あるいは推算に用い、各部材の間の尺度関係を比較し易いようにし、大量の小数寸法を計算する労をなくすためである。誤差の出現も照合し易いのは、規定の“分”数は口伝え形式を以って設計者は熟知するためである。
 材“分”を単位とするは施工にも極めて便利である。古代の工匠の施工は、地盤図以外は、基本的に図紙を用いず、棟梁が工匠に丈杆(間尺)を支給し、その上に用いる材の単位の格子を描き、計画に使う部材の“分”数と真の長さを標示し、工匠はこれに拠って仕事を仕立てる。工匠も材“分”の口伝えを熟知してそらんじていて、照合しやすく、梁や柱、斗、栱等の部材の“分”数、巻殺と枘と枘孔も又皆固定的な工法で、完全に間違わずに仕立てる事が出来、真の寸法数字を使用して些細な間違いをすることなく、且つ照合が難しい弊害も無い。建物を建てる時、最も煩わしい部分は、斗栱と梁架で、鋪作層の槽と梁は多くが材栔の単位で上に向けて積み上がり、材“分”を以って単位として表され、仕立てられる部材で、組み合わせる時にも誤差が発生し難く、これは材“分”制を使用して設計を進めルのが、施工に有利な情況となるのである。
255 隋唐の建築技術   唐代の材“分”モジュール_e0309314_17312912.jpg



  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛
# by songofta | 2017-09-08 17:36 | 古建築 | Trackback(1405) | Comments(0)

254 隋唐の建築技術 (2)斗栱と鋪作層、(3)梁架

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第三章 隋唐五代建築
第12節 建築技術



(2)斗栱と鋪作層
 斗栱は中国誇大建築中重要な役割と悠久の歴史がある。この3000年前の西周銅器には已に大斗の形象が出現している。戦国中山国銅器には栱(肘木)の形象が出現する。当然斗栱が実際の建築に使用されたのは銅器に出現するよりもずっと早い筈である。
遺物と文献資料から見ると、斗栱は漢代には已に建築中で重要不可欠な部分と成っている。出土する陶屋と現存の石闕に多種の異なる形式の斗栱が表現されている。南北朝時期、石窟と壁画に表現された建築も大体斗栱があり、柱列より上(正心縫)と頭貫、檐槫(垂木桁)で構成する平行弦の桁架式である縦架構を除き、出跳する斗栱も開始している。
 漢代及び南北朝早期は、斗栱形式も多種多様で、器用に使用され、大層異なる。これは一面でこの当時斗栱がまだ規範化されていないことの反映からくるものである。総合的に見ると、その役割は2点を越えない;一つには、頭貫より上に正心縫を用いる意義は、井干か縦架を形成することである。屋根の重量を均等に柱列に伝達するか、壁に重量を承けさせ、柱列或は壁の安定性を保持する。二つめは、出跳する意義は垂木桁(挑檐檩)を承けるのが主で、出跳する栱(肘木)は直接柱上に挿し、横栱と交叉しない。出跳する栱と縦架はそれぞれその職を司り、その間には密接な連係は無く、更に梁との連係も起きて来なかった(図3-12-18)。
254 隋唐の建築技術 (2)斗栱と鋪作層、(3)梁架_e0309314_20464450.jpg

 南北朝後期には、木架構の発展に伴って、柱頭の間に頭貫を架設し、柱頂に大斗と斗栱を設け安定性を更に強めた全木架構の框架呼応造が出現する、即ち前章のⅤ型である。この時、斗栱の順身栱と柱頭枋、頭貫が結合し、出跳する栱と梁栿が結合し、十字に交叉、大斗の口内に置かれ、徐々に規格化した斗栱組――鋪作が形成され、その役割は已に出跳する檐に限られず、架構中の縦横の部材の結合点と成った。前章の南北朝木架構の技術部分で、我々は北斉が開鑿した南響堂山石窟台1,2窟窟檐上の斗栱と公認された南北朝と、更に南北朝の影響のあったかも知れない日本の飛鳥式建築について知った。南北朝後期に出現の、下に柱網、中に鋪作層、上に屋根架の3層を積み重ねた木架構体系は、その中の斗栱と頭貫、柱頭枋から成る鋪作層によって、架構の全体性と安定性を保持するのに重要な役割が有った。唐代には、斗栱の発展は段々と複雑になり、出跳が多くなると、梁栿の重なる層数も多くなり、鋪作層を高く増し、一連の串のような矩形と三角形の井干状の框を形成し、架構の安定に更なる大きな役割が出来た。斗栱は早期の単純に出跳する屋根檐の重量を承ける物から発展して、縦架と横梁が挿し合って交錯し、架構の勇気的な部分となり、南北朝後期に始まり、唐に成熟し、宋代に高度に規範化され、元以後又形骸化が始まり、明清時期に至って、梁柱間を埋める部材と装飾に成り変わり、二度と構造上の役割を持たなく成った(図3-12-19)。
 唐代の石刻や壁画に描かれた幾つかの斗栱のある建築図像と、実物を結合すると、唐代斗栱の変化が見えてくる。
 唐代で最も簡単な斗栱形象は、柱上に大斗を用い、大斗口の内に梁を承けるもので、例えば、唐韋迥墓壁画城楼に示される(図3-12-20-②)。実物は河南省登封の会善寺唐浄蔵禅師墓塔に見られ、その梁頭は大斗の外に出て、斜めに切られ、“劈竹昂”の如き様式である。この類の簡単な斗栱は多く庁堂か廊廡に用いられる。
254 隋唐の建築技術 (2)斗栱と鋪作層、(3)梁架_e0309314_20473645.jpg

