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「地球の歩き方」では数行、団体旅行には無い、一人旅のガイド


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258 工程管理機構と工官、工匠(1)

中国古代建築史 (抜粋) 巻二
第三章 隋唐五代建築
第13節 工程管理機構と工官、工匠

※ここから、建築の官僚機構の長である工官と、実務を行う職人の工匠の話に移る。工官は、北朝出身で鮮卑族の宇文恺と、南朝出身の何稠の項のみを訳出する。工官は、他に数名あるが別の機会に譲る。
工匠については、次回とする。

一、建築工程の管理と実施機構
 隋唐の二代、多くの宏大な工程が進行し、古代工程技術史と城市建築史上で創めて記録された大運河と、隋大興城が隋代に建築が始まり唐代に発展完成した。これ等は全て設計施工の任務が巨大で、動員する人力は空前の巨大な工程で、国家が主持して起こした工事である。当時の国家は強大な計画設計と施工組織能力があり、その機構こそ尚書省工部将作監である。
 中国は古代より工程管理の専門機構がなく、戦国以前については詳しく考証が難しく、大体は漢以来尚書省民曹、尚書省工部系統と将作系統が併存し、相補って成してきた。
 将作の設立は秦に始まり、秦代に都城宮室の大建築は、将作少府を設け、“宮室を掌り”、その長官を丞と呼んだ。漢代も依然として、将作を設け、長官を将作大匠と改称した。後漢は将作大監を設け、“宗廟や正庁、宮室、陵園の土木工事を掌り、併せて桐樟を植え、道の側に並べる”。東晋南朝時期は、事が有る時に設け、無くなれば廃止した。北斉は将作寺を設け、長官を将作大匠と呼んだ。北周は周の官を真似て匠師中大夫を設け、宮室城郭の制を掌らせた;又、司木中大夫を設け、木工の政令を掌らせた。隋は北斉の制度に沿って、先に将作寺を設け、後に監と改称した。唐は基本的に隋制を援用し、将作監を設け、長官を将作大匠と呼んだ。
 漢の朝廷は尚書省に5曹があり、その中に民曹があり、後漢の時、“営繕建築の主持、土木工事、採塩地、園苑の工事を兼務し”、行政機構が宮の工事をする始めとなった。両晋南北朝時期、例えば宗廟、宮室の営造の場合は、臨時に部を起こして尚書省が管理し、終われば撤去した。北斉時期も部を起こして工程を主管し、北周は冬官大司空卿と呼んだ。隋代の開皇二年、尚書工部を設け、工部と屯田2曹を管轄した。唐は隋制に沿って、尚書工部を設け、下に工部、屯田、虞部、水部の4曹を設け、建築工程、屯田、山沢、長江黄河の水利を分けて管轄した。
 このように、隋唐時期に、基本的に尚書工部と将作監2つの主管工程部門が形成された。《唐六典》の記載から見ると、2つの部門の性質と任務は異なる:
 《唐六典》巻7尚書工部に、“工部尚書は、侍郎(長官、副長官)の職で、天下の百工、屯田、山沢の政令を掌り、属する者が4つある;一つ目は工部で、二つ目が屯田、三つ目が虞部(山沢のこと)、四つ目が水部である”。四曹中の工部が主管する官は、“郎中、員外郎、起工の庶務経営、城池の修復浚渫、土木の営繕葺替え、工匠の規格、全ての経過管理を掌る”。尚書省は最高の行政部門で、うえに述べた事は、工部は主要には全国の建設工事の計画部門で、“工匠の規格”の句に拠れば、その部門は工程規範と見積り等を制定しなければならない。
 《唐六典》巻23、将作監の条が言う:“将作大匠の職は、邦国(小国)の修理建築、土木、工匠の政令を掌り、全部で4署、3監、百工の官属が、その職事に供する。少匠貳なり。凡そ西京の大内宮や大明宮、興慶宮、東都の大内宮や上陽宮、その内外の郭台、殿、楼、閣並びに杖舎等、苑内宮、亭、中書、門下、左右羽林軍、左右万騎杖、十二閑厩屋宇等これを内作と言う。凡そ山陵と都の太廟、郊社の諸壇廟、都の諸城門、尚中殿中、秘書、内侍省、御史台、九寺、三監、十六衛、諸街使、弩坊、温湯、東宮諸司、王府官舎屋宇、諸街橋道等、並びにこれを外作と言う。凡そ建造営繕葺替え、分功、度用、皆以って委ねられる。
