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「地球の歩き方」では数行、団体旅行には無い、一人旅のガイド


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226 用材の制度3 ”材分”制の淵源

中国古代建築史 (抜粋) 巻三

第十章 建築著作と匠師



(2) “材、分”モジュールの淵源
 “材、分”モジュール制は結局、何時木構造建築に応用され始めたのか、はっきりとした記載は無く、材と斗栱の密接な関係から、材の概念は斗栱の発展過程中で形成されたと考えられている。史料を看ると、最早の斗栱は一種の大斗で、西周初期の銅器“矢令毀”上に見える(図10-32)。矢令毀は建築ではないとは言え、その表面に建築の斗栱等の物を模して雕飾し、《礼記・礼器》一書に記載がある。従ってこの令毀上の斗は当時の建築物上の斗栱の斗に当るとすべきで、この大斗は4本の短柱上に置かれ、斗の間は横方向に連絡して斗口中に嵌入する。この種の柱、斗、横木(方)の組合せ関係は、後世の建築物上に見るものとそっくりである!斗と栱の組合せが一緒に有る例で現存最早の材料は、戦国期の采桑猎鈁(図10-33)と戦国期中山王陵の銅方案(図10-34)である。
226 用材の制度3 ”材分”制の淵源_e0309314_16194275.jpg
  前者は、浮彫類の雕飾で、斗栱形成の刻画は明瞭さに欠け、後者は精細な加工になっている。銅方案の四隅は等しく竜頭があり、頂上には短柱があり、柱上に斗と横肘木を置き、肘木の両端は、又短注と斗があり、方案四周の框を承け、框の1辺は1本の方形の横木で、斗口内に嵌入する。その斗は、耳、平、欹(注;斗耳、敷面、斗刳のこと)各部分の比は均しく、輪郭は優美である。この例から推測すると、建築上の斗栱は、造型は已にかなり考えられていて、肘木、横木は、枘と枘孔の形を以って斗口の構造方式が已に一種の定型的構造として運用されていた。只、提供された形象と一般建築物上に所用の肘木は異なる。漢代になり、言うまでもなく画像磚や崖墓、明器の中に、更に漢闕中(※注3)に斗栱として見出す事が出来る:簡単なものは大斗があり、上に肘木を置き、肘木の上に3個の散斗(注;巻斗のこと)があり、その上に横木を承け、典型的なものは四川省牧馬山出土の東漢の明器(図10-35)、四川省渠県馮煥闕、沈府君闕と山東省高唐漢墓である。複雑なものは、1組の斗栱の上に2,3層の肘木を置き、肘木は同じ断面を有する、例えば河北省望都漢墓出土の望楼である。明器にはまだ柱或は牆壁から方形木を出跳し、肘木の断面と同じで、これは当時已に統一した“材”の概念があったことを物語る。
     (※注3)漢闕:漢代、宮門の両脇に設けた物見やぐらの台
226 用材の制度3 ”材分”制の淵源_e0309314_16195266.jpg
  漢代の建築遺物中、四川省雅安の高頤闕は、“材”の運用に対して更に一歩前進している。高頤闕は紀元209年に建てられ、それはその頃の陵寝建築前の門闕で、且つ石構造で建造されたもので、その細部は全て模擬木構造の浮彫形式で、そのため木構造建築の一端を垣間見る事ができる。
高頤闕は母子闕で(図10-36)、母闕の垂木部分は3組の完全に整った斗栱と3個の大斗を備え、子闕部分は只2組の斗栱と3個の大斗で、ここから2個の大きさの異なる闕に使用する大斗の中に、たくさんの棟梁が材を用いた意図が反映されている。
 ①母闕の3組の斗栱中、肘木の形は弓形(弓臂)と曲線形(曲臂)の2種が有るが、それらは共同の材と栔が使用されており、且つ肘木の材高さと上部横木(方)の材高さは完全に同じである。
 ②子闕の2組の斗栱と横木は共同の標高を持つ
 ③子闕と母闕の隅斗栱は、均しく横木の断面が出跳し、即ち“材”の大きさは、子闕と母闕の用材寸法が異なるが、断面の高さ幅の比は大体同じで、子闕の材は高さ幅の比が11.20:10、母闕の高さ幅の比は11.21:10。此れにより、それは異なる等第の材を使用する概念を持っていたことが証明される。量斗栱の材寸法は、表10-4を参照せよ。
226 用材の制度3 ”材分”制の淵源_e0309314_16222537.png
 高頤闕は異なる等第の材を使用したことにより、子闕と母闕の異なる尺度と体量の部分を別け比較的に成功した。 ④母闕または子闕の①組の斗栱毎は言うまでもなく、肘木の造型がどう変化しようとも、斗は肘木或は横木と一緒に組合さる時、全て同様の構造組合せ方式を採用して、1材の大きさの断面が斗口中に嵌入し、木構造の標準化された節点構造の工法を反映している。
 高頤闕は四川にあり、一地方長官の陵墓の門闕であり、建築等級は高く無く、却ってこの様にある種の木構造建築の用材の基本概念を体現しており、当時の材、分制運用の細かい差を想像することが出来、工匠の材、分制運用が已に一定の熟練に達したことを説明している。
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 この他に、山東省両城山出土の漢の画像石中に、斗栱の図形が描き出されている(図10-37)。この図では出跳した肘木が横木より大きく、或は足材を用いた肘木に比べても良いかも知れず、工匠は大きくした部材断面の方式で張り出した荷重を承けた。類似の例は、明器中にも見ることが出来、出跳した肘木の断面は高く、一種の足材の肘木の雛形の使用ともみえる。これは正に、“材”に対して強度を付与した概念の体現である。
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 同時に、文献中に漢代“材”の重視を看る事ができ、《漢書》記載の、漢代建築工程を主管した将作大匠は、所轄の下級官員に、已に専門に“材”を主管する官吏が有った。
 西晋初年、《傅子》がかつて、“大きな建屋を構える者は、先に匠を選び後に材を選ぶ(簡材)”と指摘した。李誡はこの句を根拠に注釈して、ここで言う所謂“材”は一般材料の材では無く、正に“方桁”を指し、つまり四角い木のことであると知ると。“材を選ぶ(簡材)”もまた建築の用材等第を選ぶことで、これは当時已に大きな建屋を建造する人は真っ先に解決しなければならない問題と認識されていたのである。
 南北朝、隋唐、五代の発展を経て、北宋に至り、“材、分”モジュール制はとうとう成熟の段階に到達し、現在《法式》が表す用材制度の推賞だけでなく、“材、分”の高さ幅の比は《法式》が出来る前の宋代遺構中で日を追って統一されていった。下表に列挙する33棟の建築の用材の情況から知れるのは、10世紀以前の例の中に、ある材は高さに偏り、有る材は正方形に偏り、材の高さ幅の比は15:10(±0.5)の範囲内の建築はたった1/3を占めるだけだが、11世紀になると材の高さ幅の比が15:10(±0.5)の範囲内の建築は91%で、12世紀の遺物中の80%を占めて、ここから見られるのは、《法式》の材の高さ幅の比15:10は正に建築実践の基礎の上の結果であることである(図10-38)。
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 それとは別の面で、宋代の社会世論の“材、分”制に対する推賞も未曾有のことであった。“材”は北宋では又“章”と称し、所謂“章”は”章法”のことである。李誡が言った“たてものを後世する法は、その規矩制度は皆、章を以って祖とする(構屋之法、其規矩制度皆以章為祖)”は、人に対する“物腰の慌てふためく者は、これを条理を失い定めを失うと言う(挙止失措者、謂之失章失栔)”を建築に喩えて借用したもので、用材制度はこの様に章法から、全国の建築工程を管理するのに必須であると看做し、以って失章失栔のじょうきょうが出現することを免れ、正に《法式》が法規性の典籍として全国に発布された目的の一つなのである。
 北宋滅亡後、南宋時代は南方の工匠が《法式》を熟習し、当時の官式建築に運用して、再版を重ねた。ただし後には、何度かの戦乱を経て、発達した中原文化は、奴隷主の貴族統治の掃討を受けて落伍していき、“材、分”モジュール制は小さな流れになって消失し、変わって清代の“斗口”モジュール制が起こって来る。