 出跳が一つの斗栱は敦煌329窟に見られ、出跳端に令栱を施し橑檐枋を承ける。梁は第一出跳の栱の上に置く(図3-12-23-②)。
 出跳が2つの斗栱(所謂、二手先)は、西安大雁塔の門楣石刻仏殿と乾県唐懿徳太子墓壁画の3重闕に表現されたものが最もはっきりしている(図3-12-20-③)。その柱頭と隅鋪作は全て大斗の口内から華栱が2段に出跳し、第2出跳端に横に令栱を施し、橑檐枋を承ける。その縦架は頭貫の上に泥道栱1本が上に柱頭枋1本を承けて1組とし、数組を重ね、上に檐槫(垂木桁)を承ける。第2跳の華栱の上、令栱の内に、又垂直の枋1本を出し端部が、第2重の泥道栱と交叉するが、それは内部の梁か枋の端部である。その中備えは、頭貫上の叉手(人字型の栱)を用いて第1重の柱頭枋を承け、その上に更に斗子蜀柱(短柱で斗を承ける)を用いて、上層の柱頭枋を支える。それらの隅鋪作は、正、側面の出跳する各2重華栱以外、45°の隅縫も2層の隅華栱を出す。
 出跳が3つの斗栱(所謂、三手先)は、懿徳太子墓壁画の城楼に見られ、その柱頭及び隅鋪作は皆、大斗口より3層の華栱を出跳する。第3層の華栱の出跳頭は横に令栱を設ける。華栱の上は垂直の枋頭が1本露出し、柱頭枋と交わる。中備えは、人字形の栱で、上に2層の斗子蜀柱を用い、皆上に柱頭枋を承け、その形式と出跳2津の斗栱はほぼ全て同じで、只華栱が一つ多く出跳するだけである(図3-12-20-④)。
 この他に、日本の奈良時代の建築に、まだ3出跳があり、下2跳は華栱で、上1跳は昂とする、奈良薬師寺東塔(730年)と唐招提寺金堂(8世紀下半)の如きで、国内に唐代の図像或は実令が見当たらないと言っても、盛唐壁画中に已に2跳華栱2跳昂の例を見るので、盛唐時期にこの工法があったことは校訂出来るだろう。
 出跳が4つの斗栱の例は、唐高宗総章三年(670年)《明堂規制詔》中にある明堂がある。詔書が言う、明堂は方9間、周回36柱、“下昂72枚を用い”とあるので、柱頭鋪作には2下昂を用い、2昂を用いる場合その下は必ず2跳華栱があるので、初唐時期、建築では出跳4つの斗栱が使用されていたことが証明される。
出跳4の形象の最早は、敦煌172窟北壁の盛唐に描かれた観無量寿経変の壁画である。描かれた仏殿の前殿の柱頭及び隅鋪作は、全て4跳で、下2跳は華栱、上2跳は下昂で、出跳した外端は皆横栱を用い、その2,3跳の上は二重栱を用いて、宋式が言う所の“瓜子栱”と“慢栱”で、栱の上に素枋を承けるのは、宋式で言う”羅漢枋”である。隅鋪作は45°の斜めに出る隅華栱の上に、隅昂がある。その中備えは、下層に叉手に替えて駝峰を用い、その上は2跳の華栱を出跳し、跳頭に横栱を加え、羅漢枋を承ける。この絵の斗栱は中備えに駝峰を用いるのを除けば、仏光寺大殿と全く同じである(図3-12-21)。仏光寺に用いられた斗栱と梁架は盛唐時期に已に出現していたことが証明でき、総章三年の《明堂規制詔》の記載も又、その出現時期を7世紀中期の初唐に繰り上げる。
254 隋唐の建築技術 (2)斗栱と鋪作層、(3)梁架_e0309314_20494498.jpg

 この画に描かれた2重下昂は、今の所、最早の唐代昂の形象で、昂の先端が斜めに尖って出るので、批竹昂と言われる。昂は漢代には“櫼”と呼ばれ、説文解字では“櫼、楔(くさび)也”と説く。その形象は後漢の明器に見え、隅角の45°の継ぎ手に用いた。現存の南北朝の石刻や壁画にはその形象は見られない。だが、日本の現存の飛鳥建築遺物中で、法隆寺回廊を除いて、他の4座の鋪作は皆下昂を用い、その昂尻は皆内槽の柱縫に伸びて、柱頭枋と交わり、中間は下平槫を承ける。これで判るのは、南北朝末期の昂は斜め梁に近く、外端は檐を担い、後尾の中段は下平槫を承け、長さは1間2椽であった。(技術が)伝入して建立された唐招提寺金堂の昂尾も長さ1間で、内槽縫の上に伸び、盛唐時期に依然として以前の工法が続いていた事を表している。唐代の下昂の実例は、仏光寺大殿に見られ、柱頭鋪作の第2跳の華栱上に2重下昂を用い、外端は檐を担い、後尾の長さは1椽だけで、草乳栿中部、下平槫中心線の下に掛かる。但し、964年に建立された福州華林寺大殿の昂身の長さは1間2椽である。これは、南北朝末から初唐盛唐時期は長さ1間2椽で、中晩唐時期は短くなり半間1椽であったことを表している。華林寺は辺遠の地帯にあり、建築発展が滞ったため、早期の作法が保たれたのであろう(図3-12-22-②)。
254 隋唐の建築技術 (2)斗栱と鋪作層、(3)梁架_e0309314_20502297.jpg

