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「地球の歩き方」では数行、団体旅行には無い、一人旅のガイド


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237 南北朝の仏教建築 2 仏寺形態の発展と変遷2

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
 第二章 両晋南北朝建築
第7節 仏教建築



(4)「舎宅為寺」(舎宅を寺とする)
 宗教の伝播と発展は、ある時にはそれと当地の伝統的思想文化との相互交流の程度により決まる。東晋時期、仏教は広範に流布し、仏教建築活動が興盛で、戦乱が頻繁で、人民の苦難と解脱を渇求する社会条件を除き、かなり大きな程度、仏教の提唱する信仰方式と中国伝統的観念や習俗との迅速で緊密な結合によるのである。天子や祖先、家族の追福の目的から、宅第や舎宅を仏寺とするのは、東晋の士大夫階層の特定条件下で採用された一種の仏教信仰の方法である。
 前述の釈道安が秦に入って、僧尼の規範を制定し、“天下の寺舎は、規則を逐ってこれに従う”。当時仏教の僧人の生活方式を知ることが出来、漸う漸う早期の“不貴専守(貴族化せず、寺を専守する)”、“住無再宿(住まいを定めず遊行する)”から転じて、集団で定住し、統一的な戒律を実行することが必要にもなった。同時に安定して経済的に保証された生活環境は僧人が目標を追求する様に成り始めた。多くの仏寺は、実際上、僧人が住まいを乞うことと信者の舎宅を結合した産物なのである。

 舎宅を寺とすることは、宅内の元々ある建築物を前提とする。通常、正庁は仏殿或は講堂とし、その他の坊舎や厨房倉庫の類は皆そのように用い、対が宇野は仏塔だけである。宅内に仏塔を建てるのは、位置と体量に必ず限定があり、このため、いつでも立塔が可能な訳ではない。東晋の穆帝の時、許詢は永興、山影の2宅を寺とし、その中の1個所だけに4層の仏塔を建てた。この種の基本的に邸宅の総体配置を保持した仏寺に、中国仏寺形態の発展により産み出された影響を見つけることは、明確であり容易である。東晋から南北朝まで、大部分の城市の仏寺は皆、この理由で居住建築の形態を見せている:主体建築物は中軸線に沿って前後に配列し、数重の院落を形成する。両側に分かれて次に重要な附属建築物が列ぶ。北魏末年(529-531年)、尚書令爾朱隆が兄の爾朱栄の追福のために、宦官の劉騰宅を建中寺とした。“寺内は、廊や両側建物が充溢している。堂は宣光殿と競い、門は乾明門に匹敵し、・・・・・以前の正庁は仏殿に、後殿は講室とした”は、典型的な例証である。
 邸宅を除いて、又官庁衙署を改造して仏寺の情形とするものもあった。北魏太和四年(480年)孝文帝は“詔して鷹師曹を報徳寺とする”、梁武帝の大通元年(527年)宮後を自己の造る同泰寺とし、即ち大理寺署を改築して出来た“。