(3) “材、分”モジュール制と“斗口”モジュール制の比較
 “斗口”モジュール制は清朝の工部による《工程做法》に載るもので、この種のモジュール制の特徴は、斗栱の建築中、斗栱の斗口の寸法を以ってモジュールとし、建築の桁行や梁間、及び梁、柱、斗栱等の大きさを判断するものである。《工程做法》巻二十八の斗科工法中、斗口モジュールでの製作に以下のような記載がある;“凡そ斗栱上の升、斗、栱、翹等の部材の長短、高さ幅寸法は、全て平身科を以って迎面安翹とし、尾垂木斗口(昂斗口)の幅寸法を以って詳しく算定する。斗口には、頭等才、2等才から11等才、即ち頭等才は迎面安翹、昂斗口は幅6寸、2等才は斗口幅5寸5分、3等才から11等まで各所5分を減じ、斗口の寸法を得る。” 表面的に見れば、“斗口”モジュール制と“材、分”モジュール制とは、非常に似ていて、斗口は材幅に相当する。人によっては両者が名称が異なるだけで実際は同じと思えるかも知れず、且つ“斗口”モジュール制は“材、分”モジュール制に比べ等級が増えて、寸法の増減が画一的であり、栔の名称を取り消せば、これらは運用にもっと便利で、進歩と言うべきだと思える。けれども“斗口”モジュール制は、“材、分”モジュール制に比べて先進的なのだろうか?実際はそうではなく、斗口モジュールは“材、分”モジュール制が持っていた深い理念は継承していない。建築設計と施工の中で、“斗口”モジュール制の地位は“材、分”制モジュール制に遠く及ばないのである。
  (注)用語:清代の用語として、
   科=科は清代の斗栱の呼称。柱頭科は柱頭斗栱のこと。
   升=肘木の両端、上下2層の間で、上層の肘木を承ける小斗。
   翹=形象は栱(肘木)と同じ。宋代の華栱(出跳する肘木)のこと。
  平身科=所謂、中備えで中唐斗栱の間に増設した斗栱のこと。
  迎面安翹=
 清の《工程做法》中の斗栱の肘木と横木の断面比例は14:10と20:10の2種で、これは《営造法式》の単材と足材の比例に近いが、“斗口”モジュール制は運用時に、肘木と横木の断面の関係が探し出せず、例えば斗口を用いて梁のモジュール単位を作ると、《工程做法》にの規定に拠れば以下の寸法が得られる:(7架梁を例にする)
   梁の幅=金柱径 + 2寸=6斗口+2寸+2寸=6寸口+4寸
   梁の高さ(成)=( 6斗口+4寸) ✕120%
   梁の断面高さ:幅=12:10
 この様な大梁断面の高さ幅の比は、“材、分”モジュール制で量って得られる大梁断面のたk差幅の比と比較して、科学性が低落して、部材は太過ぎる様になる。これは“斗口”モジュール制が、“材、分”モジュール制が持っている特有の双方向の寸法モジュールの特徴を具備しておらず、このため、材分モジュール制の包含する強度概念を失ってしまって居るためである。
 清式の梁架構構造の節点の多くは、二度と斗口モジュールの発生が必要となるような連携はなくなってしまった;宋式建築の大梁でおよそ斗栱に架け渡すものは、1個の材或は幾つかの材と幾つかの栔の断面の大きさを以って、斗口に何個も進入することを要求するが、清式建築ではこの種の構造法式の運用は已に大々的に減少してしまっている。又宋式建築は梁架に縦向きに攀間(梁の蜀柱と蜀柱を繋ぐ横木)を使用し、小型の建屋は単材の攀間を用い、大型の建屋は双材の攀間で、攀間は梁柱と交叉する時も全て材を以って基礎とし、部材の組合せを進めた。清代は三位一体の檩、墊、枋工法を用いるが、その節点構造に“斗口”モジュール制との関係は存在しない。これにより、“と口”モジュール制は、只、斗栱の組合せの中に構造概念が含まれるだけで、梁架構のその他の部位の節点構造の処理には無関係である。
  (注)檩、墊、枋:いずれも梁と梁を横に繋ぐ桁で、檩は垂木を直接承ける桁、枋は一番下の桁、墊はその間の隙間を埋める桁
 《法式》は、材を8等に分け、どの等第も使用範囲を規定し、これによって建築群内の建築尺度を管理する手段の一つと成る。《工程做法》 巻二十八は“斗口”モジュール制を紹介する時に、各等第の斗口の使用範囲を未だ詳細に規定していないとしている。その前の二十七巻は、各種規模と類型の建物の大木作工法を分けて紹介しているが、言及する斗口の使用範囲は、4寸、3寸、2.5寸に限られている。現存の実例中、4寸以下の各種斗口の運用が見られるとは言うものの、終始6寸、5.5寸斗口の建物を見ることは出来ず、これにより今に至るも1等、2等斗口の実際の意義がどこにあるのか不明である。《工程做法》中には、《営造法式》の中にあるような一つの建築群中の建物の用材が整合する関係を作るような明確な規定も無い。凡そこの各種のことは、“斗口”モジュールが建築尺度方面の概念が弱体化している事を反映している。
 “斗口”モジュール制に出現するこのような情況は、主要な原因は清式建築斗栱の構成の功能が弱体化し、寸法も大幅に減少し、実例中最大の斗栱が城楼に使用する4寸斗口で、それは宋式建築の6等材に相当するに過ぎないのである。総じて“斗口”モジュール制は已に基本的に“材、分”モジュール制の特徴を失ってしまい、数字モジュール制に近づいているのである。



  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


  ⇒ 
総目次 
  ⇒ 
目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服
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# by songofta | 2017-05-21 16:31 | 古建築 | Trackback(25) | Comments(0)

225 用材の制度2 “材、分”

中国古代建築史 (抜粋) 巻三

第十章 建築著作と匠師


(前回の続き)
  “材、栔”制の中で8等の材の寸法規定は等差級数的な逓減では無く、明らかにそれ等を3組に分けていて、1,2,3等を1組とし、等毎の材の間の高さは0.75寸、幅は0.5寸である。4,5,6等を第2組とし、等毎の材の間の高さは0.6寸、幅は0.4寸である。7,8等の材は第3組で、両者の材の間の高さも0.75寸、幅は0.5寸である。これは明らかに3組に分け、その目的は異なる等級と規模の建築の需要に適応するためと理解出来、第1組は主要に殿閣類型の大型建物に活用し、第2組は主要に庁堂類型の中型建物に活用し、第3組は主要に小さい亭榭及び殿内の藻井に活用する。これは殿閣類型の建築群内の建築は、主要に第1組の材を使用し、それは図に示す所で、庁堂類型の建築群内の建築は基本的に第2組の中からその用いる材を選択する。この2類の建築群内の附属建築は、亭榭の類のようなもので、第3組の材を採用する。上述の3類の建築中、建築物の用材等第はこの様に手配し、再配分は補助的な条件を以って行い、例えば大木作制度で部材に対して,殿閣か庁堂に用いる別に規定された細部寸法の工法に従って、他でもない、建築群中で一体としての建築に適当な尺度を取ることが出来る。しかるに、第1組の3等材と第2組の4等材の間の寸法差は、その他の格等材の間の差よりもっと小さく、高さで0.3寸、幅で0.2寸に過ぎないのは、どうしてであろうか? この種の現象の出現が看ることが出来るのは、正に殿閣と庁堂の2類の建築中に一体とした建築用材等第が互いに行き渡っているからに他ならない。殿閣類型の建築群中、4等材の建物が出現出来るのは、この種の建物が、建築群中のその他の建物と尺度上差が附けられているからである。同様に、庁堂類型も建築群中に、3等材の建築の出現を許すと、それは明らかにかなり雄偉であるが、又一際抜きん出て鶏の中の鶴とまではならない。