 上の文に拠れば、所謂、“内作”は宮城禁苑範囲内の営造を指し、“外作”は京や都の郭内の官署や廟社、王府、郊外の壇廟、付近の皇陵の営造建築、都の城門と御道の街と橋の維修を指す。これ等は、将作監が建造維修の工程に責任を持っていた事を示す。“分功度用”の句に拠れば、将作監は更に、設計と工料の見積もり、予算の制定等に責任を持つ必要があった。これはつまり、将作監は皇家や、中央の国家機関と首都の城門、街道の営造維修を主管し、計画と設計、予算、施工の諸方面を包括する。
 将作監の下に設けた官署の中に、左校署、右校署、甄官署と百工監等は全て具体的に営造建築中ある一部門を主持する。左校署の長官は令で、“建築する梓匠(注;木器物を造る人と建物を建てる人)の事と、その雑材の調達、その是非を調べ、その器具の制度を作り、その工事の腕の評価を掌る”。即ち木工部門に責任を持つ。大型宮殿建築は、大体が木架構の建物で、木工は最重要の工種で、建物の設計は先ず木架構の設計である。《唐六典》の左校署部分には更に“宮室の制”が記載され、(建築等級の部分に詳述され)建築等級区分にも表され、木架構設計上にも表現が要る。故に、将作監の中で建築設計と施工に責任を持つのが左校署である。
右校署は、“版築、壁塗り、赤色を塗る事を掌る;……凡そ材料は皆、その属する理由があり、その制度を審査しこれを計る”。その主管は土方、塗工と彩画工程を掌る。版築築土は、中国古代建築で極めて重要な地位を占め、基礎や台基、壁や城壁及び河と水路、堤防等は全て土木或は築土版築工程に属し、その労働力を用いる所は最多で、大工程はともすれば数十万の民夫を動員し、主要にこの種の工事に従事する。宋代は土方、築土工程は壕塞と言い、主管は壕塞官と称し、唐代にこの名称は未だ無い。
甄官署は、“石彫、陶土の事を掌る。……凡そ石作の類は石磬、石人、石獣、石柱、石碑、石臼が有り、一山の土から、役に立つ物を用いるのである。凡そ磚瓦の制作、瓶壺の器、大小優劣、各々軽重の基準がある”。この他、明器の制度を作る責任を持つ。その主管は、石工と磚瓦、陶器の制作である。石工は、建築中で用いるのは主要に、台基や欄干、柱礎の類である。だが、陵墓の石碑や石獣、石柱等を用いるのは、巨大で高い芸術水準の石彫技術を持ち、材料の採用や彫刻、運輸、据付には全て巨大な人力を消費し、併せて厳格な要求がある。北魏以来、皇家が開鑿した仏教石窟は、最大の石彫工事であった。《隋書・百官志》に記す北斉の官制は、その太府寺は、“金絹と府庫を掌り、器物を営造する”、内に“甄官署を設け、又別に石窟丞を領す”。これで知られるのは北斉時期、皇家が開く石窟、例えば北響堂や天龍山等は、甄官署の責任であった。同書が言う“後斉の官制は、多くを後魏を踏襲し”、故に北魏の石窟は恐らく甄官署の責であった。隋代の甄官署は依然として太府寺に属し、唐に至って始めて将作監に入った。《通典》に言うそれは“磚、石、瓦の営造を掌り、《唐六典》に載る所と基本的に同じである。唐代最大の石窟工事は」、則天武后の開いた奉先寺の廬舎那大仏一組で、甄官署が責を負ったのかどうかは、史料に明文がない。
この他、将作監中にはまだ、百工、就谷、庫谷、斜谷、太陰、伊陰等の監は無く、《唐六典》は言う:“百工等の監は、材木伐採の事を掌り、その名を論ずるのはこれを主とした為である。凡そ修造には、材料に関わる道具が必要で、全て時にこれを取り、基準によりこれを用いる”。これに拠り、百工等の監は、木材の伐採と分類管理を主管し、工事の木材料と版築に用いる楨幹(注;木柱)等の工事道具を供応する。