(5)仏殿の造立と形式

 仏殿は大型仏像を安置する場所なので、仏殿の出現は先ず先に仏像の鋳造と関係がある。
 仏教がインド南方に流伝した時、仏の形象は未だ出現せず、信徒は一般に、塔や法輪、菩提樹、仏足等を礼拝の対称とした。これは一面では仏の尊重から来て、同時に偶像崇拝を提唱しない意思である。1世紀に西北印度のクシャン王朝期、ギリシャ芸術の影響で世にいう“ガンダーラ芸術”が出現し、今に至る多くの石質の仏菩薩像が流伝し、仏伝故事の場景の各種石部材が彫刻された。
 仏教が始めて中国に入る頃は、正に仏像が流行し始めると言う時である。西域の僧人が中国に来た時、小型の仏像或は画像を身に付けていたのかも知れない。史料記載に拠れば、漢末期の人は浴仏を已に知っていて、銅鋳金鍍金の仏像が出現している。東晋十六国期、漢地では造像が広範に流行していた。現存の紀年が明確な銅造像で最早期は、後趙建武四年(338年)坐像で、像高40cm(現蔵サンフランシスコ・Asian Art Museum)。《法苑珠林》に記す劉宋時期の人が見つけた後趙の仏像は、高さ2尺2寸(換算して50cm)で、銘に曰く:“建武六年(340年)、歳は庚子、官寺の道人法新僧行の造る所”。この類の小型仏像は、通常台案の上に供奉し、大きな空間は必要としない。但し、仏像の寸法が大きく、且つ数量が多ければ、これの配置に適した空間条件を具備すべきである。東晋の釈道安が壇渓寺を建てた時(365-375年)、涼州刺史は銅万斤を送り、以って丈六の仏像(高さ約4m)を鋳造し、この後、前秦の苻堅は又使いを遣って各式の仏像を送り、“講義毎に集う法衆は、いつも並んだ尊像に、・・・・階を登って門を入る者は、厳粛でないものはなく尽く敬わないものは無い”。又、東晋興寧年間(363-365年)、沙門竺道邻は無量寿像を造り、高僧竺法曠はこれの為に大殿を建てた。これで知れることは、当時漢地は依然として大型仏像の鋳造を開始せず、大量の仏像は西域や涼州から来たものであった。正にこの種の情勢の下で、仏寺中に専門に仏像を安置するために建造した仏殿が出現する。

 南北朝期、国家の財力で大規模な鋳造と広い仏殿を建てる活動が頻りに続き、社会各層も皆、持つものをその中に投入した。仏教経典の宣伝は重要な原因の一つである。後秦弘始八年(406年)の後、亀慈国の高僧鳩摩羅什が長安で《法華経》の重訳を始めて社会に広範に流伝し、経典中で仏身は常住不滅、变化無尽を宣揚した。人々は只仏の為に、建寺造塔、造像し、画を描き、各種供養をして、成仏を望んだ。これにより、多くの仏菩薩像の供養は、社会で最流行の仏教信仰方式となり、仏殿の数量や規模もそれに従って迅速に増加した。文献記載に拠れば、南北朝初期には、已に専門に七仏を供奉するために建てられる仏殿の工法が存在した。北魏雲崗石窟の彫刻中にある並列七仏は、上を寄棟造の形象で覆われ(図2-7-4)、北周麦積山石窟第4窟は、更に全体として表現した1棟の桁行7間、間毎に1仏を設けた寄棟大殿である。それとは別に、諸仏から千万億仏並びに観音、普賢等多くの菩薩を供養することを提唱したので、寺院中の殿堂の数量は絶えず増加した。一寺の内、往々にして正殿を除いて、前後に数重の殿堂と両側の配殿があった。皇家の大寺中は殿が`特に多かった。梁武帝の大通元年(527年)同泰寺を建て、内に大殿6個所、小殿10余個所、中大通四年(532年)に至り、又瑞像殿を造り、“帝は同泰寺の御幸し、講会を開き、諸殿を礼拝して廻り、黄昏になって始めて瑞像殿に至った”。
237 南北朝の仏教建築 2 仏寺形態の発展と変遷2_e0309314_20243233.jpg
237 南北朝の仏教建築 2 仏寺形態の発展と変遷2_e0309314_20243948.jpg
                  参考   図2-7-4のカラー写真