  この種の“材、分”モジュール制の産物は、当時の生産力や生産関係と密接な相関があり、当時の官に属する建築は全て官の手工業を施工する隊列が施工し、施工過程で、工匠逹は専業化して分業し、梁架構の工匠は全体の建築群のこの類の部材の加工や実装を担い、斗栱を製作する工匠は建築群中の大きさの異なる建屋の斗栱加工と実装を担い、工匠逹は施工の任務を引き受ける時は、今日のような詳細な施工図のようなものを見るような条件は無く、担当する工程は全て職人の口頭で手の内を見せて進め、当然ながら十分に気配りが行き届くというわけには行かず、往々にして、建築の桁行と梁間の総体的な管理範囲や間数、斗栱の手先数、組物の数等を大雑把に交流出来るだけである。工匠逹は彼等が代々相伝し、長らく用いてきた1組の規矩を基に、建築の用材等第を確定し、部材加工を進め、最後に1棟の建物を組上げるのである。“材、分”モジュール制は既に彼等が加工する部材が標準化した節点を具備することを保証しており、性格で誤りの無い組立てから、又部材の充分過ぎる強度が保証される。同時に建築群中のどの1棟の建築も適切な尺度にされるのである。“材、分”モジュール制の生命力は施工中、複雑な寸法を簡素化し、同一類の部材は、それらの材、分寸法は同じになり、異なる等第の建築に使う時、只その材、分の寸法を覚えていれば良く、実際の寸法を覚えておく必要はない。今日のレンガ積みで使用する“皮数竿”(※注1)の情況は、古代の施工中で、工匠逹が只8等材で作った材、分の標杆尺を利用して、水縄を張り、加工し、施工の誤差を減少させて、進行していく様を推測させる。この様に看てくると、“材、分”モジュール制は、設計と施工の経験を異常なまでに豊富にして、その他のモジュール制は比肩することが出来なかったのである。
(※注1)皮数竿:レンガとセメントの厚みを目盛って、基準尺とするもの。
225 用材の制度2 “材、分”_e0309314_09563241.png
  
 但し、1棟の建築物の桁行と梁間の等第寸法は、“材、分”モジュール制を用いて量れないならば、棟梁が実際の情況に照らして設計し、学者が《法式》の巻十七の功限の中に見つけた1条“造作の功は6等材を標準とする”の文字から、これを根拠にして、巻四、五の大木作制度中の桁行と梁間に関係の有る方面で例に挙げて書き並べられた別の寸法は、6等材を用いて計算された建築の桁行或は梁間の用材の“分”数であり、またこの変成通則である。この種の工法は科学的厳密性に欠けるもので、例えば、建物の総梁間の垂木桁の距離は、《法式》が指し示す:“どの桁の水平距離は6尺を過ぎず、もし殿閣ならば或は5寸から1尺5寸を加える”は、これに対して殿閣の垂木桁の距離は一般に6尺で、極限の距離は7.5尺、庁堂は6尺以下である。もし一律に6等材で材分モジュールにすれば、垂木の出跳距離は150分から187.5分とする結論になり、通則になる。但し、それはこれを図に描くと、比例を失っている。且つ、作者が6等材を殿閣に用いると、用材制度が規定する所の範囲と相違してしまう。これとは別に、作者が証明に引く所の材料を看ると、一つは尾垂木(下昂)の寸法で、一つは小木作の裹栿板(※注2)の寸法である。
   (※注2) 裹栿板:両側に厢壁板を用い、桁の下に底板を置き強化した桁材
225 用材の制度2 “材、分”_e0309314_10040286.jpg
尾垂木自体は斜めにおく部材で、且つ傾斜度は不定で、尾垂木の真実の長さ寸法を移し変えた尾垂木尻の”分”数と圧槽方(注;斗栱の最上層の肘木)から下平槫(下の垂木桁)までの水平投影寸法の”分”数を較べると、両者は同じで、そして垂木桁の水平距離は6尺を過ぎずを説明する“足以確証・・・・は6等を以って標準とする”は毫も意義を持たず、両者は比べることが出来る性格の物ではない。裹栿板に至っては、寸法に仕上がっていない部分が含まれ、依拠して推算することが出来ない。
 多くの現存する遺構中、垂木桁の距離と材分は秩序立って居らず協調の無い関係で、且つ1棟の建築中に常に異なる垂木桁の距離を使用する情況が出現し、下表に列挙した23棟の建築中の意味のある42個の垂木桁間の距離寸法のデータを看ると、その内で、垂木桁の距離が6尺以下は29%を占め、6.5尺から7.5尺は36.8%で、両者の和は65.8%で、6等材を一つも使っていない例である。垂木桁の距離と用材等第はどんな直接の関係もなく、例えば2等材や3等材、5等材を使用する建築で、共同の垂木桁距離----7尺前後を選択し、もし材分制で計算すれば、それらはかなり大きな差とすべきである。此れにより、《法式》がタリク桁の距離に対しては所定の数値系経験値を以って、使用時は直接参考にし、材分を用いた推算は必要としない。6等材の基礎の上に建立する建築の桁行と梁間寸法のモジュール制通則も成立出来ない。
 《法式》編者の宗旨を看ると、「定法はあるが定式は無い」を原則とし、桁行や梁間に材分モジュールを加えるのは限定的なのである。
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  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服
# by songofta | 2017-05-16 10:09 | 古建築 | Trackback(4) | Comments(0)

224 用材の制度1 “材、分”

中国古代建築史 (抜粋) 巻三

第十章 建築著作と匠師

※営造法式について、様々な著作が発表されており、ほぼ南北朝頃には、ある程度形があり、唐代には成熟した技術斗成っていたようで、中国古代建築史(全五巻)を通した伏線に見える。当然、飛鳥、天平の頃には我が国でも伝来していたとかんがえられるが、わがくにではほとんど言及されていないのはどうしてなのであろうか?古代中国の技術を踏まえずに、高麗尺がどうの、唐尺がどうのと言った議論がどんな意味を持つのか全く理解ができない。ここに、傳熹年氏の論文以降を踏まえた中国古代建築史の営造法式について紹介する。拙訳ではあるが、無いよりもましと考え、提供する。飛鳥~平安初期の古建築を看る縁になれば幸いである。


第一節《営造法式》評価 (略)

第二節《営造法式》所載の各主要工種制度
一、大木作
1.用材の制度
 《法式》巻4大木作制度は、巻首にすぐ用材制度がくる。これは、この項目が極めて重要な制度で、正しく《法式》も序に言う所の;建築工程で“材を以って分を定めることを知らざるは”、必ず“弊害を重ねて因循となる”。こう言うことで、李誡は真先に大木作構成の用材制度を制定した;即ち、“凡そ建物の機構の制はみな材を以って祖とし(以材為祖)、材は8等あり、建物の大きさを計るにはこれを用い・・・・・・・・・凡そ屋宇の高さ奥行、物の長短、曲直や反りの勢、規矩墨縄の宜しきは、皆用材の分によって制度となる。” この用材制度と現代建築工程中で使用するモジュール制度はある種似ており、“材、分”モジュール制と呼んでいる。