 鋪作の下昂は2種の役割があり、早期の長さ1間2架の時は、実質は斜梁で、内外槽を連結して一体とし、外端は檐を担うことが出来る。《営造法式》大木作図様の殿堂側面図中、8鋪作と7鋪作の2図は、その副階は皆斜梁を描き、即ち下昂が変化して形骸化した痕跡となる(図3-12-22①)。中晩唐時期、昂身が長椽に短く成った後、その役割が再び斜梁として梃子と成ることは無く、両端は別々に橑檐枋と下平槫が伝える重量を承け、平衡を取得する。この時、それはまだもう一つ別の役割があり、即ち屋檐の高さを減少させることで、併せて主要な功能となっている。一般に斗栱を出跳する檐に用いる時、斗栱を1跳する毎に、橑檐枋は1足材を高くする必要がある:だが、下昂は下に向けて斜めに出ることから、2跳出る毎に1足材が高くなり、栱を用いる時に比べ半分に減少し、このようにして、出跳が多くて又屋檐がそんなに高くしたくないことが必要な時、下昂を用いて解決できる、この役割は仏光寺大殿の柱頭鋪作の表現をみればはっきりしている。これに拠り、我々はこの様に言うことができる、早くは唐高宗、則天武后時期、斗栱の発展は已に相当成熟し、そとに向けて4層という多くの出跳が出来ていたと。この時鋪作と架構は融合して一体となっていた:建物の向きの泥道栱や柱頭枋組織は縦架の中に入り、梁枋は往々にしてそとに延び出跳する華栱となり、縦架と横架は、出跳する栱が互いに垂直に挿入し合って交織し、井干状の鋪作層を形成する。出跳する栱層が増加するにつれ、鋪作層の高さも増加し、剛性も強化され、更に好い安定な架構作用をもたらし始める。大型建築に用いる所の斗栱の出跳数は中小の建築より多く、増大する出檐を除き、鋪作層の高さと交互に挿入し合う縦横の部材の層数は増加し、更に大きな安定性の架構作用を起こさせたのも、重要な原因の一つであった。
 上述で仏光寺のこの種の斗栱と架構は初唐に已に存在していたと我々が論証したとしても、現有の唐代斗栱形象は唐代200余年中に見られ、まだ変化成熟の過程にあったのである。
(柱頭鋪作):
大雁塔門楣石刻と懿徳太子墓壁画では、出跳する華栱には最上層にのみ外端の令栱が用いられ、下面の各層には全て出跳端に栱がなく、宋式で言う“偸心”である;だが敦煌172窟の盛唐壁画には、4跳する出跳端毎に栱が有り、即ち宋式で言う“計心”である;それとは別に、第2、第3跳の上にはまだ瓜子栱、慢栱の両重栱があり、宋式の言う“重栱”である。これは斗栱が繁複な方向に発展している事を表している。当然、毎跳端の横栱の上には羅漢枋を承け、鋪作層の安定と各組鋪作間の連係を起こす一定の役割が有る。
(隅鋪作):
 前に挙げた北朝の陶屋は只45°の隅栱が有るだけで、正側面の華栱はない。現存の日本飛鳥時代建築もこうなっている。唐総章三年の《明堂規制詔》に説明する四周36柱、下昂72枚を用い、その隅柱上も只2枚の昂が有るだけで、つまり45°の隅昂で、正側面には下昂が無い。この他、敦煌329窟の初唐壁画にはまだ正側面の華栱だけ有って、45°の隅華栱の形象がない。このことで知られるのは、初唐前期の隅鋪作に於いては、同時に正側面縫と隅縫を用いた斗栱の例が無いことである。この現象は恐らくこの当時まだ3方向に出跳する斗栱の枘仕口問題が解決していなかったのであろう。だが、8世紀初の建立された大雁塔門楣石刻と懿徳太子墓壁画では、却って皆、正側縫と隅縫の3方向に出跳した華栱が描かれている。この時には枘仕口構造は解決していて、隅鋪作を3方向に出跳させることが出来た。これは大体《明堂規制詔》が頒布された670年以後で、大雁塔の701年以前の20年間にはっせいしたようだ。この現象は間接的に、則天武后が大いに土木を興した時、木構造建築技術が発展したことを表している(図3-12-23)。
254 隋唐の建築技術 (2)斗栱と鋪作層、(3)梁架_e0309314_20504912.jpg

(詰組):
 南北朝では初唐に到るまで、詰組を用いず、只人字形栱(叉手)だけ用いるか、叉手の上に更に蜀柱と斗(斗子蜀柱)を立てるかするが、だが未だ出跳下例は見ない。北朝の陶屋や、参考に供する日本の飛鳥遺構から、初唐の大雁塔門楣石刻と懿徳太子墓壁画も全てこの様である。今日までに見る最早の詰組が出跳する例は敦煌127窟壁画で、詰組の出跳は、おおよそ盛唐に発展して出現する。詰組の出跳は、唐代では柱頭鋪作より少なく、その跳端は羅漢枋を承け、羅漢枋を通って柱頭枋と連結し、鋪作層の全体性と出跳する栱の安定性を増強する(図3-12-24)。
254 隋唐の建築技術 (2)斗栱と鋪作層、(3)梁架_e0309314_20505567.jpg

(下昂):
 前に述べた様に、下昂の後尾は初期の長さ1間2椽より短くなって、中晩唐時期には長さ半間1椽になり、これも唐代早晩期の変化に属する。敦煌壁画と仏光寺大殿の下昂は、昂首が皆斜めに下向きに切り落とされ、“批竹昂”と言われるが、今まで日本の飛鳥式建築では垂直に昂首を切り落とした形象しか発見されていない。