 仏殿の建造と形式は、仏像の帝王化と関係がある。北魏の僧法果は天子を尊んで今の如来を造り、文成帝の仏法復興の後、祈福のために造った仏像と帝王の形象は一致してくる。興安元年(452年)、“担当の官に詔があり、石像を帝身の如くにさせる”、興光元年(454年)、“担当の官に勅して、5級の大寺内に、太祖から5帝の為に、釈迦立像5を鋳造させ、各高さ1丈6尺”。雲崗の曇曜5窟中の5座の大像も、5帝の祈福の為に造り、外貌は皆、鮮卑族の特徴を持つ。孝文帝の改制後、仏像の着る装束も帝王服飾の漢化に従って改変するのは、正にこの種の工法の証明の一つである。仏像は已に帝王の如くで、帝王の宮殿形式に倣って、仏殿を建造するのは自然の流れである。仏殿の概観だけでなく、殿内の陳列・設備までも帝王宮殿と同じとなる。北魏煕平元年(516年)に建てられた洛陽永寧寺大殿内は、早くも“形は太極殿(洛陽宮の正殿)の如くである”。皇家の大寺だけでなく、地方の仏寺の主要な仏殿も宮殿形式を許された。帝王の形象に依って仏像は鋳造され、宮殿の規則の下に仏殿が建築されて仏寺が整備されるのは、南北朝時期で、特に北魏中後期の造像立寺が突出点の一つとなる。

 宮殿規模と殿内の仏像設置方式は直接の関係が有る。南北朝時期の仏殿の実例は存在しない。故に只文献記載と石窟内部の空間形式を根拠に少し探索しよう。
南北朝期に流行した仏像設置方式は3種である:一つは七仏で、通常は7座の仏像が並列される;2つ目は、三仏で、早期形式は雲崗の曇曜5窟に見ることが出来、主仏は中央に居り、別の2仏は脇に相対する;3つ目は、主仏の両側に菩薩や弟子諸像が揃った造像が立つ。早期の仏像は、多くが単像で、後に成る程脇侍が多く成る。此れにより、七仏や三仏の設置は、後になると7組や3組揃いに列べて置くようになる。北魏雲崗第5窟に見る七仏は7身が並列した立像で、北周麦積山石窟第4窟に見るものは、已に7帳並列で、帳は各1揃えの形式である。史料記載に拠れば、殿内の像の置き方は、又、中央に主像があり、四周に天王諸像が取り囲み、或は菩薩主像の両側に並列して位置する形式もある。仏殿を建造する時、まず先にぞうの設置を考えて平面方式を確定する。若し、七仏殿ならば、長方形平面に作る。三仏或は単仏に1揃い付く形式は、平面が正方形に近くなり、前述の梁武帝の同泰寺の瑞像殿は、殿内に“七宝の帳座を設け、以って瑞像を安置し、又金銅の菩薩2躯を造り”、一仏二菩薩を設置し、これにより“3間両覆”を選択し、即ち方形平面で、入母屋造の屋根形式とした。北朝各地の石窟中の3壁3龕式の方形窟及び雲崗第9、10、12窟と麦積山大28、30、43、49の諸窟が示すのは、大体がこの類である。并びに多くの外観上の表現が桁行3間の仏殿は、屋根を寄棟造か入母屋造に作り、又中には覆鉢で、四周が木構造の軒を出す様式がある(例えば、南響堂山大7窟)。窟内の正面側面3壁は3座の仏張龕を彫り、3揃の仏像を置く;或は正壁の前に主像を置き、窟頂は彫った天蓋形状とし、地面も装飾文様を彫って、殿内像に相応の方式で表現したものと像頂に掛かる天蓋、地面に敷設したフェルト或は花模様の磚の工法を採った。已に知られる様に雲崗の仏殿中、内部の頂上は多く天井が表現され、北魏平城の仏殿の頂棚形式の反映とすべきものである。史料記載とは別に、南朝仏殿中、彻上明造の工法がある。北魏が洛陽遷都後、開削した龍門石窟中、頂部に天井を彫らず、改めて天蓋を彫ったのは、或は当時の仏殿形式のかなり多くが、南朝の影響を受け入れた現象を反映したのかもしれない。