(1)“材、分”モジュール制の意義
  “材、分”モジュール制の内容は、3つの部分からなる;
第1部分は、“材、分”モジュール制が木構造建築に対する重要性を明らかにする。即ち“凡そ建物の構造の制は、みな材を以って祖とする”、意味は建物を建てる制度はどのような情況下においても全て“材”を以って最も基本的に依拠するからである。
第2部分は、材の形制と等級は及び等材の使用範囲を明らかにする。“材”は“足材”と“単材”の区別が有り、単材は斗栱中の肘木或いは桁材の断面が、高さ15份幅10份で、その中の1份が《営造法式》中で言う1分になる。足材の高21分幅10分。単材と足材の差は栔にあり、栔高さ6分、幅4分。”材”は総じて8等級あり、最大で9寸X6寸、最小で4.5寸X3寸(表10-2を見よ)。
224 用材の制度1 “材、分”_e0309314_20561439.png
第3部分は“材、分”モジュール制は大木作中でどのように運用するかを明らかにする。即ち“凡そ屋宇の高さ奥行、物の長短、曲直や反りの勢、規矩墨縄の宜しきは、皆用材の分によって制度となる。” 大木作中に、木構建築の梁、柱、桁材、垂木、貫及び斗栱上の各種部材の長短や曲直に対して、及び加工過程の工程順序の規矩方円は如何に墨を打つのか、どの材やどの栔、どの分を見積もるべきかを見出だせる。こうして所謂”屋宇の高さ奥行”、即ち建物の桁間、梁行及び柱高は、法式制度の中に在り作る前に明確に規定している。これに対して、編者の間違いと看做されるだけではなく、反って編者が工匠の留意するその他の工法に意味が在ると看做すべきならば、工匠は客観的条件に従って”材、分”モジュール制度を運用して設計施工することが出来、この様な”材、分”モジュール制度はこれでやっと生硬で硬直した条文でないことができ、恐らく《法式》序の所謂”用材制度を変造”の”変造”の意味することになる。
 ”材、分”モジュール制度は、なぜ肘木や桁材の断面を以って基本モジュールとする必要があるのか?これは主要に肘木や桁材は大木架構の中の断面最小の部材で、同時に何度も重ねられ規則的に使用される部材で、それと大木架構は不可分の密接な関係が有るからである。それでは、この種の一部材の断面――“材”が作るモジュールは、単純な数字モジュールに比べてどのような深刻な概念なのであろうか?”材、分”モジュール制度の大木作中の運用は、気付くことが出来るように、それは強度、尺度、構造の3方面の概念を含んでおり、その他のモジュール制には具備していない特徴である。

1)強度の概念に関して
 大木作制度のなかで、”材、分”モジュール制度を用いて来たのは、主要な構成部材、例えば大梁、頭貫等で、均しく科学的断面形式を持ち、建築史学者が公認するものである。梁の断面形式の問題に関しては、あとの節で詳細に議論する。同時に、まだ見出だせるのは《法式》が推奨する所の木構成体系の中で、“足材”が出現し、大木作制度中足材を使用してモジュール単位とする主要部材は、出跳する肘木(華栱)と枘挿しの肘木(丁頭栱)である(図10-27)。当時は建築中、組物(即ち1組の斗栱)が出跳する垂木の重量を承けるのは、架構の受力部材の重要な部分で、出跳する肘木は組物の中の主要な支え上げる部材であり、1本の出跳する肘木は1本のごく短い臂梁と看做され、組物の中でその他の横向きの肘木に比べ役割が大きく、其のため断面は大きくする必要があるが、工匠逹がその断面の高さと幅を大雑把に大きくしないため、断面高さだけを増やし、その高さの比を21:10にして、臂梁の抗折力を高めた。この様な処理は多くのはっきりした体験による構造力学の基本原理ではないか!足材の使用は工匠達に”材、分”モジュール制体系中の意図に強度の概念を託す更に明確な証明となった。
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2)構造の概念に関して
  斗栱体系を使用する中国の木構造建築は、どの建屋も正しく整然と画一的に“材”を使用して肘木や桁の断面を作るので、それで始めて肘木や桁の殺ぎ接ぎ時に標準化した構造節点を保証でき、数十の其々の異なる形状を持つ斗や肘木、尾垂木、耍頭を1組1組の組物に組み上げることが出来る。だから”材、分”モジュール制が含まれる構造概念は推して知るべしである。それが表現する構造規律は材と栔の間の組合せで、高さ6分の栔は、只足材と単材の差と言うだけではなく、大斗以外の数種の小斗の水平と傾斜のある高さに相当する。例えば;1組の五鋪作(注、2手先)斗栱中、正心位置には泥道栱、慢栱、柱頭桁等の部材があるが、同時に2層の小斗を挟んでいて、合計の高さは3材2栔である(図10-28)。
 この種の材、栔間の組合せの構造方式は、組物各所の節点構造の基本の造りを成している。法式制度中、幾つの材幾つの栔にするかに当って、もし特に梁の高さと柱径を指定されて無ければ、部材の具体的寸法を表示して、大雑把に幾つの材幾つの栔と言うのは、幾つの層の肘木或いは桁と斗が互い違いに重なり一緒の構造にする工法なのかを意味する。大木作制度の中で、木構成の或る構造の節点を明らかにすることは、往々にして直接幾つの材幾つの栔を使用するという文字で表明し、例えば単栱計心造の構造節点の時は、“凡そ組物は順に計心で・・・・・一つ出跳する毎に2材1栔を置く”と書く。同時に小字で注釈し“令栱素方が2材、令栱の上は1栔とする”。此処にあるのは、制度の正文中に書く事に対して“一つ出跳する毎に2材1栔を置く”は、当時の工匠逹が広く流伝してきた口ずさみや専門用語の類と理解出来、いまの瓦工が施工中にレンガを積む構造を簡単に“一順一丁”、“五順一丁”と言って具体的な積み方を説明するようなものである(注、レンガを横向きに何個並べたら縦向きを挟むと言う簡称のこと)。そして小字は即ち法式制度の編者李誡が、“束縛している工匠が逐一話した”中で、工匠逹が話終わった所で加えた注釈だと了解出来る(図10-29①)。
 又重栱計心造を説明する時は、法式制度正文は大字で“出跳する毎に3材2栔を置く”と明示し、同時に小字で注釈して“瓜子栱、慢栱(注、二重秤肘木の上河の長い肘木)、素方は3材、瓜子栱の上の斗と慢栱の上の斗は2栔”とする(図10-29②)。
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 類似の情況はまだ、尾垂木或いは挑幹(注、梃子作用をさせる部材)の尻と下の垂木桁の間の節点構造にもあり(図10-29③)、法式制度正文に大字で言うのは“もし屋内が明造(注、天井が無い所謂化粧屋根裏)で、即ち挑幹を用いるのは、1斗であったり1材2栔であったり”。その後で小字で注釈して“所謂1栱の上下は皆斗があるものである”。上述の種々の証拠から、所謂幾つの材幾つの栔とは、ある構造法式の代名詞である。この推測により、施工の手の内を見せる時、工匠逹は只或る一節点に幾つの材幾つの栔と言えば、それは今日具体的節点構造の概要を出したのに等しく、工匠に言わせれば、構成のある位置の幾つの材幾つの栔は、その種の構造法式になるのは必定で、この種の構造方式は已に同業の衆が周知の節点構造工法なのである。