将作監は更に、直接工匠を掌握した。《唐六典・工部》に言う:“凡そ、興建修築、材木、工匠は、則ち少府、将作の下にあり、以ってその工事を行う”。その下の原注に言う:“少府監の工匠は1万9千8百50人、将作監の工匠は、1万5千人、諸州に散らばって、皆膂力が強く、技能が優れている”。
 上述を通して知ることができるのは、将作監の職能は、具体的に“内作”と“外作”の計画設計、材料の制作準備と施工であり、皇帝と中央政府が直接掌握する計画、設計、材料調達と施工を一体の営造建築実態に集中する。工部は全国の工事の進行計画、管理並びに統一的規範と定額 (人力、物力、財力、期間全ての標準)等の行政管理を行う:2者の職能は異なり、相補い合って遂行する。隋唐以前は、この2組織は時期が異なって設置されたり、同時に設置されたり、職能も有る時は混淆してはっきりせず、有る時は交錯した。同時に設置され合理的に工事を分割されたのは、隋に始まり唐で完成したものである。
 隋唐2代は重大な工事毎に、多くは工部と将作監が共同で主持した。《隋書》に載る開皇二年(582年)新都の大興を営造する時、宰相の高熲は官僚を率いて、営新都大監に任じられ、実際には営都副監の宇文恺が彼に代わって主持し、参加したのは工部尚書の賀類乾、将作大匠の劉龍、太府少卿高龍義等である。隋の甄官署は太府寺に属し、故に太府寺匠卿が参与した。工部尚書と将作大匠は、高熲の指揮の下に参加し主持した。隋煬帝の大業元年、東京の営造に、宰相の楊素を命じ、楊は営東京大監となり、営東京副監は実際上依然として匠作大匠の宇文恺が主持して事に当たった。大業四年、丁男20余万を発して長城を築き、又河北諸郡の男女100余万に発して永済渠を開鑿したが、全て閣毗が主持し、その功を以って将作少監を率いた。唐代の太宗貞観9、10年昭陵と献陵を営造し、14年汝州襄城宮を営造、20年長安宮城北闕を営造、21年翠微と玉華の2宮を営造したのは、全て将作大匠の閣立徳が主持し、功を以って工部尚書に転じた。この例で判るのは、重大な工事の時、2つの機構は協力し、具体的には将作大匠が主持し、大匠に功績があれば工部尚書に昇格することである。
 《隋書》に載る、隋文帝の決めた新都大興の建設は開皇二年六月丙申で、先に高熲、蘇威等の重臣と事前に討論し、大体この時計画は既に輪郭が形成され、詔が下された後、たった9ケ月に時間で、文帝は新宮に人を遷し、その計画と施工組織の能力は驚くべきものがある。煬帝は東京の建設を仁寿四年11月に決定し、大業元年3月に建設の詔を下し、計画設計時間は4ケ月を越えない。大業二年正月に完成し、建造期間は11か月を超えない。その速度は大興城の営造とそっくりである。史料では東京営造時、月に100万人の労役があり、宮城は70万人が築き、その工事組織と技術指導、検査の任務はさぞ多くてきつかったろう。《隋書・煬帝紀》に載る東京建設時、“監督者に賜うのはそれぞれ差があり”、一群の監督の官員が組織されたことが判る。《隋書・裴矩伝》は言う:“煬帝が即位し、東都を営造し、裴矩は府省を担当し、9旬の間就く”。府省は即ち皇城の官署で、皇城の占める地は、1平方kmに近く、9旬で建設し終わり、その速度は実に驚かすものがある。この方面は監督が裴矩一人で行ったが、大量の工事計画や材料供給、工種等級等の具体的問題は、工部と将作監が領導する管理官僚と匠師から拠って来ることである。隋大興と東京2座の都城宮殿の営造建設は、隋代国家の掌握する計画、設計、材料調達と施工組織と実施能力を充分繁栄するものである。

二、工官