(6)仏寺の配置
 南北朝期、各地に盛行した建塔造像は、それを以って追福とするやり方である。仏寺中の塔や殿の数量と規模は、東晋十六国時期に比べて大きく発展し、南北の仏寺の配置も皆、これに従って変化した。文献中の一連の大型仏寺の描写から見ると、南北の仏寺の配置風格は略異なる。だいたい北朝の建寺は伝統に則り、正統性の観念がかなり強く、平面はかなり整然とし、塔や殿の占める者が多い;南朝の仏寺は東晋の山林仏寺の特徴に則り、土地の状態に合わせて配置は自由である。この種の差異は、両地の自然環境が異なる事に関係がある。南朝の都建康の地勢は、元々山水の間にあり、たとえ都下の仏寺であっても、往々にして山に依り水に臨んで建てた;北魏の都洛陽の情形は異なり、城郭の内は、御道が縱橫に走り、坊里は整然と決められ、仏寺は多く街に臨み或は坊の形に依り範囲が設けられた。それとは別に、南朝の大寺中には、東晋期の旧寺の基礎の上に拡張建設してできたものが多くあり、総体の配置が又歴史条件に制限された。以下に文献記載と発掘史料の基づき、南北を分けて仏寺配置の特徴を、少し述べる。

①北魏の仏寺配置の特徴
 北魏が平城に都した期間、文成帝の仏法復興(注;太武帝の廃仏からの復帰)から孝文帝が洛陽遷都までの30余年(約460-495年)は、平城の建寺が真っ盛りであった。諸記載の平城仏寺を見ると、多くは国家或は皇家の成員が建てたものである。その中の5級大寺、永寧寺、方山思遠仏図、北苑鹿野仏図、皇舅寺及び3級寺の石仏図等は皆、仏塔が中心主体の仏寺で、仏寺の命名も魏晋時期の立塔を寺とする観念の残余を帯びている。
 孝文帝の洛陽遷都の後30年(約495-525年)中は、洛陽の建寺はピークに達する。仏寺配置はおおよそ、仏塔が中央を保持し、併せて体量が寺院の主体の造りと成る。特に皇室の建てた永寧寺、瑶光寺、秦太上公二寺及び嵩山閑居寺(後の嵩岳寺)等は、均しくこの種の配置方式を採用した。
 永寧寺は《洛陽伽藍記》一書中にあって諸寺の首とされ、北魏洛陽で最顕要な仏寺であった。洛陽伽藍記の描写から、永寧寺の配置には2つの突出した特徴がある。一つは仏塔が中央に位置し、且つ体量が巨大であり、寺内の主体建築物と言うだけでなく、同時に洛陽仏寺の顕著な標識でもあり、“都を去る100里、まだ遥かにこれを見る”と言われた;2つには、仏寺の配置と宮殿が類似し、建築形式もまた近い。仏寺の南門の形は皇宮正門と同じで、仏殿の形は前朝の正殿と同じ、壁で囲む工法及び、四門の方位と等級が分けて設置されるのは、宮中と全く同じである。1963年、中国社会科学院考古研究所が永寧寺遺跡を初期調査した時、寺院平面は長方形で、南北約305m、等材約215m、周長1060mであった。東、西、北の3面の塀基礎と門跡はほぼあった。塔基礎は寺院中部に位置し、南門に正対、下層は約100m見当の方形の版築基座であった。塔基の北面に1座のかなり大きな版築の残基があり、仏殿の遺址と思われた(図2-7-5)。遺址の平面と《洛陽伽藍記》中の記載は基本的に符合した。
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 永寧寺のこの種の寺門の内は、即ち仏塔配置方式で、一般の仏寺にも見られる。例えば洛陽城西の王典御寺は、“門内は、3層の浮図一所があり”、北魏時期の比較的良く見られる仏寺配置の形式であった。 洛陽景明寺は、宣武帝の景明年間(500-503年)、建寺の初め未だ建塔されず、正光年中に、“胡太后始めて7層の浮図1所を造る、地を去ること100仭”で、体量は永寧寺塔に僅かに及ばなかった。この寺は総体配置での仏塔の位置ははっきり言えないが、永寧寺から推測して、寺門と仏殿の間華も知れない。