(3)梁架
 唐代木架構建築の梁は、形式で分けると直梁と月梁、用途で分けると明栿と草栿の2種になる。
 直梁断面は矩形で、月梁は栱背が凹形の弧を描き、別称を虹梁と言う。殿堂架構では、梁は上下2層あり、下層は鋪作と結合し、鋪作層に位置し、上は天井板を承ける。それは暴露された室内にあるので、明栿と言う;天井板の上は、又架設が垂木桁や椽、屋根面を構成する屋根の梁を承け、それが天井板より上は、人には見えないため、部材架構は稍々ぞんざいで、故に草栿と言う。殿堂架構の冥府は多くが月梁で、草栿は皆直梁である。庁堂架構の梁は外に暴露されているので、皆冥府で、月梁でも良いし、直梁でも良い。
 唐代に明栿の月梁と草栿の直梁を兼用した例は仏光寺大殿である。殿の前後左右四面の各深さ1間2椽は、内外柱の柱頭鋪作の間に跨度2椽の梁、宋式の言う“乳栿”が架かる。梁の両端は第1跳の華栱上に置き、檐柱の外に出跳するのと内柱に出跳して第2跳の華栱となる。殿の内槽の深さ2間4椽は、上に架す梁を“四椽栿”と言い、梁の両端を伸ばした後、外槽の梁架の上から圧える。この乳栿と四椽栿は皆月梁で、浄跨(※注)部分の上部は両端を巻殺し弧線とし、下部は少し凹んで、梁の外観を栱のようにする。明栿は只天井板の重量を承けるだけで、浄跨は又下にある出跳した斗栱により多くを減去し(仏光寺内槽の深さ441“分”で、四跳した斗栱で減じるのは188“分”なので、梁の浄跨は253“分”となり、1/3強が減去する;外槽は深さ220“分”、1跳した斗栱で減じるのは50“分”なので、梁の浄跨は170“分”となるので、1/4若が減去する)、故に月梁形にすることは、明らかに流れるで力が有り、承ける重量が軽く成るとしても、殿内では大層良い装飾効果がある。天井板より上の草栿は屋根の重量を承けるので、直梁とし、四椽栿の断面はその下面に相応した明栿に比べて大きい(図3-12-25)。
    (※注)浄跨:柱の間の正味のクリアランス分
254 隋唐の建築技術 (2)斗栱と鋪作層、(3)梁架_e0309314_23155360.jpg
 唐代の庁堂架構に明栿を用いる例は南禅寺大殿である。
 2つの殿の梁栿寸法と高さと浄跨の比は下表を見よ。
254 隋唐の建築技術 (2)斗栱と鋪作層、(3)梁架_e0309314_23161985.jpg
(叉手と蟇股)
 唐代梁架の上で支持する部材は、明栿では叉手と駝峰で、草栿では木塊で、宋式の言う“敦㮇”で、これも低い柱を用いる。叉手は2つの木が相支え、梁の上に置き、三角形の架構を形成する。漢代は“牾”とか“梧”と言い、その形象は、江蘇省江都鳳凰河後漢墓の外棺の建築の雕刻に始めて見え、南北朝から隋唐に至って皆使用している。唐宋時期は、その形が礼儀中の叉手の立った時の手臂の形象に似ているので、“叉手”と言われた。仏光寺大殿や南禅寺大殿では、その片梁の上に皆叉手を用いて大棟桁を承け、五代宋初に至ってやっと桁の下に侏儒柱を加え始め、段々と叉手に大体するようになった。平梁とその下の各層梁の両端は、明栿ならば駝峰で支える。駝峰の実物の最早は、北斉河清元年(562年)の厙狄回洛墓木棺で、唐南禅寺と仏光寺の二大殿に実物があり、形式は異なるが、装飾のようk注から生まれたことを示し、この時已に多種の形式が出現していた。初唐以前、中備えの下層は多く叉手をもちいていて、美観の要求から、そとに払う曲線を作って、形が人の字の様になり、俗に人字栱と言い、日本の古建築でもこの部材があり、蟇股と言って、“叉手”に読み音が近く、古代にもこれを叉手と言っていて、盛唐に至って逐次駝峰に改まり、敦煌の唐代壁画中で見ると、中備えの駝峰も多種の形式があった。
(屋根の形式)
 唐代に常用された屋根形式は主要に四阿(寄棟造)、覆両頭(入母屋造)、両下(切妻造)と攢尖(宝形造)等で、硬山(注;切妻造で妻壁と屋根が密着したもの)はまだ無い。
 四阿屋根の実例は、即ち仏光寺大殿である。それは殿堂架構で、明栿部分は正面側面が同じで、外槽は一巡する回廊に成る。構成は四面傾斜の屋根で、その妻面部分の垂木桁は正面の対応するものと同高で、45°の隅の線で交わる。このため、天井板以上は、妻面には主要梁架に垂直に草栿を設け、“丁栿”と言う。丁栿の上に架設した妻面の各垂木桁は、正面の桁と交わり、交点の上に隅梁を架して、段毎に接続し、次間の継手の中点の上の所で大棟と交わり、4斜面の屋根架構を形成する。大棟桁と隅梁の交わる所は、上面に鴟尾が安置され、かなり大きな集中荷重が掛かり、次間継ぎ手の草栿と平栿の他に1本のこれと同高の平梁と叉手を加え、大棟の外端を承け支え、これを“太平梁”と言う。太平梁と平梁は相並び、共同で鴟尾の荷重を承ける。この太平梁も丁栿が担う(参考図3-12-4)
254 隋唐の建築技術 (2)斗栱と鋪作層、(3)梁架_e0309314_23160976.jpg
 覆両頭屋根の実例は、南禅寺大殿、五龍廟正殿と天台庵大殿で、南禅寺大殿がその典型である。それは庁堂架構で、明栿のみがある。やめ面の上は、2本の中柱の上に2本の丁栿を架し、外端は柱頭鋪作の上に掛かるが、前後の檐梁に比べ高さ1足材を埋め合わせて、その後尾が正面の中央間の2本の四椽栿の背上に掛かる。2本の丁栿の背の檐柱1椽の所に妻面の承椽坊を架し、前後の檐の下平槫と交わる;その交点の下は木塊で支え、隅乳栿の上を圧える。隅柱より45°の隅線に沿って、この後手に向かって隅梁を架し、覆両頭屋根の架構を構成する。《営造法式》に拠れば、宋式の庁堂の妻面は深さ2椽で、即ち丁栿上は2本の垂木桁を要し、上の1本は前後の檐の中平槫と同高で、小亭榭では1本の槫のみとなり、南禅寺は小亭榭の覆両頭の工法に属する(参考図3-12-6)。
 両下屋根は、最も普通の屋根形式だが、国内に実物は遺存しない。出土した唐代の明器を看ると、屋根の両端が外に跳び(出際)ものが頗る多い。日本に現存の飛鳥、奈良時代建築中、法隆寺回廊、伝法堂と海龍王寺西金堂は皆両下建築で、参考に出来る。
 攢尖屋根建築は、隋唐時期最大のものは則天武后の明堂上部に当たり、円形の攢尖屋根であった。唐塔は多くが方形で、方形木塔の屋根は方形攢尖屋根である。近年出土した唐墓の明器なかには、方形、円形、六角、八角亭等の異なる形式がある。実物が無いのでその具体的な工法は尚建中を待っている(図3-12-26)。
254 隋唐の建築技術 (2)斗栱と鋪作層、(3)梁架_e0309314_23160319.jpg
 近年落葉の唐東都宮の九洲池東南で唐代の八角形亭址が発見された。亭の各面は1間で、合計8本の檐柱がある;中心部分は4柱で、外槽と4つの正面は同じ広さで、約4.3~4.5m前後。この体の上部はなく、構造は不明である。だが、日本の奈良時代に建立された栄山寺八角堂の平面はこれと全く同じで、参考に出来る。この八角堂は4本の内柱に梁を架し、方形の框を形成する;その後、梁毎に2点を選び、大斗を設け、8斗の間に坊を架し、正八角形の井を形成する;外檐の8柱からこの八角系の井に向けて、相応する各隅に隅梁を架す;再び八角井から各隅に隅梁を架し、中心の斗尖に向けて、攢尖を形成する。この種の中止に設けた4柱の配置は正八角形を求める最も簡便な方法である;八角形の一辺の幅は間の距離で、中心の4柱は、4柱の対角線の長さの半分が内柱と檐柱の距離となり、外檐の4正面の位置が定まり、正八角形が得られる。これは初期の八角亭を建てる方法である(図3-12-27)。
254 隋唐の建築技術 (2)斗栱と鋪作層、(3)梁架_e0309314_23283042.jpg



  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛

# by songofta | 2017-09-02 20:53 | 古建築 | Trackback(704) | Comments(0)

253 隋唐の建築技術 (1)柱と柱網

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第三章 隋唐五代建築
第12節 建築技術



2.唐代木構建築の各部分の特徴
1)柱及び柱網
 唐代の木柱は大概皆円形の直柱で、柱頭は円形に丸め、“覆鉢”と言い、仏光寺大殿はその例である。敦煌壁画及び西安の唐墓壁画、大雁塔の門横木の石刻も皆同様である(図3-12-10)。南北朝時期の梭柱(注;所謂、胴張りのこと)は、唐代実物及び図像中に見付けられないが、宋《営造法式》に載って梭柱工法を見ることができるので、唐代に中断したとすべきではなく、只伝来した遺物と図像に無いだけである。漢から南北朝まで流行した八角柱は唐代にも依然として使用され、敦煌196窟の晩唐の窟檐はその例であるが、已に南北朝時期に上は小さく下は大きくから、上下一律の直柱に改変された(図3-12-11)。唐代も枋柱を用いて居り、南禅寺大殿はそれである。この殿は、旧柱を利用して建てられ、枋柱の時期は早く建殿の中唐時期である(782年)。
253 隋唐の建築技術 (1)柱と柱網_e0309314_22392585.jpg