3)尺度の概念に関して
 建屋構成の強度の大きさと構造節点の標準化は、“材、栔”制と密接に関係し、法式制度の字間行間の中に、比較的はっきりと反映されている。では、“材、栔”制と建築芸術の関係はどうであろうか?詳細な研究を経て発見されたことは、“材、栔”制を制定した人は、材は8等に分け、異なる等第の建築に用いるように分け、且つ用材制度中に同一の建物でもある場合には、異なる等第の材を使用する必要があると規定する。例えば、庇(副階)を持つ大殿はその庇の用材は、《法式》規定の“庇は材分を殿身から1等減ずる”で、もし殿身が2等材なら、庇は3等材である。庇の用材等第を1級降ろすのは、採用する部材を全て殿身に採用する部材より、減少させることを意味する。当時の官式建築には普遍的に斗栱を使用する情況の下で、斗栱の大きさは敏感に建築の尺度を反映しているので、もし殿身と庇の斗栱が同じ等第であれば、庇は殿身より低いので、人に近い場所になり、庇の斗栱の勢いは必然的に太く嵩張って見える。この様な処理は建築尺度を考慮したことかた来ている。当時の工匠逹は已に人が建築物の大きさから受ける内容を認識しており、絶対寸法を用いて重量の標準としただけではなく、そうごの対比と忖度を利用して、一種の相対的な印象に到達したのである(図10-30)。
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  8等材の中の、”材、栔”制度の明文規定の7,8等材は殿内の藻井に用いるとあり、これは材、分の大きさの調整を通じて建築尺度を体現するもう一つの例証である。8等材は1等材断面のたった1/4で、8等材を使用する藻井は大殿室内装飾構図の中心であり、明らかに規格外の精細な細工であり、大殿殿身の持つ太く重量感のある部材形成と強烈な対比をなすもので、この様に藻井を利用して殿身に更に雄大さを加える事を狙ったもので、大殿本体の太く重々しい梁や柱、斗栱を通して、反って藻井の精美さを引き立てている。
 用材制度の中にはまだ、“殿の挟屋は殿身より1等減じ、廊屋は挟屋より1等減じ、その他はこれに準ずる”の規定がある。これに対して建築群を管理する為、主要建築と附属建築の間の尺度関係の規定であると理解すべきである。挟屋は即ち大殿両脇と殿身が繋がる建物で、廊屋は建築群の回廊である。中国古代建築は材料の制限により、全体の建築建造の規模を大きくすることは不可能で、一定の功能を満足するために、群全体の組合せを使用して完成させる事が必要である。建築芸術の処理としては建築建造群の中の主建築とそれに次ぐ建築をはっきり分ける事が要求され、主要建築の体量は材料の制限により余り大きくすることは不可能で、主要建築と附属建築の関係を正確に処理する必要があり、それで主と次を明確に分けた芸術効果を獲得出来る。“材、栔”制度規定が、回廊と挟屋の用材等第を下げるのは、正しくこの様な目的の為である。用材制度が提供する原則に則った、若干の建築群の実例を参考に、建築群の用材等第に対してどのように設計出来たかを見てみよう(図10-31)。
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 図中描くのは、3進の院落建築群で、主要建築は第2進の院落に配置され、第1等材を使用し、その余の建築用材は等第を1級か2級下げる。同時に、附属建築の桁行と梁間も主要建築より小さく、次に重要な建築と主要とに、建築総体量と細部部材の大きさに差を附けることを通して、主要建築を際立たせている。この種の建築芸術の処理方式を採用した建築群の実例が、山西省大同の善化寺で、その中の大殿と三聖殿の用材等第は、2、3等材の関係で、山門は4等材、普賢閣は5等材である。
  “材、栔”制は、建築尺度の問題を考慮し、更に一定範囲の中で、それは主要に大木架構の尺度を管理するが、ある種の部材、例えば建築の窓枠の台や欄干の高さ、戸の框の細部寸法など、建築尺度の影響も大分大きい。そしてこれ等の部材は大木作に属さないので、材を用いないで、分で管理する。《法式》にはその他の章にそれらに反映する尺度問題も非常に重視されている。(続く)



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# by songofta | 2017-05-12 21:02 | 古建築 | Trackback(3) | Comments(0)

223 飛鳥建築と”以材為祖” 4

日本飛鳥奈良時期建築中反映出的中国南北朝隋唐建築特点

               傳熹年 著(文物1992年10月所載)


奈良後期(約751~794年)
 8世紀中葉以降、日本は奈良後期に入り、絶え間なく盛唐と中唐文化を大量に受け容れると同時に、段々と日本独自の特色を醸し出して発展する。この時期に建てられたのは、奈良東大寺、西大寺等の巨大寺院で、伝世する遺構は唐招提寺金堂、新薬師寺本堂、元興寺極楽坊五重小塔、室生寺五重塔等である。その内、唐招提寺金堂は草架(注、天井を張って上部が見えない架構)を架構し、その比例とモジュールの関係を研究する方法が無く、只元興寺小塔と室生寺塔は基本的に原状を保持しており、詳細資料があるので、探索が出来る。

一、元興寺極楽坊五重小塔
奈良元興寺極楽坊内に陳列され、方形の五重小塔で、高さ5.5m、約18.58尺(1天平尺=29.6cm)、毎層面幅3間。浅野清《奈良時代建築の研究》所載に拠れば、第1層3間の面幅は1.1天平尺、2層は1.0天平尺、3層は0.9天平尺、4層は0.8天平尺、5層は0.7天平尺。毎層間の面幅は下1層の面幅より1寸減少し、通面幅で3寸減少する。毎層の柱頭斗栱は皆六鋪作双抄単下昂、単栱偸心造(⇒三手先、肘木を二手持ち出し、尾垂木1本、秤肘木偸心造)である。
 1層から3層は中備えに斗付き蜀柱があり、4,5層は中備えが無い。海龍王寺小塔と外観が異なるだけではなく、この塔は内部架構も造り出しており、日本の学者はこれは本物の黙祷の10分の1模型と考えている。
 この塔の詳細測量データは得る事が出来ず、暫時依然として、唐代材分制の特徴を保持しているかどうかを推求出来ない。但、講談社新版《日本美術全集・Ⅳ》の図版152,153の解説中に発表された、立面及び断面図実測図が在り、塔身高さと塔総高さの寸法の注が有る(図十四)。
223 飛鳥建築と”以材為祖” 4_e0309314_18342437.jpg
 前述の飛鳥及び奈良前期の塔の規律に基づくと、この五重塔の塔身の高さはⅠ層柱高の7倍だが、実測図上の作図では、塔身高さは柱高の8.5倍強で、明らかにそれは上述の設計規律に基づいていない。 図の上で各種探索すると、塔身の高さは、第3層面幅の4倍で、亦即値第3層塔身の周長でもある。図を用いて数字を検算すると、塔身の高さは328.1cm。1天平尺=29.6cmで換算すると、328.1cm=11.08尺。その4分の1は2.77尺。3層の総面幅2.7尺と差がわずか0.07尺は、基本的に同じと見れる。 これによって、この塔の高さは第3層の面幅を拡大モジュールにしている事が知られる。但しこれはこの塔の特殊な情況か確かに一定の規律性によりものかは、もっと多くの例証が必要である。

二、室生寺塔
 奈良室生寺川畔に在り、奈良時代末期に建てられ、平面方形、五重、全部木構造、木製の中心塔柱が上下を貫通する(図十五、十六)。
223 飛鳥建築と”以材為祖” 4_e0309314_18344122.jpg
 この塔は明治三十四年(1901年)解体修理され、1978年又大修理を経て、実測図の《国宝室生寺五重塔修理工事報告書》が発表された。《報告書》中の記載に拠れば、塔の総高さ(1層地面から刹尖まで)は17.1m、およそ一般の五重塔の3分の1である。塔身は、毎層の面幅が皆3間で、各層の肘木と桁の高さは等しく、皆高さは0.34尺(幅は図に標示が無い)。図上に標示された2材2栔の高さは1.12尺で、ここから1材1栔は0.56尺と判り、栔高さは0.22尺である。もし、0.56尺が足材ならば21“分”相当で、この塔は毎“分”が0.02666尺となる。この“分”値で実測図に標出された各層の面幅を換算すると、即ち;
   1層は 2.565+2.95+2.565=8.08尺
      即 96+110+96=302“分” ⇒300“分”
   2層は 2.335+2.54+2.335=7.21尺
       即 87.5+95+87.5=270“分”
   3層は 2.005+2.23+2.005=6.24尺
       即 75+84+75=234“分” ⇒235“分”
   4層は 1.76+1.91+1.76=5.43尺
      即 66+72+66=204“分” ⇒200“分”
   5層は 1.565+1.67+1.565=4.8尺
      即 59+62+59=180“分”
 上述から見られるのは、各層の通面幅は皆端数とはいえ、“分”値に換算すると、300,270,235,200,180と基本的に整数となり、その各層の縮小する数の30,35,35,20“分”も規律的となる。これはこの塔が“分”をモジュールとすることの証明するものである。《修理工事報告書》の図上に立面の各寸法が標示出されていないので、我々はまだその立面の“分”数は推算する術が無い。
 これまでの各塔の情況からみて、塔は全て塔高を管理する各ダウモジュールを持っていることが判る。《修理工事報告書》の附図の標示により、塔の総高さは56.54尺。その内台基高さは3.2尺、刹高さは15.08尺で、
これにより塔身の高さ(1層地面より5層博脊まで)は、56.54-3.2-15.08=38.26尺。材高0.34尺を以って塔の総高さ56.54尺と塔身高さ38.26尺を割ると、166.3と112.5となり、整数にはならず、それは在鷹がモジュールに成っていないと判る。塔の1層柱高は《修理工事報告書》に載っておらず、実測図上で作図によって検証すると、塔身高さは1層柱高の8.3倍で整数ではなく、1層柱高が拡大モジュールではないと判る。
 最後に、元興寺極楽坊五重小塔の例により、その3層の面幅で塔身の高さを換算すると、3層塔身は幅6.24尺で、その6倍が37.44尺、この塔身高さ38.26尺と差が0.82尺、工程の誤差と多くの修理等の要素を考慮して、それは確かに3層の塔身通面幅をモジュールとしていて、手法は元興寺極楽坊小塔とおなじである。全く同じで無い所は、元興寺小塔の下3層は中備えを用い、面幅を大きくしているので塔身は相対的に寛く、塔身の高さは3層塔身面幅の4倍で、室生寺塔は各層に中備えを用いず、面幅が小さく塔身がかなり細いので、塔高さは3層面幅の5倍となり、両塔の高さと寛さの比は異なる。
 上に挙げた2例で知れるのは、奈良後期は、建築は依然“分”を以ってモジュール設計方法を取るが、その管理する高さの面では拡大モジュールで、飛鳥と奈良前期は1層柱高を拡大モジュールとするのを3層(中央の1層)の面幅を拡大モジュールとするよう改作している。