 隋唐2代の工官は即、尚書工部と将作監の長官である工部尚書や将作大匠とそれらの主要属僚である。工部尚書は、尚書省六部首長に一つで、行政官であるが、重大工事の時には、往々にして工事に経験があるか建築に習熟した人であった。将作監の将作大匠は具体的に計画や設計、施工を行い、その下には左校署や右校署、甄官署の令、丞、監作、部下に工匠達があり、即ち熟練した技術の匠師である。彼等は技術官に属する。普段、将作監は重大な工事がなく、大匠は多くが貴族の子弟が任命され、則天武后の時、その堂姉(注;従姉)の子宗晋卿を将作大匠に任命し、中宗の時楊務廉を将作大匠に任じたが、皆悪名で汚し、その評判は大変悪い。一群のものは営造建築を行う官から出た者も、人に尊重されなかった。睿宗の時、竇懐貞は尚書左僕射(副宰相)で、自ら金仙、玉真の2道観を建てる監役となった。その弟が風刺して言うには、“兄は位`宰相補佐を極め、代わりに政策を献じて,良い建議をし、以って明主を補佐する任にある。何を思って瓦や木材を見積もって、厠を工匠の間に置き、国中の賞賛を得ようとするのか”と。唐玄宗は宰相として決める能力がないと見做した人は、彼の将作大匠の康䛒素であった。平時は将作大匠に任じる人は、皇帝が重視しない人で、見る所のない人でもあった。
 だが大きな建設の時は、将作大匠は却って一群の本当に工程を知る人を任命し、これらの人は、時機に応じて、重大な貢献を造り出し、卓越した計画家と建築家と成って、一時代の城市計画と建築の発展を推し進め、偏見を持つ封建史官さえも肯定せざるを得ず、正史に載せたのである。《隋書・宇文恺伝》後の史臣の評価は、隋煬帝の奢侈華麗の心に迎合したと批判するが、彼は“学と術を兼備し、知識が豊富で、規矩の妙は、(専門家の工匠達と)差がなく、当時の制度は、皆規範を取ったのだ”と。彼が一時代を開いた大建築家で計画家であったことを承認している。
隋唐2代に重要な成就をした卓越した工官には、宇文恺、何稠、閻毗、閻立徳、閻立本、韋機等がいた。分けて言えば、以下の如くである:

(宇文)
 宇文恺は鮮卑族の人で、祖籍は昌黎大棘で、後に夏州(今の陜西省靖辺)に移った。彼は西魏恭帝二年(555年)に生まれ、隋大業八年(612年)に亡くなり、享年58歳。
 彼の父宇文貴は北魏の旧臣で、北魏孝武帝に従って西に関中に走り、後に北周の功臣となった。その兄宇文忻は隋開国の功臣である。史書は、彼は幼時より“学を好み、博覧強記、属文を解し、技芸多く、号して名父公子となす”と。父兄が軍功を以って家を起こすのと異なり、青少年時に北魏や北斉、北周以来の北方文化伝統と典章制度や文物事績を熟知していた。北周大象二年(580年)楊堅が丞相の時、宇文恺は匠師大夫に任じられる。《唐六典》に、北周のこの職は、“城郭、宮室の制及び諸器物の度量を掌る”、これは城郭、宮室の計画、規制の官で、この時僅かに26歳。
   隋に入った後、早くも彼は重要な計画設計の任務を担当し、例えば、
   開皇元年(581年)営宗廟副監、年27歳
   開皇二年(582年)営新都副監を領す、年28歳
   開皇四年(584年)開広通渠を督す、年30歳
   開皇十三年(593年)将作大匠、営仁寿宮を検校、年39歳
   仁寿二年(602年)営泰陵、年48歳
   大業元年(605年)営東都副監、年51歳
   大業四年(608年)工部尚書、年54歳
   大業五、六年頃(609-610年)選明堂議及び木様、年55或いは56歳
   大業八年(612年)10月死、年58歳
 総合して彼の一生を看ると、隋代の重大な城市計画と宮室官署建設は、大体全て彼の主持の基に完成した。《隋書・宇文恺伝》の言う大興建設時、“高熲が総大綱であったとは言え、凡そ計画は、皆宇文恺であった”は、宇文恺が実際に大興城建設を計画した人であった。大興城は人類が資本主義社会に侵入する前に建造された最も巨大な都城で、わずか28歳の青年がその計画を完成させたのは、言い様もない奇跡で、宇文恺の天才と卓越したレベルが想像できる。