253 隋唐の建築技術 (1)柱と柱網_e0309314_22393729.jpg

 第Ⅴ形の架構は南北朝末に流行して以来、頭貫(古くは、楣と言った)は柱上から柱頭両側に降りて来て、柱の側面に枘を開け、頭貫を入れる様になった。唐前期壁画や石刻上に表現される頭貫は上下2層で、中央に何本かの短柱(蜀柱)で繋ぎ、〈明堂規制詔〉の中にあるように、これを“重楣”と称した。但し、現存の4座の唐代建築はいずれも只1重の頭貫を用いており、敦煌第196、427、431、437窟の晩唐及び北宋の木構窟檐中に実物を見ることが出来、確実に存在した証明になっていて、大体は敦煌は西に遠い辺境で、古制を独り多く保存してきた為であろう(図3-12-12、13)。北朝では初唐までの間、建築上、詰組は出跳せず、出跳する屋根の檐は柱頭鋪作に担われて、柱に荷重を伝え、頭貫が承ける荷重は小さく、主要な役割は柱列の間の連係をする部材と成ることであった。中央に蜀柱を加えた重楣も桁に近く、上下層の楣は皆柱身に挿入され、その連係した支持作用は1重の頭貫よりも遥かに大きく、柱列の安定保持に対して、更に大きな功能があった。おおよそ、中晩唐時期、鋪作層の発展が更に完善なものとなり、重楣は段々と単層の頭貫に簡素化されだが、ずっと宋代まで、沢山の単層の頭貫に依然として重楣の形を彩色で描き、即ち“七朱八白”彩画(注;朱=梁が7ヶ所、白=空隙が8ヶ所の意、下図)であるが、それは重楣から変化して来たものを表している。
253 隋唐の建築技術 (1)柱と柱網_e0309314_22394732.jpg
253 隋唐の建築技術 (1)柱と柱網_e0309314_13522023.jpg
          (参考)寧波保国寺(北宋)の頭貫に描かれた “七朱八白”の彩画

 殿堂と庁堂の架構を採用する建物は、その柱網配置は異なる。殿堂柱網は、口、目、回、田の字形で、内外の柱高は同じ、柱上の頭貫も上述の字形で、閉じた矩形の框となる。柱の高さが同じことから来る、ある側に倒れたり捩れたりすることを防止するために、重楣で支持する以外に、外観の芸術処理と結合して2種の措置を採る。その一つは、各柱列を平柱(中央間の2柱)から始め両側の各柱を段々高くし、隅柱で最も高くし、柱列頂が両端が僅かに上に翅上がる曲線になる。これを“生起”と言う。その二つ目は、生側面の外檐各柱の柱脚が僅かに外に向けて払い、柱身が僅かに内に向けて傾く、これを“側脚”と言う。側脚と生起を用いた後、建築の各柱は内に傾き、列の中央が低く端が高く、同高の直柱の生硬さを免れ、外観を生き生きさせる。同時に、2柱毎に2度と平行四辺形を形成すること無く、横に傾かず、捩れない;柱頭が内に集り、柱脚が外に払われて開く柱網は、屋根荷重を載せた後互いに締め合う;これらの措置は柱網全体の安定を増加させる(図3-12-14)。仏光寺大殿はその典型的な例証である。
253 隋唐の建築技術 (1)柱と柱網_e0309314_22400058.jpg

 已に発掘された唐代遺址と現存実物の中で、大明宮の含元殿柱網は目の字形で双槽、西安青龍寺3号と4号遺址や大明宮麟徳殿前殿、渤海国上京第一宮殿址と仏光寺大殿は、回の字形柱網で、金厢斗底槽である。大明宮玄武門内重門は田の字形柱網で、分心斗底槽である(図3-12-15)。
253 隋唐の建築技術 (1)柱と柱網_e0309314_22423237.jpg

 同様に金斗底槽として、仏光寺大殿の四面の外槽は各深さ1間で、宋《営造法式》の載る殿堂平面と同じである。但し麟徳殿前殿と渤海国上京一号宮殿は、前後の外槽は深さ1間だが、両側の外槽は深さ2間で、即ち両側は2間3縫(継ぎ手)で満堂の柱を用い、仏光寺より1本多く中柱を用いる。平面上の分析から、この増加した1本の中柱は正に遼隅柱から内に向けて45°の隅柱の交点の所で、その上は寄棟の大棟と降り棟が交わり鴟尾を用いる場所の筈であった。これは当時の梁架構がまだまだ成熟しておらず、下面の1本の柱を加えて、鴟尾の所の集中荷重を承ける必要が有った。仏光寺がこの柱を用いなかったのは、その上に加えた1本の太平梁と隣り合う梁架の平梁が横に並び、共同で鴟尾と3方向の棟の荷重を承けるからであった。柱網上のこの変化は、晩唐に建った仏光寺の時には、初唐に建った麟徳殿の時に比べ、架構も又随分と成熟していたのである。

 殿堂架構と異なり、庁堂架構は1筋の柱と梁を組合せた三角形の屋根架を平行に並べて繋ぎ合わせて出来る。その檐柱は同高で、上に頭貫を加え、“側脚”、“生起”等の手法を用い、中列の安定を保持する。但し、その内柱は屋根の傾斜に合わせて高くし、梁の外端は檐柱の上で圧え、後尾は内柱の柱身に挿入し、内外柱の間の桁の上に椽を掛け、柱上部に三角形架構を形成し、その筋の梁架の横安定を保持させる。各筋の梁架の間は、同高の隣り合う内柱があり、柱頂も頭貫で連係し、そうでなければ只梁架の間に枋(襷間)を用いて連係することが出来る。現存の唐代建築中、仏光寺大殿の柱高は250“分”、柱径は28.5“分”、隅柱の生起は12“分”、南禅寺大殿の柱高は230“分”、柱径は25.2“分”、隅柱の生起は4.8“分”で、即ち柱の径高比は皆1:10より大きく、1:8.8~1:9.2の間にある。