 以上の文を総括すると、我々は日本が初めて中国古代建築の影響を受けた一連の遺構を研究することを通して、翻ってその頃の中国建築の発展レベルが推測でき、以って中国建築資料の不足を補うことが出来るということである。

一、
日本の飛鳥時代、建築は材を用いるのが已に標準化されて、肘木と柱頭桁の寸法が即ち建築の標準の材で、断面が5:4であった。但し、この肘木と桁の間の隙間の寸法はまだ固定されておらず、まだ後の“栔”と“足材”の概念は無かった。建築の平面や断面、立面の寸法設計中、已に肘木と桁の標準高さ(即ち、材高、法隆寺金堂、五重塔中では、0.75高麗尺)をモジュールとし、断面と高さ設計上は、又1層の柱高さを拡大モジュールとし、1層柱高さそのものも材高をモジュールとした(法隆寺金堂と五重塔は14及び12材高に分けた)。この時、3層塔の塔身の高さは1層柱高の5倍で、五重塔の塔身の高さは1層柱高の7倍である。殿宇は法隆寺金堂1例しか無いが、それは依然として1層柱高をモジュールとしており、堂高は1層柱高の4倍である。この種の材高や柱高を以ってモジュールと拡大モジュールとする工法は中国の唐と遼の木構造建築の情況と基本的に同じで、明らかに同一の源から出ている。日本の飛鳥時代建築の源は中国南北朝末期の建築である。この様なことが、飛鳥時代建築を傍証として、中国唐、遼、宋建築の特徴を結合し、”以材為祖“のモジュール制設計方法の成熟期を唐代から早ければ南北朝後期であろうと、我々が推断した理由である。

二、
 奈良時代前期の遺構中に、我々は“以材為祖”のモジュール制設計方法とその発展を看ることが出来る。我々が中国の中唐、晩唐建築中に反映した“分”を以ってモジュールとした設計方法で検証した薬師寺東塔の時、東塔は已に“分”をモジュールとしているのを発見し、その“分”は材幅の1/10で、その平面や立面、断面を“分”で換算した時、中国の唐宋建築で常用する“分”と合致した。薬師寺東塔は代表的白鳳時期の建築として、日本の学術界は中国初唐建築の影響を反映している事を公認している。この様にして、我々は薬師寺東塔を傍証にして、中国初唐時已に材高をモジュールに用いることから、 “分”をモジュールとして用いるまでに発展し、モジュール制設計方法は更に精密になり、以前は中唐や晩唐時(ここに南禅寺と仏光寺がある)にやっと在るとされた設計方法が100余年早められた。この他、薬師寺東塔と海龍王寺五重小塔も1層の柱高が多層建築の高さの拡大モジュール設計方法であり、初唐でも依然使用されていたことが表された。

三、
 奈良時代後期遺構中、室生寺塔が依然として“分”をモジュールとする設計方法を使用していることが表された。但し、室生寺五重塔と元興寺極楽坊五重小塔は又高さを管理する拡大モジュールは、已に1層柱高から塔の中間層の面幅に改定されていることも表わしていていた。面幅を高さ管理の拡大モジュールとして、塔高さと塔幅を関係付けると、塔の細長比を管理でき、明らかに1層の柱高に比べて合理的で、この当時モジュール制設計方法上の進歩である。この状況は、ちゅうごくで1056年の遼代応県仏宮寺釈迦塔でも存在し、この塔の下4層は厳密に第3層塔身の面幅をモジュールとしている。清末民国初の人、姚承祖選の《営造法源》の中に、塔周辺の長さ(面幅の若干倍)が即ち塔高さの記述があり、工匠に口伝されてきた古法に当る。奈良後期に陸続として伝入した盛唐、中唐の影響を受けたため、我々は上に述べた2塔の傍証により、中国応県釈迦塔が表現する面幅と高さ関係の拡大モジュール制設計方法の出現時期は中唐乃至盛唐の末で、200年以上早いことが判る。中唐に“安史の乱”が在り、大規模な回復の建設が進んで、この時モジュール制設計方法に新しい発展が出現したということが頗る可能なことである。奈良後期遺構はこの方面でも我々に重要な手懸りを提供している。
 但し、この種の新しい拡大モジュールの出現後、完全に旧法に取って変わったわけでは無く、異なる建築流派が造るものが併存していた。中国の応県仏宮寺釈迦塔でも同時に1層の柱高と3層の面幅を拡大モジュールとする兆候が見える。同様になら後期から数百年後の鎌倉時代に建った奈良興福寺三重塔は、その塔身の高さは依然1層柱高の5倍で、厳格に飛鳥奈良前期の古法に沿っている(図十七)。
223 飛鳥建築と”以材為祖” 4_e0309314_18344782.jpg
 以上が、日本古建築中に含まれる、中国南北朝から唐代建築の特徴の探索である。できるだけ誤差を減らすため、文中に附けた日本と中国の建築図は全て書き直さず、直接已に発表された図に比例関係の分析線を書き加えて、原図紙上にある物を明示するだけにしている。筆者の日本古代建築に対する理解は少なく、掌握した材料も少ないので、一面的だったり正確でない事を恐れる。以後、もっと多くの材料が入手でき完全で正確にできることを希望している。但、この初歩的な探索から、我々は依然、日本古建築は確実に我々のある種の中国に無い実物、或いは実物が稀少な時代の建築を理解する鏡のようなものを見出す事が出来る。中国中唐以前の古建築は、解放後40余年文物従事者が何度も調査を行ったと言っても、未だ茫漠として得る所が無く、已に遺物が残っていないで現在に至っている。日本には現在26座の飛鳥、奈良時代の遺構を、我々はこの時期の建築の重要な傍証とすべきで、我々が深く研究する極めて高い価値がある。この他に、中国古代建築史研究に対して出来る、まだ重要な補充作用があるのは、鎌倉時代の遺構である。日本の鎌倉時代の2種の主要な建築風格、“大佛様”と“禅宗様”が、南宋と元代の福建と江蘇浙江地区というべつの源から入っている。南宋と元時期、中国南方の経済と文化は北方を遥かに超えており、建築も巨大な変化をし、段々と地方の風格を形成し、中国建築の重要な発展時期であった。その内、江蘇浙江地区建築は、明朝成立後、明の官式建築の主要な源流となり、一代の新風の先駆けで特別重要なものである。だが、現在の長江以南に在る宋元の木構造建築は10座前後で、且つ時代が離れ、地域が分散し、その系統と完全な整理探索は困難である。それに比べて日本にある鎌倉時代の建築は頗る多く、国宝の寺院建築だけでも53ヶ所の多数の建築が列なって、有力な傍証となり、我々が江南の宋元時代の建築の発展と地方風格の形成及び変遷を研究するに当たって重要な手懸りを提供できるので、極めて価値が在ると重視するのである。
 我が国の現存する元代以前の古建築はまだ多いが、時代は最早でも中唐までであり、地区からみると北方が多くて南方が少なく、この種の時代や地域分布の上で不均衡となっており、”先天缺陥”(先天性欠陥)に近く、我々が我が国古代建築発展史を全面的に系統立てて研究するのにかなりの困難を造り出している。中日両国の有給の文化関係により、日本の現存する大量の古代建築は、ある種のレベルで我々に傍証を提供し欠けた所を補い、他山の助けとして加え、我々は積極的に研究に加え利用すべきである。