 隋が陳を平定する以前、宇文恺の文化背景は、北魏、北周、北斉の北方文化圏に属し、彼の計画した大興城は基本的に北魏洛陽、北斉鄴南城と北周が崇尚した周礼の王城制度から成り、それらの総合と手順化であった。589年隋が陳を平定すると、建康の宮室を破却し、この期間に宇文恺は建康に住み、自分の目で焼却された明堂基址等を観察し、南朝建築を理解したのである。これから後、彼の計画設計する城市、宮殿は、即南朝の幾つかの特徴を吸収し始めている。大業元年(605年)、彼は東都洛陽の計画と建設を初め、煬帝の傾慕する江南文化の心理に迎合し、“梁陳の曲折を以って兼ね、規模とする”。これから推測すると、開皇十三年(593年)営仁寿宮の時、宇文恺は已に江南宮室を調査し終わり、仁寿宮を建て史籍に言う“崇台累榭、宛転相属”、“頗傷綺麗”は、江南宮室の特徴を吸収したからかも知れない。これらの情況から看て、宇文恺は、実に隋統一にあって全国初の形成変化に適応でき、計画設計に南北方の長所を兼ねて採用し、それを大成した第一人者であった。これは彼が計画設計上、卓越した成功を取得し同輩を超越した原因であった。宇文恺はかつて、その兄宇文忻が殺され家に閑居されたが、文帝、煬帝父子は最後まで重任を委ね続ける事を望み、彼は当時最重大な工程を主持し、その原因もここにあった。
 当時にあって、皇家と政府の工程の最高責任者を務めるには、技術に精通しているだけでは遥かに不足で、典章制度や経学礼法並びにそれと実際の需要を巧妙に結合することに知悉していることがひつようである。宇文恺はこの方面にも特長があり、同輩より優れていた。かれの支持して計画した大興城は、実際の政治、経済、軍事と城市生活の必要を、北魏以来の都城の伝統と《周礼・孝工記》の原則の記載と結合した傑出した範例である。彼が撰した《明堂議》は歴代の明堂制度の沿革、得失、優劣を逐一比較し、事故の意見を提出し、併せて1/100模型を作り、1枚の古代の設計の説明書と明堂建築に関する考証文献を作り、彼の深い学識と実際能力の連携を表した。
 宇文恺の計画設計した大興、東都の2城は、その平面は已に基本的には明らかにされている;かれの計画設計の太極宮、仁寿宮と東都宮三宮中、只東都宮の平面のみが大体明らかになっている。これらは全て已に本章の都城、宮殿部分で深く検討されている。検討中で八卦された、宇文恺が大興城を計画した際、子城の長さと幅にモジュールがあり、全城を若干の区域に分け、区域の中に里坊を配置し、全城の居住里坊と方格状の街道網を形成している。23年以後、彼は東京洛陽を計画する時、改めて“大内”の長さと幅をモジュールとし、洛水で南居住区を若干の区域に分け、区域に里坊を配置し、整頓された配列の里坊と方格の街道網を形成した;彼は又“大内”面積の4倍を子城とした。両城計画中、全て一標準面積をモジュールとし、当時の城市計画上已に一つの先進的方法で、東京計画時、改めて“大内”をモジュールとし、坊や大内、子城は各4倍面積を順次増やしたと説明し、この方法は依然として発展改善進化中にあると言っている。洛陽の“大内”は、その主殿が“大内”のどの位中心かは発見されていて、“大内”の面積は、更に方50丈の網格が縦横各7格あり、その上に宮殿が配置された。これ等の特徴中、主殿が全宮殿中のどの位中心に配置するかは後漢の未央宮の出現を除いて、その他の多くでは始めて見るものである。その中で50丈の網格を以って管理線として配置する大建築群の手法以後、又唐大明宮と渤海国上京宮殿中に出現し、已に唐の汎用手法と成った。これ等は宇文恺の創造或いは前人の基礎の上に発展したものである。彼が計画、設計した時、一連の原則と処理手法は、その当時計画と建築設計上の最高の成功を代表し、我々が深く発掘し解明する極めて大きな価値がある。

(何稠)
 何稠は、南朝の人で、父は腕の良い玉の彫刻工である。10余歳の時、北周が江陵を攻め落とし、ついにその兄に従って長安に来た。隋文帝の時御府監や太府丞等の職に任じられる。彼は精巧さを心がけ、旧品を多く知り、古図を博覧し、工芸の製法に精通し、ペルシャ錦と瑠璃瓦の倣制はとうじの人の重んじる所であった。仁寿二年、宇文恺と共同で太陵建設工事に参加し、隋文帝の親しくなった。煬帝の即位後、大業元年に太府少卿に任じられ、儀仗車輅を設計制作する。後に又煬帝の為に観風行殿と六合城を造る。隋が滅び唐になると、将作少匠に任じられる。唐初に亡くなる。554年北周が江陵に入った時10余歳であったことから、死んだ時歳は80歳に近かった。