 唐代は単柱を用いるのを除くと、まだ双柱と四柱の例がある。双柱の図象は山西省太原金勝村付近の唐墓に見られる。方形の墓室の四壁に描かれた柱及び斗栱は、その東西側壁は均しく4間5柱で、柱の上毎に頭貫を描き、一斗三升の柱頭鋪作か人の字形叉手の中備えを承ける。その中の隣り合う2柱はいずれも双柱並立に描き、中に間隙を残す(図3-12-16)。4柱の例は、洛陽唐宮正門の応天門の東南側の隋唐遺址に見られる。石の正中央に石を積んだ円池があり、池の中心は素(飾りのない)の平な方形基礎である。池の外の四周は2圏の柱網で、圏毎に8組の柱礎で、八角形配置を作り、毎組は4個の素の平な礎石が田の字を作って集まり、毎組の礎石の間は十字形の空隙があり、粗く接続する。この遺址は地下深く、上部は捜せる遺跡が無く、構造は不明だが、4柱を纏めたものであることは極めてはっきりしている(図3-12-17)。4柱を纏めて用いた最早の例は、四川省綿陽の漢平陽府君闕で、その闕身の中柱は2柱並列で、隅柱は面毎に2柱が見え、即ち少なくとも3柱があり、4柱かも知れない。闕身は版築工法で、並列の壁柱とも理解出来る。洛陽の北魏永寧寺塔の中心は4柱を纏めたものを4組用いている。洛陽応天門遺址は明らかに4柱並列の木架構構造である。それは目下の所まだ知られていない工法に当たり、今これに付記すれば、以後もっと多くの種類の類似した資料が発見され探索が進むだろうと言える。
253 隋唐の建築技術 (1)柱と柱網_e0309314_22430387.jpg

253 隋唐の建築技術 (1)柱と柱網_e0309314_22440212.jpg

            (参考)唐洛陽の応天門想像復原図
253 隋唐の建築技術 (1)柱と柱網_e0309314_22472793.jpg

# by songofta | 2017-08-31 09:54 | 古建築 | Trackback(8) | Comments(1)

252 隋唐の建築技術 木構造

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第三章 隋唐五代建築
第12節 建築技術


(総論)
 隋唐320余年間こそ、中国木構造建築が迅速に発展して、巨大な成功を成した時期である。隋、唐は、分裂と激動の300年の長きに渡った中国を統一し、国勢は空前の強盛となり、経済、文化、科学技術は皆大きな進歩が有った。建築の面では、統一後南北の建築技術の交流は、新しい成就も取得し、隋と初唐の都城宮室の建設を通してそれを表現した。地方の伝統に就いて言えば、北方は、漢以来土木金剛構造の影響をかなり多く保持してきたし、南方は、梁陳以来、木架構の方面で成就したものは突出している。但し、これは大規模建設の主流について言っている。実際上、北朝と隋初にもかなり大きな木構建築を建造している。《長安志》に載る、崇仁坊にあった宝刹寺は、北魏の時に建てられ、その仏殿は“四面に柱が立ち、中央は何もない空間の2層楼閣で、梁や桁は屈曲し、京城の奇妙と言う”。描写に拠れば、この殿の構造は日本の法隆寺や薊県の独楽寺観音閣に近く、全木構造建築である。《長安志》に又載る、永陽坊にあった大荘厳寺は、宇文恺が“木浮図を建てる、高さ330尺、周回120歩(即ち方30歩、換算して15丈)、大業七年(661年)完成する“。これ等は皆、北魏と隋の建てた著名な木構造建築である。但、近年の発掘で判ったのは、唐高宗の龍朔二年(662年)に建てた長安大明宮の主殿含元殿は、その殿の北・東・西の3面に厚い土壁を用い、唐初に到るまでずっと、長安地区では、伝統的土木混合構造がまだ大きな影響を持っていたことを表している。隋の大興の宮室は流伝した物がないが、それから約80年晩い唐の大明宮がまだ土木混合構造を使用している事実から、大体その時も土木混合構造の影響が北方ではまだまだ大きかった可能性があるだろう。
(隋代)
 隋の全国統一後、最重要な南北の建築技術の交流は、大業二年(606年)煬帝が東都造営を興したときであろう。《隋書》の説くには彼は“始めて東都を造るのは、全てが大層巨大で麗々しかった。帝は昔、藩国に居て、自ら華東を平らげ、梁や陳の曲りくねった土地を兼ね、以ってその国の規模とした”。大量の江南の計画と建築の経験を吸収したことが判る。洛陽に建てた正殿乾陽殿は、桁行13間、奥行29架、柱径20圍(※注1)で、当時最大の全木構造建築であって、当に江南の木架構建築技術を吸収した成果であった。洛陽も隋時期、北方が南方建築の影響を最大に受けた地区となり、宮室城市は皆首都の大興より華美精巧であった。
   (※注1)圍;親指と人差し指の距離。5寸(又は3寸)と言うが、5寸なら3m近く、3寸なら1.8m位か。
(唐代)
 唐の立国後、煬帝の“逞侈心、穷人欲(奢侈をほしいままにし、人のよくを極める)”と言う罪名を以って、東都の主要宮殿は焚毀された。だが、洛陽宮室の華美は終始、唐帝を引き付け、貞観十一年(637年)太宗は洛陽近くで1年を過ごした。顕慶二年(657年)に至って、高宗は遂に洛陽宮の修復を下令し、隋の建てた洛陽宮時期に発展した南北の長所を融合した木構建築技術は又回復と発展を得たのである。韋機が建てた上陽宮から則天武后が建てた明堂まで、段々とピークに到達した。木構建築の発展は、長安にも影響があった。662年、高宗は長安に大明宮を創建する。宮殿の外朝正殿含元殿の殿身外檐の東、北、西3面は版築の厚い壁で柱が無く、伝統的土木混合構造の影響下に属する。但し、次の年に建てた麟徳殿時には、已に全木構造建築となり、僅かに両端の幅1間分の所に、南から北は全部版築の実壁であった。これは、混合構造の残余の表現で、当時全木架構で大型宮室に用いるのに対して安定性が把握出来ていなかった事を表している。だが、この前後はたった1年の差で建造された2座の大殿が、一つは混合構造で、一つは全木構造で有ったことは、全木架構建築が洛陽から西へ、関中地区の宮殿建設に迅速に推進拡散したことを表している。
 高宗、則天武后時期を経た50年近くの大規模宮殿の建設は、特に洛陽の宮室と明堂建設で、木架構は已に大型宮室建築の通用の構造形式に成り、土木混合構造は逐次淘汰されていった。この段階では、隋代にあった南北建築が洛陽建設で溶け合って以後、始めての更に大きな建築技術の交流となった。高宗、則天武后より唐代木架構建築の基本定型は、殿堂や庁堂2種の異なる木架構が形成されており、斗栱は已に梁と柱頭枋と結合して補作層と成っていて、材分を以ってモジュール的な木架構設計方法も已に基本定型と成っていた。以後の盛唐、中唐は主要に後を継続して、完善で精密さを加え、架構設計と芸術処理の結合を第一の方向に発展していく。
 但、唐代の木架構建築は主要に、宮殿、壇廟、官署、大邸宅の建築に用いられた。近年、長安の西市の発掘で判ったことは、市内の大部分の建築は皆、妻壁で荷重を承け、上は桁と垂木を架し、所謂“硬山櫊檩(※注)”工法である。全木架構の家屋は極少数である。おおよそ唐の終わり頃まで、北方城市の一般建築は皆このようなものであり、宋代以後、木架構の家屋がようやく増加する。但し、土壁或は磚壁が荷重を承ける家屋は、木材より材料が得やすく、ずっと清末まで、北方の都市や農村の中小の住宅は依然としておおくが用いていた。
 唐代の磚石構造もかなり大きな発展があったが、主要な表現は磚石塔と磚積み墓室の面で、居住する建築と宮殿や官署、寺観建築中の使用は無かった。
   (※注)硬山櫊檩:両妻の壁間隔が比較的に小さい屋根面の場合、妻壁の上に直接垂木桁を架けて、
           屋根の三角形を作り、切妻屋根とする工法。