引用文献;(概略)
①《国宝大事典五・建造物》、講談社、9頁、鈴木嘉吉《日本建築の発展と特質》中の統計表。
  33頁、岡田英男《法隆寺五重塔》解説
  76頁、細見啓三選《海龍王寺五重小塔》解説
  77頁、宮本長二郎選《元興寺極楽坊五重小塔》解説
  84頁、上野邦一選《室生寺五重塔》解説
  475頁、巻後年表。
②《国宝法隆寺金堂修理工事報告書》
③《国宝法隆寺五重塔修理工事報告書》
④浅野清《奈良時代建築の研究》、1969年、中央公論美術版
⑤《日本美術全集4、東大寺と平城京》、講談社、岡田英男選《奈良時代の建築とその構造技法》
⑥陳明達《応県木塔》三、《立面構図》、文物出版社、1980年、37頁
⑦姚承祖《営造法源》16頁、《枠組》一、塔の制度、建築工芸出版社、1986年、85頁


※高麗尺については、日本側の説明をそのまま用いているが、尺については、別個の議論が必要であろう。私は、無かった方に賛成の立場である。



  ⇒ 目次7 中国の古建築技法”以材為祖”


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総目次 
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目次1 日本じゃ無名? の巻
  ⇒ 目次2 中国に有って、... & 日本に有って、... の巻
  ⇒ 目次3 番外編 その他、言ってみれば      の巻
  ⇒ 目次4 義縣奉国寺(抜粋)中国の修理工事報告書 の巻
  ⇒ 目次5 日本と中国 あれこれ、思うこと     の巻
  ⇒ 目次6 5-8世紀佛像の衣服
# by songofta | 2017-05-04 22:01 | 古建築 | Trackback(19) | Comments(0)

222 飛鳥建築と”以材為祖” 3

日本飛鳥奈良時期建築中反映出的中国南北朝隋唐建築特点

               傳熹年 著(文物1992年10月所載)


奈良時代前期(約710~750年)
 この時期は、日本と唐の文化交流は更に密接で、その宮室や寺院等の建築は、唐の影響を大きく受け、飛鳥時代とは異なる新風が出現する。この期の日本は奈良に都を建て、日本史では奈良時代と呼ぶ。奈良時代は前後二期に分けられる。前期は又白鳳文化と呼び、日本の学者は主要に初唐文化の影響を受けたと考えている。後期は又天平文化と呼び、盛唐以後の影響を反映している。
 現存する奈良前期の最重要な建築遺物は、奈良薬師寺東塔となら海龍王寺西金堂内に陳列する五重小塔である。

一、薬師寺東塔
 薬師寺は元藤原京に在り、天武十一年(682年)に創建され、文武元年(697年)完成し、和銅三年(710年)平城京に遷った。現在の日本の学界は東塔を天平二年(730年、我が国の唐玄宗開元十八年)に新しく建てられたと見做している。平城京の薬師寺は、その主体は回廊に囲まれた方形の庭院で、中軸線上の前に中門、後を講堂として、庭院の中心を金堂とする。金堂の前方に左右対称に東塔と西塔を建てる。現在の寺中は、東塔が奈良前期の実物で、金堂と西塔は今世紀70年代の新建築で、目下回廊を再建している所で、以って天平二年の旧観を回復しようとしている。
 東塔の平面は方形、高さ3層で、槽毎に裳階が在り、重層を形成し、上下合わせて6層の屋根を持つ。1,2層の塔身は各3間、3層は面幅2間;1層の裳階は毎面5間、2,3層の裳階は毎面各3間。塔身は全て木構造で、内部は上下を貫通する木刹柱がある。唐の架構の特徴は飛鳥時代と異なり、梭柱(⇒胴張り)や雲形肘木、雲斗、皿板等を用いず、斗栱は六鋪作二抄一昂単栱偸心造(⇒三手先、肘木を二手持ち出し、尾垂木1本、秤肘木偸心造)で、中備えは斗付き蜀柱を用い、通肘木(扶壁栱)に変えて秤肘木を重ね、敦煌壁画中に描かれた初唐建築に頗る似ている。それは日本と唐が直接往来後、最初に伝入した建築様式で、日本の学者は、それは中国初唐の風格を反映した、白鳳時期の最も典型的な遺構であると考えている(図十二)。
222 飛鳥建築と”以材為祖” 3_e0309314_22004876.jpg
 1981年に日本で出版された《薬師寺東塔調査報告書》に、詳細な測量データと実測図が発表され、日本の曲尺を単位としている。《報告書》で判るのは、塔身1層万幅は23.20曲尺、1層柱高は15.86曲尺、塔身の高さは78.52曲尺、塔の総高さ(1層地面から刹頂まで)は、112.65曲尺。第1層塔身の1手目の肘木と通肘木(泥道栱)の高さは0.85曲尺、柱頭の桁の高さは0.8曲尺、幅は全て0.62曲尺、二者の内一つはこの塔の材の寸法に違い無い。
 前節で検討した飛鳥時代建築の時は、已にそれらは材高をもってモジュールとして設計を勧めたことが判っている。但、ここで試しに肘木高0.85曲尺と桁高0.8曲尺を材高として、塔身の高さ78.52曲尺や1層柱高15.66曲尺、1層面幅23.40曲尺を割った時、皆端数となり、薬師寺東塔は材高をもジュースとして設計したものでは無いと言える。

 中国の現存の唐代建築、五台山南禅寺大殿(唐徳宗の建中三年、782年)と仏光寺大殿(唐宣宗の大中十一年、857年)に就いては、我々は唐代建築上、モジュールとしての材で作り、その断面の高さと幅の比は3:2である(南禅寺大殿の材は25cmX16.6cm、仏光寺大殿の材は30cmX20.5cm)。宋代の《営造法式》は又我々に告げて、宋式建築の材の断面も高さ3幅2で、且つ材高を15分割し、材幅は10分割し、毎分割を“分”と称して、建物の設計にあたって、面幅や奥行、高さ及び大小の部材を包括して設計のモジュールとした。例えば、殿閣型の架構であれば、斗栱の間の距離は一般に125“分”で、詰組の斗栱が1組あれば、毎面幅は250“分”で、且つ一定の増減幅を認めた。柱高は一般に面幅を超えず、最高で250“分”とする。この“分”を以ってモジュールとし、南禅寺と仏光寺を分析すると、得られたのは以下の結果である;
 仏光寺大殿は、毎“分”長が2cm、その中央の5間は各1組の詰組を用いており、面幅は504cm、252“分”相当で、毎斗栱平均が占めるのは126“分”。その柱高は499cm、250“分”相当で、面幅と同じである。
 南禅寺大殿は、毎“分”長が16.6cm、その面幅寸法は柱頭で計り(柱脚は側脚がある)、3間に分け331+499+331cm、総面幅1161cm。“分”に換算した時、199“分”+300“分”+199“分”、総面幅699“分”。調整して200“分”+300“分”+200“分”=700“分”。その奥行は柱頭を以って計り、3間は全て199“分”、総面幅597“分”。調整して、200“分”+200“分”+200“分”=600“分”となる筈である。
 上述の数字中、仏光寺大殿の面幅や柱高と《営造法式》所載の殿閣型架構の“分”数は同じである。南禅寺大殿は庁堂型架構で、その面幅奥行は極めて整った“分”数となる。《営造法式》中に所載の“分”を以ってもモジュールとする設計方法は遅くとも中唐には成熟していた。
 以下に我々が再度今一歩踏み込んで、薬師寺東塔中に、“分”をモジュールとした情況が出現したかどうかを看てみよう。