 何稠は隋代の重要な工官中、唯一の南朝人であった。北朝時期、北魏、北周、北斉は全て、江南の文化と典章制度を傾慕し、文物儀衛は中原伝統文化のある所としていた。隋文帝が彼に命じて太陵建設の工事に参加させたのは、彼の文化背景を利用し、南北の長所を集約して一代の制度に定めたい思いであった。太陵の制度はもう考証できないが、31年後の唐高祖の献陵は、きっと太陵と継承関係がある。献陵は地面を均して陵を建て、陵垣の四面に門を開くのは漢陵に源があるが、門外に石獣華表を立て、獣種は南朝と異なるとはいえ、その間には一定の関係がある。故に、隋唐の陵制中に少しばかり南朝の影響が含まれるのは、何稠の行った事に相当する。隋煬帝即位後、彼に命じて“図籍を討閲し、與服羽儀を営造せよ”と。“服章文物”の“闕略”も、彼が南北の長所を総合して一代制度を創立させたとある。何稠も“今古を参照し、多くを改創した”。だが、煬帝は奢侈美麗を追求し、民を過度に働かせ、瓜と成した悪政の一つであった。(この句は意味不明)
 《大業雑記》に拠れば、観風行殿は“3間両厦、丹色の柱と素の壁、彫刻の梁美しい棟、一日の内に端正に屹立する”、建物の活動であろう。当時の工程は皆、帳幕を以って出行し、大きさは数種あり、これを改め宮殿式に活動する建物とし、自然と大げさで奢侈美麗を好む煬帝の喜ぶ所であった。六合城は《隋書・礼儀志》に拠れば、“方120歩、高さ42丈。六合は、木を以って作り、方6尺、外面の一方は板があり、これを離合し、青色を塗り、6板を重ねて城とし、高さ3丈6尺、上は女壁板を加え、高さ6尺。南北に門を開く。又城の4隅に敵楼2を起て、門観、門楼、手摺りは皆美しく丹青で描く。又、六合殿、仙人帳を造る。槍車を載せ、車は六合3板を載せる”。この描写から看ると、これは、木板を合成した城である。六合城は本来煬帝が北巡出塞時に制作したものである。大業八年、煬帝が高麗を侵し、更に大きな六合城を設け、同書はそれを称して、“周回8里、城及び女垣は併せて高さ10仭(8丈)、上は甲冑士を配し、杖建旗を立てる。又4隅は闕と、面して別に一観があり、観のしたは3門を開く。その中に行殿を施し、殿上は侍臣と三衛杖、合わせて600任を容れる。一夜の宿として華美である”。言っているのは、城の周囲8里に高さ8丈で情理に似合わず、誇大かも知れないだ、《隋書・何稠伝》に載るのも、8里で、疑いがあるだけである。戦争は厳酷で、働く民の財産はこの種の幾つかの劇により損なわれ、防御作用の全く無い木城は敵に誇大な耀やかさは敵のあざけりを引き起こすに足るものであった。史書の言う“高麗は遠くから望み、神功のようだと言い”、当に飾る言葉で、煬帝の2次の高麗侵攻は失敗に帰し、隋の滅亡を進めた。何稠は自己の才覚を煬帝のこの種の面子を飾る実用性の無いものに尽力して、歴史上悪い名声を残した。
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(この後、閻毗、閻立徳、閻立本、韋機、竇璡の長城や、永斉渠などの大建築の事績が続くが、我が国の建築とあまり関係がないので、省略する)



  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛

by songofta | 2017-10-10 13:38 | 古建築 | Trackback(7) | Comments(0)
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