一、木構造
 隋唐時期の木架構建築の特徴と成就したものは、現存の極少数の遺物と遺址考察し、史料文献を並行した分析検討を通して始めてできる。
1.唐代木構建築の実物架構の特徴
 唐代木構建築で今まで残っているのは只の4座で、唐建中二年(782年)の山西省五台山南禅寺正殿、塔会昌年間の山西省芮城の五龍廟、唐大中十一年(857年)の山西省五台山仏光寺大殿と晩唐建立らしい山西省平順天台庵大殿である。それらは皆、前章で述べた5種の架構中の第Ⅴ型で、全木構架構で、頭貫が柱頭の間にあり、柱頂に大斗を置き補作を承ける。その中で、五龍廟は不適当な修繕を経て、已に基本的にその特徴を喪失している;天台庵は金代の大修理を経て、柱高を切り縮め、比例が改変され、又大量に部材が交換されて、僅かに参考価値を残すだけで、唐代建築設計の規律を推測することは出来ない。ただ南禅寺大殿と仏光寺大殿だけが保存が完全だが、南禅寺は北宋時期の修理を経ているが、基本的に架構は変わって居らず、仏光寺大殿は大修理が無く、唐代の原架構を完全に保存して今に至り、我々の唐代木架構建築設計、施工の研究に均しく極めて大きく役立っている。
252 隋唐の建築技術 木構造_e0309314_22341202.jpg
            (参考 山西省芮城の五龍廟  百度図片より)