 北魏後期、舎宅を寺にするやり方が段々盛行すると、洛陽城内の仏寺の大半は舎宅から成り、その中の多くは、立寺の初めに建塔されず、後に追福の名目で増建される、例えば平等寺、沖覚寺等である。建義元年(528年)の河陰の変(注※)後、北魏皇室成員の死傷の大半は、城西の寿丘里内の王侯の邸宅は、多くが寺となり、“刹を列べて望み、祇園精舎のごとく繁茂し、宝塔は高く聳える”。これ等の仏寺中の仏塔は、間違いなく後で建てたものである。一般的に言って、手宅を建寺年経中に体量の大きな仏塔を設置するのはかなり困難で、このため跡から建てる仏塔は、体量が減少し、或は位置が中央にならない。同時に、これ等の仏寺は、例えば前述の爾朱世隆が劉騰宅に建てた建中寺は、寺内の建塔の記載を見ない。これは北魏の仏寺配置が、後期になって、新しい変化が出現させ、かつての仏塔を中心主体とする配置観念を突破したことを示している。
 北魏洛陽の仏寺の用地は、往々にして坊を単位とするので、総体平面はかなり方形に整っている。洛陽の坊里は方300歩、換算すると今の410m見当である。前述の永寧寺遺跡の平面は、幅215、長さ305mで、広さは、半坊を占める。延年里の景明寺は、“その等材南北方500歩”、換算すると今の680m見当である。北魏洛陽城平面に拠れば、宣陽門と平唱門の間の全部を占める。

  (注※)河陰の変;専横を振るい、孝明帝も毒殺した胡太后に対し、太原の爾朱栄が孝明帝の報仇を      名分として反乱し、胡太后を河陰で黄河に沈め、漢化した鮮卑王侯貴族2000余を殺した。北魏南方の王族は南朝に亡命相次ぎ、爾朱栄も殺され、国力が衰退に向かう一歩と成った。

②南朝仏寺の配置の特徴

 仏寺内は中院を除き、又数多くの“別院”を設け、これが南朝大型仏寺の一つの突出した特徴である。主体建築(塔、殿)を備える院落は、“中院”と称し、往々にして最初に建立した部分である。その他の院落は即ち“別院”と称し、職能院、僧房院及び陸続と拡建した仏殿院や仏塔院等を包括する。梁武帝が建てた建康の大愛敬寺は、内に別院36個所が有り、“皆池台を設け、周囲をぐるりと取り囲む”、《法苑珠林》が記す荊州河東寺は、“別院の大きさは、今10個所有り、般舟と方等の2院は、荘厳最勝で、夏にはいつも別に千人がいる”、記すのは初唐期の僧の夏安居の盛況とは言え、別院の規模は、南朝期にも具備していた。

 寺内の建築物配置は自由で、南朝仏寺のもう一つの特徴である。東晋の偉業を承け、南朝の立寺は亦多くが山川景勝を選んだ。仏寺の配置は、地形条件の制限され、中軸線に塔と殿を中央配列とする方式は適用されず、当然その中も社会の気風と審美価値観念の影響を排除しなかった。浙江西部一帯は山寺が集中する地で、往々にして“高く続く山なみに刹を建て”、“曲がった谷を跨いで、室とした”。梁武帝の大愛敬寺の“創塔はイエアを抱く奇”は、中院が大門を去ること、延々7里であった“。山寺に建塔するのを知れば、崖に依る構造の例はかなりの数があり、その他の建物も皆、地面の条件で建て、仏寺の形態はすこぶる多くが変化に富んで様々である。斉の明帝時(495-498年)、鄂州の頭陀寺を続建し、“層の軒は延々連なり、上は雲虹より高く、・・・・飛閣はくねくねと伸び、下に天地を望む”は、南朝山寺の典型的風貌である。
 注意に値するのは、南朝の仏寺中、多くが前代の旧寺を拡張建築して出来たのである。例えば、東呉の建初寺や、東晋建康の彭城、瓦官、道場、中興の諸寺及び荊州の上明、河東寺は、歴代の建築を経て、堂殿と僧坊別院を増造し、南朝後期には、均しく著名な大寺と成った。その総体配置は変化発展し、実に南朝から漢地仏寺形態の変遷発展の趨勢を代表している。今後の考古努力と結合して研究を加えれば、たいそう有意義なことであろう。