1.材を用いる:
 実測図上に書かれた寸法は、東塔塔身の肘木と桁の高さが頗る一律ではなく、2,3層は1層に比べ稍々小さく、柱頭桁の高さも又肘木高さより小さい。1層塔身の出跳した肘木と通肘木の高さはみな0.85曲尺で、柱頭桁の高さは0.80曲尺である。但し、その幅は同じで、皆0.62曲尺である。肘木と桁の間は斗の間に埋め込んで隙間距離を支える――宋式で言う“栔”で全て0.5曲尺である。
 肘木と桁の高さが異なるので、我々はどれが材なのか一時判断に困った。しかし、中国唐宋建築の材”分”の規則を知れば、材高と栔高は早期には固定されず、但、材幅は一般に10”分”である。東塔の肘木と桁は全て幅0.62曲尺であり、即ち肘木と桁を論ずべきではなく、もしそれを10”分”を以ってすれば、即ち毎”分”長は0.062曲尺となる。我々はこの”分”値を用いて試しに計算してみよう。
  1層の面幅は、柱頭以上の肘木と桁が形成する槽の寸法を計ると(理由は2段に平面部分が見えるため)、3間は
    7.73+7.74+7.73曲尺、   ”分”に換算して:
    124.7+124.8+124.7”分”=374.2”分”  誤差を調整して
    125+125+125=375”分”
 東塔各間は、只柱頭斗栱のみを用いて、詰組斗栱が無いので、その面幅は只1組の斗栱の寛さに相当する。従って、その面幅125”分”は、丁度仏光寺大殿及び《営造法式》中の殿閣の架構斗栱の寛さ125”分”と同じになる。
 東塔1層の柱高は15.66曲尺で、”分”に換算すると253”分”で、復興時大殿及び《営造法式》既定の250”分”と同じである。
これにより、我々は、薬師寺東塔が確実に”分”を以ってモジュール設計を進め、そのモジュールは飛鳥時代に材高をモジュールとしたのに比べ、もう一歩精密になった事を確認できるのである。
 東塔の”分”値は0.062曲尺である。もし肘木を材とすれば、肘木の高さ0.85曲尺は13.7”分”相当で、契高0.5曲尺は8.1”分”、肘木高さに栔高を加え――宋式で言う”足材”は21.8”分”となる。但し、もし桁が材であれば、即ち桁高さ0.8曲尺は12.9”分”、栔高8.1”分”を加え、その”足材”は21”分”となる。この”足材”高さ21”分”は整数であり、又《営造法式》中所載の足材の高さ21”分”と全く同じなので、薬師寺東塔の1層塔身の柱頭桁は材の可能性が最も大きい。これは、その材高0.8曲尺、幅0.62曲尺、栔高0.5曲尺、足材高13曲尺であるということを言っている。”分”に換算して、材高13”分”、幅10”分”、栔高8”分”、足材高21”分”である。

2.各層平面:
 東塔断面図上に、一つの現象を看る事が出来る。即ち1,2層は柱頭桁が形成する槽の中心線がその下の檐柱の中心線より内側に少し偏移していて、1層の内偏移は0.09曲尺、2層の内偏移は0.08曲尺。この種の内偏移は恐らく建築の側脚に源があるのだろう。或いは設計時に、檐柱に側脚があったが施工時造り忘れたか、或いは元々側脚が有ったが修理工事で直立に改造したか、このため槽と偏移が発生した。これにより、各層の原設計の面幅を計算し槽の寛さは柱脚を基にすべきではない。この様に計算すると、即:
    第1層通面幅 7.74+7.74+7.74=23.22曲尺
     換算して   125+125+125=375”分”=25材高
    第2層通面幅 5.48+5.40+5.48=16.36曲尺
     換算して   88+87+88=263”分”=17.5材高
    第3層通面幅 4.85+4.85=9.70曲尺
     換算して   78+78=156”分”=10.41材高
 得られる大部分は整数ではなく、平面は”分”を単位として設計し、材高を単位としたのではない事が知られる。

3.各層の高さの設計:
    1層檐柱高さ 15.66曲尺=252.6”分” ⇒253”分”
    1層通面幅:柱高=375:253 ⇒ 3:2
    2層柱高(柱座上面から台輪下面まで) =10.51曲尺(図から測って)=170”分”
  即ち、2層通面幅:柱高=263:170 ⇒3:2
    3層柱高=9.88曲尺 =159”分”
  即ち、3層通面幅:柱高=156:159 ⇒1:1
  即ち、1,2層塔身の幅と高さの比は3:2で、3層は1:1である。

4.塔身の高さ:
 実測図により、東塔の塔身は、地平から3層の塔頂博脊までの高さは78.52曲尺、1層の柱高は15.66曲尺。
  即ち、塔身高さ:1層柱高=78.52:15.66=5.01:1
略、施工の誤差と千余年来の変形を除けば、この比例は5:1で、即ち塔身は1層柱高の5倍である。これと飛鳥時代の法起寺塔の比例は全く同じで、三重塔の設計規律であろう。

二、海龍王寺五重小塔
  この塔は、奈良海龍王寺西金堂内に陳列され、全木製で、忠実に五重木塔の外観を模倣したもので(内部構造は表現していない)、高さは約4.1m。日本の学者が推測するには、それは10分の1比例の模型で、風格と薬師寺東塔や西金堂付近から発見された古瓦とからみて、奈良時代の作品であるとされる。
 この塔の平面は、方形で、第1層の面幅77.2cm、第5層の面幅34.5cm、層を追って逓減している。但し、前の飛鳥の2塔及び薬師寺東塔と異なるのは、どの層も面幅3間で、頂層が2間に減らない。各層塔身は皆柱頭に斗栱があり、柱頭斗栱は2手出跳し1尾垂木で、尾垂木は直線的で、薬師寺東塔と基本的に同じ、少し異なる所は出跳した2重目の肘木上に、肘木内に又1斗を加え、下の出跳肘木の先の斗と対位し、これは唐代の工法には無く、日本が新しく創り出したものである
 目下の所、この塔の詳細な測量データが得られないので、その材や分を推算する事が出来ない。但、天沼俊一《日本建築史要・付図》中に発表された立面図と断面図で分析すると、依然として、塔身と総高さ(1重地平面から5重塔頂博脊まで)は丁度1層柱高の7倍で、法隆寺五重塔が表現する比例と同じである。
 その投の総高さ(1層地平面から刹頂まで)は只1層柱高の略10倍より少し多く、法隆寺五重塔と同じである(この塔の塔刹は、明治38年(1905年)薬師寺東塔と当麻寺西塔の塔刹を参考に復原して補充したもので、その差はそれで少し有るのかも知れない(図十三)。
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 この両塔の情況が表すのは、飛鳥時期は1層の柱高を高さ方面の拡大モジュールとして設計した特徴が、奈良時代前期に至っても依然使用されていることである。但し、具体的には架構設計上、已に材高をモジュールとすることから発展して、材幅の1/10―――”分”をモジュールとするようになった。


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# by songofta | 2017-04-30 22:01 | 古建築 | Trackback(18) | Comments(0)