 但、この2座はいずれも中唐晩唐の建築で、了解されている所では、晩唐の情況は、その規模も初唐、盛唐のあの体量巨大な建築とは甚だしく隔たっている。近年、長安や洛陽の唐代遺址の発掘で、幾つかの異なる規模の宮殿や寺廟遺址を発見し、その平面の柱網と建築桁行と奥行寸法が我々の検討に供されている。この他、敦煌の唐代壁画と幾つかの石刻も我々に形象史料を提供している。これ等と僅かながら存在する建築実物を結合し、唐代の木架構建築の発展に対しもう一歩の理解を進める事が出来る。
 但、唐代は技術の専門書が全く伝わって居らず、僅かに上述の材料によって唐代の木架構の系統的知識を帰納することは難しい。宋代建築は唐代を承けて、発展したもので、宋代の建築専門書《営造法式》は宋代前期建築工法を記録した。我々は目下の所、宋式と現存の唐代建築を並行比較する方法を通してのみ、唐代木架構建築発展の脈絡を理解出来るのである。
 《営造法式》中、我々は、宋代木架構建築中、最重要なものは殿堂と庁堂の2種の形式であることを承知している。簡単に言えば、殿堂とは、内柱と外柱が同じ高さの柱と柱頭の間を頭貫で組合せた閉じた矩形柱網と、斗栱や柱頭枋、天井を承ける明栿等の縦横の部材で構成される鋪作層、天井より上の若干層の梁の重なった三角形の屋架構並びにその間に架した桁や椽で構成した屋根架構、この3層が順に積み重なって形成された建物の架構である(図3-12-1)。 庁堂は、両端を跨ぐ数と桁の数は同じで、その下部に用いる柱の数と位置は、皆異なった横向きの梁架構であっても並べられ、柱や梁の間には別々に頭貫や枋(攀間)を用いて連係でき、梁端には桁を架け、桁の上は椽(垂木)を架けて建物を形成できる架構である。
252 隋唐の建築技術 木構造_e0309314_22220355.jpg
 殿堂型架構の柱網は固定した規則で配置し、柱列の間は頭貫を架設し、四周の外椽柱を連結して一圏とするだけでなく、内柱も自ら一圏或は外檐柱と連結し、閉じた矩形の框を形成する。宋《営造法式》中では、異なる柱網に専用の名称が有り、例えば日の字型は単槽と呼び、目の字型は双槽と呼び、回字型は斗底槽と呼び、連結した田の字型は分心斗底槽と呼ぶ(図3-12-2).殿堂架構の室内は天井を備え、天井より上の梁架構は閉じ込められたた中にあるので、草栿と呼び、天井を承ける梁を明栿と呼ぶ、上下2重の梁架構を持っている。
252 隋唐の建築技術 木構造_e0309314_22245471.jpg
 庁堂架構の建物の柱網配置は、かなり大きな自由度があり、檐を通す2柱を選び、檐柱に中柱を加えたり、檐柱に前金柱或は後金柱を加えたり、檐柱に前後の金柱を加える等の異なる形式の梁架構の組合せが可能で、内柱を必要な位置の上に配置できる。その内柱は屋根の傾斜度に従って高くし、檐柱より高く成る。柱間の頭貫は只、外檐(切妻造の場合は前後の檐)を連結して閉じて矩形の框と成るだけで、内柱との間は切り離されている。室内は天井が無く、只1組の梁が屋根を承け、明栿と言い、その架構を“砌上明造”と言う(図3-12-3)。
252 隋唐の建築技術 木構造_e0309314_22251025.jpg
 殿堂架構は、木架構中で最高級の工法で、只宮殿と仏寺、道観の主要殿宇にのみ用いる。
 庁堂架構の等級と架構の複雑さは殿堂架構より低く、官署の庁と邸宅の堂に用いる。仏寺や道観中の二次的な建築等も庁堂建築を用いる。
 現存の4座の唐代建築の架構の特徴と《営造法式》に述べる所を比較すると、唐代仏光寺大殿は殿堂架構に属し、南禅寺や五龍廟、天台庵は皆庁堂架構である。その特徴は以下の通りである:
(仏光寺大殿の特徴)
 仏光寺大殿:桁行7間、長さ34m、梁間4間、奥行17.66mで、その架構は、柱網、鋪作層、屋根の草架よりなり、順次重なって、殿堂型に属す。
 柱網は内外2圏の高さの同じ柱で構成され、内外の柱の間は別々の頭貫が架かり、内外の組で回字形の方框を形成、正側面の各柱は皆柱脚を僅かに前に払うのを、“側脚”と言う。列柱野中で、明間(中央間)柱の両側の各柱は又順次高くなり、隅柱が最も高く成るのを、“生起”と言う。内外の圏柱と頭貫で組合わす柱網で建物の殿身が構成される(図3-12-1-③)。
 鋪作層は、内外両圏の柱網の上に架設した数層の柱頭枋で構成した2圏の井干(校倉、井戸枠)状の框を主体とし、内外圏の框の間は、各柱上架とそれに垂直に交わった後内外に出跳する肘木(華栱)と天井を承ける梁(明栿)があり、内外の框を連係し、その魔を分割して幾つかの小さい矩形の井干からなる;隅角部は内外の隅柱の間に架す45°の隅華栱と梁があり、この部分を2つの三角形に分ける。これは建築の周りを一巡する深さ1間の口字形の井干網架構を形成する、即ち鋪作層である。この作用は現代建築の囲梁に近く、柱網を安定にし、屋根の重量を均等に柱上に伝達する。鋪作中、外に出跳する斗栱は、屋根の檐の出跳する深さを増大させることが出来、内に出跳する斗栱は室内の天井板を承けて、二者は大体平衡が取れる様になる。仏光寺大殿は出跳が4層あり、長さ1.98mに達する斗栱で、出檐は3.36mに達する(図3-12-1-②)。
 屋根の草架は天井の上にあり、間の継ぎ手上に1組の三角形の梁架を用い、両端は鋪作層の柱頭枋の上に架して、梁架の間は檩椽(垂木桁)を架し、屋根架構を構成する。天井板の上にある為、室内からは見えず、梁架は(仕上げが)稍ぞんざいなので、草架を言われる(図3-12-1-①)。
252 隋唐の建築技術 木構造_e0309314_22255445.jpg
 《営造法式》では、この種の回字形の柱網配置を“金厢斗底槽“と呼び、回字形の外圏柱網とその上の鋪作層を外槽と言い、内圏柱網とその上の鋪作層を内槽と呼ぶ。宋式では、内外柱が同高なだけでなく、内外槽の天井板も同高である。だが、仏光寺大殿では、内槽の天井は高く、外槽の天井は板が多く、異なる空間感覚を形成し、早期の工法に属している(図3-12-4)。宋式は発展の一段階が終わった後整理され規格化された工法である。だが、3層を積み重ねる構造の原則は、唐宋で一致するのである(図3-12-5)。
252 隋唐の建築技術 木構造_e0309314_22261404.jpg
(南禅寺大殿の特徴)
 南禅寺大殿:桁行梁間とも各3間、奥行は4架椽。明間(中央間)左右の檐柱上は各2筋の4椽の通梁が前後の檐柱を跨ぎ、梁上に平梁、叉手を架し、2筋の三角形の架構を構成する。両妻面の2本の中柱上に各1本の通梁と丁字形に交わる2椽を跨ぐ梁があり、丁栿と呼ぶ。丁栿の上に更に小梁を架け、入母屋造の架構を構成する。この殿は、内柱が無いが、梁架は明栿草栿に分けず、天井は用いず、屋根の架構は全部露出して明らかで、庁堂架構に属する。その桁行は3間で、只2筋の梁架を列べるだけなので、庁堂架構の特徴は表面化せず、明らかではない。もし、5間か7間であれば、即ち次間や梢間の梁架があれば中間にある柱のその他の形式が判り、実際に必要な柱の設置により、多数の筋の垂直梁架が並列して構成される庁堂架構の特徴が更にはっきりと表れたであろう(図3-12-6)。
252 隋唐の建築技術 木構造_e0309314_22261404.jpg
 唐代庁堂架構は南禅寺を除くと、前述の平順天台庵正殿も、桁行梁間3間で、中央間に2筋の檐に通梁を通し、架構は南禅寺と基本的に同じである。芮城の五龍廟は桁行5間だが、2つの梢間の幅は半間しか無く、実際は4間で、奥行4椽、妻面に4柱を用い、2梢間幅は各半間1椽で、心間1間2椽。それは、中央間と次間の4柱上に4筋の内柱無しの檐を跨ぐ通梁の梁架を用いた(図3-12-7)。
252 隋唐の建築技術 木構造_e0309314_22271007.jpg
252 隋唐の建築技術 木構造_e0309314_22342288.jpg
山西省芮城の五龍廟の内部架構

 国内に現存する4座の建築を除き、日本の飛鳥奈良時代建築遺物も参考に供される。 日本の飛鳥遺構中、法隆寺金堂は桁行5間、梁間4間で、平面は内外の2圏柱があり、内外槽の柱間に斗栱と梁が連絡している。上は天井を加え、殿堂架構と同じで、只内槽部分が高く2層としているのみである(図3-12-8)。日本唐招提寺講堂は、平城宮朝集殿を移築し(763年)、法隆寺伝法堂は橘夫人堂を移築(739年建立)したもので、いずれも典型的な庁堂架構である(図3-12-9)。日本建築は唐時期の中国を模倣し、風格は唐に比べ全て少し滞留した後のものである。これにより、隋及び初唐時期に遅れて、殿堂と庁堂2種の架構の区別が形成されていた。
252 隋唐の建築技術 木構造_e0309314_22273694.jpg
252 隋唐の建築技術 木構造_e0309314_22274984.jpg
(次回、柱と柱網)



  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服
# by songofta | 2017-08-29 22:40 | 古建築 | Trackback(4) | Comments(0)