(7)仏塔の仏寺配置での地位
 南北朝中期に始まり、仏塔は仏寺配置の中心主体の地位が漸く改変してくる。その原因は前述の仏殿の造立と舎宅を寺として仏塔建にいっていの限界性を産んだことを除いて、人間の観念上のある種の変化も、仏寺配置中の塔と殿の相互関係及び地位の変化の一つの重要な原因をもたらした。
 早期仏寺の主体である仏塔は実際上、一種の外来の仏殿形式である。前述したように、紀元前後に形成して流行した西北印度のガンダーラ芸術中、仏像は已に人間の礼拝対称に成っていて、その時から東に伝播した仏教信仰方式も、二度と単純な舎利等の物象崇拝ではなくなっていった。それで、仏塔は外観形式及び内部空間上、仏像との関係を発生させ始める。東晋時期に訳出された《観仏三昧経》の中に、多くの所で“人塔観像”を提唱し、仏像を塔内に安置し礼拝することを説く。東晋の葛洪(284-364年)の《字苑》釈塔に言う;“塔は、仏堂である”(玄応《一切経音義》巻六)は、即ち、功能という角度から仏塔を説明するのは、この意義から講じたもので、早期の仏寺が仏塔を主体であったが、実際は仏殿が主体であり、伝統形式の仏殿の出現は、最初は只仏塔の功能に対する一種の拡充に過ぎず(塔内の空間が像を置く需要を満足出来ない)、或は代替として(寺内に未だ塔が立っていない)であった。仏塔は総体配置中の位置は、このため改変するが、その地位は往々にして依然として仏殿の上であり、塔内に置く像の功能も、これによっては取って代わることは無かった。北魏洛陽の永寧寺のように南朝宋明帝の湘宮寺は、たとえ配置が門、塔、殿3者が前後重ねて置かれたと言っても、まだ建築技術の制約を受けて2塔に分立し、事実上未だ仏塔が総体配置の首要な地位に影響が無かった。但、寺院規模が拡大し、寺内建築物が増加し、早期のようには、“浮図”を以って仏寺の代称にはならかった。

 そして、東晋期に始まり、建造する仏塔も舎宅からの立寺と同じように、三宝を敬う信徒が副業で建設する方式で成った。南北朝期、造塔祈福の気風は益々盛んになる。北魏孝文帝は即位後、文明太后と“二聖”と並び称され、社会はこれにより“二聖”祈福として造立する双塔の工法が出現する。宕昌公王遇は、陜西省本郷の旧宅に暉福寺を建て、“上は二聖の為に3級の塔を各1区建てた”。造塔の意義は、まるで造像をするように本身を“1区”に限り、二度と立寺とは看做させなかった。南方は即、舎利を求めての立塔が盛行し、これにより一寺の中でも数座の仏塔を建造し、例えば長乾寺のように、前後して舎利塔5座を起こし、その内、梁武帝が2座を建造した。この様に思いのままに建塔したので、反って仏塔は中心主体の地位を失っていった。これと同時に、殿内に像を置く工法と伝統的帝王や聖賢の礼拝の方式を結合し、已に人々の為に常用され、伝統的宮殿の規画配置方式は、段々と自然に仏寺建築群に用いられる様になり、仏塔の位置は逐次中心から脇の方へ移っていった。だが、目下知る所では、尚未だに確実な例証ではないが、北朝の仏寺中に仏殿の宏大な中に、仏塔が殿の前の両側の情形に分けて置かれるものが、すでに出現している。事実上、仏塔は仏寺中のその中心主体の地位の変化の過程は、ゆっくりとしたものであった。隋唐以後、仏殿が中心主体となり、仏塔は両側に分けて置かれ、別院の配置形式はやっと定型となった。この一変化の原因を造ったのは、早くも南北長時期に已に出現していたと言うべきである。


  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服

by songofta | 2017-07-17 14:19 | 古建築 | Trackback(3) | Comments(0)
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